2021年6月28日月曜日

労働価値説の点検課題1

-労働価値説への批判とは何-

三石博行


はじめに

マルクス経済学の再考・再構築の作業は何故大切なのか。その意味は、資本主義の限界を垣間見る21世紀の社会にあって、すでにマルクス経済学は終焉し、科学的有効性がないと烙印を押されているからである。もし、その有効性を語るなら、過去のマルクス経済学批判のすべてに答えなければならないだろう。それどころか新たに語るマルクス経済学で、現在の社会経済文化のすべての課題に答えを準備しなければならないだろう。この二つの課題に対して、果敢に挑戦する科学的精神を持つ「マルクス経済学」でなければ、その学問的意味はない。こうした厳しい条件があるからこそ、逆に、今、マルクス経済学を語る意味がある。


1、原田博夫氏の「労働価値説への批判」

6月26日にブログに記載した「労働価値説の基本的課題:行為としての経済」に対して、友人の原田博夫専修大学名誉教授(慶応大学経済学博士)から丁寧なコメントを頂いた。原田先生の指摘は、「労働価値説ではどうしても事柄の半分(供給サイド)しか見えてこない、と思います。市場(の成立および理解)には需要サイドが不可欠だ、と思います。その場合の市場は、もちろん新古典派の(理念型としての)完全競争市場ばかりでなく、より現実の寡占市場や国家独占市場であっても、需給両面の探り合いの場だと思」という事であった。

私自身、経済学を体系的に学んだことのない者にとって、経済学者からの有難いものです。一つは、素人の私の言い分にまじめに答えて下さったことです。何故なら、多分、多くの経済学者は経済学を知らない人・私が書いた未熟な文章は毛頭相手にしないし、その問題点を指摘することはないと思うからです。二つ目は、私がもし「労働価値説の基本的課題」なるものを書くのであれば、最低限、労働価値説批判の論点や指摘内容は踏まえる必要があるからです。

原田博夫氏の指摘を簡単にまとめると、「労働価値説ではどうしても事柄の半分(供給サイド)しか見えてこない」、そして経済現象を理解するためには「市場(の成立および理解)には需要サイドが不可欠」であると言うことである。つまり、労働価値説からは「需要サイド」が十分に見えないという指摘である。

この批判を行った原田博夫氏は、これまで人間社会の幸福の在り方を課題にする研究を展開してきた(1)。特に、その代表的な研究として「ソーシャル・ウェルビーイング(2)」があり、それらの研究は極めて実践的なテーマ展開を行ってきた。例えば、アジアの国々の研究者との共同研究活動を専修大学の「Center for Social Well-being Studies」(3)を創設し、指導されてきた。原田博夫氏の一貫した「人間主義」の経済思想がそれらの国際共同研究活動を推進する力になっていると言っても過言ではない。

その意味で、原田博夫氏の「労働価値説」に対する指摘に真摯に対応しなければならない。しかし、私は原田氏の指摘「労働価値説からは「需要サイド」が十分に見えない」という経済学的意味を理解するだけの知識が残念ながらない。


2、大西広氏の『マルクス経済学』の課題

大西広著『マルクス経済学第3版』(4)、第1章マルクスの人間論の説明によると、労働価値説は、経済学の基本に人間論を持ち込み、経済活動とは「人が食べるために行う行為(労働)」にその起源があると述べている。つまり、労働価値説とは人間の生きるための行為(衣食住を確保するための行為)の普遍的な価値概念を表現するために用いられた概念であると言える。労働価値説を基本にし、その人間論の上に成立させようとした経済学がマルクス経済学である。

では、その経済学はどのように成立可能なのか。大西広氏は長年の経済学研究の中で、マルクス経済学の経済学論理を徹底的に検証するために「数式化」を用いたのではないだろうか。つまり、「人間論」という一種のヒューマニズム経済論にマルクス経済学を貶めることを徹底的に拒否し、その理論の正しさを論理実験する作業として数式化を試みたように思えた。大西氏にとて問題は、マルクス経済学を擁護することではなく、その経済学理論として有効にして正しいかどうかを検証する作業のように見える。彼はその作業を私へのメールの中で「私の教科書はその「はしがき」にありますように何度も改訂を重ねていまして、今もありうる第四版のために「正誤表」を毎日書き直しています」と述べている。彼は終わりなき修正を加え続け、今もその実験の最中にいる。それが大西広氏のマルクス経済学研究の姿である。

彼にとってマルクス経済学とは、現実の問題、国際資本主義経済、中国等の発展途上国の経済、今後の21世紀社会の経済の在り方等々が課題となり、それらの課題に対してマルクス経済学の有効性を試すために理論実験を繰り返しているように私には見える。


3、限界効用理論からの労働価値説批判の課題

労働価値説では「需要サイド」が十分に見えない」という原田氏の指摘を理解するために、労働価値説批判に関する論文や情報を調べてみた。

注目した批判として「限界効用理論から指摘される労働価値説に対する一般的批判」(5)に関する情報があった。限界効用理論とは「さまざまな財を消費ないし保有することから得られる効用」に関する理論である。例えば「ある財をもう1単位だけよけいに消費ないし保有することにより可能になる効用の増加を〈限界効用marginal utility〉と呼ぶ。」(6) つまり「一定の所得をさまざまな財の購入にどのように支出すればよいかを考えよう。たとえば,米への支出をもう1000円だけ増やした場合の効用の増加がコーヒーへの支出を1000円だけ減少させたときの効用の減少より大きければ,コーヒーへの支出を減らして米への支出を増加すべきである」(6)と判断する需要の側の論理を意味する。

この「限界効用理論の出現」によって、「労働価値説と需給の論理の関係はどう考えても釈然としない」と解釈された。しかしながら、「労働価値説」は生産過程から生じた理論であり、他方の「限界効用理論」は交換重視の理論である。限界効用理論」から価値(本当は価格)、「ここでは価値という言葉を使わず効用」は、生産量が増えるに従い綿布の効用は減少し」することになる。そして生産量が無限に増えるなら、「やがて効用の増加が零まで下がる。誰も買わなくなる。この時点で生産者は生産を止める。この時点、すなわち効用の増加が零に近似するぎりぎりの時点での効用を限界効用と言う。」(5)、つまり、商品交換では「相互の限界効用の差が零に近似する時点がが交換の停止点」となる。しかし、このような現実に対して、「労働価値説では労働さえ加えれば無限に価値は増えると言う結論になる。」(5)

しかし、この指摘は正しいだろうか。マルクスの言う価値(交換価値)とは、労働価値説から展開すれば「生きるために必要とされている生産物の価値」である。例えば、人口100人の社会で100台の自動車は必要とされる。その意味で価値(使用価値)がある。もし、50台の自動車なら使用価値だけでなく交換価値もある。しかし、101台になると1台の車はこの社会から必要とされない。100人の人が自分の車で満足しているなら、この1台の車の使用価値も交換価値もなくなるだろう。これが「相互の限界効用の差が零に近似する時点がが交換の停止点」と呼ばれる商品交換が無くなる瞬間である。しかし、同時に余分な車の使用価値も消えていると言えないか。確かに、車として使える以上、使用可能である。しかし、使用可能な状態であることが「使用価値」と同義語なのか。使用価値とはあくまでも経済学的価値を意味する。

「労働価値説では労働さえ加えれば無限に価値は増えると言う結論になる」と言う限界効用理論による労働価値説への批判は、使用価値に関する正しい理解が為されていないために生じる批判ではなかったか。そもそも、労働価値説から展開れる使用価値とは「生きるために必要とされている生産物の価値」である以上、生きるために必要とされない生産を行うことはないだろう。それは経済活動の外になる行為として理解されることになるだろう。その意味で、「効用や選択または価値でなく価格分析が重視される」(7)「限界効用理論」の登場が「労働価値説」への批判の論拠となることはない。労働価値説は「人間の有する労働の生産的・創造的働きを重視し、そこに有意義性と尊さを据えて、いわば価値を見て、経済を分析的に把握していく見解」(7)として理解すべきである。


4、その他の批判に対して

その他、多くの「労働価値説への批判」が存在する。ここではそれらの全てを紹介し、そしてそれらに対して、一つひとつ点検する時間も能力もない。しかし、マルクス経済学を語るなら、その作業が前提となるだろう。つまり、マルクス経済学の再考・再構築とは、その経済学とそれに基づく歴史的実験(ソビエト連邦での社会主義経済の破綻と中国での国家資本主義経済による社会主義国家建設の実験)に関して、明確な回答を準備しない限り、不可能である。過去のマルクス経済学をそのままオウムのように繰り返し言い立てることではない。その意味で、「マルクス経済学の再考・再構築」は経済学の中で最もチャレンジな課題でると言えるだろう。何故なら、その課題は過去のマルクス経済学批判のすべてに答えなければならない。また、それどころか現在の社会経済文化のすべての課題に答えを準備しなければならない。この二つの課題に対して、果敢に挑戦する科学的精神を持つことなく「マルクス経済学」を語ることは、学問的にも、経済学説論的にも、経済政策史的にも許されない。だからからこそ、マルクス経済学を今語る意味があると逆説的に主張できないだろうか。


参考資料

(1)原田博夫教授 履歴・業績 https://www.bing.com/search?q=原田博夫

「ソーシャル・ウェルビーイング研究の意義-GDP指標へのチャレンジ-」『ソーシャル・ウェルビーイング研究論集』専修大学社会知性開発研究センター/ソーシャル・ウェルビーイング研究センター、第5号、2019年3月、pp.89-109. http://doi.org/10.34360/00008126

(2) ソーシャル・ウェルビーイングとは「現代的ソーシャルサービスの達成目標として、個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念。1946年の世界保健機関(WHO)憲章草案において、「健康」を定義する記述の中で「良好な状態(well‐being)」として用いられた。最低限度の生活保障のサービスだけでなく、人間的に豊かな生活の実現を支援し、人権を保障するための多様なソーシャルサービスで達成される。一部の社会的弱者のみを対象とした救貧的で慈恵的な従来の福祉観に基づいた援助を超え、予防・促進・啓発といった、問題の発生や深刻化を防ぐソーシャルサービス構築に向けての転換が背景にある。」と「ウェルビーイング」の意味の中で説明されている。

(3) Center for Social Well-being Studies Senshu University: https://www.senshu-u.ac.jp/swb/

(4) 大西広著『マルクス経済学第3版』慶応義塾大学出版会、355p、2020.04.30

(5) 「労働価値論vs限界効用理論(1)」 https://blog.goo.ne.jp/keiojiro/e/a29ef583e0c04143ad25b71b63604835

(6)「限界効用理論」https://kotobank.jp/word/限界効用理論

(7)深澤竜人「限界効用価値説の展開と労働価値説との対比― マルクス経済学と「限界革命」Ⅳ 」『現代ビジネス研究』第 11 号(2018 年 2 月刊行)抜刷


2021年6月28日、フェイスブック記載




2021年6月26日土曜日

労働価値説の基本的課題:行為としての経済

- 生活資源の経済学の成立条件とは -

三石博行


1,狭義の労働(賃労働)と広義の労働(生活行為)

今日(6月8日)は水口保氏との「定例編集会議」。今日の課題の一つは、経済活動を行う行為を「労働」と定義し、その労働によって経済的価値が生まれると考えた古典派経済学(アダムスミスからリガード、そしてマルクスに至る)の基本概念である「労働価値説」に関する評価と批判的展開についての意見交換だった。基本的に労働価値説は正しい。人の労働によって、つまり経済活動を通じて、商品(価値を持つ生産物)が生み出される。

しかし、ボランティア、人への愛情、趣味、娯楽等々、人々が何らかの社会的活動(行為)を通じて、生み出すもの(物質的、非物質的な)は、商品としての市場で交換される(価格が付けられ売りに出される)訳ではない。勿論、ボランティアで提供されているサービスも商品化され、「愛情」行為も商品化され、「娯楽」もお金を払って行っている。その意味で、人の行為(サービス労働)は商品である。その場合、行為ではなく労働となる。商品化されない行為、つまりこの行為はそれによって対価を得ることを目的としていない。その意味でこの行為は市場経済の視点から言う労働ではない。

つまり、人々の日常生活では、すべての行為が賃労働化されている訳ではない。むしろ、賃労働化されている行為(労働)は、生活行為の中の一部である。経済的要素として労働(賃労働)が経済学の中で課題となる。その反面、賃労働化されていない労働(生活行為)はその対象とはならない。もちろん、それらの生活行為(家事、育児、介護等々)がサービス商品化されることで経済的要素・商品となり、経済学の対象となる。そうでない限り、同じ生活行為は、それが商品とその交換を課題とする経済学の対象外に置かれる限り、経済学の対象の外に置かれる。

勿論、マルクスは家事や育児を労働として位置づけていた。その流れを受けた生活構造論や生活システム論でも、家事労働は将来の労働力を形成するための労働として位置づけられていた。では、何故、経済学から生活行為(賃労働化されていない家事)が、経済活動の対象外に置かれることなったのだろうか。市場経済を経済学の研究対象とする経済学の考え方はどこから生まれたのか。経済とは人の生活であり、人々の社会的営みではなかったか。労働価値説の基本的な課題を問うことによって、市場経済中心主義の経済思想の在り方が問われ、生活中心主義に経済学を立て直す必要が問われている。


2、労働と生活行為

生活の中で行われる行為は、家事や育児のように労働としてすでに成立してある行為も含めて労賃を支払わない(支払えない)生活行為が多くを占めている。生活経済を考える時、商品化された労働力を経済的要素として考える場合、家事や育児等の生活活動の基本を構成するものが無償労働として位置づけられている。その解決は、それらの家事等に価格を付け、家事を担った妻(夫)に対して、家事サービスを受けた夫(妻)が、その対価を支払う制度を家庭内の規則として導入することである。しかし、現実に、家事、育児や介護を担う妻(夫)が、外で働く夫(妻)に、家事労働の対価を要求し、またそれに関する契約書を作る家族はない。

市場経済学的な調査、研究からは生活世界の人間・社会・経済現象は理解できない。そこで、生活を消費行動として経済学的に分析する。そのため、生活経済の中で生産される「未来の労働力・人間形成」は課題に挙がらない。また、生活経済は家計のやり繰りのための知識として理解されている。そのため、生活経済は社会全体の経済学の中の家庭経営に関する課題に限定されてしまう。人間の基本的な条件が成立している生活活動が経済学の基本的な課題となり得ず、社会経済活動の端に置かれ、人間の活動の基本である生活環境(基本的には衣食住環境)、出産、育児、家庭環境、介護、人間関係、愛情等々、人が育つ基本的な行為、生活行為が経済学の課題から抜け落ちている。

Economyの語源は「家計管理・節約」を意味するギリシャ語のoeconomia (オイコノミア)であり、家計、家庭経営を意味している。日本に西洋の経済学が紹介された時代(19世紀後半)、『英和対訳袖珍辞書』(堀達之助)では「economy」を「家事する、倹約する」と訳し、「家政」の意味と解された。また、「political economy」は「国家の活計」と訳され、「制産学」つまり「経済学」(古典派経済学)を意味した。「経済」という新語は、中国の古典に登場する用語「経世済民」「経国済民」(世・国を経め、民を済う)の略語「経済」として形成された。経済とはその語源に於いても生活経営であり、その学問としての経済学も「家政」の学であった。しかし、明治初期の大学等の高等教育で行われた国家レベルの「political economy・財理学」が個人や企業レベルの「財理学」として展開し、それを包括して「economy・経済」という用法になったと言われている。近代化を急ぐ日本では、経済学は国家の財理運営(世・国を経める)の学問として国家が推進し、教育研究の課題として展開された。その意味で、経済の目的を語る(民を済う)という意味は希薄になって行った。

経済学の目的が国家や企業の富の形成を課題にする時、生活者は勤勉な労働力を提供する人々(労働者)となり、またその家族は将来の健康な労働力の補給の場となる。世・国を経めるための財理運営学(経済学)の中では産業活動によって生産された商品の消費行為が経済的意味を持つ。その他の生活行為は経済的意味の外に置かれる。そして、経済学の本来の目的(世・国を経め、民を済う)は完全に消滅することになる。しかし、マルクスの労働価値説によって、もう一度、民を済う経済学の復権が試みられることになる。では、どのようにしてその復権は可能になるのか。『生活世界の再生産』(高橋正立)が試みた課題「行為としての経済」に関する研究を掘り起こし、そして再展開する必要を感じる。


3、生活経済学としての生活資源論

人間の行為を経済学の基本とするなら、人々は生きるために活動し、豊かになるために働き、そして個人的な欲望や欲求を満たすために動く。これが経済活動の基本である。つまり生活世界で繰り広げられているすべての行為が経済学の対象となる。これらの人間行為が社会性を持たなければ、つまり個人的行為が他者に対して交換可能でなければ経済活動は形成されない。人の単なる行為の集合が経済活動を自然発生的に生み出すのではなく、人が社会的存在化したときに、その社会性こそが経済構造の基本となる。

つまり、人の行為によって社会性が生産され、その社会性が他者(人)の行為を助け、そしてその人が、その社会性を再生産することが出来る。生産活動とは生命や生活維持のために執り行われ、その行為を前提にして社会が形成、維持される。これらの社会形成は社会的規則によって運営される。生活行為で生産される生活資源の評価、分配の基準が経験的に決定され、変更され、維持される。生活資源の生産、交換に関する決りが経済秩序の土台となる。

ある目的に向かい生活行為(労働)が蓄積され、その蓄積(生活資源)によって作り出された環境を社会文化と呼んでいる。人々は社会文化環境を構築・脱構築・再構築しながら個体と種を維持し続けて来た。つまり、経済とは生活資源の再生産循環のメカニズムである。そのメカニズムの仕組みを語るのが生活世界の経済学である。高橋正立の厳密な経済学的点検に関してはここでは述べない。しかし、労働価値説の普遍的解釈を通じて、彼が人間の行為・生活行為の経済を展開しよとしたことを再度、見直す必要がある。


参考資料

高橋正立著 『生活世界の再生産 経済本質論序説』1988年12月、391p ミネルバ書房


2021年6月26日 フェイスブック記載

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三石博行 ブログ文書集「設計科学としての生活学の構築」



2021年6月18日金曜日

多様な人権思想と民主主義

- 人格としての人権思想、文化としての民主主義 -

三石博行


世界には多様な人権思想と民主主義がある。 

米国が中国に人権問題を語る。中国も米国に人権問題を語る。双方の人権に関する理念はそれぞれ正しいように思う。

まず、中国の考える人権は「餓死しないこと。家に住めること。生活が出来ること。」である。実際、中国共産党は日本帝国主義の侵略と闘い、列強の植民地になっていた中国と中国人民を解放し、貧困をなくし、経済を豊かにしてきた。それによってどれほど多くの人々が救われたか。そう彼らが主張するのは当然である。つまり、中国が言いたい人権とは「生きる権利」のことである。だから、今、彼らは農村地帯から貧困をなくすための政策を展開している。

COVID-19の感染源であったにしろ、また、初期段階でその対応が悪かったにしろ、中国政府は強烈な感染症対策で、感染を食い止め、犠牲者数も非常に少なく抑えた。そのやり方が強権的だと批判する人々もいる。しかし、自由と人権の国米国では60万人の犠牲者が発生し、日本でも1万5千人弱の犠牲者が発生している。犠牲者が少ない中国を日本も米国も批判する権利などない。

では、アメリカの言う人権とは「自由に生きること」である。人は自らの信念に基づいて生きることが出来、何人にも強制されない自由がある。この自由を保障されない社会は人権を無視した社会だと考えている。殆どの先進国において、アメリカの言う人権は当たり前の概念である。だから、アメリカは中国が香港の人々の要求を弾圧することは人権侵害だと考えている。

トランプ政権でのCOVID-19対策は失敗であった。そのため多くの犠牲者が出た。しかし、その政権を選挙で変え、バイデン政権になると猛スピードでワクチン接種を行い、感染拡大を食い止め、正常に近い経済活動が戻ってきた。民主主義とは国民主権が成立し、国民に選ばれた代理人(政治家)が国政を担う。もし、それらの代理人が十分に国民のために働いていなければ、選挙を通じて、辞めさせることが出来る。その点、中国の共産党による一党独裁は、余程、共産党指導部のモラルや理念が確りしていない限り、非常に危うい体制であると言えるだろう。

