現代社会で問われる科学技術哲学の課題
三石博行
なぜ哲学とは何かを哲学は問うのか
私は何回も哲学とは何かを問いかけ続けている。自分のことを哲学者と呼ぶにはあまりにも自信がない。だから、今まで自分を哲学者と呼んだことはない。しかし、哲学者になりたいと思う。それが私の希望である。そのためにはもっと努力が必要だと思うが、その前に、哲学とは何かを明確に定義付けることが出来るのかを自問自答してきた。
現代社会や文明の観念構造を問いかける道具としての哲学:反省の学問
残された現代哲学の課題は、「自己を振り返る行為・反省に関する省察」である。何故なら、自然哲学は自然科学へ、政治哲学は社会科学・政治や政策学へ、科学哲学や認識論は認知科学や科学技術社会科学へ、論理学は数理論理学や情報科学へ、中世社会まで体系的知を目指す学問として哲学は、近代社会、現代社会の歴史的発展の中で、発展的に消滅したからである。
その意味で、中世的な哲学専門家も消滅した。それに代わりより詳細に分業化された科学分野の専門家が登場した。彼らは実際社会の役に立っているし、もし役立たないなら社会から消滅するのみである。社会経済成長は市民社会の発展とは、中世的な哲学者・宗教神話的世観が消滅による現代社会の技術的生産性を持つ現代社会の科学者・実証主義的世界観の形成によってもたらされた。
宗教的世界観に根拠を持つ哲学には神の存在に対する盲目的信仰があった。近代合理主義思想も科学研究も神の真理を求める信仰があった。その近代合理主義思想から生まれた科学法則・ニュートン力学によって科学的実証主義が形成され、その実践力への信仰が科学主義を生んだ。現代社会の世界観は科学主義の上に成立している。
科学的実証主義は社会科学を変えた。社会科学も社会変革に実践的で有効な知識と技術でなければならない。これが啓蒙主義によって生まれた新しい人間社会科学の考え方である。啓蒙主義を支える自由や平等、民主主義思想は、経済社会制度を変革した。資本主義経済や民主主義社会制度はそうして生まれた。これらの経済社会制度への変換を総じて近代化と呼んでいる。
近代化とは総じて中世的世界観を持つ社会から科学的世界観を持つ社会への変換を意味する。近代化は世界にある様々な中世的世界観(宗教的世界観)をことごとく科学主義思想に塗り替えてきた。そしてほとんどの国がその恩恵を受け、工業生産活動を可能にし、さらにはIT情報化社会を展開し、国際経済へ参加している。科学主義は確かに豊かな社会を導いた。
しかし今、それぞれの国での近代化の過程、受け入れた西洋文明・科学主義思想、科学技術文明社会構造が問われている。その問いかけは伝統文化の破壊、生態環境汚染、都市化による伝統的共同体社会や文化の崩壊、新しい産業構造の中で生じる経済格差等々によって生じてきた。これらの問題も科学技術の進歩によって解決できると言われ、実際にその技術的解決が試みられている。
これらの問題を科学技術が解決することが出来るのはと言う疑問も投げ掛けられている。つまり、科学技術知識による問題解決の立場は、科学技術の知識を所有する人々の利益を前提にしている。つまり、その知識は「科学技術を所有する人々のためであり、その科学技術の更なる発展のため」に自己増殖し続けるのである。
そこで、この科学技術の知の在り方に対する基本的な点検が必要となる。それはもちろん科学技術的知識の中で可能にならない。それは科学技術の発展やその発展の上に成立している科学技術文明社会に影響を受ける人々の立場から可能になる。それをこれまで「反科学」、「反科学思想」、「反近代化」、「反進歩主義」、「反資本主義制度」、「反グローバリゼーション」等々と呼んできた。
これらの科学技術文明社会やそれを担う科学主義思想への反抗による中世的な社会制度への後退が仮に主張されたとしても、それらの主張や主義は現実的な解決を導くことはない。しかし、同時に、それらの主張は人類の存続に関わる地球規模の環境汚染を前にして非常に説得力をもつことは疑いもない。
現代社会文明の基本的理念の骨格である科学主義とそれを実現している科学技術、そして科学技術を最も合理的知識や技術として成立している社会・科学技術文明社会、その上に成立している私たちの生活文化や生活様式を問いかける作業は、言ってみれば、自分を形成しているものを自分が問いかける作業に似ている。そんな困難なことが出来るのか。一般に出来ないと言うべき作業であると言うのが正常な精神状態からの回答である。
社会と個人の失敗の経験の上で成立する学問:哲学
哲学は自らが信じて疑わない観念(ドグマ)を見つけるために用意された学問である。伝統的に哲学の方法論は「自らを疑う作業」から始まる。その代表者がソクラテスであり、ベーコン、デカルト、パスカル等々、現在の哲学の基本を創った人々の考え方である。その考え方は疑うことであった。しかし、自分で自分を疑うことはできない。自分が疑いの対象者とならない限り疑えないのである。だから、哲学を深化するためには、生活行為、社会行為、また科学的行為と呼ばれる他者と共に社会観念を再生産する行為主体になる必要がある。
大いに行動し、実験し、失敗する人生こそが哲学を行う最低条件である。大学の哲学部で哲学は出来ないし、哲学書を読んでも、それが自分の経験と共鳴しない限り、哲学にはならない。
