2016年5月26日木曜日

第三回関西政治社会学会研究会

5月21日、第三回関西政治社会学会研究会「少子化問題とその対策」の発表者の要旨付のご案内
日時 2016年5月21日(土)13時00分-17時50分
場所 同志社大学烏丸キャンパス志高館2階共同研究室SK288
今回の研究会では、現在の社会問題の一つ「少子高齢化とその対策」を理解し解決するために、今回の研究会を企画しました。この課題が多くの課題に関連していることを了解した上で、今回は、「少子高齢化とその対策」の課題を二つの視点から検討することになります。
その一つは、女性の問題として出産、子育てが語られてきた歴史や社会文化的背景を批判的に分析解釈し、その社会構造の変革のための政策を検討する課題である。この課題に関連する研究報告を1部で行います。
もう一つは、少子化を疲弊する地域社会、特に農林漁業社会の課題として理解し、その解決、地方活性化のための政策を課題にした研究を取り上げました。この課題に関する研究報告を2部で行います。
また、この研究会は誰でも参加できますので、皆さまの研究会、グループデスカッションを通じた意見交流への参加を期待します。
三石博行 (関西政治社会学会会長)
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◎2016年5月21日、2016年第3回関西政治社会学会
日時 2016年5月21日(土)13時00分-17時50分
場所 同志社大学烏丸キャンパス志高館2階共同研究室SK288
https://www.doshisha.ac.jp/inform…/…/imadegawa/karasuma.html
参加自由、参加費無料
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開催 挨拶 13時00分-13時05分
三石博行 (政治社会学会、NPO太陽光発電所ネットワーク)
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1部 テーマ「少子化問題とその対策」
時間 13時05分-16時10分 (125分)
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報告者1 田間泰子先生(日本女性学会、大阪府立大学)(報告40分 質問5分)
「少子化問題とリプロダクティブ・ライツのゆくえ ―少子化問題を根源から考える―」
本報告は、第二次世界大戦後の日本社会の歴史を、フェミニズムと社会学的視点からレビューすることを通して、現代の少子化問題を根源から捉えなおす。「Ⅰ.妊婦はどこにいるのか?」では、諸データをもとに妊婦の存在がいかに社会的に不可視となったかを示す。「Ⅱ.Bodies that Matter」では、フェミニズム的ケア論を導入し、思想的に妊婦を社会的存在として位置づける可能性を探る。以上から、少子化問題を、皮相的な少子化対策に還元することなく、人の命と社会との関係の問題としてより根源的に考え直したい。
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報告者2 大束貢生先生(日本ジェンダー学会、佛教大学)(報告40分 質問5分)
「男性から見た少子化問題」
「少子化問題は産む性である女性の問題として語られがちであるが、男性の問題でもある。
男女共同参画社会を共に創っていく中で、男性が少子化問題をいかに自分たちの問題として捉えることができるのかについて、みなさんとともに語り合いたい」
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グループデスカッション (30分、報告5分)
数人でグループを作り、報告者も入れて、若い研究者にグループリーダとなって頂き、活発な意見交換を行います。最後、1分間で、グループリーダが、それぞれのグループでの議論をまとめて、報告します。
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休憩16時10分-16時25分 (15分)
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2部 自由課題「地域社会の活性化、少子高齢化対策」
時間 16時25分-17時45分 (80分)
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報告者1、水垣源太郎先生(政治社会学会、奈良女子大学)(報告40分、質問5分)
「地域社会の活性化としての農業と少子高齢化対策  ―高齢化する中山間地域、限界集落の問題を考える―」
「中山間地域コミュニティのデザインを考えるー奈良県を事例として」
日本の少子高齢化は世界に類例を見ない段階に突入しているが、その様相は都市と地方で異なっている。都市郊外、とくにオールド・ニュータウンでは、団塊世代の定年退職によって高齢化が加速する一方、地方では、就業機会および子どもの教育機会の都市集中に伴う若年層の都市移動が依然として続いている。
さらに近年では、2025年に後期高齢者になる大都市団塊世代への対応の遅れがようやく広く話題とされるにようになった。報告者がフィールドとする奈良県は,合計特殊出生率と女性有業率がともに全国的に最下位の水準にあるという特徴をもった地域である.
県域は,京阪神大都市圏内にあって昼夜間人口比率が低く人口が増加しているベッドタウン地域と,ゆるやかに人口が流出している古くからの市町,さらに京阪神大都市圏外の人口流出が激しい広大な中山間地域といった対照的な3地域を含んでいる.
本報告では、各地域における少子高齢化の諸相を検討するとともに、島根県中山間地域研究センターが提案する新しい社会構想なども紹介しながら、地域の今後を考えるための話題を提供したい。
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グループデスカッション (30分、報告5分)
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閉会の挨拶 17時45分-17時50分
新川達郎先生(政治社会学会理事長、同志社大学)
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懇親会 18時10分-20時10分
場所 芙蓉園(既に予約済)
http://www.fuyouen.net/
参加費2000円、学生1000円
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2016年3月10日木曜日

関西ivote 研修会(関西政治社会学会後援)

当たり前の「投票に行く」ことが出来ていない日本を変えたい


関西政治社会学会では、学生団体関西ivoteの活動を支援しています。3月25日に学生団体関西ivoteが研修会を京都大学文学部で企画しています。武蔵野大学教授の荒木義修氏(政治社会学会会長)が講師を務めます。選挙法が改正され18歳から投票できます。しかし、これまで義務教育や高等教育では、投票することの大切さを教えていなかった。日本の投票率は民主主義国家を自称するには余りにも恥ずかしい数値である。若者の投票率は特に悪く、その結果彼らの意見や立場が政治に反映されてはいない。しかも、ますます格差が広がり、若者たちの未来を奪おうとしている。投票に行こうという足立前の社会活動を学生団体ivoteは根気よく取り組んでいる。関西政治社会学会は政策理論の研究だけでなく、市民の政治参画型社会のための教育活動も視野に入れるべきだと考えている。投票すること、これは間接民主主義社会で許される唯一の政治参加である。その自覚こそこの国の民主主義文化の基本だと考える。

