三石博行
資料
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の映像 2009年に放映された資料
司会 三宅民夫
レポーター ユンソナ
ゲスト 村井章介(しょうすけ) 東京大学教授
キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授
A 資料の要約
11世紀から14世紀の東アジアで盛んになる民間人の交易活動
新安沖の沈没船遺跡から見えて来た東アジアの交易活動
842年に遣唐使が停止して以来、日本は、明と国交を回復するまで約500年にわたって中国と国交を開いていなかった。その間、鎌倉時代に2度にわたって、蒙古(元)の襲来を受けた。一回目は1274年、二回目は1281年である。
日本と中国の間に正式な国交のない時代、そして二回に及ぶ蒙古襲来の時代に、日本、朝鮮と中国との間で民間人による盛んな貿易が行われていたことが、近年、解って来た。
韓国中西部に位置するテアン半島、そこの遺跡(沈没船)の発掘で、海底の泥の中から12世紀から13世紀の沈没船の遺物(青磁や白磁)が発掘される。韓国の国立海洋文化研究所のムン・ファンソク氏を中心として発掘が進んでいる。研究所のチームによって発掘された磁器は11世紀から17世紀のもので、朝鮮半島や宋、元、清の時代の中国で作られたものであった。そのことから、この地域が中国と朝鮮の貿易船の経由ルートであると判明した。
韓国南西部のモクポにある国立海洋文化財研究所に、新安沖で8年掛けて発掘した交易船の遺物が保管されている。この交易船は東シナ海で貿易を営んでいた商人たちが使っていたものである。全長34m幅8mを超える巨大な交易船は、14世紀の元の時代に中国で製造されたもので、遠洋航海に最適なV字型の船底をしていた。この船には磁器が2万3千点積まれていた。その中に素晴らしい磁器や青銅製品(青銅獅子形香炉)があった。
そしてまた、これらの荷物は慶元 (けいげん)現在の中国の寧波(ねんぱう、ねいは)から積まれたものであることが分かった。
さらに驚くことに、その中には、日本、京都の東福寺への荷物があった。1323年の木簡(もっかん、古代社会で使われていたもので、薄い木の板に文字が書かれている札)から船が出港した年も判明した。
東福寺の開山忌(かいざんき 寺を開いた僧侶たちの供養)の時にだけ開示される什宝(じゅうほう 家の宝として秘蔵されている器物 )の「八卦の香炉」(はっけのこうろ)と呼ばれる青磁がある。この八卦の香炉は中国元の時代に作られたもので、新安沖(しんあんおき)で引き上げられた遺跡とそのデザインはよく似ている。
この事実から、1319年、沈没船が就航した四年前、東福寺は火災に遭い、その再建費用を賄(まかな)う為(ため)に、中国で品物を仕入れて、日本で売ろうとしていたということが分かった。
また、当時日本人しか履かない下駄や日本人の遊び道具であった将棋の駒が、この沈没船から発見されている。つまり、日本人がこの船に乗っていて、日本に荷物を運んでいたことが判明した。
さらに、28トンもの中国の銅銭が積まれており、当時の日本では、これらの中国の銅銭が貨幣として使われており、経済の根幹を支えていた。つまり、この難破船は中国から日本に荷物を運ぶために運行されていたのではないかと推察されている。
交易活動で活躍していた人々の姿
11世紀以降、中国(宋、元)、朝鮮半島(高麗)と日本では多様な航海航路が開発され、交易が盛んに行われていた。日本の玄関口になったのは博多であった。福岡市埋蔵文化財センターには、博多で発掘された中国から運ばれた遺物が多数保管されている。出土品の中には元のものもあり、二度の蒙古襲来があり、元との外交関係が中断したにもかかわらず、民間人の間で盛んに交易が行われていたことを物語っている。