しかし、民主主義は一つではない。百の国があれば百の民主主義のスタイルがある。それは、その国や社会の文化であり、人々(国民)の歴史である。どれだけ民主主義的な法律があっても(ないよりましだが)、それを自覚的に運用する国民がいなければそれらの法律に謳われている民主主義や人権は実現しない。人権思想や民主主義は人の人格や社会文化である。人々の生活様式、行動様式、人に対する豊かな感性や想像力、それらがない所に民主主義は形成されないし、人権思想は育たない。貧しい人々への共感、社会的・経済的格差への問題意識、それらがない限り人権思想や民主主義は形成されないだろう。しかし、それは簡単なことではない。我々は元々、自己中心的で、他人に対して無関心な存在である。そうした私たち人間の自然の姿を反省的にとらえる力(モラル)がなければ、民主主義も人権思想も育たないだろう。

こんな大変で難しい文化を創ろうとしているのだから、それぞれの段階の民主主義や人権思想を理解し合う方がいいと思う。

だからと言って、中国共産党政権は行う香港の人々への弾圧は許されない。また、米国の人種差別や経済格差社会も非難されるべきだろう。そうした批判を行う我々日本人は弾圧を受けている香港人でも米国の黒人でもない。それ故に、弾圧をしている中国共産党政権、また人種差別をしている米国社会を批判的に観ながらも、他方において、それぞれの民主主義や人権思想の違い、歴史的背景を理解する余力があるのだと思う。

そして、最も大切なことは、民主主義や人権を求める香港や米国の人々の勇気ある行動を、自分たちの立場、自分たちの関わりを点検する問題提起にすべきではないだろうか。もう一度、わが国日本の人権思想と民主主義のレベルを問いかけるべきだろう。


ブログ文書集

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三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」


2021年6月18日 ファイスブック記載



2021年6月12日土曜日

古典的三段論法の形成と崩壊: 自然学、物理神学、ニュートン力学への流れ

- 古典的記述法としての三段論法 -

三石博行


ここでは、簡単に古代ギリシャアリス哲学、アリストテレスの三段論法を説明する。この三段論法は、前提となる命題からの必然的な論理展開することで結論を導き出す推論(演繹的推論)である。最も簡単は例は、「A=Bであり、B=Cである場合には、A=Cである」。この、A=Bを大前提という。この大前提(A=B)が成立し、その上で、小前提(B=C)が成立するのであれば、A=Cという結論が導けるという演繹的推論が成り立つ。これを間接推理とも呼ぶ。上記した例のように二つの前提から(演繹的に)段階的に結論を導く間接推論を三段論法と呼ぶ古代ギリシャの論理学で定義された三段論法は、大前提(A=B)と小前提(B=C)という二つの異なる前提(媒概念と呼ばれる)によって(A=C)という結論を導きくのであるが、それは同時に(A=B=C)という三つの異なる要素が一つの共通概念によって結びつけられることによって結論を導き出す推論の形式となっている。

アリストテレス『分析論前書』で述べられた三段論法は、大前提・小前提・結論の三つの命題によって構成された演繹的推論によって成り立つ。この三段論法によって、神の存在証明と呼ばれるような形而上学的な論証、「神は全知全能の完全性と絶対性を持つ(A=B)であり、全知全能の完全性と絶対性を持つものはこの世界の創造主である(B=C)であるなら、神はこの世界の創造主である(A=C)というである」という論証の上に成立する中世のスコラ哲学が成立する。スコラ(学校)哲学とは中世の学問を意味する。そのスコラ哲学は神学、自然哲学、自然学(物理神学)によって形成され、中世の神学者はこれらの学問を探求する人々であった。物理神学者の仕事である天体観測は神の存在証明を行おうための宗教的な探求行為であった。この物理神学(スコラ哲学)の中から、スコラ自然学の基本命題(天動説)がコペルニクス(1473年 - 1543年)によって否定されるのである。

司祭コペルニクスの天体観測は修道士ジョルダーノ・ブルーノ(1548年 - 1600年2月17日)に引き継がれ、ガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)の天文学として展開された。ガリレオの地動説を支持したデカルト(1596年- 1650年)はフランスを追われ。当時の先進国であったオランダのユトレヒトに逃げ、有名な方法序説を書いた。方法序説は自然哲学の序説としえ書かれたものである。デカルトの思想は近代合理主義と呼ばれ、イギリス経験論を含め、近代科学の哲学的な基盤となる。イギリス経験論や近代合理主義の誕生によってスコラ学的三段論法が崩壊した。数学的論理(演繹的方法)、経験論考察(帰納法的方法)を土段とする新しい学問・ニュートン力学が形成される。もはや宗教的絶対者(神)ではなく、宇宙の法則がすべての世界を支配しているという近代合理主義思想(世界観)が確立し、その世界観をすべての学問、社会文化に普及させるための啓蒙主義運動が起こる。



2021年6月11日 フェイスブック記載



2021年6月11日金曜日

文学的記述行為とリアリティ

- 方法としての記述行為の可能性について -

三石博行


197年代の始め、学生運動に挫折し、また、自然科学研究を生涯の仕事とするかという迷いの中で、息を潜めながら生活していた時、当時、水俣病患者の支援運動をされていた日本基督教団京都西田町教会の小林正直牧師(1973年日本基督教団長崎銀屋町教会牧師に就任、1989年逝去)と知り合い、小林先生の書庫(と言っても教会の2階にあった先生個人の本棚)にずらりと並んでいたドストエフスキー全集や解説書を片っ端から読み漁っていた。朝から晩まで、読んでいたので、夢にまで作品の主人公が現れ、彼らと会話までしていた。異常な精神状態の日々であった。

ドストエフスキーの作品、例えば「罪と罰」で主人公・ラスコーリニコフが老婆アリョーナと義理の妹リザヴェータ・イワーノヴナを殺し、ソーニャに会い、そして自首するまでの時間は、多分、1年もない。数日ではないかと思われる。その短い時間の流れとは別に、作者がきめ細かく描写するペテルブルグの風景、人々の心象風景、広場や街並み、人びとの姿、まるで私はそれらが見える様だったことを記憶している。例えば、ラスコーリニコフが老婆から盗んだ金(札束)をセンナイ広場(?)の敷石の下に、隠す場面があった。広場の風景、敷石の大きさ、その一つを持ち上げて、その下に、包みに入れた札束を置き、そして敷石を元に戻した。小説の表現がそうだったかは記憶にないが、まるで、私はその風景を見たかのように記憶していた。それだけではなかった。彼が初囚人たちとシベリアに送られるとき、彼よりも凶悪な囚人たちですら、彼に「旦那衆が斧なんかふりまわすのか(?)」とラスコーリニコフを罵った。その風景も非常に印象的だった。囚人服を着た荒々しい男たち、その中に青白いラスコーリニコフが居た。彼ら囚人たちは囚人輸送用の馬車の中で、シベリアへ向かって行こうとしていた。それは小説で描かれていた描写を通じて、私の脳裏に移るフィクションの世界の心象に違いない。

作者の記述行為(小説を書く)によって形成された(書かれた)文章、ストーリ。それは小説である以上、現実にある世界ではない。作られた世界・フィクションの世界だ。しかし、それらのフィクションが、読者に対してリアリティを持って迫るのは何故なのかと思う。もちろん、ドストエフスキーの小説は、当時の私の小さな生活の全て独占し、私は、ひたすら読み続け、読書にすべての時間を奪われ、夢にまでその場面や人物が登場し、また主人公たちと会話までしていたのだ。だから、その小説の世界は私にとってはリアリティの一部であったと言えるのではないか。まるで、私は、ドストエフスキーの小説の世界を体験をしていたのだとも言える。何故、私がその小説の世界で体験できたのか。それは、今になって、大きな疑問となり、また、哲学的な課題となっている。

色々な評論家や知識人(文学者)によるドストエフスキー個人やその作品に関する解説書、評論書、ドストエフスキー論を読んだ。その中に、もう著書名や著者名は忘れていしまったが、「ドストエフスキーは書きながら、実験をしていたのだ」という一節があった。その記述は今でも覚えている。作家にとって書くとは「実験」なのか。その実験の目的は何か。書く行為(記述行為)によって描き出された小説というフィクションの世界にリアリティを存在させることが出来るとすれば、それらの記述表現の構成、展開、表現内容はどう構築されるべきなのか。そもそも小説(フィクション)にリアリティを求める試みが可能なのか。結局、私は実験としての記述行為に疑問を投げかけてみた。何故なら、記述主体(作家)は、記述行為(フィクションを書くこと)によって、その書かれたものを自分の外の世界の一部として見つめることになる。記述行為の対自化によって、小説は自分(通時的に存在している主観的世界)から文化的に存在している対象世界の一部となる。そして、もう一人の自分(作家)が「この記述世界(小説)は事実存在し得る世界(リアリティ)として了解されるか」と、その記述内容の真偽を確認し始める。真偽の確認は記述行為によって可能になる。従って、この過程をある種の実験と呼ぶことができるかもしれない。実験としての記述行為は小説家に限らず、物書きと称するすべての人々に共通する行為のように思える。事実、私も書くことを通して思考実験を行っている。

私の心にこのドストエフスキー論を書いた作家のことばが50年経た現在まで残存し続けたのは、決して、偶然ではなかった。この言葉、ドストエフスキーにとって小説を書くことは、「そこにあるリアリティの存在を確認のための実験」なのだというテーマは、私自身の方法としての記述行為に関する理解となり、また、記述行為という人文社会科学の手法の在り方に関する疑問となって、展開して行った。つまり、記述行為の課題とは「ことばにとってリアリティとは何か」という問題であり、記述行為を通じて暴露されることばの偽善性でもあった。記述行為によって、私の欺瞞は露呈し、私の虚偽の影は外界に透けて現れる。そうした記述行為が方法論的に可能なら、それは一つの実験ではなかい。そう思っていいのか。どうなのか。

書くという行為は思考実験であると、以前フェイスブックに書いたことがあった(「思考実験としての書く行為」2019年14日フェイスブック記載)。思考実験としての書く行為とは、考えている課題をスケッチし、文章化し、その文章化されたものを課題別に整理し、整理された課題を分析し、その課題の核心を理解すための作業である。しかし、殆どの場合、そう簡単に、書くことで課題の核心を理解できる訳ではない。多くの場合、書いてみると不十分な点が明らかになる。もしくはその課題の困難さが見えてくる。

逆に言えば、書くことで課題の難しさ(各主体の未熟さ)が露呈することが、書く行為の目的である。何故なら、思索は、そのすべてを外化し(書き表し)、その書かれた私の思索の外観を、私自身が、もう一度、観察する作業によって、一つひとつ課題を深めることができる。こうした作業を通じて自分の思想や考え方がより確実に理解される。この作業を通じて、説得力のない文章に関する点検、論理的展開の不備、表現上の問題、不十分な資料分析等を点検することが出来る。そのために書くのである。

言い換えると、書くことは他者への表見であると同時に自己への確認でもある。書かなければ何とも生きづらいと感じている人々(物書き)にとって、日記、ブログ、評論、エッセイ、小説、詩、論文等々は、それが何であれ、書くために書き続け、書かざる得ない結果に過ぎない。人は、外化された自分と出会うことで、自己認識をしている。その作業は、人によって異なる。ある人は、ものを作り、あるひとは人々に奉仕し、ある人はギャンブルにのめり込み等々、それが何であれ、自己表現を通じてしか自己認識できない人間というやっかいな生き物の姿の、一面として、書く行為があり、それをより積極的に受け止めるために、書く行為を実験として位置づけようとしている。

それ故に、私は記述行為にとってリアリティとは何かを探ろうとしていたのだと思う。つまり、記述行為を通じて世界や自己を課題にしている人文社会科学の科学性の成立条件を理解する鍵がこの言葉に隠されていたのだと思った。



2021年6月11日フェイスブックに記載
 
2021年6月15日 修正




現代科学哲学の課題としての「人間社会科学基礎論」の研究



三石博行


1980年代、私はフランスに留学し、当時ストラスブール第二大学(現在のストラスブール大学)の哲学部の科学哲学専攻ゼミ(大学院)で勉強をしていた。そのゼミは4つの大学共通ゼミ(ストラスブール第一大学から第三大学とパリ第4大学・ソルボンヌ)であった。指導教官として、世界的に著名な研究者(例えば、フランシスコ ヴァレラ、エドガール・モラン、メルロポンティ(息子)、等)もいた。彼らの講演も聞いた。また、他の大学の大学院の研究者とも交流が出来た。それで、夏休みはパリで過ごした。

当時のフランスでの科学哲学の課題の一つに、人間社会学基礎論があった。私もそれを中心にして研究していた。勿論、量子論等の科学認識論を研究する仲間のいたが、それらの自然科学系の科学基礎論が中心ではなかった。私は、色々な課題(デカルト、環境問題、認知科学等々)に手を出したあげく、ポスト構造主義からシステム認識論への試論を試み、フロイトのメタ心理学を対象にして分析を行った。フランスでの研究生活で、多くの研究者と交流した。特に、当時、大学の助教授であったA.R氏、心理学を研究していた元アルジェリア大学教員のAH氏、コートジボワールから来ていたD.K氏等々、彼らとの議論は尽きなかったが、彼らも科学哲学の課題を、人間社会学基礎論として位置づけていた。

1993年に帰国し、科学基礎論学会に参加した。その時、日本では科学哲学の主流は現代物理学(量子論や相対性理論等)への認識論的なテーマだと知った。しかし、科学基礎論学会の中に、現象学や心理学を研究する仲間(渡辺恒夫氏や村田純一氏)がいて、彼らと「心の科学基礎論研究会」を立ち上げ、それに参加した。現在は、幽霊会員になっている。送ってくる研究大会のテーマを見ても、私が探求したかった人間社会学基礎論に関する課題があまり見当たらない。日本の哲学研究の中で、私と同じテーマに興味を持つ研究者は少数派のようだ。

しかし、21世紀の高度科学技術文明社会へ突き進もうとしている社会文化の流れの中で、この文化の基本インフラ(資源)で「科学や技術」に対して、それらの合理性を分析する「科学哲学」の必要性と同時に、この21世紀の社会の方向を問いかける哲学、そしてその哲学を基盤とする新しい科学への課題をイメージした時、人間社会科学基礎論が必要だとあたてめて思う。

17世紀以来形成発展してきた科学的合理主義、科学主義、物理主義から、21世紀社会の課題(地球規模の環境汚染、パンデミック、巨大化し国際化する情報社会、世界規模の資本主義経済システム等々)に対して、有効な回答が得られるだろうか。私は、疑問視し続けて来た。そして、新しい科学性を構築しなければならないと思った。それこそが、現代の科学哲学の課題であると思って来た。しかし、この課題は、余りにもおおきすぎ、私がそれらの答えを見つけ出すことが出来るとは到底思えない。ただ、今、何が問われているかを示すべきだと思っている。


2021年6月11日ファイスブック記載

2021年6月10日木曜日

人文社会科学における記述法について

-人文社会科学での記述行為の科学的根拠とは何か-

三石博行


1、何故、人文社会科学では、記述行為が問われるのか

ここでは、人文社会科学の研究の中であまりにも当然の手法として誰も語らなかった「記述」について問題を立てる。これまで、記述という方法(行為)が科学的方法として成立しているかという疑問は解決されただろうか。記述行為を支えている実体が問われる。何故なら、記述行為は記述という情報構築活動である。しかし、それらの情報(様相)はその現実(実体)を伴わなければ、虚偽となる。

例えば、近代知の土台を形成したデカルトのコギトであるが、このコギト(疑う我を疑うことは出来ないというデカルトが絶対に確実な第一原理として打ち立てた命題)の記述行為が成立することは、そこまで疑う行為をもってコギトを定義ずけたデカルト以外には不可能ではないだろうか。言葉としてデカルトのコギトを受け取ったところで、その哲学的命題の正しさを実感する原体験を持ちえない読者にとっては、コギトは経験された事象ではない。その意味で、デカルトの記述内容(コギト)に対して、唯一読者がその事象を共有する体験をするかが、問われている。

その意味で、その経験の共有を前提にしない読者が語る記述行為は、意味のないものであると言えるだろう。このように人文社会学では、伝承される記述に対して、その記述形式の了解にとどまり、記述行為自体に入り込むことはない。だが、それでは人文社会学が課題とする事象はどう存在し、それを語る主体はどこにいるのかと問わなければならなくなる。従って、こうした記述行為の課題に焦点を当て、科学として記述行為からなる人文社会科学の成立条件に関して議論する。


2、自然言語による記述行為からなる科学、人文社会科学

自然科学やデータ解析を行う計量的方法では、数学という方法を用いることで主観的な解釈や意味を間違えた用語法を徹底的に排除できる。その意味で数学的言語を用いる記述法は自然言語を用いるそれよりも正確に事象を表現し、また分析することができる。しかし、人文社会科学の場合、対象となる事象が数的(計量的)な形態を取っているとは限らない。もちろん、それらの事象のある計量可能な要素に限定すれば、その事象の計量的側面を理解することが出来る。しかし、多くの場合それらの事象全体をより正確に表現するには自然言語的な表現を用いるしかない。

自然言語による記述法は人文社会学では日常的に行われている研究方法であるが、その言語活動としての記述行為に関する方法論的検討はない。また、その方法・記述法に関する定義もないし、用語はない。そこで、この記述法という意味を定義してみる。「記述による説明」という人文社会学系の伝統的な手法を用いて日々研究する立場として、記述行為による概念説明や論理展開に関して、厳密な意味で、そこに科学的方法が成立しているかを問わなければならない。

つまり、記述行為を基にして展開する手法が科学的に有効な方法であると証明できるか。これが、「厳密な科学としての人文社会科学の成立条件」の一つを構成していると言える。しかし、果たし絵、記述法という学問的方法が成立しているだろうか。もし、記述法という用語も、またその定義もなければ、記述行為によって論理展開する学問の存在基盤が疑われることになる。その科学的な方法を課題にする極端な解決手段が人文社会科学の計量科学科への傾倒として現れるだろう。事実、人文社会科学の中で、計量科学を最も厳密で科学的方法であると主張する人々は存在し、その勢力は増え続け、次第に主流派になるだろうと言われている。


3、記述行為の前提条件:正しい用語

人文科学の場合、ある事象(観察された現象)に対して、記述という手段でその事象を表現している。記述行為によって表現された概念を基にして、その分析が行われる。従って、対象となる事象の正確な記述が記述行為の原則となる。正確な記述行為によって記述内容の信憑性が保証される。

当然のことであるが、記述に用いられている用語がその定義や意味に即して正しく使われていなければ、正確に事象を記述することは出来ない。される事象は正確ならない。間違った用語を使って事象を説明している場合には、その事象は間違って伝えられる。例えば、幾何学で例えるな「正三角形」という用語を「二等辺段角形」に当てはめて使っている場合を考えれば分かる。その後、どれだけ正三角形に関して記述しても正三角形を充たす概念を構成することは出来ない。また、マルクス等の古典派経済学で用いられる「労働」と「労働力」の用語に違いを正確に理解しなければ、その経済学での「価値」と「価格」の概念に違いも間違ってしまうだろう。

つまり、記述行為やその記述内容の正確さは、それらの記述行為の背景が現実の事象に基づくものであるということが前提条件となる。もし、現実の事象に基づかない記述行為であれば、記述内容の全てが「嘘・間違い・偽」である。したがって、この前提条件を満たさない記述はすべて、記述による証明法では排除される。これが記述行為によって成立する科学的方法の基本条件である。


4、コミュニケーションの成立条件:文法的正確な記述

次に、記述行為の中の文章化であるが、文章化の条件は、文章が文法に即して正しく記述することである。記述が文法的に正しくなければ、記述された意味が不明となり、記述行為の目的は果たされない。意味不明の記述によって、記述行為の目的やその内容も意味不明となる。

文法的に正しいということは、単語(意味するもの)が、共同主観化された言語文化的構造を前提にして、配列されていることを意味する。この規則(文法)によって、書かれたもの話されたものの(つまり意味するもの)を共有することが出来る。これをコミュニケーションと呼ぶ。共同主観的世界での記述行為による言語の相互交換行為(コミュニケーション)が成立しない限り、記述行為は他者に伝わることはない。当然のことであるが、文法的に正しい記述行為が正確な意味の伝達の条件となる

言い換えると、記述行為を基にして展開する手法が科学的に有効な方法であるためには、その手法がコミュニケーション可能な道具として成立しなければならない。共同主観的世界、つまり、時代や社会文化として現象している世界では、事象を「正しい」という形容詞を付けて表現する前提条件は、その事象の意味を自己と他者が共有化できているかという意味として理解できる。正しいとはその共同体の中で共有されているために文化的に成立している概念である。その意味で、記述行為は文化的規則(文法)的に正しくなければならない。それが、正しい記述行為の条件となる。


