災害に強い国を作る(2)
三石博行
農業資本としての土
庭で野菜を作るという家庭菜園をやっていて気付くことがある。それは野菜や花を育てるために花壇や畑の土が自然のものでありながら、人工物であると言う事だ。山土を耕し、花や野菜の植えられる環境にするために、どれだけの労力を投入したか。土を耕し、石ころを取り除き、堆肥を入れ、石灰を撒く等々、土作りに費やされた労力は莫大なものだ。
土が良くない限り、花も野菜も育たない。つまり、家庭菜園のようなレベルでの話しだけでなく、農業にとって土作りは工業で例えるなら工場を作るようなものである。農業生産の最も大切な環境が土である。土作りは時間の掛かるものである。そして非常に多くの労力を必要とするものである。
農家の人が作物を取られるよりも土を取られるのを怒ると聞いたことがあった。その意味は、土という農業にとって最も大切な資本を取られるからだ。企業で言うなら工場や事務所に置いてある会社の生産活動を担う機械や機器を取られることを意味する。倉庫においてある商品(植えてある作物)を取られるのとは違って、今後の生産活動に直接に影響を受け、会社にとっては致命的な打撃や損害となる。
生産効率を決める農地の質
古典派経済学で、「資本の本源的蓄積」と言う用語がある。資本主義経済が成立する過程における生産様式の変化を意味する。一般に、剰余生産物(余った生産物)の存在が、商品経済が成立するための前提条件となる。剰余生産物を交換すること、つまり商品が形成される。この商品生産が目的化し、商品経済は発展する。資本主義経済は、商品経済の発展によって導かれたものである。そして、商品経済は市場原理によって発展してきた。市場原理を支える社会思想が自由経済主義である。
畑の土は資本の本源的蓄積を生み出す前提条件であると言える。耕作地の土を改善すること、つまり耕作地の土が良くなることで、農業生産力は上がり農業経営はよくなる。
土は過去の農作業時間が蓄積したもの、農業資本の一つである。その過去の農作業時間は、先祖代々とか、昨年の堆肥撒き作業とか、いずれにしても過去に投入されたすべての農作業時間を意味する。
土と呼ばれる自然生態系の素材に対して、過去に投入されたすべての労働、つまり、開墾、農地化、農道整備、農地改革、耕作、堆肥作り、あらゆる農作業に人手を費やして作り出された生産手段・農地という人工的な資源が形成される。その資源価値は農業生産性によって決まる。農業経営では農地を改良し、生産性の高い農地を維持することが重要な課題となる。
社会資本の基底を維持するための経済理論はあるのか
農業経済では土のような経済活動の基盤を作るものがある。例えば、生態環境(里山とか)、家族、共同体、今回の大震災で活躍するボランティア運動などの市民運動を挙げることが出来る。しかし、それらの経済的価値の評価を厳密に(計量的に)算出することが困難であると言われている。
それは、経済的価値を算出する方法、つまりこれらの経済効果や価値に関する経済学的理論が完成していないと言い換えてもいいのだろう。
災害に強い国を考えるとき、市場経済や公共経済の考え方だけでは、国民の創意と参画による危機管理体制を考えることは出来ない。そのためには、国を運営するための経済思想をもう一度、考え直す必要がある。
災害に強い国を考えるとき、社会機能の基底を維持する機能に関する、つまり文化や生活に関する経済学の研究が必要となっていると言える。
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
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2011年4月5日 修正(誤字)
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2011年3月31日木曜日
2011年3月29日火曜日
国家の危機管理としての地方分権制度の構築
災害に強い国を作る(1)
三石博行
日本の自然生態環境と多様な地域社会性を持つ伝統的生活文化
日本の歴史を観ると中央集権政治が成立したのは奈良平安時代と明治以後の時代である。それまでとその間は地方にそれぞれ独立した政権があった。もちろん、江戸時代は将軍が全国を支配していたが、地方にいた諸大名は自分の領地を持っていた。その領地内で独自の政治が営まれていた。
この歴史的で伝統的な日本社会のあり方にはそれなりの理由がある。その理由の一つに日本の風土や生態系の特徴を挙げることができる。
つまり、日本は海に囲まれ、南北に長く、平野は少なく、殆どが山地で出来ている地形をした島国である。しかも、南から北まで、つまり亜熱帯から亜寒帯までの気候で、雨量が多い。川が至るところに流れ、山は森林に覆われている。そうした日本の自然生態環境がそこに暮らす人々の生活文化を規定してきた。
豊かな自然、温暖多雨な気象条件、森、水や太陽に恵まれた日本では、山地を隔ててそれぞれの地域で独自の農林水産業が成立してきた。つまり、それらの隔離した自然生態環境で、独自の生活文化圏が発達した。
海によって隔てられた地形、つまり九州、四国、本州と北海道の四つの島、それぞれの島の中央を走る山地や山脈によって区分された地形と共通する気象条件の地域、つまり山陰、山陽、関西、北陸、中部、東海、関東、東北日本海側、東北太平洋側と大きく区分される。これらの区分は、古代から存在している。そして中世(平安から室町時代)や近世(江戸時代)まで続く。
日本の生態環境が日本の伝統文化や古代からの生活や経済活動の基盤となり、日本の社会を構築する基本的な要素となったと言える。この日本の生態環境が江戸末期まで続いた日本の多様な地方経済文化の基本的要因であるとい考えられる。
近代化政策としての中央集権国家
この伝統的な地域の区分が崩壊しはじめたのは明治に入ってからである。欧米列強の植民地にされないために日本は近代化を猛スピードで進める必要があった。そのため、絶対君主制(天皇制)による一つの司令塔で動く近代日本が必要であった。その政治体制(軍隊と官僚組織)を作り、国営企業を興し、日本国民と国土のすべての力を集めて、統一国家日本をつくってきたのである。
戦後も政治体制は基本的には戦前と同じであるといえる。つまり、中央官僚によって経済社会発展のための行政を推進してきた。その中心が東京であった。日本の高度経済成長は、中央集権化した政治体制によって可能になった。つまり、明治以来の近代化推進に必要とされた優秀な官僚機構の役割によって、日本は目覚しい発展を遂げたとも謂えるのである。
近代化政策の成功によって、自由主義経済、つまり資本主義経済は発展し、民主主義が大衆文化として根付く。その結果、経済界が次第に力を持ち、世界的な企業が数多く生まれ、日本経済の成長発展を牽引していく。そして市民は自分たちの政治的主張を行い、地域社会では市民の自由な政治や文化活動が生まれる。自由が人々の生活文化の中に浸透することによって、古い共同体は崩壊し、村落共同体的な町内会などの運営は出来なくなる。
近代化政策は日本を欧米と同格の発達した資本主義国家にした。それと同時に、伝統的な共同体社会は解体されたとも言える。
都市集中化による地方経済の崩壊
強烈な中央集権政府によって効率良く国家運営が可能になった一方、首都を含めた三大都市近郊への人口の集中は著しく、2010年には東京都の人口は1300万人(日本全体の約10分の1)が居住し、東京都のGDPは92兆円と日本全体の約5分の1を占めている。(1)
「総務省が2007年8月2日に発表した07年3月末時点の人口調査で、東京圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)、名古屋圏(愛知、岐阜、三重)、関西圏(京都、大阪、兵庫、奈良)の3大都市圏の人口が初めて総人口の半数を上回った。総人口は1億2705万3471人で06年同期より1554人減り、2年連続で減少した。また、仙台市の人口が100万人を超え、全国で人口100万人以上の都市は11市になった。」(2)
つまり、現代の日本は人口、企業活動や大学などの教育機関が東京圏、名古屋圏と関西圏の三大都市圏に集中しているのである。地方の過疎化は都市への人口移動と少子化によって益々深刻な状態になりつつある。そのため、地方では交通機関(鉄道やバス)、学校、医療機関、生活道路や農業用水等々の社会資本の維持管理が困難な状態になろうとしている。この社会資本の機能不全は、さらに地方社会の経済的基盤を根底から弱体化させようとしている。
この産業や行政機能の都市集中型社会の形成は、生産効率を上げるために形成されたものである。一箇所に行政、生産、運輸、公共サービス、教育、商業等々の社会機能を集中することによって高い生産能率を獲得することが可能になるのである。そのために産業は都市化を行い、都市環境が産業活動の必要条件となるのである。この産業化社会の進化した姿として、人口の半分が三大都市に集中し、11の100万都市を含めて日本の人口の6割が大都市に居住しているのである。
この生産拠点の集中化によって高度な経済発展を遂げた今、その集中化による弊害が生じようとしている。その一つが、地方経済の疲弊である。さらにもうひとつは、国の危機管理問題である。今回の東日本大震災の二次災害、東京での停電問題は、その一例である。災害に対する国の危機管理体制を考える場合に、経済や政治機能の東京集中型の体制を検討し、最も現実的な解決政策を模索展開することが求められている。
地方分権制度を構築する困難な課題
今後、今回のような巨大災害が首都東京を襲う可能性は否定できない。関東大震災のような直下型地震が首都を襲うことで、政府機関、企業本社が東京圏に集中している日本では、今回の東日本大震災での長期停電が生じた場合を想定すると、非常に大きな経済的打撃を受けることになる。そこで、生産拠点の地域分散化対策が考えられる。
しかし、上記したように生産効率から考えると生産拠点の分散化には緻密な計画が必要となる。つまり、地方を活性化するために、色々な産業を地方に誘致するにしても、誘致される産業が地域社会でより高い生産効率を維持できるように、国全体の産業、流通、行政サービス等々の総合的な地域活性化政策を打ち出さなければならないだろう。
ここで、地方分権の問題が提起される。この課題は、現在の日本にとって進めなければならない課題であるが、地方分権を道州制の地方分割の行政システムの導入に関する形式論議論、つまり地方行政区間の再編成問題にしてはならない。地方分権の目的を明確にし、国家の危機管理のための体制と地域社会の活性化に必要な地方行政の権限の拡大の内容を検討しなければならない。
と同時に、前記したように圧倒的に東京圏に集中したGDPを考えるなら、地方分権の強化を進めることと、例えば地方自治体が納税収入を管理し、その一部を国に支払うという制度を導入したとしても、東京圏に集中する納税収入(法人税のみ、つまり住民税ではない部分)を段階的に地方行政の財源として保障しなければ、ならないだろう。
つまり、地方分権を導入するためには、多くの困難な課題が存在しているのである。政府も2007年に地方分権改革推進委員会を作り、多くの専門家を交えて審議を重ねている。委員会は会議を重ねながら、内閣総理大臣に対して4つの勧告と2つの意見を提出している。(3)今後も、学会、大学研究者、シンクタンク、企業研究所等の多くの専門家による意見を集め、検討を重ねなければならない。
地方分権化初期段階で最も配慮しなければならない課題は財政問題である。つまり、地方分権化を地方財政の確保を前提にして進めなければ、都道府県知事は二の足を踏むに違いない。
21世紀の災害に強い国家と地方分権へ道筋を立てる・政策構想
地方分権制度を行うためには、まずその制度が国家戦略として、将来の日本の経済や社会を強化するために必要であることを十分に理解なければ実現しないだろう。例えば、その課題の一つとして災害に強い国を作るという国家戦略を明確に説明する必要があるだろう。
地方分権化は、道州制の行政システム分割問題になろうとしている。それでは本末転倒し、中央集権制度の弊害である官僚制度をそのまま道州政府に移行するだけになる可能性もある。また、役人の人数を減らすことが目的化し、地域社会のサービスの低下を招く可能性もある。従って、地方分権を行政制度の形式に関する議論にしてはならない。
つまり、原点に戻り、現在の災害に弱い国家、地方経済の貧困化を招く国家を変えるために何が必要かという課題に戻り、その課題解決を第一の目的にした議論をする必要がある。
つまり、地方分権化の必要性とは、国全体の力を取り戻すための制度作りを目的にしているのであって、その行政形態の形式を議論する前に、現在の中央集権・官僚制度で生じている地方社会での経済や社会発展を阻害するすべての要素を分析し、その要素を改善するための考え方、また規則や制度を吟味する必要がある。それらの細かい一つ一つの課題の見直しを具体的に進めるための活動が、つまり、地方分権化の活動である。
そうすれば、地方分権は中央政府の官僚機構から提案され、議論されるものではないことにまず気付くだろう。そして、地方毎に、それらの議論が始まるようにお膳立てをすることが、中央政府の役目であることにも気付くだろう。
災害に強い国を作るために地方分権化を進める
日本という国は、素早い近代化によって20世紀のアジアの国で列強欧米の植民地支配を受けなかった。と同時に欧米列強のように他のアジアの国々を植民地支配した国である。第二次世界大戦で敗北し、また原爆投下による犠牲者と被爆被害者を持つ国でもある。さらに、戦後経済復興のために農業や漁業を犠牲にしながら、水俣病を始めとする公害病を生み出した国でもある。
そして1960年代からの高度経済成長によって、1970年代に再び世界の経済強国となり、国民は豊かな生活を手に入れた。しかし、その結果、都市への人口や社会経済機能の集中化が生じた。その集中化によって生産効率を上げながらも、今、その限界に達しようとしているのである。それが、今回の東日本大震災による都市機能の麻痺となって明らかに示されたように思う。
災害に強い国を作るために、都市に集中した人口、行政、生産、教育等々の社会機能を地方に戦略的に分散させるためには何をすべきだろうか。以下、その目的と方法について述べる。
地方分権化の目的
1、 地方分権化は、地方社会の経済文化の活性化を促進するのが目的である。
2、 地方分権化は、地方行政の経済効率を上げるために行うのが目的である。
3、 地方分権化は、災害の多い日本を災害に強い国家にするのが目的である。
地方分権化作業の方法
1、 現在の都道府県の地方行政の自由度を高めるために現在の地方行政システムの範囲で可能な地方分権化のための法律や制度を国は整備する。
2、 地方分権化はあくまでも地方行政の長を中心とする委員会で行う。それら活動を国は支援する。
3、 地方分権化の具体的な地域分割(道州制導入)に関しても、地方自治体に任し、地方自治体の利益や主体性を尊重しながら進める。
参考資料
(1) 公益社団法人 経済同友会 「道州制移行における課題 -財政面から見た東京問題と長期債務負担問題‐」HP 提言・意見・報告書 2010年5月19日 KEIZAI DOYUKAI
http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2010/pdf/100519b.pdf
(2)JCASTニュース 「三大都市圏人口が全人口の半数を上回る」2007年8月3日
http://www.j-cast.com/2007/08/03010009.html
(3)内閣府 「地方分権改革推進委員会の勧告・意見等」
http://www.cao.go.jp/bunken-kaikaku/iinkai/torimatome/torimatome-index.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
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2011年3月31日 修正(誤字訂正、文書追加)
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三石博行
日本の自然生態環境と多様な地域社会性を持つ伝統的生活文化
日本の歴史を観ると中央集権政治が成立したのは奈良平安時代と明治以後の時代である。それまでとその間は地方にそれぞれ独立した政権があった。もちろん、江戸時代は将軍が全国を支配していたが、地方にいた諸大名は自分の領地を持っていた。その領地内で独自の政治が営まれていた。
この歴史的で伝統的な日本社会のあり方にはそれなりの理由がある。その理由の一つに日本の風土や生態系の特徴を挙げることができる。
つまり、日本は海に囲まれ、南北に長く、平野は少なく、殆どが山地で出来ている地形をした島国である。しかも、南から北まで、つまり亜熱帯から亜寒帯までの気候で、雨量が多い。川が至るところに流れ、山は森林に覆われている。そうした日本の自然生態環境がそこに暮らす人々の生活文化を規定してきた。
豊かな自然、温暖多雨な気象条件、森、水や太陽に恵まれた日本では、山地を隔ててそれぞれの地域で独自の農林水産業が成立してきた。つまり、それらの隔離した自然生態環境で、独自の生活文化圏が発達した。
海によって隔てられた地形、つまり九州、四国、本州と北海道の四つの島、それぞれの島の中央を走る山地や山脈によって区分された地形と共通する気象条件の地域、つまり山陰、山陽、関西、北陸、中部、東海、関東、東北日本海側、東北太平洋側と大きく区分される。これらの区分は、古代から存在している。そして中世(平安から室町時代)や近世(江戸時代)まで続く。
日本の生態環境が日本の伝統文化や古代からの生活や経済活動の基盤となり、日本の社会を構築する基本的な要素となったと言える。この日本の生態環境が江戸末期まで続いた日本の多様な地方経済文化の基本的要因であるとい考えられる。
近代化政策としての中央集権国家
この伝統的な地域の区分が崩壊しはじめたのは明治に入ってからである。欧米列強の植民地にされないために日本は近代化を猛スピードで進める必要があった。そのため、絶対君主制(天皇制)による一つの司令塔で動く近代日本が必要であった。その政治体制(軍隊と官僚組織)を作り、国営企業を興し、日本国民と国土のすべての力を集めて、統一国家日本をつくってきたのである。
戦後も政治体制は基本的には戦前と同じであるといえる。つまり、中央官僚によって経済社会発展のための行政を推進してきた。その中心が東京であった。日本の高度経済成長は、中央集権化した政治体制によって可能になった。つまり、明治以来の近代化推進に必要とされた優秀な官僚機構の役割によって、日本は目覚しい発展を遂げたとも謂えるのである。
近代化政策の成功によって、自由主義経済、つまり資本主義経済は発展し、民主主義が大衆文化として根付く。その結果、経済界が次第に力を持ち、世界的な企業が数多く生まれ、日本経済の成長発展を牽引していく。そして市民は自分たちの政治的主張を行い、地域社会では市民の自由な政治や文化活動が生まれる。自由が人々の生活文化の中に浸透することによって、古い共同体は崩壊し、村落共同体的な町内会などの運営は出来なくなる。
近代化政策は日本を欧米と同格の発達した資本主義国家にした。それと同時に、伝統的な共同体社会は解体されたとも言える。
都市集中化による地方経済の崩壊
強烈な中央集権政府によって効率良く国家運営が可能になった一方、首都を含めた三大都市近郊への人口の集中は著しく、2010年には東京都の人口は1300万人(日本全体の約10分の1)が居住し、東京都のGDPは92兆円と日本全体の約5分の1を占めている。(1)
「総務省が2007年8月2日に発表した07年3月末時点の人口調査で、東京圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)、名古屋圏(愛知、岐阜、三重)、関西圏(京都、大阪、兵庫、奈良)の3大都市圏の人口が初めて総人口の半数を上回った。総人口は1億2705万3471人で06年同期より1554人減り、2年連続で減少した。また、仙台市の人口が100万人を超え、全国で人口100万人以上の都市は11市になった。」(2)
つまり、現代の日本は人口、企業活動や大学などの教育機関が東京圏、名古屋圏と関西圏の三大都市圏に集中しているのである。地方の過疎化は都市への人口移動と少子化によって益々深刻な状態になりつつある。そのため、地方では交通機関(鉄道やバス)、学校、医療機関、生活道路や農業用水等々の社会資本の維持管理が困難な状態になろうとしている。この社会資本の機能不全は、さらに地方社会の経済的基盤を根底から弱体化させようとしている。
この産業や行政機能の都市集中型社会の形成は、生産効率を上げるために形成されたものである。一箇所に行政、生産、運輸、公共サービス、教育、商業等々の社会機能を集中することによって高い生産能率を獲得することが可能になるのである。そのために産業は都市化を行い、都市環境が産業活動の必要条件となるのである。この産業化社会の進化した姿として、人口の半分が三大都市に集中し、11の100万都市を含めて日本の人口の6割が大都市に居住しているのである。
この生産拠点の集中化によって高度な経済発展を遂げた今、その集中化による弊害が生じようとしている。その一つが、地方経済の疲弊である。さらにもうひとつは、国の危機管理問題である。今回の東日本大震災の二次災害、東京での停電問題は、その一例である。災害に対する国の危機管理体制を考える場合に、経済や政治機能の東京集中型の体制を検討し、最も現実的な解決政策を模索展開することが求められている。
地方分権制度を構築する困難な課題
今後、今回のような巨大災害が首都東京を襲う可能性は否定できない。関東大震災のような直下型地震が首都を襲うことで、政府機関、企業本社が東京圏に集中している日本では、今回の東日本大震災での長期停電が生じた場合を想定すると、非常に大きな経済的打撃を受けることになる。そこで、生産拠点の地域分散化対策が考えられる。
しかし、上記したように生産効率から考えると生産拠点の分散化には緻密な計画が必要となる。つまり、地方を活性化するために、色々な産業を地方に誘致するにしても、誘致される産業が地域社会でより高い生産効率を維持できるように、国全体の産業、流通、行政サービス等々の総合的な地域活性化政策を打ち出さなければならないだろう。
ここで、地方分権の問題が提起される。この課題は、現在の日本にとって進めなければならない課題であるが、地方分権を道州制の地方分割の行政システムの導入に関する形式論議論、つまり地方行政区間の再編成問題にしてはならない。地方分権の目的を明確にし、国家の危機管理のための体制と地域社会の活性化に必要な地方行政の権限の拡大の内容を検討しなければならない。
と同時に、前記したように圧倒的に東京圏に集中したGDPを考えるなら、地方分権の強化を進めることと、例えば地方自治体が納税収入を管理し、その一部を国に支払うという制度を導入したとしても、東京圏に集中する納税収入(法人税のみ、つまり住民税ではない部分)を段階的に地方行政の財源として保障しなければ、ならないだろう。
つまり、地方分権を導入するためには、多くの困難な課題が存在しているのである。政府も2007年に地方分権改革推進委員会を作り、多くの専門家を交えて審議を重ねている。委員会は会議を重ねながら、内閣総理大臣に対して4つの勧告と2つの意見を提出している。(3)今後も、学会、大学研究者、シンクタンク、企業研究所等の多くの専門家による意見を集め、検討を重ねなければならない。
地方分権化初期段階で最も配慮しなければならない課題は財政問題である。つまり、地方分権化を地方財政の確保を前提にして進めなければ、都道府県知事は二の足を踏むに違いない。
21世紀の災害に強い国家と地方分権へ道筋を立てる・政策構想
地方分権制度を行うためには、まずその制度が国家戦略として、将来の日本の経済や社会を強化するために必要であることを十分に理解なければ実現しないだろう。例えば、その課題の一つとして災害に強い国を作るという国家戦略を明確に説明する必要があるだろう。
地方分権化は、道州制の行政システム分割問題になろうとしている。それでは本末転倒し、中央集権制度の弊害である官僚制度をそのまま道州政府に移行するだけになる可能性もある。また、役人の人数を減らすことが目的化し、地域社会のサービスの低下を招く可能性もある。従って、地方分権を行政制度の形式に関する議論にしてはならない。
つまり、原点に戻り、現在の災害に弱い国家、地方経済の貧困化を招く国家を変えるために何が必要かという課題に戻り、その課題解決を第一の目的にした議論をする必要がある。
つまり、地方分権化の必要性とは、国全体の力を取り戻すための制度作りを目的にしているのであって、その行政形態の形式を議論する前に、現在の中央集権・官僚制度で生じている地方社会での経済や社会発展を阻害するすべての要素を分析し、その要素を改善するための考え方、また規則や制度を吟味する必要がある。それらの細かい一つ一つの課題の見直しを具体的に進めるための活動が、つまり、地方分権化の活動である。
そうすれば、地方分権は中央政府の官僚機構から提案され、議論されるものではないことにまず気付くだろう。そして、地方毎に、それらの議論が始まるようにお膳立てをすることが、中央政府の役目であることにも気付くだろう。
災害に強い国を作るために地方分権化を進める
日本という国は、素早い近代化によって20世紀のアジアの国で列強欧米の植民地支配を受けなかった。と同時に欧米列強のように他のアジアの国々を植民地支配した国である。第二次世界大戦で敗北し、また原爆投下による犠牲者と被爆被害者を持つ国でもある。さらに、戦後経済復興のために農業や漁業を犠牲にしながら、水俣病を始めとする公害病を生み出した国でもある。
そして1960年代からの高度経済成長によって、1970年代に再び世界の経済強国となり、国民は豊かな生活を手に入れた。しかし、その結果、都市への人口や社会経済機能の集中化が生じた。その集中化によって生産効率を上げながらも、今、その限界に達しようとしているのである。それが、今回の東日本大震災による都市機能の麻痺となって明らかに示されたように思う。
災害に強い国を作るために、都市に集中した人口、行政、生産、教育等々の社会機能を地方に戦略的に分散させるためには何をすべきだろうか。以下、その目的と方法について述べる。
地方分権化の目的
1、 地方分権化は、地方社会の経済文化の活性化を促進するのが目的である。
2、 地方分権化は、地方行政の経済効率を上げるために行うのが目的である。
3、 地方分権化は、災害の多い日本を災害に強い国家にするのが目的である。
地方分権化作業の方法
1、 現在の都道府県の地方行政の自由度を高めるために現在の地方行政システムの範囲で可能な地方分権化のための法律や制度を国は整備する。
2、 地方分権化はあくまでも地方行政の長を中心とする委員会で行う。それら活動を国は支援する。
3、 地方分権化の具体的な地域分割(道州制導入)に関しても、地方自治体に任し、地方自治体の利益や主体性を尊重しながら進める。
参考資料
(1) 公益社団法人 経済同友会 「道州制移行における課題 -財政面から見た東京問題と長期債務負担問題‐」HP 提言・意見・報告書 2010年5月19日 KEIZAI DOYUKAI
http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2010/pdf/100519b.pdf
(2)JCASTニュース 「三大都市圏人口が全人口の半数を上回る」2007年8月3日
http://www.j-cast.com/2007/08/03010009.html
(3)内閣府 「地方分権改革推進委員会の勧告・意見等」
http://www.cao.go.jp/bunken-kaikaku/iinkai/torimatome/torimatome-index.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
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2011年3月31日 修正(誤字訂正、文書追加)
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2011年3月28日月曜日
政府は、原発大災害に向けて緊急体制を採るべきである
東電福島第一原発大災害に立ち向かう(1)
三石博行
人災としての原発事故 それに対する緊急対策
東日本大震災は日本社会に大きな打撃を与えた。今、一刻も早い復旧が急がれている。その復旧活動に大きな妨げになり、また東日本大震災の被害をさらに増大させようとしている要因としてこの大震災の二次災害として発生した東電福島第一原発事故がある。
この災害は戦後日本が経験したことのない大災害に発展する可能性が強くなっている。この災害をもたらした要因は、地震と津波の自然災害であることは言うまでもないが、同時に、我々日本社会での安全管理や危機管理の甘さによるものでもあると言える。
東洋経済の記事によると、東電の危機管理に関しては2006年3月1日の衆議院予算委員会で吉井英勝議員(共産党)が今回のような地震や津波での被害を想定した質問をしている。吉井議員はその後数回質問をしている。そして自家発電の電源が使えない状態になった場合の対応についても質問している。それに対して、経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は原子炉が停止後も冷却して行くことが大切だとか、冷却機が持続的に動くことが大切だと答えた。(1)
しかし、経済産業省は、国会での指摘を受けて、そして自らの答弁の責任として、東電福島第一原発の危機管理を点検し、そして改善を指示指導したのであるなら、今回の事故は防げただろう。
東洋経済の記事には、そのほかにも東電福島第一原発での不祥事を国会で近藤正道議員(社民党)が指摘した事実が記されている。しかし、経済産業省はその指摘や批判に何も対応していなかったし、寧ろ東電擁護の答弁を行ったことが書かれている。(1)
つまり、今回の東電福島第一原発事故は地震と津波だけによって生じた事故ではない。東電の危機管理の無さ、産業通産省の官僚的仕事と企業との癒着等によって、生じたものであると解釈できる。そして、事故が進行しつつある段階でも、東電の危機管理の甘さ、産業通産省の官僚的姿勢は変わらなかった。
したがって、これまでの経過を見る限り、さらに重大な危機がどのように迫ったとしても、東電の体質も経済産業省原子力安全・保安院の官僚的体質も変わらないだろう。政府は、この二つの元凶を理解し、現状の危機管理として、至急、民間人を入れた対策会議を形成し、経済産業省原子力安全・保安院に依存した政策を出すことを止めなければならない。(3)
最悪の事態を想定した対策を立てる
現在も原発での災害は進行しつつあり、何一つ予断を許さない段階である。最悪の場合、福島第一原発のすべての原子炉が崩壊し、炉内や使用済み核燃料の放射能物質による環境汚染が起こるだろう。その最悪のシナリオを考えて被害を最小限に食い止めるための準備をしておく必要がある。
国民に不安を与えないという政治的立場から政府が発言することは当然のことである。もし、最悪の事態が生じるとしても、無用な恐怖や不安を掻き立てることはない。しかし、それだけに、その最悪の事態への万全の準備が必要となる。