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関西ivote 研修会(関西政治社会学会後援)
集中講義:「人はなぜ投票所に足を運ぶのか」
講師:荒木義修(武蔵野大学法学部政治学科教授/政治社会学会会長)
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日時:2016年3月25日(金) 9時00分-17時00分
場所:京都大学文学部本館2階第7講義室
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_y/
地図上の校舎番号 8 文学部校舎(約80名)
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時間割(変更あり): 9時00分-17時00分(午前と午後に15分程度グループ・ディスカッションを含む)
主催者挨拶 5分
午前中の講義 9時05分‐12時0分
講義課題 
1、「投票行動研究の理論と方法」
2、「政界再編期における無党派の急増と投票率の低下」
3、「中山間地域と恒常的高投票率:三重県島ヶ原村での実態調査を中心にして」
質問時間 20分
グループディスカッション 20分
昼休み
12時20分-13時00分
午後の講義 13時00分-17時30分
講義課題
1、「投票参加の一般モデル:自己保存モデル」
2、「積極的人格、問題解決能力と投票参加」
3、「疎外感と棄権」
質問時間 20分
グループディスカッション 30分
グループ報告 10分
閉会の挨拶 5分
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【講義要約】
1.投票行動研究の理論と方法
社会調査の基本的な理論と方法について概説し、統計ソフトSPSSを駆使しながら、回収した最近のデータを具体的にどのように分析を加えていくのかを解説する。
2.政界再編期における無党派の急増と投票率の低下
 無党派層は最近でも60%超える高い比率であるが、通常の選挙では無党派層は7割以上が投票に出かけるという不可思議な現象がある。また、時代を遡ると、1993年の政界再編を契機に無党派層が急増したことは特筆すべき点である。その中核は自民党長期政権時代の弱い自民党支持者であったが、その後、消費税導入を契機にその中核が強い自民党支持者に取って代わるという急変が生起した。同時に、1995年1月の阪神大震災と3月のオウム真理教による地下鉄サリン事件直後には、統一地方選挙、参議院議員選挙、総選挙がそれぞれ過去最低の投票率を記録するという異常事態が発生した。急激な政治的関心の低下がその原因であったが、今なおその深層心理は未解明のままである。
3.中山間地域と恒常的高投票率:三重県島ヶ原村での実態調査を中心にして
 全国の各都道府県の15%ぐらいは、恒常的な高投票率を生むいわゆる中山間地域である。高投票率の原因を究明すべく、三重県でもっとも高投票率を持続的に保有していた島ヶ原村の実態調査に踏み込んだ。通常、都市部よりも農村部の方が、投票率が高いと言われ、その原因は周囲の眼などの暗黙の圧力にあると言われてきたが、実際に現地で意識調査を実施すると、周囲の眼などではなく「投票義務感」に基づくものであるという常識を覆す結果が出た。なお、この地域は他の地域に比べて政治的不満と政治的関心も極めて高いということも判明した。
4.投票参加の一般モデル:自己保存モデル
青年の投票率の恒常的低下は、長きに渡って取り上げられてきた、わが国の大きな社会問題のひとつであるが、何らかの処方箋が施されて、根本的に青年の投票参加の誘因が補強・改善された事例はほとんど稀有であろう。
その原因は、投票参加についての根本的な動機が十分に解明されていないからである。ここでは、第1レベルとして、「投票義務感」と「当該選挙への関心」が、第2レベルとして「自己利益」と「社会協調」意識が投票に恒常的に影響を与える基本的変数であることを示し、さらに「自己利益」意識が直接または「社会協調」意識を媒介にして「投票義務感」と「当該選挙への関心」に影響を及ぼして投票を決定するという“自己保存モデル”を投票参加の一般モデルとして提示する。しかしながら、第1レベルの「投票義務感」と第2レベルの「自己利益」意識は別々のものであって、前者をもって“市民参加”、後者をもって“政治参加”とする二分法が適用されてきたが、「自己利益」意識が「投票義務感」を予測するので両者は同質的であり、これまでの二分法は誤謬であると言わざるを得ない。
5.積極的人格、問題解決能力と投票参加
投票参加の自己保存モデルの自己保存本能的な第2レベルの動機に働きかければ、投票率の向上が理論的に期待できるので、そのための手段として、企業研修プログラム「心のアドベンチャー」(AIA)の体験を通じて「志」「他者理解」などの“積極的心構え”を身に着ければ、第2レベルの動機が補強・改善され、投票率が向上することがこれまでの調査で検証してきた。しかしながら、選挙年齢が18歳に引き下げられたことを契機に、文科省が投票率向上に、中等教育に問題解決型の学習ないしカリキュラム構成等が必須であるとする見解について吟味検討を加えてみたい。
6.疎外感と棄権:「来るべき参議院議員選挙と青年のやる気意識調査」(2016年1月)報告
「来るべき参議院議員選挙と青年のやる気意識調査」結果を概観し、ここ1,2年で投票参加モデルとしての自己保存モデルに疎外感を投入しなければ有意なモデルを構築できなくなった点への考察を試みたい。最終的には、最近の棄権の最大の原因が疎外感にあるとすれば、そのような意識を除去するにはどうしたらよいのかという問題が提起される。ここでは、試論として認知行動療法の導入が効果的である点を指摘してみたい。
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懇親会 18時00分-19時30分
場所 京都大学百万遍近くの喫茶店
参加費、注文分を各自支払う
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関西ivote メンバー以外の方は、必ず関西政治社会学会事務局まで参加希望の連絡先をして下さい。
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関西政治社会学会 研究会事務局 
連絡 090-8201-0993
Email hiro.mitsuishi@gmail.com
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第一回関西政治社会学会研究会の案内

参画型社会構築の政策理論と現在のEU問題を理解する交流



第一回関西政治社会学会を1月30日土曜日、同志社大学で開催した。研究会は第一部は「参画型市民社会を担う政策主体形成とは」で、第二部は「現在のEU 問題とは何か」で今回の研究会は構成されていた。参加者は20名弱であったが、熱心な議論がグループディスカッションで行われた。第二部は英語での報告だったのでグループディスカッションも英語となった。これが関西政治社会学会の研究会の特徴とも言える。研究発表者からの問題提起としての研究報告を受けて、参加者全体で課題に関して議論し、考え、提案する。関西政治社会学会では第四回研究大会以来、グループディスカッションを研究会に取り入れて来た。今後、研究会を他の学会との合同研究会(ジョイント方式)にし、多様な専門家間の交流を行いたいと考えている。

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2016 年第1 回関西政治社会学会研究会 (研究発表要約記載)
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日時2016 年1 月30 日(土)15 時00 分-18 時15 分
場所同志社大学烏丸キャンパス志高館2 階共同研究室SK288
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1 部テーマ「参画型市民社会を担う政策主体形成とは」
時間15 時00 分-16 時30 分
報告者1 荒木義修武蔵野大学教授
「市民社会の高等教育と政策形成主体」(報告20 分、質問5 分)
要約
最近の一連の調査で「積極的人格」というものがわれわれの心の中に存在することを統計学的に証明し、「積極的人格」尺度の開発に成功した(信頼係数α=0.80以上)。さらに、企業研修プログラム「心のアドベンチャー」を体験するとこの「積極的人格」が強化されることを紹介してきたが、このような「積極的人格」という画期的な構成概念が社会心理学ばかりでなく教育や経営の現場に与える影響ははかり知れないものがあると考えられる。
さらに、本年1月に予定されている本調査の予備調査では、いわゆる文科省が提唱する「学士能力」と極めて深い相関(相関係数0.60)があることが分かってきた。「学士能力」概念そのものが主として問題発見と課題解決などに向けられており、政策作成志向傾向が極めて強いものであることを考えると、政策作成主体の能力強化には、強い相関関係にある「積極的人格」の獲得が不可欠であると想定される。そこで、政策作成能力そのものと考えてよい「学士能力」と「積極的人格」尺度の下位尺度である「積極的心構え」「志」「他者理解」「他者賞賛」「説得力」との関係を考察し、本調査の調査結果を予測してみた。
報告者2 田口美紀まちとしごと総合研究所調査研究部長(同志社大学大学院総合政策科学研究科博士後期課程)
「自治・協働型社会の形成に向けた活動の展望と課題について」(報告20 分、質問5 分)
要約
深刻化した社会問題の解決のためには、地域社会にある企業、地域団体、家庭等全ての主体(組織)がそれぞれの特性を生かしながら、課題解決に関わる「自治・協働型社会」の形成が必要といわれている。
本報告会では、当研究所がその実現をめざして取り組んできた事業(社会実験)の中でも特に、各主体の構成員である個々人が市民としての自覚をもって課題解決に向けた行動を起こすきっかけをつくる「プロジェクト志向型市民会議」の実践事例をとりあげ、その効果検証から得た知見とともに、現在、構想中の事業についても報告を行う。
グループディスカッション (20 分、報告5 分)
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休憩16 時30 分-16 時45 分
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2 部テーマ「現在のEU 問題とは何か」
時間16 時45 分-18 時15 分
(京都奈良EU 協会後援)
報告者1、Alain Marc Rieu(フランス国立リヨン第三大学教授、現在大阪大学客員教授)
「The European Union in crisis: deconstructing for reconstructing -The need
of collaborative research in Human and Social Sciences- 」(報告30 分、質問5 分)
Summary
The objective is to study some paradoxes facing today the European Union. These paradoxes concern basic presuppositions and core values. Such paradoxes cannot be solved by usual political and administrative negotiations. They require advanced research in human and social sciences. In order to be fruitful, this research needs also to associate specialists in human and social sciences from nations where these disciplines play a major role in their evolution, from Japan in particular.
グループデスカッション (20 分、報告5 分)
※報告及びデスカッションは英語です。
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懇親会 18時20分-20時00分
場所 寒梅館喫茶店
参加費2000円、学生1000円、招待者0円
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関西政治社会学会 研究会事務局 
連絡 090-8201-0993
Hiro.mitsuishi@gmail.com
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第二回関西政治社会学会研究会の案内

研究者と市民、政策理論と実践活動の交流


第二回関西政治社会学会を3月26日土曜日、同志社大学で開催します。研究会は第一部「自然エネルギー社会は可能か」と第二部「京野菜生産の現場を学ぶ視点」で構成されています。各発表者の発表内容の簡単な要旨を付けて、案内をお送りします。参加して下さい。また、関西政治社会学会の研究会ではグループディスカッションの時間を十分取ってあります。皆様と共に政策課題の議論ができることを期待しています。ご参加をお待ちしております。

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2016年第2回関西政治社会学会研究会のご案内 (要旨付)