5、学際的コミュニティの中での決まり;主義という切り口

記述行為は、課題展開のための論理的構成を前提にして成立している。論理的構成と言っても初めからある方法によって文書が配列されている訳ではない。記述行為は、非常に多様なやり方(書き方)があり、十人十色である。しかし、それらの多様な書き方に対しても言語行為による表現形態には原則がある。それは、文章の繋がりの中に相矛盾する内容があってはならないという事である。記述文書群の間で相矛盾する文脈が存在すれば、その文書群の指向性は失われる。つまり、意味不明の文脈となる。記述行為によって構成される相矛盾しない文脈の構成が正しい記述行為の条件となる。

しかし、これらの条件はある一つの基準をもっている訳ではない。これらの条件は、伝統的は手法、もしくは何々主義として語られるそれぞれの学派や学際的集団の中で成立している分析手法や科学的方法が前提となって成立している。一般的な人間社会科学手法、普遍的方法は存在しない。人間社会科学の記述行為は、事象の定性的解釈、定量的分析、それを構築している要素分析、それらの要素によって形成されている構造や機能、そのために用いられる相関関係の分析、その分析を展開するための手法(統計学やその他)等々の方法が取られるのである。これらの方法の土台に、その方法を展開するために設定された仮定や前提条件がある。またそれらの仮説を持ち出す記述主体の認識論的背景が課題となる。

人間社会科学の記述主体は、その記述行為を促す何らかの前提条件を持っている。これを理論と呼んでいる。しかし、その理論は一つではない。伝統的には三段階論法、帰納法や演繹法、弁証法、機能主義、構造主義、解釈学、構築主義、ポスト構造主義から、統計的手法、ケーススタディ等々、色々な手段が存在し、それらの手法を記述行為の主体(研究者)は、何の疑いもなく当然のように用いている。


6、人文社会科学の科学性の成立条件:共同主観的ドグマへの挑戦

自然科学(古典力学の場合)の扱う世界では、絶対的な時空概念が存在している。従って、その記述内容(事象)は同質の時間性や空間性を持つために、記述行為は、記述する人の時間性や空間性に独立して可能となる。その意味で、自然科学の世界では、すべての研究者が共有できる記述行為の基準が決められている。その記述行為の基準を決めているものが「自然法則」であり、その法則を前提し記述行為は展開し、また、新たな法則の発見を目指して、記述行為が繰り返される。

しかし、やっかいなことに人文社会科学の扱う世界は、その世界を構成する事象がその世界独自の時間性(歴史性や時代性)と空間性(社会文化性)を所有している。言い換えると、記述行為は記述主体(研究者)と記述対象(事象)の独自の時間性と空間性によって規定されていることになる。

言い換えると、前記した人文社会科学の科学的方法としてこれまで成立した手法(三段階論法、帰納法や演繹法、弁証法、機能主義、構造主義、解釈学、構築主義、ポスト構造主義から、統計的手法、ケーススタディ等々)も、その手法が形成された独自の時間性と空間性を持つと考えられる。例えば、フロイトの精神分析学であるが、その手法は19世末期から20世紀初めのヨーロッパ・オーストリアの時代や社会文化的背景によって成立している理論(切り口)である。それをそのまま、現代の日本社会に応用し、すべてフロイト流の解釈(例えば、リビドー論)で分析・解釈することは無理がある。同様なことが他の理論的展開でも起こっている。理論的解釈に合わせて事象を観ることが人文社会科学の科学性の展開を鈍らせている。

では、どのようにして人文社会科学でのより正確な記述行為は確立できるのだろうか。そもそも事象を「純粋経験」することは出来ない。すべての事象がすでに受け入れてしまった知識(理論)やまたその時代性や社会文化性の共同主観的了解を持ち込んでいる。むしろ、そのことを前提にするしかない。そのための方法論について語る必要がある。




2021年6月9日水曜日

私の認識の風景とその科学的展開としての三段階論法

-解釈学的理論化とプラグマティズム実践・検証作業:人間社会科学の成立条件とは何か-

三石博行


先日、所属学会の報告会で、その会の中心メンバーの香川敏幸博士(慶応大学名誉教授)から、私の報告が三段階論法であると指摘された。三段階論法であると言う指摘は初めてだったので、三段階論法を改めて調べてみた。どうもそうではないように思ったので、その原因を考えることにした。

問題は、私が自然にやっている課題を三つの要素や概念に区分もしくは分類する仕方である。今まで、そのやり方が自然に身についていた。それは何故か。それは認識の風景の基本に何がそう世界を理解する仕方が存在するからではないだろうか。そう考えた。

何故、私は自然に三つの要素を感じるのか。そして、今までの研究活動の中で、私の理論は三つの要素を展開してきた。これは伝統的な三段階論法もなければ、ましえや武谷三男の物理学的な三段階論法でもない。あえて言えば、私の認識の風景によるものではないかと思える。

しかし、その根拠が全く無いわけではない。例えば、時間は、過去、現在、そして未来の三つの概念に分けられる。空間は、私という身体、つまり身体(そこから観えている世界を生み出す身体・私)、その身体を取り巻く生活空間(これは日常的に経験される空間)、その生活空間の外にあると思われる空間(地理の教科書で理解し、また旅行で見てきた世界、しかしそれらの世界は今、ここにはなく、それは確かにあることを疑っていない意識の中に存在している空間)の三つの概念に分けられる。また、意識もフロイトに倣って、無意識、前意識、意識と分けられる。自我もエス(快感原則で機能する)、自我(今、ここで生活する私)、超自我(欲望の急ブレーキ・抑制を機能させる)の三つに分けられる。

私はこれまでの研究活動の中で、色々な理論を提案してきた。その理論を構成する基本に三つの要素(構造、機能、段階、期間)に分類する手法が用いられている。フロイトのメタ心理学から展開したシステム認識論、また、それから展開した言語学理論、さらに阪神淡路大震災の生活情報の調査から展開した三つの生活情報、命や健康に関する一次生活情報、豊かな生活環境を得るための二次生活情報、過剰な欲望を満たすために求められる三次生活情報、それらの三つの生活情報(形相)に対する生活資源(実体・物質的素材)の形態、つまり、一次生活資源(命を維持するための資源)、二次生活資源(豊かな生活を得るための資源)、そして三次資源(過剰な自我活動を行うための資源)に分けた。

また、今回のCOVID-19パンデミック(感染症災害)に対する対応も三つに分けた。危機管理を優先し感染拡大を防ぐための対策を重視する一期、感染症災害で罹災した社会的被害を修復する政策が展開される第二期、頻発する感染症災害への対策を検討し、感染症災害に強い社会を構築する三期、の三つの感染症災害対策であった。

これらの分類は私の認識の風景(主観的世界)から生じたものであることは間違いない。これらの三つの段階、期間、要素が自然科学的根拠を持って成立しているわけではない。そう分類することで、私なりに課題を整理でき、問題解決のための方法を提供できるという実用主義(プラグマティズム)によって提案しているに過ぎない。つまり、この三つの分類によって、より有効な問題解決の手段が得られれば、それで良いということになる。

従って、この分類法は実際の政策として検証されなければならないと思う。実践的な検証が人間社会科学の理論に対する検証である。現実にある問題や課題の分析を通じて、理論(仮説・解釈)がある以上、それらの解釈は、問題解決を通じて、証明されなければならないだろう。

その意味で、私の認識の風景は以下に述べる三つの段階の一つである。つまり、
  • 1、現実の課題に関する調査研究
  • 2、研究データの分析、解釈 理論的仮説(三つ概念への分類化)
  • 3、三つの分類によって、問題解決や課題展開を試みる(実践的検証)

実践的知としての人間社会学の論理が上記したような三段階に展開されるとするなら、私の認識・解釈はその三段階の二段階部分に相当していると言える。つまり、私の人間社会学の理論は三段階論法を前提にして成立するのではないかと思う。その意味で、香川敏幸教授の指摘によって、あらためて私は人間社会学の科学性を再認識・自覚した。そのことを香川教授に感謝したいと思う。



2021年6月5日土曜日

パンデミック災害の構造とその対策(2)

-  21世紀型災害・パンでミンクと総合的政策学の課題 -

三石博行


この論文は2021年5月29日に政治社会学会(ASPOS)と東洋大学グローバル・イノベーション学研究センターが共催でオンラインで開催しました「政治社会学会研究セミナー 第2回」の報告のために作成した資料です。また、2021年5月16日、政治社会学会「COVID-19対策の調査・検証プロジェクト」での報告で作成しました資料『パンデミック災害の構造とその対策(1)』と重なる部分を簡単にまとめ、主に、わが国の2020年1月から7月までの感染症災害政策に関する分析を行いました。


目次

はじめに

1、21世紀型災害としてのCOVID-19パンデミック災害

1-1、人間活動(人工物生産活動)による災害要因
1-2、ハイブリッド型災害への対策・国際総合的対策
1-3、二つの感染症災害対策 安全管理と危機管理

2、COVID-19パンデミック災害の構造とその予測される対策

2-1、三つのCOVID-19パンデミック災害対策
2-2、第一期 危機管理体制の中での感染症災害対策
2-3、第二期 感染症罹災からの復旧と復興、問われる民主主義文化
2-4、第三期 持続可能な人類共存社会の課題

3、わが国の第一期感染症第外対策に関する点検

3-1、中国武漢市での非定型性肺炎患者が発生から法令交付・施行まで経過とその検証
A、中国武漢市での非定型性肺炎患者が発生から法令交付・施行まで経過
B、何故、中国発情報の検証が出来ないのか
C、危機管理意識の欠如と根拠なき楽観主義の原因

3-2、感染危機管理の法的体系と特措法改正

A、感染拡大、非常事態宣言と新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正適用
B、対策機能の厚労省業務から官邸中心への移行
C、日本モデルの評価・検証
C1、国民の自主的な外出・移動の自粛要請
C2、自治体の多様な感染症対策と国の感染危機管理政策

3-3、第一期対策の基本から観るわが国の対処の評価と点検

A、感染拡大によるクラスター対策の限界
B、無症状感染者と不顕性感染者の存在
C、増えないPCR検査 
D、病原体の遺伝子、感染媒体、感染症の病理的特徴に関する情報 
E、ワクチン・治療薬の開発
F、検査キッドと検査体制の確立
G、予測される危機的状況に対する公衆衛生・医療体制の確立

まとめ、 最後に、これからの課題とは何か



はじめに

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災( 兵庫県南部地震の発生当時の死者数は6,434人であり、また、2021年3月9日時点で東日本大震災に関連する死者数(行方不明者数を含む)は1万5900人である。そして、2021年5月28日までのCOVID-19による死者数は1万2601名である。確かに、2020年7月17日時点で死者数は985人で、人口100万人当たり8人に抑えられていた。人口比の死亡率は世界の中でも低いと評価されていた( )。現在(2021年5月28日)も日本での感染拡大は続いている。そして、国民の大半がワクチン接種を終えるまで犠牲者は発生し続けるだろう。現時点での犠牲者がすでに阪神・淡路大震災のそれの2倍近くになり、また、東日本大震災の犠牲者数に近づきつつある。これが、現在の日本での新型コロナウイルス感染症災害の現実である。
第1章では、COVID-19流行による生命と健康への被害を感染症災害として位置づけ、これまでの災害社会学の先行研究成果を投入し、感染症災害の構造を分析した。更に第2章では、COVID-19大流行(パンデミック)の上記した災害社会学の視点からの分析を試みた。まず、新型コロナウイルス感染症による災害構造の分析を行った。そして、その対策を安全管理や危機管理の課題に沿って分類し、より、分析的に、災害対策のための、課題を抽出した。さらに、第3章では、第2章で定義化した感染症災害の段階的区分に照らし合わせ、今回の新型コロナウイルス感染症対策を対策の分析を試みた。これらの分析はコロナ禍の現実のごく限られた、また極めて一部分の課題に過ぎない。しかし、こうした研究者一人の小さい一歩が集まることで、より多様な、そしてより豊かな研究活動が生まれることを期待した。
既に、2021年5月16日の政治社会学会COVID-19対策の調査・検証プロジェクト第2回報告会で、ここで述べる第1章と第2章の課題は報告されている( )。今回の報告会では、前回の報告の要点、第1章と第2章の課題を簡単に紹介し、出来るだけ第3章の課題について触れたい。この第3章の課題は、政治社会学会COVID-19対策の調査・検証プロジェクト第1回報告会で、原田博夫博士が展開した課題と関連している。


1、21世紀型災害としてのCOVID-19パンデミック災害

1-1、人間活動(人工物生産活動)による災害要因

人間は農耕文明の時代から自然を開拓し、植物を改良し、農地を広げ、食料を確保し、まあ動物を家畜化し動力や食材として利用してきた。人間社会の環境は自然の人工化によって形成される。つまり、人間社会が豊かになるとは自然が開発され人工化されることを意味している。産業革命以後、人々は化石燃料から動力エネルギーを得る手段(技術)を手にいれ、巨大な生産力を獲得し、それによって多量の人工物(工業産業物)を生産した。これらの人工物の一部は商品として市場に出され、商品経済(資本主義経済)を発展させた。もう一部の人工物は廃棄物として生産現場や社会を取り巻く自然生態環境に捨てられた。それが19世紀以来の劣悪な労働環境によって生じる職業病であり、また工場地帯(労働者達の生活圏)の大気、水や土壌の汚染であった。こらの廃棄物が有害物質である場合には深刻な健康被害、例えば鉱毒被害を引き起こした。

災害の原因は自然的要因と人工的要因がある。人間の活動力が大きくなることで人工的災害要因も大きくなる。1960年から1970年代に日本で起こった人工災害の事例、水俣病、びわ湖汚染、イタイイタイ病、四日市喘息等々、公害(人工災害)は地域に限定されていた。しかし、1980年代となると、欧米や日本で、広域の自然破壊が起こった。例えば、酸性雨による森林への被害、砂漠化によるウラル海の消滅等々、国境を超える広域にわたっる人工災害 (公害)が起こった。そして今日、私たち人類の活動によって排出される二酸化炭素(温暖化ガス)が地球温暖化を引き起こし、その温暖化によって地球規模の異常気象が起こっていると言われている。人工的要因によて引き起こされる災害の規模は地球レベルに達していると言える。

21世紀の世界や社会に取って人工的要因のよって引き起こされる災害や危機の課題が私たちに立ちはだかっている。その課題と向き合うことなくして、21世紀の社会文化や生活様式について語ることは出来ない。

1-2、ハイブリッド型災害への対策・国際総合的対策

災害とは「人の生命及びその財産への被害」つまり「社会生活資源の損失」である。その要因には大きく二つある。一つは自然的要因である。もう一つが上記した人工的要因である。自然災害例えば地震や津波で受ける被害(災害)は、その直接の人の生命及びその財産への被害の原因が地震や津波によって起こる。しかし、同時に、その自然災害は、家の耐震強度、防波堤、土砂崩れの恐れのある土地の宅地化、街づくり計画、町の安全管理や危機管理等々が間接的に関係している。人工物に取り囲まれた現代社会では、人工的要素を全く持たない自然災害はない。社会経済の発達した国や地域での自然災害はその生活環境を構成しているすべての人工物の影響を受ける。これが現代社会の災害の姿である。このように、災害の被害は人工物が巨大化することによって大きくなる。こように、社会生活資源の損失である災害は「人工物の損害」と言い換えることができる。

生態系環境が著しく人工物によって影響されている状況の下で起こる災害は自然的要素と人工的要素を同時に持つハイブリッド型の災害である。現代社会のすべての災害がこのハイブリッド型災害の様相を示す。そして現代の災害対策もその災害パターであるハイブリッド性、つまり自然要素と人工物要素の両方に渉る文理融合型・総合的対策となる。科学技術の進歩によって、自然災害の要因、自然現象の科学的研究とそのための調査器機や技術開発が進み、その結果、有効な災害対策が可能になる。例えば、人工衛星による気象観察とそれに基づく気象予報のデータ、そのビックデータ解析によって気象予測の精度が高まり、大雨や台風等の自然災害の予知がより正確に可能となっている。一方、人工的要因による災害は人工物が巨大化すればするほど災害は大きくなる。そのため人工物の災害要因に関する科学的分析が必要とされる。つまり、人工災害の要因となる社会経済文化システムや要素を調査分析する科学・人間社会科学の進歩が必要となる。

高度に発展した文明社会で起こる災害対策には国際的な連携やシステムが必要である。何故なら、地球温暖化や感染症災害の要因である温暖化ガスや病原体は簡単に国境を越え世界に広がるからである。つまり、世界規模の被害が起こる。当然のこととして、その災害対策も国際的な連携によって行われる必要性が生まれる。一国の災害対策も国際機関と歩調を合わせながら進められ、また。常に状況に合た国際機関の形成と改革が求められる。21世紀型災害の解決方法が地球温暖化対策やCOVID-19パンデミック災害で問われている。


1-3、二つの感染症災害対策 安全管理と危機管理

21世紀型災害対策と言えども、災害社会学的な視点に立てば、全く目新しい課題を問いかけている訳ではない。感染症は古代から存在し、人類はそれに立ち向かって来た。つまり、感染症災害は人類史の中で繰り返し起こっている( )。そして、その対策は、これまでの災害対策の原則を前提としている。つまり、災害対策は原則として安全管理と危機管理がある。安全管理とは災害を未然に防ぐための対策をいう。危機管理とは安全対策が有効に機能しない場合に行われる対策である( )。

感染症災害における安全管理は主に以下の四つである。一つ目は検疫体制である。国内に10カ所の検疫所( )を設置し感染症の侵入を防ぐために体制を整えている。検疫法( )に基づき検疫体制を維持管理しているのは厚労省検疫所( )でありる。二つ目は病原体を特定するための調査研究体制で感染症に関する医学、生物学、分子生物学等々の専門家集団の活動を常時維持している研究機関であり、厚生労働省の施設等機関である国立感染症研究所( )が当該研究所病原体等安全管理規程( )に従いその機能を担っている。三つ目は感染症治療法や感染病の臨床学的研究を行う医療研究機関及び医療施設である。大学医学部、国立国際医療研究センター等の研究機関である( )。また、COVID-19流行に備え2020年2月13日に内閣官房健康・医療戦略室(文部科学省 厚生労働省 経済産業省)を設置( )し、診断法開発、治療法開発、ワクチン開発等の新興感染症に関する研究開発を加速させるための機能が形成されている。四つ目は感染症の拡大を防ぐための病原体の検査と遺伝子分析を研究し検査方法を開発し、またそのワクチン開発を行う研究機関である。わが国では国立感染症研究所を中心とし、大学医学部、国立公立等の研究機関や生物工学系や医薬系の企業がこれらの機能を担っている。言い換えると感染症災害の安全管理は高度な感染症学、感染症治療等の研究レベル、豊かな感染症治療を行う臨床設備と人材やレベル、完璧な検疫体制や法的整備によって確立している。

感染症災害に関する防護策を持たない状態、もしくはあったとしてもそれが機能しなくなった状態の時に危機管理対策を発動しなければならない。その危機管理対策は主に以下の四つある。一つ目は、感染症災害の被害を最小限に食い止めるための対策である。感染症を治療する薬がない場合、ウイルス感染を防ぐ可能性のある薬、感染症状を重篤化させないための薬、進行する病状や多様な症状への対処療法、医療崩壊をさせないための入院隔離設備の拡充等々が考えられる。二つ目は、機能しなくなっている安全管理の機能を素早く修正改良するための対策である。例えば、新種病原体に対する検疫体制の改善、検疫法の修正等、また病原体調査や感染症研究や臨床体制の強化を行わなければならない。また、隔離対策の強化、例えば民間等すべての研究機関との協働体制の構築、臨時的な隔離を行うための民間病院資源やホテル等を活用したり、場合によっては巨大な臨時入院設備設置も必要となる。そして、大学や研究機関へのワクチンや治療薬開発のための予算措置が挙げられる。三つ目は、感染症災害によって生じた被害を社会インフラ全体で支える対策を取ることである。感染症災害によって起こる医療崩壊や生活経済インフラ危機に対して、病院以外の施設を臨時的に活用したり、生活困窮者への支援活動を強化したり、また、感染症災害によって副次的に生じる差別、いじめ、デマ等の対策を行うために、市民の参加や協力を組織する活動の開発等である。実際、阪神淡路大震災の時、マヒした自治体の生活情報機能をサポートしたのは、ピースボートや市民運動であった( )。社会が持つ危機管理能力(ポテンシャル)は豊社会文化資源の状態に関係する。四つ目は、上記の二つ目の中に含まれる課題であるが、特に、ここでは豊かな人的資源を持つ社会がその社会が危機に瀕した時、それを打開する力を発揮するという危機管理の基本的命題を強調しておきたい。つまり、社会は事前に人を育てること、それが学校であれ、企業であれ、また地域社会であれ、人づくり活動が社会文化の中で重視されていることが危機管理に強い社会を形成する。つまり、人びとが社会活動を自主的に行い、社会運営(自治体、市民活動、NPO運動等々)に積極的に参加している文化こそが豊かな危機管理資源を持つ社会であると言える。


