- 国民との選挙公約 (マニフェスト)を基本とする選挙制度の構築 –
三石博行
1、旧統一教会の選挙支援を受ける背景
なぜ旧統一教会が政党(特に自民党)に影響を与えられたのか。旧統一教会のエバの国日本はアダムの国韓国に無条件に貢ぎ続けなければならないとい教義は、駄々でさえ戦前の朝鮮半島の植民地政策を反省することのない国家主義を信奉する多くの自民党議員には到底受け入れられるものではないと思われる。だが、その統一教会と政策協定まで結ぶのだから、どうなっているのか不思議な話だ。
もし、国粋主義に命をかけた三島由紀夫がこのことを知ったら、統一教会に選挙協力を得ている自民党の議員たちを「似非民族主義者」として激しく糾弾してるただろう。だから、政策協定を結んだ自民党議員や旧統一教会やその関連団体で挨拶をしたり、教祖と記念写真を撮ったりした議員たちは、きっと三島が生きてなくてホットしているかもしれない。しかし、それでも日本会議の幹部は居るのだから、国粋主義の幹部からクレームをつけられたり、場合によっては、脅迫されたりはしないだろうか。それもないなら、この国の右翼も国粋主義もとどのつまり、極めて実利的プラグマティストだと言われるかもしれない。
しかし、自民党議員(自民党議員でなくても)が何故旧統一教会に政策協定書まで書かされたのか、その本当の理由を明らかにしなければならない。思うに、大半の理由は、候補者が「選挙に勝ちたい」からだと言えるだろう。それも人情としては理解できる話である。真面目に、彼らといえども、「エバの国日本とアダムの国韓国」の関係を信じてはないだろうし、また、「政策協定」も半分が真面目に読みもしないで、結んだものだろう。確かに、その中の多くが、自民党の政策と同じである以上、例えば「日韓トンネルの成功」などという馬鹿げた構想があったとしても、それは無視したのかもしれない。ただ、選挙に負けると議員という食い口を失うことになる。それは、誰でも理解できる「失業」という恐ろしい生活が待っているのだ。
2、問われる日本の選挙文化
この現実から、言えることは、むしろ、旧統一教会は日本の選挙文化の現実をよく理解していて、その上で、候補者の要求にそった選挙協力をしたのではないかと言える。つまり、候補者の弱みを理解し、どの政党の候補者がその弱みに耐えられないか、また、選挙協力した後に、一番利用できる候補者であるかを、この団体は極めて冷酷に理解していたと思う。その上で、長期的視点に立って、選挙協力をしてきたのだろう。
それでも、ほとんどの国民は怒りもしないし、マスコミも「なんて国民をバカにしたうるさいウグイスの鳴き声なのか」と批判さえしない。むしろ、選挙では候補者が金を持ってきてお願いに来るものだと信じて疑わない人々もいる。真昼堂々と、お金がばら撒かれることが起こる。これはいつの時代の選挙なのかと疑う現実が、つい数年前にあったし、それへの点検も然りとなされていない。これが現実の日本の選挙文化・民主主義文化の程度でなのだろう。
つまり、選挙では何をしても「当選すれば」いいのであって、負ければ、何の意味もないのである。当然は話であって、そのことを疑う人はいない。問題は、何をしても当選すればいいのかという疑問符が、世論に付いていないことではないだろうか。選挙とは、立候補者が、これまでどんな政策活動をしたか、どのような政治的意見や考え方を持っているか、と言うことを国民が評価し、そして、自分の代表として選ぶ制度である。選ぶ行為の中身こそが、選挙活動や選挙行為の内容を決定している。もし、そうしたことが全く課題に挙がらす、「よろしくお願いします」と、自分への投票を呼びかけるなら、そうした選挙活動が常識化しているのであるなら、候補者は、当然のように、どんな手段を使っても選挙に勝てばいいと考え、勝つためには何でもすることになるだろう。こうした選挙文化こそが、旧統一教会にとって、非常に簡単に政治家や政党との関係を作る機会を得られることになるだろう。
3、選挙公約(マニフェスト)に対する点検としての選挙文化の構築
つまり、旧統一教会が巧みに政党や政治家と関係を作り上げた背景を分析し、理解しない限り、旧統一教会との関係を断ったとしても、同じような過ちを、今後も、繰り返すことになるだろう。政治家たちは旧統一教会を利用しなくなっても、また新しい団体を見つけ出し、それを利用して、「勝つためには何をしてもいい」選挙運動を続けるだろう。従って、もう一度、選挙を政党や政治家のマニフェストとその点検活動を前提とした国民・市民の政治参加活動にしない限り、この問題は基本的に解決することはないだろう。
言い換えると、この問題で問われているのは、旧統一教会やそれを使った政治家や政党だけはない。政党が約束した政策の点検活動として選挙を行なえない私たち日本の国民・市民の民主主義文化のレベルの問題だとも思える。
しかし、今までマニフェストを基本にした選挙活動が課題になった歴史がある。2005年9月11日に行われた衆議院議員の総選挙では、各政党がマニフェストを公表し、それをもとに選挙戦が戦われました。しかし、 もっとも真剣にマニフェスト選挙を訴えた旧民主党が、そのマニフェスト選挙を破壊した歴史もあった。2012年、野田政権は選挙公約したはずの消費税の公約を破棄した。何故なら、当時、社会保険に関する財政基盤が深刻な課題となっていたため、その課題を解決すべく、消費税増額を決めた。確かに、確かな財政基盤を作り上げることもなく、政策を提案するのは間違いである。その意味で、野田政権の言うことも理解できる。しかし、問題は、選挙公約を破棄してまで、消費税を上げるということが、議会制民主主義の中で、問題にならないかという疑問である。野田政権は、まるで、自分だけが日本を救うために、どんな反対があっても「消費税を上げる」と言い出した。そして、自民党と共に消費税を上げた。そのことによって、マニフェスト選挙は消滅した。
民主主義とは、意思決定の過程を重視する制度や文化によって成立している。政党がマニフェストで国民と政策を約束し、国民から委託(1票を投票された)のであれば、その約束(マニフェスト)は、次の選挙まで守らなければならない。それが議会制民主主義の原則である。選挙によって選ばれた経過を無視し、まったくマニフェストに反することをするのであれば、それは、議会制民主主義を無視した行為であると言える。この国は「国民主権」の国であって、「議員主権」の国ではない。だから、選挙を通じて選ばれてた政治家は、日本憲法に謳われている民主主義の基本「国民主権」を簡単に反故にすることは出来ない。それは、約束違反、言い換えると詐欺行為である。
もう一度、マニフェスト選挙の文化、その制度を充実させる色々な仕組み作りを真剣に取り組まなければならない。そうでない限り、政治家はいつまでたっても選挙が来たら、票田の稲穂をどれだけ集めるかということだけに心を奪われ、選挙はでは選挙に勝ことが唯一の目的となり、これまで取り組んできた政策の報告、また、新しい政策への提案を訴える場としての選挙文化は育つことはないだろう。それは、取りも直さず民主主義文化を醸成する制度を失った社会・日本に対して、何もしないことを意味する。今、旧統一教会と政党の関係を問いかける時、単に、関係をもった議員たちを糾弾するだけでなく、それを生んだ構造を問題にし、それを基本的に改革するための努力をしなければ、これからの日本社会の未来はないと思う。
フェイスブック記載 2022年11月2日