哲学は何とも分かりにくい学問である。しかし、失敗をしたことのある人には必要な学問であるし、是非とも多くの失敗を重ねてきた人は、哲学をやる意味があると思う。これは私の経験からの助言でもある。
今、科学技術文明社会を引き起こす問題、つまり、その成功や評価に対して、否定的な側面が語られ、その文明や社会を否定するスローガンが「反科学」、「反科学思想」、「反近代化」、「反進歩主義」、「反資本主義制度」、「反グローバリゼーション」等々と呼ばれている時代にこそ、哲学は科学技術文明社会を支えた科学主義思想を根本から問いかける学問としての役割を果たすと思う。しかも、その役割を果たすべき人々は、科学技術文明にどっぷりとつかって失敗してきた人である。それらの人々が失敗を自覚したときに現代哲学が深化する機会を得るのだと思う。
2019年9月14日 ファイスブック記載
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2019年9月14日土曜日
2015年12月9日水曜日
許しとは何か。人はなぜ人を許すのか
三石博行
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人はどのようにして他者を「許す」のか、この答えは宗教に求めるほかないのだろうか。と言うのも、この「許す」という行為は、救いと共通するように思えるからだ。
許すとは何か。つまり、人は許すために許し得るのではなく、許されることを追い求めるために、許すのかもしれない。その意味で、許しとは、共に許されることを求めた者の救いに似ているとも言える。
広島の人々は、どのようにして原爆を落としたアメリカ兵を許したか。ドイツのユダヤ人は、どのようにしてアウシュビッツで家族を殺したドイツ兵を許したか。アジアの人々は、どのようにして国を侵略し、町は村を破壊した日本兵を許したか。
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確かに、許せないことがあるだろう。その許しないことを抱き、憎悪に燃え、そして復讐を誓う。もし、その復讐が達成された後に、何を感じるだろうか。そして、そこで、許せない想いは終焉し、それらの希望は完全に達成し得るだろうか。このように問い掛けるのは、殆ど、許せない現実に出会わなかった人々かもしれない。
許せない思いを抱く人々に対して、人を許すことを説教することは、無意味である。だから、それらの人々に、許せない思いを実現させる機会を与えることを社会は認めている。例えば、敵討ちのように、昔は、その機会を私的に認めていた。しかし、今日、この私的な復讐は犯罪とされる。法律によって、復讐は合法的に可能になり、許せない相手を刑事訴訟し、刑罰という社会的な報いを受けさせることが出来る。
だから、許すという事は、許せない現実を否定して成立しているのではない。許すという事は、許せない行為の対局にあるのでない。それは、逆に、許される対象として、許す主体が存在しているから、許すという行為が可能になると言えないだろうか。つまり、人は許されない自己を抱えた時に、許すことが要約できる立場に立つことが出来るのではないだろうか。
それはあたかも死にゆく人々の生命に対する憐れみにも似ている。つまり、許しとは、許される側に立つ、弱い人間としての自覚によって可能になっているのではないだろうか。
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もし、強い自分があるなら、そして、もし自尊心を傷つけられたなら、その相手を打倒する為に闘うだろう。その意味で、許さないことによって、自己実現を可能にすることが出来る。しかし、許すとは、その逆で、自分の自尊心を傷つけた人が、同じように他人から自尊心を傷つけられた時に、「それは苦しかっただろうと」彼に寄り添うことを意味する。それは、欺瞞者のすることだと言われるだろう。それは、嘘だと言われるだろう。
確かにそうなのだ。その許す行為に秘められた偽善性を、否定するつもりはない。
だから、許すことは自分が傷つけた相手を懲らしめられる強いと思う人間には出来ない技なのだ。自分が、懲らしめられる相手と同じ罪(過ち)を犯した弱い人間だと思った時に、その痛みを受け入れるという行為の結果として、許すということが出来るのかも知れない。その意味で、許すということは、受け入れるという意味に類似しているのだと思う。言い換えると、弱い自分を受け入れるという意味に繋がる。
これは美し表現で許しを語った場合の話だ。悪く言えば、許しとは「慣れ合い」だとも言える。つまり、悪いことをしていると自覚している人間であるから、許すことが出来る。もっとひどい言い方をすれば「泥棒が泥棒を許すのは、当たり前でしょう」という論理になる。
つまり、「私は泥棒ですから、貴方が泥棒であることを許すのは当たり前でしょう。もし、泥棒の私が、泥棒の貴方を許さないとすれば、それは自己否定になりますよね。」という論理が成立する。これが、自己欺瞞のない「弱い自分を受け入れる」タイブの許しとなる。
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しかし、これも極端な見解だ。広島の人々は原爆を落としたアメリカ兵を、そういう気持ちで許したのではない。アジアの人々も国を侵略し、町は村を破壊した日本兵を、そんな気持ちで許したのではない。