COVID-19パンデミック災害の構造とその予測される対策

2-1、三つのCOVID-19パンデミック災害対策

未知の感染症(COVID-19)に対する対策を三つの段階(期間)に分けた( )。第一段階は、COVID-19には予防するためのワクチンもなければ、また治療薬もない状態である。そため、危機管理から感染症対策が始まる。感染症の流行を防ぐために、これまの感染症への安全管理が総動員され、COVID-19の感染拡大を防ぐために有効であると思われる対処が試みられ、その中から、より感染症災害の被害を最小限に食い止めるための対策が選択されていくことになる。危機管理から始まる感染症対策の段階を第一期と呼ぶことにした( )。この第一期は感染症予防対策(安全管理)であるワクチンや治療薬の開発と普及によって終焉する。危機管理から始まるCOVID-19への対策は危機管理から始まるのである。現在の日本はこの第一期の最終段階にあると言える。

第二段階は、ワクチンや治療薬が開発され、それによって感染拡大が抑えられ、また感染症の治療が可能になる段階安全管理が可能になる。例えば、ワクチン接種が進み感染拡大を抑え込みつつあるイギリス、米国、英国は、ワクチン開発が成功し、感染予防が可能になり、感染拡大が抑え込まれている段階、つまり安全管理対策が可能になった段階を第二期と呼ぶことにした。

第三段階は、COVID-19パンデミック災害が終息したポストコロナの時代である。この時代を第三期と呼ぶことにした。COVID-19パンデミックの原因は、新しい病原体の出現だけでなく、国際化した経済文化活動の関係している。地球温暖化による永久氷土の融解、開発による熱帯雨林の消滅生、プラスチック海洋汚染等化学合成物質による態環境系の破壊等々、地球規模の環境破壊が進行しつつある21世紀の社会では、未知の病原体・ウイルスによる感染症の可能性が生まれる。つまり、COVID-19に類似する感染症災害が繰り返し起こり、また常態化する時代が来ると予測される。その時代を第三期と呼ぶことにした。

感染症災害を三つの段階(期間)に分けたのは、質的に異なるそれぞれの段階(期間)での対策が求められているからである。また、昨年以来、日本では、例えば、2020年3月2日から政府は全国の小中高校の臨時休校を要請した( )。その後、不十分な教育、格差等の問題が社会的に議論された時、4月9月入学が提案され、真面目に議論しようとしていた( )。当時の学校現場では、休校中の教育サポート、オンライン授業等の対策に追われていた。当時(現在でも)の優先事項である感染症災害から教育活動への被害を最小限食い止めるという課題ではなく、それとはまったく関係なくポストコロナの課題として9月入学が取り上げられた。この9月入学の議論は教育被害への対策に追われる文科省や学校教育の現場に混乱を持ち込む以外の何物でもなかった( )。また、第一波の感染拡大を受けて政府は、2020年4月7日に東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に、4月16日には、全国に緊急事態宣言を行った。それと同時(2020年4月7日)に、政府は「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」(事業規模108兆円)を決定し、16兆8057億円にのぼる2020年度補正予算案を閣議決定し、この内1兆6794億円がGoToキャンペーン(旅行・飲食・イベントなどの需要喚起事業)に充てられた。つまり、感染症対策を優先するのか、それとも経済対策が優先されるのか、この政策は新型コロナ対策に混乱を起こしたと言える。政策は状況判断によって決定される。そして、状況が変化することで政策も変化する。つまり、予防手段を失った感染症災害では感染拡大を防ぎ、被害を最小限に食い止めるための対策がまず優先されるべきである。そのために、三つの段階を設定した。それによって、それぞれの段階での対策の優先順位が決まることになる。


2-2、第一期 危機管理体制の中での感染症災害対策

第一期では、予防策のない新型感染症対策と感染症災害に付随して発生する社会文化的課題が問われる。この期間の課題は大きく二つある。一つ目のテーマは、感染症対策であり、この課題が最優先課題となる。二つ目のテーマは、感染症災害に付随する社会経済や文化の課題である。

まず、最初のテーマの課題は第一期、安全対策(ワクチンや治療薬)のない段階で最優先される感染症対策である。この第一課題は、大きく四つの対策によって構成される。一つは感染者の確認作業である。例えば、感染者の早期発見と隔離、感染者との濃厚接触者の調査と検査、感染力の強い陽性者(クラスター)の発見とその対策である( )。二つ目は、感染拡大を予防するために対策である。例えば、移動制限(不要不急の外出自粛)、三密状態の回避、検査隔離、三密状態を生み出す行動や移動の抑制(休業要請を含む)が挙げられる。三つ目はこれまでの医療資源を総動員し治療へ活用する作業である。例えば、COVID-19感染症に対して、米国のFDA(食品医薬品局)が5月1日に使用を許可し、日本でも5月7日に厚生労働省が特別承認されたレムデシビル(製品名・ベクルリー)が治療薬として活用されている。また、重症化する前には、抗ウイルス薬のレムデシビルもNIH(米国国立衛生研究所)のガイドラインで推奨されている。つまり、治療薬のない段階では、症状に応じた対処療法を行いながら、重篤化しない治療を継続する以外にない。四つ目は、感染者を素早く見つけ出し隔離るための検査と医療体制の確立である。検査隔離によって効率的に感染者を隔離し、その治療を行うことが出来る( )。 第二のテーマの課題は感染症災害によって引き起こされる社会経済や文化現象への対応に関する問題提起によって構成される。これらの現象は元々その社会に存在したもので、いわば潜在的社会文化構造である。感染症災害時という非常時にその構造が顕在化したものである。そのため、それらの課題は膨大で多岐多様にわたるものであるが、それらの課題を民主主義文化、非常事態対処、経済政策、複合災害対策の四つに分類することが出来る。

一つ目は、人権や民主主義文化の在り方をめぐる課題である。例えば人権に関する課題(感染者への差別、感染者のプライバシー保護)、社会的格差(教育格差、地域格差、ジェンダー格差等々)である。また、危機管理とは非常時体制の常態化によって行われる。そのため、国家による強権的な措置が必要となり、人権や民主主義が侵害されることが生じる。個人の自由や人権と公共の利益が相対立する状態が危機管理が優先される第一期の課題となる。

二つ目は、感染症災害への政治的課題である。例えば、民主的手段を前提とした非常事態対処(感染症災害情報の公開、非常事態関連法に関する情報公開、非常事態時の国会運営に関する国民からの評価制度等々)、第一期の感染症災害対策を実行するための法律の制定、感染症対策制度の改革等々である。また、自然災害の多いわが国では、感染症災害時に他の災害が起こる可能性が高い。複合災害への備えが問われる。感染症災害対策と他の災害対策が同時に成立するためには、事前に、色々なケースで生じる複合災害の状況を予測し、その対策を取らなければならない。 三つ目は、第一期での経済政策である。例えば、感染症拡大を防止するための研究・検査機関への予算措置、ワクチン開発への投資、感染症治療体制の確立のための予算措置、さらには休業要請を行いために経営負担を受けた事業者や失業者への資金支援、移動制限等の経済活動の低迷によって生じる経済弱者の救済等々が課題となる。四つ目は、社会福祉、教育、育児や文化活動に対する政策である。老人ホーム、障害者福祉施設は感染拡大防止のための危機管理的対策が優先する場合には、それらの社会的機能が軽視される場合がある。それを防ぐために、それらの施設での感染対策を支援しなければならない。また、教育現場(小学校から大学まで)では三密を防ぐ名目で休校措置が取られる。しかし、それが長期化することで、教育機能がマヒしてしまう。原則として如何なる場合でも、国は国民の教育を受ける権利を奪うことはできない。もし、その機会を非常事態の名の下に制御するのであれば、それによって生じた教育格差や教育機関のダメージを保障しなければならない。

四つ目は、感染症災害はその他の災害(大雨洪水、地震、津波等々)との複合災害の状況が生まれる可能性がある。感染防止のための行動が他の災害への避難対応等によって不可能となる。実際、2020年7月3日、4日にかけて熊本県南部地方を襲った集中豪雨による「2020年球磨川水害」では、多くの犠牲者が出た。住民は避難をしなければならなかった住民にはコロナ感染症への難しい対応が求められた( )。複合災害への対応は、急には出来ない。つまり、災害が発生してからその対策を検討するのでなく、常時、あらゆる災害対策の可能性を検討し、準備しておく政府機能を構築しておく必要がある( )。そのことによって、突然起る予測不能な災害、安全策を持たない災害に対しても、ある程度の初期対応が可能になる。日本建築学会や土木学会など58の学会が参加する「 防災学術連携体」や「新型コロナ感染症と災害避難研究会」によって感染症対策を踏まえた災害時の避難に関する検討がなされた( )。


2-3、第二期 感染症罹災からの復旧と復興、問われる民主主義文化

ワクチンや治療薬が開発され、それによる感染症災害対応が行われ、感染症の拡大が制御され、最終的には収束するまでの期間が第二期である。イスラエル、英国や米国等のワクチン接種が進み、集団免疫が確立しようとしている国が第二期を迎えようしている。ワクチン接種を進めることで、第一期から第二期への移行が始まる。しかし第二期を迎えていないわが国の状況では、第二期に関する調査分析の資料はないのであるが、アメリカでの事例を参考にしながら、仮にワクチンによる集団免疫が形成されたと仮定して、そこで課題に取り上げられる感染症災害対策について考える。この場合、感染症災害対策は感染拡大予防や医療崩壊防止の受け身の対策から第一期で受けた医療、社会経済文化等のインフラや資源の受けた被害の復旧活動つまり積極的な災害対策が取られる。

ワクチン接種が進み感染症を抑制することが可能になる第二期では、大きく五つのテーマが考えられる。一つ目は、第一期の医療、生活経済の被害に対する修復作業である。二つ目は、これからの感染症対策に関する防疫安全保障や国際協力を検討する作業である。その中で、ワクチン開発への国際協力、またワクチン格差を防ぎ、世界にワクチン接種を普及させる国際的ルール作りなどが挙げられる。三つ目は、感染症災害によって被害を受けたサプライチェーン等の復旧と再構築である。一国のみでなく国際社会の安全保障に関係する感染症災害から世界経済を守るために、経済安全保障と国際連携の再構築が問われる。さらに、四つ目の課題は、感染症災害予防対策、つまり安全対策の強化である。常に感染症災害に備えた活動が求められ、例えば災害防災省構想のように災害対策の常態化が課題となる。五つ目は、第一期で取られた有効な感染症災害対策としての緊急事態対処に関して民主主義国家の在り方が問われた。例えば、中国のように強い国家権力による国民の行動規制によって感染を効率よく食い止めることができた事例から、災害に強い国家の在り方が課題となり、感染症災害に対して民主主義国家は脆弱であるという問題提起がなされる。つまり、21世紀社会の未来では、民主主義文化が存続することが出来るかという深刻な課題が問われている。

三つ目に挙げた感染症災害によって被害を受けたサプライチェーン等の復旧と再構築に関する課題であるが、パンデミックを引き起こした原因として経済や文化活動の国際化がある。世界規模の人とモノの世界規模の流れはもう止めることができない。経済活動の国際化は、市場原理に基づく消費拠点や生産供給拠点(サプライチェーン)の国際化によって成立している。そこで、人や物の移動制限を必要とした感染症対策が国際化した経済システムを直撃し、海外のサプライチェーンに依存する国内経済は大きな打撃を受けた。そこで、第二期では、まず第一期で受けた国内経済のダメージを回復しなければならない。これまで通り、経済成長を基調とする経済政策によって経済復旧や復興が行われる。その一つに、これまでのサプライチェーンの復旧である。さらにもう一つは、これまでのサプライチェーンの在り方を見直し、経済安全保障の視点を取り入れ、海外の一カ所に集中しているサプライチェーンを多くの国に拡散させ、リスク分散型サプライチェーン体制や国内サプライチェーンの構築が検討される。

また、二つ目に挙げた課題であるが、経済文化の国際化した世界では、一国による解決は不可能で、その解決も国際社会との共存を前提にして行われることになる。そのため、国際的な感染症対策が求められる。世界のすべての国へワクチンが普及しない限り、感染症災害を抑えることは出来ない。今回のCOVID-19パンデミックは国際的な防疫安全保障体制の必要性を問いかけた。そのため、国際協力を前提とした健康安全保障体制が課題になるだろう。

そして、四つ目に挙げた民主主義国家の在り方に関する課題について最後に述べる。感染症災害対策の抱える政治的課題として、民主的手段を前提とした非常事態対処の必要性が述べられた。民主国家では、国民の協力なしには非常事態対処による感染防止策は出来ない。そのためには、国は感染症災害対策に関する情報を公開し、国民の意見が反映される対策を行う必要がある。国民総動員で感染症災害に立ち向かう制度を作り、人的資源や社会資源をそこに総動員して敏速なそして徹底した感染症災害対策が実現する。そのためには、市民参画型の災害対策の制度が求められる。


2-4、第三期 持続可能な人類共存社会の課題

第三期とはCOVID-19パンデミック災害が終息したポストコロナの時代のことを意味する。第二期の課題を延長展開することによって第三期の課題が決定される。つまり、その課題は大きく分けて五つある。一つは、第二期で取り上げられた国際的な防疫安全保障体制の確立に関する課題の発展的展開である。二つ目は、市民参画型の災害対策の制度の確立と展開である。三つ目は感染症災害の基本原因である地球規模の環境破壊を食い止める国際的活動の展開と世界的な制度の形成である。四つ目は、上記の課題を解決するために我々の生活様式や経済活動を根本から変革しなければならない。現在の新自由主義に基づく資本主義経済を続けることは出来ない。つまり、新しい資本主義経済、例えば公益資本主義等、新しい経済活動や生活文化の形成が求められている。五つ目は、これらの変革を進めるためにはこれまでか巨大科学技術文明を牽引してきた思想、科学主義を超える科学技術哲学が求められている。以上、第三期の五つ課題が提起された。同時に、これらの課題は、21世紀社会の課題であるエネルギー問題、食料問題、経済・教育・健康格差問題、人びとの生存権、持続可能な民主主義文化等々の課題と関連している。つまり、第三期の感染症災害対策では、これまでの経済、社会、生活文化の価値観が根本から問われることを前提にして展開されることになる。


3、わが国の第一期感染症第外対策に関する点検

COVID-19のパンデミックは現在進行中であり、要約ワクチン接種がはじまった日本の感染症災害の段階は上記した第一期である。当然、感染症災害は終焉していないため、この感染症災害の全体的な分析は不可能であが、国民へのワクチン接種によって第一期の最後に来ていることは疑えない。その意味で、第一期に関しては資料を集めることが可能である。ここでは、データに基づく実証的研究方法から、第一期の日本政府、日本社会のCOVID-19大流行(パンデミック)に関する政策の調査と検証を試みる。

3-1、中国武漢市での非定型性肺炎患者が発生から法令交付・施行まで経過とその検証

日本の感染対策初期対応に関して、論文「COVID-19初期対応の検証」( )やアジア・パシフィク・イニシアティブ(API)『新型コロナ対応 民間臨時調査会:調査・検証報告書』( )や論文「新型コロナウイルス感染症への対応:問題点と課題」( )とその他多くの資料に基づき時系列にしてそれらの経過を簡単に述べる

A、中国武漢市での非定型性肺炎患者が発生から法令交付・施行まで経過

☆2019年12月はじめ(12日から29日まで)に中国湖北省武漢市で非定型性肺炎患者が発生( )( )

  • ☆2019年12月31日、武漢市行政当局は武漢での肺炎について「ヒトからヒトへの伝播の重大な証拠は認められておらず、医療従事者の感染も報告されていない」という公式発表。
  • ☆2020年1月5日、厚生労働省検疫所(FORTH)は「Disease outbreak news」で発信:WHO中国事務所に中国湖北省武漢市で検出された病因不明の肺炎患者の事例が通知され、ヒトからヒトへの伝播の重大な証拠は認められておらず、医療従事者の感染もないと報告された。
  • ☆2020年1月10日、論文で発表されたウイルス遺伝子の全塩基配列が、復旦大学(ふくたんだいがく)とシドニー大学の研究者によって国際的な遺伝子データバンクに登録される。
  • ☆2020年1月14日、武漢市当局は「ヒトからヒトへの感染の可能性は排除できない」とし、WHOも「家族間などの限定的だがヒトからヒトに感染する可能性がある」ことを認めていた。
  • ☆2020年1月15日、国内における新型コロナウイルス感染患者1例目を確認
  •  
  • ☆2020年1月16日、厚労省は新型コロナウイルスに関連した肺炎患者の発生についての報告の中で、「WHOや国立感染症研究所のリスク評価によると、現地店では(略)家族間などの限定的なヒトからヒトへの感染の可能性が否定できない事例が報告されているものの、持続的なヒトからヒトへの感染の明らかな証拠はありません」と発言。
  • ☆2020年1月17日、『新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバーとなる専門家の一人が朝日新聞』の取材に答え、感染症はヒトからヒトへの感染があったとしても限定的で、インフルエンザやはしか(麻疹)などに比べて感染の確率はとても低いので、現地(武漢)で市場に行ったり、野生動物に触ったり、患者に接触したりした人は特に注意が必要だが、インフルエンザと同じような対策をとればよいと発言。
  • ☆2020年1月21日 新型コロナウイルスに関連した感染症対策に関する関連閣僚会議の第1回会合を開催。
  • ☆2020年1月23日電子版で論文(中国研究者による解析結果を1月5日にプレプリント論文としてbioRxivに記載したもの)が公表され、その後、Nature に掲載。
  • ☆2020年1月22日から23日、WHOが緊急会議を開催し対応を協議。PHEIC(国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態)宣言を見送る。
  • ☆2020年1月23日 中国・武漢市は市外への感染症の拡大を防止するために空港や鉄道などの運行を停止、都市封鎖に踏み切る( )。
  • ☆2020年1月26日、安倍首相が武漢市滞在者の希望者全員の帰国に向け取り組みむと表明。
  • ☆2020年1月26日、茂木外相が中国の王毅(オウ・ギ)国務委員兼外交部長と新型コロナウイルス感染症への対応等について電話会議。
  •  
  • ☆2020年1月28日、新型コロナウイルス感染症を感染症法第6条第8項の「指定感染症(病原体では二類相当)に指定する法令および検疫法第2条第3号の「検疫感染症」に指定する政令が閣議決定。2020年2月1日に施行( )
  • ☆2020年1月28日、厚労省、厚労相を本部長とする新型コロナウイルスとその感染症への対策に関する厚労省対策推進本部を設置
  • ☆202年1月29日、武漢からの帰国用チャーター便第1便が日本に帰国(2月17日までに計5便)
  • ☆2020年1月29日 The New England Journal of Medicine に、未知のコロナウイルスが分離されたことが発表される。中国疾病対策予防センターがウイルス遺伝子を解析し、全塩基配列を決定したというのだ。SARSコロナウイルスともMERSコロナウイルスとも異なる新型コロナウイルスを2019-nCoV(SARS-CoV2と現在改名)と名づけた。
  • ☆2020年1月30日、WHOがPHEIC(国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態)を宣言し、新型コロナウイルス感染症対策本部の第1回会合を開催。


この期間で課題

1、中国武漢市での非定型性肺炎患者が発生

2、武漢市行政当局の誤った情報とその修正

3、中国研究者の論文発表による病原体ウイルスの解明と症例報告による新型コロナウイルス感染症の臨床的データの公開、論文で発表されたウイルス遺伝子の全塩基配列が、復旦大学(ふくたんだいがく)とシドニー大学の研究者によって国際的な遺伝子データバンクに登録

4、厚労省とその機関に所属する専門家は新型コロナウイルスに関連した肺炎患者の情報を正確に把握していたかという疑問。

5、新型コロナウイルス感染症対策を感染症法の規定する「指定感染症(二類相当))に指定、さらに、検疫法の「検疫感染症」に指定した。この対応は正しかったかという疑問。


B、何故、中国発情報の検証が出来ないのか

中国武漢市で流行拡大する非定型性肺炎に対してヒトからヒトへの伝播の重大な証拠は認められないという武漢市行政当局の発言はあったものの、一方で、2019年12月から中国の研究者からは様々な情報が発信された。そして、2020年1月初めには、ウイルス性状の解明、診断方法の開発、治療約の検索、ワクチン開発などの研究・開発に必要なウイルス遺伝子の全塩基配列の情報も出されていた。世界各地ではそれらの情報を基に感染症体対策の急展開が準備されていた。しかし、日本では、中国の情報の検証、そのリスク評価が十分に行われなかった。そのため、感染症の専門家が「インフルエンザと同じような対策をとればよい」とマスコミに報道していた。ここで問題になるのは、感染病に関する情報収取力、それらの情報に関するリスク評価力、また中国やWHOの政治的な動きに対する解釈・評価力、そして敏速な感染症対策能力である。