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日時 2016年3月26日(土)13時00分-18時20分 
場所 同志社大学烏丸キャンパス志高館2階共同研究室SK288
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開催 挨拶 13時00分-13時05分
関西政治社会学会会長 三石博行氏
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1部 テーマ 「自然エネルギー社会は可能か」
時間 13時05分-15時45分 (150分)
(認定NPO太陽光発電所ネットワーク後援)
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報告者1 仁木住男氏 一般社団法人 南紀自然エネルギー 代表 
「市民共同発電事業と地域貢献 和歌山の事例報告」(報告25分 質問10分)
南紀自然エネルギーの活動は自然エネルギーで地域を元気にすることを目的とし、地域貢献、セルフビルドと共同出資を特徴としています。これまでに3つの太陽光の共同発電所を作りましたが、①利益は地域に役立つ活動を行う団体に寄付し、②近所の人と一緒に手作りで、③地元の出資者に利益の一部を分配する、というモデルを続けています。
 皆に少しずつメリットがあるモデルで、上手くいきそうに思われましたが、新しい取組みを、新しい組織が、周囲の人を巻き込んで進めていくには、信用力を高めること、地元に理解者を増やすことが必要でした。
 そのため、最初はメンバーの一人が個人で発電所を作ることから始め、様々なイベントを通じて支援者を増やして来ました。最初の頃は目論見通りに進まないことが大半でしたが、今では小規模な太陽光発電所を市民の力で作るためのコツはわかってきましたので、今後は他地域を応援していきたいと考えています。
 
1,自然エネルギーを使った地域貢献
 1)地域で自然エネルギーを作る意義(遊休地活用、富の創出、域内経済循環など)
 2)利益の還元方法、インパクト(共同発電の仕組み、寄付先、寄付額など)
2,市民共同発電所を作るプロセス
 1)仲間づくり
 2)お金集め
 3)セルフビルド
 4)地域の中での受け止められ方
3,課題の克服と地域に根付いてゆくプロセス
 1)これまでの取組みの振り返り(お金、仲間、地域での受容)
 2)「自然エネ×地域活性化」をスムースに進めるには
4,今後の展望
・太陽光は定常状態に入ったが、広がる余地あり
・小売り自由化で地産地消ができるように
・地域間の連携で各地の事業が安定成長に
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報告者2 伊藤博文氏 PV-Net理事 伊豆の国電気の畑代表 
「地域分散型手作り太陽光市民共同発電所のエネルギーシフトに果たす役割」(報告25分 質問10分)
NPOPV-Net静岡世話人会では、2011年1月に手作り太陽光発電所(10kW 第0号機)を数人で設置し、市民共同発電所の建設の実験を行った。3月11日東日本大震災・福島原発事故が発生し、5月に現地視察と調査を行い、原子力に頼らない電気の生産をモットに掲げ、本格的に市民共同発電所建設に取り掛かった。建設作業は会員のボランティア活動(手作り)で行われた。18.24kWの伊豆の国電気の畑(市民共同発電所第1号)が2012年9月に完成。二つの発電所建設の経験を総括・反省しながら手作り共同発電所建設の資金集め、作業行程、発電所の維持管理等々、市民共同発電所の在り方を検討点検した。更に、震災被災者の支援に手作り発電所建設の経験を活かし野田村の市民共同発電所の建設に協力した。また、地元地域の市民活動との連携も積極的に形成してきた。 その後、2号、3号機と共同発電所を作り現在6号機(2015年9月)を建設し、現在合計88.56kW出力の市民共同発電所に成長している。我々は、小さな市民共同発電所建設活動を社会全体の大きなエネルギーシフトに貢献できるための活動を模索、点検、展開しようと考えている。今回の発表では、地域分散型手作り太陽光市民共同発電所のエネルギーシフトに果たす役割と課題に関して述べる。
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報告者3 朴勝則氏 関西学院大学総合政策学部教授
「ヨーロッパの再生可能エネルギー普及政策」(報告30分 質問10分)
 西欧諸国では再生可能エネルギー(再エネ)普及策の実施は、電力市場の自由化および気候変動政策の具体化と、ほぼ同時期にEU共通政策の下で行われた。EU法の指令(directive)を加盟国が国内法化する際には、再エネ普及という目的に対し、政策措置の選択に関して幅広い裁量の余地がある。その結果、再エネの伸び率は、国によって大きな違いが生じた。端的には、実効性のある固定価格買取制度(FIT)等を採用したドイツ、スペイン等に比べ、固定枠制度(クオータやRPSと呼ばれる)をとった英国等では、政策を大幅に転換するまで、なかなか普及が進まなかったのである。この点を、欧州委員会の補助を受けたOPTRES研究に基づいて明らかにする。
 後半はドイツに注目して論じる。国策として脱原発が決められ、再エネ普及が一層進むなか、再エネ法賦課金の負担増加が叫ばれている。その一方で「メリットオーダー効果」による電力市場価格の下落の恩恵を、大企業ばかりが受けているとも指摘される。再エネ普及と電力自由化の相互作用と、ドイツのエネルギーシフトの成果と課題、それを巡る政治経済学について論じる。日本はここから何を学ぶべきなのか。
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グループデスカッション (40分、報告10分)
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休憩16時00分-16時15分 (15分)
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2部 テーマ「京野菜生産の現場を学ぶ視点」
時間 16時15分-18時15分(120分)
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司会と課題提供 (報告10分)
佐藤洋一郎氏(大学共同利用機構法人 人間文化研究機構 理事)
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報告者 関谷大貴氏(京都大学大学院農学研究科食物栄養学研究室)、(報告25分 質問10分)
京大農学研究科の間藤研究室では、京野菜の生産の現場を学ぶという趣旨から、京野菜の生産者である石割氏の指導を得て京野菜生産の実地を学習してきた。野菜の農家経営には単に栽培の技術の習得だけでなく市場が求める安定的な生産や販路の確保という経済面の知識や経験が欠かせない。食物栄養学研究室(間藤 徹教授)では京大生協への大根の販売という取組みもおこなって学生にトータルな知識と知恵を身につける機会を提供してきた。こうした教育上の取り組みに対して、学生の立場から、種々意見を述べる。
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コメント佐藤洋一郎氏  (報告20分 質問10分)
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グループデスカッション (40分、報告10分)
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閉会の挨拶 18時15分-18時20分
政治社会学会理事長 新川達郎氏 
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懇親会 18時40分-20時30分
場所 サンゼリア今出川駅前店
京都府京都市上京区今出川通室町東入今出川町313 SAKURA BLD.今出川Ⅱ 2F
参加費2000円、学生1000円、招待者0円(飲み物1杯以上の料金は自己負担)
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関西政治社会学会 研究会事務局 
連絡 090-8201-0993
Email hiro.mitsuishi@gmail.com
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2015年12月9日水曜日

撮る撮られる関係の解消

森一生氏の写真芸術

三石博行

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10月中旬に島根と出雲を旅行した。大雪山の麓にあった「上田正治写真美術館」に行った。上田正治の写真を観ながら、森一生氏の写真を思い出していた。

日常生活、家族、町並み、自分の生活空間にそのままある何ともないと言えば何ともない風景や情景、それらに潜む生活美を写し取る。そこには、写真家の観る眼がなければ、観えない世界があるようだと思った。

私の森一生氏の写真への感銘。それは、多分、彼の写真館に家族や自分の記念写真を取りに来る人々に共感し、シャッターを切る写真家森一生氏の姿を前提にして、はじめて、その説明にたどり着けるのだと思った。

森写真館に訪れて、家族の記念写真を撮りたいと思った人々に寄り添うように、森一生はすべての街の風景と自然に寄り添っているのだろうと思った。

森一生氏の写真の根底にはそうした生活の美に関する思想があるのかもしれない。あるがままの世界のあるがままの人々とその風景、さらにはそれらの人々を取り巻く世界を描き写しだそうとする芸術家、森一生の作品。

それは、あたかも今日の朝ごはんのように、何の気取りもなく、何のタイトルもなく、あるがままに、おもうままに、このフェイスブックに無造作に、並べられ、我々を楽しませている。

「2015年11月27日、森一生撮影」


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以前から森一生氏の写真を観ながら思っていたこと。それは、被写体がすでにその被写体でなくなった瞬間を撮った芸術作品とも言うべき「街の写真家森一生」の作品をどのようにして彼はうみだすのかという事だった。彼の写真館を見たかった。  

名古屋に向かった。しかし、会ってみて、その写真館の芸術作品は、彼の写真館にあるのでなく、森一生という写真家の姿にあることを知った。彼には、つまり、被写体たちが被写体であるという自意識を喪失させる眼差しがあった。  

彼の前で被写体たちは写される自分から生活している自分に帰ることが出来た。つまり、自然な日常の自分たちを、彼の写真館で、彼の写真機の前で、取り戻したのだ。それは、その写真館という空間にあるのでなく、森一生という写真家が創りだした被写体と自分との関係の空間に在ったのだと理解できた。  