取るべき手段のすべてを採ることしかない。そのために、多くの犠牲者が出る。特に、事故防止のために現場で働く人々の被曝は避けられない。それを恐れて、重大な災害を引き起こすことになれば、さらに多くの人々が被曝することになるだろう。
あらゆる支援と協力体制が必要
もはや、緊急事態が起こることを想定しなければならない。そして現在はその一段階を越えてたと判断すべきである。つまり、国家としては非常事態に突入したのである。
今後、国を揺るがし、そして国家の経済的な基盤や国際的信頼を崩壊させる大事態であることは確かである。この事態に立ち向かうための政府としての、そして東電としての決意が必要である。
政府は、最大の危機を想定した国際的支援体制と国家の協力体制を緊急に作る必要がある。そのためには、現状の事故の情報を公開し、そして今後生じる課題に関して合理的で現実的な対策を検討し続けるために、国内のあらゆる部門の専門家を集め、その力を借りて、対策を検討すべきである。(2)
また、国際的には、海外、アメリカやEUに対して協力を求めるべきである。取り分け米軍の援助をさらに要請し、またヨーロッパなどの専門家の協力を得るべきだろう。
参考資料
(1)東洋経済 「国政の場で指摘されていた 福島第一原発への「不安」(1)(2)
http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/fe2850f53fedccdefb3d90f747346430/
http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/fe2850f53fedccdefb3d90f747346430/page/2/
(2)earth garden 「WebMagazin ヨミモノ」「再び13日17時:原子力資料情報室による記者会見」
http://www.earth-garden.jp/magazine/7521/
(3)毎日jp 「福島第一原発:前知事が批判「破局招いた無分別」 仏紙に」2011年3月29日 11時(このブログ記載の後に出た記事です)
http://mainichi.jp/select/science/news/20110329k0000e040028000c.html
引用
「佐藤氏は福島県知事時代の98年、全国で初めてプルサーマル計画を了承。プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料が福島第1原発に搬入されたが、02年に東電の原発トラブル隠しが発覚、了承を撤回した経緯がある。
佐藤氏は「(今回の事故で)恐れていたことが現実になってしまった」と指摘。日本の原発行政を推進する経済産業省と監視機関の原子力安全・保安院を分離すべきだとの声があったのに実現していないことを挙げて「日本は民主国家だが、浸透していない分野がある。正体不明の利益に応じて、数々の決定がなされている」と原子力行政の不透明性を暴露した。
また「今回の破局は(原発に関する)政治決定プロセスの堕落に起因している」と指弾した。」
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
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修正(誤字) 2011年3月29日
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三石博行
人災としての原発事故 それに対する緊急対策
東日本大震災は日本社会に大きな打撃を与えた。今、一刻も早い復旧が急がれている。その復旧活動に大きな妨げになり、また東日本大震災の被害をさらに増大させようとしている要因としてこの大震災の二次災害として発生した東電福島第一原発事故がある。
この災害は戦後日本が経験したことのない大災害に発展する可能性が強くなっている。この災害をもたらした要因は、地震と津波の自然災害であることは言うまでもないが、同時に、我々日本社会での安全管理や危機管理の甘さによるものでもあると言える。
東洋経済の記事によると、東電の危機管理に関しては2006年3月1日の衆議院予算委員会で吉井英勝議員(共産党)が今回のような地震や津波での被害を想定した質問をしている。吉井議員はその後数回質問をしている。そして自家発電の電源が使えない状態になった場合の対応についても質問している。それに対して、経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は原子炉が停止後も冷却して行くことが大切だとか、冷却機が持続的に動くことが大切だと答えた。(1)
しかし、経済産業省は、国会での指摘を受けて、そして自らの答弁の責任として、東電福島第一原発の危機管理を点検し、そして改善を指示指導したのであるなら、今回の事故は防げただろう。
東洋経済の記事には、そのほかにも東電福島第一原発での不祥事を国会で近藤正道議員(社民党)が指摘した事実が記されている。しかし、経済産業省はその指摘や批判に何も対応していなかったし、寧ろ東電擁護の答弁を行ったことが書かれている。(1)
つまり、今回の東電福島第一原発事故は地震と津波だけによって生じた事故ではない。東電の危機管理の無さ、産業通産省の官僚的仕事と企業との癒着等によって、生じたものであると解釈できる。そして、事故が進行しつつある段階でも、東電の危機管理の甘さ、産業通産省の官僚的姿勢は変わらなかった。
したがって、これまでの経過を見る限り、さらに重大な危機がどのように迫ったとしても、東電の体質も経済産業省原子力安全・保安院の官僚的体質も変わらないだろう。政府は、この二つの元凶を理解し、現状の危機管理として、至急、民間人を入れた対策会議を形成し、経済産業省原子力安全・保安院に依存した政策を出すことを止めなければならない。(3)
最悪の事態を想定した対策を立てる
現在も原発での災害は進行しつつあり、何一つ予断を許さない段階である。最悪の場合、福島第一原発のすべての原子炉が崩壊し、炉内や使用済み核燃料の放射能物質による環境汚染が起こるだろう。その最悪のシナリオを考えて被害を最小限に食い止めるための準備をしておく必要がある。
国民に不安を与えないという政治的立場から政府が発言することは当然のことである。もし、最悪の事態が生じるとしても、無用な恐怖や不安を掻き立てることはない。しかし、それだけに、その最悪の事態への万全の準備が必要となる。
取るべき手段のすべてを採ることしかない。そのために、多くの犠牲者が出る。特に、事故防止のために現場で働く人々の被曝は避けられない。それを恐れて、重大な災害を引き起こすことになれば、さらに多くの人々が被曝することになるだろう。
あらゆる支援と協力体制が必要
もはや、緊急事態が起こることを想定しなければならない。そして現在はその一段階を越えてたと判断すべきである。つまり、国家としては非常事態に突入したのである。
今後、国を揺るがし、そして国家の経済的な基盤や国際的信頼を崩壊させる大事態であることは確かである。この事態に立ち向かうための政府としての、そして東電としての決意が必要である。
政府は、最大の危機を想定した国際的支援体制と国家の協力体制を緊急に作る必要がある。そのためには、現状の事故の情報を公開し、そして今後生じる課題に関して合理的で現実的な対策を検討し続けるために、国内のあらゆる部門の専門家を集め、その力を借りて、対策を検討すべきである。(2)
また、国際的には、海外、アメリカやEUに対して協力を求めるべきである。取り分け米軍の援助をさらに要請し、またヨーロッパなどの専門家の協力を得るべきだろう。
参考資料
(1)東洋経済 「国政の場で指摘されていた 福島第一原発への「不安」(1)(2)
http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/fe2850f53fedccdefb3d90f747346430/
http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/fe2850f53fedccdefb3d90f747346430/page/2/
(2)earth garden 「WebMagazin ヨミモノ」「再び13日17時:原子力資料情報室による記者会見」
http://www.earth-garden.jp/magazine/7521/
(3)毎日jp 「福島第一原発:前知事が批判「破局招いた無分別」 仏紙に」2011年3月29日 11時(このブログ記載の後に出た記事です)
http://mainichi.jp/select/science/news/20110329k0000e040028000c.html
引用
「佐藤氏は福島県知事時代の98年、全国で初めてプルサーマル計画を了承。プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料が福島第1原発に搬入されたが、02年に東電の原発トラブル隠しが発覚、了承を撤回した経緯がある。
佐藤氏は「(今回の事故で)恐れていたことが現実になってしまった」と指摘。日本の原発行政を推進する経済産業省と監視機関の原子力安全・保安院を分離すべきだとの声があったのに実現していないことを挙げて「日本は民主国家だが、浸透していない分野がある。正体不明の利益に応じて、数々の決定がなされている」と原子力行政の不透明性を暴露した。
また「今回の破局は(原発に関する)政治決定プロセスの堕落に起因している」と指弾した。」
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
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修正(誤字) 2011年3月29日
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2011年3月26日土曜日
春の大雪
2011年3月26日の庭
三石博行
今朝、起きてみると、一面銀世界であった。3月末に、こんなに雪が降るのは珍しことだ。
東日本大震災の罹災地にも雪がふっただろうか。寒かっただろうか。
水菜の花も雪で覆われてしまった。
三石博行
今朝、起きてみると、一面銀世界であった。3月末に、こんなに雪が降るのは珍しことだ。
東日本大震災の罹災地にも雪がふっただろうか。寒かっただろうか。
水菜の花も雪で覆われてしまった。
2011年3月25日金曜日
可愛い迷惑な訪問者
2011年3月25日の庭
三石博行
毎年、冬に訪問者がやってくる。冬しか来ない。多分渡り鳥かもしれない。もしくは、山に食糧がないから人家のある所に来るのかもしれない。
彼らの好きな野菜は、ケール、キャベツと栄養分の多い肉厚の葉っぱを持った野菜だ。小松菜やホウレン草はそんなに好きではない。
今年の冬は、ビタミン菜を植えた。ビタミン菜が随分お気に入りで、毎日、葉っぱをつつきに来る。殆ど良いところは、ツガイでくるこの家族に食べられる。
真冬が終わり、寒さが和らぐ。すると野菜たちに変化が起こる。
まず、小松菜のとうが立ちだしたので、まず、小松菜を食べてから、ビタミン菜の葉っぱを食べることにした。
今週に入って、私もようやくビタミン菜を取ることが出来た。もう、鳥に葉っぱの先を突かれて、まるで破れた扇子のようになっている。
それでも、今朝も葉っぱをとった。ここは寒いから朝早くは野菜の葉っぱは凍っている。
葉っぱを集めて、雨水タンクの水で洗って、鳥に食べられてぼろぼろになった葉っぱを捨てて、食べられるところを集める。
それで野菜ジュースを作る。
確かに、この野菜は、今までの小松菜より甘い。
おいしい野菜ジュースが出来た。
彼らは、野菜のことをよく知っているのだと、改めて彼らの能力を見直したのだった。
3月25日
友人から、この迷惑者の名前は「ヒヨドリ」だろうと連絡を貰う。
早速、調べてみた。
確かに、ヒヨドリみたいだ。
参考 Yshooオンライン野鳥図鑑
http://www.yachoo.org/Book/Show/462/hiyodori/
三石博行
毎年、冬に訪問者がやってくる。冬しか来ない。多分渡り鳥かもしれない。もしくは、山に食糧がないから人家のある所に来るのかもしれない。
彼らの好きな野菜は、ケール、キャベツと栄養分の多い肉厚の葉っぱを持った野菜だ。小松菜やホウレン草はそんなに好きではない。
今年の冬は、ビタミン菜を植えた。ビタミン菜が随分お気に入りで、毎日、葉っぱをつつきに来る。殆ど良いところは、ツガイでくるこの家族に食べられる。
真冬が終わり、寒さが和らぐ。すると野菜たちに変化が起こる。
まず、小松菜のとうが立ちだしたので、まず、小松菜を食べてから、ビタミン菜の葉っぱを食べることにした。
今週に入って、私もようやくビタミン菜を取ることが出来た。もう、鳥に葉っぱの先を突かれて、まるで破れた扇子のようになっている。
それでも、今朝も葉っぱをとった。ここは寒いから朝早くは野菜の葉っぱは凍っている。
葉っぱを集めて、雨水タンクの水で洗って、鳥に食べられてぼろぼろになった葉っぱを捨てて、食べられるところを集める。
それで野菜ジュースを作る。
確かに、この野菜は、今までの小松菜より甘い。
おいしい野菜ジュースが出来た。
彼らは、野菜のことをよく知っているのだと、改めて彼らの能力を見直したのだった。
3月25日
友人から、この迷惑者の名前は「ヒヨドリ」だろうと連絡を貰う。
早速、調べてみた。
確かに、ヒヨドリみたいだ。
参考 Yshooオンライン野鳥図鑑
http://www.yachoo.org/Book/Show/462/hiyodori/
2011年3月24日木曜日
災害に強い社会を作るための主な三つの課題
今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう
三石博行
災害に強い社会を目指す
国民参画の救援体制
今回の東日本大震災は、地震と津波による未曾有の被害をもたらした。犠牲者と行方不明者数を合わせて2万人を越え、31万人が避難生活をしている。また全壊した建物は警察庁の発表によると14697戸、半壊したものは4901戸、部分的破損を含めると12万戸以上の家屋への被害が出た。(1)
懸命の救援活動が続く中で、まだ社会インフラが麻痺し続けている。生活必需品の不足は深刻である。阪神淡路大震災の教訓から市民からの支援物資を断り続けているが、その判断は正しいのだろうか。阪神淡路大震災は都市圏に囲まれた地域での震災であった。しかも津波の被害もなかった。今回の場合は、津波の被害が大きく、しかも非常に広域、阪神淡路大震災の5倍に及ぶ広域災害である。その罹災者も異なり農業や漁業を営む人々が多く含まれている。
東京を中心とする都市圏から市民が提供する生活必需品が多く集まるだろう。その中には不要なものがあるから、予め救援物資の提供を断っているらしい。それなら、必要な救援物資を提示し、それを最寄の区役所や市役所に届けてもらい、さらにその地域の市民に呼びかけて救援物資を送るための活動ボランティアを呼びかけたらいいのではないか。昼間なら高齢者、夕方からは勤めから帰ってきた人々が生活の場所から、ボランティア活動に参加できる。
例えば、阪神淡路大震災で大阪府箕面市の市民が罹災者救援ボランティア情報紙「WANTED」を発行し、箕面市民の「おにぎり作り」や「洗濯」ボランティアを組織し、神戸市長田区の罹災者に届けた。この活動は、すでに忘れ去れられようとしている。(2)しかし、大震災に立ち向かう市民の力を集めることで、市民の独自の運動は、豊かな想像力(生活者であるので可能な)と行動力を持つ。
行政はその市民力(国民の力)を活用し、箕面市が行ったように、市民に活動の場を提供することによって、罹災地に送ることができるように分類整理することも出来る。こうした事態では、行政組織の救援体制だけでなく、広く市民参加を呼びかけ市民による救援体制を作るべきではないだろうか。市民参画の災害危機管理に関しては後に述べる。(3)
罹災現場のニーズに合わせた救援策
今回の大震災はこれまでに経験したことのない色々な課題を投げかけている。例えば、災害時に必要な救援物資は大まかに想像できるし、過去の経験から予測できる。今回の場合は1995年の阪神淡路大震災や2007年の新潟県中越沖地震災害が参考になっている。しかし、今までの災害と異なる状況にあることを前提にして、つまり現実の状況とニーズに即した救援策を展開する必要がある。
例えば、今回のような深刻なガソリンの不足も阪神大震災では起こらなかった。その理由は、多くの製油所が壊滅的打撃を受けたというだけでなく、今回の震災が青森県から千葉県に渡る広域災害であったこともその一つである。
救援物資を送るためには、自衛隊や警察機動部隊等による補給路の確保、そして民間運送企業の協力による運搬体制の確立である。しかし、ガソリンがなければその両方に影響が出る。政府は、ガソリン確保のための緊急対策を取った。製油や運搬企業への協力体制を政府指導で作ることで、その成果が3月22日から見え始めてきている。
国の力を一つにして取り組む
これほどにも大きな災害に対しては、国を挙げて取り組まなければ人命の救助、二次災害防止を食い止めることは不可能である。今回の東日本大震災(東北関東大震災)は、戦時の災害に次ぐ近代日本が始まってから二回目の大災害である。国家がそのためにあらゆる対策を行う必要がある。
自衛隊の出動も一日目に8千人、そして二日目に2万人と5万に増員され、3日目には10万人体制となった。何故はじめから10万人、いや、現勢力26万人の自衛隊員の殆どでないのかという批判もある。しかし、日本の自衛隊の構成は実働部隊の割合が事務系や将校系に比べて低い。実際の国の防衛活動(災害時のみでなく)こうした自衛隊自体の問題も今回明らかになったのではないだろうか。いずれにしても、国が所有する防衛力(自衛隊)や治安維持体制(警察)を災害救助に敏速で有効に活用しなければならない。
さらに、緊急時では超党派での政治体制が必要である。勿論、議会制民主主義を無視することは憲法違反であるし、災害を理由に国会での話し合いを中止することは民主主義社会のルールを破壊する危険な行為である。しかし、超党派で震災への対応、つまり東日本大震災救援対策本部(委員会)を超党派で形成し、他の政党の有能な議員を対策本部のリーダーとして起用することが必要である。
今回、管直人総理大臣は自由民主党総裁の谷垣氏に入閣を要請した。3月19日、残念ながら谷垣氏は断わった。しかし、管総理の姿勢は評価できる。そしてその姿勢を国民に示したことがもっと大きな意味を持つことになるのである。
今後事態が進む場合には、もう一度、自民党は、重大災害時における超党派的団結を検討してもよいのではないだろうか。そして、若い自民党の議員や政治家が、国家の危機を救うためにより積極的な立場に立つ機会を与えるべきではないだろうか。
すべての国の力、官僚組織、企業、公共団体、シンクタンク、大学、学術等団体、自治体、NGO、ボランティア、市民運動、自治会、サークル、家族等々、ありとあらゆる共同体、集団すべての国民の力を合わせ、この危機に立ち向かわなければならないのである。
常に失敗から学ぶ姿勢を持つ
甘い予測での甘い安全管理
今回の東日本大震災(東北関東大震災)は、千年に一回の確率で生じる災害であると報じられている。東電福島第一原発はマグニチュード(M)8以上の地震は来ないことを想定して建てられたらしい。今日(2011年3月23日)のTBSの番組「みのもんた朝ズバッ」で取材に応じた設計者の説明である。
世界の地震の歴史を紐解けば、20世紀に起こったM8以上の地震は、南北アメリカ大陸だけで、12件以上もあり、1960年5月22日のチリ地震はM9.5で、日本でも津波の被害が起きた。(4)
日本でも、1911年喜界島地震(M8.0)、1918年千島列島得撫島(うるっぷとう)地震(M8)、1933年昭和三陸地震(M8.1)、1946年南海地震(M8.0)、1950年十勝沖地震(M8.2)、1959年 択捉島付近地震(M8.1)、1963年択捉島沖地震(M8.1)、1994年北海道東方沖地震(M8.2)と8回もM 8を越える地震があった。(4)
東電福島第一原発は1971年3月に運転が始まる。その建設は1960年から調査が始まり、1966年に原子炉設置許可申請を出し、同年に認められている。(5)つまり、東電福島第一原発が設計された1966年までに20世紀始めから日本では7回もM8を越える地震を経験しているのである。
従って、今朝のTBSの番組で東電福島第一原発設計者がM8以上の地震は来ないと仮定して設計したという発言自体が信じられない内容であることに気付くだろう。
市民からの批判を恐れる企業は、つねに甘い予測を立てる。それは経営陣が危機や災害の予測を立てることによって、世間の批判を受けることを恐れるからである。原発は建設当時から、その危険性を専門家や市民によって指摘され続けてきた。その意味で、原発事故が発生することを建設を推進した国や電力会社が危険性を述べることはタブーに近い状態にあった。
原発は安全ですと電力会社のコマーシャルで毎日のように宣伝してきた。何故なら、これからも原発建設を進めなければならないからであった。しかし、今回も、東電の甘い事故発生の予測が二次災害を拡大する原因となった。初期段階で取るべき緊急対策、海水の投入や外部電力の使用は、水素爆発が起こった後にようやく取られる結果となった。
この姿勢は、東電がこれまで、原発事故への甘い予測をし続けてきたことと同じである。この同じ失敗を繰り返す「企業体質」を変えなければならない。それは東電の不利な情報隠し、小さな事故隠しの体質である。この体質は、他の電力会社も同じように持っている。その意味で、今後、他の電力会社の原子力発電所に事故が起こらないという保障は何もない。
そして、現在も、放射能汚染に対して、「それほど健康障害を起す値ではない」という曖昧な発言が繰り返されている。殆どの国民が被曝線量の計算の仕方を知らない中で、被曝量として使われているシーベルトという単位、その一時間での被曝量と被曝量の違いも明確に説明されていない。確かに1時間の被曝量は少ないかもしれないが、しかし、その現場にいる時間は何時間、何日なのか。そうだとすると一時間の被曝量で説明するのは不十分ではないかという発言や批判がインターネットで記載されはじめている。
甘い災害予測、甘い危機感、甘い被害予測、これらのすべてによって、これからも被害が拡大し続けることは間違いないだろう。
また、そして、今、原発の致命的な事故を防ぐために東電の職員、消防レスキュー隊、自衛隊、警察機動隊、民間企業の職員、報道関係者が放射能被曝を覚悟で働いている。それらの人々に今後起こる放射能被曝障害(労災)に関する情報も殆どない。何故なら、これまで原発で働いてきた人々の被曝被害(労働災害)に関する報道がなかったからではないだろうか(6)。
甘い責任追及から生じる危機管理
今回の東電福島第一原発事故の直接の原因は東日本大震災(東北関東大震災)による津波である。今回の未曾有の津波による被害は、確かに東電にも予測できなかっただろう。地震による停電を補助するためのジーゼル発電機が津波で故障したと言うことは、東電は二次災害対策を持っていなかったことを意味する。つまり、停電対策として非常用電源(ジーゼル発電装置)のみが東電の取っていた危機管理であった。非常用電源が機能しなくなる状況は全く想定していなかったのである。
緊急時に炉心を冷やす「緊急炉心冷却装置」が機能しなくなることで、さらに重大な原発事故が引き起されることを想定するなら、二次災害防止対策、つまり予備電源を外部から引いてくるという一番効果的な対策、さらにその二次災害防止対策が機能しない場合の三次災害防止対策、例えば発電機能を持つ緊急車両等々と、何重にも危機管理対策を取ることが必要であった。しかし、その判断がなかったのは、東電が原発事故補償へのコスト計算を間違ったとしか言いようがないのである。
広域放射能汚染による、農業や漁業への被害、居住地を失う市民への損害賠償、機能不全となる市政や自治体への損害補償等々、その被害額は国家予算の一部に相当するだろう。その意味で、東電は間違いなく倒産寸前の経営状態となるだろう。すでに東電は1兆円の資金融資を銀行に要請している。しかし、その金額で今後の東電の復旧と周辺の社会に与えた被害の補償が出来るとは思えない。
とは謂え、関東一帯の電力供給を担う事業である東京電力株式会社を国は潰す訳にはゆかない。そこで、国は何らかの財政支援を行うに間違いないだろう。国はバブル経済が破綻した時に、都市銀行の救済をした。その時と同じく今回も東電を救済するだろう。その国の姿勢は、どこかですでに東電の側に期待されている。それ故に、その甘い期待の上に、第二の福島第一原発事故は東電だけでなく、他の電力会社でも起こるに違いない。
危機管理体制・報道機関での専門家の発言責任
今回の東電福島第一原発事故が表面化して、報道は専門家を呼び、原発事故の説明を行った。NHKで原発事故に関する説明を行った関村直人東京大学大学院工学系研究科教授は、事故当時まで独立行政法人原子力安全基盤機構(JNES)(7) のホームページに「私にまかせてください」というキャッチフレーズで登場していた(今、ホームページ画面が変わり関村直人氏の写真はない)。
独立行政法人 原子力安全基盤機構(以後、JNESと呼ぶ)の理事長の曽我部捷洋(そがべかつひろ)氏は旧通商産業省(通産省)及び科学技術省原子力安全局の出身者で、財団法人原子力発電技術機構の参事を歴任してきた人である。6人の役員のうち3名が旧通産省の出身者で他の1名も官庁出身、前大学教員1名、日本航空(殆ど官製企業と謂える)から1名で構成されている。見方を変えれば、JNESは政府官僚経験者が作る原子力安全を謳い文句にした天下り組織である。(7)
関村氏は、原発事故が発覚した当初、「そう重大な問題はない」とか「あまり心配する必要はない」と言った内容の発言を続けていた。その発言に多くの人々から批判が起こった。関村氏の発言では、現在の重大事故が発生する可能性は極めて低いことになっていたはずである。
専門家(東京大学の教授)の発言であり、しかもNHKのニュース番組である。その場で日本の最高権威が「多分、大丈夫だろう」と言い続けてきた結果の大災害である。民放では、原発建設に批判的であった専門家をNPO原子力資料情報室(CNIC)(8)や京都大学原子炉実験所(大阪府泉南郡熊取町)(9)から招待し、発言を求めていた。
事故が報道されたすぐ後、3月15日の原子力資料情報室(CNIC)の専門家の発言が非常に印象的だった。つまり、東電は「緊急炉心冷却装置」が機能しなくなったと判断したすぐ後に、重大な二次災害を防ぐために躊躇せずすぐそこにある海水を冷却用水として使うべきである。しかし、それを何故しないかと言うと、もし海水を入れるなら、その原子炉は殆ど二度と使えない状態になるからであるという内容の発言であった。
実際、東電の事故防止対策の判断が遅かったのは、そのためであり、政府から厳しい指摘を受けて、ようやく、東電は海水を冷却水として使用し始めた。その時は、もう手遅れであった。東電のこの体質が変わらない以上、今後も、同じ失敗を繰り返すだろう。それならば、政府は独自に原子力安全の専門家を置き素早い対策を採らなければならない。
東電の危機管理の遅さ、それから予測される重大事故の可能性をJNESに関係し、原子力安全の専門家として東京大学で教鞭に立つ関村氏は知らなかったのだろうか。彼も東電と同じ判断に立っていたのかもしれないと批判され、悪く解釈されても仕方がないのである。
これから、関村氏に代表される専門家のNHK等公共放送での発言内容は社会的に検証される必要がある。つまり、その発言が的確でない場合、また将来の事故を予測できていない場合、専門家としての責任は、無知では済まされない場合が生じる。もし、被害を正確に指摘できない場合、引き起こされる被害を予測できない場合には、公共放送に専門家として登場した責任を問題にされても仕方がないのである。
原発擁護のための虚偽発言をしたという積極的立場なら専門家の犯罪性を指摘できるのだが、今回のように、明確に今後の事故の進展を指摘できない場合にも、専門家としての責任が付随すると思える。関村氏のNHKでの発言内容を、当時の事故状況と照らし合わせて、専門家達は検証する必要はないのだろうか。
もっと厳しい言い方をするなら、この検証作業は東京大学の他の専門家を入れて行う必要がある。もし、関村発言が的確でなく、誤解を招くような内容であったとすると、その社会的責任の一角を東京大学も負う必要はないだろうか。この考えは極端であると批判されるかも知れないが、是非とも、重大災害対策について社会が検討している最中の公共放送での専門家の発言に関しては、その専門家の発言内容のもつ社会的影響を前提にして、その内容の是非とその社会的責任について議論をして欲しいものである。もし、この議論すらないのであれば、この国では、教育と研究機関である大学の社会的役割やその結果への責任は問われないことになるだろう。
こうした公共的立場に立ち、世論に大きな影響を与える専門家と報道機関が、今回の原発事故の初動段階でどのような報道と発言をしたかを徹底的に検証しなければ、今後、同じことが繰り返され、重大事故を未然に防ぐことは出来ないだろう。
国際化する災害被害と国際災害協力体制
国際化社会での災害救助体制の意味
今回の東日本大震災は、地震と津波による未曾有の被害のみでなく、重大な二次災害・東電福島第一原発事故の被害が加わった。この災害は、将来、日本や世界の災害史に残るだろう。否、未来社会にこの災害記録を残さなければならない。
今回の災害救助のために、世界から支援が集まっている。外務省のホームページによると3月23日までに130カ国・地域及び33の国際機関からの支援の申し入れがあり、18の国と地域から緊急救援隊、国連災害評価調査チーム及び国際原子力機関(IAEA)専門チームが来ている。(10)
今回の大災害を通じて、我々は国際災害救助活動を相互に受け入れることは、国際平和活動に繋がるとことを学んだ。反日運動を書きたてた中国のメディアは尖閣諸島の領有地問題で激しく日本を攻撃し続けていた。そのメディアも今回の震災に対して、哀悼の意を表し、震災支援の報道を行った。日本と国交を持たない国も赤十字を通じて、救援活動を申し出てきたようである。
海外から災害救助隊が送られ、被害国での救援活動を行うことを可能にしている背景に国際化した現代社会がある。日本の社会が災害で機能しなくなることによって、例えば韓国のIT関係企業が必要とするある部品の20%の品不足が生じることになるという。また、原発事故などは、近隣の国も大きな二次災害を受ける。そして放射能汚染は世界に拡散する。特に、アメリカにとって日本での原発事故は、海流や偏西風の流れを考えると、放置できない。アメリカが東電福島第一原発事故による放射能汚染の影響を受けるのは避けがたいし、時間の問題となる。
つまり、現代社会の重大災害では、国際化した経済活動による自国産業への他国災害からのダメージ、他国の事故によって生じる汚染物質の地球規模の拡散と自国の環境汚染、農業や漁業への打撃等々が生じる。従って、今回の東日本大震災・東電福島第一原発事故も必然的に世界の国々が関心を持ち、自国経済の立場から、日本の災害被害を小さく抑えることの意味を理解している。
東日本大災害への支援を申し出た国々は、以前、日本の災害救助隊のお世話になったという事実はあるものの、同時に、もう一つの意味、つまり変化する社会、つまり国際化社会での巨大災害救援体制の意味を理解しておく必要がある。
日米同盟を活かした災害救援活動の展開