日本に比べ台湾と韓国はすばやい対応をした。例えば、「台湾は中国の公式発表のあった2019年12月31日には公式に対策を開始し、1週間後には必要な準備を整えていた。韓国では初めの感染者が発生した1月20日からわずか1週間で、検査キットの開発と生産をメーカーに発注し、その2週間後には1日あたり10万キットの生産に成功していた。」( ) 

中国がSARS対応への国際的な批判を受けた時、中国政府は感染症対策に関してWHOをはじめとする世界各国、特に米国との間に緊密な協力体制を構築した。そして、「H5N1型など高病原性強毒型鳥インフルエンザに由来する新型インフルエンザや、SARSの再来を含む新興・再興感染症の発生が危惧される事態が続いて、パンデミックへの危機が高まる中で、中国はその中心として大きな国際貢献を果たした。」( ) 中国の感染症対策能力向上をサポートした米国CDC(Centers for Disease Control and Prevention、アメリカ疾病予防管理センター)は、膨大な予算と人材を中国に投入し、支援・指導を行い、中国の感染症流行対策能力を向上させていた( )。 例えば「北京に置かれたCDCの支所には延べ200名を超える専門家が派遣され、400名以上の中国側スタッフを教育・訓練するとともに、中国各地の研究所への技術指導や感染動向の監視、情報収集・評価・共有に従事していた。」( )

日本はWHO/CDC計画に参画し、中国、東南アジア諸国等、パンデミックへの準備・対策計画の構築と国際協力体制の構築に尽力してきた。その分、日本にも中国の情報が入っ来た。しかし、トランプ政権になって米中関係が後退し、遂に2019年7月、CDC北京支所は閉鎖。その結果として、米国は、武漢の肺炎に関する初期情報を把握できなかった。それどころか、現地に調査団も派遣出来なかった( )。結果的に、日本もCDCから中国武漢市の非定型性肺炎流行の正確な情報が入手できないため、中国からの情報の検証やその正しいリスク評価の前提がなかったといえる。


C、危機管理意識の欠如と根拠なき楽観主義の原因

2000年になって、三つの感染症災害、パンデミックがあった。一つは中国南部の広東省を起源として発生したSARS(重症急性呼吸器症候群: severe acute respiratory syndrome))である。2002年11月16日の中国で感染が確認され、32の地域と 国にわたり8,000人を超える症例が報告された。 台湾の症例を最後に、2003年7月5日にWHOによって終息宣言が出された( )。幸いにも日本では流行はしなかった。二つ目は重症呼吸器感染症を引き起こすMERS(中東呼吸器症候群)である( )。MERSは2012年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦など中東地域で広く発生している。韓国で大流行したが、日本には入ってこなかった。三つ目は2009年のH1N1型新型インフルエンザ( )のパンデミックである。この「ウイルスの病原性は比較的低く、また、以前、季節性インフルエンザとして流行していた同じH1N1亜型のウイルスと抗原性が類似していた。そのため多くの人が交差性の免疫記憶を獲得していた結果、小児や弱年齢層を除き、感染患者の健康被害は小さくて済んだ。」( ) とは言え、「日本国内でも発生後1年で約2千万人が罹患し入院患者や約1.8万人だったが、死亡者数は203人・死亡率は0.16に止まった(2010年9月末時点)。これは欧米やメキシコなどに比べて1/3~1/26の低さである。」( )

つまり、2009年のH1N1型新型インフルエンザはかなりの国内感染があり、203名の犠牲者を出したががそれは感染流行をした他の国々に比べれば少ないものであった。つまりこれまで日本は感染症災害で大きな被害を受けたことがなかった。そのため、感染症災害、パンデミックに関して危機意識がないと言える。このことが、今回のCOVID-19感染症に対する対応に現れたと指摘する科学者もいる。災害の多い日本で、災害に関して危機意識がないと言うことは不思議である。地震や台風のような災害に対する政府の取り組みは世界でも一流である。しかし、感染症災害に関しては危機意識がないのは、感染症によって災害が起こるという意識がないと考えられる。

そればかりでなく、政府・厚労省やそれに関係する専門家の中には、新型コロナウイルス感染症に関する根拠なき楽観主義があった。例えば、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバーとなる専門家の一人が感染症はヒトからヒトへの感染があったとしても限定的で、インフルエンザやはしか(麻疹)などに比べて感染の確率はとても低いと社会に情報を発信したのはその一つの事例である。多くの専門家が調査もせず、中国の情報をそのまま鵜呑みにし、そして、過去の手痛い経験を忘れ、根拠のない楽観的な考えを持っていたのではないかと思われる。この根拠なき楽観視の背景や構造を調査・分析する必要がある。


3-2、感染危機管理の法的体系と特措法改正

A、感染拡大、非常事態宣言と新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正適用

  • ☆2020年2月1日、新型コロナウイルス感染症(二類相当)を指定感染症に指定することで、14日以内に湖北省の滞在歴がある外国人又は湖北省発行の中国旅券を持つ外国人に対して、入管法に基づき入国拒否の措置を開始。
  • ☆2020年2月3日、横浜・大黒ふ頭沖に停泊するダイヤモンド・プリンセス号に対し、臨船検疫(検疫区域に停泊している船舶へ検疫官が乗船し行う検疫)を実施( )。
  • ☆2020年2月11日、病名を「COVID-19」と命名( )
  • ☆2020年2月13日、国内初の新型コロナウイルス感染症による死亡者。
  • ☆2020年2月13日、政府対策本部で「新型コロナウイルス感染症に関する緊急対応」を決定。
  • ☆2020年2月14日、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議( )を設置、16日に第1回会合を開催。
  • ☆2020年2月24日、専門家会議が「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の具体化に向けた見解」を発表、「これから1-2週間が急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際」との見解を示す。
  • ☆2020年2月25日、政府対策推進本部で「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」を決定。
  • ☆2020年2月25日、厚労省対策本部事務局に「クラスター対策班」を設置。
  • ☆2020年2月27日、政府、3月2日から小中高校等の臨時休校を要請。
  • ☆2020年2月28日、北海道知事が緊急事態宣言。道民に週末の外出自粛を要請。
  • ☆2020年3月5日、習近平中国国家主席の国賓訪日延期を発表。
  • ☆2020年3月6日、検疫の強化(中国・韓国からの入国者に14日間の待機要請、査証の制限等)を閣議了解。3月9日より施行。
  • ☆2020年3月9日、専門家会議が「新型コロナウイルス感染症の見解」を発表。「3密」回避を呼びかける。
  • ☆2020年3月10日、政府対策本部で、「緊急対応第2弾」を決定
  • ☆2020年3月10日、新型インフルエンザ等対策特別措置法( )の一部を改正する法律案を閣議決定。
  • ☆2020年3月11日、WHOがパンデミック宣言。
  • ☆2020年3月13日、新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律が成立。翌14日に施行。
  • ☆2020年3月26日、新型コロナ感染症を指定感染所として定める政令等の一部を改正する政令が閣議決定、交付。翌27日に施行。
  • ☆2020年3月26日、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づき、新型コロナウイルス感染症対策本部を設置。
  • ☆2020年3月27日、新型インフルエンザ等対策有識者会議基本対処方針等諮問委員会(第1回)
  • ☆2020年3月28日、政府対策本部で「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」を決定。
  • ☆2020年4月1日、入国拒否対象地域として、アジア、大洋州、北米、欧州、など48ヵ国を追加・検疫の強化。
  • ☆2020年4月7日、政府は感染が拡大している7都府県を対象に緊急事態宣言を5月6日まで発出。
  • ☆2020年4月16日、緊急事態宣言の対象を全47都道府県に拡大。東京都など13都道府県は「特別警戒都道府県」に指名。
  • ☆2020年5月7日、厚生労働省 レムデシビルを特例承認
  • ☆2020年5月25日、緊急事態宣言を全国で解除。安倍首相は会見で「日本モデルの力を示した」と発言
  • ☆2020年6月24日、西村コロナ担当相、専門家会議の廃止を発表
  • ☆2020年7月6日、新型コロナウイルス感染症対策分科会(第1回)


この期間で課題

1、新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正と活用の背景

2、多様な対策会議の存在

3、ダイヤモンド・プリンセス号での防疫・感染者救済処置の検証

4、この間の主な感染症対策(水際対策、三密、マスク、行動自粛)「日本モデル」の検証


B、対策機能の厚労省業務から官邸中心への移行

「感染危機管理の法的体系では感染症危機管理4法(①感染症、②検疫法、③新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)、④予防接種法)に加えて、出入国管理及び難民認定法(入管法)や、国際保健規則(IHR、International Health Regulations)も重要な機能を果たしている。」( ) 新型コロナウイルス感染症への感染危機管理対策での法的対処について調査・検証する必要がある。 

初動段階では、政府は1月28日に新型コロナウイルス感染症を「感染症法」に基づく「指定感染症(二類相当))に指定し、また検疫法の「検疫感染症」に指定した。しかし、検疫法の第2条第3号で規定されている「検疫感染症」は、隔離・停留の対象にされていなかった。当時、感染者が増加していた湖北省や浙江省から入国拒否の法的措置が必要があった。感染症(二類相当)を指定感染症に指定するで、入管法に基づき入国拒否の措置が可能になった。また、2月3日に横浜・大黒ふ頭に感染者が乗船しているダイヤモンド・プリンセス号が入港しようとしていた。感染の疑われる乗客や乗員を船内に保留させておく必要があった。そこで、新型コロナウイルス感染症を改めて「検疫法第34条に基づく感染症」に指定し直し( )、2月13日公布、翌14日に施行することで、乗客や乗員を船内に隔離・停留が可能になった。( )

しかし、初動段階では政府は新型コロナウイルス感染症を「新感染症」と認知し新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)( )を適用しようとはしなかった。その理由は、「(中国なのの遺伝子解析で)新型コロナウイルスだと分かっているので、同法の“新感染症”ではない」( )ということであった。「このおような判断・解釈には厚労省の主張が反映していた。とりわけ、保健所行政を含めた多くの医官・技官の理解・認識では、新型コロナウイルス感染症は、インフルエンザとも新感染症ともみなされなかった」( )。新型コロナウイルス感染症が「感染症法」の対象である場合、その対処・管轄は厚労省で行われる。もし、新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)に適用されれば首相がそれを行うことになる。

この間、感染拡大は止まらなかった。感染抑止のためのより強い対応や措置が求められていた。そこで、新規の立法措置は時間的・組織的な余裕がないため、新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)を活用・改正することで緊急事態に対応できる法的手段を確立することを官邸(安倍首相)は2020年3月10日に閣議決断した。( )

感染対策の司令塔を厚労省から官邸へ移行しなければならない理由は明確である。危機管理対策で緊急に取り組まなけならないCOVID-19に対して行うべき総合的政策は厚生労働省の機能を超えた課題である。感染症の範囲にCOVID-19対策を限定していては到底求められる緊急事態対処に応じることはできなかった。このことが感染拡大第1波で明確となり、取り分け、感染が広がりつつある北海道や首都圏からの要請に答えなければならなかった。そのため、初動段階で新型インフルエンザ等特別措置法(特措法)の適用を行うべきだった。仮に、2012年に制定された特措法が今回の感染症対策に対して不十分・不適当な条文等があるなら、適用のなかで改正することもできた。

何故なら、「特措法は、SARS、鳥インフルエンザ、2009年のH1N1パンデミックの反省にもとづき、2012年に成立した法律である。それまで日本にはパンデミックの際に国全体の社会的危機に対処する法律がなかった。感染症危機管理には、厚労省中心の保健衛生問題への対応のみでは限界がある。首相が責任者となり、政府全体、自治体、関係機関・事業体から民間組織、国民全体が一丸となって、国民の健康と安全、社会活動、経済活動の危機を乗り切るための、国家危機管理の基本的な法律である。」( )

また、「政府行動計画が特措法にもとづいて策定され、関係各署でも担当業務に関する「行動計画」がすでに作成されている。想定される最悪のしなりをにも対応できるように、普段から必要な事前準備、発生時における緊急対応、さらには終息後の回復について、具体的な行動計画を示し、いつでも即応できるように準備態勢を確立・維持・改定することが規定されている。想定される様々なシナリオに応じて事前準備と緊急対応の選択肢が示されているため、実際の事態の推移から、最適な選択肢を選べばよいようになっている」( )のである。

問題は、すでにある感染災害対策のための立法資源・特措法を活用することを躊躇った政府・厚労省の意図が何であったかを当時の資料を基にして調査し、また分析しなければならない。


C、日本モデルの評価・検証

C1、国民の自主的な外出・移動の自粛要請

政府は2020年4月16日に全ての都道府県への緊急事態宣言を約1か月10日後の5月25日に解除した。4月15日(宣言発出前日)の感染確認者数は544人であったが、5月24日(宣言解除前日)は40名であった。感染拡大を食い止めることが出来たとし、安倍首相は会見で「日本モデルの力を示した」と発言した。日本の、国民の自主的な外出・移動の自粛、ソーシャルディスタンス等3密回避行動、マスク着用を主な感染拡大抑制策は海外からも驚きと高い評価を得た。個人主義と自由主義を精神文化とする欧米人にとっては強制力(国権による)がなくても、人びとが自らの行動を抑制する日本の精神文化を驚きの眼差しでみていた。これが「日本モデル」として国内外で語られた感染対策成功事例であった。しかし、国民の自主的協力に依存して行われる感染拡大抑制策は第1波の感染拡大期ではある程度有効に働き、日本モデルと賞賛されるかもしれないが、第2波、第3波と繰り返し生活行動や経済活動の自粛要請を受け、生活に支障を来し、経済活動が阻害されるなら、国民の賛同を得ることはないだろう。( )

アジア・パシフィク・イニシアティブ(API)『新型コロナ対応 民間臨時調査会:調査・検証報告書』第4部 総括と提言:「日本モデル」は成功したか:学ぶこと学ぶ責任」 (pp412-432), で 2020年10月以前、第2波感染拡大が終焉する時期までので日本モデルに関する評価がなされている。当然のことであるが感染症対策の学者・研究者を中心とする「専門家チーム」は感染抑止政策を優先させる。初動から影響力をもって感染症対策に携わってきた専門家チームの影響は大きく、例えば、西浦博(当時北海道大学大学院教授)が人と人との接触機会を減らす対策を全く採らない場合、約42万人が死亡する可能性があるとの試算を発表した。その試算モデルや前提条件等をめぐり激しい議論が起こった。日々の経済活動の抑制を迫ると評価された専門家チームへの反発が生まれた。元々、専門家チームは政府に対する助言チームであり、政府の政策をサポートする集団である。専門家が「科学的見地に立って助言することと政策が必ずしも一致することはない。もし、専門家の助言に反する政策決定を行う場合には、政府はそれに対する説明責任を果たすべきである。社会的使命感に駆られ、科学的見地のみに立って提言する専門家の貢献を無視してはならない。また、政府は経済優先の立場から彼らを批判する国民の一部の人々からも彼らの科学者としての立場を守るべきである。しかし、2020年6月24日、西村コロナ担当相、専門家会議の廃止を発表した。同時に、専門家チームの中でも、今後、政府への忖度を前提にして提言することを宣言する集団とそうでない集団とが分かれたように思えた。そして、政府は、感染症対策専門家だけでなく経済政策を含める多様な専門家を集め、新型コロナウイルス感染症対策分科会を立ち上げ、2020年7月6日にその第1回目の会合を開いた。


C2、自治体の多様な感染症対策と国の感染危機管理政策

感染症対策の基調を感染法による指定感染症対策とするか新型インフルエンザ等特別措置法(特措法)とするかで、対策は根本的に変わる。

特措法は、SARS、鳥インフルエンザ、2009年のH1N1パンデミックの反省にもとづき、2012年に成立した。つまり、特措法はパンデミックの国家的危機に対処するための法律である。感染症危機管理は、医療、公衆衛生、防疫等々の国民の健康を守る行政機関である厚労省の常時のシステムのみの対応には限界がある。何故なら、感染危機管理は厳しい状況では交通遮断や地域社会や町のロックダウンまで視野に入れなければならない。さらに学校等の休校措置、営業活動の禁止等々、経済活動や生活文化活動への犠牲を強いる場合もある。その時、被害を受けた国民への補償も課題となる。国全体が取り組み始めて感染危機管理は可能になる。従って、それを前提にして成立施行している新型インフルエンザ等特別措置法では、国(首相)が責任者となり、政府全体、自治体、関係機関・事業体から民間組織、国民全体が一丸となって取り組むための国家危機管理の基本法である。( )

新型コロナウイルス感染症を新感染症」とすることでCOVID-19感染拡大への対応は特措法で行うことができた。しかし、政府は特措法を適用せず、感染法にもとづいて指定感染症(2類相当)に2020年1月28日に指定した。COVID-19が指定感染症(2類相当)のため、感染症の診断・治療に関わる医師はその情報を保健所に届け出る義務、感染症の発生・動向・原因の調査、入院、移送、健康診断に関する規定、罹患者の就労制限が課さられることになる。医療費は国がもつためも感染者(罹患者)の負担はない。また、これらの業務のほとんどが、保健所の仕事となる。言い換えると、感染が拡大すれば、地方自治体の保健所業務の負担の増大が問題となる。実際、第1波の感染拡大から保健所業務は逼迫し、第2波では破綻している所も発生していた。

他方で、地方自治体が多様な新型コロナウイルス感染症対策を取ることが出来た。例えば、2020年2月17日、加藤厚労相が「風邪の症状や37.5℃以上の発熱が4日以上続く場合は帰国者・接触者センターに相談するように」と国はPCR検査を制限した。しかし、「2月中旬にクラスターが見つかった和歌山県においては、知事の判断で保健所の積極的疫学検査の対象」となた。徹底したPCR検査を実施し、3週間後には「安全宣言」を出した( )。 それ以外にも、北海道の鈴木直光知事の2月28日の法的根拠を無視した「緊急事態宣言」。大阪府の吉村洋文知事の数値で示す感染状態判断基準等々、感染対策が持ち出されて来た。その現場での細かい対応を評価する半面、地方自治体間の対応の違いによる不要の混乱や軋轢はさけなればならない( )と指摘されている。

また、有事の緊急事態には政府・自治体などが一丸となった緊急性が求められるため、新型インフルエンザ等特別措置法による対応が、業務が厚労省管轄内にとどめおかれかつその業務が地方自治体の保健所に集中する感染症法(定感染症)による対策より、現実的であるという見解もある。今後、COVID-19が指定感染症として感染症法で管理された経過、また、その後、新型インフルエンザ等特別措置法への適用をめぐり課題になった経過を調査し、検証する必要がある。

COVID-19を感染症法で取り上げるのか、もしくは新型インフルエンザ等特別措置法で取り上げるのかに関して、原田博夫はCOVID-19が「指定感染症第二類」に指定されたことによる4つのメリット(1,強制隔離(強制入院)2、入院費が公費負担 3、届け出が義務となることで正確な全数把握が可能 4、濃厚接触者の把握が容易、5、医療従事者の感染リスクが減る(対応を感染症指定医療機関に限定することで、医療従事者の感染リスクが下がる)とCOVID-19が「指定感染症第二類」に指定されたことによる三つのデメリット(1、感染者が増えると感染症指定医療機関に負担がかかる 2、感染症指定医療機関以外の病院で警戒が緩むことで感染リスクが高くなる 3、軽症患者の自由な行動が制限される)( )を挙げて、それらを評価している。


3-3、第一期対策の基本から観るわが国の対処の評価と点検

A、感染拡大によるクラスター対策の限界

2020年2月段階から今日まで、日本での感染対策の基本は国民の自主的行動自粛とクラスター対策である。医療機関で感染者を確認したら、保健所へ届けなければならない。保健所は感染者の聞き取り調査を行い、行動経路や接触者(濃厚接触者)を知らば、それらの人々のPCR検査を行う。その時、感染小集団の発生(クラスター)を見つける場合もある。その場合、クラスター感染者は他の誰に伝播したかを追跡する調査(前向き調査)と、逆に、そのクラスターに誰が別のクラスターから感染を持ちこんだかをさかのぼって調査する(後ろ向き調査)がある。この線状に広げて感染者を調査する手法には大人数の調査員(保健所職員)が必要となる。また、感染は面上に広がり、特定地域で不特定多数の人々が感染経路不明のまま見つかる場合、この調査は難しくなる。