また、博多でも韓国のテアン半島で発見された遺物と同じものが2千点以上発掘されている。つまり、東シナ海を股に掛けて中国(元)、朝鮮半島(高麗)、そして日本で交易を行っていた国際的な商人も居たことを示している。つまり、倭寇が出没するようになった以前の東シナ海は民間貿易の盛んに行われていた地域であった。
この時代、海のシルクロードと呼ばれる航海航路が日本、朝鮮半島、中国、さらにはインドシナ半島を経て、インドからアラビア半島まで続いていたと謂(い)われていた。この航路は陶磁器が主要な商品であったことからセラミックロードとも呼ばれていた。
村井章介教授の解釈によると、当時、11世紀から14世紀、日本は主に砂金、水銀や武具(鎧や刀)を輸出し、主に陶磁器と銭を輸入していた。中国との大規模な交易は中国と日本を直行便で結び、小規模な交易では朝鮮半島を経由して行われていたといわれている。
高麗と日本との交易航路は、都、ケギョン(開京)に近い港から、朝鮮半島の西海岸を南に下り、朝鮮半島の南を回り、プサン(釜山)を出て、対馬を経て、九州に渡るルートが一般的だったと考えられている。
9世紀のはじめ朝鮮ではチャンボゴという有名な交易商人がいた。この時代活躍した交易商人は、もともと商売をしていた人でなく、平民や被差別民で新たに商人になった人々も居た。チャンボゴも被差別民階級の出身者であった。彼らは中国や日本と交易しながら莫大な富を蓄積し、中国に進出してきたイスラム商人たちとも交易をしていた。
日本では、当時使っていた船の様式が中国式で中国南部の木材を材料として使っていたので、船の所有者は中国人であったと解釈されている。船には日本人の乗組員がいた。交易でやってきた中国船に博多で雇われた日本人が乗り込んでいたと考えられる。
倭寇の起源とその正体
倭寇の出没によって疲弊する高麗
民間人による交易が盛んになる一方で、その影の部分とも言える倭寇(倭の国の盗賊という意味)が生れていく。倭寇の出現を示す最初の記録は「高麗史」の1223年の資料に倭寇が朝鮮半島の南部(金州)を襲い、船を200隻ほど焼き、女性を略奪したという記載がなされている。その後、倭寇は高麗を頻繁に襲撃し略奪を行っていた。
明を襲った倭寇の姿を中国人が書き残した倭寇図巻(わこうずかん)の資料から、倭寇は海賊として描かれていた。船で襲い、陸に上陸し、民家を襲い放火し、食料、財宝や婦女を略奪していることが描かれている。
九州北部や瀬戸内海からやって来た倭寇は、東シナ海を荒らしまわり、朝鮮半島を頻繁に襲った。時には数百隻の船団で高麗の沿岸部を襲撃した記録もある。倭寇に襲われた高麗の被害の例として、幾度も倭寇に襲われた韓国西海岸に位置する港町のチャンハンでは、海に面した小高い場所に城壁を築き、倭寇の侵略に備えていた。この城壁は倭寇の襲来が頻繁であった高麗末期に造られた。
当時(高麗末期)、高麗はすべての租税は、朝鮮半島の南から西海岸線を通って北の首都に運ばれていた。高麗政府は租税(米)を全国13箇所に集めて、それを北の首都ケジョンに船で運搬していたので、倭寇はその輸送路を狙って出没していた。頻繁な倭寇の略奪のために、沿岸部の農民たちは農地を放棄せざる得ない状態になっていた。山村部に農民が移住し、人々は流浪し、食料が不足し、飢餓が起こり、高麗政府は租税の収入を減らし、そのため高麗政府は疲弊して行った。
南北朝の戦乱と倭寇の出現
高麗の各地に爪あとを残した倭寇、彼らは九州の各地からやって来たと言われている。高麗を襲っていた倭寇の根拠地である長崎県対馬は韓国まで僅か50キロメートルの距離にある島である。九割が山地で、リアス式海岸に囲まれて、複雑に入り組んだ入り江をもつ対馬の地形は、海賊のアジトとしては絶好の場所であった。鎌倉時代、対馬は壱岐や松浦と共に倭寇の本拠地の一つであった。対馬では米の自給自足は不可能であり、食料の多くを島の外に依存していた。