つまり、これから21世紀の国際化の進む社会では、災害救助活動も国際化してゆく。海外で災害が生じれば、多くの国々、もしくは国際機関が救助隊を派遣する制度が作られるだろう。そのことによって、発展途上国での災害救助は画期的に進歩する可能性がある。
こうした国際社会の流れに対して、今回の東日本大震災、取り分け二次災害・東電福島第一原発事故に対して、国際社会から厳しい指摘があった。つまり、原発事故に対する日本政府の対応が遅いこと、情報公開が不十分であること等々の批判である。
国際社会に対する震災情報、取り分け原発事故の情報公開は政府外務省の責任で果たす作業である。誠実な対応に欠けているのではないかと批判されている。特に、同盟国アメリカの原発事故によって発生する放射能汚染に対する日本政府の対応への指摘を十分に聴き、出来ればアメリカ政府の災害担当専門官の派遣を要請し、日米共同で事故対策を検討し、解決に向けた動きをする必要はないだろうか。
日米同盟の意味は、国の存亡に関わる重大災害時にも発揮されるべきであると理解されても不思議ではないし、寧ろ、積極的に日米同盟を活かした、災害救援活動を展開すべきではないだろうか。米国の強大な軍事的機動力と技術力の援助を受けて、東電福島第一原発事故対策を急ぐことで、世界的な環境汚染の危機に直面している現状を一刻も早く打開しなければならない。
これは、世界に対して責任ある国家としての義務である。そのために政府は早急に日米同盟に基づく両国間の協力体制を日本の危機管理対策の展開のために活用する必要がある。
21世紀社会の国際災害救援活動形成のために、この災害に立ち向かおう
この東日本大震災の救援活動で経験した国際社会での災害救助の協力体制は、今後、検証され、そして21世紀社会での危機管理のあり方に活かされるだろう。何故なら、巨大科学技術文明社会での危機管理は一国の力量では乗り越えられない危険な事態を引き起こす可能性を秘めている。
今回の大震災はその意味で、大きな教訓を世界に残した。
現在進行形の東日本大震災救援活動と東電福島第一原発事故対策活動の中で、国際社会での災害救援体制のあり方を模索し、実験し、そしてその結果を検証し、未来の国際社会のために、最も現実的で有効な対策に必要な貴重な経験値を集めよう。
参考資料
(1)日本経済新聞 2011年3月22日 朝刊14面 「未曾有の災害 立ち向かう」
(2)三石博行 「阪神大震災で問われた情報文化の原点」 in 『第7回情報文化学会全国大会講演予稿集』、東京大学、東京、pp29-36、ISSN 1341-593X
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
(3)三石博行 「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
(4)「地震の年表」 Wikipedia 2011年3月23日
(5)「福島第一原子力発電所」 Wikipedia 2011年3月23日
(6)平井憲夫 「原発がどんなものか知ってほしい」(原発被曝労働者救済センター)
http://www.iam-t.jp/HIRAI/index.html#about
(7)独立行政法人 原子力安全基盤機構 JNES
http://www.jnes.go.jp/tokushu/keinen/businessman/03.html
(8)原子力資料情報室(CNIC)
http://www.cnic.jp/
(9)京都大学原子炉実験所
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/
(10)外務省 「東北地方太平洋沖地震」平成23年3月23日
http://www.mofa.go.jp/mofaj/saigai/index.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
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修正(誤字) 2011年3月28日
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三石博行
災害に強い社会を目指す
国民参画の救援体制
今回の東日本大震災は、地震と津波による未曾有の被害をもたらした。犠牲者と行方不明者数を合わせて2万人を越え、31万人が避難生活をしている。また全壊した建物は警察庁の発表によると14697戸、半壊したものは4901戸、部分的破損を含めると12万戸以上の家屋への被害が出た。(1)
懸命の救援活動が続く中で、まだ社会インフラが麻痺し続けている。生活必需品の不足は深刻である。阪神淡路大震災の教訓から市民からの支援物資を断り続けているが、その判断は正しいのだろうか。阪神淡路大震災は都市圏に囲まれた地域での震災であった。しかも津波の被害もなかった。今回の場合は、津波の被害が大きく、しかも非常に広域、阪神淡路大震災の5倍に及ぶ広域災害である。その罹災者も異なり農業や漁業を営む人々が多く含まれている。
東京を中心とする都市圏から市民が提供する生活必需品が多く集まるだろう。その中には不要なものがあるから、予め救援物資の提供を断っているらしい。それなら、必要な救援物資を提示し、それを最寄の区役所や市役所に届けてもらい、さらにその地域の市民に呼びかけて救援物資を送るための活動ボランティアを呼びかけたらいいのではないか。昼間なら高齢者、夕方からは勤めから帰ってきた人々が生活の場所から、ボランティア活動に参加できる。
例えば、阪神淡路大震災で大阪府箕面市の市民が罹災者救援ボランティア情報紙「WANTED」を発行し、箕面市民の「おにぎり作り」や「洗濯」ボランティアを組織し、神戸市長田区の罹災者に届けた。この活動は、すでに忘れ去れられようとしている。(2)しかし、大震災に立ち向かう市民の力を集めることで、市民の独自の運動は、豊かな想像力(生活者であるので可能な)と行動力を持つ。
行政はその市民力(国民の力)を活用し、箕面市が行ったように、市民に活動の場を提供することによって、罹災地に送ることができるように分類整理することも出来る。こうした事態では、行政組織の救援体制だけでなく、広く市民参加を呼びかけ市民による救援体制を作るべきではないだろうか。市民参画の災害危機管理に関しては後に述べる。(3)
罹災現場のニーズに合わせた救援策
今回の大震災はこれまでに経験したことのない色々な課題を投げかけている。例えば、災害時に必要な救援物資は大まかに想像できるし、過去の経験から予測できる。今回の場合は1995年の阪神淡路大震災や2007年の新潟県中越沖地震災害が参考になっている。しかし、今までの災害と異なる状況にあることを前提にして、つまり現実の状況とニーズに即した救援策を展開する必要がある。
例えば、今回のような深刻なガソリンの不足も阪神大震災では起こらなかった。その理由は、多くの製油所が壊滅的打撃を受けたというだけでなく、今回の震災が青森県から千葉県に渡る広域災害であったこともその一つである。
救援物資を送るためには、自衛隊や警察機動部隊等による補給路の確保、そして民間運送企業の協力による運搬体制の確立である。しかし、ガソリンがなければその両方に影響が出る。政府は、ガソリン確保のための緊急対策を取った。製油や運搬企業への協力体制を政府指導で作ることで、その成果が3月22日から見え始めてきている。
国の力を一つにして取り組む
これほどにも大きな災害に対しては、国を挙げて取り組まなければ人命の救助、二次災害防止を食い止めることは不可能である。今回の東日本大震災(東北関東大震災)は、戦時の災害に次ぐ近代日本が始まってから二回目の大災害である。国家がそのためにあらゆる対策を行う必要がある。
自衛隊の出動も一日目に8千人、そして二日目に2万人と5万に増員され、3日目には10万人体制となった。何故はじめから10万人、いや、現勢力26万人の自衛隊員の殆どでないのかという批判もある。しかし、日本の自衛隊の構成は実働部隊の割合が事務系や将校系に比べて低い。実際の国の防衛活動(災害時のみでなく)こうした自衛隊自体の問題も今回明らかになったのではないだろうか。いずれにしても、国が所有する防衛力(自衛隊)や治安維持体制(警察)を災害救助に敏速で有効に活用しなければならない。
さらに、緊急時では超党派での政治体制が必要である。勿論、議会制民主主義を無視することは憲法違反であるし、災害を理由に国会での話し合いを中止することは民主主義社会のルールを破壊する危険な行為である。しかし、超党派で震災への対応、つまり東日本大震災救援対策本部(委員会)を超党派で形成し、他の政党の有能な議員を対策本部のリーダーとして起用することが必要である。
今回、管直人総理大臣は自由民主党総裁の谷垣氏に入閣を要請した。3月19日、残念ながら谷垣氏は断わった。しかし、管総理の姿勢は評価できる。そしてその姿勢を国民に示したことがもっと大きな意味を持つことになるのである。
今後事態が進む場合には、もう一度、自民党は、重大災害時における超党派的団結を検討してもよいのではないだろうか。そして、若い自民党の議員や政治家が、国家の危機を救うためにより積極的な立場に立つ機会を与えるべきではないだろうか。
すべての国の力、官僚組織、企業、公共団体、シンクタンク、大学、学術等団体、自治体、NGO、ボランティア、市民運動、自治会、サークル、家族等々、ありとあらゆる共同体、集団すべての国民の力を合わせ、この危機に立ち向かわなければならないのである。
常に失敗から学ぶ姿勢を持つ
甘い予測での甘い安全管理
今回の東日本大震災(東北関東大震災)は、千年に一回の確率で生じる災害であると報じられている。東電福島第一原発はマグニチュード(M)8以上の地震は来ないことを想定して建てられたらしい。今日(2011年3月23日)のTBSの番組「みのもんた朝ズバッ」で取材に応じた設計者の説明である。
世界の地震の歴史を紐解けば、20世紀に起こったM8以上の地震は、南北アメリカ大陸だけで、12件以上もあり、1960年5月22日のチリ地震はM9.5で、日本でも津波の被害が起きた。(4)
日本でも、1911年喜界島地震(M8.0)、1918年千島列島得撫島(うるっぷとう)地震(M8)、1933年昭和三陸地震(M8.1)、1946年南海地震(M8.0)、1950年十勝沖地震(M8.2)、1959年 択捉島付近地震(M8.1)、1963年択捉島沖地震(M8.1)、1994年北海道東方沖地震(M8.2)と8回もM 8を越える地震があった。(4)
東電福島第一原発は1971年3月に運転が始まる。その建設は1960年から調査が始まり、1966年に原子炉設置許可申請を出し、同年に認められている。(5)つまり、東電福島第一原発が設計された1966年までに20世紀始めから日本では7回もM8を越える地震を経験しているのである。
従って、今朝のTBSの番組で東電福島第一原発設計者がM8以上の地震は来ないと仮定して設計したという発言自体が信じられない内容であることに気付くだろう。
市民からの批判を恐れる企業は、つねに甘い予測を立てる。それは経営陣が危機や災害の予測を立てることによって、世間の批判を受けることを恐れるからである。原発は建設当時から、その危険性を専門家や市民によって指摘され続けてきた。その意味で、原発事故が発生することを建設を推進した国や電力会社が危険性を述べることはタブーに近い状態にあった。
原発は安全ですと電力会社のコマーシャルで毎日のように宣伝してきた。何故なら、これからも原発建設を進めなければならないからであった。しかし、今回も、東電の甘い事故発生の予測が二次災害を拡大する原因となった。初期段階で取るべき緊急対策、海水の投入や外部電力の使用は、水素爆発が起こった後にようやく取られる結果となった。
この姿勢は、東電がこれまで、原発事故への甘い予測をし続けてきたことと同じである。この同じ失敗を繰り返す「企業体質」を変えなければならない。それは東電の不利な情報隠し、小さな事故隠しの体質である。この体質は、他の電力会社も同じように持っている。その意味で、今後、他の電力会社の原子力発電所に事故が起こらないという保障は何もない。
そして、現在も、放射能汚染に対して、「それほど健康障害を起す値ではない」という曖昧な発言が繰り返されている。殆どの国民が被曝線量の計算の仕方を知らない中で、被曝量として使われているシーベルトという単位、その一時間での被曝量と被曝量の違いも明確に説明されていない。確かに1時間の被曝量は少ないかもしれないが、しかし、その現場にいる時間は何時間、何日なのか。そうだとすると一時間の被曝量で説明するのは不十分ではないかという発言や批判がインターネットで記載されはじめている。
甘い災害予測、甘い危機感、甘い被害予測、これらのすべてによって、これからも被害が拡大し続けることは間違いないだろう。
また、そして、今、原発の致命的な事故を防ぐために東電の職員、消防レスキュー隊、自衛隊、警察機動隊、民間企業の職員、報道関係者が放射能被曝を覚悟で働いている。それらの人々に今後起こる放射能被曝障害(労災)に関する情報も殆どない。何故なら、これまで原発で働いてきた人々の被曝被害(労働災害)に関する報道がなかったからではないだろうか(6)。
甘い責任追及から生じる危機管理
今回の東電福島第一原発事故の直接の原因は東日本大震災(東北関東大震災)による津波である。今回の未曾有の津波による被害は、確かに東電にも予測できなかっただろう。地震による停電を補助するためのジーゼル発電機が津波で故障したと言うことは、東電は二次災害対策を持っていなかったことを意味する。つまり、停電対策として非常用電源(ジーゼル発電装置)のみが東電の取っていた危機管理であった。非常用電源が機能しなくなる状況は全く想定していなかったのである。
緊急時に炉心を冷やす「緊急炉心冷却装置」が機能しなくなることで、さらに重大な原発事故が引き起されることを想定するなら、二次災害防止対策、つまり予備電源を外部から引いてくるという一番効果的な対策、さらにその二次災害防止対策が機能しない場合の三次災害防止対策、例えば発電機能を持つ緊急車両等々と、何重にも危機管理対策を取ることが必要であった。しかし、その判断がなかったのは、東電が原発事故補償へのコスト計算を間違ったとしか言いようがないのである。
広域放射能汚染による、農業や漁業への被害、居住地を失う市民への損害賠償、機能不全となる市政や自治体への損害補償等々、その被害額は国家予算の一部に相当するだろう。その意味で、東電は間違いなく倒産寸前の経営状態となるだろう。すでに東電は1兆円の資金融資を銀行に要請している。しかし、その金額で今後の東電の復旧と周辺の社会に与えた被害の補償が出来るとは思えない。
とは謂え、関東一帯の電力供給を担う事業である東京電力株式会社を国は潰す訳にはゆかない。そこで、国は何らかの財政支援を行うに間違いないだろう。国はバブル経済が破綻した時に、都市銀行の救済をした。その時と同じく今回も東電を救済するだろう。その国の姿勢は、どこかですでに東電の側に期待されている。それ故に、その甘い期待の上に、第二の福島第一原発事故は東電だけでなく、他の電力会社でも起こるに違いない。
危機管理体制・報道機関での専門家の発言責任
今回の東電福島第一原発事故が表面化して、報道は専門家を呼び、原発事故の説明を行った。NHKで原発事故に関する説明を行った関村直人東京大学大学院工学系研究科教授は、事故当時まで独立行政法人原子力安全基盤機構(JNES)(7) のホームページに「私にまかせてください」というキャッチフレーズで登場していた(今、ホームページ画面が変わり関村直人氏の写真はない)。
独立行政法人 原子力安全基盤機構(以後、JNESと呼ぶ)の理事長の曽我部捷洋(そがべかつひろ)氏は旧通商産業省(通産省)及び科学技術省原子力安全局の出身者で、財団法人原子力発電技術機構の参事を歴任してきた人である。6人の役員のうち3名が旧通産省の出身者で他の1名も官庁出身、前大学教員1名、日本航空(殆ど官製企業と謂える)から1名で構成されている。見方を変えれば、JNESは政府官僚経験者が作る原子力安全を謳い文句にした天下り組織である。(7)
関村氏は、原発事故が発覚した当初、「そう重大な問題はない」とか「あまり心配する必要はない」と言った内容の発言を続けていた。その発言に多くの人々から批判が起こった。関村氏の発言では、現在の重大事故が発生する可能性は極めて低いことになっていたはずである。
専門家(東京大学の教授)の発言であり、しかもNHKのニュース番組である。その場で日本の最高権威が「多分、大丈夫だろう」と言い続けてきた結果の大災害である。民放では、原発建設に批判的であった専門家をNPO原子力資料情報室(CNIC)(8)や京都大学原子炉実験所(大阪府泉南郡熊取町)(9)から招待し、発言を求めていた。
事故が報道されたすぐ後、3月15日の原子力資料情報室(CNIC)の専門家の発言が非常に印象的だった。つまり、東電は「緊急炉心冷却装置」が機能しなくなったと判断したすぐ後に、重大な二次災害を防ぐために躊躇せずすぐそこにある海水を冷却用水として使うべきである。しかし、それを何故しないかと言うと、もし海水を入れるなら、その原子炉は殆ど二度と使えない状態になるからであるという内容の発言であった。
実際、東電の事故防止対策の判断が遅かったのは、そのためであり、政府から厳しい指摘を受けて、ようやく、東電は海水を冷却水として使用し始めた。その時は、もう手遅れであった。東電のこの体質が変わらない以上、今後も、同じ失敗を繰り返すだろう。それならば、政府は独自に原子力安全の専門家を置き素早い対策を採らなければならない。
東電の危機管理の遅さ、それから予測される重大事故の可能性をJNESに関係し、原子力安全の専門家として東京大学で教鞭に立つ関村氏は知らなかったのだろうか。彼も東電と同じ判断に立っていたのかもしれないと批判され、悪く解釈されても仕方がないのである。
これから、関村氏に代表される専門家のNHK等公共放送での発言内容は社会的に検証される必要がある。つまり、その発言が的確でない場合、また将来の事故を予測できていない場合、専門家としての責任は、無知では済まされない場合が生じる。もし、被害を正確に指摘できない場合、引き起こされる被害を予測できない場合には、公共放送に専門家として登場した責任を問題にされても仕方がないのである。
原発擁護のための虚偽発言をしたという積極的立場なら専門家の犯罪性を指摘できるのだが、今回のように、明確に今後の事故の進展を指摘できない場合にも、専門家としての責任が付随すると思える。関村氏のNHKでの発言内容を、当時の事故状況と照らし合わせて、専門家達は検証する必要はないのだろうか。
もっと厳しい言い方をするなら、この検証作業は東京大学の他の専門家を入れて行う必要がある。もし、関村発言が的確でなく、誤解を招くような内容であったとすると、その社会的責任の一角を東京大学も負う必要はないだろうか。この考えは極端であると批判されるかも知れないが、是非とも、重大災害対策について社会が検討している最中の公共放送での専門家の発言に関しては、その専門家の発言内容のもつ社会的影響を前提にして、その内容の是非とその社会的責任について議論をして欲しいものである。もし、この議論すらないのであれば、この国では、教育と研究機関である大学の社会的役割やその結果への責任は問われないことになるだろう。
こうした公共的立場に立ち、世論に大きな影響を与える専門家と報道機関が、今回の原発事故の初動段階でどのような報道と発言をしたかを徹底的に検証しなければ、今後、同じことが繰り返され、重大事故を未然に防ぐことは出来ないだろう。
国際化する災害被害と国際災害協力体制
国際化社会での災害救助体制の意味
今回の東日本大震災は、地震と津波による未曾有の被害のみでなく、重大な二次災害・東電福島第一原発事故の被害が加わった。この災害は、将来、日本や世界の災害史に残るだろう。否、未来社会にこの災害記録を残さなければならない。
今回の災害救助のために、世界から支援が集まっている。外務省のホームページによると3月23日までに130カ国・地域及び33の国際機関からの支援の申し入れがあり、18の国と地域から緊急救援隊、国連災害評価調査チーム及び国際原子力機関(IAEA)専門チームが来ている。(10)
今回の大災害を通じて、我々は国際災害救助活動を相互に受け入れることは、国際平和活動に繋がるとことを学んだ。反日運動を書きたてた中国のメディアは尖閣諸島の領有地問題で激しく日本を攻撃し続けていた。そのメディアも今回の震災に対して、哀悼の意を表し、震災支援の報道を行った。日本と国交を持たない国も赤十字を通じて、救援活動を申し出てきたようである。
海外から災害救助隊が送られ、被害国での救援活動を行うことを可能にしている背景に国際化した現代社会がある。日本の社会が災害で機能しなくなることによって、例えば韓国のIT関係企業が必要とするある部品の20%の品不足が生じることになるという。また、原発事故などは、近隣の国も大きな二次災害を受ける。そして放射能汚染は世界に拡散する。特に、アメリカにとって日本での原発事故は、海流や偏西風の流れを考えると、放置できない。アメリカが東電福島第一原発事故による放射能汚染の影響を受けるのは避けがたいし、時間の問題となる。
つまり、現代社会の重大災害では、国際化した経済活動による自国産業への他国災害からのダメージ、他国の事故によって生じる汚染物質の地球規模の拡散と自国の環境汚染、農業や漁業への打撃等々が生じる。従って、今回の東日本大震災・東電福島第一原発事故も必然的に世界の国々が関心を持ち、自国経済の立場から、日本の災害被害を小さく抑えることの意味を理解している。
東日本大災害への支援を申し出た国々は、以前、日本の災害救助隊のお世話になったという事実はあるものの、同時に、もう一つの意味、つまり変化する社会、つまり国際化社会での巨大災害救援体制の意味を理解しておく必要がある。
日米同盟を活かした災害救援活動の展開
つまり、これから21世紀の国際化の進む社会では、災害救助活動も国際化してゆく。海外で災害が生じれば、多くの国々、もしくは国際機関が救助隊を派遣する制度が作られるだろう。そのことによって、発展途上国での災害救助は画期的に進歩する可能性がある。
こうした国際社会の流れに対して、今回の東日本大震災、取り分け二次災害・東電福島第一原発事故に対して、国際社会から厳しい指摘があった。つまり、原発事故に対する日本政府の対応が遅いこと、情報公開が不十分であること等々の批判である。
国際社会に対する震災情報、取り分け原発事故の情報公開は政府外務省の責任で果たす作業である。誠実な対応に欠けているのではないかと批判されている。特に、同盟国アメリカの原発事故によって発生する放射能汚染に対する日本政府の対応への指摘を十分に聴き、出来ればアメリカ政府の災害担当専門官の派遣を要請し、日米共同で事故対策を検討し、解決に向けた動きをする必要はないだろうか。
日米同盟の意味は、国の存亡に関わる重大災害時にも発揮されるべきであると理解されても不思議ではないし、寧ろ、積極的に日米同盟を活かした、災害救援活動を展開すべきではないだろうか。米国の強大な軍事的機動力と技術力の援助を受けて、東電福島第一原発事故対策を急ぐことで、世界的な環境汚染の危機に直面している現状を一刻も早く打開しなければならない。
これは、世界に対して責任ある国家としての義務である。そのために政府は早急に日米同盟に基づく両国間の協力体制を日本の危機管理対策の展開のために活用する必要がある。
21世紀社会の国際災害救援活動形成のために、この災害に立ち向かおう
この東日本大震災の救援活動で経験した国際社会での災害救助の協力体制は、今後、検証され、そして21世紀社会での危機管理のあり方に活かされるだろう。何故なら、巨大科学技術文明社会での危機管理は一国の力量では乗り越えられない危険な事態を引き起こす可能性を秘めている。
今回の大震災はその意味で、大きな教訓を世界に残した。
現在進行形の東日本大震災救援活動と東電福島第一原発事故対策活動の中で、国際社会での災害救援体制のあり方を模索し、実験し、そしてその結果を検証し、未来の国際社会のために、最も現実的で有効な対策に必要な貴重な経験値を集めよう。
参考資料
(1)日本経済新聞 2011年3月22日 朝刊14面 「未曾有の災害 立ち向かう」
(2)三石博行 「阪神大震災で問われた情報文化の原点」 in 『第7回情報文化学会全国大会講演予稿集』、東京大学、東京、pp29-36、ISSN 1341-593X
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
(3)三石博行 「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
(4)「地震の年表」 Wikipedia 2011年3月23日
(5)「福島第一原子力発電所」 Wikipedia 2011年3月23日
(6)平井憲夫 「原発がどんなものか知ってほしい」(原発被曝労働者救済センター)
http://www.iam-t.jp/HIRAI/index.html#about
(7)独立行政法人 原子力安全基盤機構 JNES
http://www.jnes.go.jp/tokushu/keinen/businessman/03.html
(8)原子力資料情報室(CNIC)
http://www.cnic.jp/
(9)京都大学原子炉実験所
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/
(10)外務省 「東北地方太平洋沖地震」平成23年3月23日
http://www.mofa.go.jp/mofaj/saigai/index.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
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修正(誤字) 2011年3月28日
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槇和男氏からのメール
深刻な地中放射能汚染問題
「どうもお見舞いありがとうございます。日々状況が悪化していきますのでなかなか返事を書く気ににもなりませんでした。Kの鹿島、栃木、すみだ はかなり被害があったものと思われますが、詳しいことは判りません。怪我人などは聞いていません。S寮は立ち入り禁止になっているようです。
この海域で紀元600年頃にとてつもなく大きな地震があったらしい、というのは最近の調査の結果浮かび上がってきたところだったようですが、その推定規模があまりに大きいので、まともに対策を取るにも大変なことであるし、どうしたものか議論していたようです。それが1400年後に再現したということのようです。
死者と行方不明で16000人位になるものと思われます。戦後最大です。 今日になって、やっと被害地への輸送路が整備されてきましたから、避難している人たちへの支援が本格化するものと思われます。震災に乗じた悪事これといってなく、パニックにもならず、整然と耐えている様子は、確かに海外からみると不思議に見えるかもしれません。日本はまだそれだけ豊かなのでしょう。
さて、問題は原子炉ですが、東京電力の危機管理能力の無さには驚きます。目前の現象を何とかしようとするばかりで、対策が及ばかった場合を考えていないように思えます。原子炉の冷却のための海水注入にしても、通産省に命令されるまでやろうとしなかったし、津波で破壊された予備電源を外部から引いてくるという一番効果的な策を今日になって始めています。
何かが起きても内部で解決してから外部に発表する、という習性が抜けていないようで、早くから外部の知恵や力を借りるべきだったと思います。もたもたしている間に燃料を冷やすべき水は無くなって、既に溶融し始めていて、現場の放射能レベルが上って、作業が困難になってしまいました。
こういうときに無人ヘリコプターなど使えないのだろうかと思います。宇宙まで行った制御技術はどうなったのでしょうか?
地震発生直後に制御棒が入って核分裂は止まっていますから、軽水炉では炉心が融けても核分裂には至らないそうです。発生する水素以外は燃えるものがありませんから、黒鉛炉のチェルノブイリのような惨事にはなりませんが、スリーマイル・アイランドのようにはなるでしょう。
今となっては、融けだした核燃料や放射性物質を飛散させないようにすることが一番重要です。幸い風は北西で、空気中の飛散物は海の方に流れていきます。この際多少の海の汚染は陸地の汚染よりはましと考えざるを得ないでしょう。
問題は、地中に入っていくもので、これを何とか最小限にしたいものです。入っても地中拡散を防ぐべきでしょう。137Csは水溶性で半減期が30年ですから、この地域は今世紀中立ち入り禁止となるかもしれません。
パニックにもならず、とは書きましたが、水や缶詰、米、トイレットペーパーなど、ここ京都でもかなり売り切れ始めています。半径20km以内は退避、30kmまでは屋内退避ということになっていますが、現場を離れれば現状では放射能レベルは微々たるものですし、政府もそう訴えては居ますが、トラックがなかなか入ろうとしなくて、屋内退避域の人たちは困っているようです。(もっとも米軍は80km圏内には入らないということですが。)
それで自主的に避難する人が多いです。KのOBの一人がその辺に住んでいて、一家5人で宇都宮に避難してきました。当面住むところがないので、私の家にしばらく入ってもらう事にしました。
原発の事で株価が下がったのは当然としても、円高になったのは意外でした。復旧のために日本の企業が海外資産を円に替えるだろうという予想だそうです。資本主義というのはどんなときでも経済合理性でしか動かないようですね。では、お元気で」
槇和男 3月17日
「どうもお見舞いありがとうございます。日々状況が悪化していきますのでなかなか返事を書く気ににもなりませんでした。Kの鹿島、栃木、すみだ はかなり被害があったものと思われますが、詳しいことは判りません。怪我人などは聞いていません。S寮は立ち入り禁止になっているようです。
この海域で紀元600年頃にとてつもなく大きな地震があったらしい、というのは最近の調査の結果浮かび上がってきたところだったようですが、その推定規模があまりに大きいので、まともに対策を取るにも大変なことであるし、どうしたものか議論していたようです。それが1400年後に再現したということのようです。
死者と行方不明で16000人位になるものと思われます。戦後最大です。 今日になって、やっと被害地への輸送路が整備されてきましたから、避難している人たちへの支援が本格化するものと思われます。震災に乗じた悪事これといってなく、パニックにもならず、整然と耐えている様子は、確かに海外からみると不思議に見えるかもしれません。日本はまだそれだけ豊かなのでしょう。
さて、問題は原子炉ですが、東京電力の危機管理能力の無さには驚きます。目前の現象を何とかしようとするばかりで、対策が及ばかった場合を考えていないように思えます。原子炉の冷却のための海水注入にしても、通産省に命令されるまでやろうとしなかったし、津波で破壊された予備電源を外部から引いてくるという一番効果的な策を今日になって始めています。
何かが起きても内部で解決してから外部に発表する、という習性が抜けていないようで、早くから外部の知恵や力を借りるべきだったと思います。もたもたしている間に燃料を冷やすべき水は無くなって、既に溶融し始めていて、現場の放射能レベルが上って、作業が困難になってしまいました。
こういうときに無人ヘリコプターなど使えないのだろうかと思います。宇宙まで行った制御技術はどうなったのでしょうか?