B、無症状感染者と不顕性感染者の存在

今回のCOVID-19の感染症の特徴として、無症状感染者や不顕性感染者が存在することである。このようなケースはSARSでは見られなかった。また、SARSの潜伏期の患者はウイルスを排出せず、発症後5日から感染源となる。そのため、発症者の確認がより安易に出来、またその隔離・接触回避も出来る。そのため、SARSでは短期間に感染の封じ込めができたし、その結果、パンデミックの危機は回避されたとも評価されている。

しかし、COVID-19では2020年1月下旬の中国の臨床報告からも、無症状に終始する感染者が多数存在することが伝えられている。しかも、これらの不顕性感染者もウイルスを排出し感染源となっていることが報告されている。また、症状発症者でも発症の約3日前(症状がない)から他人への感染力をもつこともわかってきた。このことは感染防止や制御が極めて困難であることが報告されている。つまり、症状を示す感染患者を指標としてクラスターとその濃厚接触者を追跡するクラスター対策では、不顕性感染や潜伏期の患者との濃厚接触者への検査が出来ない。その分、ウイルスを封じ込めるのは不可能となる。


C、増えないPCR検査 

「日本の新型コロナ対策の最大の敗因はPCR検査を制限したことになる。ウイルスを排出している不顕性感染者や潜伏期の患者が存在する以上、検査なしには、誰が感染しており感染源となり得るかはは不明である。積極的な検査体制を構築し、検査を繰り返して感染者を見つけ出しては接触を断ち、保護して有効を抑止して行く政策が必要不可欠であったはずだ。」( )

PCR検査の感度と特異度が100%でないので、検査を増やすと為陽性者が増え、医療崩壊がおこることがPCR検査を積極的に増やさない理由であると労働省の作成した内部秘密文書の補足資料で述べられている。また、検体採取やPCR検査を行う人員の不足、行政検査の限界等々が挙げられている( )。

また、専門家会議副座長尾身茂博士(当時)は2020年5月4日の会見で、PCR検査が拡充されなかった理由について以下の3点を挙げた。

1,地方衛生研究所は行政検査が主体であり、新しい病原体について大量の検査を行なう体制は整備されていない。

2、SARSやMERSなどは国内で多数の患者の発生などはかく、日本でPCR検査能力の拡充を求める議論は起こらなかった。このような状況下で今回の新型コロナウイルスが発生し、重症例などの診断のために検査を優先せざる得なかった。

3、PCR検査の民間活用や保険適用などの取り組みを講じたがすぐには拡充は進まなかった。

検査・隔離は公衆衛生学の基本概念である。この公衆衛生の原則・常識を否定することは出来ない。しかし、他方で、徹底したPCR検査を不要と考える医師もいることは事実である。とは言え、国民全体の医療や公衆衛生に責任をもつ政府が、何故、PCR検査を抑制するのか、その理由を明らかにしなければならない。


D、病原体の遺伝子、感染媒体、感染症の病理的特徴に関する情報

未知の病原体である以上、その病原体の微生物学的分類や解明、遺伝子解析とその解明、また感染媒体や感染経路の疫学的特徴、さらに感染症の病理的特徴に関する情報が必要となる。COVID-19感染症の場合、中国の医学論文がそれらの情報提供に大きく貢献した。COVID-19の遺伝子構造、症例、特に無症状の感染者の存在、年齢層による死亡率の違い、特に持病者や高齢者の高死亡率、肺炎の特徴等々、多くの情報が提供された。最初にCOVID-19感染症と闘った中国の医療従事者、科学者の努力に感謝しなければならない。彼らの治療、調査、研究の努力によって、ワクチンや治療薬の開発への基本的な知識や情報が提供され、検査キットの開発、検体方法、感染対策、防疫方法、臨床判断、治療方法等、初期の感染症対策が可能になった。今後、未知の感染症が発生する可能性は高い。そのために、基礎医学、分子生物学、分子遺伝学、生物工学、感染症臨床学等々の学問分野を発展させなければならない。それを可能にするのは大学や研究機関である。それらの研究教育に関する社会資源を充実させる必要がある。


E、ワクチン・治療薬の開発 

第一期の危機管理の中で、ワクチンと治療薬の開発は最重要課題である。この最も優先される課題を、まず、第一期、つまり感染症の病原体の解明が分かり次第、始める必要がある。今回のCOVID-19でも、ワクチン開発をした国々では、初めからワクチン開発に巨額の投資をしえいる。例えば、COVID-19感染症に関するワクチン開発は、5月27日時点で、世界全体で125件の開発案件が報告されている。その中の10件がすでに人に直接投与する臨床試験まで進んでいると言われている。また、治療薬に関しては既存の治療薬で新型コロナウイスに援用可能なものを見つけ出すのが最も経済的である。しかし、同時に新薬の開発を進める必要がある。すでに、武田薬品工業は米CSLベーリングなど10社と提携協力しながら抗SARS-CoV-2高度免疫グロブリン製剤の開発が進み、2020年の夏には成人患者を対象としたグローバル試験を始める予定である。その他、米国の国際的な製薬会社であるイーライリリー・アンド・カンパニーによるSARS-CoV-2に対する抗体医薬「LY-CoV555」、米メルクによる抗ウイルス薬「EIDD-2801」、米ビル・バイオテクノロジーによる抗ウイルス抗体(VIR-7831とVIR-7832)等々、新薬の開発は進んでいる。 


F、検査キッドと検査体制の確立 

同じように急がれるのが、検査キットの開発と生産である。COVID-19の遺伝子情報が記載された中国の科学論文から、COVID-19の検査キットの開発は他の国でも可能になった。また、中国の医学論文からCOVID-19感染症の特徴が世界へと伝わった。それにより、他の国々で、逸早い疫学的対策が検討された。そして、COVID-19に対する検査キットは現在大量生産されている。また、コロナウイルスに限らず、RNAウイルスは変異を繰り返す。そのため、それらを検査するには、まず、病原体の遺伝子解明が必要である。そして、それを検査する試薬が開発され、検査キットの材料が出来る。これらの検査キットを感染症拡大する前に、大量生産しなればならない。こうした課題を解決する条件として、それぞれの国の技術力や生産力が問われる。その意味で、常時の体制から健康安全保障の課題として、生物工学や分子生物学などの研究インフラの充実が求められる。


G、予測される危機的状況に対する公衆衛生・医療体制の確立

この段階では、公衆衛生や医療体制が崩壊しないための対策が急務である。そのために、現存する体制、組織、制度、資源の状態を精査しその限界を評価委分析し、予測される危機的状況に対する課題を明確にしておかなければならない。そして、改善対策をいち早く行うために必要なすべての対策、政策に至急取り掛からなければならない。例えば、今回、医療現場では、医療従事者が感染から身を守る最低限の防御、医療用マスク、感染防御服等々の不足が問題となった。それらの状況を解決できない状態で医療や福祉等の現場では混乱、集団感染の発生、それらの病院機能の停止という最悪の事態が起こっていた。特に、医療機関で集団発生が頻繁に起こっている日本の事例に関して詳細に調査しなければならない。そして、人工呼吸器等の重症患者の治療機器が全く不足したイタリアや米国、ニューヨーク州での医療崩壊の原因に関する調査も今後課題となる。その一方で、例えばベトナム、台湾や韓国等、医療崩壊が起こらない課題に成功した国々もあった。失敗した国々や成功した国々の第一期の公衆衛生や医療体制に関する対策を比較検討することで、第一期の最重要課題、公衆衛生や医療体制の危機管理にかんする課題をさらに分析することができるだろう。


まとめ、 最後に、これからの課題とは何か

今回の報告の第3章では、不十分ではあるが新型コロナウイルス感染症対策を中心とした課題に関して述べた。それらは、感染症災害としてのコロナ禍のごく一部の課題に過ぎない。そしえ、その課題の中のごく一部の私が短い時間の中で調べたものだけである。現実の第一期でのコロナ禍に関する事実は巨大に存在している。

また、第一期で生じたコロナ禍とは感染症被害のみでなく、その感染症被害とそれに対する政府や自治体、もしくは社会集団の対策の中で、新たに生み出された人権侵害、差別、経済格差、福祉、育児、教育、社会文化活動への打撃であった。これらの被害もコロナ禍の一部である。これらの課題こそが政治社会学会のテーマとなるだろう。

何故なら、パンデミックが引き起こす社会文化現象はすでにそれぞれの国や社会が所有している現実である。これらの現実は顕在化しないまでも潜在化した状態で社会の深層を構成している。従って、2020年2月から現在まで、日本でのCOVID-19パンデミック災害に於いて引き起こされた社会文化現象を、ある意味で貴重な社会学的資料として位置づけることが出来る。それらの社会文化現象はわが国の社会文化構造から生じたものであり、その社会文化の構造を分析するためには極めて貴重な資料であると言える。

これらの現象を調査することで、「現在の日本の社会」という実験装置で「COVID-19感染症」という「試薬」を使い、その化学反応(社会文化反応)を観察していると解釈できる。そのための装置とは文理融合型の研究方法であり、また、それを前提にした協働もしくは協同の研究活動である。高度な専門的知性を社会文化インフラとする21世紀の科学技術文明社会では、研究の在り方も変わらなければならないだろう。だが、どう変わるべきか、私たち政治社会学会は創設以来そのことを問いかけ、また、研究会の在り方を変革して来た。

こうした学会の努力や試みこそが、第1章「21世紀型災害としてのCOVID-19パンデミック災害」の中で取り上げた危機管理能力の土台を創るのである。学会が発展するためには、その学会の理念と多くの人々が参画できる学会運営を検討し、試み(実験し)、そしてそこから得られる貴重なデータ(成功・ポジティブ/失敗・ネガティブ)の分析と点検が必要とされるだろう。

知的コミュニケーションとしての、社会参加型活動としての、問題解決型行動としての研究活動のスタイルと方法が文理融合・総合的政策学を課題とする政治社会学会の活動の基本となるだろう。


文献資料

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  28. 平成二十四年法律第三十一号 新型インフルエンザ等対策特別措置法 https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=424AC0000000031
  29. 「和歌山の新型コロナ封じ込め対策 ポイントは「早期」と「徹底」」産経新聞 THE SANKEI NEWS 2020/3/7 https://www.sankei.com/article/20200307-MUJJZNXOT5IA5LU67NU73THB44/
  30. 三石博行 「パンデミック災害の構造とその対策 - 21世紀型災害・パンでミンクと総合的政策学の課題- 」ブログ「生活運動から思想運動へ」2021年5月16日   https://mitsuishi.blogspot.com/2021/05/blog-post.html
  31. 三石博行 「パンデミック対策にむけて -ハイブリッド型災害としてのパンデミックとその対策-」2020年5月4日 https://mitsuishi.blogspot.com/2020/05/blog-post.html
  32. 三石博行 「日本社会は、COVID-19感染対策として正しい判断を行っているだろか 1、何が9月入学なのだろうか? 」2020年5月4日 ブログ「生活運動から思想運動へ」 https://mitsuishi.blogspot.com/2020/05/covid-191.html
  33. 三石博行「COVID-19感染防止に対して、日本政府は正常な科学的判断力を持っているだろか。(4) 」「公衆衛生学の基本、隔離の概念 」2020年5月4日、ブログ「生活運動から思想運動へ」 https://mitsuishi.blogspot.com/2020/05/covid-194.html
  34. 三石博行「COVID-19パンデミックへの三つの「隔離」対処とその経済的効果とは」2021年5月8日、ブログ「生活運動から思想運動へ」https://mitsuishi.blogspot.com/2021/05/covid-19.html
  35. 三石博行「東日本大震災から復旧・復興、災害に強い社会建設を目指して」 in ブログ生活運動男から思想運動へ https://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
  36. 三石博行「生活情報論関連論文集」http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
  37. 三石博行 「パンデミック対策の三期間区分」 in 「パンデミック災害の構造とその対策 - 21世紀型災害・パンでミンクと総合的政策学の課題- 」 ブログ「生活運動から思想運動へ」 2021年5月16日 https://mitsuishi.blogspot.com/2021/05/blog-post.html
  38. 三石博行 「予防策のない新型感染症対策期間:第一期」 ブログ「生活運動から思想運動へ」 2020年7月6日 https://mitsuishi.blogspot.com/2020/07/d.html






2021年5月16日日曜日

パンデミック災害の構造とその対策 (1)

-  21世紀型災害・パンでミンクと総合的政策学の課題 -

三石博行


目次

はじめに

1、災害の三つの形態:自然災害、人工災害とハイブリッド型災害

1-1、災害の概念とその分類
1-2,自然災害:科学技術による対策
1-3、人工災害:文明社会の形成と共に巨大化する災害
1-4、ハイブリッド型災害(自然・人工災害):求められる総合的政策学的課題

2、災害としてのCOVID-19パンデミック

2-1、病気と感染症災害
2-2、ハイブリッド型災害としてのパンデミック
2-3、感染症災害の総合政策的課題

3、パンデミックに対する災害対策

3-1、災害社会学における災害防止策 安全管理と危機管理
3-2災害社会学的視点からの感染症災害 パンデミック
3-3、パンデミック対策の三期間区分

まとめ



はじめに

この報告(2021年5月16日、政治社会学会・ASPOS covid-19プロジェクト研究会)ではワクチンや治療薬のない感染症災害を災害社会学の視点で分析する。一般に自然災害では安全管理(安全対策)が災害発生の前に準備される。しかし、COVID-19の場合には、その安全対策が存在しなかった。そこに今回のCOVID-19感染症災害の特徴がある。そこで、事前の安全管理がない状態で生じる災害、つまり危機管理対策を災害発生の初めから取らなければならない災害に対する対応が問題となる。今回のCOVID-19感染症災害では、その課題が明確に指摘され、またこの感染症を災害として位置づけ、その特徴を明確に示す作業が十分に議論されていなかった。そのため、対策は混乱を続けた。例えば、PCR検査に関する議論、9月入学提案、GoToキャンペーン等々。これらの政策提案の混乱を回避するためには、安全対策のない状態で始まる災害の特徴を分析し、それらの罹災状況を三つのステージに分類し、それぞれの段階に適合した対策を検討する。

しかしながら、COVID-19パンデミック災害は現在進行中であり、その実証的な研究が可能な対象は限定されている。安全管理のない状況での感染症災害に付随する資料(データ)はある。現在(2021年4月)、この段階での分析が可能になる。勿論、この段階での分析結果に基づき上記した仮説を検証しなければならない。この検証を述べるには不十分である。従って、それは次回の課題に回すことにする。

また、パンデミックが引き起こす社会文化現象はすでにそれぞれの国や社会が所有している現実である。これらの現実は顕在化しないまでも潜在化した状態で社会の深層を構成している。従って、2020年2月から現在まで、日本でのCOVID-19パンデミック災害に於いて引き起こされた社会文化現象を、ある意味で貴重な社会学的資料として位置づけることが出来る。それらの社会文化現象はわが国の社会文化構造から生じたものであり、その社会文化の構造を分析するためには極めて貴重な資料であると言える。

これらの現象を調査することで、例えるならば、「COVID-19感染症」という「試薬」と「現在の日本の社会」という実験装置を使い、それによって生じている社会文化反応を観察していると解釈できる。その意味で、今回の報告では、安全対策のない状態でのパンデミック災害が引き起こした社会文化的反応に関する課題を列挙する。


1、災害の三つの形態:自然災害、人工災害とハイブリッド型災害

災害とは「人の生命及びその財産への被害」であり「社会生活資源の損失」ある。その要因は自然現象や人の行為や社会経済活動、または国家の政治的行為などの人工的な要因もある。また、「人の生命及びその財産への被害」つまり「社会生活資源の損失」である災害は社会生活資源の豊富な状態ほどその被害は大きくなる。例えば、無人島の西ノ島で火山爆発が起こっても被害は生じない。その意味でここでの火山噴火は災害とは言わない。人や社会の活動のある場所で火山活動が起こると必然的に被害が生じ、それを災害と呼ぶ。現代社会の災害の姿を理解するために、災害の概念を定義する必要がある。

1-1、災害の概念とその分類

ここでは災害を上記したように「人の生命及びその財産への被害」つまり「社会生活資源の損失」であると定義している。この定義に従えば、事故も災害の中に含まれる。被害の大小にかかわらず、何らかの原因で「社会生活資源を失うこと」が災害という概念に括られる。日常的な用語の中では、災害はその災害要因からを自然災害(天災)に限定されて使われている。人為的な原因で起こる被害を事故と呼んでいる。しかし、火事は事故であるが、それが大火事になると火災と呼ぶ。事故と災害は、被害の程度によって使い分けられている。

とは言え、人命や社会生活に被害が生じる事態は災害だけでなく事故でも生じる。その意味で災害と事故は災いとして同じ意味を持つ。また、他方では、例えば「自然現象に起因する自然災害(天災)」と「人為的な原因による交通事故」のように、災害と事故が異なる意味をもって表現されている事例もある。つまり、事故の原因は人為的要素に重点が置かれている。事故は人の力でそれを防ぐことが可能な災いであると解釈できる。しかし、災害は人の努力の及ばない力によって起こる災いであると解釈される。

しかしながら、事故と災害の使い分けは必ずしも明確ではない。例えば、労働災害は、その被害の程度に関係なく災害として語られる。もし、安全対策を怠った企業の過失があったとしても事故ではなく災害(労働災害と言う)に部類される。また、公害も企業の環境保全対策に不備があったとしても企業の過失による事故ではなく災害(公害・公の資源/生態生活環境への災いとして理解される。また、「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」とそれによる津波によって起こった東京電力福島第一原子力発電所事故とそれによって起こった広域の放射能汚染は原子力発電所の事故によって引き起こされた放射能汚染災害である。このように、災害と事故の用語は現在までもそれらの意味を峻別して使われていない。

このように、日常言語では事故と災害の概念に明確な区別はない。そこで、ここでは、「人の生命及びその財産への被害」つまり「社会生活資源の損失」を災害と定義し、事故も災い、つまり災害の概念の概念の中に括ることにする考えた。そのことによって、「社会生活資源の損失」としての災害の構造とその対策を総合的に議論することが可能になる。

1-2,自然災害:科学技術による対策

自然現象によって引き起こされる自然災害(天災)と呼ばれている。例えば、地球の自然環境とは、地球の大気、海洋の運動、気象現象や地球のマントルや地殻、そしてプレート等の運動、火山活動、地球を取り巻く太陽系の運動、さらには太陽系や太陽系外の小惑星の運動等々によって地球環境が受けきたあらゆる自然現象を意味する。これらの自然現象の中に、自然災害と呼ばれる自然現象が含まれる。自然環境による人間社会への破壊的影響が自然災害である。

自然災害要因は主に3つある。一つは自然要因である。その自然要因も主に3つに分かれる。一つは地殻運動等、地球物理的現象である。例えば、火山活動、地震やそれに伴う津波等がある。もう一つは気象現象等、大気の熱循環によって引き起こされる現象である。三つ目は、生物の作用によって生じる災害、例えば、病原体、生物の異常発生や絶滅、生態系の異変等によって引き起こされる災害である。

人々が自然現象に支配され、その自然の成り行きをそのまま生産や社会文化活動に活用する前近代社会では、自然災害は絶対的な自然の姿の一つとして受け止められてきた。しかし、自然科学的知識が形成され、私たちが自然現象を支配する法則を理解し、それらの法則を活用するようになる時代、近代や現代では、自然現象としての自然災害も、その原因を科学的に理解することができた。自然災害の原因を解明することで、災害の根本原因を防ぐことはできないのだが、それによって被害を受ける建造物等の人工物の災害防止策を検討し改良することが出来た。

1-3、人工災害:文明社会の形成と共に巨大化する災害

人工的要素によって起こる災害・人工災害と呼ぶことにする。ここでは事故と呼ばれているここでは事故と呼ばれる小さな災いも災害の一部として考えた。

人工災害は人間活動の結果引き起こされる災害である。例えば、食料生産や消費活動に付随する食品被害、移動の手段の開発、発展してきた交通手段、自動車や道路等によって生じる交通事故や交通災害、生産活動、技術の開発や発展の中で生じる労働災害や職業病、住環境の改善、建築技術、生活環境の改善によって生じる火災等、劣悪な都市衛生環境等々が例に挙げられる。また、社会経済活動を支える巨大なエネルギー生産、電力産業によって引き起こされる環境破壊、原発事故、そして、国家防衛のための最新兵器開発や大量殺人兵器・原子爆弾等による被害、戦争災害も人工物による社会や人への被害、人工災害の一つであると言えるだろう。

