『知的生産の技術 基礎編』 8章「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」 8-3、フェイスブックで書く作業について
三石博行
この文章は、フェイスブックで槇和男氏と「書くという作業について」フェイスブック会話を行う中で書いた文章である。これまで、ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」でレポートの書き方、ブログの使い方、インターネット公開議論の使い方、等々の知的生産の技術に関して書いてきた。今回、フェイスブックを活用する知的生産の技術「フェイスブックで書く作業について」に関して書いてみた。
1、自己発見としての作業
書くと言う作業は、思ったことを書くという作業だけでなく、思いもよらなかったことを発見する作業でもあります。
多分、思想とは、意識化されているだけでなく、無意識、もしくは前意識的に、存在している「生き方のルールや様式、もしくはレシピ」なのかもしえません。ですから、書いてみて、初めて、そういう考え方を持っていた自分に気付くのだと思います。
書くことは、ある意味で、自己発見の作業だという事になります。人は、非常に「ナルシスト」的に自我を作られていますので、沢山、そして多様な自分を発見したいと思うのでしょう。そして、書く、書く、書けば書くほど、色々な自分、思いもしなかった考えや感性を持つ自分、もしくは、逆に、分かっていると自信を持っていた自分が何も分かっていなかったということにも気付く、作業だと思います。
2、フェイスブックで書くために・完全主義からの脱却
書く作業に取って、最も障害になるのは、完全主義です。何か、論理的に完結したい、何か、正確な文章表現にしたいと思うのは、人に見せる条件で書いている文章であればあるほど、当然なのですが、そうなると、なかなかスムースに書けないのです。
ですから、このフェイスブックは丁度手頃で、誤字、脱字、もしくは陳腐な表現があっても、観る人はそんなにいないし、また、後で、訂正も削除の可能だし、読んでくれる人は、友人と自分が限定した人しかいない。殆ど、誰も見もしない。これだから、書きやすいとも言える。
そんなわけで、独り言を言うようにかいてしまう。これがフェイスブックへの投稿と呼ばれる「自分のための記載作業」の現実なのです。
3、フェイスブック友へ書くことによって、可能になる共同作文作業
実際、フェイスブックに書くのは、多分、日記のように書いていると思いますが、殆どの文章が、即、このボックスの中で、書かれ、それは、また同時に、即友人たちの目に触れることになる。フェイスブックでは、自然に思うことを何となく書く行為が、そのまま友人に聞こえる独り言のようになってしまう。
すると、友人だから可能になるのだと思うが、結構、面白いコメントが飛んでくる。そしたら、また、こっちも、何か書きたくなる。そうして、いつの間にか、友人と自分の間で、文章が出来てしまっている。気付くと、それらの文章は、結構、様になっている場合が多い。それに驚く、つまり、このフェイスブックは共同で作文をすることを可能にしいるようだ。
それが、このフェイスブックで時間を過ごしてしまう原因に成ってしまう。フェイスブック依存症の始まりかもしれない。しかし、面白くって止められない時もあるから、困ったものである。
4、書きたい時に書けばいい・自分なりのフェイスブックスタイルの確立
書く内容を内緒の日記の中に閉まっておきたいなら、誰も、フェイスブックでは書かない。ここに書くのは、明らかに読まれることを前提にしているからだ。この前提条件の上で、フェイスブックで書くことの面白さとは何か考えたい。
現在、私はフェイスブックを、まるで、日記のように、また、メールのように、そして、原稿の下書きのようにして、活用している。気の向くまま、思ったことを書く。しかし、このフェイスブックで書けば、文章はそのまま公開される。それで、その緊張関係を逆に楽しむ。
つまり、その分、「スケッチノート」と称するメモ帳に、いつもよくやっているように、落書きのような書き方(クロッキー)は出来ない。フェイスブックでは、一応、スケッチ程度からが許される。つまし、走り書きではなく、何を書いたかが読まれる(観る)人にわかる程度、描写は、構造化されていることが要求されている。
そうした緊張が、益々、文章を書く訓練となる。だから、何となく書いた文章が、論文やエッセイの材料となる場合もある。また、非常に稀であるが、一挙に、まとまった文章になって場合もある。殆どの場合、なかなかそう綺麗にまとまらない。そして、まとまらない文章は、フェイスブックには記載しない。それを別の、「文書」ボックスに保存し、また、別の機会に、再度、挑戦してみる。
書けない場合もあれば、書ける場合もある。いずれにしても、それは、現在の私の思索の現状を物語るなにものでもない。そうして、自分の思索を続ける。その一つの道具が、このフェイスブックである。
何も、みんなが私の様にフェイスブックを使っている訳ではない。書く行為は人によってそれぞれだと思う。自分の生き方があるように、それぞれの人にそれぞれの書くスタイルがあり、それぞれの書き方がある。それでいいと思うし、それしかないと思う。
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ちなみに、この文章も、槇さんとのやり取りの文章を引用しながら、即席ラーメンではないが、フェイスブック丼(文書コーナー)に、私の手から打ち出される、即席メンに、熱いお湯をかけて、作ったものなのです。
フェイスブック記載 2015年1月11日
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ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」 8章 「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」
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