2015年12月9日水曜日

撮る撮られる関係の解消

森一生氏の写真芸術

三石博行

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10月中旬に島根と出雲を旅行した。大雪山の麓にあった「上田正治写真美術館」に行った。上田正治の写真を観ながら、森一生氏の写真を思い出していた。

日常生活、家族、町並み、自分の生活空間にそのままある何ともないと言えば何ともない風景や情景、それらに潜む生活美を写し取る。そこには、写真家の観る眼がなければ、観えない世界があるようだと思った。

私の森一生氏の写真への感銘。それは、多分、彼の写真館に家族や自分の記念写真を取りに来る人々に共感し、シャッターを切る写真家森一生氏の姿を前提にして、はじめて、その説明にたどり着けるのだと思った。

森写真館に訪れて、家族の記念写真を撮りたいと思った人々に寄り添うように、森一生はすべての街の風景と自然に寄り添っているのだろうと思った。

森一生氏の写真の根底にはそうした生活の美に関する思想があるのかもしれない。あるがままの世界のあるがままの人々とその風景、さらにはそれらの人々を取り巻く世界を描き写しだそうとする芸術家、森一生の作品。

それは、あたかも今日の朝ごはんのように、何の気取りもなく、何のタイトルもなく、あるがままに、おもうままに、このフェイスブックに無造作に、並べられ、我々を楽しませている。

「2015年11月27日、森一生撮影」


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以前から森一生氏の写真を観ながら思っていたこと。それは、被写体がすでにその被写体でなくなった瞬間を撮った芸術作品とも言うべき「街の写真家森一生」の作品をどのようにして彼はうみだすのかという事だった。彼の写真館を見たかった。  

名古屋に向かった。しかし、会ってみて、その写真館の芸術作品は、彼の写真館にあるのでなく、森一生という写真家の姿にあることを知った。彼には、つまり、被写体たちが被写体であるという自意識を喪失させる眼差しがあった。  

彼の前で被写体たちは写される自分から生活している自分に帰ることが出来た。つまり、自然な日常の自分たちを、彼の写真館で、彼の写真機の前で、取り戻したのだ。それは、その写真館という空間にあるのでなく、森一生という写真家が創りだした被写体と自分との関係の空間に在ったのだと理解できた。  

ふと気が付けば、私は彼の前で、自然に自分を表現していた。その瞬間、ふと、どうしたのだろうかという不思議な感性に襲われた。彼のあの写真の面白さを知るために、ここまで来たのだはなかったか。それなのに、なぜ彼に質問を浴びせることが出来ず、何故、自分の話をしてしまうのか。その不思議な彼の雰囲気と自分の場違いな行動を観察しながら、自問していた。

しかし、その瞬間、私は彼の写真芸術の技術、「被写体が被写体としての自意識を消し去り、日常の世界へと立ち戻る」ことを可能にさせる撮影技能を理解した。つまり、そこに私が聞きたいことの答えが在った。その答えは、彼の職業的人柄と人格の調和によって出来ているものであった。彼は、私の不思議な感性して、その問いに答えていたのだった。それが、彼の写真芸術の本質だと、私は理解した。  

「どうして、貴方の写真の話を聴きたいのに、自分の話をしてしまうのか。」それが、彼の写真芸術の基本であったと、そう語りながら自覚した。不思議な瞬間であった。


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森さんとの名古屋の古い町並みの散歩、楽しいでした。最も、私の関心を呼んだことは、森さんが街の人々、商店、飲み屋、喫茶店、おばあちゃんから若い人まで、知り合いで、気さくに言葉を交わし、その日の出来事や、これからあるイベントの話を手短に、言い合い、そして、簡単に約束をしている姿であった。

彼は、この町の一人の住民として写真館を開き、写真を撮っているいう事でした。私が「上田正治写真美術館」で上田正治の写真を観ながら、森一生氏の写真を思い出していた世界が、名古屋の彼の生活空間に繋がっていた。

写真屋森さんの姿が、その町並みに溶け込んで、ジーパン姿で、皆さんの思い出の写真を取ってくれる写真屋のおっちゃん」であり、写真芸術家森一生は、そのおまけのような存在に映った。

最後に彼の行きつけのビルの前にへばり付いた飲み屋に行った。一杯飲み屋の狭い部屋で、常連やその連れがお互いに譲り合って、一杯引っかけて、冗談を飛び交わす。そんな庶民生活、そのものの日常風景と森さんの写真の関係の連立方程式の解が解けたようだった。