倭寇の首領の子孫、早田(そうだ)さんの家には代々伝わる鎧冑(よろいかぶと)や日本刀が残されていた。倭寇は略奪行為のみをしていた海賊であったというだけでなく、水軍と貿易商人の面もあった。水崎(みずさき)遺跡から、倭寇が使っていた建物の跡が見つかり、その遺跡から数々の遺物が発掘され、高麗青磁や李朝の白磁等が大量に見つかった。
出土品の多くは14世紀から15世紀のものである。それらは非常に広いアジアの地域、例えばベトナム、タイなどの東南アジアで作られたもの、朝鮮半島で装身具として使われていた宝石、モンゴル帝国の文字の刻まれた銅銭(大元通宝)が発掘された。この膨大な遺物は、対馬の民がアジア全域と交易をしていたことの証である。またそのことから、彼らの活動範囲、活動力のすごさが理解できるのである。
対馬で最も大きな入り江、浅茅湾(あそうわん)は朝鮮半島を向いて開いている。この湾を出ると、すごい勢いで対馬海流が流れている。その流れを使って、倭寇たちは朝鮮半島、中国沿岸から東南アジアに向かった。
対馬の民たちはもともと交易を行っていたが、ある時期を経て倭寇としての活動が急激に増えた。高麗の資料から調べると、朝鮮半島を襲った倭寇は1350年から急激に増えたことが判明した。この時期の日本の歴史を振り返ってみる。1350年の日本は南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。南北朝の動乱で国が乱れた時代と倭寇が活発化する時期は一致する。特に九州では戦乱が多かった。
戦乱が起きることで、すぐに武力に訴える行為が安易に生じ、日本国内に武力紛争が頻発し、食料の供給ルートが絶たれ食料不足が起こり、庶民は生活の糧を失った。戦乱と食糧危機は常に密接な関係にある。対馬のように食料を外部に頼っていた人々は戦乱の結果、即食糧危機に襲われることになる。それらの人々が倭寇となり、目と鼻の先にある食料の倉庫、朝鮮半島に目を付けて襲うことになる。
境界人としての対馬の民、交易商人としての倭寇の姿
倭寇は略奪をしていた人々という側面だけでなく、交易商人や水軍の側面があった。このことから、対馬の人々を単純に倭寇、つまり倭(日本)の寇(盗賊)と意味する呼び方だけでなく、「境界人」と呼ぶことはできないかと村井教授は指摘する。つまり、対馬の人々は日本と朝鮮半島の狭間(はざま)に住んでいる。その狭間、その空間を生きる人々として様々な生活様式を持っていた。例えば魚を取って、それを両方の国に持っていって売るとか、品物のやり取り、交易をするなどの二つの国の境界領域の空間で生きていた。対馬の人々は朝鮮とも日本とも交易を行っていた。
しかし、ある条件で交易をしていた人々が、略奪に走ることも生じる。例えば、朝鮮半島に交易に行っていても十分な利益を得られない状態になる場合など、この境界人たちが通常の生活で生きることが出来なくなった場合に、彼らが倭寇化する場合が生じるとも言える。つまり、対馬の民が高麗と今までのような交易が出来なくなった場合に、彼らが倭寇に変身していったということが言える。
当時の高麗の国内事情は、北からモンゴル帝国の侵略を受け、政治的にその支配化にあった。また、モンゴルによる二度の日本出兵、元寇によって高麗は多くの出費をし、国は非常に疲弊していた。高麗は、沿岸の人々を内陸に移し、また島から村民を移し無人島化したこともあったが、積極的に有効な倭寇対策を打てなかった。
国際化した倭寇軍団と高麗の崩壊
倭寇は、次第に勢力を伸ばし、海賊集団として括(くく)れないほど大きな力を持つことになる。高麗史には500隻の大集団で朝鮮半島の西海岸を襲撃した倭寇の記録が残っている。彼らは1600頭の馬を連れていた騎馬軍団であった。彼らは沿岸部から内陸部深くまで侵入した。西海岸からおよそ100km内部の町ナンオン(南原)まで倭寇の侵入が続いた。そこで倭寇と高麗との最大の戦い、上陸後騎馬軍団に姿を変えた倭寇とそれと戦うために高麗政府から送られた将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍の激戦があった。その跡が血の岩として残っている。その時の倭寇の将軍は若いモンゴルの兵士であったと思われる。
