詩にとって真実とは何か
三石博行
書くことは書かざる得ない主体から
あふれた行為にすぎない
つまり、書く行為主体の私は
書かれた世界からどこかに消え
化石化した文字となる
だから、それのみが私の現実なのだ
詩に対象化された私
文字の化石になった私
言語化され非現実化した私
それらは生きた世界の微分面
それらは絵画化された行為主体
今や存在しない現実との接点なのだ
つまり、それのみが私の現実なのだ
今、ここに確かに生きる私には
詩は化石化した私ではないか
だから、通時的主体からみれば
詩は固定化し共時化した言語化した私ではないか
しかし、それのみが私の存在の現実なのだ
詩を書く私は
通時的存在の私を詩の中で確認し
共時化された私を詩の中で認知する
それらが私という世界となり
それらば私という現実となる
だから、詩を書く行為は私の存在の証なのだ
つまり、それのみが私の現実なのだ
詩を書く私は
現実とよばれる生きる瞬間の中にあり
主体とよばれる生命の中にあり
詩になった世界は
仮説化された実在と呼ばれる幻想であり
世界に生かされる私のちっぽけな解釈にすぎない
とはいえ、それのみが私の現実なのだ
詩を書く私は
書きようもない現実の微分形
書きたくない事実から逃げた単純な一次関数
書かねばならない主体は
泥にまみれ、善悪もなく、正や不正もなく
ただ心拍音が鳴り響く身体なのだ
それのみが私の現実なのだ
だから、雄弁に語る私は
感傷や、愛や、正義や、美という薄ぺらいもになり
書かれない私が化石化したことばを嫌悪し
欺瞞にみちたことばを破壊するのだ
君はドロドロとした血流の流れのように
君は憎しみを抱くテロリストのように
隠した欲動を書く力があるか
もし、その勇気がなければ詩を書くな
心地よいことばの羅列遊びをつづければよい
だから、詩人はうそつきなのだ
詩的カタルシスという詐欺師の巧みなことばに騙されるな
だから、書くべき詩は
詩にならない詩で終わるのだ
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私にとって詩とは何か。そんな疑問が常に湧いてくる。何故なら、私は別に詩を書きたいから書いているのではない。ただ、ことばがそうなってしまい。それらのことばは、論文でも、評論でも、エッセイでもなく、結果として「詩」にされてしまう。それで、詩にされたことばたちが、何を思っているか、考える。そうではなかったと言っているようにも思える。
2022年9月2日修正
三石博行 詩集 『心象色彩の館』
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