許しには、自分を深く傷つけ、自分の家族を死に追いやった人々に対して、自らが彼らと同類であると自覚させる強烈な自己否定がなければならない。つまり、それが原罪とか無常ということばで語られた考え方なのである。そうでもしないと、この許しに必要な自己理解が成立し得ないのである。
もし、そのことをキリストが説明しなければ、その意味は、不明のままだったと思う。もし、その意味をブッタが語らなければ、その理由は、理解できなかったと思う。その意味で、許しが宗教的な意味合いをもつことは避けられない。
残念なことに、この許しの問題に答えられる哲学や人文社会学はない。それが問題かもしれない。
歴史問題を語るとは何か
三石博行
歴史を語る時、語る人々の時代感覚や社会理念が前提となっている。こう歴史に関して語ったのは「解釈学」という考え方であった。それまでは、歴史とは過去の事実として理解されていた。しかし、この歴史的事実という理解が、歴史解釈という認識に変わったのは、謂わば、観ている私の時代性や社会性を前提にしなければならない人文社会学研究上の観察者にとっては当然の帰結であると言える。
この考え方は、長年検証され批判されてきた世界観を背景にして成立している。世界は実在する客観的存在から、社会現象、社会的構造、社会的事象、さらには時代や社会的存在の解釈世界として理解されてきた経過の中で、歴史的事実もその認識論的な影響を受けた。つまり、認識される世界は認識する主体の側の認識、評価のプログラムの産物であるという解釈が成立する以上、歴史もその一部であると理解された。それが解釈学的な歴史理解の基本となっているのである。
しかし、歴史問題を語る主体の歴史的、文化的、社会的存在の自覚という哲学では当然の理解も、現実には殆ど応用されることはない。それが今の日韓関係の中で深刻になりつつある「歴史問題」の根底にある。従軍慰安婦問題という歴史を、政治的利害に結び付けることは危険である。つまり政治が歴史問題に立ち入ることは、最も避けなければならない。もし、立ち入るとすれば、歴史解釈ではなく、現実の被害者の救済問題である。その意味で、歴史的事実の解明ではなく、その政治的利用を行う日本政府や韓国政府も同じような大きな間違いを犯そうとしているようだ。
丁度、原発の安全性を、素人の政治家が議論するように、歴史問題をその厳密な調査方法も知らない素人の政治家が議論していることになる。彼らの関心は、専ら事実ではなく、その政治的利用に過ぎない。そうなれば、後戻りのできない失敗を行うことになる。それは、国際化する社会に逆行する閉鎖的で偏執独断的な民族主義を扇動することになる。この考え方によって暴力は正当化され、過去の国家間の紛争挑発という失敗を繰り返すことになる。つまり、無用な敵意を扇動し、両国民の間に自然に芽生える友好な感性を破壊し、それらの人々を暴力の応酬、そして最終的に悲惨な戦禍に放り入れようとしているのである。
国がある以上、それらの国の間ではそれぞれ歴史の解釈や観方が異なることは、解釈学の立場からして当然である。そうした人文社会学や哲学的に当然の歴史解釈の課題を、もう一度、人文社会学を研究している人々が、そのことの責任を自ら引き受けなければならない。それを、政治家に任してはならない。
勇気ある韓国の現代史研究家の発言に政治的弾圧を加えた政権にも、さらには「従軍慰安婦問題」を無視し続ける日本の政治家に歴史問題に関する発言をこれ以上許してはならない。そして、これ以上、この歴史問題を含め、東アジアに関する歴史や文化の課題に人文社会学の研究者は無関心であってはならないだろう。
2015年7月3日金曜日
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
どの分野でも言えることかもしれないが、理論的に考えること、物事の基本構造を理解するための方法や論理を見つけることは、大切なことだと思う。それが出来ていることによって、応用問題を解くことが出来る。生活の中で問われることは、多くの場合、応用問題のようなものである。
つまり、柔軟な発想や状況に適した処置は、その場その場の対応ではなく、多分、物事の本質を理解し、その解決を状況に照らしながら行うことが出来ることを意味している。もし、思想や哲学を課題にする人々が日常の中で生じる事象に対して適切な対応が出来ないといことを、それらの思想問題や哲学的課題と理解していないなら、多分、それらの思索や研究は殆どが意味を成さないものではないだろうか。
私は、思想や哲学を日常生活の改善のための道具として位置付けて来た。その考え方は、日本の大学での哲学研究では主流ではないと思える。現在では少なくともそのことは変化しつつあると思われるが、西洋の哲学という学問を輸入し、近代日本の思想を構築してきた日本では、哲学研究の大半が「哲学史の研究」であった。哲学者とは「哲学史研究者」であり「過去のそして他所の哲学者の研究の紹介者・翻訳者であり解釈者」であった。