騎馬軍団を率いる倭寇とは、対馬などの海で活動する人々では組織不可能である。ここから済州島(チェジュド)でのモンゴル帝国支配の歴史が倭寇に与えた影響が浮かび上がる。高麗は100年間モンゴル帝国(元)の支配を受けていた。済州島(チェジュド)にはモンゴル帝国によって軍馬を育てる牧場があった。馬の面倒を見るために多くのモンゴル人が済州島(チェジュド)に移住していた。彼らは牧子(ぼっこ)とよばれ、モンゴル帝国が済州島(チェジュド)から撤退した後も島に残り、そこを拠点に高麗政府に抵抗していた。牧子(ぼっこ)は倭寇と連合して高麗政府と戦った可能性がある。
しかし、日本では元寇の記憶が生々しい時代に日本人とモンゴル人が連合できたのかと疑問が起こる。しかし、海の世界に生きる(移動する)人々は国境、民族は大きな格差ではない。つまり、対馬などの境界人にとっては、そうした元寇に関する平均的な日本人の持つ感覚はない。ある条件が整えれば、それらの境界人たちは違う立場の人々と容易に結びあうことができる。例えば高麗と敵対しているという相互の利益が合致するなら、その利益を求めて対馬の境界人は、済州島のモンゴル人と連合(結託)し高麗と戦うことが出来た。この対馬の民とモンゴル人牧子が倭寇として、朝鮮半島を略奪した可能性は十分あると思われる。
馬を巧みに操るモンゴル人と航海に長けた倭寇の連合軍と戦ったのがイ・ソンゲ将軍であった。激戦の末、イ・ソンゲは戦いに勝つ。そして、イ・ソンゲは倭寇対策を考え、弱体化した高麗を滅ぼし、新たな国・朝鮮を建国した。
倭寇と境界人(境界領域空間の人々)の世界
朝鮮半島の西南部の沿岸地域は潮の干満差が世界的にも大きく、その地形を日本から来た倭寇のみで自由に航行できたは思われない。つまり、それが可能だったのは、朝鮮半島沿岸部の人々、朝鮮半島の沿岸の漁民、つまり高麗人も倭寇に加わり協力していたのではないかと村井教授は指摘する。
しかし、それに対して、キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授は反論した。例えば、ナンオン(南原)まで侵入した騎馬軍団はモンゴル人でなく、九州の豪族などの兵力だと思われる。また、高麗人が倭寇に協力するとすれば、倭寇に捕らえられ協力させられていたと考えられる。そして、倭寇が内陸部まで侵略できたのは、朝鮮半島の情報を収拾していたためではないかと指摘した。
倭寇を考えるとき、現在の国家観で見ると間違う。つまり、現在の対馬の人は日本人で済州島(チェジュド)の人は韓国人という見方は、近代以降の国家観に基づいて言われることである。当時の生活の実態、言葉、身なり服装など、対馬人と済州島(チェジュド)人は、現代の日本や韓国と比較するなら、多くの共通の要素があったのではと思われる。
対馬人も済州島(チェジュド)人も、日本と高麗という二つの国にも所属さない境界人として存在していたのではないか。現在の我々が思うほどの違いはこの二つの島の人々には存在していなかったのではないだろうかと村井教授は指摘する。そして、境界領域の住人という共通要素で、異なる境界領域の人々が共同して海賊行為を行っていたのではないかという見方も可能である。
また、倭寇に対する現在の歴史解釈では韓国と日本ではかなり異なる。倭寇に襲われていた立場である韓国と倭寇であった側日本では歴史の捉え方が基本的に変わるのは当然である。
そして、大軍事集団となった倭寇によって朝鮮半島は変わっていった。倭寇による被害で高麗は滅びた。倭寇から国を守るために軍事勢力が生まれ、そこでイ・ソンゲは高麗を滅ぼし朝鮮王国を建国することになる。倭寇の影響を朝鮮半島は深刻に受けた。その理解、つまり倭寇として襲った立場と、倭寇によって襲われた立場では、倭寇に関する歴史の観かたが違うのではないかとキム・ムンギョン教授は述べた。
