三石博行
精神分析学のモデル批判 科学認識論の課題
文学的表現とは何か メタアブダクション
哲学的文書、特にポスト構造と呼ばれる人々の文書は、隠喩的な表現が絶大な市民権を得ている。そのため、検証されていない人間学モデルを前提にした文章の展開がなされる。こうした隠喩的表現の有効性を問題にしなければ、人間学を科学として認めることは出来ないだろう。計量的表現が科学的記述の条件となろうとしている時に、隠喩的表現が市民権をもつ世界は文学に限定されることになる。
文学である以上、科学的な解釈ではなく、表現された世界が持つ説得力が問題となる。しかし、その説得力とは極めて主観的な世界を前提にしなければならない以上、文学的表現に対する有効性を一般化することは不可能となる。
しかし、これらの人間学的理論は、まったく異なる仮説を前提にした科学的立場からは、成立しないし、理論的根拠すら疑問視され、その根拠をすべて失うことになる。つまり、人間学を構成する論理や学問的モデルは、多くの場合、演繹や帰納的に展開検証されるものや数量的アプローチ(統計的な手法による検証作業)ではなく、隠喩的モデルを仮定し、そのモデルでの解釈有効性が成立する限り、人間学的説明の有効性が成り立つ。
つまり、人間学的モデル(理論)の成立過程では、それを根拠付ける一般法則もなければ、また計量化しえるデータもない。そこには直感とよばれる人間学研究者の隠喩、換喩や提喩(ていゆ)作業があるのみだ。この直感的な何かに例えるというメタモデル作成作業が人間学理論の論理、アブダクションを導くことになる。つまり、この作業をここでは便宜的にメタアブダクションと呼称する。ちなみに、このメタアブダクションは文学的表現作業でつねに行われているといえる。
人間学の論証と論理 アブダクション
つまり、隠喩的モデルは、説明事項を質的にアプローチしながら、その事実間の関係を解釈する。解釈可能である限り、そのモデルの有効性は検証されていると了解される。多くの人間学の解釈モデルの場合、そのモデルによる語りの事実性、解釈学的説明の有効性が問題にされるのである。つまり、そのモデルと解釈項との関係は、ある意味でトトロジーを構成することになる。
観測されたデータから帰納的に理論が形成されたのでなく、また一般的な法則性から演繹的に関係式が導かれ、その式にようって現象が説明された訳でもない。ある意味で、現象(事実)を物語るための解釈理論を考え出し、その解釈理論で新しい事実をさらに解釈し、その解釈が有効であるなら、解釈理論を維持し続ける。
この理論が維持し続けられる限りモデルの反証は不可能である。その限りにおいて理論の有効性は持続すると考える。言い換えると、解釈モデルによってある事実が説明可能な状態にある場合、その解釈モデルを導き出した仮説的推論は有効であると考える。こうした理論の有効性を検証する論理をアブダクションと呼んでいる。
フロイト精神分析学の科学性の成立 アブダクションとその検証作業
例えば、臨床心理学や精神分析学は隠喩的表現が使われるのであるが、それらは患者の治療に有効であることが条件となる。つまり、それらの隠喩的表現、非計量的モデル、質的アプローチが現場の語りを通じて行われる治療で有効に働くことが、そのモデルの有効性を確認する手段となる。一言で言うなら効くか効かないかという実際の効果によって、そのモデルの実学的な検証がなされる。
具体的に説明するなら、フロイトの三つの意識形態 (意識、前意識、無意識)を説明するための自我の構造モデル(超自我、自我、エス)、とその形成に関する性精神分析理論、性的対象の三つの段階(口唇期、肛門期と生殖期の発展段階)と、口唇期から肛門期への段階 エディプ期 肛門期の攻撃性(サティズムの起源)等々。フロイト精神分析学の場合には、フロイト理論はフロイト本人をはじめ、多くの精神分析家たちが、理論を臨床活動の中で点検検証する作業をしている。
もし、フロイトの性精神分析理論が臨床現場で有効でなければ、フロイトの理論は破棄されることになる。その意味で、人間学での理論はその理論による解釈や技術の有効さによって検証され続けられる。臨床現場で有効な治療効果を生み出す限り、その理論は活用される。理論の活用期間中は、その解釈モデル(理論)を精神分析学史や人間学史の一ページに仕舞い込むことはないだろう。
アブダクションの有効性の検証作業としての科学哲学の課題
もし、臨床現場や問題解決の要求に対して、答える義務を持たない理論や解釈が存在するなら、その解釈は思弁的であると癒えるだろう。つまり、人間学において、アブダクションの有効性を問わないことが生じる。それらの人間学の技術性や実学性が否定され、教養として人間学が語られ、知識人のアクセサリーとなった哲学や文学が蔓延するとき、人間学的知識は、文章表現方法として存在可能となる。
多くの哲学的知識が教養化され、それらは知ることが生きることや変わることに無関係な情報となる。この状態を知識の思弁化と呼ぶ。人間社会科学の理論が有効性を失っても、存続できるのはそれらの知の思弁性によるものである。
固定したモデル、ドグマ化したアブダクションを批判的に点検する作業が必要となる。言い換えるとアブダクションによって形成された理論の根拠は、その解釈の有効性にのみあるために、その有効性が失われ思弁化する人間学の科学性を恒常的に点検し続けなければならないのである。
ある意味で、人間学の理論の思弁化は自然発生的に生み出される。例えば、フロイトの性精神分析学が、どの犯罪者の犯罪深層心理の説明に活用され、その定説が無条件に採用されだしたときに、フロイト精神分析学の危機が同時に進行していることを、彼ら(フロイト学者)は知る由もない。
この事態に対して、哲学がこうした人間学の理論のドグマ化、有効性を失ったモデルへの点検や破棄、つまり科学的説明の思弁性を暴露する役割をもたなければならないだろう。それが、科学哲学や科学認識論の役割なのである。つまり、科学哲学や科学認識論は、人間学の理論(アブダクションによって成立する理論)の思弁性を点検する作業を意味する。
参考資料
三石博行 フロイト精神分析の科学性批判
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_02/cMITShir97c.pdf
Hiroyuki Mitsuishi DECONSTRUCTION ET RECONSTRUCTION DE LA METAPSYCHOLOGIE FREUDIENNE - ESSAI D'EPISTEMOLOGIE SYSTEMIQUE - 邦訳 フロイトメタ心理学の解体と再構築-システム認識論の試み- Atelier national de reproduction des these France、584p 1993年10月 単著
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05_02.html
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05.html
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