地震発生直後に制御棒が入って核分裂は止まっていますから、軽水炉では炉心が融けても核分裂には至らないそうです。発生する水素以外は燃えるものがありませんから、黒鉛炉のチェルノブイリのような惨事にはなりませんが、スリーマイル・アイランドのようにはなるでしょう。
今となっては、融けだした核燃料や放射性物質を飛散させないようにすることが一番重要です。幸い風は北西で、空気中の飛散物は海の方に流れていきます。この際多少の海の汚染は陸地の汚染よりはましと考えざるを得ないでしょう。
問題は、地中に入っていくもので、これを何とか最小限にしたいものです。入っても地中拡散を防ぐべきでしょう。137Csは水溶性で半減期が30年ですから、この地域は今世紀中立ち入り禁止となるかもしれません。
パニックにもならず、とは書きましたが、水や缶詰、米、トイレットペーパーなど、ここ京都でもかなり売り切れ始めています。半径20km以内は退避、30kmまでは屋内退避ということになっていますが、現場を離れれば現状では放射能レベルは微々たるものですし、政府もそう訴えては居ますが、トラックがなかなか入ろうとしなくて、屋内退避域の人たちは困っているようです。(もっとも米軍は80km圏内には入らないということですが。)
それで自主的に避難する人が多いです。KのOBの一人がその辺に住んでいて、一家5人で宇都宮に避難してきました。当面住むところがないので、私の家にしばらく入ってもらう事にしました。
原発の事で株価が下がったのは当然としても、円高になったのは意外でした。復旧のために日本の企業が海外資産を円に替えるだろうという予想だそうです。資本主義というのはどんなときでも経済合理性でしか動かないようですね。では、お元気で」
槇和男 3月17日
2011年3月23日水曜日
ブログ文書集「東日本大震災から復旧・復興、災害に強い社会建設を目指して」
「東日本大震災の復旧・復興、 災害に強い社会建設を目指して」の目次
三石博行
はじめに
1、東日本大震災犠牲者の冥福を祈る ‐自分なりの支援を始めよう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_14.html
2、政府は、原発大災害に向けて緊急体制を採るべきである
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_28.html
3、災害救援活動を通じて「現代日本社会の病理構造」の解明とその治療を行う
(未完成)
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
2、現代社会での安全管理
2-1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2-2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
2-3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
3、現代社会での危機管理
3-1、危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
3-2、企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3-3、災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
むすび 災害に強い国をつくる
4-1、国家の危機管理としての地方分権制度の構築
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_29.html
4-2、社会的資源の有効利用システム構築とネットワーク社会の形成
A、社会資本の基底を維持する機能(文化や生活)の経済的評価を行う
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html
B、災害救援のための広域災害ネットワーク形成の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post.html
C、災害時の危機管理を前提としたネットワーク型の社会形成
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_20.html
4-3、東日本大震災復興構想会議への提案
A、国民運動としての東日本大震災復興構想会議の構築を
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_2631.html
B、震災・津波被害からの復興と原発事故対策を分けて対策を立てる必要性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_5265.html
4-4、東アジア共同体としての共同災害援助機構の形成
A、危機管理の国際機構の提案
(未完成)
B、東アジア災害援助機構の提案
(未完成)
2011年3月30日 修正(文書追加)
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三石博行
はじめに
1、東日本大震災犠牲者の冥福を祈る ‐自分なりの支援を始めよう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_14.html
2、政府は、原発大災害に向けて緊急体制を採るべきである
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_28.html
3、災害救援活動を通じて「現代日本社会の病理構造」の解明とその治療を行う
(未完成)
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
2、現代社会での安全管理
2-1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2-2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
2-3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
3、現代社会での危機管理
3-1、危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
3-2、企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3-3、災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
むすび 災害に強い国をつくる
4-1、国家の危機管理としての地方分権制度の構築
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_29.html
4-2、社会的資源の有効利用システム構築とネットワーク社会の形成
A、社会資本の基底を維持する機能(文化や生活)の経済的評価を行う
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html
B、災害救援のための広域災害ネットワーク形成の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post.html
C、災害時の危機管理を前提としたネットワーク型の社会形成
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_20.html
4-3、東日本大震災復興構想会議への提案
A、国民運動としての東日本大震災復興構想会議の構築を
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_2631.html
B、震災・津波被害からの復興と原発事故対策を分けて対策を立てる必要性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_5265.html
4-4、東アジア共同体としての共同災害援助機構の形成
A、危機管理の国際機構の提案
(未完成)
B、東アジア災害援助機構の提案
(未完成)
2011年3月30日 修正(文書追加)
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2011年3月22日火曜日
災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動
現代社会での危機管理(3)
三石博行
ピースボートの役割・災害情報ボランティア活動とその伝達
1995年1月17日、阪神淡路大震災は起こった。都市直下型地震によって神戸を中心とする関西中心西部一帯の社会インフラは壊滅的打撃を受けた。震災は至る所で火災(二次災害)を引き起こし、神戸の街は火の海に化した。
しかし、近隣の街から救援活動も倒壊した建物に道を塞がれ、進まなかった。当時の政府の対応は非常に遅く、自衛隊の出動命令も出ず、アメリカの空母からの支援も断るというお粗末な対応の中、炎上する神戸の街とその中で救済を待つ人々の多くが犠牲になった。
近隣の街からそして全国から救援の消防隊や警察、市民ボランティアが続々と神戸に向かった。支援のボランティアが集まった。例えば、ピースボートはトラックに震災情報ボランティア活動に必要なありとあらゆる資材(テント、印刷機、発電機、インク、紙、食料、水、寝袋等々)を積んで神戸に駆けつけた。
幸い都市に囲まれた神戸の被災地には多くの救援物資が届いた。しかし、安否情報や必要な生活情報は不足していた。行政の機能は麻痺していた。避難所に届けられる救援物資をそれが不足している他の避難所に届けるための情報交換の体制も出来ていなかった。罹災地での生活情報の発信は大きな課題となっていた。
地震から1週間を経た1月25日に、ピースボートは「デイリーニーズ」を最も被害を受けた長田町で発行した。ピースボートの「デイリーニーズ」は1月25日から3月9日までの44日間に43回、つまり、毎日発行された。(1)
震災直後から約3ヶ月間は水道、ガス、電気、交通手段の社会インフラが復旧されていなかった。震災罹災者は生存のための生活情報、例えば安否や天気(寒さや雨天)などの災害緊急情報、衣類、食料、水、風呂、病院、トイレ、洗濯、葬式、義援金、還付金、交通手段等々の生活基本情報、住宅、教育、職業紹介、保険等々の生活条件情報を必要としていた。「ディリーニーズ」はそれらの情報を毎日記載し続け罹災者に配布し続けた。(2)
ピースボートは災害情報ボランティア活動を地元の人々に伝えていった。ピースボートは持ち込んだ印刷機等をすべて地元で生まれたボランティア活動組織に譲り、3月9日発行の「ディリーニーズ」を彼らの最後の活動にして、神戸から去っていった。
ピースボートに学んだ地元の若者達によって「これからの長田を考える会」が発足し、1995年3月12日から災害生活情報「ウィークリニーズ」を発行し始めた。彼らはピースボートの震災情報ボランティア活動に学び自分たちの街のために活動を開始した。震災罹災者の生活再建と震災からの復興を支援するための情報発行が彼らの情報ボランティア活動となった。また、情報紙の発行回数も1週間に1回ほどになった。つまり、記載される情報も、緊急性の高い生活情報から持続的な生活再建課題の情報に変化していった。(3)
人権運動から生まれたWANTED 市民の等身大のボランティア活動
震災直後、最も早く震災支援の情報紙を出したのは大阪府箕面市に拠点を置いた「WANTED」であった。このWANTEDは、当時、箕面市の萱野中央人権文化センター(箕面市が1969年に同和対策10カ年計画で建てた萱野文化会館を1994年に再建した)の「共用スペース、ひゅーまん」でボランティアや読書会を行っていた二人の女性によって、1995年1月23日に発行された。
当時、箕面市の萱野中央人権文化センター(箕面ライトピア21)(4)の「共用スペース、ひゅーまん」(箕面市人権協議会事務局の管理で運営されていた)を70団体のボランティアや市民グループが利用していた。それらのグループにそれぞれ別々に参加していた二人の女性(山本みち子氏と大橋英子氏)が中心となって、震災から2日目の1月19日に、当時釜ヶ崎におにぎりを送るボランティアの会「おにぎりの会」と共に長田区の被災地に250個のおにぎりを届けた。翌日、1月20日には箕面市の緊急車両を使って3500個のおにぎりを届けた。(5)
彼女らは箕面市の市民に震災罹災者を救援するための伝言板として「WANTED1号」を発行した。無料で市から提供されていた「共用スペース、ひゅーまん」の印刷機や複写機を活用して、「WANTED1号」を300部印刷し市民に配布(20ボランティア団体の協力で)した。「WANTED」は、瞬く間に箕面市の市民に配布され、市民からおにぎりが届いた。
また、長田区の避難所におにぎりを運んだボランティアの人から、避難所では「洗濯」に困っているという話が持ち込まれ、洗濯ボランティアを「WANTED」は募集した。多くの市民(特に主婦)が洗濯ボランティアに参加した。彼女らは罹災地にリックを背負って行けない。しかし、家で、朝、一合ほど余分にご飯を炊き、子供や夫を見送った後に、洗濯をもう一回増やし、そして洗濯物を乾かし、それをビニールに入れて、市の緊急車両が出る萱野中央人権文化センターに届けたのである。(6)
「WANTED」は、市民が生活の場から参加できる等身大の災害救援ボランティア活動を展開した。ボランティア活動への参加のハードルを日常生活レベルに下げて、多くの主婦の参加を得たことは評価できる。そして、今もう一度、「WANTED」の活動の意味を考える必要がる。
人権思想と市民参加・大災害時の危機管理体制
阪神淡路大震災で活躍したピースボートやWANTEDを担った人々も、元々災害救助ボランティア活動を目的にした組織を運営していた訳ではなかった。
ピースボートは国際平和活動を行ってきたNGOである(7)。1983年に辻元清美氏(前外務副大臣、現総理大臣補佐官)ら早稲田大学の学生数名がピースボートを設立し、吉岡達也氏を中心に現在まで運営されている。この団体は、平和・民主主義・人権と地球環境保全の立場から、船旅を通じて世界の市民と交流する運動に取り組んできた。
また、「WANTED」は、震災救援のために大阪府箕面市の二人の女性が中心となって震災直後生まれた市民グループである。彼女らに活動の場を与えたのは、箕面市人権協会である。その人権協会の母体は、部落差別反対運動を長年取り組んできた部落開放同盟運動の中で育った箕面の人権市民運動である。つまり、人権、平和や民主主義のための市民の運動の長い歴史があり、その上に(その運動の成果として)箕面市の人権運動の文化とその象徴である箕面市人権協議会である。
その人権運動を推進してきた箕面市とそれを支えた箕面市民である。それらの箕面市での人権運動(部落差別反対運動)の成果として箕面市萱野中央人権文化センター(現在の箕面ライトピア21)の「共用スペース、ひゅーまん」が「WANTED」の基盤となっている。
人権運動や平和運動を行う人々(市民)が、積極的に震災罹災者救援活動に参加することは凡そ想像できる。その意味で、ピースボートやWANTEDの人々が阪神大震災の罹災者救援活動に素早く取り組んだことは理解できる。
しかも、震災や原発事故等の広域災害に対する罹災者救援活動は、行政や電力会社が担える範囲、能力や力量を遥かに越えて、要請される課題が発生する。阪神淡路大震災以後、発生した大災害に対して市民ボランティア活動は常に罹災者救援活動に大きな役割を果たしてきた。つまり、阪神淡路大震災を経て、災害救援ボランティア活動がわが国でも定着したと謂える。
今回の東日本大震災と東電福島第一原発事故でも、多くの人々がボランティア活動を志願している。大阪市は阪神大震災の教訓を活かし、市として市民ボランティア活動を支援してきた。大阪ボランティア協会(8)は、東日本大震災へのボランティア希望者への説明会を開き、阪神大震災と異なる今回の大震災でのボランティア活動に関する注意点を説明した。
また、NPO日本ユニバーサルデザイン研究機構(9)は専門的な知識を持つ人々のボランティア活動を組織するために「日本ユニバ震災対策チーム」を3月13日に発足した(10)。
大災害に対する危機管理は、市民(国民)の力を集めて可能になる。何故なら、巨大災害の場合には危機管理対策はコスト計算を前提にした安全管理対策の延長で考えられない。そして、その場合の危機管理体制に市場経済学や公共経済学の理論で導かれる対策は通用しないのである。大災害時の広域社会の危機管理体制に必要な経済学は需要と供給のコスト計算を超えた社会経済理論を必要としているのである。
問われる新しい共同体思想・災害危機管理対策の基本
大災害への危機管理に必要なものは、共同体であり、人々のつながりである。そしてその運動を支える人権思想である。
言い換えると、自然災害をもたらす自然条件を前提にしてこれまで日本の風土が形成されてきた。それが日本型共同体であった。伝統的な日本の集落文化、村落共同体、そして家の造りから集落、田畑、山里の造り方に至るまで、伝統的に災害に耐えられる形態が選択され続けてきた。
こうした伝統文化は、日本の近代化と共に消滅しつつある。そして、同時に、震災大国日本では新しい共同体文化が必要となっている。古い封建的な社会思想から自由主義経済と個人主義を前提にしながら、震災に強い共同体社会を造る必要が生まれている。
その社会思想は、ピースボートや「WANTED」が示したように人権と生活重視の考え方や生き方ではないだろうか。
参考資料
(1)ピースボート「デイリーニーズ」N01-No43 1995.1.25 ‐1995.3.9 神戸大学人文系図書館「震災文庫」所蔵
(2)三石博行 「阪神大震災時の住民情報の分析(2) —第一期住民情報の統計分析とその特徴について—」 in 『日本災害情報学会 第2回研究発表大会 予稿論文集』、大宮ソニックス市民ホール、大宮、pp60-79
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir00h.pdf
(3)三石博行 「阪神大震災時の住民情報の分析」in 『日本災害情報学会1999年度研究発表大会』予稿論文集、東北大学、仙台、pp121-130
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99c.pdf
(4)箕面ライトピア21 (箕面市中央人権文化センター)
http://www2.city.minoh.osaka.jp/RIGHTPIA/
(5)三石博行 「阪神大震災で問われた情報文化の原点」 in 『第7回情報文化学会全国大会講演予稿集』、東京大学、東京、pp29-36、ISSN 1341-593X
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
(6)山本みち子、大橋英子発行「WANTED」No1‐No17、1995年1月23日‐1995年7月8日、神戸大学人文系図書館「震災文庫」所蔵
(7)ピースボート (国際交流NGO)
http://www.peaceboat.org/index_j.html
(8)社会福祉法人大阪ボランティア協会
http://www.osakavol.org/
(9)NPO日本ユニバーサルデザイン研究機構
http://www.npo-uniken.org/
(10)日本経済新聞 2011年3月22日 朝刊 14面 「専門ボランティア、活動」
修正(誤字、文書表現)2011年3月22日
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での危機管理
1、「危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
2、「企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3、「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
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三石博行
ピースボートの役割・災害情報ボランティア活動とその伝達
1995年1月17日、阪神淡路大震災は起こった。都市直下型地震によって神戸を中心とする関西中心西部一帯の社会インフラは壊滅的打撃を受けた。震災は至る所で火災(二次災害)を引き起こし、神戸の街は火の海に化した。
しかし、近隣の街から救援活動も倒壊した建物に道を塞がれ、進まなかった。当時の政府の対応は非常に遅く、自衛隊の出動命令も出ず、アメリカの空母からの支援も断るというお粗末な対応の中、炎上する神戸の街とその中で救済を待つ人々の多くが犠牲になった。
近隣の街からそして全国から救援の消防隊や警察、市民ボランティアが続々と神戸に向かった。支援のボランティアが集まった。例えば、ピースボートはトラックに震災情報ボランティア活動に必要なありとあらゆる資材(テント、印刷機、発電機、インク、紙、食料、水、寝袋等々)を積んで神戸に駆けつけた。
幸い都市に囲まれた神戸の被災地には多くの救援物資が届いた。しかし、安否情報や必要な生活情報は不足していた。行政の機能は麻痺していた。避難所に届けられる救援物資をそれが不足している他の避難所に届けるための情報交換の体制も出来ていなかった。罹災地での生活情報の発信は大きな課題となっていた。
地震から1週間を経た1月25日に、ピースボートは「デイリーニーズ」を最も被害を受けた長田町で発行した。ピースボートの「デイリーニーズ」は1月25日から3月9日までの44日間に43回、つまり、毎日発行された。(1)
震災直後から約3ヶ月間は水道、ガス、電気、交通手段の社会インフラが復旧されていなかった。震災罹災者は生存のための生活情報、例えば安否や天気(寒さや雨天)などの災害緊急情報、衣類、食料、水、風呂、病院、トイレ、洗濯、葬式、義援金、還付金、交通手段等々の生活基本情報、住宅、教育、職業紹介、保険等々の生活条件情報を必要としていた。「ディリーニーズ」はそれらの情報を毎日記載し続け罹災者に配布し続けた。(2)
ピースボートは災害情報ボランティア活動を地元の人々に伝えていった。ピースボートは持ち込んだ印刷機等をすべて地元で生まれたボランティア活動組織に譲り、3月9日発行の「ディリーニーズ」を彼らの最後の活動にして、神戸から去っていった。
ピースボートに学んだ地元の若者達によって「これからの長田を考える会」が発足し、1995年3月12日から災害生活情報「ウィークリニーズ」を発行し始めた。彼らはピースボートの震災情報ボランティア活動に学び自分たちの街のために活動を開始した。震災罹災者の生活再建と震災からの復興を支援するための情報発行が彼らの情報ボランティア活動となった。また、情報紙の発行回数も1週間に1回ほどになった。つまり、記載される情報も、緊急性の高い生活情報から持続的な生活再建課題の情報に変化していった。(3)
人権運動から生まれたWANTED 市民の等身大のボランティア活動
震災直後、最も早く震災支援の情報紙を出したのは大阪府箕面市に拠点を置いた「WANTED」であった。このWANTEDは、当時、箕面市の萱野中央人権文化センター(箕面市が1969年に同和対策10カ年計画で建てた萱野文化会館を1994年に再建した)の「共用スペース、ひゅーまん」でボランティアや読書会を行っていた二人の女性によって、1995年1月23日に発行された。
当時、箕面市の萱野中央人権文化センター(箕面ライトピア21)(4)の「共用スペース、ひゅーまん」(箕面市人権協議会事務局の管理で運営されていた)を70団体のボランティアや市民グループが利用していた。それらのグループにそれぞれ別々に参加していた二人の女性(山本みち子氏と大橋英子氏)が中心となって、震災から2日目の1月19日に、当時釜ヶ崎におにぎりを送るボランティアの会「おにぎりの会」と共に長田区の被災地に250個のおにぎりを届けた。翌日、1月20日には箕面市の緊急車両を使って3500個のおにぎりを届けた。(5)
彼女らは箕面市の市民に震災罹災者を救援するための伝言板として「WANTED1号」を発行した。無料で市から提供されていた「共用スペース、ひゅーまん」の印刷機や複写機を活用して、「WANTED1号」を300部印刷し市民に配布(20ボランティア団体の協力で)した。「WANTED」は、瞬く間に箕面市の市民に配布され、市民からおにぎりが届いた。
また、長田区の避難所におにぎりを運んだボランティアの人から、避難所では「洗濯」に困っているという話が持ち込まれ、洗濯ボランティアを「WANTED」は募集した。多くの市民(特に主婦)が洗濯ボランティアに参加した。彼女らは罹災地にリックを背負って行けない。しかし、家で、朝、一合ほど余分にご飯を炊き、子供や夫を見送った後に、洗濯をもう一回増やし、そして洗濯物を乾かし、それをビニールに入れて、市の緊急車両が出る萱野中央人権文化センターに届けたのである。(6)
「WANTED」は、市民が生活の場から参加できる等身大の災害救援ボランティア活動を展開した。ボランティア活動への参加のハードルを日常生活レベルに下げて、多くの主婦の参加を得たことは評価できる。そして、今もう一度、「WANTED」の活動の意味を考える必要がる。
人権思想と市民参加・大災害時の危機管理体制
阪神淡路大震災で活躍したピースボートやWANTEDを担った人々も、元々災害救助ボランティア活動を目的にした組織を運営していた訳ではなかった。
ピースボートは国際平和活動を行ってきたNGOである(7)。1983年に辻元清美氏(前外務副大臣、現総理大臣補佐官)ら早稲田大学の学生数名がピースボートを設立し、吉岡達也氏を中心に現在まで運営されている。この団体は、平和・民主主義・人権と地球環境保全の立場から、船旅を通じて世界の市民と交流する運動に取り組んできた。
また、「WANTED」は、震災救援のために大阪府箕面市の二人の女性が中心となって震災直後生まれた市民グループである。彼女らに活動の場を与えたのは、箕面市人権協会である。その人権協会の母体は、部落差別反対運動を長年取り組んできた部落開放同盟運動の中で育った箕面の人権市民運動である。つまり、人権、平和や民主主義のための市民の運動の長い歴史があり、その上に(その運動の成果として)箕面市の人権運動の文化とその象徴である箕面市人権協議会である。
その人権運動を推進してきた箕面市とそれを支えた箕面市民である。それらの箕面市での人権運動(部落差別反対運動)の成果として箕面市萱野中央人権文化センター(現在の箕面ライトピア21)の「共用スペース、ひゅーまん」が「WANTED」の基盤となっている。
人権運動や平和運動を行う人々(市民)が、積極的に震災罹災者救援活動に参加することは凡そ想像できる。その意味で、ピースボートやWANTEDの人々が阪神大震災の罹災者救援活動に素早く取り組んだことは理解できる。
しかも、震災や原発事故等の広域災害に対する罹災者救援活動は、行政や電力会社が担える範囲、能力や力量を遥かに越えて、要請される課題が発生する。阪神淡路大震災以後、発生した大災害に対して市民ボランティア活動は常に罹災者救援活動に大きな役割を果たしてきた。つまり、阪神淡路大震災を経て、災害救援ボランティア活動がわが国でも定着したと謂える。
今回の東日本大震災と東電福島第一原発事故でも、多くの人々がボランティア活動を志願している。大阪市は阪神大震災の教訓を活かし、市として市民ボランティア活動を支援してきた。大阪ボランティア協会(8)は、東日本大震災へのボランティア希望者への説明会を開き、阪神大震災と異なる今回の大震災でのボランティア活動に関する注意点を説明した。
また、NPO日本ユニバーサルデザイン研究機構(9)は専門的な知識を持つ人々のボランティア活動を組織するために「日本ユニバ震災対策チーム」を3月13日に発足した(10)。
大災害に対する危機管理は、市民(国民)の力を集めて可能になる。何故なら、巨大災害の場合には危機管理対策はコスト計算を前提にした安全管理対策の延長で考えられない。そして、その場合の危機管理体制に市場経済学や公共経済学の理論で導かれる対策は通用しないのである。大災害時の広域社会の危機管理体制に必要な経済学は需要と供給のコスト計算を超えた社会経済理論を必要としているのである。
問われる新しい共同体思想・災害危機管理対策の基本
大災害への危機管理に必要なものは、共同体であり、人々のつながりである。そしてその運動を支える人権思想である。
言い換えると、自然災害をもたらす自然条件を前提にしてこれまで日本の風土が形成されてきた。それが日本型共同体であった。伝統的な日本の集落文化、村落共同体、そして家の造りから集落、田畑、山里の造り方に至るまで、伝統的に災害に耐えられる形態が選択され続けてきた。
こうした伝統文化は、日本の近代化と共に消滅しつつある。そして、同時に、震災大国日本では新しい共同体文化が必要となっている。古い封建的な社会思想から自由主義経済と個人主義を前提にしながら、震災に強い共同体社会を造る必要が生まれている。
その社会思想は、ピースボートや「WANTED」が示したように人権と生活重視の考え方や生き方ではないだろうか。
参考資料
(1)ピースボート「デイリーニーズ」N01-No43 1995.1.25 ‐1995.3.9 神戸大学人文系図書館「震災文庫」所蔵
(2)三石博行 「阪神大震災時の住民情報の分析(2) —第一期住民情報の統計分析とその特徴について—」 in 『日本災害情報学会 第2回研究発表大会 予稿論文集』、大宮ソニックス市民ホール、大宮、pp60-79
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir00h.pdf
(3)三石博行 「阪神大震災時の住民情報の分析」in 『日本災害情報学会1999年度研究発表大会』予稿論文集、東北大学、仙台、pp121-130
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99c.pdf
(4)箕面ライトピア21 (箕面市中央人権文化センター)
http://www2.city.minoh.osaka.jp/RIGHTPIA/
(5)三石博行 「阪神大震災で問われた情報文化の原点」 in 『第7回情報文化学会全国大会講演予稿集』、東京大学、東京、pp29-36、ISSN 1341-593X
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
(6)山本みち子、大橋英子発行「WANTED」No1‐No17、1995年1月23日‐1995年7月8日、神戸大学人文系図書館「震災文庫」所蔵
(7)ピースボート (国際交流NGO)
http://www.peaceboat.org/index_j.html
(8)社会福祉法人大阪ボランティア協会
http://www.osakavol.org/
(9)NPO日本ユニバーサルデザイン研究機構
http://www.npo-uniken.org/
(10)日本経済新聞 2011年3月22日 朝刊 14面 「専門ボランティア、活動」
修正(誤字、文書表現)2011年3月22日
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での危機管理
1、「危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
2、「企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3、「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
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2011年3月21日月曜日
Eric DOLPHY
音楽について(1)
三石博行
ジャズとの出会い
私がJAZZに接する機会を作ってくれた二人の友人が居た。槇和男君と岩本晴穂君である。当時、大学の近くの農学部前の電停近くに「メルヘン」というジャズ喫茶があった。槇君は殆どそこで量子力学の勉強をしていた。量子力学の原書を章ごとに分けて、コンパクトにした本を持ち込んで朝から晩まで、ジャズを聴きながら、原書を読んで、演習問題の微分法方程式を解いていた。
そんな彼に連れられて、私もメルヘンに行った。当時はクラシック音楽を出町柳の「柳月堂」で聴くのが私の楽しみであった。よく岩本君と柳月堂に行った。私の好きな音楽はベートーベンで、当時は弦楽四重奏に魅せられていた。よく岩本君と弦楽四重奏を聴いていた。
メルヘンでの初めてのジャズは衝撃的だった。槇君が私に選んでくれたのがEric Dolphyの曲だった。余りの衝撃さに心が動顚したことを記憶している。それは音楽と謂うよりも、何か叫びのような、そして語りかけてくる音楽であった。はじめて出会った音楽であった。
Eric Dolphy in Europe
今、私は東日本大震災で苦しむ人々に何かしなければと思いながら、ここ1週間続けざまに、これまで阪神淡路大震災の生活情報調査活動や関西労働者安全センター常任事務局員の時代に学んだ災害への安全管理や危機管理に関する考え方を書き続けている。
今、無性に、Eric Dolphyの音楽が聴きたくなって、書斎にラジカセを持ち込み、「Eric Dolphy in Europe, Vol.2」を聴いている。
彼は、このヨーロッパ演奏旅行の最中に死んでしまったのだ。これは、彼の陽気で力強い鎮魂歌かもしれない。
彼らのこの音楽は、あの演奏会の一瞬にしか残らない。つまり、この音楽は偶然に録音されて残ったものだ。何ということだ。これほどのすごい音楽を、彼らは一瞬の出来事として永遠に葬り続けてきた。多分、その一部がここに残されたのだろう。
そして今もなお
彼が今から半世紀以上前に、母国アメリカから遠く離れたヨーロッパの小さなジャズ演奏会場で、仲間と共に作曲し演奏している自分たちのための「レクィエム」を、今日も私は聴く。
そして、この偶然に録音され残された小さな演奏会場での音楽に、私は限りなく感銘し続ける。
もうあれから40年が過ぎた今でも、やはりこの音楽から受ける感銘は変わらないのだ。
彼の魂の叫びは、今、苦難に立ち向かう罹災者、救済のために闘う人々に、きっと届くに違いない。
リンク資料
Eric Dolphy演奏動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=27QVenKmDBI
修正(誤字)2011年3月22日
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三石博行
ジャズとの出会い
私がJAZZに接する機会を作ってくれた二人の友人が居た。槇和男君と岩本晴穂君である。当時、大学の近くの農学部前の電停近くに「メルヘン」というジャズ喫茶があった。槇君は殆どそこで量子力学の勉強をしていた。量子力学の原書を章ごとに分けて、コンパクトにした本を持ち込んで朝から晩まで、ジャズを聴きながら、原書を読んで、演習問題の微分法方程式を解いていた。
そんな彼に連れられて、私もメルヘンに行った。当時はクラシック音楽を出町柳の「柳月堂」で聴くのが私の楽しみであった。よく岩本君と柳月堂に行った。私の好きな音楽はベートーベンで、当時は弦楽四重奏に魅せられていた。よく岩本君と弦楽四重奏を聴いていた。
メルヘンでの初めてのジャズは衝撃的だった。槇君が私に選んでくれたのがEric Dolphyの曲だった。余りの衝撃さに心が動顚したことを記憶している。それは音楽と謂うよりも、何か叫びのような、そして語りかけてくる音楽であった。はじめて出会った音楽であった。
Eric Dolphy in Europe
今、私は東日本大震災で苦しむ人々に何かしなければと思いながら、ここ1週間続けざまに、これまで阪神淡路大震災の生活情報調査活動や関西労働者安全センター常任事務局員の時代に学んだ災害への安全管理や危機管理に関する考え方を書き続けている。
今、無性に、Eric Dolphyの音楽が聴きたくなって、書斎にラジカセを持ち込み、「Eric Dolphy in Europe, Vol.2」を聴いている。
彼は、このヨーロッパ演奏旅行の最中に死んでしまったのだ。これは、彼の陽気で力強い鎮魂歌かもしれない。
彼らのこの音楽は、あの演奏会の一瞬にしか残らない。つまり、この音楽は偶然に録音されて残ったものだ。何ということだ。これほどのすごい音楽を、彼らは一瞬の出来事として永遠に葬り続けてきた。多分、その一部がここに残されたのだろう。
そして今もなお
彼が今から半世紀以上前に、母国アメリカから遠く離れたヨーロッパの小さなジャズ演奏会場で、仲間と共に作曲し演奏している自分たちのための「レクィエム」を、今日も私は聴く。
そして、この偶然に録音され残された小さな演奏会場での音楽に、私は限りなく感銘し続ける。
もうあれから40年が過ぎた今でも、やはりこの音楽から受ける感銘は変わらないのだ。
彼の魂の叫びは、今、苦難に立ち向かう罹災者、救済のために闘う人々に、きっと届くに違いない。
リンク資料
Eric Dolphy演奏動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=27QVenKmDBI
修正(誤字)2011年3月22日
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企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割)
現代社会での危機管理(2)
三石博行
民間企業の安全管理と危機管理の論理
