2011年2月18日金曜日

精神構造的暴力と社会構造的暴力の相反構造

人間論から解釈される暴力の概念(3)

三石博行



精神構造的暴力の最小作用の法則・現実則

社会的秩序を守ることで自我は欲望を抑制することができる。この抑制機能を現実則と呼んだ。つまり、現実則は現実の自我を守るために自我の過剰な精神エネルギーの投資活動を抑制する機能である。そして、現実則によって自我は幻想でしかない欲望の対象に精神エネルギーを費やすことを極力抑えることが可能になるのである。

言い換えると、現実則とは精神構造のシステム内のエネルギーを少なくする機能を持っている。精神構造を維持しているリピドーが精神構造的暴力の起源であったので、現実則は過剰な精神構造的暴力は抑える精神経済的メカニズムであり、物理的用語を使うなら、丁度、精神構造的暴力の最小作用の法則であるとも言える。

例えば、精神構造的暴力が抑制されている人を、理性的で、社会的で、協調性のある、モラルを持った人だと我々は呼んでいる。殆どの堅実で保守的な人々は、この部類に所属している。それらの人々は、決して欲望に身を任すことはなく、感情を抑え、論理的飛躍を嫌い、社会規則を守り、他人への迷惑行為を慎み、皆と協力し合い、身持ちよく、きちんとした生活を送る。これが、精神構造的暴力をその機能を維持するための最小限の状態に抑えることに成功している人の思考や行動パターンである。そして、精神構造的暴力を必要最小限に抑制できている人々は社会で高く評価されている。


精神構造的暴力の抑制による社会構造的暴力の強化

社会はその社会秩序を守る人々によって安全に運営されている。社会的役割に対する個人的責任を全うする人々によって社会は機能している。つまり、現実則に従って動く人が社会機能を維持していると言える。そして、社会構造は、社会秩序を守り、自己の社会的役割分担に責任を持つ人々が多くいることで安定する。当然の事であるが、保守的で体制維持派の人々が多いほど社会は平穏に運営されるのである。

社会秩序を守る人は、前記したように、現実則によって自己の欲望を抑制している、つまり精神構造的暴力を抑制している人である。そして、精神構造的暴力を抑制している人々の価値観が社会全体に押し広げられた場合、社会は保守的になる。

社会は、個人に対してその社会の価値観を強要する。また、社会は個人の行動をその社会的規則によって厳しく制限することになる。その典型が中世、封建時代の社会である。身分制度や宗教的価値観で個人の行動は厳しく規制されていた。社会的役割は生まれながらにして決定され、農民は生涯農民として、女性は出産と育児が社会的義務とされていた。自由な社会経済活動は一切許されなかった。

言い換えると、精神構造的暴力を極度に抑制し、その抑制を社会全体で奨励もしくは強制することによって、こんどは逆に、社会構造的暴力が強化されるのである。


近代化(精神構造的暴力の拡大化)から生まれた現代資本主義社会

人類の歴史を振り返ると、社会経済の進歩は社会構造的暴力を抑え、精神構造的暴力を寛容してきた。近代社会を生み出す自由思想は、身分制度や宗教的世界観等の封建主義社会秩序を崩壊させた。職業選択の自由、表現の自由、経済活動の自由、学問の自由、信条や信仰の自由等々によって、人々は自分の行動や思想を自分で選択する権利を得た。

つまり、精神構造的暴力を認め、リピドーを自己に投資し、自己の理想や夢に向かって生きる。封建社会で創られた自我、つまり自らの人生はすでに定められ、それに従って生きることを美徳とするのでなく、自らの人生は自らの力で切り開くこと、希望に向かって生きることが人生の美徳となる。近代的自我が形成され、自由を縛りつけてきた社会的制約を払いのけ、人生を冒険すること、自分の意思で自分の生き方を選ぶことが新たな自我のスタイルとなる。社会的にも、自由に生き、そして社会的に成功することが高く評価される。

近代化とは、個人的自由を束縛した社会構造的暴力(封建制度の価値観や世界観)を取り除き、人間が自由な存在であることを自覚したことから始まる。中世的世界観の抑制から解放されるために、その世界観を支配していた哲理、観念、法則をことごとく否定し、新しい合理性を打ち立てた。その合理性は、実際に新たな産業を興す力となるのである。

資本主義経済は精神構造的暴力をできる限り認め、自由と呼ばれる価値観によって、営まれる経済競争による紛争、市場獲得や独占、新たな経済格差の承認を認めてきた。それは自由経済や資本主義社会と呼ばれる社会構造暴力のシステムを構築し続けてきた。

つまり、人間の自由がすべての権利の中で最高を占め、生命や生活の保護よりも、人間の自由が重要視されることになる。食糧が先物取引や投資の材料となり、食料価格が上がることで投資家が利益を得る。その利益の犠牲者として発展途上国では貧困にあえぐ人々が食糧まで奪われることになる。エジプトの庶民が一日、200円の生活で主食の材料する買えない生活の中で、先進国の富裕層は数千億の財を築くのである。

精神構造的暴力を最大限に発揮させ、突き進んできた近代化、民主化、資本主義経済化、自由主義の嵐は、これから先、どのようになるのだろうか。現在の先端資本主義経済・金融資本主義は、寧ろ、資本主義経済の限界を示す状態に辿り着いたと言えないだろうか。

そして、これまでの自由主義を改めさせる新しい社会思想によって、肥大化した精神構造的暴力を抑制するために、新たな社会構造的暴力が準備されようとしていないだろうか。つまり、新しいファシズムやナチズムが、台頭しないと誰が保障するのだろうか。






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