冬の薄暗い名古屋駅のビルの谷間に小さくなった空の下を潜り抜けて、新幹線の改札入口に近くなるにつれて、少し心残りがしながら、京都へ帰った。

「2014年12月6日 森一生撮影」


https://www.facebook.com/pashanova2011?fref=photo



許しとは何か。人はなぜ人を許すのか

三石博行


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人はどのようにして他者を「許す」のか、この答えは宗教に求めるほかないのだろうか。と言うのも、この「許す」という行為は、救いと共通するように思えるからだ。

許すとは何か。つまり、人は許すために許し得るのではなく、許されることを追い求めるために、許すのかもしれない。その意味で、許しとは、共に許されることを求めた者の救いに似ているとも言える。

広島の人々は、どのようにして原爆を落としたアメリカ兵を許したか。ドイツのユダヤ人は、どのようにしてアウシュビッツで家族を殺したドイツ兵を許したか。アジアの人々は、どのようにして国を侵略し、町は村を破壊した日本兵を許したか。


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確かに、許せないことがあるだろう。その許しないことを抱き、憎悪に燃え、そして復讐を誓う。もし、その復讐が達成された後に、何を感じるだろうか。そして、そこで、許せない想いは終焉し、それらの希望は完全に達成し得るだろうか。このように問い掛けるのは、殆ど、許せない現実に出会わなかった人々かもしれない。

許せない思いを抱く人々に対して、人を許すことを説教することは、無意味である。だから、それらの人々に、許せない思いを実現させる機会を与えることを社会は認めている。例えば、敵討ちのように、昔は、その機会を私的に認めていた。しかし、今日、この私的な復讐は犯罪とされる。法律によって、復讐は合法的に可能になり、許せない相手を刑事訴訟し、刑罰という社会的な報いを受けさせることが出来る。

だから、許すという事は、許せない現実を否定して成立しているのではない。許すという事は、許せない行為の対局にあるのでない。それは、逆に、許される対象として、許す主体が存在しているから、許すという行為が可能になると言えないだろうか。つまり、人は許されない自己を抱えた時に、許すことが要約できる立場に立つことが出来るのではないだろうか。

それはあたかも死にゆく人々の生命に対する憐れみにも似ている。つまり、許しとは、許される側に立つ、弱い人間としての自覚によって可能になっているのではないだろうか。


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もし、強い自分があるなら、そして、もし自尊心を傷つけられたなら、その相手を打倒する為に闘うだろう。その意味で、許さないことによって、自己実現を可能にすることが出来る。しかし、許すとは、その逆で、自分の自尊心を傷つけた人が、同じように他人から自尊心を傷つけられた時に、「それは苦しかっただろうと」彼に寄り添うことを意味する。それは、欺瞞者のすることだと言われるだろう。それは、嘘だと言われるだろう。

確かにそうなのだ。その許す行為に秘められた偽善性を、否定するつもりはない。

だから、許すことは自分が傷つけた相手を懲らしめられる強いと思う人間には出来ない技なのだ。自分が、懲らしめられる相手と同じ罪(過ち)を犯した弱い人間だと思った時に、その痛みを受け入れるという行為の結果として、許すということが出来るのかも知れない。その意味で、許すということは、受け入れるという意味に類似しているのだと思う。言い換えると、弱い自分を受け入れるという意味に繋がる。

これは美し表現で許しを語った場合の話だ。悪く言えば、許しとは「慣れ合い」だとも言える。つまり、悪いことをしていると自覚している人間であるから、許すことが出来る。もっとひどい言い方をすれば「泥棒が泥棒を許すのは、当たり前でしょう」という論理になる。

つまり、「私は泥棒ですから、貴方が泥棒であることを許すのは当たり前でしょう。もし、泥棒の私が、泥棒の貴方を許さないとすれば、それは自己否定になりますよね。」という論理が成立する。これが、自己欺瞞のない「弱い自分を受け入れる」タイブの許しとなる。


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しかし、これも極端な見解だ。広島の人々は原爆を落としたアメリカ兵を、そういう気持ちで許したのではない。アジアの人々も国を侵略し、町は村を破壊した日本兵を、そんな気持ちで許したのではない。


許しには、自分を深く傷つけ、自分の家族を死に追いやった人々に対して、自らが彼らと同類であると自覚させる強烈な自己否定がなければならない。つまり、それが原罪とか無常ということばで語られた考え方なのである。そうでもしないと、この許しに必要な自己理解が成立し得ないのである。

もし、そのことをキリストが説明しなければ、その意味は、不明のままだったと思う。もし、その意味をブッタが語らなければ、その理由は、理解できなかったと思う。その意味で、許しが宗教的な意味合いをもつことは避けられない。