倭寇を生み、倭寇によって影響された東アジアンの政治
倭寇を防ぐための政治協定や方策
1368年に元が滅びて明が中国に誕生する。1392年に日本では南北朝が統一された。室町幕府の第三代将軍足利義満と明の洪武帝(こうぶてい)は国交を結び交易を始める。光武帝は日本、室町幕府との交易を求め、足利義満は倭寇の取締りを明に約束した。
また、日本で南北朝が統一された1392年に高麗が滅び、朝鮮王朝が成立した。初代国王のイ・ソンゲは日本との交流や交易を進めながら、倭寇の対策に力を注ぐ。イ・ソンゲは室町幕府や九州や対馬の領主に倭寇の取締りを強く要請した。倭寇の本拠地対馬でも倭寇の取り締まりが行われ、1418年までその効果があった。しかし、倭寇取り締まりに積極的だった宗貞茂(むねさだしげ)の死後、再び倭寇の被害が朝鮮半島で起こり始めた。そこで、朝鮮王国第四代国王 世宋大王(せじょんだいおう)による対馬征伐が行われた。朝鮮は1万7千の兵を対馬に送り、倭寇の撲滅を図った。朝鮮軍は倭寇の首領早田氏の根拠地を集中攻撃した。
しかし、その一方で、朝鮮王朝は倭寇に対する懐柔策もとった。それが、倭寇対策として効果を発揮した。つまり、朝鮮王朝は早田氏に国身と呼ばれる辞令書を出し、早田氏に将軍の官職を与え、正式な交易を認めた。その朝鮮王朝の懐柔策によって、早田氏は倭寇の活動から遠ざかっていった。倭寇の朝鮮半島の襲撃は急速に減って行った。正式な交易権を得た対馬の民は再び東シナ海での交易事業を始める。1431年に朝鮮王朝を訪ねた早田六郎次郎は商いの船に琉球国の使節まで乗せていた。琉球から対馬、朝鮮半島につながる広大な東アジア交易ルート、そこで、対馬の民は朝鮮と日本と交易の仲介者としての役割を果たすのである。
font size="4" color=#00008b">政治的軍事的不安定が生み出した倭寇と現代社会
倭寇問題を解決することが東アジアの国際関係にとって最大の課題であった。特に、明はその問題を解決しなければならなかった。明と日本の関係の中で、倭寇の問題は極めて重大な課題であったと村井教授は指摘した。
キム教授は、政治が安定したことで倭寇対策が出来たと述べた。倭寇はアジアにおいて深刻な問題であった。倭寇が与えた重要な役割は、政治的安定ということをアジア諸国の課題にさせたことであった。政治の混乱が海の民に大きな影響を与え、倭寇をつくり、それがまた大きな政治的混乱を生み出した。つまり、日本の国内政治の混乱、高麗の国内政治の混乱が平和に交易をしていた人々に大きな影響を与えた。それが大勢の倭寇を生み出した。
このことは現代の社会に共通する課題を問いかけている。政治的不安定さが大きな問題を引き起こしている。例えば、現代国際社会で複雑だと思われている中東問題やアフガニスタンのような状況を観ると、政治の安定の重要さがわかるとキム教授は述べた。
国際紛争を解決する方法としての境界領域の復権や境界を接する双方の国の努力
同時に、当時の境界人、現代の国境を境にして出来上がっている民族と異なる集団、二つの国の間の境界領域空間で生活している人々、という考え方から、当時は現代と違い、境界領域空間があり、どちらの国にも属さない人々がいた。しかし、近代になり境界は広がりをもった空間から線になり、二つの国のどちらかに属さなければならない状態になっている。そのことを考えてみようと村井教授は述べる。
そこで、二つの領域が境界地の所有をめぐって紛争している場合、近代以降はその解決方法は戦争であった。勝った国がその領域を所有するという選択しかなかった。しかし、これから先、それで紛争が最終的に収まり、問題が解決するだろうかと考えてみる。つまり、これからの時代、国際紛争によって核戦争が誘発される時代に、領土問題を解決しる手段として戦争が現実的な方法であるかを考える必要がある。