ふと気が付けば、私は彼の前で、自然に自分を表現していた。その瞬間、ふと、どうしたのだろうかという不思議な感性に襲われた。彼のあの写真の面白さを知るために、ここまで来たのだはなかったか。それなのに、なぜ彼に質問を浴びせることが出来ず、何故、自分の話をしてしまうのか。その不思議な彼の雰囲気と自分の場違いな行動を観察しながら、自問していた。

しかし、その瞬間、私は彼の写真芸術の技術、「被写体が被写体としての自意識を消し去り、日常の世界へと立ち戻る」ことを可能にさせる撮影技能を理解した。つまり、そこに私が聞きたいことの答えが在った。その答えは、彼の職業的人柄と人格の調和によって出来ているものであった。彼は、私の不思議な感性して、その問いに答えていたのだった。それが、彼の写真芸術の本質だと、私は理解した。  

「どうして、貴方の写真の話を聴きたいのに、自分の話をしてしまうのか。」それが、彼の写真芸術の基本であったと、そう語りながら自覚した。不思議な瞬間であった。


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森さんとの名古屋の古い町並みの散歩、楽しいでした。最も、私の関心を呼んだことは、森さんが街の人々、商店、飲み屋、喫茶店、おばあちゃんから若い人まで、知り合いで、気さくに言葉を交わし、その日の出来事や、これからあるイベントの話を手短に、言い合い、そして、簡単に約束をしている姿であった。

彼は、この町の一人の住民として写真館を開き、写真を撮っているいう事でした。私が「上田正治写真美術館」で上田正治の写真を観ながら、森一生氏の写真を思い出していた世界が、名古屋の彼の生活空間に繋がっていた。

写真屋森さんの姿が、その町並みに溶け込んで、ジーパン姿で、皆さんの思い出の写真を取ってくれる写真屋のおっちゃん」であり、写真芸術家森一生は、そのおまけのような存在に映った。

最後に彼の行きつけのビルの前にへばり付いた飲み屋に行った。一杯飲み屋の狭い部屋で、常連やその連れがお互いに譲り合って、一杯引っかけて、冗談を飛び交わす。そんな庶民生活、そのものの日常風景と森さんの写真の関係の連立方程式の解が解けたようだった。

冬の薄暗い名古屋駅のビルの谷間に小さくなった空の下を潜り抜けて、新幹線の改札入口に近くなるにつれて、少し心残りがしながら、京都へ帰った。

「2014年12月6日 森一生撮影」


https://www.facebook.com/pashanova2011?fref=photo



許しとは何か。人はなぜ人を許すのか

三石博行


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人はどのようにして他者を「許す」のか、この答えは宗教に求めるほかないのだろうか。と言うのも、この「許す」という行為は、救いと共通するように思えるからだ。

許すとは何か。つまり、人は許すために許し得るのではなく、許されることを追い求めるために、許すのかもしれない。その意味で、許しとは、共に許されることを求めた者の救いに似ているとも言える。

広島の人々は、どのようにして原爆を落としたアメリカ兵を許したか。ドイツのユダヤ人は、どのようにしてアウシュビッツで家族を殺したドイツ兵を許したか。アジアの人々は、どのようにして国を侵略し、町は村を破壊した日本兵を許したか。


*  *  *  *

確かに、許せないことがあるだろう。その許しないことを抱き、憎悪に燃え、そして復讐を誓う。もし、その復讐が達成された後に、何を感じるだろうか。そして、そこで、許せない想いは終焉し、それらの希望は完全に達成し得るだろうか。このように問い掛けるのは、殆ど、許せない現実に出会わなかった人々かもしれない。

許せない思いを抱く人々に対して、人を許すことを説教することは、無意味である。だから、それらの人々に、許せない思いを実現させる機会を与えることを社会は認めている。例えば、敵討ちのように、昔は、その機会を私的に認めていた。しかし、今日、この私的な復讐は犯罪とされる。法律によって、復讐は合法的に可能になり、許せない相手を刑事訴訟し、刑罰という社会的な報いを受けさせることが出来る。

だから、許すという事は、許せない現実を否定して成立しているのではない。許すという事は、許せない行為の対局にあるのでない。それは、逆に、許される対象として、許す主体が存在しているから、許すという行為が可能になると言えないだろうか。つまり、人は許されない自己を抱えた時に、許すことが要約できる立場に立つことが出来るのではないだろうか。

それはあたかも死にゆく人々の生命に対する憐れみにも似ている。つまり、許しとは、許される側に立つ、弱い人間としての自覚によって可能になっているのではないだろうか。


*  *  *  *

もし、強い自分があるなら、そして、もし自尊心を傷つけられたなら、その相手を打倒する為に闘うだろう。その意味で、許さないことによって、自己実現を可能にすることが出来る。しかし、許すとは、その逆で、自分の自尊心を傷つけた人が、同じように他人から自尊心を傷つけられた時に、「それは苦しかっただろうと」彼に寄り添うことを意味する。それは、欺瞞者のすることだと言われるだろう。それは、嘘だと言われるだろう。

確かにそうなのだ。その許す行為に秘められた偽善性を、否定するつもりはない。

だから、許すことは自分が傷つけた相手を懲らしめられる強いと思う人間には出来ない技なのだ。自分が、懲らしめられる相手と同じ罪(過ち)を犯した弱い人間だと思った時に、その痛みを受け入れるという行為の結果として、許すということが出来るのかも知れない。その意味で、許すということは、受け入れるという意味に類似しているのだと思う。言い換えると、弱い自分を受け入れるという意味に繋がる。

これは美し表現で許しを語った場合の話だ。悪く言えば、許しとは「慣れ合い」だとも言える。つまり、悪いことをしていると自覚している人間であるから、許すことが出来る。もっとひどい言い方をすれば「泥棒が泥棒を許すのは、当たり前でしょう」という論理になる。

つまり、「私は泥棒ですから、貴方が泥棒であることを許すのは当たり前でしょう。もし、泥棒の私が、泥棒の貴方を許さないとすれば、それは自己否定になりますよね。」という論理が成立する。これが、自己欺瞞のない「弱い自分を受け入れる」タイブの許しとなる。


*  *  *  *


しかし、これも極端な見解だ。広島の人々は原爆を落としたアメリカ兵を、そういう気持ちで許したのではない。アジアの人々も国を侵略し、町は村を破壊した日本兵を、そんな気持ちで許したのではない。


許しには、自分を深く傷つけ、自分の家族を死に追いやった人々に対して、自らが彼らと同類であると自覚させる強烈な自己否定がなければならない。つまり、それが原罪とか無常ということばで語られた考え方なのである。そうでもしないと、この許しに必要な自己理解が成立し得ないのである。

もし、そのことをキリストが説明しなければ、その意味は、不明のままだったと思う。もし、その意味をブッタが語らなければ、その理由は、理解できなかったと思う。その意味で、許しが宗教的な意味合いをもつことは避けられない。

残念なことに、この許しの問題に答えられる哲学や人文社会学はない。それが問題かもしれない。

歴史問題を語るとは何か

三石博行

歴史を語る時、語る人々の時代感覚や社会理念が前提となっている。こう歴史に関して語ったのは「解釈学」という考え方であった。それまでは、歴史とは過去の事実として理解されていた。しかし、この歴史的事実という理解が、歴史解釈という認識に変わったのは、謂わば、観ている私の時代性や社会性を前提にしなければならない人文社会学研究上の観察者にとっては当然の帰結であると言える。

この考え方は、長年検証され批判されてきた世界観を背景にして成立している。世界は実在する客観的存在から、社会現象、社会的構造、社会的事象、さらには時代や社会的存在の解釈世界として理解されてきた経過の中で、歴史的事実もその認識論的な影響を受けた。つまり、認識される世界は認識する主体の側の認識、評価のプログラムの産物であるという解釈が成立する以上、歴史もその一部であると理解された。それが解釈学的な歴史理解の基本となっているのである。

しかし、歴史問題を語る主体の歴史的、文化的、社会的存在の自覚という哲学では当然の理解も、現実には殆ど応用されることはない。それが今の日韓関係の中で深刻になりつつある「歴史問題」の根底にある。従軍慰安婦問題という歴史を、政治的利害に結び付けることは危険である。つまり政治が歴史問題に立ち入ることは、最も避けなければならない。もし、立ち入るとすれば、歴史解釈ではなく、現実の被害者の救済問題である。その意味で、歴史的事実の解明ではなく、その政治的利用を行う日本政府や韓国政府も同じような大きな間違いを犯そうとしているようだ。