しかし、最近、少し変わってきた。哲学者と呼ばれる人々が、自らも哲学者と自称しながら、テレビ番組の社会評論や文化評論に他の分野の人々と共に、社会や政治、時にはスポーツについてまで評論・コメントしている。それを観ている大学哲学人は、嫌な感情を持っているかも知れないが、世間が、哲学者と自称している人々に歴史哲学の話でなく、今の世の中のことを話してくれと言っていることには違いはない。
その意味で、日本の哲学は、大学から変わるのでなく、世の中の人々の哲学に対する要求によって変わるのだろうと思った。哲学は常に反哲学的(哲学的であることを否定すること)であることによって、その哲学の存在意義を深める。思想は生活や社会実践に活かされ、かつ点検されることによって、その意味を理解される。日本の哲学が形成されるとすれば、それは大学からではない。多分、人々の生活運動と呼ばれる新しい時代に向かう生活文化活動とそれに向き合う自己探求の中から生まれるのだと思う。
2015年7月3日facebook記載
2015年4月14日火曜日
民主主義社会文化の発展のために
2015年1月31日 第一回関西政治社会学会研究会 同志社大学今出川キャンパス
-設計科学論から展開できる民主主義社会での政策の課題に関する考察-
三石博行 (Mitsuishi Hiroyuki)
1、吉田民人の情報と情報処理の一般概念化
1-1、情報の概念
吉田民人は『自己組織性の情報科学』の中で情報の概念を大きく四つに分類した。
1、「最広義の概念、物質・エネルギーの時間的、空間的、定量的、定性的パターン 物理・化学的自然現象を形成している情報現象」(2)
2、「広義の概念、生命の登場以後の自然に特徴的な「システムの自己組織能力」と不可分の情報現象、「意味をもつシグナル記号の集合」と定義される」(2) 情報現象である。
3、「狭義の概念、人間個体と人間社会に独自のもとお了解された情報現象であり、「意味をもつシンボル記号の集合」で多くの自然言語でいうところの「意味現象」一般に当たる」(2)情報現象である。
4、「最狭義の概念、自然言語に見られる情報概念」(2)を意味する。
吉田民人はこの情報概念の設定によって、我々を取り巻く世界が物質的存在形態と情報的存在形態によって構成されていることを述べ、情報学を自然科学を土台にした物質科学と同じ、もしくはそれと相補する科学として位置付けた。この情報概念を吉田は、アリストテレスの「質料」に対する「形相」の現代的解釈概念であると位置づけている。
1-2、情報処理の概念
生命の発生以後、個体保存と種の保存を原則とする生命活動がもつ「システムの自己組織能力」は、広義の情報概念から付加される情報処理と呼ばれる情報現象にある。システム内の情報処理によって生命は個体生体内の機能を維持すると同時に、その個体が新たに同じ個体を再生産することが可能になる。また、個体が変化する環境に順応するために個体の進化(変化)を生み出す能力も獲得することになる。吉田民人の情報概念を前提とした「情報処理」の定義は、一挙に、情報工学的な概念を一般化し生命活動全体の個体保存、種の保存と進化の概念をその情報処理の概念の下位概念にしてしまった。
吉田民人は「広義の情報変換」と称する情報処理を「情報の時間変換,空間変換,担体変換,記号変換,意味変換という五つのタイプ」(2)に分けた。また、「狭義の情報変換」(情報処理)は「担体変換・記号変換・意味変換の三つ」(2)からなり、広義の情報変換(情報処理)は、それに情報の「時間変換・空間変換」(2)を加えたものとした。
1、「時間変換、情報の時間的移動すなわち情報の貯蔵を意味する。個体内貯蔵と個体外貯蔵で、記録・保存・再生の三段階から成り立っている。」(2)
2、情報の空間変換とは、「情報の空間変換である.情報の空間的移動すなわち情報の伝達であり,情報貯蔵と同様,個体内伝達と個体外伝達に二分され,それぞれ発信・送信・受信の三段階から成り立っている。」そして「発信・送信・受信」という空間変換=伝達処理の三段階と「記憶・保存・再生」という時間変換=貯蔵処理の三段階とが,理論的にはパラレルな関係にあることを指摘しておきたい.発信に対して記録,送信に対して保存,受信に対して再生がそれぞれ対応し,情報は,①発信と記録に際してインコード,すなわち送信と保存に適した記号形態に変換され,②送信と保存の過程でノイズの影響を受け,(訪受信と再生に際してディコード,すなわち利用に適した記号形態に再変換される」(2)
3、情報の担体変換とは、「情報現象には,かならずそれを担う物質・エネルギー的側面,すなわち情報担荷体ないし情報担体が不可欠であるが,担体変換とは,それ以外の変換のない,あるいはそれ以外の変換を捨象した,情報担荷体のみの変換と定義される。」(2)「情報の転写,情報のコピー」(2)がその具体的な例である。
4、情報の記号変換とは、「情報の意味面の変換を伴わない,あるいはそれを捨象した,記号面だけの変換のことである.わかりやすい例でいえば,片仮名を平仮名に変える,モールス信号を普通の日本語に直す,あるいは外国語の翻訳などである.目で見たものを言葉で表現するのも,それに伴う意味の変化を捨象するなら,視覚情報から言語情報への記号変換である.」(2)
5、情報の意味変換とは、「非常に多くの事象を総括した概念であるが,情報の担体変換や記号変換の有無に拘らず,少なくとも意味面の変化に着目したものである.連想,計算,分類,推理,一般化と特殊化,それに意思決定などは,代表的な意味変換の事例である。」(2)