この人工災害は一般に事故人工災害の要因は主に3つある。一つは人の行為による人為的災害、例えば放火による大火事(山火事等)、過失による交通事故、テロ行為による災害等である。二つ目は産業活動によって起こる災害である。例えば、水俣病等の公害、労働災害や職業病がその災害に該当する。三つ目は人々の生活経済活動によって引き起こされる災害、例えば、社会インフラの構造によって引き起こされる災害、酸性雨による森林等の生態環境破壊、マイクロプラスチック海洋汚染、地球温暖化による異常気象災害等々。四つ目は国家の集団の政治的目的によって引き起こされる災害、例えば、戦争や内戦等である。

また、人工災害は、生産活動の巨大化によってその規模を拡大してきた。18世紀から19世紀に掛けて欧米社会でおこった産業革命、20世紀の重化学工業化、巨大工業地帯や巨大都市の形成によって、自然生態系の破壊、大気汚染、ヒートアイランド現象等々、環境汚染が深刻化した。また、人工物による環境汚染(公害)は、工業化の進む発展途上国でも現在深刻な問題となっている。

1-4、ハイブリッド型災害(自然・人工災害):求められる総合的政策学的課題

しかし、現実の災害は、自然要因と人工要因が同時に含まれている。例えば洪水や土砂崩れ等の災害でも単に大雨が降ったという気象現象によるだけでなく、住宅が濁流や土砂崩れの起こりやすい所に建っていることが原因となっている。土砂災害が起こる可能性のある危険な場所に住宅建設の許可を出していることがその災害の原因となっている。その意味で、この災害は大雨という自然災害要因と住宅建設許可という人工災害要因の二つを含むといえる。

自然要因と人工要因の両方を持つ現代社会の多くの災害では、その被害は生活資源の蓄積状態に比例して変化することになる。勿論、災害を防ぐための技術や制度も進歩するので、単純に生活資源の蓄積に比例して被害の程度が増大する訳ではない。しかし、古代、中世より近代や現代の社会の方が、生活環境が受ける被害の可能性は高くなる。

現代の災害の殆どが自然・人工災害、つまりハイブリッド型である。例えば、大雨が洪水という災害を引き起こすが、同時に、荒れ果てた人工林の森から伐採し放置された木材が増水した河川を流れ出て、下流域の人家を破壊する洪水と廃棄木材によるハイブリッド型の水害が起こっている。

その他のハイブリッド型の災害の事例として、人々の生活や産業活動によって排出される化学物質、例えばフッ素化合物によるオゾン層の破壊、また地球温暖化ガス(二酸化炭素やメタンガス)による地球温暖化、そしてその温暖化による異常気象、巨大台風や大雨、異常乾燥とそれによる森林火災、また海面上昇による高波や田畑の海面への沈没被害等々が報告されている。

ハイブリッド型災害に関して、以下、多様な災害形態、総合型災害学の視点、国際協力による解決の三つの課題が挙げられる。

1、ハイブリッド型災害は、21世紀社会、科学技術文明社会化、情報社会化、国際経済化、巨大都市化の形成と共に、広範で多様な形態を取りながら発生し続ける。人類がこれまでに経験したことのない未来社会の災害のパターンである。しかも、世界では多様な産業化、工業社会化があるため、この種の災害もそれぞれの国によって異なる特徴を持つ。それらの共通する形態や多様な形態を同時に理解する必要がある。

2、これまでの甚大な災害は自然災害(大雨、洪水、地震、火山活動、台風等々)であると考えられた。従って、災害学のテーマは自然災害の研究が中心であった。しかし、この後、全世界に被害を与える地球温暖化等ハイブリッド型災害が課題となる。その対策は災害原因である自然的要素や人工的要素の分析やそれに対する文理融合型の対策が求められる。つまり、この災害科学は総合型災害学を必要としている。

3、ハイブリッド型の災害、例えば地球温暖化やパンデミックの特徴は被害の範囲が国を超え、世界の至る所で起こることである。ある特定の地域で発生した温暖化ガスは簡単に国境を越え世界に広がる。また、病原体も社会経済の国際化による人々の国際的な移動によっての世界に広がる。そのため、この災害の解決方法は国際協調によって行わなければならない。一国内で温暖化ガスを削減したとしても地球温暖化を防ぐことは出来ない。同様に、一国内で感染病の流行を抑えたとしても、国際化社会では感染は他の国々から常時侵入し続ける。自然災害では災害国内で対策が取られていたが、ハイブリッド型災害、パンデミックでは一国内での災害対策は通用しなくなる。国際協働機関と歩調を合わせながら、国際協力の基にした一国の災害対策が求められる。パイブリッド型災害の解決方法として、国際機関(WHO等)の形成と改善、感染症の調査研究、ワクチン、治療薬開発の世界的連携が求められる。


2、災害としてのCOVID-19パンデミック 

2-1、病気と感染症災害

新型コロナウイルス感染症は、その予防策(ワクチンと治療薬)がない疾病であり、また感染力も強い。こうした感染症は爆発的な流行(パンデミック)を引き起こす。その意味で、この感染症は感染症災害の要因となる。しかし、そのことが理解されない場合、COVID-19を流行り「風邪」と同じであると理解される。確かに、COVID-19は「風邪」と同じような症状引き起こす。また、その病原体が同じコロナウイルスの場合もある。そのためCOVID-19は感染力の強い風邪と理解されるのかも知れない。しかし、風邪は主に発熱、のどの痛み、咳、鼻水等の軽い症状病で、それをこじらせない限り重篤化するケースが少ない。安静に休養すれば発症から2、3日で治癒する。それに対して、COVID-19は肺炎を始め多くの重篤な症状を引き起こす。COVID-19の感染症災害の要因となるのは、その病原菌がこれまで見つかっていない新種であること、そのためワクチンはない。また、その病状が重篤化しやすく、死亡率が高いこと、しかし治療薬はない。されにその感染力がかなり高く、大流行する可能性を持っていること等が挙げらる。

当然のことであるが、感染症を病気・疾患として位置づけることと、感染症災害要因として位置づけることでは、その対応に大きな違いが生じる。単に疾患であれば、これまで有効とされた対処療法や病気休養等で治療することが出来る。また、インフルエンザのようにワクチンが開発されているなら、事前にそれを接種しておけば、予防できる。疾患の場合、患者の個人的な治療で、その病を治すことが出来る。そのため、病の原因が、例えば睡眠不足、栄養不足、ストレス等の生活習慣があると解釈される場合が多い。例えば、風邪は個人が日々健康に配慮する生活をすることで予防できると思われている。それに対して、COVID-19は感染症災害を引き起こす病である。その対策は病気を治すための臨床学的方法、病気の流行防止のための疫学的、公衆衛生的方法や病原体の遺伝子解析、ワクチンや治療薬開発等々の分子遺伝学から薬理学までの幅広い課題となる。

感染症がパンデミック災害の要因となると位置づけられることによって、災害対策としての感染症対策が展開する。まず、感染症に対する細菌学的、分子遺伝子学的、病理学的解明が課題となり、次に、その感染症への疫学的、公衆衛生的対策が課題となる。そして、感染拡大を防ぐための人の移動制限、三密(密集、密閉、密接)防止、飲食業、イベント会場等への休業要請が行われる。また、検査隔離体制の強化、医療体制の充実、ワクチン開発等の対策も行われる。

感染症災害として位置づけられたCOVID-19パンデミックは災害社会学的課題として分析すれ、他の全ての「生活資源の破壊」をもたらす災害と共通するテーマとして展開される。その課題は、感染症災害独自のテーマのみでなく、医療、介護、育児、教育等の社会資源の機能不全、サプライチェーンの機能マヒ、企業活動の休業や企業倒産、移動制限による消費活動の低迷等、経済活動へ被害が及ぶことになる。また、社会経済活動の低迷は生活経済へ影響を与え、失業者、生活貧困者が増えることになる。COVID-19パンデミック)・感染症災害によって社会、生活、人的資源の破壊が起こるのである。感染症を災害としての認識することは、医療対策だけでなく、それに起因するすべての課題を災害対策として対応することを意味している。

2-2、ハイブリッド型災害としてのパンデミック

パンデミックをハイブリッド型災害としてを位置付けた。パンデミックは、巨大化する社会経済活動、それによる環境生態系の地球レベルの破壊、経済文化活動の国際化に伴う地球規模の人の日常的な移動が間接的・直接的な要因となって、起こると考えられる。その意味で、感染症災害は21世紀社会で常態化することが予想される。21世紀社会型災害としてパンデミックを位置づけ、その視点から、COVID-19への対策を立てる必要がある。まず、ハイブリッド型災害としてのCOVID-19パンデミックの構造、つまり、その自然的要素、社会経済的要素や文明的要素について述べる。

A, 病原菌による疾病(自然的要素)

疾病災害を引き起こす病原体は地球上に存在している生命の一つであり、生態環境系の中の一つの生物に過ぎない。その意味で、病原体による疾病は生命現象の一部であると解釈できる。また、疾病は生物の進化史と共にあり、人類の歴史と共にある。疾病は人が病原体によってその生命活動への危機的状態を作られ、もしくは破壊される個体にとっての一つの病理的現象に過ぎない。これらの個体の破壊を経験することによって個体は種を保存するために、病原体に対する対抗手段を見つけ出す。それを進化と呼ぶことができる。

つまり、自然・生物現象の一部である感染被害は、人がその被害を最小限に食い止める生物的反応を起こすことで、病原体(細菌、微生物やウイルス等)との生存競争や共存の手段を得ることになる。他方、病原体にとって、非感染者(人)を病死させることは、病原体の生存領域を失うことを意味する。病原体がその種を保存するためには、強い感染力と共に、弱い毒性を持たなければならない。感染、病気と治癒、もしくは病死を通じて、人と病原体と呼ばれる細菌やウイルスと人との生態系の環境や条件が成立し続ける。

さらに、人が病原体に対する抵抗力や抗体を持ち病気にならないことは、人がよりよい生存条件を獲得したことを意味する。逆に、そのことによって病原体は彼らの生存領域を失うことである。そこで、病原体も進化し、人の抗体を無効化させながら種を維持しようとするだろう。また、人が治療薬を開発し病気を治癒することは、病原体にとっては生存環境を失うことを意味する。そこで病原体は治療薬に対して抗体や無毒化する代謝経路を確立してその治療薬(化学物質)から身を守る。

人も細菌も生存競争と共存の関係を繰り返しながら、生命体の進化に関係し、生命活動の持続に寄与してきた。そして、今現在も、生命現象の一部として人と病原体(微生物)の生存競争や共存は終わることなく続いている。その意味で、生命現象の一部として疾病があり、疾病とは生命活動とよばれる自然現象であるともいえる。

B、疾病大流行の社会経済的被害(社会経済的要素)

パンデミックは人類が都市を建設した時代から存在している。そして、パンデミックは、古代社会より中世社会に多く発生し、また中世社会より近代社会や現代社会で、大型化していきた。パンデミックとは、病原菌による感染症であると同時に、都市化、人口増加、熱帯雨林の開発等々によって引き起こされている人工災害の側面を持つ。パンデミックの特徴を理解するために、その感染拡大の人工災害としての解明が求められる。例えば、以下の課題が挙げられる

1、感染拡大の要因としての社会経済的要素
2、感染拡大の要因としての生活文化的要素、生活文化習慣
3、感染拡大の要因としての生態文化的要素
4、感染拡大防止対策、政策、制度等の社会政治的要因

パンデミックの人工災害的要素を理解することで、病原体の特性、その感染経路や感染媒体等の疫学調査対象を社会や生活環境に広げることが出来る。

2-3、感染症災害の総合政策的課題

上記したようにパンデミックは、生物、医学的課題としてお疾病とその爆発的感染の背景となる社会文化的課題のハイブリッド型の災害であるため、その対策は、自然科学系の学問を土台とする感染症、疫学、医学的処置と同時に社会経済学的知識を基本とする公衆衛生、医療、社会、経済政策が求められる。さらに、パンデミックが都市化、人口増加、環境破壊等によって引き起こされているとすれば、その地球規模の文明論的課題も検討されなければならないだろう。

パンデミックへの対策は基本的には三つある。一つは公衆衛生、防疫や医療対策である。二つ目は、社会経済対策である。三つ目が地球温暖化対策と類似した文明論的対策、つまり持続可能な人類社会を構築するための対策である。これらの基本課題の中で、ここでは、ハイブリッド型の災害であるパンデミックへの公衆衛生や医療対策に関して述べる。

A、自然科学系の学問分野

まず、自然科学系の学問を土台にする対策を以下に列挙した。

1、病原菌の微生物学的理解、遺伝子解明
2、感染症学的理解、COVID-19感染につての科学的理解
3、疫学的理解、感染経路、感染媒体の調査、クラスター対策
4、免疫遺伝学的研究、ワクチン開発、PCR検査、抗体検査
5、臨床学的理解、感染症に関する臨床医学的調査、医療の確立

B、社会システム系の学問分野

それらの上記した対策は、それをサポートする公衆衛生や医療体制の課題に繋がる。つまり、敏速に疾病対策を行う公衆衛生や医療政策や、その政策を決定する立法、その政策を実行する行政機関の課題が問題となる。

1、感染症を治療するための医療体制の確立
2、感染拡大を防ぐための防疫、公衆衛生制度の確立
3、感染拡大を要因となる社会経済的要因の解明とその解決策

C、生態環境系及び文化人類学系の学問分野

さらに、ハイブリッド型の災害であるパンデミックへの生態文化・文明論的課題とその対策に関して述べる。

1、病原体の起源に関する調査研究とその対策
2、感染症の歴史に関する研究
3、感染経路や感染方法の生活文化的要素に関する調査研究
4、各国の感染防止対策やそれらの制度の調査、比較研究

以上、三つの異なる研究分野の課題や対策に関して述べた。

D、パンデミック災害対策の制度化(総合的政策学の課題)

それらの課題に関する調査や研究は異なる専門分野の人々によって担われることになる。そのため、以下に示す三つの課題、専門分野毎の調査研究チーム、首相をリーダとして、各省官僚、政治家と専門家チームの代表による俯瞰的立場に立った横断型の対策会議、さらに、上記二つの議事録や調査資料の情報公開による大学や民間研究機関でのパンデミックに関する持続的な研究活動の推進のための組織化(制度化)について述べる。

災害の多い日本では、個々の災害に対してその対策本部を臨時的に設置するのではなく、災害対策を常態化した制度を作る必要がある。すでに災害省や災害防災省の提案がなされているが、国はその実現のための道筋を示さなければならないし、また早急にその設置に取り組まなければならない。特に、ワクチンや治療薬等の安全策を持たない感染症災害の場合には、その対応は非常に急がれる。感染症が発覚してから、その拡大を防ぐための対策を検討するようでは、感染症の爆発的拡大(パンデミック)を防ぐことは出来ない。その意味で、災害省の設置、それに伴う法制度の整備を行うことが求められる。

感染症災害への対策はそれに関連する専門的知識を必要とする。それらの分野の専門家が参加し、科学的な見解を前提にして感染症災害への対策を議論しなければならない。感染症災害対策のための組織は、原則として日本学術会議がその組織運営を指導し、それらの専門分野に関連する学術団体が、災害の特徴や災害対策の課題に応じて参加しすることが望ましい。それぞれの学会から選ばれた専門家が委員となり委員会会を構築する。例えば、病原体の微生物や遺伝子学の研究チーム、防疫や感染対策研究チーム、感染症の治療チーム、検査、検査体制の研究チーム、感染予防や公衆衛生制度に関する研究チーム、経済的影響に関する調査研究チーム、海外の感染対策に関する調査研究チーム、社会や生活、文化環境への影響に関する調査研究チーム、教育や保育、女性の社会的活動への影響に関する調査研究チーム等々、課題別にそれに関する多様な視点を持つ専門家を幅広く集め研究チームを組織する。それらの異なる分野の専門家による現状の理解と問題解決の対策を提言してもらう。但し、この委員会は政府とは一定の距離を置く必要がある。何故なら、これまで政府主導の専門家会議は政府の意見を忖度してきた。例えば、原子力委員会の例を取るまでもなく、政府お抱えの専門家(御用学者)からは政府の方針に忖度しない、科学的根拠をもった災害対策を提言することが出来なかった。

とは言え、災害対策は科学的合理性と共に状況合理性も求められる。その意味で、災害対策は政治的判断が入ることは避けられない。政府は異なる専門家集団による「専門家会議」の意見を俯瞰的に理解し、現状にマッチした政策検討を行う必要がある。そのために、政府は「対策会議」を組織する必要がある。この会議は官邸、各省官僚、政治家と専門家チームの代表によって構成される。首相が対策会議の議長を務め政府として対応する。

さらに、これらの専門分野の委員会や対策会議の議事録や調査資料は保存され、情報公開されなければならない。何故なら、21世紀の世界では、パンデミック(ハイブリッド型災害)は常態化する可能性が大きく、これらの研究調査資料が大学や企業研究者の次のパンデミック対策の研究資料となり、近未来に必ず起こるパンデミックに対して強い社会文化を構築するための材料になるからである。つまり、21世紀型の災害対策では、国や国民のすべての資源を活用しすることが求められる。そのためには、上記した「災害防災省」、「専門家委員会」や「対策会議」の情報を公開し、国民に示す必要がある。非常事態政策の成功は国民の理解と国への信頼が必要である。それらの作業を非常事態時ではなく、日常時から「災害防災省」の行政活動の一貫として準備しておく必要がある。

21世紀社会で常態化するパンデミックに対して強い社会文化を構築しなければならない。そのために、多様な災害に関するそれぞれの特徴を理解しする必要がある。特に、21世紀型のハイブリッド型災害に関する研究や調査が必要である。そして、その対策は、総合的知識と俯瞰的視点が必要なる。分子遺伝学、感染症学、公衆衛生学、臨床学と医療経営学、医療政策学、災害社会学、災害行政学、社会経済政策等々、多岐にわたる専門分野の学際論的連携や協働(共同)研究が求められ、さらに、その成果の情報公開(科学の大衆化・科学ジャーナリズム)や災害対策に対する文明論的な検討が必要とされる。

3、パンデミックに対する災害対策

3-1、災害社会学における災害防止策 安全管理と危機管理

危機管理の概念は非常に広い意味で使われている。例えば、災害予防(防災)、安全管理、災害後の対策まで危機管理として語られる。一方、安全管理の概念も同様に広い意味で使われ、危機管理と安全管理の明確な概念的区別は存在していない。より合理的な災害対策を設計するために、危機管理と安全管理の概念を区別し、それぞれの役割を明らかにする。

A、安全管理

災害で引き起こることを想定し、被害を食い止めるための対策を安全管理という。例えば、地震に対する建物の耐震強度の強化や洪水に対する堤防の強化などはその体表的な例である。

すべての部門での安全管理の設置は、そのために費やす費用、つまり安全管理設置の設置費用と予測される被害総額との関係で決まる。例えば、人家のない所に、10メートルの津波防波堤の建設は行わない。

企業の安全対策を事例に取ると、安全管理の考え方が理解できる。例えば、A企業で労災事故が起こるとする。その事故でA企業が負担する補償費が200万円であるとして、その事故を防ぐために安全装置を設定する費用が年間1000万円必要になると仮定する。単純に考えて、年間5名の労災事故の補償費と安全装置の設置費は同額になる。A企業はその単純な計算に従うなら、4名から5名の労災事故が発生しても安全装置を設定しないことになる。何故なら、コスト的に労災補償費を支払っている方が安いからである。

社会資源に関するコスト計算が安全管理システムの設置や運営を決定している。災害によって生じる被害が甚大であればあるほど、強固な安全管理システムが設置される。また、その被害が僅かであると評価されるなら、安全管理に多くの費用を掛けることはない。

その意味で、一般に安全管理は社会生活資源の評価に左右されていると言える。人権の重んじられている社会では、人身事故への補償額が、そうでない社会にければて高くなる。そのため、人身事故が起こらないように安全管理の設置に費用を掛けるのである。

B、危機管理

危機管理とは安全管理のシステムが破壊された時の対策である。事故や災害の予防対策では発生した事態に対応し解決できない状態が生じる。その場合に取らなければならない緊急処置は大きく二つある。一つは罹災者の救済であり、もう一つは二次災害の防止である。例えば交通事故では、救急車を呼び負傷者を病院に運送し人命救済を行う。そして同時に交通事故が引き起こす二次災害(交通事故、車両火災、交通渋滞)を防止する。これが事故や災害が発生した後に取られる対策・危機管理である。つまり、事故・災害後の被災者救済と二次災害防止対策が危機管理に含まれる。

安全管理のシステムが破壊後に取られる対策、危機管理は常に構想されていなければならない。想定外の事故ということは、想定していない事故は起こらないという前提で成り立つ概念である。すべてのシステムに、事故や故障、機能不全の事態は起こりうると考えなければならない。その意味で、危機管理は「想定外の事態対応」ではなく、安全管理のレベルを超えた事態対応である。安全管理のシステムの延長上にない事故対応を取らなければならないのが危機管理である。