丁度、原発の安全性を、素人の政治家が議論するように、歴史問題をその厳密な調査方法も知らない素人の政治家が議論していることになる。彼らの関心は、専ら事実ではなく、その政治的利用に過ぎない。そうなれば、後戻りのできない失敗を行うことになる。それは、国際化する社会に逆行する閉鎖的で偏執独断的な民族主義を扇動することになる。この考え方によって暴力は正当化され、過去の国家間の紛争挑発という失敗を繰り返すことになる。つまり、無用な敵意を扇動し、両国民の間に自然に芽生える友好な感性を破壊し、それらの人々を暴力の応酬、そして最終的に悲惨な戦禍に放り入れようとしているのである。

国がある以上、それらの国の間ではそれぞれ歴史の解釈や観方が異なることは、解釈学の立場からして当然である。そうした人文社会学や哲学的に当然の歴史解釈の課題を、もう一度、人文社会学を研究している人々が、そのことの責任を自ら引き受けなければならない。それを、政治家に任してはならない。

勇気ある韓国の現代史研究家の発言に政治的弾圧を加えた政権にも、さらには「従軍慰安婦問題」を無視し続ける日本の政治家に歴史問題に関する発言をこれ以上許してはならない。そして、これ以上、この歴史問題を含め、東アジアに関する歴史や文化の課題に人文社会学の研究者は無関心であってはならないだろう。



君の絵

私はいつも岩本拓郎氏の絵に深く反応してしまう。
その理由は分からない。多分、何がが抵抗しているかのようだ。
多分。

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「君の絵画」 三石博行


それは不思議な心象溶融剤。

心の奥に潜む世界に浸み込み、
無形の形象を意識の地表に滲み出す、

それは心的抑制装置の破砕剤。

突如として起こった
深層頁岩に封じ込められたエスの流血

ここは、何もなかった草原だった。

岩本拓郎氏 2015年11月19日

自動代替テキストはありません。
岩本拓郎氏 2015年11月19日

画像に含まれている可能性があるもの:水、屋外


https://www.facebook.com/takurou.iwamoto.73?fref=nf

落ち葉

森一生さんの落ち葉の写真を見た。もう美しい落ち葉ではなく、殆ど、葉っぱの形が、冷たい歩道に溶け出し、消えて行こうとしている。ある、確かにあった筈の生命の物語。これは、命の話なのですと冬の光が物語る。。。
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「落ち葉」 三石博行

朽ちる葉、
真空色彩、
溶解する和音。
冷たい歩道、
無形音色
無機化する造形。
それが冬の詩の始まり
それが冬のクロッキー
もう、明日しかない。
もう、あの空の彼方に行くしかない。

森一生氏 2015年12月9日 
森 一生さんの写真

https://www.facebook.com/pashanova2011?fref=photo

2015年7月26日日曜日

岩本拓郎氏の「今日の絵」から

三石博行


言うまでもないことだが、
自我の在り方として美はあり、美は自己の世界を構成している。

岩本拓郎氏の「今日の絵」を観ながら、私の中で湧き上がる詩(ことば)
それは、彼の色彩と形象へのことばの蛍光発光
それは、私の世界の深層からの共鳴



言うまでのないことだが、
自己に内在する世界の在り方として美はあり、
美は純粋表象としての自己としての世界である。

岩本拓郎氏の「今日の絵」から、私のことばが引き出され
ことばの世界に私は立つ
それは、彼と私の世界内自己の共音振
それは、彼の色彩表現への私の共光採



言うまでもないことだが、
美術家は時性意識と感性空間のマジッシャンなのだ。
彼の描く色彩や形象は、
注り来る美の時性を焦点化し、キャンパスに感性を固定化する。


それでも、やまない美の時性は、次のキャンパスに乗り移り、描かれ
それでも、治まらない情念は、時を増殖し続ける。


岩本拓郎氏の「今日の絵」は、過去から現在、そして未来への物語なのだ。


休むことなくつづく「今日の絵」
休むことなくつづく「色彩表象の戯曲」

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岩本拓郎氏のブログ
https://www.facebook.com/takurou.iwamoto.73?fref=tl_fr_box&pnref=lhc.friends
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2015年7月25日土曜日

「美にとって時間とは何か」

所幸則氏のポスト光描写芸術への挑戦

- 所幸則氏の写真展に行って -


三石博行


高精度の写真芸術は
生きている時性を極限にまで微分し
超写実主義の表現を可能にした。

しかし、それは
光描写の芸術は瞬間を切り抜き
リアルな世界を映し出す芸術。

しかし、彼は
写真芸術の進化に敢えて立ち向かい
機械による極限の時間微分から
生た人間の表象認識の時性
を描く。


さらに、彼は
光から色彩を奪い
視覚は光度に集中され
時性のみが物語る。


白黒の世界は
鑑賞者たちを一つの事実・生きた時間に集中させ

高速で走る新幹線から
視覚的な構造性が維持された遠距離の世界
パターン化される前に時間と共に過ぎ去る近距離の世界

目の前にある形象前の光の世界
構造前の光の表象現実


だから、
時性を微分する
写真芸術は生きた世界を
精巧に静物画化した
と、彼は語る。


だが、
現実の視覚の世界は
光の速さに押しつぶされ、
具象性を与えられないまま
非構造化されている
と、彼は語る。

それは、
写真芸術の進化
超写実主義静物画化への流れ
に抗うかのようにも観える。

そして、
美に取って時間とは何か
を問い掛ける。

あたかも、
分析、精密の概念に含まれた
「生きた時性」を排除し続けた
現代科学文明への
問い掛けのように思えた。


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所 幸則 「アインシュタインロマン」
https://www.facebook.com/events/1572418426342840/

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武蔵野大学教授 荒木義修氏と所幸則氏の写真展に行く。


2015年7月3日金曜日

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」


どの分野でも言えることかもしれないが、理論的に考えること、物事の基本構造を理解するための方法や論理を見つけることは、大切なことだと思う。それが出来ていることによって、応用問題を解くことが出来る。生活の中で問われることは、多くの場合、応用問題のようなものである。

つまり、柔軟な発想や状況に適した処置は、その場その場の対応ではなく、多分、物事の本質を理解し、その解決を状況に照らしながら行うことが出来ることを意味している。もし、思想や哲学を課題にする人々が日常の中で生じる事象に対して適切な対応が出来ないといことを、それらの思想問題や哲学的課題と理解していないなら、多分、それらの思索や研究は殆どが意味を成さないものではないだろうか。

私は、思想や哲学を日常生活の改善のための道具として位置付けて来た。その考え方は、日本の大学での哲学研究では主流ではないと思える。現在では少なくともそのことは変化しつつあると思われるが、西洋の哲学という学問を輸入し、近代日本の思想を構築してきた日本では、哲学研究の大半が「哲学史の研究」であった。哲学者とは「哲学史研究者」であり「過去のそして他所の哲学者の研究の紹介者・翻訳者であり解釈者」であった。

しかし、最近、少し変わってきた。哲学者と呼ばれる人々が、自らも哲学者と自称しながら、テレビ番組の社会評論や文化評論に他の分野の人々と共に、社会や政治、時にはスポーツについてまで評論・コメントしている。それを観ている大学哲学人は、嫌な感情を持っているかも知れないが、世間が、哲学者と自称している人々に歴史哲学の話でなく、今の世の中のことを話してくれと言っていることには違いはない。

その意味で、日本の哲学は、大学から変わるのでなく、世の中の人々の哲学に対する要求によって変わるのだろうと思った。哲学は常に反哲学的(哲学的であることを否定すること)であることによって、その哲学の存在意義を深める。思想は生活や社会実践に活かされ、かつ点検されることによって、その意味を理解される。日本の哲学が形成されるとすれば、それは大学からではない。多分、人々の生活運動と呼ばれる新しい時代に向かう生活文化活動とそれに向き合う自己探求の中から生まれるのだと思う。

2015年7月3日facebook記載

2015年4月18日土曜日

自己組織性の生活学の成立条件

三石博行(MITSUISHI Hiroyuki)