前節で、災害後の対策・危機管理と災害前の防災対策・安全管理の違いと、その二つの連関性について述べた。つまり、危機管理は安全管理の延長線上に存在しないことや安全管理が崩壊した後に設定される対策が危機管理であることが確認できた。
以上の前節で述べた危機管理対策を導く理論として、二次災害防止対策、三次災害防止対策と危機管理に含まれる安全管理を支えている社会経済学理論は、前章「現代社会の安全管理」で述べた市場経済や公共経済の原理を適用することが可能であると考えられる。
例えば具体的実例を挙げながら、火災事故を想定した企業(製造業)の危機管理について考えてみる。A製造会社では火災を起こさないための安全管理と危機管理を行っている。その場合の安全管理は、漏電、防熱、発火危険物等、出火要因への防火対策と職員の避難体制(火災被災者への安全対策)である。
危機管理は、出火後の対策で消火設備、消防、警察への緊急連絡体制、火災に巻き込まれた職員の救出や救援体制、貴重な資料や施設等の避難体制、近隣の企業や住宅への火災拡大防止体制がある。危機管理は被害者救助と二次災害の防止に大きく分類される。
更に危険物を取り扱う企業の場合には、二次災害発生後の危機管理体制を考えなければならない。つまり、それらの安全管理や危機管理の具体的内容は企業によって異なる。
中小企業の場合、安全管理や危機管理システムは、主に、防災、犠牲者救済、二次防災のシステムが検討され、そのシステムはそれぞれの企業経営の中でコスト計算された予算によって造られる。労災保険、生命保険、災害保険への加入(掛け金の支払い)、安全施設の設置、防災訓練、二次災害防止対策等々への経費負担が生じる。それらの経費は企業の経営規模によって異なる。
つまり、個々の企業が投資する防災・安全施設の設置内容は市場経済によって決まり、また負傷者や犠牲者家族の救済制度は公共経済(労災保険制度)によって決定されている。
国や地方自治体の義務・社会インフラの安全管理や危機管理
大規模災害を引き起こす可能性のある企業、例えば東日本大震災(東北関東大震災)の二次災害として発生した東電福島第一発電所、石油コンビナート、鉄道等の社会インフラの事故は、その企業の生産システムへの被害のみでなく、社会全体へ大きな被害を与えることになる。
従って、これらの社会インフラを支える企業の防災(安全管理)や危機管理に関して、企業にその対策を一任する訳には行かない。国家や地方自治体は法的にそれらの企業の安全管理や危機管理を点検する権利があり、それらの企業は国家と地方自治体に対して重大災害防止への対策の法的義務を持たなければならない。
換言すると、それらの事業は公共事業として運営されるべき内容を持っている。つまり本来なら、国や地方自治体が行う事業である。しかし、これらの事業の多くは、現在、民営化されて来た。その結果、自由主義経済の利点を活かしてより効率よく事業が運営されている。しかし、それらの企業が担う公共的役割はそのまま存続し続ける。そこで、国家や地方自治体は、それらの企業が引き起こす社会全体への負の影響、つまり事業の安全・危機管理(事故や災害、経営失敗による倒産等々)に対する監視の義務を負う事になる。
自然災害の多い日本では、ここ20年間を振り返っても、雲仙普賢岳火砕流災害(1991年)、阪神淡路大震災(1995年)、三宅島噴火(2000年)、有珠山噴火(2000年)、新潟・福島豪雨災害と福井豪雨と斜面災害・地すべり(2004年)、新潟県中越沖地震(2007年)、南九州豪雨・斜面災害(2006年)、ゲリラ豪雨による神戸市都賀川水難事故(2008年)、兵庫県作用町豪雨水害(2009年)、日本海豪雪災害(2011年)、霧島新燃岳噴火(2011年)、東日本大震災(2011年)と殆ど毎年のように自然災害が発生し続けている。
また、自然災害以外にも、地下鉄サリン事件(1995年)、東海村JCO臨海事故(1999年)、関西電力美浜原発3号機事故(2004年)、JR西日本福知山線脱線事故(2005年)、今回の東電福島第一原発事故(2011年)とこれまで大きな被害と多数の犠牲者を生み出す事故(事件)が発生している。
つまり、自然災害や事故等の災害対策に対する社会的な体制は、日本社会を運営するための必然的条件であると謂える。その条件を整えることは国や地方自治体の義務である。国や地方自治体は、そのために災害防止に関する行政、公共事業を行っている。
そして、自然災害や事故によって引き起こされる社会インフラの損害を最小限に食い止めるために、国や地方自治体はそれらの企業の防災・安全管理と救済・危機管理に関して介入し援助や補助を行う義務と責任がある。
国や地方自治体は、事故や災害の防止に対して、税制上の支援や助成金を出して企業の安全管理体制作りを支援している。また、自然災害に備えて防災(防潮堤、防波堤、堤防や排水施設の設定)、耐震強度等の法律制定、洪水、火山噴火、地震や津波に対する安全監視体制等々の災害対策を行っている。
また、災害直後の応急的な罹災者の生活救済を目的にした災害救助法や災害被害者の生活再建を援助する被災者生活再建支援法、そして消防、警察や自衛隊派遣による災害直後の救援救助体制等によって、国家は災害や事故への危機管理体制を作っている。
大災害時の危機管理・市民ボランティア運動
大災害では一刻を争う被災地での人命救助、負傷者運搬、危険物撤去、前線部隊への補給、その補給路確保等々、危険な作業を、自衛隊、警察機動部隊、消防レスキュー部隊、海上保安庁災害救助部隊等々の前線部隊が担う。その危険作業に従事する最前線部隊を担う後方部隊も、自衛隊、警察消防や海上保安巡視艇員である(1)。
今回の東日本大震災直後に、国は10万人の自衛隊員の出動命令を出した。自衛隊員は、津波に襲われ壊滅的な被害を受けた地域に出動し、人命救助と補給路の確保のために働いた。また東電福島第一原発事故現場の最も厳しい前線での事故進行防止作業に従事している。
震災直後の最前線での救援活動によって多くの人命が救出された。このことは、今回の災害対策における政府の敏速な対応の成果である。確かにもっと早く、10万人の自衛隊の出動命令を出すべきだという批判もある。しかし、阪神淡路大震災直後またその後にあった多くの災害に対する政府の対応に比較して格段の進歩であったと言えるのではないか。勿論、今後はさらにもっと敏速な対応を取れる政府体制が必要であるのは確かである。
今回の課題として、罹災地や避難所での生活物資の不足、例えば燃料、食料、水、毛布等の運搬配給が問題になった。阪神淡路大震災と比較して約5倍の罹災地を持つ今回のケースでは、幹線道路、鉄道等の補給運搬経路が広範囲に破壊されているために、その復旧活動に時間が掛っている。その分、素早い救援物資の運搬は難しいのが現状である。
つまり「より十分な後方部隊の活動を展開するためには、災害支援NGO,民間ボランティア団体、被災者組織、罹災地の自治体、企業、市民の参加が必要となる。つまり、前線部隊の補給、補助、危険作業に従事する後方部隊と罹災者の生活支援を行う後方部隊を分ける必要」(1)がある。
そして「罹災者の生活支援を行う後方部隊は、民間ボランティア組織や市民が中心となり、全国から集まる災害支援金や支援物資を避難所へ届け、避難所の生活環境の改善を行う活動に従事することになる。この活動は、16年前の阪神淡路大震災で、ピースボート等の市民ボランティア団体が担い、また、その後の震災でも多くの市民ボランティア組織が支援活動を行ってきた。その経験を活かし、彼らの協力を得ながら、罹災者生活支援の後方部隊を組織する必要がある。」(1)
我々は、阪神淡路大震災の時に、市民の力で、国を挙げて大震災に立ち向かった経験を持っている。多くの災害ボランティアが罹災地に集まり救援活動に従事し、また近隣の住民達が自主的に災害救助活動を始めた。その貴重な経験はその後の災害時の救援活動に活かされてきた。そして、今回の西日本大震災(東北関東大震災)でも活かされるだろう。
避難した人々のいる地域では、まだ社会インフラが復旧していない。特に、救援物資の運搬、生活必需品の補給、生活情報の提供、被災地での子供支援、教育支援、等々、多くの課題を解決する力は、国や地方自治体の力だけでは不可能である。国民の参加、あらゆる支援の手を受け入れ、組織し、罹災者に届けることが今必要とされている。
その力は、すべての国民が等身大で差し伸べる手を受け入れ、組織する市民運動の豊かな経験と組織力によって可能になるのである。一刻も早く、市民ボランティアの活動を自衛隊、警察消防隊の前線部隊や後方部隊と連携する体制を作る必要がある。
その運動と組織化の発想も市民運動に任せることで、より豊かで敏速な危機管理の体制が可能になるのである。今回、管直人首相は辻元清美前外務副大臣を「災害ボランティア担当の総理大臣補佐官」に任命した。
この判断を評価したい。何故なら、辻元氏はピースボートを創設し、さらに阪神淡路大震災の時には、ピースボートを率いて、素晴らしい震災救援市民運動を組織、展開した一人である。その経験が、今回の大震災に必ず活かされることは間違いないだろう。
修正(誤字) 2011年3月22日
参考資料
(1) 三石博行 「日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐」2011年3月17日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での危機管理
1、「危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
2、「企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3、「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
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三石博行
民間企業の安全管理と危機管理の論理
前節で、災害後の対策・危機管理と災害前の防災対策・安全管理の違いと、その二つの連関性について述べた。つまり、危機管理は安全管理の延長線上に存在しないことや安全管理が崩壊した後に設定される対策が危機管理であることが確認できた。
以上の前節で述べた危機管理対策を導く理論として、二次災害防止対策、三次災害防止対策と危機管理に含まれる安全管理を支えている社会経済学理論は、前章「現代社会の安全管理」で述べた市場経済や公共経済の原理を適用することが可能であると考えられる。
例えば具体的実例を挙げながら、火災事故を想定した企業(製造業)の危機管理について考えてみる。A製造会社では火災を起こさないための安全管理と危機管理を行っている。その場合の安全管理は、漏電、防熱、発火危険物等、出火要因への防火対策と職員の避難体制(火災被災者への安全対策)である。
危機管理は、出火後の対策で消火設備、消防、警察への緊急連絡体制、火災に巻き込まれた職員の救出や救援体制、貴重な資料や施設等の避難体制、近隣の企業や住宅への火災拡大防止体制がある。危機管理は被害者救助と二次災害の防止に大きく分類される。
更に危険物を取り扱う企業の場合には、二次災害発生後の危機管理体制を考えなければならない。つまり、それらの安全管理や危機管理の具体的内容は企業によって異なる。
中小企業の場合、安全管理や危機管理システムは、主に、防災、犠牲者救済、二次防災のシステムが検討され、そのシステムはそれぞれの企業経営の中でコスト計算された予算によって造られる。労災保険、生命保険、災害保険への加入(掛け金の支払い)、安全施設の設置、防災訓練、二次災害防止対策等々への経費負担が生じる。それらの経費は企業の経営規模によって異なる。
つまり、個々の企業が投資する防災・安全施設の設置内容は市場経済によって決まり、また負傷者や犠牲者家族の救済制度は公共経済(労災保険制度)によって決定されている。
国や地方自治体の義務・社会インフラの安全管理や危機管理
大規模災害を引き起こす可能性のある企業、例えば東日本大震災(東北関東大震災)の二次災害として発生した東電福島第一発電所、石油コンビナート、鉄道等の社会インフラの事故は、その企業の生産システムへの被害のみでなく、社会全体へ大きな被害を与えることになる。
従って、これらの社会インフラを支える企業の防災(安全管理)や危機管理に関して、企業にその対策を一任する訳には行かない。国家や地方自治体は法的にそれらの企業の安全管理や危機管理を点検する権利があり、それらの企業は国家と地方自治体に対して重大災害防止への対策の法的義務を持たなければならない。
換言すると、それらの事業は公共事業として運営されるべき内容を持っている。つまり本来なら、国や地方自治体が行う事業である。しかし、これらの事業の多くは、現在、民営化されて来た。その結果、自由主義経済の利点を活かしてより効率よく事業が運営されている。しかし、それらの企業が担う公共的役割はそのまま存続し続ける。そこで、国家や地方自治体は、それらの企業が引き起こす社会全体への負の影響、つまり事業の安全・危機管理(事故や災害、経営失敗による倒産等々)に対する監視の義務を負う事になる。
自然災害の多い日本では、ここ20年間を振り返っても、雲仙普賢岳火砕流災害(1991年)、阪神淡路大震災(1995年)、三宅島噴火(2000年)、有珠山噴火(2000年)、新潟・福島豪雨災害と福井豪雨と斜面災害・地すべり(2004年)、新潟県中越沖地震(2007年)、南九州豪雨・斜面災害(2006年)、ゲリラ豪雨による神戸市都賀川水難事故(2008年)、兵庫県作用町豪雨水害(2009年)、日本海豪雪災害(2011年)、霧島新燃岳噴火(2011年)、東日本大震災(2011年)と殆ど毎年のように自然災害が発生し続けている。
また、自然災害以外にも、地下鉄サリン事件(1995年)、東海村JCO臨海事故(1999年)、関西電力美浜原発3号機事故(2004年)、JR西日本福知山線脱線事故(2005年)、今回の東電福島第一原発事故(2011年)とこれまで大きな被害と多数の犠牲者を生み出す事故(事件)が発生している。
つまり、自然災害や事故等の災害対策に対する社会的な体制は、日本社会を運営するための必然的条件であると謂える。その条件を整えることは国や地方自治体の義務である。国や地方自治体は、そのために災害防止に関する行政、公共事業を行っている。
そして、自然災害や事故によって引き起こされる社会インフラの損害を最小限に食い止めるために、国や地方自治体はそれらの企業の防災・安全管理と救済・危機管理に関して介入し援助や補助を行う義務と責任がある。
国や地方自治体は、事故や災害の防止に対して、税制上の支援や助成金を出して企業の安全管理体制作りを支援している。また、自然災害に備えて防災(防潮堤、防波堤、堤防や排水施設の設定)、耐震強度等の法律制定、洪水、火山噴火、地震や津波に対する安全監視体制等々の災害対策を行っている。
また、災害直後の応急的な罹災者の生活救済を目的にした災害救助法や災害被害者の生活再建を援助する被災者生活再建支援法、そして消防、警察や自衛隊派遣による災害直後の救援救助体制等によって、国家は災害や事故への危機管理体制を作っている。
大災害時の危機管理・市民ボランティア運動
大災害では一刻を争う被災地での人命救助、負傷者運搬、危険物撤去、前線部隊への補給、その補給路確保等々、危険な作業を、自衛隊、警察機動部隊、消防レスキュー部隊、海上保安庁災害救助部隊等々の前線部隊が担う。その危険作業に従事する最前線部隊を担う後方部隊も、自衛隊、警察消防や海上保安巡視艇員である(1)。
今回の東日本大震災直後に、国は10万人の自衛隊員の出動命令を出した。自衛隊員は、津波に襲われ壊滅的な被害を受けた地域に出動し、人命救助と補給路の確保のために働いた。また東電福島第一原発事故現場の最も厳しい前線での事故進行防止作業に従事している。
震災直後の最前線での救援活動によって多くの人命が救出された。このことは、今回の災害対策における政府の敏速な対応の成果である。確かにもっと早く、10万人の自衛隊の出動命令を出すべきだという批判もある。しかし、阪神淡路大震災直後またその後にあった多くの災害に対する政府の対応に比較して格段の進歩であったと言えるのではないか。勿論、今後はさらにもっと敏速な対応を取れる政府体制が必要であるのは確かである。
今回の課題として、罹災地や避難所での生活物資の不足、例えば燃料、食料、水、毛布等の運搬配給が問題になった。阪神淡路大震災と比較して約5倍の罹災地を持つ今回のケースでは、幹線道路、鉄道等の補給運搬経路が広範囲に破壊されているために、その復旧活動に時間が掛っている。その分、素早い救援物資の運搬は難しいのが現状である。
つまり「より十分な後方部隊の活動を展開するためには、災害支援NGO,民間ボランティア団体、被災者組織、罹災地の自治体、企業、市民の参加が必要となる。つまり、前線部隊の補給、補助、危険作業に従事する後方部隊と罹災者の生活支援を行う後方部隊を分ける必要」(1)がある。
そして「罹災者の生活支援を行う後方部隊は、民間ボランティア組織や市民が中心となり、全国から集まる災害支援金や支援物資を避難所へ届け、避難所の生活環境の改善を行う活動に従事することになる。この活動は、16年前の阪神淡路大震災で、ピースボート等の市民ボランティア団体が担い、また、その後の震災でも多くの市民ボランティア組織が支援活動を行ってきた。その経験を活かし、彼らの協力を得ながら、罹災者生活支援の後方部隊を組織する必要がある。」(1)
我々は、阪神淡路大震災の時に、市民の力で、国を挙げて大震災に立ち向かった経験を持っている。多くの災害ボランティアが罹災地に集まり救援活動に従事し、また近隣の住民達が自主的に災害救助活動を始めた。その貴重な経験はその後の災害時の救援活動に活かされてきた。そして、今回の西日本大震災(東北関東大震災)でも活かされるだろう。
避難した人々のいる地域では、まだ社会インフラが復旧していない。特に、救援物資の運搬、生活必需品の補給、生活情報の提供、被災地での子供支援、教育支援、等々、多くの課題を解決する力は、国や地方自治体の力だけでは不可能である。国民の参加、あらゆる支援の手を受け入れ、組織し、罹災者に届けることが今必要とされている。
その力は、すべての国民が等身大で差し伸べる手を受け入れ、組織する市民運動の豊かな経験と組織力によって可能になるのである。一刻も早く、市民ボランティアの活動を自衛隊、警察消防隊の前線部隊や後方部隊と連携する体制を作る必要がある。
その運動と組織化の発想も市民運動に任せることで、より豊かで敏速な危機管理の体制が可能になるのである。今回、管直人首相は辻元清美前外務副大臣を「災害ボランティア担当の総理大臣補佐官」に任命した。
この判断を評価したい。何故なら、辻元氏はピースボートを創設し、さらに阪神淡路大震災の時には、ピースボートを率いて、素晴らしい震災救援市民運動を組織、展開した一人である。その経験が、今回の大震災に必ず活かされることは間違いないだろう。
修正(誤字) 2011年3月22日
参考資料
(1) 三石博行 「日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐」2011年3月17日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での危機管理
1、「危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
2、「企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3、「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
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2011年3月20日日曜日
堆肥作り
2011年3月20日の庭
三石博行
近所の人が庭の落ち葉や芝生の葉、庭仕事で出た草花の廃棄物を我が家のガレージに置いている。庭からでるゴミはほとんど堆肥に出来る。
しかし、小枝は粉々に砕かないと肥料にならない。小枝と葉を分けて、葉だけを堆肥舎に入れる。
堆肥舎に入れる前に、小枝と葉っぱを分離する。葉っぱは堆肥舎に入れ、小枝は粉砕して再利用する。
良質の堆肥にするためには、牛糞や鶏糞を混ぜる必要がある。私は近くの市営農場から牛糞を運んで堆肥舎に入れる。毎年、2回ぐらい近所の山田さんから軽トラを借りて運ぶ。
農場の堆肥舎で藁(わら)が沢山入った牛糞は発酵がよく進み、湯気を出している。その牛糞を自慢の堆肥舎に入れる。そして、その中に近所や自分の庭から出た有機物のゴミを入れる。
雨が振り込まないように、また近所に牛糞の臭いがしないように、カバーを掛ける。牛糞に混ざった有機物は発酵し冬でも湯気を出している。
カバーを掛けて、雨が入らないようにする
今日は、昨年の11月に牛糞を入れて作った堆肥を取り出して、庭に撒いた。
トウが立ち始めた小松菜を抜いた所、これから花を咲かせる水仙、チュリップ、バラ、色々な春の草花の花壇、ラベンダ、セージ、その他のハーブ、イチジクの木、サクランボの木、レモンの木等、庭の半分くらいの面積に堆肥を撒いた。
庭はもう春を感じている。今日、貰った堆肥のご馳走に喜んでいるに違いない。
三石博行
近所の人が庭の落ち葉や芝生の葉、庭仕事で出た草花の廃棄物を我が家のガレージに置いている。庭からでるゴミはほとんど堆肥に出来る。
しかし、小枝は粉々に砕かないと肥料にならない。小枝と葉を分けて、葉だけを堆肥舎に入れる。
堆肥舎に入れる前に、小枝と葉っぱを分離する。葉っぱは堆肥舎に入れ、小枝は粉砕して再利用する。
良質の堆肥にするためには、牛糞や鶏糞を混ぜる必要がある。私は近くの市営農場から牛糞を運んで堆肥舎に入れる。毎年、2回ぐらい近所の山田さんから軽トラを借りて運ぶ。
農場の堆肥舎で藁(わら)が沢山入った牛糞は発酵がよく進み、湯気を出している。その牛糞を自慢の堆肥舎に入れる。そして、その中に近所や自分の庭から出た有機物のゴミを入れる。
雨が振り込まないように、また近所に牛糞の臭いがしないように、カバーを掛ける。牛糞に混ざった有機物は発酵し冬でも湯気を出している。
カバーを掛けて、雨が入らないようにする
今日は、昨年の11月に牛糞を入れて作った堆肥を取り出して、庭に撒いた。
トウが立ち始めた小松菜を抜いた所、これから花を咲かせる水仙、チュリップ、バラ、色々な春の草花の花壇、ラベンダ、セージ、その他のハーブ、イチジクの木、サクランボの木、レモンの木等、庭の半分くらいの面積に堆肥を撒いた。
庭はもう春を感じている。今日、貰った堆肥のご馳走に喜んでいるに違いない。
学生時代の読書会スタイルでの三つの研究活動
プログラム科学論研究会活動報告(1)
三石博行
プログラム科学論研究会は、現在、三つの研究活動を行っている。一つは槇和男氏と吉田民人著『自己組織性の情報科学』の読書会である。もう一つはEddy Van Dromさんとの研究会である。それぞれ1週間に1回の割合で行っている。もう一つは綿引宣道氏(長岡科学技術大学)との研究会である。この研究会は年に2回の計画であるが、今まで1回実施された。
吉田民人先生(以後 吉田と呼ぶ)の文章を一人で読むのは大変だ。多分、最後まで読み通せないかもしれない。それとも、読むには読んだが、殆ど一つ一つの文脈の流れを検証することなく、さらりと読んでしまう。
その理由は、抽象的で難解な文章と内容、しかも吉田用語による吉田分類学と吉田論理展開、つまり吉田理論社会学の独自の学問的領域への自己同化作業は超が付くほど困難であること、等々の理由が挙げられる。先生の下で研究していた人々も多分、私と同じ感想をもっていただろう。
そこで槇さんやEddyさんと一緒に文章の読み合わせ、解釈、批判を行うことで吉田理論社会学の勉強が可能になる。
随分昔、学生時代、化学研究会を創り大井英治君や木村隆良君ら数人と有機化学(英語の原本)、熱力学の勉強会をしたことがあった、また槇君達と一緒に量子化学研究室のゼミで量子力学(英語の原書)の読書会をやったことがあった。学生時代は、そんな風にして読書会をよくやっていた。しかも自然発生的に読書会があっちこっちで出来ていた。そんな風景は次第に歳を取るとなくなる。私は幸いいつまでも若い気持ちをもった友人に囲まれているので、吉田理論社会学の学習会を行えるのである。
吉田先生が私にしてくださった「ゼミ」も、今、私が槇さんやEddyさんとやっている読書会と殆ど同じスタイルであった。勿論、教科書はなかったが、課題別に徹底した討議を行った。私が質問する吉田先生の論文で述べている概念に関して、理解できるまでる説明された。
吉田先生も、最後の最後まで若い学生のようだった。読書会を続ける青年であった。難解で壮大な社会学理論に魅惑された私とその理論を構築し続ける吉田先生は、共に吉田理論社会学の読書会の一員であったように記憶している。
私たちのプログラム科学論研究会は吉田スタイル(学生のように読書会をする)を引き継いでいる。それは我々の青春時代にあった大学の風景であり文化であった。その文化の継承によって、難解な吉田理論社会学の解読、批判と展開作業が可能になっている。
修正(誤字) 2011年3月20日
三石博行
プログラム科学論研究会は、現在、三つの研究活動を行っている。一つは槇和男氏と吉田民人著『自己組織性の情報科学』の読書会である。もう一つはEddy Van Dromさんとの研究会である。それぞれ1週間に1回の割合で行っている。もう一つは綿引宣道氏(長岡科学技術大学)との研究会である。この研究会は年に2回の計画であるが、今まで1回実施された。
吉田民人先生(以後 吉田と呼ぶ)の文章を一人で読むのは大変だ。多分、最後まで読み通せないかもしれない。それとも、読むには読んだが、殆ど一つ一つの文脈の流れを検証することなく、さらりと読んでしまう。
その理由は、抽象的で難解な文章と内容、しかも吉田用語による吉田分類学と吉田論理展開、つまり吉田理論社会学の独自の学問的領域への自己同化作業は超が付くほど困難であること、等々の理由が挙げられる。先生の下で研究していた人々も多分、私と同じ感想をもっていただろう。
そこで槇さんやEddyさんと一緒に文章の読み合わせ、解釈、批判を行うことで吉田理論社会学の勉強が可能になる。
随分昔、学生時代、化学研究会を創り大井英治君や木村隆良君ら数人と有機化学(英語の原本)、熱力学の勉強会をしたことがあった、また槇君達と一緒に量子化学研究室のゼミで量子力学(英語の原書)の読書会をやったことがあった。学生時代は、そんな風にして読書会をよくやっていた。しかも自然発生的に読書会があっちこっちで出来ていた。そんな風景は次第に歳を取るとなくなる。私は幸いいつまでも若い気持ちをもった友人に囲まれているので、吉田理論社会学の学習会を行えるのである。
吉田先生が私にしてくださった「ゼミ」も、今、私が槇さんやEddyさんとやっている読書会と殆ど同じスタイルであった。勿論、教科書はなかったが、課題別に徹底した討議を行った。私が質問する吉田先生の論文で述べている概念に関して、理解できるまでる説明された。
吉田先生も、最後の最後まで若い学生のようだった。読書会を続ける青年であった。難解で壮大な社会学理論に魅惑された私とその理論を構築し続ける吉田先生は、共に吉田理論社会学の読書会の一員であったように記憶している。
私たちのプログラム科学論研究会は吉田スタイル(学生のように読書会をする)を引き継いでいる。それは我々の青春時代にあった大学の風景であり文化であった。その文化の継承によって、難解な吉田理論社会学の解読、批判と展開作業が可能になっている。
修正(誤字) 2011年3月20日
2011年3月19日土曜日
危機管理と安全管理の独自性と連関性
現代社会での危機管理(1)
三石博行
「危機管理」の社会科学的意味
一般に、危機とは突然現れた好ましくない事象を意味する。従って、「危機感」とは観察者が主観的に感じている予測出来なかった好ましくない事象に対する感情である。好ましくない事象に対して抱く否定的感情の程度によっては、不快、不安、恐れ、恐怖という用語で説明される。
観察者を取り巻く好ましくない事象を「危機的状況」と呼ぶ。そして、観察者は好ましくない事象を言葉で表現できる場合と言葉で表現できない場合がある。例えば、好ましくない事象を言語化できる場合には危機的状況を「あるもの」として語ることが出来る。しかし、それを言語化できない状態では「なにものか」に対する不安、恐れや恐怖という感情となる。
つまり、一般に我々が語る「危機」の意味は、心理的要因から社会的要因までを含むのである。
危機管理(リスクマネージメント リスク管理)に関する社会科学的研究は、特に、環境破壊や汚染防止に関する法学や経済学的研究、企業の危機管理、災害に対する危機管理に関する経営学的研究等がある。これらの社会科学の中で危機管理の概念が述べられてきた。(1)
社会科学系の危機管理に関する先行研究の中で定義されてきた「危機管理」の「危機」の概念は以下の二つにまとめることが出来る。(2)
1、 予測不可能な好ましくない事象 (予測不可能 )
2、 何らかの対応策が緊急に必要となる事象(緊急性 対策不可能)
つまり、まず、好ましくない事象の緊急性とその状況への対応に関する無知の状態を危機と位置付ける。そして、その危機に関する「管理法・対策・政策」を危機管理と呼ぶ。これが、今日の社会科学で使われている危機管理の概念とされている。
安全管理(事故防止対策)と異なる事故対策(危機管理)
上記した社会科学の中でこれまで使われてきた「危機管理」の意味から、危機管理の概念は非常に広い意味で使われている。例えば、災害予防(防災)、安全管理、災害後の対策まで危機管理として語られる。一方、安全管理の概念も同様に広い意味で使われ、危機管理と安全管理の明確な概念的区別は存在していない。
しかし、現実の災害対策では、災害に対する予防措置と災害後の対策は明確に区分されている。そこで、我々は、災害防止(防災)を目的にした対策を安全管理とし、その安全管理が破られ災害が発生した後に、罹災者の救済、二次災害防止等に関する対策を危機管理として、二つの概念を峻別した。つまり、前節では、安全管理と危機管理の違いについて述べた。(3)
まず、安全管理の意味について述べる。安全管理とは一言で述べるなら、災害からシステムを守るための対策である。事故防止の対策を安全管理と考える。防災対策も安全管理の一例である。つまり、地震に対する建物の耐震強度の基準を法律で決めることは、震災予防対策であり安全管理の中に含まれる。また、洪水に対する堤防の強化工事は水害予防対策であり、同じようにこれも安全管理の一例であると言える。安全管理に関しては、前節「現代社会での安全管理」で述べた。(4)
次に危機管理の意味について述べる。危機管理とは安全管理のシステムが破壊された時の対策である。事故や災害の予防対策では発生した事態に対応し解決できない状態が生じる。その場合に取らなければならない緊急処置は大きく二つある。一つは罹災者の救済であり、もう一つは二次災害の防止である。
例えば交通事故では、救急車を呼び負傷者を病院に運送し人命救済を行う。そして同時に交通事故が引き起こす二次災害(交通事故、車両火災、交通渋滞)を防止する。これが事故や災害が発生した後に取られる対策・危機管理である。つまり、事故・災害後の被災者救済と二次災害防止対策が危機管理に含まれる。
二つの事故対策課題・救済と二次災害防止
完璧な防災システムの構築は不可能である。防災システムの崩壊は、畑村洋一郎氏が「失敗」とは期待値に至らなかったと評価された値であり、すべての行為に確率的に付随する評価であると考えるように(5)、事故や災害防止のシステムの崩壊(機能不全)はすべてのそれらのシステムの機能上、確率的に発生する事象であると考えなければならない。
言い換えると安全管理の故障や崩壊はすべての安全管理システムに組み込まれている確率的な発生事象である。予防対策を講じる場合に、同時に必要な対策としてその予防対策の前提条件を超えて生じる事故や災害の発生への対応策、つまり事故や災害の発生後の対策である。この対策を危機管理と呼んでいる。危機管理は災害や防災システムの崩壊によって生じる罹災者(負傷者)の救援や二次災害への対応策である。
例えば、洪水や津波による堤防や防波堤の決壊(防災システムの崩壊と機能不全)つまり災害による被害者救済と、浸水や洪水によって引き起こされる二次災害の防止、例えば、今回の東日本大震災で経験したように、火災、原発事故、周辺社会インフラ機能麻痺・運輸機能不全、電力や燃料不足の発生等々、避難所での疾病発生、衛生環境問題、救援物資不足等々が挙げられる。
あるシステムの安全管理の崩壊によって、そのシステムでの危機管理が起動する。その危機管理の機能は、そのシステム内で発生した被害者(負傷者)の救済や犠牲者の処理等、被害への対応策とそのシステムの崩壊によって生じるそのシステム内の別の災害発生やそのシステムの外に波及して誘発される他の災害への予防策、つまり二次災害防止対策の二つの課題を抱える。
危機管理と二次災害対策(安全管理)
つまり、危機管理は、二次災害防止対策と呼ばれる新たな安全管理を課題にしている。危機管理を考える場合、罹災者の救済対策と二次災害防止対策を峻別して対応する方が危機管理を効率よく敏速に運営できる。
罹災者救済とは、被害を受けた人々の人命救助、健康・衛生環境維持、生活資源の確保である。これらの活動を総称して教護・救援活動と呼ぶ。
二次災害防止とは、事故や災害によって誘発される災害で、東日本大震災(東北関東大震災)時の東電福島原発事故は典型的な二次災害である。地震と津波によって生じた原発の事故とは、東電が福島第一原子力発電所(東電福島第一原発)に設定していた原発事後防止機能の崩壊と機能不全を意味する。発電機能を失う状態が東電にとって原発の事故による損失である。つまり、東電の原発事故の主な意味は福島第一原子力発電所が発電停止になったことである。
当然、地震によって発電停止になった原発は、単なる発電機能不全ではすまない。何故なら、その発電の仕組みはウランの核分裂による巨大な熱エネルギーを蒸気の力に変えて電気を作るのであるから、巨大な熱発生から生じる二次災害、つまり原子炉内の加熱状態やその周辺の影響によって生じる事故が予測される。事故によって生じた発電停止(事故)を原因として、新しい事故発生の可能性が生まれる。この新しく生じる事故への対応を二次災害対策と呼んでいる。
原発事故に限らず、すべての事故では、必ず二次災害を引き起こす可能性がある。事故とは一種の機能性と構造性の崩壊過程である以上、最終的な崩壊状態まで事故は進行し続ける。
道具の故障と原発の事故を比較すれば、システムが大きくなるに従い、事故は複雑になることが理解される。つまり、システムの機能停止状態から、次々と新しい事故が誘発され、事故はシステム機能の中断から決定的な死に至るまで進行する異なる段階と過程を持つ。丁度、軽い病気で働かなくなった身体が、次第に重い病気に罹り、そして最後は死を迎えるように。
このように、複雑で巨大な系では、軽い故障から重大な事故、そして系の崩壊とその環境への重大でネガティブな影響、その影響による環境での事故の誘発等々のように、複雑な人工物は生物と同じように、その機能不全状態が、その機能と構造が壊滅する幾つかの過程に階層化されることになる。
例えば、原子力発電所でも、発電能力を失った段階から、発電所の火災、水素爆発、建屋の崩壊、放射能汚染拡大、炉心溶融、原子炉崩壊、重大放射能汚染と事故は進化し続ける。そして、最終的には、その原子炉での活発な核反応が中止するまで事故は連鎖し続ける。
原子炉が発電機能を失った状態(事故発生)から次の事故(火災発生等)が発生することを二次災害と考える。二次災害は事故発生によって必ずしも生じる訳ではない。何故なら、原子炉停止事故に付随して生じる事故対策(安全管理)が行われていれば、二次災害は生じないからである。換言すると、二次災害防止対策でも食い止められない結果が水素爆発や火災事故という事象である。
つまり、津波や地震による原発停止(事故)に起因して生じる二次災害(火災事故等)への対策、つまり水素爆発防止や火災防止の対策が不十分であったか、もしくは二次災害防止システムが機能不全を起こしていたことを意味する。
また、同時に原発の事故よって被災者が生まれる。その被災者の救援・救護体制が二次災害での危機管理となる。そして、水素爆発や火災によって誘発される三次災害、例えばさらに炉心からの高熱の発生や、高温の金属(炉心や使用済み核燃料)が水と反応することでさらに多量の水素が発生し、そして水素が空気と触れ大爆発を起こし、建屋等が完全に崩壊する。そして、最悪の事態では、原子炉内の燃料棒の溶融が起こり、多量の放射性物質が外に漏れることが予測される。
原子力発電所のように巨大なシステムでは、災害過程は複雑となる。一次災害(地震による原子炉停止・事故)が二次災害(津波による冷却機機能不全)を起こし、それが三次災害(冷却装置の故障による原子炉のオーバーヒート)を起こす等々と、事故は次第に大きく重大になる。このようにして、事故の連鎖が進み、最終的に重大事故となる。
危機管理と安全管理の連関性
先ず、システムを運営するためには、そのシステムの安全管理体制が造られる。大雨、地震や人的ミスがあったとしても災害や事故に繋がらない状態を安全管理が機能していると言う。しかし、そのシステムがそれらの状況によって機能しなくなる。これが事故や災害である。これらの機能不全状態はゼロと100%の中に組み込まれる。つまり、全く何もない状態から全然機能しない状態の中にある確率的事象であり、事故は被害の程度と呼ばれる量的尺度をもって評価される。
システムが機能しなくなる可能性を考え、その対策を事前に準備して置く事を危機管理と呼ぶ。つまり、危機管理とは事故発生後の対応策である。それには、被災者(負傷者)救済対策と二次災害防止対策の主に二つの対応策があると考える。言い換えれば、危機管理として、災害後のシステムの状況に合った災害防止策が検討されることを意味する。