そこで、境界人や境界領域空間に関する考え方や、昔の境界を復権できないかということも考えられる。どちらにも属することのない空間、逆に言うとどちらにも属する空間を復権することで、問題を解決できないかと考える。そうすることで、境界を挟んだ両側が色々な事業を興し、双方が結果的に大きな利益が得られるのではないかと村井教授は述べている。
日本と韓国の境界を接する二つの国で考えるべき大切な課題がある。それは、倭寇の問題を平和的に解決しようとした人々が居たことは事実出である。境界を接する人々にとって大切なことは、まず倭寇による被害を受けた人々がいること、また、厳しい貧困によって倭寇が生まれたこと、つまり倭寇にならなければならなかった貧困に苦しんだ人々も居たこと、この両方を含めて方策を考える必要がある。立場の異なる双方で、安定化のための問題解決に挑む必要があるとキム教授は述べた。
テキスト批評(三石):境界人倭寇と東アジア圏の成立(自国に連動する他国の内政問題)
被害を受けた側と被害を与えた側の歴史解釈の違いの相互理解
ETV特集「日本と朝鮮半島」では、毎回、日本と韓国の専門家を呼んで、議論を挟みながら番組を進める。今回も、村井章介東京大学教授とキム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授が番組に招待され、議論を展開した。
二人の専門家の話しから、同じ事件でも韓国と日本では理解の仕方が異なるという印象を受けた。この印象は、今までのこの番組の中でも感じられたのであったが、今回は、村井教授とキム教授の解釈の違いを鮮明に感じた。
前回の「元寇」も、日本側から見た場合と東アジアの他の国々の歴史も入れて解釈した場合では、大きな解釈の違いを感じたが、同様に、倭寇についても「倭寇の被害を受けた国の側」(キム教授の発言)と倭寇として周辺諸国(ここでは特に韓国)を襲った側からみた場合では、倭寇に関する解釈が異なった。
例えば、高麗史に記載してある500隻の大集団で西海岸を襲い、約100km内部のナンオン(南原)まで侵入した倭寇が将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍との激戦を行った史実に関する解釈に関して、井村教授は、倭寇は当時高麗と戦っているモンゴル人等と倭人の多国籍軍であったのではと解釈したのに対して、キム教授は、騎馬軍団は九州の豪族であったのではないかと解釈している。
帝国主義の時代、1910年から始まった韓国併合(日韓併合)によって、朝鮮半島は事実上日本の植民地となった。1945年の第二世界大戦の終了まで、朝鮮半島での教育は日本語で行われた。植民地時代を知るキム教授にとって、倭寇の歴史も韓国併合時代と重なるのではないだろうか。
また、近年、前の戦争での戦争犯罪者を戦争犠牲者と共に合祀(ごうし)されている靖国神社で、日本には過去の戦争責任はないという集まりがなされた。また小泉総理大臣が率いる政府閣僚たちの8月15日の参拝に対して、韓国や中国は敏感に対応し、各地で反日デモが起こった。
この反日デモは経済的繋がりがますます深まる中国や韓国と日本との関係にまったく逆行するものであった。そこで、相互の歴史の共同研究に関する企画が提案された。
このNHKの「日本と朝鮮半島」はその企画を生かした番組であったといえる。当然、日本から解釈した東アジアの歴史と韓国からのその解釈は異なる。その違いを明確にしながら、史実を再度掘り返し、解釈し直す作業が行われることになる。そして、今回のように、倭寇に関する解釈の違いが生じることになる。その違いを相互に理解しながら、東アジアの中の日本、朝鮮半島の歴史研究が進むことが、相互理解の第一歩となる。
font size="4" color=#00008b">倭寇を生んだ社会情勢、国際社会の不安定さと境界人たち