残念なことに、この許しの問題に答えられる哲学や人文社会学はない。それが問題かもしれない。

歴史問題を語るとは何か

三石博行


歴史を語る時、語る人々の時代感覚や社会理念が前提となっている。こう歴史に関して語ったのは「解釈学」という考え方であった。それまでは、歴史とは過去の事実として理解されていた。しかし、この歴史的事実という理解が、歴史解釈という認識に変わったのは、謂わば、観ている私の時代性や社会性を前提にしなければならない人文社会学研究上の観察者にとっては当然の帰結であると言える。


この考え方は、長年検証され批判されてきた世界観を背景にして成立している。世界は実在する客観的存在から、社会現象、社会的構造、社会的事象、さらには時代や社会的存在の解釈世界として理解されてきた経過の中で、歴史的事実もその認識論的な影響を受けた。つまり、認識される世界は認識する主体の側の認識、評価のプログラムの産物であるという解釈が成立する以上、歴史もその一部であると理解された。それが解釈学的な歴史理解の基本となっているのである。



しかし、歴史問題を語る主体の歴史的、文化的、社会的存在の自覚という哲学では当然の理解も、現実には殆ど応用されることはない。それが今の日韓関係の中で深刻になりつつある「歴史問題」の根底にある。従軍慰安婦問題という歴史を、政治的利害に結び付けることは危険である。つまり政治が歴史問題に立ち入ることは、最も避けなければならない。もし、立ち入るとすれば、歴史解釈ではなく、現実の被害者の救済問題である。その意味で、歴史的事実の解明ではなく、その政治的利用を行う日本政府や韓国政府も同じような大きな間違いを犯そうとしているようだ。


丁度、原発の安全性を、素人の政治家が議論するように、歴史問題をその厳密な調査方法も知らない素人の政治家が議論していることになる。彼らの関心は、専ら事実ではなく、その政治的利用に過ぎない。そうなれば、後戻りのできない失敗を行うことになる。それは、国際化する社会に逆行する閉鎖的で偏執独断的な民族主義を扇動することになる。この考え方によって暴力は正当化され、過去の国家間の紛争挑発という失敗を繰り返すことになる。つまり、無用な敵意を扇動し、両国民の間に自然に芽生える友好な感性を破壊し、それらの人々を暴力の応酬、そして最終的に悲惨な戦禍に放り入れようとしているのである。

国がある以上、それらの国の間ではそれぞれ歴史の解釈や観方が異なることは、解釈学の立場からして当然である。そうした人文社会学や哲学的に当然の歴史解釈の課題を、もう一度、人文社会学を研究している人々が、そのことの責任を自ら引き受けなければならない。それを、政治家に任してはならない。


勇気ある韓国の現代史研究家の発言に政治的弾圧を加えた政権にも、さらには「従軍慰安婦問題」を無視し続ける日本の政治家に歴史問題に関する発言をこれ以上許してはならない。そして、これ以上、この歴史問題を含め、東アジアに関する歴史や文化の課題に人文社会学の研究者は無関心であってはならないだろう。


多くの企業家や生産者が、相互に経済的関係を発展させるように、もう一度、社会文化や歴史の課題を、政治的利害を超えた人々、市民や研究者が語らなければならない。それが私たち研究者のできる東アジアの平和的共存のための活動だと思う。自分の生活や研究活動から、その責任を引き受けなければならないのではないかと思う。




君の絵

私はいつも岩本拓郎氏の絵に深く反応してしまう。
その理由は分からない。多分、何がが抵抗しているかのようだ。
多分。

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「君の絵画」 三石博行


それは不思議な心象溶融剤。

心の奥に潜む世界に浸み込み、
無形の形象を意識の地表に滲み出す、

それは心的抑制装置の破砕剤。

突如として起こった
深層頁岩に封じ込められたエスの流血

ここは、何もなかった草原だった。

岩本拓郎氏 2015年11月19日

自動代替テキストはありません。
岩本拓郎氏 2015年11月19日

画像に含まれている可能性があるもの:水、屋外


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落ち葉

森一生さんの落ち葉の写真を見た。もう美しい落ち葉ではなく、殆ど、葉っぱの形が、冷たい歩道に溶け出し、消えて行こうとしている。ある、確かにあった筈の生命の物語。これは、命の話なのですと冬の光が物語る。。。
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「落ち葉」 三石博行

朽ちる葉、
真空色彩、
溶解する和音。
冷たい歩道、
無形音色
無機化する造形。
それが冬の詩の始まり
それが冬のクロッキー
もう、明日しかない。
もう、あの空の彼方に行くしかない。

森一生氏 2015年12月9日 
森 一生さんの写真

https://www.facebook.com/pashanova2011?fref=photo