システムの機能が失われつつある状態、つまり機能不全への移行段階で生じる新たな二次、三次と連鎖して生じる災害を予期し、その対策を検討し、それに必要な資材、補助機能、援護システムを用意しておく必要がある。多重階層的な罹災者救済対策と災害防止対策からなる危機管理の構成を図1に示す。
図1 多重階層的な罹災者救済対策と災害防止対策からなる危機管理の多重構成
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事故→ 罹災者救済
二次災害防止→ 事故→ 二次災害罹災者救済
(危機管理) 三次災害防止 → → 事故→ 三次災害罹災者救済
(二次危機管理) 四次災害防止 → →
(三次危機管理)
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特に、巨大なプラントを持つ生産システムの危機管理とは、二次災害防止(二次安全管理)、三次災害防止(三次安全管理)と、システムが完全に機能不全に陥るまで、その事故の進行状況や進行段階に適応した事故防止策を準備することを意味する。図1に示したように、事故や災害進行過程に必要な、段階毎の災害防止策(多重階層的な安全管理)を準備したものが、総じて危機管理と呼ばれるものである。
つまり、それぞれの段階で取られた災害防止対策が機能しなくなった段階で、新たな事態が発生し、事故や災害の状況は変化する。その状況で生じる被害者のための救済措置が必要となる。その救済措置とさらに次の段階に災害が進行しないための災害防止策が検討される。
つまり、二次災害の状況から考えられる危機管理が生まれる。これを二次危機管理と呼ぶことにする。二次危機管理の課題は、二次災害罹災者救済対策と三次災害防止対策である。
そして、さらに三次災害防止対策で制御できない状態で事故が進行する。その事故を想定して三次危機管理が立てられる。
東電は危機管理をしていなかった
このように、事故が段階的に進行することを予測し、それぞれの段階で安全管理と危機管理を構築する必要が生じる。図1は、それらの多重階層的な罹災者救済対策と災害防止対策からなる危機管理の多重構成を示したものである。
巨大なコンビナート、原子力発電所、都市、社会インフラなどの巨大な生産や生活システムでの災害では、一つの事故が副次的に、そして連鎖的に新たな事故を生み出し、二次、三次、四次と多重に災害が連鎖進行し続ける。それらのシステムが完全に崩壊するまで事故は進行し続ける。そのため、図1に示したように、多重の被災者救援と防止対策を構成する危機管理と安全管理の連関構造が必要となる。
その意味で、東電は危機管理を考えていなかったことが、今回の東日本大震災(東北関東大震災)時の東電福島第一原発事故で明らかになったといえる。二次災害で被爆者となるのは救済活動に参加した東電職員、自衛隊、警察、レスキュー隊や近隣の市民である。これらの被害者の救済対策までを東電が準備していたとは思われない。また、炉心溶融に至るまでの段階、冷却装置を動かす電源確保を事前に検討していた訳でもなさそうである。そのことから、東電の責任の重大さが問われることは避けられないだろう。
また、同時に事故の初期段階で、東電の対応に対する政府の対応にも問題があった。東電の冷却装置の故障への対応に対して、最も大切な初期段階では、経済産業省の「原子力安全・保安院」は東電の対策をそのまま受け入れていた。その対応は今から見れば誤りであった。つまり、東電に対して、厳しい姿勢を取れなかった経済通産省の原子力行政や体質を検討する必要がある。
参考資料
(1) 槌田和弘 大塚直監修 『環境リスク管理と予防原理 –法学的・経済学的検討』 2010年6月、396p
吉井博明 田中敦 『災害危機管理論入門-防災危機管理担当者のための基礎講座』 シリーズ災害と社会 第3巻 2003年4月、弘文堂
(2)ロジャー・コングレント 「危機管理の政治経済学 ‐政治的意思決定における合理的選択、無知、そして拙速‐」
http://rdc1.net/forthcoming/Toward%20a%20Political%20Economy%20of%20Crisis%20Management%20(Japanese).pdf
(3)三石博行 「市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か ‐現代社会での安全管理(1)‐」2011年3月15日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
(4)三石博行 「現代社会での安全管理」 2011年3月17日
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
(5)三石博行 「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
修正 (誤字、文書追加) 2011年3月20日
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での危機管理
1、「危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
2、「企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3、「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
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三石博行
「危機管理」の社会科学的意味
一般に、危機とは突然現れた好ましくない事象を意味する。従って、「危機感」とは観察者が主観的に感じている予測出来なかった好ましくない事象に対する感情である。好ましくない事象に対して抱く否定的感情の程度によっては、不快、不安、恐れ、恐怖という用語で説明される。
観察者を取り巻く好ましくない事象を「危機的状況」と呼ぶ。そして、観察者は好ましくない事象を言葉で表現できる場合と言葉で表現できない場合がある。例えば、好ましくない事象を言語化できる場合には危機的状況を「あるもの」として語ることが出来る。しかし、それを言語化できない状態では「なにものか」に対する不安、恐れや恐怖という感情となる。
つまり、一般に我々が語る「危機」の意味は、心理的要因から社会的要因までを含むのである。
危機管理(リスクマネージメント リスク管理)に関する社会科学的研究は、特に、環境破壊や汚染防止に関する法学や経済学的研究、企業の危機管理、災害に対する危機管理に関する経営学的研究等がある。これらの社会科学の中で危機管理の概念が述べられてきた。(1)
社会科学系の危機管理に関する先行研究の中で定義されてきた「危機管理」の「危機」の概念は以下の二つにまとめることが出来る。(2)
1、 予測不可能な好ましくない事象 (予測不可能 )
2、 何らかの対応策が緊急に必要となる事象(緊急性 対策不可能)
つまり、まず、好ましくない事象の緊急性とその状況への対応に関する無知の状態を危機と位置付ける。そして、その危機に関する「管理法・対策・政策」を危機管理と呼ぶ。これが、今日の社会科学で使われている危機管理の概念とされている。
安全管理(事故防止対策)と異なる事故対策(危機管理)
上記した社会科学の中でこれまで使われてきた「危機管理」の意味から、危機管理の概念は非常に広い意味で使われている。例えば、災害予防(防災)、安全管理、災害後の対策まで危機管理として語られる。一方、安全管理の概念も同様に広い意味で使われ、危機管理と安全管理の明確な概念的区別は存在していない。
しかし、現実の災害対策では、災害に対する予防措置と災害後の対策は明確に区分されている。そこで、我々は、災害防止(防災)を目的にした対策を安全管理とし、その安全管理が破られ災害が発生した後に、罹災者の救済、二次災害防止等に関する対策を危機管理として、二つの概念を峻別した。つまり、前節では、安全管理と危機管理の違いについて述べた。(3)
まず、安全管理の意味について述べる。安全管理とは一言で述べるなら、災害からシステムを守るための対策である。事故防止の対策を安全管理と考える。防災対策も安全管理の一例である。つまり、地震に対する建物の耐震強度の基準を法律で決めることは、震災予防対策であり安全管理の中に含まれる。また、洪水に対する堤防の強化工事は水害予防対策であり、同じようにこれも安全管理の一例であると言える。安全管理に関しては、前節「現代社会での安全管理」で述べた。(4)
次に危機管理の意味について述べる。危機管理とは安全管理のシステムが破壊された時の対策である。事故や災害の予防対策では発生した事態に対応し解決できない状態が生じる。その場合に取らなければならない緊急処置は大きく二つある。一つは罹災者の救済であり、もう一つは二次災害の防止である。
例えば交通事故では、救急車を呼び負傷者を病院に運送し人命救済を行う。そして同時に交通事故が引き起こす二次災害(交通事故、車両火災、交通渋滞)を防止する。これが事故や災害が発生した後に取られる対策・危機管理である。つまり、事故・災害後の被災者救済と二次災害防止対策が危機管理に含まれる。
二つの事故対策課題・救済と二次災害防止
完璧な防災システムの構築は不可能である。防災システムの崩壊は、畑村洋一郎氏が「失敗」とは期待値に至らなかったと評価された値であり、すべての行為に確率的に付随する評価であると考えるように(5)、事故や災害防止のシステムの崩壊(機能不全)はすべてのそれらのシステムの機能上、確率的に発生する事象であると考えなければならない。
言い換えると安全管理の故障や崩壊はすべての安全管理システムに組み込まれている確率的な発生事象である。予防対策を講じる場合に、同時に必要な対策としてその予防対策の前提条件を超えて生じる事故や災害の発生への対応策、つまり事故や災害の発生後の対策である。この対策を危機管理と呼んでいる。危機管理は災害や防災システムの崩壊によって生じる罹災者(負傷者)の救援や二次災害への対応策である。
例えば、洪水や津波による堤防や防波堤の決壊(防災システムの崩壊と機能不全)つまり災害による被害者救済と、浸水や洪水によって引き起こされる二次災害の防止、例えば、今回の東日本大震災で経験したように、火災、原発事故、周辺社会インフラ機能麻痺・運輸機能不全、電力や燃料不足の発生等々、避難所での疾病発生、衛生環境問題、救援物資不足等々が挙げられる。
あるシステムの安全管理の崩壊によって、そのシステムでの危機管理が起動する。その危機管理の機能は、そのシステム内で発生した被害者(負傷者)の救済や犠牲者の処理等、被害への対応策とそのシステムの崩壊によって生じるそのシステム内の別の災害発生やそのシステムの外に波及して誘発される他の災害への予防策、つまり二次災害防止対策の二つの課題を抱える。
危機管理と二次災害対策(安全管理)
つまり、危機管理は、二次災害防止対策と呼ばれる新たな安全管理を課題にしている。危機管理を考える場合、罹災者の救済対策と二次災害防止対策を峻別して対応する方が危機管理を効率よく敏速に運営できる。
罹災者救済とは、被害を受けた人々の人命救助、健康・衛生環境維持、生活資源の確保である。これらの活動を総称して教護・救援活動と呼ぶ。
二次災害防止とは、事故や災害によって誘発される災害で、東日本大震災(東北関東大震災)時の東電福島原発事故は典型的な二次災害である。地震と津波によって生じた原発の事故とは、東電が福島第一原子力発電所(東電福島第一原発)に設定していた原発事後防止機能の崩壊と機能不全を意味する。発電機能を失う状態が東電にとって原発の事故による損失である。つまり、東電の原発事故の主な意味は福島第一原子力発電所が発電停止になったことである。
当然、地震によって発電停止になった原発は、単なる発電機能不全ではすまない。何故なら、その発電の仕組みはウランの核分裂による巨大な熱エネルギーを蒸気の力に変えて電気を作るのであるから、巨大な熱発生から生じる二次災害、つまり原子炉内の加熱状態やその周辺の影響によって生じる事故が予測される。事故によって生じた発電停止(事故)を原因として、新しい事故発生の可能性が生まれる。この新しく生じる事故への対応を二次災害対策と呼んでいる。
原発事故に限らず、すべての事故では、必ず二次災害を引き起こす可能性がある。事故とは一種の機能性と構造性の崩壊過程である以上、最終的な崩壊状態まで事故は進行し続ける。
道具の故障と原発の事故を比較すれば、システムが大きくなるに従い、事故は複雑になることが理解される。つまり、システムの機能停止状態から、次々と新しい事故が誘発され、事故はシステム機能の中断から決定的な死に至るまで進行する異なる段階と過程を持つ。丁度、軽い病気で働かなくなった身体が、次第に重い病気に罹り、そして最後は死を迎えるように。
このように、複雑で巨大な系では、軽い故障から重大な事故、そして系の崩壊とその環境への重大でネガティブな影響、その影響による環境での事故の誘発等々のように、複雑な人工物は生物と同じように、その機能不全状態が、その機能と構造が壊滅する幾つかの過程に階層化されることになる。
例えば、原子力発電所でも、発電能力を失った段階から、発電所の火災、水素爆発、建屋の崩壊、放射能汚染拡大、炉心溶融、原子炉崩壊、重大放射能汚染と事故は進化し続ける。そして、最終的には、その原子炉での活発な核反応が中止するまで事故は連鎖し続ける。
原子炉が発電機能を失った状態(事故発生)から次の事故(火災発生等)が発生することを二次災害と考える。二次災害は事故発生によって必ずしも生じる訳ではない。何故なら、原子炉停止事故に付随して生じる事故対策(安全管理)が行われていれば、二次災害は生じないからである。換言すると、二次災害防止対策でも食い止められない結果が水素爆発や火災事故という事象である。
つまり、津波や地震による原発停止(事故)に起因して生じる二次災害(火災事故等)への対策、つまり水素爆発防止や火災防止の対策が不十分であったか、もしくは二次災害防止システムが機能不全を起こしていたことを意味する。
また、同時に原発の事故よって被災者が生まれる。その被災者の救援・救護体制が二次災害での危機管理となる。そして、水素爆発や火災によって誘発される三次災害、例えばさらに炉心からの高熱の発生や、高温の金属(炉心や使用済み核燃料)が水と反応することでさらに多量の水素が発生し、そして水素が空気と触れ大爆発を起こし、建屋等が完全に崩壊する。そして、最悪の事態では、原子炉内の燃料棒の溶融が起こり、多量の放射性物質が外に漏れることが予測される。
原子力発電所のように巨大なシステムでは、災害過程は複雑となる。一次災害(地震による原子炉停止・事故)が二次災害(津波による冷却機機能不全)を起こし、それが三次災害(冷却装置の故障による原子炉のオーバーヒート)を起こす等々と、事故は次第に大きく重大になる。このようにして、事故の連鎖が進み、最終的に重大事故となる。
危機管理と安全管理の連関性
先ず、システムを運営するためには、そのシステムの安全管理体制が造られる。大雨、地震や人的ミスがあったとしても災害や事故に繋がらない状態を安全管理が機能していると言う。しかし、そのシステムがそれらの状況によって機能しなくなる。これが事故や災害である。これらの機能不全状態はゼロと100%の中に組み込まれる。つまり、全く何もない状態から全然機能しない状態の中にある確率的事象であり、事故は被害の程度と呼ばれる量的尺度をもって評価される。
システムが機能しなくなる可能性を考え、その対策を事前に準備して置く事を危機管理と呼ぶ。つまり、危機管理とは事故発生後の対応策である。それには、被災者(負傷者)救済対策と二次災害防止対策の主に二つの対応策があると考える。言い換えれば、危機管理として、災害後のシステムの状況に合った災害防止策が検討されることを意味する。
システムの機能が失われつつある状態、つまり機能不全への移行段階で生じる新たな二次、三次と連鎖して生じる災害を予期し、その対策を検討し、それに必要な資材、補助機能、援護システムを用意しておく必要がある。多重階層的な罹災者救済対策と災害防止対策からなる危機管理の構成を図1に示す。
図1 多重階層的な罹災者救済対策と災害防止対策からなる危機管理の多重構成
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事故→ 罹災者救済
二次災害防止→ 事故→ 二次災害罹災者救済
(危機管理) 三次災害防止 → → 事故→ 三次災害罹災者救済
(二次危機管理) 四次災害防止 → →
(三次危機管理)
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
特に、巨大なプラントを持つ生産システムの危機管理とは、二次災害防止(二次安全管理)、三次災害防止(三次安全管理)と、システムが完全に機能不全に陥るまで、その事故の進行状況や進行段階に適応した事故防止策を準備することを意味する。図1に示したように、事故や災害進行過程に必要な、段階毎の災害防止策(多重階層的な安全管理)を準備したものが、総じて危機管理と呼ばれるものである。
つまり、それぞれの段階で取られた災害防止対策が機能しなくなった段階で、新たな事態が発生し、事故や災害の状況は変化する。その状況で生じる被害者のための救済措置が必要となる。その救済措置とさらに次の段階に災害が進行しないための災害防止策が検討される。
つまり、二次災害の状況から考えられる危機管理が生まれる。これを二次危機管理と呼ぶことにする。二次危機管理の課題は、二次災害罹災者救済対策と三次災害防止対策である。
そして、さらに三次災害防止対策で制御できない状態で事故が進行する。その事故を想定して三次危機管理が立てられる。
東電は危機管理をしていなかった
このように、事故が段階的に進行することを予測し、それぞれの段階で安全管理と危機管理を構築する必要が生じる。図1は、それらの多重階層的な罹災者救済対策と災害防止対策からなる危機管理の多重構成を示したものである。
巨大なコンビナート、原子力発電所、都市、社会インフラなどの巨大な生産や生活システムでの災害では、一つの事故が副次的に、そして連鎖的に新たな事故を生み出し、二次、三次、四次と多重に災害が連鎖進行し続ける。それらのシステムが完全に崩壊するまで事故は進行し続ける。そのため、図1に示したように、多重の被災者救援と防止対策を構成する危機管理と安全管理の連関構造が必要となる。
その意味で、東電は危機管理を考えていなかったことが、今回の東日本大震災(東北関東大震災)時の東電福島第一原発事故で明らかになったといえる。二次災害で被爆者となるのは救済活動に参加した東電職員、自衛隊、警察、レスキュー隊や近隣の市民である。これらの被害者の救済対策までを東電が準備していたとは思われない。また、炉心溶融に至るまでの段階、冷却装置を動かす電源確保を事前に検討していた訳でもなさそうである。そのことから、東電の責任の重大さが問われることは避けられないだろう。
また、同時に事故の初期段階で、東電の対応に対する政府の対応にも問題があった。東電の冷却装置の故障への対応に対して、最も大切な初期段階では、経済産業省の「原子力安全・保安院」は東電の対策をそのまま受け入れていた。その対応は今から見れば誤りであった。つまり、東電に対して、厳しい姿勢を取れなかった経済通産省の原子力行政や体質を検討する必要がある。
参考資料
(1) 槌田和弘 大塚直監修 『環境リスク管理と予防原理 –法学的・経済学的検討』 2010年6月、396p
吉井博明 田中敦 『災害危機管理論入門-防災危機管理担当者のための基礎講座』 シリーズ災害と社会 第3巻 2003年4月、弘文堂
(2)ロジャー・コングレント 「危機管理の政治経済学 ‐政治的意思決定における合理的選択、無知、そして拙速‐」
http://rdc1.net/forthcoming/Toward%20a%20Political%20Economy%20of%20Crisis%20Management%20(Japanese).pdf
(3)三石博行 「市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か ‐現代社会での安全管理(1)‐」2011年3月15日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
(4)三石博行 「現代社会での安全管理」 2011年3月17日
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
(5)三石博行 「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
修正 (誤字、文書追加) 2011年3月20日
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での危機管理
1、「危機管理と安全管理の独自性と連関性 -現代社会での危機管理(1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
2、「企業、行政主導の危機管理体制の必要性、その限界への課題(市民ボランティアの役割) -現代社会での危機管理(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_21.html
3、「災害ボランィア活動を生み出す文化的土壌としてのコミュニテイ・市民運動 ‐現代社会での危機管理(3)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html
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2011年3月17日木曜日
日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう
東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築
三石博行
困難に立ち向かう勇気と対応課題
今、東日本大震災(東北関東大震災)の地震と津波による罹災者の救援活動は十分に展開していない。そして、同時に二次災害・東電福島原発事故によって被害はさらに深刻化しつつある。しかし、この事態に立ち向かい、何とか乗り越えなければならない。
この事態に対して政府の組織的、合理的、現実的な対応が求められる。そのためには
1、 対策課題を明確にする。
2、 対策行動の獲得目標を明確にする。
3、 対策部隊の構成、役割と機能を明確にする。
4、 すべての対策を指揮する司令部の責任と義務を明確にする。
そして、この政府の組織力や対応能力は、それを運営する人々の士気によって左右される。つまり、困難に立ち向かう勇気、豊かな想像力、企画力と実行力が必要とされ、その能力を発揮できる人材によって運営される必要がある。
その組織のリーダーである管直人首相は、指導力を発揮し、あらゆる地域や分野から人材を起用し、適材適所に配置し、現在日本の持つ最大限の実行力を発揮させ、この困難に対処して行くだろう。これまでの管総理大臣の対応の速さ、自衛隊導入、東電への対応等々はそれなりに評価されている。そして、国民は管首相がさらに強いリーダーシップを発揮することを期待している。
政府主導の組織的対応・司令部の役割
この事態への対応は、丁度、戦争(軍事的政策)と類似している。
まず、対応すべき震災政策を二次災害防止対策と罹災者救援対策に分ける。そして、それらの対策を実行する機能を構築する。その機能は、司令部とその指令によって行動する前線部隊と後方部隊の二つの機動部隊によって構成される。
司令部は政府の震災対策本部であり、最も重要な機能である。そこには、管直人首相を中心とする政府機能である。首相のリーダーシップを発揮できる体制を構築し、それぞれの課題別に対策委員会を構成する場合もある。そのメンバーは、政府閣僚、官僚、各省の専門家、超党派で構成する有能な政治家集団、専門家、地方自治体(知事、市町村長、役人)、企業関係者、NGOボランティア団体代表、市民代表、報道関係者等々である。
司令部の役割は大きく二つある。
1、対策全体像を理解し、各部隊への適切な指令を行い、その活動を監視、評価、検証し、より合理的・現実的行動を求める適切な指示を与える。
2、日本国民と海外の国々の支援と協力を求めるために、災害情報を的確に伝える。そのために報道、国会、海外への情報を公開する。
前線部隊の構成と役割
前線部隊は被災地現場で活動する部隊である。その部隊は最も危険で困難な災害救助活動を担う最前線部隊とそれを後方から支えながら災害救助活動を展開する前線部隊に分ける。さらに、それらの二つの部隊に現場で指令を与える前線司令部が必要となる。
最も厳しい災害救助活動の経験を持つ部隊で最前線部隊は構成される。例えば、多くの災害救援活動の経験をもつ警察機動部隊、消防や海外支援部隊の先鋭部隊、また厳しい軍事訓練を経た、空挺部隊や歩兵部隊、さらに倒壊物を撤去する重機部隊、危険物に対応できる化学・放射能物質処理部隊が最初に災害現場に入り、先頭に立って災害救助活動を行うことになる。
最前線部隊の後方で、前線部隊は活動する。前線部隊も危険な災害地での活動を担うため、上記した重機部隊や自衛隊、予備自衛隊、警察消防隊、海外支援部隊で構成される。前線部隊は被災地の生存者救済と運搬、犠牲者探索と運搬、火災や爆発の可能性のある危険物撤去、つまり二次災害誘発物の撤去、基幹道路(国道や高速道路)、港湾、空港等の運輸インフラ・補給路の確保、避難所の整備等の災害救助活動を担う。
前線司令部は、政府の司令本部と連携しながら最前線部隊と前線部隊を現場で指揮し、前線での救助活動を支える。
後方部隊の構成と役割
後方部隊は二つの役割がある。一つは前線部隊の補給、補助を担うことである。もう一つは、避難している罹災者の生存・生活環境を確保することである。
前線部隊への補給や補助を担う部隊は、自衛隊と警察が中心となり、運輸、医療、医薬、食料、建築関係等の民間企業を入れて構築する。この部隊は、前線部隊が必要とする物資の補給、例えば運輸や重機の燃料、前線部隊員の生活物質、生存者や犠牲者と運搬、撤去された二次災害誘発物質(危険物)の運搬と処理、戦線部隊員の交代要員の補助、前線部隊の重機、機械器具、道具、部品等の交換の任務を担う。
また、同時に前線部隊によって撤去した震災残骸物を運搬処理し、災害地域の復旧活動を担う。例えば、生活道路、ライフラインの確保、避難所への生活物質の補給を担う。つまり、後方部隊は補給地との連絡を行い、被害地や罹災者が必要とする資材、生活物資を補給する。そのため、後方部隊の活動は、被災地への補給を手助けする運輸、医療、医薬、食料、建築関係等の民間企業の協力が必要となる。
より十分な後方部隊の活動を展開するためには、災害支援NGO,民間ボランティア団体、被災者組織、罹災地の自治体、企業、市民の参加が必要となる。つまり、前線部隊の補給、補助、危険作業に従事する後方部隊と罹災者の生活支援を行う後方部隊を分ける必要がある。
罹災者の生活支援を行う後方部隊は、民間ボランティア組織や市民が中心となり、全国から集まる災害支援金や支援物資を避難所へ届け、避難所の生活環境の改善を行う活動に従事することになる。この活動は、16年前の阪神淡路大震災で、ピースボート等の市民ボランティア団体が担い、また、その後の震災でも多くの市民ボランティア組織が支援活動を行ってきた。その経験を活かし、彼らの協力を得ながら、罹災者生活支援の後方部隊を組織する必要がある。
罹災者救援政策と二次災害防止政策の課題
この後の罹災者救済と東電福島原発事故により生じている二次災害を最小限に食い止めるために、以下の課題を述べる。
1、 罹災者救援政策と二次災害防止政策の二つの政策を別々の専門チームを作って対応する。
2、 二つの政策を実行する前線部隊と後方部隊を構築し、その役割・機能を明確にし、最も効率のよい機動体制を作る。
3、 罹災者救援・二次災害防止活動と東電福島原発事故対策活動での安全管理対策と危機管理対策を明確に分析し、それぞれの対策企画を創り、実行に移す。
4、 安全管理対策は、現状のシステムを補強し、被害を最小限に食い止めるための活動に集中する。
5、 危機管理対策は、最悪の事態を予測し、住民の避難、核汚染への対応、近隣諸国との交渉、核事故への救援体制等々情報を発信する。
6、 罹災者救援・二次災害防止活動での安全管理対策では、生活資源の重要度を判別判断し、最重要生活環境の復旧、生活物質の補給を優先的に行う。まず、社会インフラ、特に道路、鉄道、電気、水道、情報(通信、公共放送、新聞等)の復旧作業、生存者救済、犠牲者運搬、避難所確保、一次生活資源と呼ばれる生活必需品(食料、衣料、燃料)や医療、公衆衛生環境、トイレや風呂等)の補給を急ぐ。
7、 罹災者救援・二次災害防止活動での危機管理対策では、二次災害の発生、例えば漏電による火災、雨による土砂災害、疫病の発生、盗難、デマや流言による混乱に備える。
8、 東電福島原発事故での安全管理対策では、致命的な原発事故を炉心融合として位置付け、それまでに取ることができる対策を段階的安全管理とし、段階ごとの適切な処置を出来るだけ早く行うことが求められている。住民の避難、段階ごとの放射能汚染への対応と原子炉事故対策、国際的な支援要請、情報公開等と積極的に行う。
9、 東電福島原発事故での危機管理対策では、最終的な事故、つまり炉心融合によって原子炉が破壊され、大量の放射能物質が外部に漏れる事故を仮定して、その事故後の対策を準備して置く必要がある。例えば、住民の避難、放射能汚染への対応、近隣諸国への情報公開と交渉、放射能汚染によって生じる二次災害(環境汚染、食料汚染、立ち入り禁止地帯発生、産業界へ影響等々)への対応を急ぐ。
国民は力を合わせて困難を克服しよう
前線部隊と後方部隊の協同作業展開、職業的災害救助組織(自衛隊、警察消防、レスキュー隊)、企業、民間ボランティア(NGO)、自治体、市民団体(自治会や市民グループ)のすべての国の災害救助を行うことの出来る人材と組織、情熱を持った人々、さらに義援金や支援物資を提供する国民の力を集めることによって、この困難な状況を克服できるのである。
我々は、阪神淡路大震災とその後の震災から、災害に対する国民運動を展開し、多くの教訓を蓄積してきた。その教訓は、東日本大震災(東北関東大震災)で活かすことが出来る。
また、重大な二次災害・東電福島原発事故への対応が問われている。一刻の猶予も許されない重大事故防止への対応を急がなければならない。
そして、この問題は、これまでの原子力行政のあり方や旧国営企業から引き継がれた官僚的経営体質に関する検証が必要になるだろう。それは、今回の東電・電力会社に限らず、福知山線で重大人災事故を起したJR西日本、さらには赤字を繰り返してきたJALなども、基本的には共通する問題を持っている。つまり、この問題は、官僚的経営体質、原子力行政、日本社会の安全管理や危機管理問題等々に展開することは避けられないだろう。
つまり、21世紀の日本社会にとって重大な問題を提起しているといえるのである。その意味で、この問題に真摯に取り組むことによってしか、我々の将来はないのである。
参考資料
(1)三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」2011年3月16日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
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修正(誤字) 2011年3月17日
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三石博行
困難に立ち向かう勇気と対応課題
今、東日本大震災(東北関東大震災)の地震と津波による罹災者の救援活動は十分に展開していない。そして、同時に二次災害・東電福島原発事故によって被害はさらに深刻化しつつある。しかし、この事態に立ち向かい、何とか乗り越えなければならない。
この事態に対して政府の組織的、合理的、現実的な対応が求められる。そのためには
1、 対策課題を明確にする。
2、 対策行動の獲得目標を明確にする。
3、 対策部隊の構成、役割と機能を明確にする。
4、 すべての対策を指揮する司令部の責任と義務を明確にする。
そして、この政府の組織力や対応能力は、それを運営する人々の士気によって左右される。つまり、困難に立ち向かう勇気、豊かな想像力、企画力と実行力が必要とされ、その能力を発揮できる人材によって運営される必要がある。
その組織のリーダーである管直人首相は、指導力を発揮し、あらゆる地域や分野から人材を起用し、適材適所に配置し、現在日本の持つ最大限の実行力を発揮させ、この困難に対処して行くだろう。これまでの管総理大臣の対応の速さ、自衛隊導入、東電への対応等々はそれなりに評価されている。そして、国民は管首相がさらに強いリーダーシップを発揮することを期待している。
政府主導の組織的対応・司令部の役割
この事態への対応は、丁度、戦争(軍事的政策)と類似している。
まず、対応すべき震災政策を二次災害防止対策と罹災者救援対策に分ける。そして、それらの対策を実行する機能を構築する。その機能は、司令部とその指令によって行動する前線部隊と後方部隊の二つの機動部隊によって構成される。
司令部は政府の震災対策本部であり、最も重要な機能である。そこには、管直人首相を中心とする政府機能である。首相のリーダーシップを発揮できる体制を構築し、それぞれの課題別に対策委員会を構成する場合もある。そのメンバーは、政府閣僚、官僚、各省の専門家、超党派で構成する有能な政治家集団、専門家、地方自治体(知事、市町村長、役人)、企業関係者、NGOボランティア団体代表、市民代表、報道関係者等々である。
司令部の役割は大きく二つある。
1、対策全体像を理解し、各部隊への適切な指令を行い、その活動を監視、評価、検証し、より合理的・現実的行動を求める適切な指示を与える。
2、日本国民と海外の国々の支援と協力を求めるために、災害情報を的確に伝える。そのために報道、国会、海外への情報を公開する。
前線部隊の構成と役割
前線部隊は被災地現場で活動する部隊である。その部隊は最も危険で困難な災害救助活動を担う最前線部隊とそれを後方から支えながら災害救助活動を展開する前線部隊に分ける。さらに、それらの二つの部隊に現場で指令を与える前線司令部が必要となる。
最も厳しい災害救助活動の経験を持つ部隊で最前線部隊は構成される。例えば、多くの災害救援活動の経験をもつ警察機動部隊、消防や海外支援部隊の先鋭部隊、また厳しい軍事訓練を経た、空挺部隊や歩兵部隊、さらに倒壊物を撤去する重機部隊、危険物に対応できる化学・放射能物質処理部隊が最初に災害現場に入り、先頭に立って災害救助活動を行うことになる。
最前線部隊の後方で、前線部隊は活動する。前線部隊も危険な災害地での活動を担うため、上記した重機部隊や自衛隊、予備自衛隊、警察消防隊、海外支援部隊で構成される。前線部隊は被災地の生存者救済と運搬、犠牲者探索と運搬、火災や爆発の可能性のある危険物撤去、つまり二次災害誘発物の撤去、基幹道路(国道や高速道路)、港湾、空港等の運輸インフラ・補給路の確保、避難所の整備等の災害救助活動を担う。
前線司令部は、政府の司令本部と連携しながら最前線部隊と前線部隊を現場で指揮し、前線での救助活動を支える。
後方部隊の構成と役割
後方部隊は二つの役割がある。一つは前線部隊の補給、補助を担うことである。もう一つは、避難している罹災者の生存・生活環境を確保することである。
前線部隊への補給や補助を担う部隊は、自衛隊と警察が中心となり、運輸、医療、医薬、食料、建築関係等の民間企業を入れて構築する。この部隊は、前線部隊が必要とする物資の補給、例えば運輸や重機の燃料、前線部隊員の生活物質、生存者や犠牲者と運搬、撤去された二次災害誘発物質(危険物)の運搬と処理、戦線部隊員の交代要員の補助、前線部隊の重機、機械器具、道具、部品等の交換の任務を担う。
また、同時に前線部隊によって撤去した震災残骸物を運搬処理し、災害地域の復旧活動を担う。例えば、生活道路、ライフラインの確保、避難所への生活物質の補給を担う。つまり、後方部隊は補給地との連絡を行い、被害地や罹災者が必要とする資材、生活物資を補給する。そのため、後方部隊の活動は、被災地への補給を手助けする運輸、医療、医薬、食料、建築関係等の民間企業の協力が必要となる。
より十分な後方部隊の活動を展開するためには、災害支援NGO,民間ボランティア団体、被災者組織、罹災地の自治体、企業、市民の参加が必要となる。つまり、前線部隊の補給、補助、危険作業に従事する後方部隊と罹災者の生活支援を行う後方部隊を分ける必要がある。
罹災者の生活支援を行う後方部隊は、民間ボランティア組織や市民が中心となり、全国から集まる災害支援金や支援物資を避難所へ届け、避難所の生活環境の改善を行う活動に従事することになる。この活動は、16年前の阪神淡路大震災で、ピースボート等の市民ボランティア団体が担い、また、その後の震災でも多くの市民ボランティア組織が支援活動を行ってきた。その経験を活かし、彼らの協力を得ながら、罹災者生活支援の後方部隊を組織する必要がある。
罹災者救援政策と二次災害防止政策の課題
この後の罹災者救済と東電福島原発事故により生じている二次災害を最小限に食い止めるために、以下の課題を述べる。
1、 罹災者救援政策と二次災害防止政策の二つの政策を別々の専門チームを作って対応する。
2、 二つの政策を実行する前線部隊と後方部隊を構築し、その役割・機能を明確にし、最も効率のよい機動体制を作る。
3、 罹災者救援・二次災害防止活動と東電福島原発事故対策活動での安全管理対策と危機管理対策を明確に分析し、それぞれの対策企画を創り、実行に移す。