1-3、最狭義の情報処理の例として、「意思決定」とは
吉田民人の情報処理の概念から解釈される意思決定とは、「一組の認知的(事実命題),評価的(価値命題)ならびに指令的(行動命題)な情報がイソプットされ,意味変換の結果,一定の指令的な情報がアウトプットされる」(2)ことを意味する。言い換えると、「一組の認知・評価・指令情報から一定の指令情報への変換」(2)が行われることである。「意思決定とは情報変換,より精確には意味変換の一種である」(2)と吉田は再解釈した。
1-4、「情報形態の進化史」や「記号進化論」
吉田民人の4つの情報概念(最広義、広義、狭義、最狭義)は、物理・化学的な物資によって構成されている無機的世界から、有機的世界、生物的世界、社会文化的世界、自然言語・精神構造的世界の情報現象を説明する概念であった。
また、それらの生命以後の世界の広義の情報変換の概念によって、生命独自の現象、つまり個体保存、種の保存と進化の概念が生まれることになる。言い換えると、
それらの「情報と情報処理」現象の解釈を通して、それぞれ4つの情報概念(最広義、広義、狭義、最狭義の情報概念)の形態が地球史的視点から観れば、それぞれ進化して来たものであると理解できるのである。
この情報形態の進化、特に広義の情報から最狭義の情報への進化形態を吉田民人は「情報形態の進化史」と呼び、それらの3つの情報に付随する記号、物理化学的なエネルギーを基にしたシグナル記号から形象や音声の言語認識を生み出すシンボル記号の記号形態の進化と理解し、それを「記号進化」と呼び、記号が進化してきたとする理論を「記号進化論」と命名した。
1-5、吉田民人の「自己組織性の情報科学」の科学史的意味
つまり、人間行為や社会現象の情報現象を吉田民人は彼の情報科学の領域内で位置づけれれる社会文化情報学や人間行動学や心理学の情報現象学の特殊ケースとして解釈したのである。それらのすべての情報現象を論理的、体系的、理論的に整理し、「自己組織性の情報科学」のカテゴリー体系として再構築したのである.
2、自己組織性とプログラム概念
2-1、自己組織性
自己組織とは生命を定義する基本的な「生命現象」、つまり個体保存、種の保存と進化の概念を一般化したものである。
「生命以降の進化段階にあるシステムの基本的特性は,システムを構成する情報的要因が,いわば設計図となって,システムを構成する物質・エネルギー的要因のあり方を規定する,というところにある.そして,この情報的要因は変異と選択のメカニズムを通じて多様に変化し,その結果,物質・エネルギー的要因のあり方もまた変異と選択をへて多彩な変化を遂げる.このようにシステムの秩序が,当該システムが保有する秩序プログラムによって規定され,システムの秩序の保持・変容も,当該の秩序プログラムの保持・変容に媒介されて実現する,といった特性は,生命の発生以降の進化段階にある存在に共通して認められるものであるが,これをシステムの自己組織性と呼ぶのである.」(2)
「このように自らの秩序をプログラムを媒介にして自ら制御・保持・変容させる能力を有するシステムを自己組織システムと名づけるなら,非自己組織システムの根源的要因が「一定の物質・エネルギーとそれが担うパタン(最広義の情報),あるいは一定のバクソ(最広義の情報)とそれを担う物質・エネルギー」であるのに対して,自己組織システムのそれは,「一定の情報・情報処理とそれによって制御される資源・資源処理,あるいは一定の資源・資源処理とそれを制御する情報・情報処理」であると記述することができる.」(2)
「換言すれば,「物質・エネルギーと情報」というウィーナー的な二元論的自然観は,自己組織システムの場合,資源論的視点と情報論的視点とを統合するシステム観へとわれわれを導くことになる.ただ,この報告では,資源論的視点については割愛せざるをえない」(2)
吉田民人は「自己組織性という概念には,物理科学の系譜,生物科学の系譜,社会科学の系譜という三つのタイプのものが併存している」として、自己組織性を三つのタイプに区分した.三石 は、自己組織性の人間学の系譜を提案した。
物理科学の系譜
生物科学の系譜
社会科学の系譜
人間科学の系譜
2-2、プログラム
「プログラム」とは「情報処理または資源処理の逐次的ステップを確定的・不確定的,一義的・多義的に規定する情報」のことである.普通,逐次的な処理ステップを確定的・一義的に規定するものだけをプログラムと呼ぶことが多いが,ここでは不確定的なもの,多義的なものを包括している.この種の曖昧性ないし柔軟性なしには,とりわけ人間レヴェルに固有の,シンボル情報による自己組織性は捉えられないからである.また,プログラムによる制御の対象になるのは,資源処理に限られない.情報処理もまたプログラムによって制御される.(2)
2-3、自己組織化過程の四フェーズ循環モデル
自己組織化の過程は,相互循環的な四つのタイプの基礎過程から成立する,というのが1978年以来の私の基本枠組の一つである.四つの基礎過程を,それぞれ,自己組織化の「フェーズ」と名づけることにしたい.(2)
