2008年1月28日月曜日

前向きな悲観論

前向きに悲観すること
-自分の弱点と共存する生き方-

三石博行


失敗と決意の終わりなき連鎖・一秒の人生

▽ 今、私の職場は試験期間である。私自身、自分の学生時代の試験の内容に関する記憶は殆どない。何が出たのか、さっぱり思い出さない。思い出すことは、一日多くて3、4科目の試験の準備で、徹夜をしたことなどである。そして、一夜漬けで試験に臨みながら「次回は、こんな一夜漬けの試験勉強は止めよう」と決意したことである。

▽ しかし、その決意も、次の学期が始まると完全に忘れ去り、試験期間には、また前と同じように一夜漬けを繰り返しことになる。しかも、まったく前回と同じように「次回は、こんな一夜漬けの試験勉強は止めよう」と決意するのである。その決意の不履行と再決意を繰り返しながら学生時代は終わった。

▽ 学校を卒業して、仕事をしながら、まだ同じことを繰り返している。仕事の期限ぎりぎりまで、なかなか仕事が終わらない。予め立てた計画も、一日分の仕事完成率の点検も、まだ時間があると思えがすぐに甘くなる。

▽ 期限を切られなければ仕事が終わらない。期限ぎりぎりになって、「こんなことをしていてはいけない。もっと計画的に仕事をこなす必要がある」と決意するのであるが、この決意も次の仕事を始めた時には忘れさられ、次も同じように期限ぎりぎりになってやり始める。そしてまったく以前と同じように、「こんなことをしていてはいけない。もっと計画的に仕事をこなす必要がある」と再決意するのである。そして、そうこうしている内に、年を取って、仕事も出来なくなり、あの世からお迎えがくるかもしれない。

▽ これまで、常に「毎日、確りと計画を持って生きる」ということを考えたし、その為に、中学や高校時代には、日記や生活記録を書いた。大学時代でも生活時間を記録する日記や手帳を書いた。社会に出てからはシステムノートを書いてきた。しっかりと予測される近未来の情況を分析し、現在の生活時間の配分を計算し、こつこつと仕事をこなす態度を身につけようと、長年、努力してきたのであるが、しかし、結果は、こうした几帳面で計画性をもった生活設計が出来るようにはならなかった。

▽ 多分、こうして同じ課題を持ち続けながら時間が過ぎ、いつの間にか人生を50年過ごし、60年過ごし、そして若い人々から見ればと自分を高齢者として位置づけなければならない年齢に達するのであるが、それでも、同じ失敗と同じ問題を抱え、同じ決意と同じ努力を繰り返す生活を続ける。


大人的と子供的な観方、生き方・二つの異文化現象

▽ 子供のころは、大人が偉く見えた。また、子供のころは、大人は分かって生きていると思っていた。そして、子供のころは、大人になるときっと解決できると信じていた。

▽ しかし、大人になると、子供と自分との距離がそうないことに気付く。また、大人になると、子供のころから抱え込んだ問題が解決していないことに気付く。そして、大人になると、子供から今までの時間が余りにも短いと感じる。

▽ 子供は大人を経験してないので大人を知らない。大人は子供を経験しているので子供を知っている。それが大人と子供の違いはである。つまり、子供より大人が長く生きた分だけ多くのことを経験してきた。そして、経験の少ない分、子供は大人より自分の可能性を信じている。他者の死との出会いを多く経験してきた分、大人は未来という時間が無いことを理解している。それが少ないだけに、子供はまだまだ未来があると信じている。

▽ 言換すれば、子供が自分の可能性を信じているのは、まだ人生の時間があるという根拠のみである。しかし大人が諦め(あきらめ)を抱くのは、人生の時間がもうないという根拠なのみである。その両者の根拠を説明できるものは何もない。主観と統計的な推測、つまりそう思ったということと平均的にそうなっているという説明以外になにもない。

▽ 未来を信じられる子供たちは、無謀であり、大胆であり、鈍感であり、そして前向きである。そして、子供たちは、幻想にとりつかれ、無我夢の中に、冒険とロマンを追い求める。つまり、子供たちは、真理や愛を語るドラマの中で、自らの利益や命を顧みず、主役を演技し続ける。彼らは生命の塊で、命の凄さを放し続ける。

▽ だが、大人たちは、現実的で、臆病で、後ろ向きである。何故なら、彼らは世界の中で己の小ささを知り、己の能力に幻滅し、己の力に絶望しながらも、それでも生きなければならないことを知っているからである。 彼らの言い分は自己弁護的で、後ろ向きで、遠慮ばかりしている。彼らは、つまらない映画の脇役である。

▽ 未来への悲観は大人への入り口で与えられ、人生への悲観は大人へ成長の証である。そして、自分への悲観は大人としての優しさや繊細な人の香りを与えるのだろう。

▽ しかし、子供は将来と呼ばれる不在の根拠へ向かう無謀な楽観性を持っている。幻想と呼ばれる未来へ立ち向かう勇気を持っている。無知ゆえに強靭な楽観的感性と未経験ゆえ描く未来への幻想に向かって進む生命力を持っている。