吉田民人の自己組織性の科学とプログラム科学の概念


人間社科学を生命活動によって生み出される世界現象を解明するために吉田民人が提案した「プログラム科学」と、その科学の目的、つまりより良い生命活動(生活文化や社会経済活動)の在り方を探求するための技術学としての「設計科学」の基礎的な理論的探求を、吉田民人は『自己組織性の情報科学』の中で展開していた。
人間社会科学を総じて「自己組織性のプログラム」によって機能している社会文化現象の科学的理解と考えるなら、彼が1950年代に日本の社会学がパーソンズ社会システム論に影響され、その理論が当時の学会を席巻していた時代に、それにあらがい、それと格闘し、生きた社会や人間主体の生活行為によって構築されている社会機能・構造を表現するための「システム論」の構築を試みていた(「生活空間の構造-機能分析- 人間的生の行動学的理論 -」1965年)ことが、理解されるのである。
彼の自己組織概念とは生命以後の全ての存在、つまり生命、それらの生命によって構築された生態環境や文化、そして言語活動を前提にして構築された人類種の文化や社会は、その物質的存在(質料)とそれらのパターン(形相)・情報によって機能し構造化されている。その点が、物理化学的世界と大きく異なる。何故なら、それらの存在形態を構築する要素である「情報」によって、それらの存在形態が決定され、また同時にその行動やさらにはその進化も、自ら所有している「情報」によって決定されているという特徴を持つからである。
自ら所有している情報によって自らの存在形態(個体)の在り方(機能・構造)とその行動を決定され、同時に、その情報を組み替える情報を所有しているのが、吉田民人が謂う「自己組織性」の存在なのである。従って、吉田民人は、生命系や文化社会系の科学を、総じて「自己組織系の科学」と呼んだ。これらの自己組織性の科学は、それらの存在形態を決定している情報、プログラムによって機能していると考え、彼は自己組織性の科学をプログラム科学と呼んだのである。

吉田民人のプログラムと自己組織性の概念 - 「相対1次の自己組織性」・種の保存のプログラムと「相対2次の自己組織性」・生命体保存のプログラム -


生命から人間の言語や意識活動を含めて、極めて大きな枠組みを前提に繰り広げられた吉田民人の情報科学では、自己組織性の概念も極めて原則的に定義されている。

彼は自己組織性を個体の再生プログラムと変異プログラムによって、その個体が生存するメカニズムとして理解していた。つまり個体を構築するシステム(生命維持機能、文化や社会維持機能、そして言語や意識の維持機能)が行っている情報・資源処理を司る情報集合を「プログラム」と考えた。そして、その個体のシステムが再生される、つまり個体保存が可能になっている状態を同一プログラムの再生過程であると考えた。つまり、ある生物が同じ種を再生産する過程がそれに当たる。この過程を吉田民人は「相対1次の自己組織性」と命名した。

言い換えると、吉田民人の「相対1次の自己組織性」とは種の保存のための遺伝子プログラムによって可能になる生命活動であると謂えるだろう。

勿論、生態環境の変化に順応して生きている生命体は、生き延びるために個体が本来持っているプログラム(遺伝子)を活用し、それらの環境に順応し続ける。しかし、同時に、自らのプログラムを変異させ、偶然にしろ、その変異されたプログラムによって個体がその個体の子孫の生存の可能性を拡大させることが出来る。当然、それらの新たなプログラムが、新しい生態環境に適応しない事態も発生する。その結果が、つまり、種が滅びることを意味している。

しかし、プログラムの書き換えによって、種は変化し、新種が生まれ、その結果、生物は新らな生態環境に順応し、生命活動を維持してきた。それが生命の進化と呼ばれるもので、この地球上に生命体が発生して以来、プログラムの書き換えというプログラム自体に存在しているメタレベルのプログラム機能によって生命は進化を続け、この地球上に存続出来て来た。その結果として我々人類がいるのである。このように、プログラムがプログラム自体の保持・変容を可能にする機能を「相対2次の自己組織性」と吉田民人は呼んだのである。

この吉田民人の「相対2次の自己組織性」とは生命活動自体の維持のために遺伝プログラムを変異しつづけるプログラムの所在を語っているとも謂える。その結果が、生物の進化となり、そしてその進化の結果として、生命がこの地球上に存在し続ける理由となると語っているとも謂える。

これまでの生物学では、特にダーウィニズムの基本的思想の中にあった、個体保存と種の保存、そして進化の概念を吉田民人は自己組織性の科学の基本概念、プログラムの概念から最解釈したのであった。

個体保存の機能、自己組織性の運動としての「生体反応の恒常性・ホメオスタシス」について


吉田民人のプログラムとそれによる自己組織性の概念によって生命の基本的な活動、種の保存や進化は説明できた。しかし、生活活動の中で繰り広げられている「生活資本の消費と再生産過程(個体保存のための自己組織性)」はどのように理解されているだろうか。

彼は、「人間レヴェルの自己組織理論の最終的な課題は,複合的な自己組織性の解明と設計である」ために.「個人と社会」をめぐる社会科学の伝統的な課題は,自己組織理論の立場からすると,異なる自己組織性の間の相互連関の代表的な事例」であると考え、人間社会のシステムを解明するために「複合的自己組織性」と言う概念を準備した。しかし、この概念は、提案された1990年、彼のプログラム科学が提案展開された時代、十分なものではなかったのではないかと思われる。

私が提案しようとしている「自己組織性の科学としての生活学」の中の、「生活資本の消費と再生産過程(個体保存のための自己組織性)」は、吉田民人の自己組織概念からは説明できない。この概念は、当時(1950年から1960年代)、生活構造論や生活システム論を展開していた青井和夫、松原治郎や副田義也の理論を援用して形成したものである。その意味で、吉田民人が、1960年代後半から展開する「自己組織性の情報科学」の理論とは異なると謂えるだろう。

副田義也の理論「生活資本の消費と再生産過程」とは、生命活動に置き換えるなら、生命体維持のために、例えば外界の温度変化から体温を一定にするための生体機能である。これをホメオスタシス(Homeostasis)つまり恒常性と呼んでいる。この生体機能によって、我々の血圧、体液の浸透圧やpHなどが安全な領域内に保たれる。生体の恒常性は生物的な化学的な緩衝メカニズムによって、個体を外界からの物理的変化から守っているのである。

生体反応の恒常性・ホメオスタシスに関して、吉田民人は「個体の再生プログラム」という一言で説明し、それもの自己組織概念に含めているようにも解釈できるのであるが、しかし、相対1次の自己組織概念と、この生体の恒常性とは異なる。吉田民人の述べた「個体の再生プログラム」とは個体が新たに再生されるとき、つまり親から子供が生まれる時に、親の遺伝子が引き継がれることを意味し、また、人間が人間種に留まり続ける種の保存を意味している。そのため、個体自体が個体の生命を守る生命活動、つまり「個体保存」とは、意味を異にすることになる。

私が前記した生活活動での二つの自己組織性、つまり「生活資本の消費と再生産過程(個体保存のための自己組織性)」は、吉田民人の自己組織性の科学の中では、厳密な意味で、位置づけられていなかったと謂えるだろう。そして、「生活資本の蓄積と生活主体の再生産過程(種保存ための自己組織性)」は、相対一次の自己組織性として位置付けられていたと解釈できるだろう。

吉田民人の自己組織性やプログラム科学の概念を生活学に援用するためには、彼が大きく定義した自己組織概念の中に、生体反応の恒常性・ホメオスタシスを組み込むこと、そして同時に、個体保存も自己組織性のプログラムによって出現している生体、生活、社会の現実であることを了解する理論的詰めが要求されているのである。

個体の恒常性・ホメオスタシスを維持している細胞レベルの相対1次自己組織性


人々が日常の生活条件を維持するためには、睡眠、栄養補給、休息、休養や余暇を通じて、日々の労働や生活による肉体的・精神的な疲労を回復し、明日の生活や労働を担う状態を維持し続けている。この状態は人間個体の視点からは、身体的精神的な恒常性(こうじょうせい)ないしはホメオスタシス(Homeostasis)を維持していると謂われる。

吉田民人の自己組織性の概念には、上記した個体保存のために日常的に営まれる個体の恒常状態の維持の概念はないのであるが、この個体の恒常性は、視点を変えれば、個体を構築している何十億の細胞の再生過程、つまり相対一次の自己組織性によって担われている。

言い換えると、人々はその身体を構成する何十億の細胞、さらには何兆もの共生細菌の相対1次の自己組織性の生命活動によって、個体の生命活動の恒常状態(ホメオスタシス)が維持され、その個体の日常生活の維持が可能になっているのである。その意味で、人間個体の生命維持、恒常性を維持は、個体を構成する無数の細胞の再生と破棄の生命活動、つまり相対1次自己組織性運動によって可能になっていると謂える。