4、 安全管理対策は、現状のシステムを補強し、被害を最小限に食い止めるための活動に集中する。
5、 危機管理対策は、最悪の事態を予測し、住民の避難、核汚染への対応、近隣諸国との交渉、核事故への救援体制等々情報を発信する。
6、 罹災者救援・二次災害防止活動での安全管理対策では、生活資源の重要度を判別判断し、最重要生活環境の復旧、生活物質の補給を優先的に行う。まず、社会インフラ、特に道路、鉄道、電気、水道、情報(通信、公共放送、新聞等)の復旧作業、生存者救済、犠牲者運搬、避難所確保、一次生活資源と呼ばれる生活必需品(食料、衣料、燃料)や医療、公衆衛生環境、トイレや風呂等)の補給を急ぐ。
7、 罹災者救援・二次災害防止活動での危機管理対策では、二次災害の発生、例えば漏電による火災、雨による土砂災害、疫病の発生、盗難、デマや流言による混乱に備える。
8、 東電福島原発事故での安全管理対策では、致命的な原発事故を炉心融合として位置付け、それまでに取ることができる対策を段階的安全管理とし、段階ごとの適切な処置を出来るだけ早く行うことが求められている。住民の避難、段階ごとの放射能汚染への対応と原子炉事故対策、国際的な支援要請、情報公開等と積極的に行う。
9、 東電福島原発事故での危機管理対策では、最終的な事故、つまり炉心融合によって原子炉が破壊され、大量の放射能物質が外部に漏れる事故を仮定して、その事故後の対策を準備して置く必要がある。例えば、住民の避難、放射能汚染への対応、近隣諸国への情報公開と交渉、放射能汚染によって生じる二次災害(環境汚染、食料汚染、立ち入り禁止地帯発生、産業界へ影響等々)への対応を急ぐ。
国民は力を合わせて困難を克服しよう
前線部隊と後方部隊の協同作業展開、職業的災害救助組織(自衛隊、警察消防、レスキュー隊)、企業、民間ボランティア(NGO)、自治体、市民団体(自治会や市民グループ)のすべての国の災害救助を行うことの出来る人材と組織、情熱を持った人々、さらに義援金や支援物資を提供する国民の力を集めることによって、この困難な状況を克服できるのである。
我々は、阪神淡路大震災とその後の震災から、災害に対する国民運動を展開し、多くの教訓を蓄積してきた。その教訓は、東日本大震災(東北関東大震災)で活かすことが出来る。
また、重大な二次災害・東電福島原発事故への対応が問われている。一刻の猶予も許されない重大事故防止への対応を急がなければならない。
そして、この問題は、これまでの原子力行政のあり方や旧国営企業から引き継がれた官僚的経営体質に関する検証が必要になるだろう。それは、今回の東電・電力会社に限らず、福知山線で重大人災事故を起したJR西日本、さらには赤字を繰り返してきたJALなども、基本的には共通する問題を持っている。つまり、この問題は、官僚的経営体質、原子力行政、日本社会の安全管理や危機管理問題等々に展開することは避けられないだろう。
つまり、21世紀の日本社会にとって重大な問題を提起しているといえるのである。その意味で、この問題に真摯に取り組むことによってしか、我々の将来はないのである。
参考資料
(1)三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」2011年3月16日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
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修正(誤字) 2011年3月17日
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2011年3月16日水曜日
社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
現代社会での安全管理(3)
三石博行
社会インフラ事業としての安全管理
前節では、民間企業一般の安全管理の課題について述べた。今回は、特に、公共性の強い企業、例えば社会インフラを支える企業や事業の安全管理について述べる。
公共的役割を強く担う企業内では、労働力安全管理のみでなく、その企業活動そのものが持つ社会システム上の安全管理に対しても国家は責任を持たなければならない。
公共的役割を強く担う企業とは、例えば、エネルギー(電気、ガス、石油、石炭等の燃料)、運輸(道路、鉄道、航空、船舶)、情報(通信、放送)、公共事業(上下水道、社会福祉、医療、学校、文化事業)に従事している企業である。多くは、過去に国が運営していたものを民間企業化したもの、または現在も公共事業として行われているものが多い。
これらの企業の動向は直接に国民の生活環境や条件を左右する。今回、東日本大震災(東北関東大震災)で、電気、水道、鉄道、ガス等の燃料、通信などの社会インフラが崩壊した(社会インフラを担う企業が機能しなくなった)ことで国民生活は破壊されようとしている。従って、社会インフラに関係する企業の安全管理は国家が積極的に関与しなければならない。
そこで国は社会インフラを維持するために、制度的・法律的な規制を作り、その監督運営をしなければならない。それが社会インフラの安全管理体制である。
具体的な国の対策例として、多くの人命を奪う航空事故防止に対する国の取り組みについて述べる。国土交通省では、運輸安全委員会を作り、「航空事故、鉄道事故及び船舶事故並びに重大インシデント(出来事)の原因を科学的に究明し、公正・中立の立場から事故や重大インシデントの防止と被害の軽減に寄与するための」活動を行っている。この委員会は「独立した常設機関として、従来の航空・鉄道事故調査委員会と海難審判庁の原因究明部門を再編して発足」(1)したものである。
また、国民の健康破壊をもたらす公害や環境破壊に対する国の対策では、1964年に公害対策基本法を公布した。そして、1993年に公害対策基本法を廃止し、自然環境保全の政策を取り込んで環境基本法が施行された。
さらに、自然災害防止(台風、洪水、地震や津波への対策)、環境破壊防止と保全、鉄道や航空機の交通災害防止、原子力発電所等の災害防止等々、国や自治体レベルの公共機能や社会インフラを維持するための法律や制度が作られている。
社会インフラを担う企業の保護、災害事故防止は企業経営の埒内で処理できない場合が生じる。その場合、必要となる安全対策は企業経営や市場経済を越えて必要となる。そこで、行政は国民生活の保護の立場から、安全管理に関する社会制度を作り、またそのための公共事業を行うのである。
安全管理の公共経済学と防災対策
公共経済学は国や地方公共団体での公共部門が行う経済活動を研究する学問である。従って、公共性の高い社会インフラに関する経済活動の研究にも公共経済学や公共政策学が活用される。
公共政策によって、市場経済では可能にならない生活文化環境の保全を行うことになる。これらの生活文化環境の保全によって、結果的には社会経済システムの生産効率は向上することになる。代表的なものとして教育環境や都市計画などがある。そして防災もその中に含まれる。
例えば洪水災害から町を守るために堤防補強、河川工事、雨水等の排水機能の強化、避難所の設置等々の課題が挙がる。それらの課題を行政は一つ一つ解決しなければならない。しかし、同時に防災関連の予算枠がある。その予算を有効に活用しながら、現実的に防災対策を行う必要が生じる。
前節で問題になった、津波対策として10メートルの防潮堤建設の課題についてもう一度考えてみよう(2)。前節では、企業経営の視点からは理想的な安全管理は不可能であると結論した。そこで、行政は高さ5メートルの防潮堤を建設する計画を立てると仮定してみよう。
5メートルの防潮堤を作ったとして、それを越える津波による災害が生じる確率は10年間に一回あると計算される場合を仮定して、10年に一回の災害が引き起こす被害金額を計算する。何件の家が津波で壊されるのか、人的や物的被害はどの程度か、それらを計算しなければならないだろう。
その上で、災害による被害金額が大きいなら、5メートルの防潮堤でも防ぎきれない災害の確率を少なくするための対策を講じる必要が生まれる。つまり、海岸近くに人家を建てさせない。もしくは海岸近くに建造する建物に対しては、10メートル以上の津波に耐えられる建設基準を作る、それを満す場合のみ許可する等々。
行政は、防災に関する公共投資への支出金額を決定すると同時に、その防災設備で防げる災害のケースや防げない災害のケースの情報を公開し、その上で、さらに防災対策として、建造物の建築基準、耐震強度や津波対策等々を市民に提示しなければならないのである。
この公共投資に対する行政の試算とそれによる効果、そしてそれによる不備を確率的に表現し、また防災のための民間の努力課題、その基準の規制は、自然災害に対する防災対策のみでなく、消防、防犯や交通災害に対しても適用されるのである。
つまり、行政は公共投資を行う場合、その規模とそしてその経済効果を市民に説明し、またその不十分さも説明する必要がある。その上で、公共投資の理解とさらに不備に対する市民の協力を要請し、安全で安心な街づくりを呼びかける必要がある。
これがそれぞれの自治体や市民社会で等身大の公共投資・防災事業等が可能になる道筋を与え、そのための経済学、つまりそれぞれの町での市民生活に合った公共経済機能が成立するのである。
東電福島原発事故が拡大した理由
今緊急課題となっている東電福島第一原子発電所(今後は東電福島第一原発と呼ぶ)での事故に関して考えてみよう。
東電福島第一原発事故は、刻々と深刻な事態になろうとしている。この事故を深刻化させた要因を述べてみる
1、東電の情報隠しの体質(3)
2、政府の対応の遅さ
1番目の要因はすでに述べたように原発反対運動に対して東電だけでなく他の電力会社でも原発に関する情報を隠す傾向がある。その主な理由は、原発建設に伴う市民の反対運動への対応として市民に原発の安全性に関する説明を十分行って来なかった経過がある。そして、その上で原発事故が起こるとさらに情報公開をしない態度を取らざるを得ない状態になっている。原発の安全性に関する情報公開と市民を入れた話し合いが必要である。
2番の要因の一つとして、経済産業省の中に、原子力発電を推進する政策を担う機能と原子力発電の安全を監視する二つの異なる機能が同居していることが挙げられる。
つまり、経済産業省は日本の中長期の政策、「エネルギー・環境政策」の中で「原子力の推進・電力基盤の高度化」事業を推進し、2030年度以降において発電電力量に占める原子力発電比率を30-40%に上げることを計画している(4)。
そして、同時に原子力発電の安全管理に関して、国は経済産業省の中に「原子力安全・保安院」を設定している(5)。今回の東電福島第一原発事故では、国の側(経済産業省)では、原子力安全・保安院が対応していたが、この機能が経済産業省の立場に立っている限り、原子力発電を推進する側に立って行われることになる。
また、独立行政法人原子力安全基盤機構がある(6)。しかし、この機構も殆ど政府機関であると言ってよい。そのため、必然的に政府の「原子力の推進・電力基盤の高度化」事業推進の側に立ってしまう。つまり、好むと好まざるに関わらず原子力安全基盤機構が政府の政策に沿って行動することは避けがたい宿命であるとも謂える。従って、独立行政法人原子力安全基盤機構に原発の安全点検を全て任すことは出来ないだろう。特に、原発反対の立場をとって市民運動を行った人々はこの事実(原子力安全基盤機構が政府側の意見を常に代弁する事実)は骨身にしみて体験しているのである。
原発事故に対する政府の対応の甘さは、国家の中長期エネルギー戦略である「原子力の推進・電力基盤の高度化」推進事業から来るものである。そのため、政府の立場だけでなく、それに対して批判的な人々を入れない限り、2番目の課題の回答は見つからないだろう。
原発事故防止のための安全管理体制
原発事故の予防のために以下の提案を行う。
A 稼動中の原発に関する情報公開を義務化する
1、 そのために東電を始め原発を運営している電力会社に対して稼動中の原発の安全性に関する情報公開の法的義務を課す。
B 原発の安全性を議論し日本のエネルギー政策を推進するための委員会(仮称 原子力発電所安全対策会議)の設置を行う。
1、原発を誘致している地域社会の市民の参加を要請する。
2、原子力行政に対して批判的な立場の専門家、例えば原子力資料情報室(CNIC) の専門家の参加を要請する。
3、政府機関の専門家(経済産業省の役人)や独立行政法人原子力安全基盤機構の専門家の参加を要請する。
4、日本原子力学会等の原子力発電に関する専門家(研究者)の参加を要請する。
また、原発事故が発生した場合の対応として以下の提案を行う。
1、電力会社は事故に関する情報公開を行うことを法的に義務化する。情報の隠蔽に関しては刑事的罰則を設ける。
2、全ての原発事故に対して国と電力会社は一体になった対策本部を創る。この対策本部に上記した委員会(仮称 原子力発電所安全対策会議)の参加者を入れる。
3、事故へ対策は安全管理と危機管理を管轄する二つの専門チームを作り、同時並行してそれぞれの役割を進める。つまり、安全管理チームは事故を最小限に食い止める作業を進める。危機管理チームは最悪の事態を予測し、住民の避難、核汚染への対応、近隣諸国との交渉、核事故への救援体制等々の対策を事前に検討し推進する。
4、原発事故の情報を政府は専門報道官を置き逐次報道機関に公開すること。
5、事故処理後、事故原因の解明を徹底的に行い、その情報を公開すること。
以上である。
現在、東電福島第一原発の事故は深刻な被害を日本にもたらす結果となった。この事故を、今、これ以上進行させないようにあらゆる努力をしなければならない。この事故がこれ以上進まないことを祈るのみである。
そして、今後の事故によって生じる放射線汚染の被害対策とさらにその事故の原因解明、そして再び同じ事故を起さないための対策を検討しなければならない。東日本大震災(東北関東大震災)の罹災者救援活動、二次災害防止、電力や一次生活資源(最低限の生活資源)の不足、そして今回の原発事故と多くの課題を我々は抱えている。しかし、この事態を何とか国民が一丸となって乗り越えなければならないのである。
参考資料
(1) 運輸安全委員会
http://www.mlit.go.jp/jtsb/index.html
(2)三石博行 「市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か ‐現代社会での安全管理(1)‐」 2011年3月15日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
(3)三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」2011年3月16日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
(4)経済産業省 「エネルギー・環境」「28原子力の推進・電力基盤の高度化」
http://www.meti.go.jp/policy/policy_management/19fy-AR2007/ARpdf/AR19fy_2_05policy.pdf
(5)経済産業省 原子力安全・保安院(NISA)
http://www.nisa.meti.go.jp/
(6)独立行政法人 原子力安全基盤機構 JNES
http://www.jnes.go.jp/tokushu/keinen/businessman/03.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での安全管理
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
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修正(誤字、文書追加) 2011年3月17日
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三石博行
社会インフラ事業としての安全管理
前節では、民間企業一般の安全管理の課題について述べた。今回は、特に、公共性の強い企業、例えば社会インフラを支える企業や事業の安全管理について述べる。
公共的役割を強く担う企業内では、労働力安全管理のみでなく、その企業活動そのものが持つ社会システム上の安全管理に対しても国家は責任を持たなければならない。
公共的役割を強く担う企業とは、例えば、エネルギー(電気、ガス、石油、石炭等の燃料)、運輸(道路、鉄道、航空、船舶)、情報(通信、放送)、公共事業(上下水道、社会福祉、医療、学校、文化事業)に従事している企業である。多くは、過去に国が運営していたものを民間企業化したもの、または現在も公共事業として行われているものが多い。
これらの企業の動向は直接に国民の生活環境や条件を左右する。今回、東日本大震災(東北関東大震災)で、電気、水道、鉄道、ガス等の燃料、通信などの社会インフラが崩壊した(社会インフラを担う企業が機能しなくなった)ことで国民生活は破壊されようとしている。従って、社会インフラに関係する企業の安全管理は国家が積極的に関与しなければならない。
そこで国は社会インフラを維持するために、制度的・法律的な規制を作り、その監督運営をしなければならない。それが社会インフラの安全管理体制である。
具体的な国の対策例として、多くの人命を奪う航空事故防止に対する国の取り組みについて述べる。国土交通省では、運輸安全委員会を作り、「航空事故、鉄道事故及び船舶事故並びに重大インシデント(出来事)の原因を科学的に究明し、公正・中立の立場から事故や重大インシデントの防止と被害の軽減に寄与するための」活動を行っている。この委員会は「独立した常設機関として、従来の航空・鉄道事故調査委員会と海難審判庁の原因究明部門を再編して発足」(1)したものである。
また、国民の健康破壊をもたらす公害や環境破壊に対する国の対策では、1964年に公害対策基本法を公布した。そして、1993年に公害対策基本法を廃止し、自然環境保全の政策を取り込んで環境基本法が施行された。
さらに、自然災害防止(台風、洪水、地震や津波への対策)、環境破壊防止と保全、鉄道や航空機の交通災害防止、原子力発電所等の災害防止等々、国や自治体レベルの公共機能や社会インフラを維持するための法律や制度が作られている。
社会インフラを担う企業の保護、災害事故防止は企業経営の埒内で処理できない場合が生じる。その場合、必要となる安全対策は企業経営や市場経済を越えて必要となる。そこで、行政は国民生活の保護の立場から、安全管理に関する社会制度を作り、またそのための公共事業を行うのである。
安全管理の公共経済学と防災対策
公共経済学は国や地方公共団体での公共部門が行う経済活動を研究する学問である。従って、公共性の高い社会インフラに関する経済活動の研究にも公共経済学や公共政策学が活用される。
公共政策によって、市場経済では可能にならない生活文化環境の保全を行うことになる。これらの生活文化環境の保全によって、結果的には社会経済システムの生産効率は向上することになる。代表的なものとして教育環境や都市計画などがある。そして防災もその中に含まれる。
例えば洪水災害から町を守るために堤防補強、河川工事、雨水等の排水機能の強化、避難所の設置等々の課題が挙がる。それらの課題を行政は一つ一つ解決しなければならない。しかし、同時に防災関連の予算枠がある。その予算を有効に活用しながら、現実的に防災対策を行う必要が生じる。
前節で問題になった、津波対策として10メートルの防潮堤建設の課題についてもう一度考えてみよう(2)。前節では、企業経営の視点からは理想的な安全管理は不可能であると結論した。そこで、行政は高さ5メートルの防潮堤を建設する計画を立てると仮定してみよう。
5メートルの防潮堤を作ったとして、それを越える津波による災害が生じる確率は10年間に一回あると計算される場合を仮定して、10年に一回の災害が引き起こす被害金額を計算する。何件の家が津波で壊されるのか、人的や物的被害はどの程度か、それらを計算しなければならないだろう。
その上で、災害による被害金額が大きいなら、5メートルの防潮堤でも防ぎきれない災害の確率を少なくするための対策を講じる必要が生まれる。つまり、海岸近くに人家を建てさせない。もしくは海岸近くに建造する建物に対しては、10メートル以上の津波に耐えられる建設基準を作る、それを満す場合のみ許可する等々。
行政は、防災に関する公共投資への支出金額を決定すると同時に、その防災設備で防げる災害のケースや防げない災害のケースの情報を公開し、その上で、さらに防災対策として、建造物の建築基準、耐震強度や津波対策等々を市民に提示しなければならないのである。
この公共投資に対する行政の試算とそれによる効果、そしてそれによる不備を確率的に表現し、また防災のための民間の努力課題、その基準の規制は、自然災害に対する防災対策のみでなく、消防、防犯や交通災害に対しても適用されるのである。
つまり、行政は公共投資を行う場合、その規模とそしてその経済効果を市民に説明し、またその不十分さも説明する必要がある。その上で、公共投資の理解とさらに不備に対する市民の協力を要請し、安全で安心な街づくりを呼びかける必要がある。
これがそれぞれの自治体や市民社会で等身大の公共投資・防災事業等が可能になる道筋を与え、そのための経済学、つまりそれぞれの町での市民生活に合った公共経済機能が成立するのである。
東電福島原発事故が拡大した理由
今緊急課題となっている東電福島第一原子発電所(今後は東電福島第一原発と呼ぶ)での事故に関して考えてみよう。
東電福島第一原発事故は、刻々と深刻な事態になろうとしている。この事故を深刻化させた要因を述べてみる
1、東電の情報隠しの体質(3)
2、政府の対応の遅さ
1番目の要因はすでに述べたように原発反対運動に対して東電だけでなく他の電力会社でも原発に関する情報を隠す傾向がある。その主な理由は、原発建設に伴う市民の反対運動への対応として市民に原発の安全性に関する説明を十分行って来なかった経過がある。そして、その上で原発事故が起こるとさらに情報公開をしない態度を取らざるを得ない状態になっている。原発の安全性に関する情報公開と市民を入れた話し合いが必要である。
2番の要因の一つとして、経済産業省の中に、原子力発電を推進する政策を担う機能と原子力発電の安全を監視する二つの異なる機能が同居していることが挙げられる。
つまり、経済産業省は日本の中長期の政策、「エネルギー・環境政策」の中で「原子力の推進・電力基盤の高度化」事業を推進し、2030年度以降において発電電力量に占める原子力発電比率を30-40%に上げることを計画している(4)。
そして、同時に原子力発電の安全管理に関して、国は経済産業省の中に「原子力安全・保安院」を設定している(5)。今回の東電福島第一原発事故では、国の側(経済産業省)では、原子力安全・保安院が対応していたが、この機能が経済産業省の立場に立っている限り、原子力発電を推進する側に立って行われることになる。
また、独立行政法人原子力安全基盤機構がある(6)。しかし、この機構も殆ど政府機関であると言ってよい。そのため、必然的に政府の「原子力の推進・電力基盤の高度化」事業推進の側に立ってしまう。つまり、好むと好まざるに関わらず原子力安全基盤機構が政府の政策に沿って行動することは避けがたい宿命であるとも謂える。従って、独立行政法人原子力安全基盤機構に原発の安全点検を全て任すことは出来ないだろう。特に、原発反対の立場をとって市民運動を行った人々はこの事実(原子力安全基盤機構が政府側の意見を常に代弁する事実)は骨身にしみて体験しているのである。
原発事故に対する政府の対応の甘さは、国家の中長期エネルギー戦略である「原子力の推進・電力基盤の高度化」推進事業から来るものである。そのため、政府の立場だけでなく、それに対して批判的な人々を入れない限り、2番目の課題の回答は見つからないだろう。
原発事故防止のための安全管理体制
原発事故の予防のために以下の提案を行う。
A 稼動中の原発に関する情報公開を義務化する
1、 そのために東電を始め原発を運営している電力会社に対して稼動中の原発の安全性に関する情報公開の法的義務を課す。
B 原発の安全性を議論し日本のエネルギー政策を推進するための委員会(仮称 原子力発電所安全対策会議)の設置を行う。
1、原発を誘致している地域社会の市民の参加を要請する。
2、原子力行政に対して批判的な立場の専門家、例えば原子力資料情報室(CNIC) の専門家の参加を要請する。
3、政府機関の専門家(経済産業省の役人)や独立行政法人原子力安全基盤機構の専門家の参加を要請する。
4、日本原子力学会等の原子力発電に関する専門家(研究者)の参加を要請する。
また、原発事故が発生した場合の対応として以下の提案を行う。
1、電力会社は事故に関する情報公開を行うことを法的に義務化する。情報の隠蔽に関しては刑事的罰則を設ける。
2、全ての原発事故に対して国と電力会社は一体になった対策本部を創る。この対策本部に上記した委員会(仮称 原子力発電所安全対策会議)の参加者を入れる。
3、事故へ対策は安全管理と危機管理を管轄する二つの専門チームを作り、同時並行してそれぞれの役割を進める。つまり、安全管理チームは事故を最小限に食い止める作業を進める。危機管理チームは最悪の事態を予測し、住民の避難、核汚染への対応、近隣諸国との交渉、核事故への救援体制等々の対策を事前に検討し推進する。
4、原発事故の情報を政府は専門報道官を置き逐次報道機関に公開すること。
5、事故処理後、事故原因の解明を徹底的に行い、その情報を公開すること。
以上である。
現在、東電福島第一原発の事故は深刻な被害を日本にもたらす結果となった。この事故を、今、これ以上進行させないようにあらゆる努力をしなければならない。この事故がこれ以上進まないことを祈るのみである。
そして、今後の事故によって生じる放射線汚染の被害対策とさらにその事故の原因解明、そして再び同じ事故を起さないための対策を検討しなければならない。東日本大震災(東北関東大震災)の罹災者救援活動、二次災害防止、電力や一次生活資源(最低限の生活資源)の不足、そして今回の原発事故と多くの課題を我々は抱えている。しかし、この事態を何とか国民が一丸となって乗り越えなければならないのである。
参考資料
(1) 運輸安全委員会
http://www.mlit.go.jp/jtsb/index.html
(2)三石博行 「市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か ‐現代社会での安全管理(1)‐」 2011年3月15日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
(3)三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」2011年3月16日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
(4)経済産業省 「エネルギー・環境」「28原子力の推進・電力基盤の高度化」
http://www.meti.go.jp/policy/policy_management/19fy-AR2007/ARpdf/AR19fy_2_05policy.pdf
(5)経済産業省 原子力安全・保安院(NISA)
http://www.nisa.meti.go.jp/
(6)独立行政法人 原子力安全基盤機構 JNES
http://www.jnes.go.jp/tokushu/keinen/businessman/03.html
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での安全管理
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
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修正(誤字、文書追加) 2011年3月17日
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自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
現代社会での安全管理(2)
三石博行
経営学的安全管理の有効領域 航空会社の例
市場経済的視点からみる安全管理は、一般に企業レベルの安全管理の理論の背景になる。しかし、その市場経済からの安全管理の理論はどこまで有効だろうか。航空事故の場合について考える。
当然、航空会社の安全対策も市場経済の視点からなされている。例えば、飛行機事故の例を考えてみる。航空会社で事故防止を考える場合、飛行機事故の損害費用とそれを防ぐための費用、例えば新しい飛行機の購入費など、その二つのバランスによって事故対策が講じられることは、前節の安全管理の経営学の理論から理解できるだろう。
しかし、よく事故を起こす航空会社の飛行機には誰でも乗りたくはないだろう。
また、運賃が非常に安い場合、乗る人々は落ちる確率の高さを安さと引き換えにして乗ることになるとしても、安い切符と引き換えに安全管理が疎かになる事実を航空会社は公言できるだろうか。しかも、事故で死亡した乗客への補償が非常に高くなると、安全対策を取らなければならないことも公言できるだろうか。これは航空会社の経営の論理からは当然の経営的選択の基準となるのではあるが、しかし、航空会社は声高にこの事実を社会には言えないだろう。
もし、この航空事故への安全管理の経営理論を示すなら、社会的な非難を覚悟しなければならない。事故の補償費とのバランスを前提にして安全対策が取られるという経営的な考え方を公言することは航空会社として致命的なスキャンダル発言となる。そして、この航空会社は存続することは出来ない。何故なら、航空事故が人命喪失に直結しており、人命尊重の立場から安全管理は航空会社の絶対的な義務であるからだ。
建前として人命を最優先している航空業界で、市場原理を前提とした安全管理の理論を公言することは出来ない。つまり、それは乗客の命の値段によって飛行機の安全対策を行っていると公言することになるからである。企業経営の視点からは、それは事実に違いない。しかし、安全対策が乗客の命の値段と関係していると堂々と公言する航空会社は、この業界では存続できないだろう。それが公言できない最も大きな理由に違いない。
つまり、航空機の安全管理も突き詰めれば市場経済的視点から行われている。その意味で、飛行機の安全を乗客は運賃で買わなければならないのである。格安チケットを買い求める消費者は自分の安全管理の値段を下げている事実に気付くべきなのかもしれない。
自由経済の中での労働基準法の意味
資本主義経済での企業の安全管理は基本的には市場経済の規則で決定されている。しかし、社会が安全管理を市場原理に任せることで大きな社会的問題が引き起こされる事になる。つまり、人命や健康に値段が付けられ、企業は出来るだけ安くそれを買おうとする。そうすることで、生産コストが削減でき、より市場に安い商品を提供でき、市場競争に打ち勝つことが出来るからである。
自由競争を原則とする経済社会では、企業のこの性質を変えることは不可能である。企業主がいかに人間主義を貫こうとしようとも、企業は経営体としての自己保存を最終的な目的として動いている。そのためには、企業利益を上げることが企業活動の目的になる。そうでない限り、働いた人々に賃金も払えないし、また原料を買う資金も得ることも出来ないのである。これが、企業体を維持する宿命的な活動原則である。その原則は健全経営と呼ばれる状態、つまり企業体の健康な状態を維持することによって可能となる。
企業にとって勤労者(社長を含む)の人命も健康も企業体の健康な状態を維持するための条件に過ぎない。企業が維持されるために、勤労者が健康であることが条件となっているのである。その企業の論理は企業体から観れば当然のことだが、そこで働いている人々(社長も含めて)からみれば、企業に使われている一人、組織の一員に過ぎないのである。
人命尊重や健康管理等々の企業の安全管理は企業にとっては目的ではない。すると自由競争社会での企業は安全管理を無視する、もしくは二次的なものとして取り扱う傾向を持つ。これが個人的企業の中での自然な安全管理の状況である。社長の人格に関係なく企業という組織生命体での自然発生的なその部品としての人間観が優先して行くのである。それが企業という組織生命体の姿である。
当然、その企業を野放しにしておけば、16歳未満の少年達が長時間労働を強いられ、そして女工哀史は繰り返される。自由主義経済によって必然的に生じる勤労者(社長も含む)人命や健康管理上の無視は避けられない。その結果、社会は大きな損失を被る。戦前の日本社会では、病弱な若年労働者は、例えば男子では兵役に使えない、また女子であれば健康な出産も出来ない。そこで国家は1916年に工場法を作り、12歳以下の最低就業年齢、12時間以上の長時間労働の禁止、15歳未満の女子深夜労働の禁止等を決めた。(1)
戦後、基本的人権を謳う日本国憲法によって、労働基準法、労働安全衛生法等々、企業は勤労者の人権や生活権を守らなければならない。社会政策として企業に勤労者の安全管理を義務付けることで、勤労者の使い捨てを禁止し、生活条件を改善した。その分、長期的視点に立って勤労者の労働の質を守り、個別企業も結果的には勤労者の良質な労働力を得ることが出来るだけでなく、彼らの消費文化に支えられ企業活動が可能になっている。
資本主義社会での社会政策の意味
つまり、市場経済原理で機能している企業に原則として安全管理を任せることは出来ないのである。そこで、歴史的に、つまりイギリスの工場法制定以来、勤労者の命と健康を守るための労働力安全管理は社会政策として行われてきた。
労働者の生活環境の維持を個々の企業努力に頼らず社会保障制度によって可能にすることで、企業の資本力、種類、経営条件に関係なく、健全な労働環境や生活環境を維持することが出来る。そのため、長期的な視点から、労働力の再生産過程が可能になる。つまり、家庭での子育て、社会での学校教育によって将来の労働力を維持することが可能となる。
社会政策は国家レベルの安全管理である。その目的は長期的に社会を維持することである。そのため、短期的に労働力を消耗する傾向にある企業活動に対して、労働力の維持に必要な社会的負担を与えることになる。労働環境の安全管理では、最低賃金、労働安全衛生基準、労働時間、十分な休養付与、出産や育児休暇、介護休暇、労働条件の改善、福利厚生、育児環境整備、労災医療制度、健康医療制度、医療費負担、年金制度、失業保険制度、再雇用のための研修教育制度等々が挙げられる。
他方で、企業は労働基準法や労働安全衛生法を守るために出費を余儀なくされる。企業にとってはその分経費が掛かる。つまり、勤労者を雇用する条件である給与の支払いに付随する出費として、社会保険料、労災保険金、失業保険金、介護保険金を支払わなければならないのである。
直接的にはこうした社会保障への支出は企業にとっては負担となる。しかし、長期的な視点に立つと、この制度によって安定した労働市場を確立することが出来る。
その結果、健康で良質な労働力を企業は手に入れることが出来る。つまり、企業活動を維持する条件である健全な労働力を確保する対策、労働力安全管理は国家が行う以外に不可能であると言える。自由経済を発展させるためには、より進んだ社会政策が必要となる。
何故なら、市場原理を尊重することで企業活動は活性化する。が同時に、労働市場は荒廃する可能性を持つ。健康で豊かな労働市場を失うことで資本主義経済は弱体化する。そのために国家は、社会政策を整え、勤労者の命、生活を守り、豊かにする労働力安全管理を強化しなければならない。
これが自由主義経済を支える社会機能である。そして、そのために、企業は国家の事業を支援する意味で納税の義務を持つのである。納税とは企業にとって、経営が国家の社会政策に支えられていることの理解を意味するのである。
参考資料
(1) 工場法 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E6%B3%95
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
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目次 現代社会での安全管理
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
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修正(誤字 文書挿入) 2011年3月16日
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三石博行
経営学的安全管理の有効領域 航空会社の例
市場経済的視点からみる安全管理は、一般に企業レベルの安全管理の理論の背景になる。しかし、その市場経済からの安全管理の理論はどこまで有効だろうか。航空事故の場合について考える。
当然、航空会社の安全対策も市場経済の視点からなされている。例えば、飛行機事故の例を考えてみる。航空会社で事故防止を考える場合、飛行機事故の損害費用とそれを防ぐための費用、例えば新しい飛行機の購入費など、その二つのバランスによって事故対策が講じられることは、前節の安全管理の経営学の理論から理解できるだろう。
しかし、よく事故を起こす航空会社の飛行機には誰でも乗りたくはないだろう。
また、運賃が非常に安い場合、乗る人々は落ちる確率の高さを安さと引き換えにして乗ることになるとしても、安い切符と引き換えに安全管理が疎かになる事実を航空会社は公言できるだろうか。しかも、事故で死亡した乗客への補償が非常に高くなると、安全対策を取らなければならないことも公言できるだろうか。これは航空会社の経営の論理からは当然の経営的選択の基準となるのではあるが、しかし、航空会社は声高にこの事実を社会には言えないだろう。
