三石博行
時代的文化社会的な問題解決学としての人間社会科学の存在理由
人間社会科学は、生活者とその環境を構成する形相(情報性、例えば言語、価値、表象などの様式要素)と質料(実在性、身体とその生産物の素材的要素)に関する認識と理解を得るための知的生産活動であり、その目的は、それらの生活者とその環境をより改善し改革し、生活者と呼ばれる人間の個体保存(自我安定)と種族保存(社会的安定)を得るためのものである。
人間社会科学は、対象の認識、つまり人間社会のあり方(機能性や構造性)の認識、と同時にその評価、言換えると生活主体との関係を課題にしている。そして、その認識や評価は生活環境の改善のために活用されることを目的としている。
すなわち、人間社会の認識と評価から推定される生活世界の改善のための実践的な行動指針となるのである。
人間社会科学の合理性はその実現可能な知の力によって了解されるという意味で人間社会科学も明らかに近代科学の伝統を受け継いでいるのである。すなわち、近代科学精神の上に立つ人間社会科学は実践的な「問題解決学」の思想を持っている。
解決しなければならない社会的文化的問題に対して実践的な解決能力、知的生産性を持つことによって人間社会科学の理論の検証は可能になっている。
もし、人間社会科学研究が、時代的社会的要求と呼ばれる時代性や社会性文化性に対して感受性を失うなら、それらの研究は、同時にその科学性、つまり知的生産能力の評価機能から離脱することになるだろう。
しかし、同時に政治、経済、社会文化政策と呼ばれる生活環境に直接影響する行為に直結するそれらの関与は、無条件の問題解決学の成立を許すわけには行かないことに気付く。
人間社会科学が調査分析する対象は何か、その了解の方法はどのようにして選択されたのか、その選択の基準は何か、そしてその方法論によって何が解釈可能なのか、その可能性の中で何を重視したのか、等々、人間社会科学の行為を一つひとつ点検すれば、人間社会科学を探求する(学習する)人々の生活基盤と生活課題が前提になっていることに気付く。それらの人々の知的生産力の土台や背景は、それらの人々の生活世界の現実にある。
換言すると、客観的科学としての人間社会科学は存在しない。歴史や文化的環境に規定された社会的行為としての人間社会科学は予め仮定した問題解決方向に対するある志向性をもった組み立て(企画)を持ち込む思惟であることも理解しなければならない。
問題解決学の成立する条件、つまりその解決への志向性、時代性や社会文化性に規定され、また解決の方向性を持つ生活主体がその解決学探求者であることを前提として成立する科学として人間社会科学を了解しておかなければならない。
その了解とは、人間社会科学が、それを研究する生活者の生活思想によって形成される学問であることの理解である。問題解決学とは、そこに生きる人々のための生活改善にほかならない。その志向性が、科学性として登場することになる。
生活改善のための問題解決学としての人間社会科学の知的生産能力は、それを支える、そしてそれに依拠した人々、階層、集団のために用意された技術、政策、時代思想、実践的方法、合理性として、彼らの期待する新たな時代的社会的地平に向かって進むための武器なのである。
その武器は、決して客観的に成立している問題解決方法ではない。また、その解決による評価も、全ての人々にとって平等に成立するものでもない。
極論すれば、知的生産行為を担う階層、集団の利益、その時代性、文化性社会性を前提にして人間社会科学は成立している。それらの集団、階層の時代性や社会文化性を代表し、擁護し、それらの人々のための問題解決策として、知的生産技術として、その知的体系は機能することになる。
参考
三石博行のホームページ 「ブログラム科学論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html
「人間社会学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html
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