生活世界での相対1次と相対2次自己組織概念


生命活動のミクロレベルにおける相対1次自己組織性の運動が、マクロレベルの個体の生命維持、個体保存の基盤となっているのである。そして、生殖と呼ばれる個体の再生産によって、その種の保存が可能になっている。それが、個体の視点から観る生命活動の相対1次自己組織性の運動である。生活世界での相対1次自己組織性とは、家族を作り、そして子孫を残し、また社会文化を次の代に継承する社会活動、言い換えると伝統文化を維持し続ける活動を意味している。

生活様式や生活習慣は時代と共に変ってきた。それらの変化の基本的な要因として生態環境、政治経済環境の時間的・歴史的変化が挙げられるだろう。それを社会の歴史と呼んでいる。言い換えるとここで言う歴史とは、現在の社会がその形成の背景に持つ、これまでの生態環境、政治経済環境と生活様式(生活文化)の履歴を意味している。

生活史をマクロ的視点で観るなら、それらはこれまでの生活文化や生活様式の履歴を意味し、また、未来の生活文化も現在のそれを受け継ぎながらも変革し続けるものであると理解できる。それらの変化は上記した生態系、政治的、経済的、また現代では科学技術的環境によって決定されて行くことになる。

ある時代のある生活様式がその伝統を守るように機能することを生活世界の相対1次自己組織性と考えるなら、その伝統が生活を取り巻く環境の変化によって維持できなくなり、新しい生活環境に適応する生活様式が生み出されることを生活世界の相対2次自己組織性であると言える。


参考資料


(1)吉田民人『主体性と所有構造の理論』東京大学出版会、1991.12、 第1編主体性の理論 第1章 生活空間の構造-機能分析- 人間的生の行動学的理論 - pp3-56 

(2) 吉田民人 『自己組織性の情報科学』 新曜社、1990.7、 296p

(3) 吉田民人「情報・情報処理・自己組織性 -基礎カテゴリーのシステム-」組織科学 VoL.23 4 1990、pp7-15

(4)  吉田民人「「プログラム科学」と「設計科学」の提唱 -近代科学のネオ・パラダイム-」『社会と情報』=Society and information/社会と情報編集員会[編集] 1997年11月 pp129-144

(5) 副田義也「生活構造の基本理論」、in 青井和夫、松原治郎、副田義也編著『生活構造の理論』有斐閣双書 1971.11

(6) 三石博行 「自己組織性の科学としての生活学(1) 生活資本の消費と再生産過程(個体保存のための自己組織性)」 2015年4月116日、フェイスブック記載

(7) 三石博行 「自己組織性の科学としての生活学(2) 生活資本の蓄積と生活主体の再生産過程(種保存ための自己組織性・相対一次の自己組織性)」2015年4月116日、フェイスブック記載https://www.facebook.com/hiro.mitsuishi


2015年7月3日 変更

2015年4月15日水曜日

生活世界の科学の成立条件



三石博行(MITSUISHI Hiroyuki)


人間学としての「生活世界の科学」と臨床の知としての「生活技術学」


近代西洋哲学は、17世紀からの伝統として、合理的な精神や科学的な認識の追求が課題になっている。理性、意識的な志向性や自由意志などがその哲学の主な問題であった。しかし、物理主義、客観主義科学では生活世界の科学を充たすことはできないとフッサールは問題提起した。近代合理主義や科学主義を越えて新たに求められている人間社会学の科学性がフッサールの現象学から提案されていた。

勿論、フッサール以前からも、近代合理主義を伝統とする哲学の意識主義と批判する哲学の歴史はあった。意識活動を精神世界の全てであると考える意識主義哲学に対する批判は西洋哲学の伝統の中にあった。しかし、それらの批判は近代合理主義精神の形成過程で徹底的に排除しなければならなかった中世的世界観、主体と対象の区分を曖昧にして成立していた世界観に、その起源を持っているため、近代合理主義の形成にとっては徹底して排除しなければならない思想であった。

その排除によって、つまり感覚する主体、主観とそれらの主観性の入り込む余地のないすべての人々にとって公平に表れる世界、つまり客観とが明確に分かれ、感性を通じて現われる世界と数学によって記述された世界は分離し、そこに近代科学(力学)が生み出されたのである。

近代科学の形成とその成功によって近代合理主義思想が確立するのであるにであるが、近代合理主義思想の根底には物理神学(世界は神のことば(数学)によって描かれているという自然哲学・神学)がある。ニコラウス・コペルニクスやジョルダーノ・ブルーノのような物理神学者たちは神の存在を証明するために力学の研究をした。この思想からデカルトの機械論、つまり機械的世界を知る人間知の優位性を暗黙のうちに了解する思想、意識主義への批判が起こるのである。それは限りなく未知であり、限りなく不可知な世界、神の世界を認めることを前提にしていた。

意識主義が暗黙に了解した可知の世界、その武器としての哲学(当時の自然哲学、つまり今の自然科学)から、不可知な世界を認知するためにパスカルは反哲学(反自然哲学、つまり現在的に言い換えると科学的な視点以外で人間を理解すること)を、哲学(自然哲学)を行う上で必要な批判活動であると位置づけたのであった。これらの反哲学の流れは、その後、西洋哲学の中で滾々(こんこん)と続くのである。科学主義や実証主義と呼ばれる近代合理主義の伝統を汲む哲学の主流に反発する実存主義や生の哲学はその流れの中にあるとも言えるだろう。

意識主義や科学主義への反発や問いかけは、客観主義哲学への批判に留まらず、理念的人間に関する哲学的言及から生活する人間に関する哲学的言及に変更を要求することを潜在的に持っていたとも謂えるだろう。

しかし、反哲学は西洋哲学の主流に対する反抗に過ぎなかった。この反哲学の直感が、新たな時代の人間学の基礎となるたるめには、その直感に含まれている全体的な人間への理解の地平が伝統的な哲学を包み込む次元にまで展開される必要があった。

つまり、自然哲学が自然科学に置き換わり、伝統的な西洋哲学は自然現象の本質を語る権利を奪われ、また人間精神の在り方、世界の認識や了解の在り方を語る精神哲学や認識論が、心理学、精神分析や認知科学に取って代わられる中で、科学技術文明社会での哲学の役割は、人間の世界への関係の在り方に向かうことになる。つまり、世界を知ることが哲学の課題ではなく世界を生きるために知ることが哲学の課題となった。

しかし、これらの課題に近づくために、哲学は自然から社会へ、そして人間へとその探求の対象を進化させながら、その中で近代から現代への人間社会科学の形成に貢献したのである。

19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて意識主義を超えるための試みがなされた。例えば、フッサールが展開する生活世界を構成する共同主観性、フロイトの文化的シンボルの前意識的イメージやタブーなど無意識の文化的構造やデュルケイムの集合表象概念と機能主義社会学などである。これらの思想の流れに影響されて、文化的存在としての人間に関する人間社会学が形成される。例えば、レヴィ=ストロースの構造主義文化人類学、ユングやフロムの精神分析学、パーソンズの社会文化システム論、フーコーの歴史認識論等である。その延長線上に、生活世界を課題にする人間社会学が位置している。今日の生活世界の科学を考える時、17世紀以後の哲学や科学の歴史的な流れの中で滾々と続いてきた人間や社会に関する理解の歴史的経過を、知ることが必要となるだろう。

一方、19世紀にアメリカで生活学は、エレン・リチャーズによって提案された当時から、工業社会(科学技術文明)の引き起こす生活病理に対して臨床の知としての使命を持っている。しかし、今井光映が指摘したように、細分化した生活科学分野の研究を前提にして、より厳密な生活科学として展開される中で、生活課題全体を射程に入れた生活学の臨床の知の意味は風化していく。そこで、エレン・リチャーズ以来の伝統的立場に立ち、生活病理の解明を求める生活世界の科学として生活学の在り方を考える必要がある。生活学は、物理化学や生物学の理論を背景にして成り立つ生活科学の一分野であると解釈されてはならない。

今井光映によると、生活(科)学は没価値的な実証科学ではなく、生活を全体的に理解する理解科学であり、「生活を癒すこと」を課題にする実践的な実学であると提起されている。この実践学の精神は今和次郎や篭山京など日本の生活学の創設以来の伝統的科学精神である。厳密な生活科学とよばれる自然科学の一分野に落ち着こうとしている生活学のあり方を、臨床の知のための理解科学や技術学の方向に進化させるための、生活世界の科学の認識論の課題を分析しなければならない。



自由領域科学としての生活学の成立条件


生活世界の科学が近代科学以来の伝統的な科学方法論を前提にして成立しなければならないことが課題になる。生活を科学の対象とする以上、その方法はこれまでの分析的な科学方法論、実証的かつ論理的な研究の在り方が前提になる。そのため、この科学的方法での研究は、生活科学の専門的分野化を押し進め、細かい分野に専門化することが生活科学の進歩を意味することになる。と同時にその細分化によって生活という現実が失われることを意味する。