元寇は13世紀の東アジアの最大の国際事件であった。海を越え大陸から日本を襲った二回の元寇が物語ることは、モンゴル帝国の発達した兵器、造船技術や航海術であった。それ以来、東アジアの沿岸には、これらの造船技術や航海術が定着したと思われる。そして、東アジアの海を舞台にして交易する人々が生まれたことは、一回目3万と二回目14万とも言われる大海軍を動かした元寇の歴史と切り離して考えるのは不可能である。
朝鮮半島と日本を考えるうえで、五島列島、壱岐、対馬、済州島や韓国沿岸の多くの島々で暮らす人々が、漁業以外に交易や水軍として活躍したことは推測できる。境界人の出現は、彼らがその海の孤島に住んで居たということではない。彼らがその島を根拠地として東アジアの海を舞台にして活躍していたと言う事である。その条件として、彼ら境界人と呼ばれる人々は、航海の技術と船舶を持っていた。航海能力を持ったが故に、境界人となったとも言える。
村井教授は、当時の国と国の間にあった境界領域やそこで暮らす境界人を現在の国家感覚から推測してはならないと述べている。国民国家、つまり国語と憲法をもって成立している近代国家と、封建領主時代の国は、基本的にそのあり方が異なる。対馬の民が日常的にプサン(釜山)に出かけ、交易をしていたとしても、彼らが現在の日本国民と同じような国家意識を持っていたとは思われない。
境界人たちの生活基盤は交易であった。もし、国が乱れ、交易活動が不可能になったなら、もともと食料や生活物資の生産力の少ない島では、飢饉や貧困が急速に進むだろう。そのことは境界人たちが倭寇に変身する契機となる。倭寇の襲撃を頻繁に朝鮮半島が受けた時期、特に1350年から倭寇は急激に増えたが、その年は日本では南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。
キム教授は、この1350年の東アジアでの出来事は現在の国際社会でも共通することで、一般に隣国の政治が乱れる場合、同時にその影響を隣国も受けると述べた。実際、中東、南アジアの例を引くまでもない。このことから、取り分け隣国の政治的不安をよその世界の出来事のように観ることは今の国際社会の関係から不可能である。北朝鮮と韓国の緊張は、そのまま日本や中国の安全の問題となる。そのために、隣国の国際紛争の解決に協力することは、自国の安全にとって大切な課題であると言える。
また、現在のような近代国家の傘の下で守られていない当時の境界人にとって、彼らの生活領域を守り、また彼らの生存を守るためには、境界人間の関係から成立する連合が出来上がっても不思議ではないと村井教授は推測する。倭寇は勢力を伸ばし、巨大の海賊集団となり、朝鮮半島内陸部に騎馬軍団で侵入したのは、当時、済州島で高句麗政府に抵抗していたモンゴル人との連合が可能であったからではないかと村井教授は述べた。
その上で、現代の日本を取り巻く近隣の国々との国境紛争問題、例えば、尖閣列島、竹島問題や北方領土を前提にしながら、国際紛争の解決手段として、以前あった境界領域とそこに住む境界人を現代の社会にも積極的に認める必要があるのではと提案している。国境問題で紛争が起こっている地域に積極的に二つの政府が共同で管理する境界領域を作ることで、現代の国際問題の解決の糸口を見つけられるのではと述べている。この考え方には、大きな可能性があると思われる。つまり、核をはじめとして大量破壊兵器や巨大な破壊力を持つ軍事力によって起こされる戦争を予測して、両方の国が領有権問題を争って失う利益とその領有権を共に管理する(半分の利益しか得られない)ことによって得る利益との比較をする必要がある。
倭寇の歴史を、キム教授も村井教授も、現代の日本と朝鮮半島の国際政治の課題として展開していた。歴史を学ぶということは、史実解釈を現代社会の課題解決の道具として活用することをその究極の課題にする事であるとも言える。
緊迫する東アジアの政治課題、東アジア連合案の展開と国際地域紛争の解決方法