▽ 繊細で「後ろ向きの大人」と鈍感で「前向きな子供」の二つの文化。私はその二つのどれを自分の生きる方法として選び、どれを他人の行き方として評価するだろうか。



怠け癖を治すことは出来ないが、しかし、追い詰めることはできる

▽ 私の試験を落とした学生がやって来た。暗い顔をして、失敗した色々な理由を私に話した。彼と私との隔たりは、社会的には、「採点した私」と「採点され彼」の違いによって生み出されている。私は教師という社会的役割を果し、学生である彼を不可にした。教師と学生いう立場を成立させている学校において存在している関係に過ぎない。

▽ つまり、私という個人は、試験勉強を一夜漬けで行うという点では、その学生と同じ人間であることは間違いない。

▽ 試験勉強は一夜漬けであった若いころから、私は怠け者だった。その怠けものは大人になっても治らなかった。そのため、学位(博士)論文を終えるのも長い年数が掛かった。単著の本すら出版してない。書きかけの論文原稿の山に囲まれている。

▽ 書けないのは怠け者であるだけでなく、勇気がないからであった。つまり、書いて出す自信がなかった。色々書きながら、不十分な文書を世の中に出すことは、自分の名誉を傷つけることであると思った。発表することで恥ずかしい思いをすることに耐える勇気がなかった。

▽ 未完成の論文原稿が記憶媒体の中にどんどん溜まる。文書は、書いてもまた書いても、みんなしまい込まれ、誰の点検からも批判からも隔離され、記憶媒体という閉鎖空間の中に、誰も侵入できない安全地帯の中にしまい込まれていた。しかし、それらの文章は、その安全地帯の中では世界的な論文であるかのように大切に扱われていた。

▽ ある日、不十分な状態であったが発表することを先に決めてしまったことがあった。研究発表までに終わらなければならない。不十分である箇所を出来るだけ少なくするために他の論文や本を読む。そして、不十分なまま発表した。結果は明らかであった。つまり、恥ずかしい思いしか残らなかった。

▽ 記憶媒体の安全地帯の中で、あたかもいい論文であると自負していた私は惨めな自己の現実を知らされ、その未熟な身体を晒(さら)された恥ずかしさと悔しさに打ちのめされていた。

▽ それでも、また、不十分なまま発表することを先に決めて、研究発表するために研究した。研究成果があったから研究発表するのではなく、研究発表を決めたから、研究する作業が続いた。「僕は怠けものなのだよ」という理由によって選択した行動であった。

▽ 今でも、この怠けものは治らない。小学校の時に夏休みの宿題を一夜漬けでやったあの日から続いているこの怠け者を治すことは出来ない。それで、この怠け者を追い詰めることにした。それ以外に、今のところ私が気付いた方法はないようだ。

▽ その追い詰め方として、実に大胆で無責任な手段を取った。まだ、論文は書けていない、まだ研究成果を明確に言えない、だが発表すると学会事務教に宣言するのだ。画家がまだ書いてない絵について画商と交渉するようなものだ。研究者としてこれほど無謀な行動があるだろうか。しかし、この無謀さをもってはじめて怠け者の私は焦るのである。

▽ 大人になっても子供のころと同じ性格は変わらない。大人は、ただ自己変革の可能性を信じない悲観論者なのだ。そしてその悲観論者である自分を認め。自分が自分で変えられないことを知るしかない。自分は自分によって変革することのできる存在であるなら、不可能な試みをする必要はない。もし、自分の怠け者を変えるためにもう一度生まれ変わるしかない。しかし、それは不可能な希望である。

▽ 結果的に、私が選んだ道は、みっともないと言われるかもしれないが、怠け者である自分を変えなくてもいいということであった。今後も怠け者として生きるしかないということであった。つまり、怠け者である自分を認めることだった。そして、同時に、この怠け者の自分が怠けておれないようにしてしまう。怠け者の自分を追い込むことが、私の選んだ方法であった。

▽ 勿論(もちろん)今でも、これ以外の色々な怠け者対策を調べる。そして、よち有効な方法があれば、それを取り入れることにしている。しかし、怠け者の自分を追い込むという方法が、現在の私が考えた最も有効な対策である。


前向きな悲観論者の煩悩

▽ 自分の意志の強さに自信を持つ人なら、自分の弱点を人の力を借りて治す方法を取らずにすんだかも知れない。しかし、自分に自信のない人なら、自分の力で自分の弱点を克復する方法は取らないだろう。何故なら、その方法は意志の弱い自分にはハードルの高い難しいやり方であるからだ。

▽ 自分の能力に自信のある人なら、自分の力を信じて自分の考えを中心に仕事をするだろう。しかし、自分の能力に自信を持たない人なら、他者の考えや方法を聴き、自分を点検するだろう。

▽ 本当に必要な能力は、精々、自分の弱点を理解する能力である。その弱点を克服するための方法を見つけ出す知性と技能が、最も実践力のある能力である。だが、予め自信をもつ人々は、その実践的な能力を身につけるための条件を失っていると言える。

▽ 真摯に生きること、その条件として自分の弱点を認めることが挙げられる。その生き方は、前向きに自信を持って生きる楽観主義を捨て、前向きに自分への自信や確信を疑う悲観的な立場を取ることではないだろうか。

▽ 子供の柔らかい精神と大人の強かな(したたかな)技法を共存させることは出来ないものかと思った瞬間に、希望という幻想に囚われ楽観主義が生まれようとしている。そして、この子供じみた幻想から前向きな根拠なき自信や確信が生まれようとしている。これは、何ということだ。




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