2011年1月18日火曜日

日記的記述法(ブログ)から物語的記述法(ホームページ)へ

三石博行

編集作業としてのホームページ

ブログでの文章作成の作業では思惟の通時的経過を理解することが出来る。しかし、ブログで書き続けたとしても、思惟に方向を与えることは出来ない。つまり、それらの文章は、日記の延長に過ぎない。それらの文章に構造を与えるためには、時間軸に配列された文書集合を課題別に配列しなおし、しかも、その配列過程で気づく論理的不備を訂正する作業が求められる。

体系的に思惟をまとめるために文章集合を課題別に配列する作業を進めるには、もはやブログ形式での文章化作業では不可能となる。そこで、一次元の文書配列をもうひとつ次元数を増やす作業に変更する必要がある。

ホームページ作成に措いては、通時的に文書を書き続ける作業ではなく、課題別に文章群を集め、それを課題展開の物語性に即して配列整理する作業、いわゆる編集作業を行うことが要求されるのである。その意味で、この作業はホームページ作成で行う課題ページのサイドマップ化作業と類似している。

文書を体系化するにはサイドマップ化(関連性)と文書群の論理的関係が問われる。つまり、文書集合が、論理的流れと課題的関連の二つの軸に配列されること、つまり二次元に配列されることで、文章集合に含まれていた文書は構造化されるのである。ここで謂う構造化とは「物語り性を得る」ことを意味する。文書群が物語性を獲得するためには、文書群間の論理整合性と、そこで出来上がった文書群の部分集合間に課題関連性が必要である。

しかし、それらの論理性と関係性が主観的である限り、物語は私を超えて他者へ広がることはできない。そのために、その論理性(用いている解釈モデル・アブダクション)が、先行研究を踏まえてその有効性が検証されているか、言い換えると文献学批判がなされているか、また、やその展開課題が同時代の社会文化的問題意識にリンクしコミットしようとしているか、つまり、「物語る主体の問題提起」が社会的必要性を前提にしているかが問われる。

もともと、書く行為は、明らかに存在している他者(社会的存在者達)と問題を共有することを前提に始まっている。その意味でブログやホームページは、書く行為の条件を満たすものであるために、多くの人々が書くという行為を目的にして、ブログやホームページを作るのである。書く行為に含まれた共感するという贈り物(贈与)への期待によって、インターネット文化は形成される。その意味で、インターネット文化もこれまでの社会的コミュニケーションの枠内から出ていることはないのである。

編集作業は、社会的コミュニケーションを得ようとするための技能である。ブログやホームページは、そのための現代的な道具であるといえる。


日常性と思想性の相補性を求めて
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/index.html

2011年1月19日 文書変更


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