第1フェーズは,システムのプログラムが記録・保存され,再生されたプログラムによってシステムの制御が行われ,その結果がシステムの選好基準を充足し,当該の再生プログラムが再び採択されて,記録・保存過程に入る,という自己組織システムの構造保持のフェーズである
「プログラムの貯蔵-再生プログラムによる制御一一選好基準の充足-再生プログラムの採択-プログラムの貯蔵」と定式化することができる。(2)
第2フェーズは,システムのプログラムが記録・保存され,再生されたプログラムによってシステムが制御されるが,その結果がシステムの選好基準を充足せず,当該の再生プログラムが淘汰されてプログラムの変異過程に入るか,さもなければシステムの解体にいたる,という自己組織システムの構造崩壊のフェーズである.(2) 「プログラムの貯蔵-再生プログラムによる制御-選好基準の不充足-再生プログラムの淘汰-プログラムの変異またはシステムの解体」と定式化することができる.(2)
第3フェーズは,システムの変異プログラムが生成し,変異したプログラムによってシステムの制御が行われるが,その結果がシステムの選好基準を充足せず,当該の変異プログラムは淘汰されて再びプログラムの変異過程に入るか,さもなければシステムの解体にいたる,という自己組織システムの構造模索のフェーズである.(2) 「プログラムの変異一一変異プログラムによる制御一一選好基準の不充足一十変異プログラムの淘汰-プログラムの変異またはシステムの解体」と定式化することができる.(2)
第4フェーズは,システムの変異プログラムが生成し,変異したプログラムによってシステムが制御され,その結果がシステムの選好基準を充足し,当該の変異プログラムが採択されて,記録・保存過程に入る,という自己組織システムの構造変容のフェーズである.「プログラムの変異一十変異プログラムによる制御一一一選好基準の充足一一変異プログラムの採択-プログラムの貯蔵」と定式化することができる。(2)
以上の四フェーズは,見られるとおり,相互に循環しながら構造保持と構造変容を包括する自己組織化の総過程を成り立たせている.すなわち,第1フェーズはそのまま反復されるか,第2フェーズに移行する.第2フェーズは第3フェーズまたは第4フェーズに移行する.第3フェーズはそのまま反復されるか,第4フェーズに移行する.そして第4フェーズは,第1フェーズまたは第2フェ一声に移行する。(2)
2-4、自己組織性の進化
情報形態の進化段階という観点からは,「DNA情報(遺伝情報)による自己組織性」と「言語情報(文化情報)による自己組織性」とを代表的な進化類型と認めることができる。(2)
プログラムの選択様式の進化段階という視角からは,「自然選択ないし外生選択による自己組織性」と「主体選択ないし内生選択による自己組織性」とを区分することができる。(2)
内生選択=主体選択なのである.この意味での内生選択=主体選択は、自己組織システムが学習能力をもつようになるのと同時に登場した,(2)
なお,内生選択=主体選択は,動物のオペラソト学習に見られる「事後的」なものと,人間の意思決定に見られる「事前的」なものとに二分される.事後内生選択=事後主体選択と事前内生選択=事前主体選択の別である.(2)
情報形態の進化段階とプログラム選択様式の進化段階という二組の基準を組み合わせることによって,自己組織性の四つのタイプを理論的に区別することができる.DNA情報一自然選択型,DNA情報一主体選択型,言語情報一自然選択型,そして言語情報一主体選択型の四つである.(2)
このうち「DNA情報一自然選択」型の自己組織性と「言語情報一主体選択」型,とりわけ「言語情報一事前主体選択」型のそれは.自己組織性の二つの基本類型をなしている.前者は,生物進化論や分子生物学が対象にしてきた自己組織性であり,後者は,人間科学・社会科学が扱う人間レヴェルの自己組織性にほかならない.(2)
2-5、「相対1次の自己組織性」と「相対2次の自己組織性」
「相対1次の自己組織性」とは再生プログラムにせよ変異プログラムにせよ,一定のプログラムによるシステムの情報・資源処理の制御を「相対1次の自己組織性」と名づけた。(2)
「相対2次の自己組織性」とは当該のプログラム自体の保持・変容を「相対2次の自己組織性」と呼ぶことにした.(2)
2-6、「自然生成的な自己組織性」と「制度化された自己組織性」
シンボル情報,とりわけ言語情報に依拠する人間レヴェルの自己組織性の最大の特徴の一つは.自己組織性そのものが自覚され,その結果,それ自体がプログラム化されるということである.「管理」といわれる現象は,自然言語としても科学言語としても広義と狭義,肯定的と否定等々,多様な解釈を許すものであるが,それが「自然生成的な自己組織性」に対置すべき「制度化された自己組織性」であるという点では,大方の合意がえられるに違いない.たとえば,悪名高い「管理」とは,システムの自己組織性が相対1次のそれを偏重して,相対2次の自己組織性が抑圧されているような制度的状況にはかならない.(2)
2-7、「複合的自己組織性」
人間レヴェルの自己組織理論の最終的な課題は,複合的な自己組織性の解明と設計である.「個人と社会」をめぐる社会科学の伝統的な課題は,自己組織理論の立場からすると,異なる自己組織性の間の相互連関の代表的な事例だったということになる.