2010年になって、韓国と北朝鮮の間で頻繁に軍事的衝突が発生している。2010年3月26日、黄海上で北朝鮮の魚雷によって韓国軍の哨戒艦「天安」が撃沈され、2010年11月23日に北朝鮮軍による韓国の延坪島(ヨンピョンド)に170発の砲撃がなされ、住宅地域に着弾し民間人2名を含む4名の犠牲者が出た。
中国や韓国の経済的発展と東アジア経済圏の世界的な位置の向上、それによって中国、韓国と日本は共に利益を得ている。良好で緊密な経済的関係が、韓国と北朝鮮の軍事的衝突や日本と中国の領海権問題によって危機に晒されようとしている。この時、私たちは元寇や倭寇の歴史を思い出し、それらの教訓を現在の課題に活かすことが必要になっている。
キム教授の提案、隣国の政治安定のための協力に関しては、日本は日米同盟の立場から韓米同盟への間接的支援を行うことを今回韓米軍事演習で確認し、また韓国も日米軍事演習にオブザーバー参加して相互に日米韓の軍事同盟の連携を図った。しかし、その反面、中国沿岸に接する黄海での軍事訓練や尖閣列島での有事を想定した軍事訓練に対して、中国は不快感を示した。今後の課題は、中国、韓国と日本が共に共同して、東アジアの政治的安定を作り出す努力がさらに検討されなければならないことである。
先ず、中国を必要以上に仮想敵国にしてはならない。つまり、日韓米は中国の政治的立場を理解することが必要である。北朝鮮は中国と外交的に深い関係があり、北朝鮮は中国の援助なくしては今後の国家の運営自体が危機的状況に陥るという状況は否定できない。そのため、中国が北朝鮮との関係を維持することは大切なことであり、北朝鮮で急激な政治的危機が生じることによる東アジアでの政治経済的リスクを計算して、中国の北朝鮮外交を支持しなければならないだろう。その上で、中国と共に北朝鮮の暴走を食い止める政治的交渉が必要となっている。
そこで問題となるのが、日中間の尖閣列島に関する領有権問題である。領有権問題の解決は非常に長い時間が必要となる。その領土上の明らかな解決策は、例えば1982年に勃発したフォークランド島の領土を巡るイギリスとアルゼンチンの戦争のような、局地戦争である。あるインターネットのニュース情報によると、世論調査によると現在の中国人の36パーセントの人が、尖閣列島問題は武力によって解決すべきだと答え、また話し合いによって解決すべきと答えたのが52パーセントであったと言う。これは、尖閣列島問題の展開次第では、予想もできないような日中間の武力紛争に発展する可能性を秘めていると言える。
村井教授の提案は、現実可能かどうか問題だといわれるかもしれないが、領土問題で紛争している二国間に紛争地域を新しく境界領域として位置づけ、双方の国が管理し、国際交易自由地域や関税の自由化を行い、さらに東アジアの経済発展に活用することは出来ないだろうか。例えば、ヨーロッパ連合の形成の段階で紛争地帯であったバスク、コルシカ、北アイルランド、アルザス等々の境界領域をヨーロッパという一つの国の地域として、二つの大きな紛争相手国に対して位置づけることで、問題解決の糸口を見つけたように、東アジア連合という大きな国際地域連合を目指すなら、村井教授の提案は、決して現実不可能なものではないと思われる。
コメント
2010年12月に文章を変更する。
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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
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5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
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