もし、この航空事故への安全管理の経営理論を示すなら、社会的な非難を覚悟しなければならない。事故の補償費とのバランスを前提にして安全対策が取られるという経営的な考え方を公言することは航空会社として致命的なスキャンダル発言となる。そして、この航空会社は存続することは出来ない。何故なら、航空事故が人命喪失に直結しており、人命尊重の立場から安全管理は航空会社の絶対的な義務であるからだ。
建前として人命を最優先している航空業界で、市場原理を前提とした安全管理の理論を公言することは出来ない。つまり、それは乗客の命の値段によって飛行機の安全対策を行っていると公言することになるからである。企業経営の視点からは、それは事実に違いない。しかし、安全対策が乗客の命の値段と関係していると堂々と公言する航空会社は、この業界では存続できないだろう。それが公言できない最も大きな理由に違いない。
つまり、航空機の安全管理も突き詰めれば市場経済的視点から行われている。その意味で、飛行機の安全を乗客は運賃で買わなければならないのである。格安チケットを買い求める消費者は自分の安全管理の値段を下げている事実に気付くべきなのかもしれない。
自由経済の中での労働基準法の意味
資本主義経済での企業の安全管理は基本的には市場経済の規則で決定されている。しかし、社会が安全管理を市場原理に任せることで大きな社会的問題が引き起こされる事になる。つまり、人命や健康に値段が付けられ、企業は出来るだけ安くそれを買おうとする。そうすることで、生産コストが削減でき、より市場に安い商品を提供でき、市場競争に打ち勝つことが出来るからである。
自由競争を原則とする経済社会では、企業のこの性質を変えることは不可能である。企業主がいかに人間主義を貫こうとしようとも、企業は経営体としての自己保存を最終的な目的として動いている。そのためには、企業利益を上げることが企業活動の目的になる。そうでない限り、働いた人々に賃金も払えないし、また原料を買う資金も得ることも出来ないのである。これが、企業体を維持する宿命的な活動原則である。その原則は健全経営と呼ばれる状態、つまり企業体の健康な状態を維持することによって可能となる。
企業にとって勤労者(社長を含む)の人命も健康も企業体の健康な状態を維持するための条件に過ぎない。企業が維持されるために、勤労者が健康であることが条件となっているのである。その企業の論理は企業体から観れば当然のことだが、そこで働いている人々(社長も含めて)からみれば、企業に使われている一人、組織の一員に過ぎないのである。
人命尊重や健康管理等々の企業の安全管理は企業にとっては目的ではない。すると自由競争社会での企業は安全管理を無視する、もしくは二次的なものとして取り扱う傾向を持つ。これが個人的企業の中での自然な安全管理の状況である。社長の人格に関係なく企業という組織生命体での自然発生的なその部品としての人間観が優先して行くのである。それが企業という組織生命体の姿である。
当然、その企業を野放しにしておけば、16歳未満の少年達が長時間労働を強いられ、そして女工哀史は繰り返される。自由主義経済によって必然的に生じる勤労者(社長も含む)人命や健康管理上の無視は避けられない。その結果、社会は大きな損失を被る。戦前の日本社会では、病弱な若年労働者は、例えば男子では兵役に使えない、また女子であれば健康な出産も出来ない。そこで国家は1916年に工場法を作り、12歳以下の最低就業年齢、12時間以上の長時間労働の禁止、15歳未満の女子深夜労働の禁止等を決めた。(1)
戦後、基本的人権を謳う日本国憲法によって、労働基準法、労働安全衛生法等々、企業は勤労者の人権や生活権を守らなければならない。社会政策として企業に勤労者の安全管理を義務付けることで、勤労者の使い捨てを禁止し、生活条件を改善した。その分、長期的視点に立って勤労者の労働の質を守り、個別企業も結果的には勤労者の良質な労働力を得ることが出来るだけでなく、彼らの消費文化に支えられ企業活動が可能になっている。
資本主義社会での社会政策の意味
つまり、市場経済原理で機能している企業に原則として安全管理を任せることは出来ないのである。そこで、歴史的に、つまりイギリスの工場法制定以来、勤労者の命と健康を守るための労働力安全管理は社会政策として行われてきた。
労働者の生活環境の維持を個々の企業努力に頼らず社会保障制度によって可能にすることで、企業の資本力、種類、経営条件に関係なく、健全な労働環境や生活環境を維持することが出来る。そのため、長期的な視点から、労働力の再生産過程が可能になる。つまり、家庭での子育て、社会での学校教育によって将来の労働力を維持することが可能となる。
社会政策は国家レベルの安全管理である。その目的は長期的に社会を維持することである。そのため、短期的に労働力を消耗する傾向にある企業活動に対して、労働力の維持に必要な社会的負担を与えることになる。労働環境の安全管理では、最低賃金、労働安全衛生基準、労働時間、十分な休養付与、出産や育児休暇、介護休暇、労働条件の改善、福利厚生、育児環境整備、労災医療制度、健康医療制度、医療費負担、年金制度、失業保険制度、再雇用のための研修教育制度等々が挙げられる。
他方で、企業は労働基準法や労働安全衛生法を守るために出費を余儀なくされる。企業にとってはその分経費が掛かる。つまり、勤労者を雇用する条件である給与の支払いに付随する出費として、社会保険料、労災保険金、失業保険金、介護保険金を支払わなければならないのである。
直接的にはこうした社会保障への支出は企業にとっては負担となる。しかし、長期的な視点に立つと、この制度によって安定した労働市場を確立することが出来る。
その結果、健康で良質な労働力を企業は手に入れることが出来る。つまり、企業活動を維持する条件である健全な労働力を確保する対策、労働力安全管理は国家が行う以外に不可能であると言える。自由経済を発展させるためには、より進んだ社会政策が必要となる。
何故なら、市場原理を尊重することで企業活動は活性化する。が同時に、労働市場は荒廃する可能性を持つ。健康で豊かな労働市場を失うことで資本主義経済は弱体化する。そのために国家は、社会政策を整え、勤労者の命、生活を守り、豊かにする労働力安全管理を強化しなければならない。
これが自由主義経済を支える社会機能である。そして、そのために、企業は国家の事業を支援する意味で納税の義務を持つのである。納税とは企業にとって、経営が国家の社会政策に支えられていることの理解を意味するのである。
参考資料
(1) 工場法 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E6%B3%95
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
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目次 現代社会での安全管理
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
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修正(誤字 文書挿入) 2011年3月16日
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東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである
畑村洋太郎の失敗学の基礎知識に学ぶ
三石博行
危機的状況を前にして、何が東電にとって問題か
3月14日23時のNHKニュースで東電福島第一原子力発電所(以後、福島第一原発と呼ぶ)の3号機で進行していた事故の説明を東電の社員が行っていた。一体何を話しているか不明であった。NHKのニュースでは解説者がそれを翻訳していた。つまり、原子炉内の燃料棒が完全に冷却水から露出したと言うことらしい。
重大な事故を起し、さらにその事態が深刻化しつつある現実の中で、東電の取った対応に絶望感と怒りが込み上げてきた。東電が問題にしていることと国民が問題にしていることのずれが余りにも大きいのだ。つまり、東電は事故の実態を出来るだけ小さく報道したい、出来たら何も発表したくないという考え方で、記者会見の場でも実態が分からないように説明するという態度を取った。
国民はともかく何が起こっているか知りたい。そして早く危険な事態を回避したいと考えている。そして、政府と東電に何が起こったかの説明を求めているのである。
それに対して東電は、国民に説明しても専門的なことは理解できないだろうし、また説明している時間はないと考えているのだろうか。これは、かなり善意な解釈だ。もし、仮に東電がそう考えて、説明する時間を惜しんで、事実を簡潔に話さなかったのだとしたら、それでも、大きな問題が指摘されるだろう。
つまり、東電はこの事故は自分たちの問題であり、自分たちが解決すると思っているようである。しかし、もし重大事故に発展するならこれは日本社会にとどまらず世界の問題となる。その重大さが理解されているなら、「説明している時間はない」という考えも態度も出てくるはずはないだろう。
東電の態度に隠されているものは何か。それを知る必要がある。
畑村失敗学の思想
畑村洋太郎東大名誉教授(以後、畑村と呼ぶ)は『失敗学の法則 決定版』の第1章「失敗学の基礎知識」の中で、失敗結果を分析する方法とそれに対する対応(解決方法)について述べている。
失敗とは主観的(共同主観的・社会的)に期待値から低く評価された結果である。言い換えると、高い期待値を持つ(完璧な結果を望む)人々にとって、失敗は行為の結果として必然的に付随する評価であるとも言える。
失敗に関する考え方を変えなければならない。我々が問題にしたいことは、失敗しないのでなく、失敗を活かす技術を身につけるという発想に立つこと、これが失敗学を始める基本姿勢である。つまり、失敗を行為に付随した確率(期待値からのずれの割合)として理解し、それを修正改善する考え方と技術を体系化したのが畑村洋太郎の失敗学である。
失敗を分析する方法として、畑村は徹底した帰納法的思考を展開する。つまり、失敗という現象から失敗の原因は理解されないということ、言い換えると失敗の原因は全く誰にも見えないという現実を意味する。そのことを畑村は「逆演算法」と呼んでいる。つまり、失敗の分析をする場合に失敗の原因とは何かと考える発想を止めて、結果(失敗)の現実を帰納法(逆演算法)敵に分析する方法を学ばなければならない。
畑村は、失敗の原因は「要因」と「からくり」から成り立っていると説明している。要因とは、失敗(行為の結果)を導く状況を意味する。つまり、社会、経済、環境等々の要素を含むものである。からくりとは失敗行為を生み出す側の行為様式を意味する。つまり、考え方、性格、体質、習慣、判断基準等々を意味する。
そして失敗学では、常にシミュレーションが大切にされる。所謂、理工系の研究室で行われている計算機実験である。その方程式は「からくり」という関数(プログラム)に要因という係数を入れて、その係数の数値を変化させてゆく。そのことで関数からはじき出される現象を観測するという方法である。
もし、現実の現象(失敗結果)が、仮定した関数(からくり)と仮定した係数(要因)によって計算された値に近いなら、その二つの仮定によって失敗の脈絡が説明される。
失敗学は、限りなく統計学的方法を前提とする。失敗も行為に付随する確率現象であり、その評価、つまり失敗の原因説明も、観測者(失敗学で失敗を分析する人)が、仮定した失敗の「からくり」と「要因」の関係式から生じた値に対する検定結果として、失敗の脈絡(生じる理由)を分析評価するという方法を取る。そのため、失敗学は絶対的な判断や固定した考え方を避ける。つまり畑村の失敗学での失敗概念は状況によって異なる事象(脈略)であると理解されているのである。
東電に対応を任せるな
今回の東電の問題に対して、畑村は『失敗学の法則 決定版』第1章「失敗学の基礎知識」の「④失敗が拡大再生産する」の中で、1995年の動燃・核燃料開発事業団(現在 核燃料サイクル開発機構)の高速増殖炉「もんじゅ」で発生した事故の例で明確に説明している。
畑村は失敗の脈略が理解されない限り、同じ失敗を繰り返すことになると述べている。言い換えると、同じ失敗を繰り返している状態は、失敗の脈略を理解していないと言うことである。1995年のもんじゅでのナトリウム漏れ事故では、動燃はデータを隠すという失敗を繰り返した。何故なら、情報公開をしたくないという動燃の企業体質(からくり)を自覚し変えようとしなかったからである。
今回の東電福島一号原発事故でも全く同じことが生じている。つまり、「大丈夫です」と言った瞬間から重大事故が連続的に発生し続けている。東電に情報を隠す体質(からくり)がある以上、今後も同じ失敗を繰り返すことは予測できる。
この東電の情報隠しの企業体質は以前から社会的に批判されていた。例えば、花岡尚之氏は2002年に東電が原発の定期検査記録を偽造していた事実を研究し、東電は重大な事故を起すのではないかと警告している。それからすでに時間が経過したが、花岡氏の調査研究と警告は活かされないまま、今日に至った。そして、花岡氏の指摘が不幸にも的中したのである。残念なことである。
国の取るべき3つの対応
今すぐに、東電の体質を変えることはできない。そして、今すぐに事故への対応を急がないと重大事故になることは避けられない。そこで、国は以下の対応を早急に行うべきである。
1、 すでに15日朝、国は対応を東電に任せずに国も一体になった対策本部を創った。この対策本部に専門家を入れる。特に、動燃の事故を経験した専門家、外国の専門家なども入れる。例えば、畑村洋太郎氏のような失敗学の専門家も入れる必要があるのではないだろうか。
2、 対策は二つに分けて同時並行して進めるべきである。つまり、二つの専門チームを作り対応する。一つは安全管理、つまり、今の原発事故を最小限に食い止める作業、もう一つは危機管理、つまり最悪の事態を予測し、住民の避難、核汚染への対応、近隣諸国との交渉、核事故への救援体制等々
3、 情報を徹底して公開すること。そして、報道公開には専門報道官を置き、政府幹部、特に枝野官房長官が報道行為に時間と労力を割かないための報道対応を早急に行うこと。
以上である。
参考資料
日本経済新聞 2011年3月16日朝刊「社説 原子力事故の拡大阻止に総力をあげよ」
畑村洋太郎 『失敗学の法則 決定版』文芸文庫2005年6月
花岡尚之 「東電虚偽記載事件にみる原子力発電の社会的な受容」日本福祉大学情報社会学論集 第10巻 2008.11、pp41-52
http://www.n-fukushi.ac.jp/kenken/jron/kiyou/no10/hanaoka.pdf
三石博行 「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
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ブログ文書集 「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
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修正(誤字 文書追加)2011年3月17日
三石博行
危機的状況を前にして、何が東電にとって問題か
3月14日23時のNHKニュースで東電福島第一原子力発電所(以後、福島第一原発と呼ぶ)の3号機で進行していた事故の説明を東電の社員が行っていた。一体何を話しているか不明であった。NHKのニュースでは解説者がそれを翻訳していた。つまり、原子炉内の燃料棒が完全に冷却水から露出したと言うことらしい。
重大な事故を起し、さらにその事態が深刻化しつつある現実の中で、東電の取った対応に絶望感と怒りが込み上げてきた。東電が問題にしていることと国民が問題にしていることのずれが余りにも大きいのだ。つまり、東電は事故の実態を出来るだけ小さく報道したい、出来たら何も発表したくないという考え方で、記者会見の場でも実態が分からないように説明するという態度を取った。
国民はともかく何が起こっているか知りたい。そして早く危険な事態を回避したいと考えている。そして、政府と東電に何が起こったかの説明を求めているのである。
それに対して東電は、国民に説明しても専門的なことは理解できないだろうし、また説明している時間はないと考えているのだろうか。これは、かなり善意な解釈だ。もし、仮に東電がそう考えて、説明する時間を惜しんで、事実を簡潔に話さなかったのだとしたら、それでも、大きな問題が指摘されるだろう。
つまり、東電はこの事故は自分たちの問題であり、自分たちが解決すると思っているようである。しかし、もし重大事故に発展するならこれは日本社会にとどまらず世界の問題となる。その重大さが理解されているなら、「説明している時間はない」という考えも態度も出てくるはずはないだろう。
東電の態度に隠されているものは何か。それを知る必要がある。
畑村失敗学の思想
畑村洋太郎東大名誉教授(以後、畑村と呼ぶ)は『失敗学の法則 決定版』の第1章「失敗学の基礎知識」の中で、失敗結果を分析する方法とそれに対する対応(解決方法)について述べている。
失敗とは主観的(共同主観的・社会的)に期待値から低く評価された結果である。言い換えると、高い期待値を持つ(完璧な結果を望む)人々にとって、失敗は行為の結果として必然的に付随する評価であるとも言える。
失敗に関する考え方を変えなければならない。我々が問題にしたいことは、失敗しないのでなく、失敗を活かす技術を身につけるという発想に立つこと、これが失敗学を始める基本姿勢である。つまり、失敗を行為に付随した確率(期待値からのずれの割合)として理解し、それを修正改善する考え方と技術を体系化したのが畑村洋太郎の失敗学である。
失敗を分析する方法として、畑村は徹底した帰納法的思考を展開する。つまり、失敗という現象から失敗の原因は理解されないということ、言い換えると失敗の原因は全く誰にも見えないという現実を意味する。そのことを畑村は「逆演算法」と呼んでいる。つまり、失敗の分析をする場合に失敗の原因とは何かと考える発想を止めて、結果(失敗)の現実を帰納法(逆演算法)敵に分析する方法を学ばなければならない。
畑村は、失敗の原因は「要因」と「からくり」から成り立っていると説明している。要因とは、失敗(行為の結果)を導く状況を意味する。つまり、社会、経済、環境等々の要素を含むものである。からくりとは失敗行為を生み出す側の行為様式を意味する。つまり、考え方、性格、体質、習慣、判断基準等々を意味する。
そして失敗学では、常にシミュレーションが大切にされる。所謂、理工系の研究室で行われている計算機実験である。その方程式は「からくり」という関数(プログラム)に要因という係数を入れて、その係数の数値を変化させてゆく。そのことで関数からはじき出される現象を観測するという方法である。
もし、現実の現象(失敗結果)が、仮定した関数(からくり)と仮定した係数(要因)によって計算された値に近いなら、その二つの仮定によって失敗の脈絡が説明される。
失敗学は、限りなく統計学的方法を前提とする。失敗も行為に付随する確率現象であり、その評価、つまり失敗の原因説明も、観測者(失敗学で失敗を分析する人)が、仮定した失敗の「からくり」と「要因」の関係式から生じた値に対する検定結果として、失敗の脈絡(生じる理由)を分析評価するという方法を取る。そのため、失敗学は絶対的な判断や固定した考え方を避ける。つまり畑村の失敗学での失敗概念は状況によって異なる事象(脈略)であると理解されているのである。
東電に対応を任せるな
今回の東電の問題に対して、畑村は『失敗学の法則 決定版』第1章「失敗学の基礎知識」の「④失敗が拡大再生産する」の中で、1995年の動燃・核燃料開発事業団(現在 核燃料サイクル開発機構)の高速増殖炉「もんじゅ」で発生した事故の例で明確に説明している。
畑村は失敗の脈略が理解されない限り、同じ失敗を繰り返すことになると述べている。言い換えると、同じ失敗を繰り返している状態は、失敗の脈略を理解していないと言うことである。1995年のもんじゅでのナトリウム漏れ事故では、動燃はデータを隠すという失敗を繰り返した。何故なら、情報公開をしたくないという動燃の企業体質(からくり)を自覚し変えようとしなかったからである。
今回の東電福島一号原発事故でも全く同じことが生じている。つまり、「大丈夫です」と言った瞬間から重大事故が連続的に発生し続けている。東電に情報を隠す体質(からくり)がある以上、今後も同じ失敗を繰り返すことは予測できる。
この東電の情報隠しの企業体質は以前から社会的に批判されていた。例えば、花岡尚之氏は2002年に東電が原発の定期検査記録を偽造していた事実を研究し、東電は重大な事故を起すのではないかと警告している。それからすでに時間が経過したが、花岡氏の調査研究と警告は活かされないまま、今日に至った。そして、花岡氏の指摘が不幸にも的中したのである。残念なことである。
国の取るべき3つの対応
今すぐに、東電の体質を変えることはできない。そして、今すぐに事故への対応を急がないと重大事故になることは避けられない。そこで、国は以下の対応を早急に行うべきである。
1、 すでに15日朝、国は対応を東電に任せずに国も一体になった対策本部を創った。この対策本部に専門家を入れる。特に、動燃の事故を経験した専門家、外国の専門家なども入れる。例えば、畑村洋太郎氏のような失敗学の専門家も入れる必要があるのではないだろうか。
2、 対策は二つに分けて同時並行して進めるべきである。つまり、二つの専門チームを作り対応する。一つは安全管理、つまり、今の原発事故を最小限に食い止める作業、もう一つは危機管理、つまり最悪の事態を予測し、住民の避難、核汚染への対応、近隣諸国との交渉、核事故への救援体制等々
3、 情報を徹底して公開すること。そして、報道公開には専門報道官を置き、政府幹部、特に枝野官房長官が報道行為に時間と労力を割かないための報道対応を早急に行うこと。
以上である。
参考資料
日本経済新聞 2011年3月16日朝刊「社説 原子力事故の拡大阻止に総力をあげよ」
畑村洋太郎 『失敗学の法則 決定版』文芸文庫2005年6月
花岡尚之 「東電虚偽記載事件にみる原子力発電の社会的な受容」日本福祉大学情報社会学論集 第10巻 2008.11、pp41-52
http://www.n-fukushi.ac.jp/kenken/jron/kiyou/no10/hanaoka.pdf
三石博行 「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
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ブログ文書集 「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_17.html
1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
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修正(誤字 文書追加)2011年3月17日
2011年3月15日火曜日
市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
現代社会での安全管理(1)
三石博行
安全管理と危機管理の違い
防災計画をより緻密に練り上げるためには、安全管理と危機管理の違いを明確に区別しておく必要がある。
まず、安全管理の考え方を述べる。安全管理とは、現状のシステムを災害から守るために工夫する対策である。つまり、災害で引き起こされる最悪の状況を想定し、それが生じないための対策を取ることが安全管理である。例えば、地震に対する建物の耐震強度の強化や洪水に対する堤防の強化などは体表的な例である。
それに対して危機管理とは安全管理のシステムが破壊された場合に打ち出される対策である。例えば、耐震強度を遥かに越える揺れによって建物が倒壊した場合に人命救助、二次災害の発生を防止するために取られる対策や堤防が決壊し街が浸水した場合に取られる対策であるといえる。
安全管理の経営学
安全管理は現状のシステムを強化することで可能となる。予測される災害、例えば、今回の東日本大震災(東北・関東大震災)の場合、三陸海岸で予測された最悪の津波の高さは10メートルであったとする。すると、この10メートルの津波が押し寄せた場合の防波堤の高さ、避難所の確保、避難警告の仕方、市役所などの公共施設のデータ保存、防災機能(警察、消防等)の設定場所、小中学校の場所等々。10メートの津波を仮定して、最小限に人的・物的被害を食い止める現状のシステム作りが安全管理の課題となる。
この課題は、必ず、それを設定するコストが問題となる。つまり、10メートルの津波を仮定して、11メートルの防波堤や4階建の町役場を建てたくても、その財源がなければ、予想される災害への対策、つまり可能な限りの安全管理を行うことが出来ないのである。
では、どのようにして安全管理は決定されるのだろうか。つまり、安全管理に掛けるコスト計算はどのようにして決定されるのだろうか。
企業の安全対策に掛けるコスト計算の例を用いると良く理解できる。例えば、A企業で労災事故が起こるとする。その事故でA企業が負担する補償費が200万円であるとして、その事故を防ぐために安全装置を設定する費用が年間1000万円必要になると仮定する。単純に考えて、年間5名の労災事故の補償費と安全装置の設置費は同額になる。A企業はその単純な計算に従うなら、4名から5名の労災事故が発生しても安全装置を設定しないことになる。何故なら、コスト的に労災補償費を支払っている方が安いからである。
もし、A企業が負担する一回の労災補償費が1000万円以上することになると、このA企業は安全装置を設定し、安全対策を行うだろう。何故なら、労災事故はA企業にとって、経営的損失となるからである。
安全管理のコストはこのようにして決定される。つまり、安全管理を行うために必要なコストと安全管理をしない状態で生じた場合の損失のコストのバランスによって、安全対策は決定される。企業が人道的立場から高額な安全装置を設置することはない。経営的に存続することが企業保存の大原則である以上、企業にとっての安全管理も経営的視点から決定されるのである。
但し、上に述べた仮説は、A企業が労災事故を起こすことによって生じる企業イメージ、つまり「A企業の経営者は人間を大切にする考えがないらしい」という社会的評価やイメージから来る経営的効果を全く計算していないことが前提になっている。今日、多くの企業が消費者からのイメージを大切にしている。その意味で、社会から悪いイメージ、例えば環境汚染をしているとか勤労者の健康を無視しているとかいう評判は企業にとっては命取りになる可能性があるため、その意味で企業は労災対策を行う場合も生じるのである。
つまり、安全管理に掛けるコストは、災害によって生じる企業(社会)の損失や負担費とその安全管理に掛かるコストとのバランスによって単純に決定されるのである。そのコストを決定しているのは、労働市場での労働力供給とその需要のバランスである。もし、労働者の賃金が安い、つまり労働市場で労働力の供給がその需要をはるかに上回り、低賃金で雇用可能な状態なら、労働災害に対する補償も相対的に下がることになる。そして、結果的に、安全管理は疎か(おろそか)になる。
賃金の安い国や社会では、労働現場の安全管理が悪くなるのは、労働市場で安価に労働者を雇用できる条件が成立しているからである。個別企業レベルの安全管理は、労働市場の需要と供給によって決定されている。当然、その市場経済論理の延長線上で、希少価値のある技術者の労働条件は単純労働に従事する労働者の労働条件よりも良くなることは理解できるだろう。
安全管理への公共事業費算出の基準
この安全管理を支配する市場経済の考え方をある町の津波対策に応用して考えてみる。もし、町の経済的生産力が低く、過疎化が進みつつある場合を仮定してみる。この町に、仮に10メートルの津波が来る確率が十年で70パーセントであると予測されるとしても、その津波を防ぐための防波堤の建設は行われるだろうか。まず、その決定を行う前に、行政(国土交通省や自治体)は防波堤建設コストを計算するだろう。そして、その費用とその町の経済生産力(経済的重要性)を何らかのかたちで計量的に比較することになる。
つまり、10メートルの津波発生による町の被害状況を予測し、その被害金額と復旧費用金額を計算することになる。当然、10メートルの防波堤を造る経済的意味を計算し、それによって防波堤の予算は大まかに算出されることになる。町の経済的重要性(現在の経済的価値)から、防波堤建設への予算額がはじき出される。これは当然の社会的常識と呼ばれる結論となる。言い換えれば、小さな町で大掛かりな防波堤を作る可能性は殆どないと謂える。もし、それを行えば、無駄な公共事業として批判されることになるだろう。
千年に一度と言われた大震災・東日本大震災(東北関東大震災)での大津波に対して、被害にあったすべての町のこれまでの津波対策は殆ど有効ではなかった。予想をはるかに超える大津波に町はのみ込まれた。その被害は甚大であった。
問題は、この教訓を今後の復旧活動にどのように活かすかと言う事である。安全管理の経営学やその公共事業費の算出基準の考え方からするなら、当然、これからも今回の大津波に対する防災対策は殆ど財政的に不可能であると謂える。つまり、これらの地域の社会経済的評価から、巨額の資金を出して非常に長く高い堤防を町の海岸全部に築く予算はないと結論付けられる可能性がある。
今後、この問題をどのように解決するかが問われる。
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での安全管理
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html
3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
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修正(誤字)2011年3月15日
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三石博行
安全管理と危機管理の違い
防災計画をより緻密に練り上げるためには、安全管理と危機管理の違いを明確に区別しておく必要がある。
まず、安全管理の考え方を述べる。安全管理とは、現状のシステムを災害から守るために工夫する対策である。つまり、災害で引き起こされる最悪の状況を想定し、それが生じないための対策を取ることが安全管理である。例えば、地震に対する建物の耐震強度の強化や洪水に対する堤防の強化などは体表的な例である。
それに対して危機管理とは安全管理のシステムが破壊された場合に打ち出される対策である。例えば、耐震強度を遥かに越える揺れによって建物が倒壊した場合に人命救助、二次災害の発生を防止するために取られる対策や堤防が決壊し街が浸水した場合に取られる対策であるといえる。
安全管理の経営学
安全管理は現状のシステムを強化することで可能となる。予測される災害、例えば、今回の東日本大震災(東北・関東大震災)の場合、三陸海岸で予測された最悪の津波の高さは10メートルであったとする。すると、この10メートルの津波が押し寄せた場合の防波堤の高さ、避難所の確保、避難警告の仕方、市役所などの公共施設のデータ保存、防災機能(警察、消防等)の設定場所、小中学校の場所等々。10メートの津波を仮定して、最小限に人的・物的被害を食い止める現状のシステム作りが安全管理の課題となる。
この課題は、必ず、それを設定するコストが問題となる。つまり、10メートルの津波を仮定して、11メートルの防波堤や4階建の町役場を建てたくても、その財源がなければ、予想される災害への対策、つまり可能な限りの安全管理を行うことが出来ないのである。
では、どのようにして安全管理は決定されるのだろうか。つまり、安全管理に掛けるコスト計算はどのようにして決定されるのだろうか。
企業の安全対策に掛けるコスト計算の例を用いると良く理解できる。例えば、A企業で労災事故が起こるとする。その事故でA企業が負担する補償費が200万円であるとして、その事故を防ぐために安全装置を設定する費用が年間1000万円必要になると仮定する。単純に考えて、年間5名の労災事故の補償費と安全装置の設置費は同額になる。A企業はその単純な計算に従うなら、4名から5名の労災事故が発生しても安全装置を設定しないことになる。何故なら、コスト的に労災補償費を支払っている方が安いからである。
もし、A企業が負担する一回の労災補償費が1000万円以上することになると、このA企業は安全装置を設定し、安全対策を行うだろう。何故なら、労災事故はA企業にとって、経営的損失となるからである。
安全管理のコストはこのようにして決定される。つまり、安全管理を行うために必要なコストと安全管理をしない状態で生じた場合の損失のコストのバランスによって、安全対策は決定される。企業が人道的立場から高額な安全装置を設置することはない。経営的に存続することが企業保存の大原則である以上、企業にとっての安全管理も経営的視点から決定されるのである。
但し、上に述べた仮説は、A企業が労災事故を起こすことによって生じる企業イメージ、つまり「A企業の経営者は人間を大切にする考えがないらしい」という社会的評価やイメージから来る経営的効果を全く計算していないことが前提になっている。今日、多くの企業が消費者からのイメージを大切にしている。その意味で、社会から悪いイメージ、例えば環境汚染をしているとか勤労者の健康を無視しているとかいう評判は企業にとっては命取りになる可能性があるため、その意味で企業は労災対策を行う場合も生じるのである。
つまり、安全管理に掛けるコストは、災害によって生じる企業(社会)の損失や負担費とその安全管理に掛かるコストとのバランスによって単純に決定されるのである。そのコストを決定しているのは、労働市場での労働力供給とその需要のバランスである。もし、労働者の賃金が安い、つまり労働市場で労働力の供給がその需要をはるかに上回り、低賃金で雇用可能な状態なら、労働災害に対する補償も相対的に下がることになる。そして、結果的に、安全管理は疎か(おろそか)になる。
賃金の安い国や社会では、労働現場の安全管理が悪くなるのは、労働市場で安価に労働者を雇用できる条件が成立しているからである。個別企業レベルの安全管理は、労働市場の需要と供給によって決定されている。当然、その市場経済論理の延長線上で、希少価値のある技術者の労働条件は単純労働に従事する労働者の労働条件よりも良くなることは理解できるだろう。
安全管理への公共事業費算出の基準
この安全管理を支配する市場経済の考え方をある町の津波対策に応用して考えてみる。もし、町の経済的生産力が低く、過疎化が進みつつある場合を仮定してみる。この町に、仮に10メートルの津波が来る確率が十年で70パーセントであると予測されるとしても、その津波を防ぐための防波堤の建設は行われるだろうか。まず、その決定を行う前に、行政(国土交通省や自治体)は防波堤建設コストを計算するだろう。そして、その費用とその町の経済生産力(経済的重要性)を何らかのかたちで計量的に比較することになる。
つまり、10メートルの津波発生による町の被害状況を予測し、その被害金額と復旧費用金額を計算することになる。当然、10メートルの防波堤を造る経済的意味を計算し、それによって防波堤の予算は大まかに算出されることになる。町の経済的重要性(現在の経済的価値)から、防波堤建設への予算額がはじき出される。これは当然の社会的常識と呼ばれる結論となる。言い換えれば、小さな町で大掛かりな防波堤を作る可能性は殆どないと謂える。もし、それを行えば、無駄な公共事業として批判されることになるだろう。
千年に一度と言われた大震災・東日本大震災(東北関東大震災)での大津波に対して、被害にあったすべての町のこれまでの津波対策は殆ど有効ではなかった。予想をはるかに超える大津波に町はのみ込まれた。その被害は甚大であった。
問題は、この教訓を今後の復旧活動にどのように活かすかと言う事である。安全管理の経営学やその公共事業費の算出基準の考え方からするなら、当然、これからも今回の大津波に対する防災対策は殆ど財政的に不可能であると謂える。つまり、これらの地域の社会経済的評価から、巨額の資金を出して非常に長く高い堤防を町の海岸全部に築く予算はないと結論付けられる可能性がある。
今後、この問題をどのように解決するかが問われる。
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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
目次 現代社会での安全管理
1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html
2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
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3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
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修正(誤字)2011年3月15日
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