(2)
複合的自己組織性には,①同位レヴェルのシステムの自己組織性の相互連関,②下位システムと上位システムの自己組織性の相互連関,という二つのものがあるが,いうまでもなく「個人と社会」問題は,後者の特殊ケースにはかならない.(2)
3、プログラム科学と設計科学
3-1、プログラム科学とは何か
「プログラム」は、それを担う記号形態の進化段階に応じて、遺伝的プログラムないしDNA性プログラムに代表される「シグナル性プログラム」と文化的プログラムないし言語性プログラムに代表される「シンボル性プログラム」とに二大別される。(3)
シグナル性プログラムとは遺伝記号や感覚運動神経記号を代表例とするシグナル記号によって構成されるプログラムである。(3)
シンボル性プログラムとはアイコンや言語を代表例とするシンボル記号によって構成されるプログラムである。(3)
「法則」が変容せず「プログラム」が変容しうるという両者のphenotypicaiな相違は、プログラムが記号集合によって担われ、法則がそうではないという両者のgenotypicalな特性の相違に起因している。(3)
3-2、プログラム科学の課題
プログラム科学の課題は、後述する「実証科学」の視点からすれば、以下の四つにまとめることができる。
第1に、個々のプログラムの解明やプログラムの相互関連の解明などプログラム集合それ自体の解明、すなわちgenotypeの解明、
第2に、シグナル性プログラムの場合なら物理・化学法則に従う、またシンボル性プログラムの場合なら意味表象に媒介される、プログラム集合の作動過程の解明、
第3に、プログラム集合の物理・化学的あるいは表象媒介的な作動結果の解明、すなわちphenotypeの解明、そして
第4に、プログラム集合の生成・維持・変容・消滅というライフサイクルの解明、すなわち生物進化や学習や文化変動の解明、
以上四つのテーマがそれである。(3)
3-3、プログラム集合の作動過程とプログラム集合のライフサイクルの解明
「1次の自己組織性」(プログラム集合の作動過程)の解明と「2次の自己組織性」(プログラム集合のライフサイクル)の解明は、「プログラム科学」的自己組織化の動態に関する二大研究課題というべきであろう。(3)
3-4、設計科学とは何か
設計科学とは何かについては、1997年の段階では明確な言及はない。
「法則」に対置される「プログラム」概念の登場、より精確には「シンボル性プログラム」概念の登場は、自然科学分野における各種の「工学」および社会科学分野における「政策科学」や「規範科学」や「社会工学」、さらには人文学における生命倫理学や環境倫理学などの「新たな倫理の構築」、等々の従来相互に無縁と考えられがちであった知的営為を、「実証科学」に対置される「設計科学」として統合・再編する途をひらくことにもなる。規範性のない言語性プログラムの構築をめざす「非規範的設計科学」と強弱の規範性をもった言語性プログラムの構築をめざす「規範的設計科学」の二類型を分けるなら、たとえば生命倫理学や環境倫理学は、伝統的な了解に反して、規範的「設計科学」の一例と位置づけることができる。(3)
吉田民人は設計科学の構想を法則科学やプログラム科学の体系に準じて、「実証科学は1研究対象の進化の段階ないし層に応じて、「法則科学」(物理学や化学)と「シグナル性プログラム科学」(生物科学)と「シンボル性プログラム科学」(人文社会科学)に三分されるが、設計科学もまた法則の支配する層ないし領域を設計する「法則型の設計科学」(物理工学や化学工学)、シグナル性プログラムの支配する層ないし領域を設計する「シグナル性プログラム型の設計科学」(遺伝子工学や脳神経工学)、およびシンボル性プログラムの支配する層ないし領域を設計する「シンボル性プログラム型の設計科学」(政策科学や社会工学)に三分される」(3)
つまり、現在構想される設計科学は以下の三つである。
「法則型の設計科学」(物理工学や化学工学)
「シグナル性プログラム型の設計科学」(遺伝子工学や脳神経工学)
「シンボル性プログラム型の設計科学」(政策科学や社会工学)
設計科学は、設計(研究)対象の側の相違を示す法則型・シグナル性プログラム型・シンボル性プログラム型という区別にかかわりなく、設計(研究)主体の側では、すべて何らかのシンボル性プログラムの設計とその実現をめざしている。この「何らかのシンボル性プログラムの設計とその実現」という共通性が「設計科学」という新たな科学形態を根拠づけるわけである。(3)
4、設計科学としての政策学基礎論から展望される民主主義社会での政策過程と政策検証過程の検討
4-1、問題提起
2013年11月16日 第四回政治社会学会研究大会(千里金蘭大学)で「設計科学としての政策学基礎論・生活資源論」に関する研究発表をおこなった。この研究発表は、生活資源論を援用することで総合的視点に立った政策提案のための理論構築の可能性を議論することが本稿(本発表)の目的である。
まず生活資源論の成立過程を伝統的社会学の学説史を踏まえて述べる。その課題として、第一章で社会機能構造主義や社会システム論の先行研究の課題から吉田民人の自己組織性情報科学、プログラム科学論や自己組織性の設計科学の展開を踏まえ、生活資源論を提起した理論過程を説明する。
第二章では、生活資源論からの成立の可能性について述べる。プログラム科学として生活資源論を位置づけることによって、生活資源を構成している四つの要素のマトリックスモデルを提案する。そのモデルから生活資源の変化の構造を解明する。このモデルから生活環境の改良と生活主体の改善は同次元に生じることが理解できる。このモデルを前提にすると、これまでの技術史の一面性が理解され、技能と技術の両面から技術史を理解する研究が提案される。
第三章では、生活資源論から展開できる政策学の可能性について述べる。そして最後の章では、現在の社会で要求されている政策提案の課題に不可欠の総合的視点、俯瞰的視点やまたフィードバック構造などを持つ自己組織性の設計科学としての政策学の可能性に関して言及する。
吉田理論の点検課題
²
情報と資源概念から情報処理を行う情報形態をプログラムと考えることによって、人間社会学を自然科学の概念と共通する一般概念に組み込む可能性を示したのであるが、その事によって、一般理論化された社会現象の要因(プログラム)の解明方法が不明となった。
²
伝統的には、人間社会学は機能-構造主義的解釈、または、統計的分析などを通じて、これまで発展して来た。その学説史を継承するために、社会文化、人間科学でのプログラム概念を解明しなければならない。
²
私の提案は、社会・生活資源とその資源のパタンとしての社会人間情報の構造機能的解釈であった。以下、その説明を行う。
図表1、生活資源の機能構造形態
生活資源
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生活素材
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生活様式