生活は、衣食住心に関する人間社会文化の全てである。生活世界の科学は、生活を全体的に取り上げられる方法が必要である。しかし、生活全体を取り上げることで、曖昧な分析や不確かな実証性を許すわけではない。分析的であって全体的である生活学の方法とは何かが求められている。

生活という複雑系での科学的方法の問題である。学際的研究を前提にして成り立つ複雑系の学問の方法論は、異なる学問領域の論理を羅列して成立するのだろうかという疑問が生じる。しかし、生活学は、これまでの物理化学を代表とするディシプリン型科学で取られていた還元主義的科学方法論では対応できないことは明白である。

吉田民人はディシプリン型科学に対して「自由領域科学」を提案した。この自由領域科学は、例えば、生活学に適用すると、生活情報学を基礎ディシプリンとする生活諸科学の拡張ディシプリン化であると言える。しかし、その自由領域科学の生活学の形成に必要な拡張ディシプリン化は、生活諸科学を構成する色々な領域の解釈を持ち寄って、それらを並列に並べて、示すことは出来ないだろう。

そこで、拡張ディシプリンが相互にその公理を位置付けできるような、さらに基本的な定義の確立を前提にしなければならないのではないかと思われる。それをプログラム科学の公理系であると言えるだろう。しかし、現在、生活学をプログラム科学の公理系から解釈できる理論や研究はない。



生活主体を含む科学性


生活学の研究対象は生活環境である。生活環境は文化環境の一部である。つまり、生活学は生活文化の環境についての科学である。生活者の行動や考え方は、生活文化環境に規定されている。生活者の生活様式も生活文化環境に作られている。

生活者の考え方や生き方、つまり生活様式を問題にするとき、生活環境との関係で考えることは、生活学が民俗学や文化人類学から引き継いだ方法である。この考え方の延長線上に、生活を科学する(生活)主体を置くと、生活科学を研究する行為、視点、解釈、直感的な理解等々、すべて、その(生活)主体を取巻き、形成した生活環境との関係を抜きにしては語れないことに気付く。

当然、生活学は、研究対象を主体から完全に切り離すことができない。それらによって主体の認識の風景が形成されているかである。つまり、自然科学のように観測者の認識の背景に観測対象の要素が入り込まない世界とは違い、その観測対象の要素によって、観測者の観測方法、観測の理論や解釈の論理まで、影響されている。その意味で、生活学の科学性には、物理化学のような客観主義が成り立たないのである。生活学の前提条件として、もしくはその境界・初期条件として、生活主体の生活環境と生活様式として語られる文化的パラダイムが存在している。

生活主体の文化性を前提にして成立している生活様式は、人間一般の普遍的課題と言うよりも、文化的位相性を前提にして成立するものである。生活学を、文化的環境の中での生活者のあり方の理解科学であると考えれば、その前提条件として具体的な文化環境に依拠して成立している生活学の公理がある。極論すれは、エレン・リチャーズによって提案された19世紀のアメリカ生活学の公理を、そのまま日本に当てはめることは出来ない。また同様に、戦前や戦中の今和次郎や篭山京など日本の生活学の公理を、そのまま、他の文化圏に当てはめて解釈することもできないと言える。

生活構造論を論及してきた渡邊益男は、現代社会での生活構造論の課題を社会福祉の理論として展開してきた。その中で、生活構造論の基本的な視点と方法をブルデュー理論から援用しながら、研究者の自己点検を取り上げている。つまり、生活主体という立場を持ち出す事によって、生じているその生活主体中心主義を抱え込んでいるという現実である。たしかに、研究対象から生活主体は切り離せない。しかし、そのことは、生活主体の偏見を前提にして、生活学が展開していいと言うのではない。渡邊は反省の社会学という表現をつかいながら、この方法論的問題を解決しようとする。そして、生活構造論はその形成期の原点に立ち社会問題にたいする実践的な理論であることを主張する 。

生活主体を含む科学認識は、その科学が主体の文化論的な自己解釈に落ちる可能性を持っている。その点では、渡邊益男の指摘は正しい。反省学は自己解釈学ではなく、実践的な社会活動を通じての自己変革学であると考える。



自己認識を含む生活システムの概念


意識や認識に関する課題は、例えば大脳生理学、認知科学、社会心理学、精神分析等々のように、科学的な分析の対象となる。生活学が問題にする生活者の意識や生活様式の認識の課題は、認知科学や人間学の援用が必要とされるが、それだけで解決できない、生活主体の認識構成を前提にしてなりたつ世界理解であるという課題が前提となる。言い変えると、生活世界の科学の成立条件の一つである生活主体の自己認識についての理論では、認知科学や心理学の理論を生活主体の反省的理解学として位置付けた理論が問われていると言える。

反省機能とは自己の在り方について、他者性の視点を持ち込んで観測することであると考えられる。しかし、我々の思惟はあくまでも主観的である。他者性を持ち込むことは意識的には不可能である。そこで、その反省機能は自己の思惟活動の外に構築される必要がある。言い変えると、反省機能を持つシステムとは「あるシステムについて他のシステムによる描写」という難解なパラドックスを抱え込んでいる。この自己準拠のパラドックス問題を前提にしてシステムに内在する「複合性」を課題にしてみよう。

ルーマンによると、自己とは「自己自身で目指している行為や自己自身を含有する集合」つまり意識的にしろ、無意識的にしろ、自己の行為の主体として登場するものである。準拠とは「そうして自己の存立の基盤となっているオペレーションのこと」である。つまり、自己準拠はシステムの中に所謂「他者性」を含むことによってそのシステムが一種のパラドックスになること。そのパラドックスによって生じるシステム内部の回帰運動を意味する。また、フィードバックはシステムのプログラムに即してその合目的性を満たすためにシステム内部に組み込まれたデータの再解釈プロセスである。機能主義的な考えではフィードバックを反省機能と考える傾向があるため、ここでは自己準拠とフィードバックのそれぞれの概念を分けてみた。

また、システムの再生産過程はそのシステムの内部で規定された諸要素の類型に依存しながらも、外部の要素を取り入れそれらを帰納論理プログラムしなければならない。するとそこで「システムとその環境の差異」を導き出す自己観察というシステムのコントロール機能が問題になる。するとルーマンの自己準拠的システムは対象認識する主体認識の在り方に関する観測機能を持つことを前提に成り立っていると思われる。

つまり、認識対象とする科学を援用することによって、認識主体の認知過程を描写する作業が取られ、その知の体系の中に観察する自己を理解することは可能である。自己自身で目指している行為や自己自身を含む集合である自己の存在の存立の基盤となっているオペレーションを自己準拠とすれば、この自己準拠を進める過程で、自己に含ませた他者性の中で自己と他者性として語られる自己が課題になる( )。この二つの異なるシステムの差異やパラドックス状態から生じる自己認知の運動を反省と考えるなら、生活世界の科学こそ生活主体の反省の成立に欠かせない認識であると言える。

生活世界の科学は「生活を癒すこと」を課題にする理解科学の成立を意味する。その方法論は自己組織系の科学性を前提とする。その科学性は意識科学を超える自己の定義を要求され反省は、その意味で、システム認識論でいう逆説として導かれることになる。しかし、この理論も現実の生活世界の科学と生活世界の改善運動として成立する。

ルーマンの自己準拠的システム論を援護するために、哲学的に認識論の在り方を再点検する。ここで問題になることは、反省機能を持つシステム論的な認識論はあくまでも主体はシステムの内部にあると言う事である。そのために、反省を対象化した機能として捉えることはできない。つまり、それはフィードバックを反省機能と考えることではない。あくまでも、反省機能とはシステム内部のパラダイム変換を前提にしている。




参考資料


ニコラス・ルーマン 『社会システム論(下)』、恒星社厚生閣、東京、1995.10、pp797-870

三石博行 「現代科学技術批判としての反省学試論(1)」金蘭短期大学研究誌 28 1997.12

三石博行 「主体的反省機能を持つシステム論は可能か -自己準拠的システムから反省機能補助システムとしてのインタフェース・エージェントモデルへ」社会経済システム 20 2001.11

吉田民人 「21世紀の科学 −大文字の第2次科学革命− 社会科学に法則はあるか」 組織科学 組織学会、32(3)、1999.3、p23、(吉田民人99a)

渡邊益男『生活の構造的把握の理論−新しい生活構造論の構築をめざして−』川島書店、1996.2、334p(p311-315)