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外的要素
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生活環境の構造形態(共時態)
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生活環境の機能形態(共時態)
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内的要素
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生活主体の身体性(生命活動態)
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生活主体の活動性(指令情報態)
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図表2、生活資源のプログラム構造
生活資源
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生活素材
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生活様式
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外的要素
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外的生活素材のプログラム
生活環境の物質形態
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外的生活様式のプログラム
生活環境の指令形態
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内的要素
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内的生活素材のプログラム
心身の構造形態
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内的生活様式のプログラム
生活主体の行為形態
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図表3、時代や文化環境を前提とした生活資源の構成
外的生活素材のプログラ Mx
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外的生活様式のプログラムFx
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内的生活素材のプログラム Mi
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内的生活様式のプログラムFi
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4-2、フィードバック構造をもつ政策提案
また、政策とは時代性や社会文化性を前提にした具体的な改革提案である。具体的ということは、法案や制度提案と呼ばれる政策は変革の目的を満たすための指示情報によって構築されたものである。指示する方向を持つ一つのベクトル的なプログラムであるとも言える。
言い換えると、政策はその時代的有効性を発揮するために、変革を目的としたプログラムの指向性とよばれる一方方向への社会・生活資源の質的変化を期待(目的と)している。その意味で、一般に効力のある政策はある時代と社会状況を変革しなければならない方向に進める力になる。しかし、同時にそのことは、政策の行き過ぎを生じることが前提にしている。
これまでの法律はすべてその法律が目指す社会機能の成立と維持によって、それが強烈な指示情報によって作られている限りに於いて、その政策実行が引き起こすマイナス面が生じることは避けられないのである。言わば、指示とは行為を一つの方向に向けようとしているもので、その反対の方向を同時に行為を指示することはできない。もしまったく異なる二つの方向に同時に行為を行うことを命じるなら、その指示性の有効さは失われることになる。
そこで、その法案の有効性を維持するために適格で厳密な法案が検討されると同時に、そのために生じるマイナス面を他の法案を別途用意することで補足しておく必要が生じる。そのためには、設計科学的立場の政策学が必要となり俯瞰的に政策運動を理解する視点を確立しておかなければならないのである。
4-3、多様なステークホルダーの参画する政策提案
日本をはじめ先進国での政策決定という行為に市民が参画していくことになる。それがさらに民主主義文化を発展させる。つまり、成熟した民主主義社会では政策決定過程が最も大切な社会機能を意味することになる。
何故なら、成熟した市民社会とは、これまで語られた階級社会と言う利害を常に同じくする人々の集まりでなく、多様な利害を持った人々の集まりを意味する。ある一面で利害を異にする人々が他の一面で共同の利害をもつ、それが市民社会の姿である。そのことはすでに、「生産する人であり、消費する人である」やまた「雇用される人であり、雇用する人でもある」として表現してきた。20世紀の工業国社会から21世紀の脱工業国社会への変化は、そのまま階級的社会から脱階級社会への変化として理解できるのである。
これからの社会では、多様な利害関係にある人々、多様な伝統や文化を背景にしている人々、多様な経済社会条件を持つ人々によって、「法の上の平等と自由」を確保しあう社会契約が要求される。それらの人々が共存するためには、社会への積極的な参画の機会を平等に確保しなければならない。市場原理で社会が動く以上、必然的に生じる経済的格差と呼ばれる不平等に対して、その社会的弊害を是正していく税制や社会福祉制度が必要となる。
つまり、多様な社会的立場や利害関係を持つ人々が社会全体の安定性を確保することの意味を共通認識しておくことが求められる。そのために、成熟した市民社会の構成員たちは社会を構成しているすべての多様な人々の利害を調整するための俯瞰的視点を社会意識として養うことが要求されるだろう。その意味で、設計科学的立場にたった社会思想と社会行為が求められるのである。
参考資料
(1) 吉田民人『自己組織性の情報科学』
(2) 吉田民人「情報・情報処理・自己組織性 -基礎カテゴリーのシステム-」組織科学 VoL.23 4 1990、pp7-15
(3) 吉田民人「「プログラム科学」と「設計科学」の提唱 -近代科学のネオ・パラダイム-」『社会と情報』=Society
and information/社会と情報編集員会[編集] (3) 1997年11月
pp129-144
(4) 三石博行「設計科学としての政策学基礎論・生活資源論」 2013年11月16日 第四回政治社会学会研究大会 千里金蘭大学
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