例えば、耐震強度を遥かに越える揺れによって建物が倒壊した場合、つまり安全管理の基準を超えて災害が生じた場合、まず、何よりも現状以上の被害の発生を食い止めることが課題となる。これが危機管理の目的である。さらに、二次災害の発生を防止するための手段が講じられる。例えば、堤防が決壊し、浸水予測領域を超えて街が浸水した場合、素早い住民の避難が必要となる。この緊急の住民避難策が危機管理の一つである。

危機管理は安全管理の延長線上に設定することが出来ない。危機管理として活用される社会文化資源はその社会文化構造の中で日常的に機能している場合が多い。つまり、豊かな社会文化資源の在る所は危機管理の機能を構築することがより可能であると言える。例えば、阪神淡路大震災の時、神戸市を始め震災被害地の行政機能は完全に破壊され、災害時の生活情報を罹災者に提供することが出来なかった。その時、生活情報を提供したのは、平和運動を行っていたピースボートや箕面市のボランティア運動の人々であった。危機管理体制は災害対策とは関係のない市民の社会文化活動やボランティア運動の中から生まれる。

C、安全管理と危機管理の相互連携

完璧な防災システムの構築は不可能である。防災システムの崩壊は、畑村洋一郎氏が「失敗」とは期待値に至らなかったと評価された値であり、すべての行為に確率的に付随する評価であると考えるように(5)、事故や災害防止のシステムの崩壊(機能不全)はすべてのそれらのシステムの機能上、確率的に発生する事象であると考えなければならない。

言い換えると安全管理の故障や崩壊はすべての安全管理システムに組み込まれている確率的な発生事象である。予防対策を講じる場合に、同時に必要な対策としてその予防対策の前提条件を超えて生じる事故や災害の発生への対応策、つまり事故や災害の発生後の対策である。この対策を危機管理と呼んでいる。危機管理は災害や防災システムの崩壊によって生じる罹災者(負傷者)の救援や二次災害への対応策である。

例えば、洪水や津波による堤防や防波堤の決壊(防災システムの崩壊と機能不全)つまり災害による被害者救済と、浸水や洪水によって引き起こされる二次災害の防止、例えば、今回の東日本大震災で経験したように、火災、原発事故、周辺社会インフラ機能麻痺・運輸機能不全、電力や燃料不足の発生等々、避難所での疾病発生、衛生環境問題、救援物資不足等々が挙げられる。

あるシステムの安全管理の崩壊によって、そのシステムでの危機管理が起動する。その危機管理の機能は、そのシステム内で発生した被害者(負傷者)の救済や犠牲者の処理等、被害への対応策とそのシステムの崩壊によって生じるそのシステム内の別の災害発生やそのシステムの外に波及して誘発される他の災害への予防策、つまり二次災害防止対策の二つの課題を抱える。

二次災害対策はシステムが所有する社会資源の中で、本来、その目的とは別に、緊急に被害の拡大を防ぐことが可能であると判断されたものを活用(援用)することで可能になる。社会資本の質と量によって、二次災害対策は決定される。言い換えると、危機管理では、緊急で最終的な課題(人命保護)とさらに被害を大きくしないための二次災害対策(臨時的な安全管理)の二つがある。

安全管理を超えて起こる災害に対する危機管理の課題では、それ以上の被害を防ぐことが課題になる。このことは、安全管理を超えて起こる二次災害の防止が危機管理の対策課題となる。つまり、二次災害防止への対策(臨時的な安全管理)は、予測される二次災害への緊急な安全管理を意味している。このように、危機管理を考える場合、危機管理の基本目的・罹災者の救済対策と二次災害防止対策(緊急な安全管理)の二つの課題が起こる。それらの意味を峻別し、かつ状況に合った、つまり優先事項の高い対策が何かを適格に判断することが、危機管理における重要なテーマとなる。

図1 多重階層的な罹災者救済対策と災害防止対策からなる危機管理の多重構成
----------------------------------------------------------------------------------------------
事故→ 罹災者救済
    二次災害防止→ 事故→ 二次災害罹災者救済
   (危機管理)           三次災害防止 → 事故→ 三次災害罹災者救済
                   (二次危機管理)      四次災害防止  → 
                                (三次危機管理)
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三石博行 「危機管理と安全管理の独自性と連関性 現代社会での危機管理(1)」
2011年3月19日 https://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html


3-2災害社会学的視点からの感染症災害 パンデミック 

一般に、感染病の中にはワクチンや治療薬等の予防や治療方等(安全管理)がある場合と、それがない場合の二つケースが考えられる。毎年流行するインフルエンザは前者に分類され、COVID-19感染症は後者に分類される。その二つの感染症流行に関して災害社会学の視点に立って分析する。

A、安全管理可能な感染症

インフルエンザは、ワクチン・予防対策がある感染症の代表的な事例である。毎年、インフルエンザが流行しているが、同時にワクチンも開発されている。2018年のインフルエンザによる日本での死者数は3325人、アメリカでは1万人弱と報告さている。しかし、1918年にスペインかぜ(H1N1)のように、インフルエンザウイルスへのワクチンがない時代にはインフルエンザは感染症災害となる。因みに、スペイン風邪(インフルエンザ)は1918年から1920年にわたって世界で流行し、ヨーロッパで1700万人から5000万人が犠牲になったと言われている。つまり、インフルエンザが感染症災害となるか、もしくは制御可能な流行病となるかは、病原体(ウイルス)に対するワクチンが開発されているかによって決まる。つまり、ワクチンは感染症流行を食い止めるための安全対策でる。この安全対策(ワクチン)がない状態では、感染症災害が起こる。

B、安全管理不可能な感染症の流行 疾病災害

一方、COVID-19感染症は、その感染症が発見された時、感染症に罹らないためのワクチン、罹ったとしても症状を重篤化させないための治療方法や病気を治すための治療薬が全くなかった。感染症を予防し治療する手段がない状況で、感染症が流行することによって多くの犠牲者が発生する。その上、感染力の強い場合には、感染は爆発的に広がり、感染症災害を引き起こす。つまり、感染症災害は、常に未知の病原体によって起こされる。COVID-19を引き起こしたウイルスは新型コロナウイルス(SARSコロナウイルス2型・SARS-CoV-2)と呼ばれ、これまでの風邪ウイルスと異なるタイプのコロナウイス(RNAウイルス)である。

未知の病原体による感染症への対応は、まず、その病原体に感染しているかを調べる検査方法を開発しなければならない。そして、陽性者(感染確認者)に対する疫学的な処置、隔離を行分ければならない。病原体の感染力や病状によって隔離の方法も検討される。また、その感染症に対する治療薬はない状態では、病状が悪化しないために対処療法がおこなわれる。検査隔離や対処療法を行っても、この感染症を完全に封じ込めることは出来ないし、また、感染した患者を医療的に治癒することは出来ない。対処療法を続けながら、患者の自己回復力で感染症を克服する方法が取られる。

とは言え、ワクチンや治療薬(安全対策)がない状態で感染が広がることで感染症災害が発生することをくい止めるなければならない。そのため、大学、国立・公立の研究所、公衆衛生機関や医療現場では、未知の病原体の解明、例えば遺伝学的解明と検査方法の開発、感染経路や感染拡大の原因の解明とその予防策の指示、感染者の臨床事例に基づく医学的調査等々と治療方法に関する研究が急がれる。こうした努力が、感染症災害を食い止めることは出来ないにしろ、その被害を小さく抑えることが可能になる。

ワクチンや治療薬がない限り、少なくとも新型の感染症への抜本的な対策は不可のである。これが安全対策のない状態での災害の姿である。そして、感染拡大を抑えることが出来ないことで、感染患者数が多発し、それが医療機関への過大な負担を招き、医療崩壊の原因となる。医療崩壊によって、さらに多数の犠牲者が生まれる。最悪の状況のスパイラルが生じ、感染症災害は社会生活資源を破壊し続けることになる。感染症災害はワクチンや治療薬等の感染拡大を防ぎ疾患を治癒する安全対策がないことによって生じるのである。

つまり、COVID-19パンデミック・感染症災害への対策は危機管理から始まるのである。その点が、これまでの災害、例えば地震等の自然災害と全く異なる災害対策を求められる。その意味で、災害社会学の研究成果を活用し、感染症災害に対する現実的で有効な対処方を提案できる。

3-3、パンデミック対策の三期間区分

昨年2月から今まで、色々な新型コロナ対策が取られ、また対策案が出された。しかし、それらの対策や対策案が、必ずしも、その時点での優先事項に該当しない場合があった。例えば、昨年、一回目の非常事態宣言と全国の小中学校の休校措置が取られたあと、教育現場の混乱に対して、「9月入学」を提案し議論する人々がいた。これらの人々は、同時の教育現場からの課題に触れず、緊急性のない課題「9月入学」を提案したのである。また、CoToトラベル・イートキャンペーンは感染症を抑えた後で取るべき経済活性化政策であったのだが、感染症が収まらない状態で行われた。結果的には感染拡大の原因になり、また感染防止に予算を優先的に配分すべきであるはずが、GoToキャンペーンに非常に多額の予算を費やした。

災害時には、こうした政策の混乱や間違った提案は常に起こる。その場合、それぞれの政策が災害時のどの段階で必要となるのかを判断する基準が必要となる。その基準に即して政策提案を整理し、最も状況合理性を充たす政策を実行する必要がある。そのために、安全管理がない状態・危機管理 感染症災害の段階をそれらの提案や議論が現状の課題としての優先順位を判断しなければならない。その判断の基準として、三つの段階を設定した

まず、この三つの段階を決めるために、安全管理がない段階と安全管理が形成された段階とを分けた。安全管理のない段階を第一期とした。そして、安全管理が形成された段階を第二期とした。さらに、感染症災害は21世紀社会で頻繁に起こるハイブリッド型災害であると考え、COVID-19パンデミックが終わった後に、次の新しい感染症災害が起こるまでの期間を第三期と想定した。この第三期を持ち込むことで、COVID-19パンデミック対策で得た多くの経験や社会制度改革、さらには新しい科学技術が、次の新しい感染症対策の第一期で活用され、その時の危機管理対策により豊かな資源を提供してくれると考えた。

A、第一期 安全対策のない期間

第一期では、予防策のない新型感染症対策と感染症災害に付随して発生する社会文化的課題が問われる。この期間の課題は大きく二つある。一つは、感染症対策であり、この課題が最優先課題となる。二つ目は、感染症災害に付随する社会経済や文化の課題である。

まず、一つ目の最優先課題は、安全対策(ワクチンや治療薬)のない段階での感染症対策である。この課題は、大きく四つの対策によって構成される。一つは感染者の確認作業である。例えば、感染者の早期発見と隔離、感染者との濃厚接触者の調査と検査、感染力の強い陽性者(クラスター)の発見とその対策である。二つ目は、感染拡大を予防するために対策である。例えば、移動制限(不要不急の外出自粛)、三密状態の回避、検査隔離、三密状態を生み出す社会経済活動の抑制(休業要請)が挙げられる。三つ目はこれまでの医療資源を総動員し治療へ活用する作業である。例えば、COVID-19感染症に対して、米国のFDA(食品医薬品局)が5月1日に使用を許可し、日本でも5月7日に厚生労働省が特別承認されたレムデシビル(製品名・ベクルリー)が治療薬として活用されている。また、重症化する前には、抗ウイルス薬のレムデシビルもNIH(米国国立衛生研究所)のガイドラインで推奨されている。つまり、治療薬のない段階では、症状に応じた対処療法を行いながら、重篤化しない治療を継続する以外にない。四つ目は、感染者を素早く見つけ出し隔離るための検査体制と医療体制の確立である。検査隔離によって効率的に感染者を隔離し、その治療を行うことが出来る。

二つ目の課題は感染症災害によって引き起こされる社会経済や文化現象への対応に関する問題提起によって構成される。これらの現象は元々その社会に存在したもので、いわば潜在的社会文化構造である。感染症災害時という非常時にその構造が顕在化したものである。そのため、それらの課題は膨大で多岐多様にわたるものであるが、それらの課題を大きく五つに分類することが出来る。

一つは、人権や民主主義文化の在り方をめぐる課題である。例えば人権に関する課題(感染者への差別、感染者のプライバシー保護)、社会的格差(教育格差、地域格差、ジェンダー格差等々)である。また、危機管理とは非常時体制の常態化によって行われる。そのため、国家による強権的な措置が必要となり、人権や民主主義が侵害されることが生じる。個人の自由や人権と公共の利益が相対立する状態が危機管理が優先される第一期の課題となる。

二つ目は、感染症災害への政治的課題である。例えば、民主的手段を前提とした非常事態対処(感染症災害情報の公開、非常事態関連法に関する情報公開、非常事態時の国会運営に関する国民からの評価制度等々)、第一期の感染症災害対策を実行するための法律の制定、感染症対策制度の改革等々である。また、自然災害の多いわが国では、感染症災害時に他の災害が起こる可能性が高い。複合災害への備えが問われる。感染症災害対策と他の災害対策が同時に成立するためには、事前に、色々なケースで生じる複合災害の状況を予測し、その対策を取らなければならない。

三つ目は、第一期での経済政策である。例えば、感染症拡大を防止するための研究・検査機関への予算措置、ワクチン開発への投資、感染症治療体制の確立のための予算措置、さらには休業要請を行いために経営負担を受けた事業者や失業者への資金支援、移動制限等の経済活動の低迷によって生じる経済弱者の救済等々が課題となる。

四つ目は、社会福祉、教育、育児や文化活動に対する政策である。老人ホーム、障害者福祉施設は感染拡大防止のための危機管理的対策が優先する場合には、それらの社会的機能が軽視される場合がある。それを防ぐために、それらの施設での感染対策を支援しなければならない。また、教育現場(小学校から大学まで)では三密を防ぐ名目で休校措置が取られる。しかし、それが長期化することで、教育機能がマヒしてしまう。原則として如何なる場合でも、国は国民の教育を受ける権利を奪うことはできない。もし、その機会を非常事態の名の下に制御するのであれば、それによって生じた教育格差や教育機関のダメージを保障しなければならない。

五つ目は、COVID-19パンデミック災害はこれまでの災害と質的に異なる課題を提起した。その原因は事前の「安全対策」がなく、災害発生と同時に「危機管理体制」から災害対策が始まるという、これまでの自然災害とは異なる性質の災害であるからだ。その意味で、この対策での安全管理体制を検討しなければならない。それが「災害防災省」の構想である。つまり、災害が発生してからその対策を検討するのでなく、常時、あらゆる災害対策の可能性を検討し、準備しておく政府機能を構築しておく必要がある。そのことによって、突然起る予測不能な災害、安全策を持たない災害に対しても、完全でなくてもある程度の初期対応が可能になる。感染症災害対策して、災害対策のための組織の常態化が求められる。

B、第二期 災害防止が可能になる時期

ワクチンや治療薬が開発され、それによる感染症災害対応が行われ、感染症の拡大が制御され、最終的には収束するまでの期間を第二期と呼ぶことにする。イスラエル、英国や米国等のワクチン接種が進み、集団免疫が確立しようとしている国が第二期を迎えようしていると言える。我が国を始めとして、ワクチン接種が国民の50%を超えない国々では、ワクチン接種を進めることで、第一期から第二期への移行が始まる。

しかし第二期を迎えていないわが国の状況では、第二期に関する調査分析の資料はないのであるが、アメリカでの事例を参考にしながら、仮にワクチンによる集団免疫が形成されたと仮定して、そこで課題に取り上げられる感染症災害対策について考える。この場合、感染症災害対策は感染拡大予防や医療崩壊防止の受け身の対策から第一期で受けた医療、社会経済文化等のインフラや資源の受けた被害の復旧活動つまり積極的な災害対策が取られる。

ワクチン接種が進み感染症を抑制することが可能になる第二期では、大きく四つのテーマが考えられる。一つ目は、第一期の医療、生活経済の被害に対する修復作業である。二つ目は、これからの感染症対策に関する防疫安全保障や国際協力を検討する作業である。その中で、ワクチン開発への国際協力、またワクチン格差を防ぎ、世界にワクチン接種を普及させる国際的ルール作りなどが挙げられる。三つ目は、感染症災害によって被害を受けたサプライチェーン等の復旧と再構築である。一国のみでなく国際社会の安全保障に関係する感染症災害から世界経済を守るために、経済安全保障と国際連携の再構築が問われる。さらに、四つ目の課題は、民主主義国家の在り方に関する問題提起である。何故なら、第一期で取られた非常事態政策で、国家理念の基本である民主主義が問われ状況が多々あった。そのため、第二期では災害に強い国家が課題となる。特に、強権的国家権力をもって感染災害を封じ込めた中国の事例があり、感染症災害に対して民主主義国家は脆弱であるという評価が生まれている。このことは民主主義文化の危機を意味している。

特に、三つ目の課題であるが、経済や文化活動の国際化は感染症を世界のすべてに拡散し、世界規模のパンデミックを引き起こした原因となっている。その原因となる経済活動の国際化とは、市場原理に基づく消費拠点や生産供給拠点(サプライチェーン)の国際化によって成立している。感染症対策として人や物の移動制限を必要としたCOVID-19対策は国際化した経済システムを直撃した。そのため、海外のサプライチェーンに依存する国内経済は大きな打撃を受けた。従って、第二期では、第一期で受けた国内経済のダメージを回復するための経済政策が取られる。一つは、サプライチェーンの復旧である。もう一つは、これまでのサプライチェーンの在り方を見直し、経済安全保障の視点を取り入れ、国内にサプライチェーンを移すことや、一国に多くのサプライチェーンの拠点を置くのでなく、色々な国にそれを分散化するリスク分散型が検討されているだろう。

また、経済文化の国際化した世界では、一国による解決は不可能で、その解決も国際社会との共存を前提にして行われることになる。そのため、二つ目に挙げた国際的な感染症対策が求められる。世界のすべての国へワクチンが普及しない限り、感染症災害を抑えることは出来ない。今回のCOVID-19パンデミックは国際的な防疫安全保障体制の必要性を問いかけた。そのため、国際協力を前提とした健康安全保障体制が課題になるだろう。

さらに、四つ目の民主主義国家の在り方に関する課題であるが、第一期で、感染症災害への政治的課題として、民主的手段を前提とした非常事態対処の必要性が述べられた。民主国家では、国民の協力なしには非常事態対処による感染防止策は出来ない。そのためには、国は感染症災害対策に関する情報を公開し、国民の意見が反映される対策を行う必要がある。国民総動員で感染症災害に立ち向かう制度を作り、人的資源や社会資源をそこに総動員して敏速なそして徹底した感染症災害対策が実現する。そのためには、市民参画型の災害対策の制度が求められる。

C、第三期 災害が頻発する時代

COVID-19パンデミック災害が終息したポストコロナの時代を第三期と呼ぶ。この第三期はCOVID-19に類似する感染症災害が繰り返し起こり、また常態化する時代であると予測される。何故なら、COVID-19パンデミック災害の原因は、21世紀の国際化した経済文化活動がある。また、地球温暖化による永久氷土の融解、開発による熱帯雨林の消滅生、プラスチック海洋汚染等化学合成物質による態環境系の破壊等々、地球規模の環境破壊が進行しつつある。それらの環境破壊によって生物生態系での異変が感染症災害に何らかの影響を与えていることも想定できる。

第二期の課題を延長展開することによって第三期の課題が決定される。つまり、その課題は大きく分けて五つある。一つは、第二期で取り上げられた国際的な防疫安全保障体制の確立に関する課題の発展的展開である。二つ目は、市民参画型の災害対策の制度の確立と展開である。三つ目は感染症災害の基本原因である地球規模の環境破壊を食い止める国際的活動の展開と世界的な制度の形成である。四つ目は、上記の課題を解決するために我々の生活様式や経済活動を根本から変革しなければならない。現在の新自由主義に基づく資本主義経済を続けることは出来ない。つまり、新しい資本主義経済、例えば公益資本主義等、新しい経済活動や生活文化の形成が求められている。五つ目は、これらの変革を進めるためにはこれまでか巨大科学技術文明を牽引してきた思想、科学主義を超える科学技術哲学が求められている。以上、第三期の五つ課題が提起された。

同時に、これらの課題は、21世紀社会の課題であるエネルギー問題、食料問題、経済・教育・健康格差問題、人びとの生存権、持続可能な民主主義文化等々の課題と関連している。つまり、第三期の感染症災害対策では、これまでの経済、社会、生活文化の価値観が根本から問われることを前提にして展開されることになる。

まとめ:今後の課題

今回の報告は、今、わが国で問われている状況合理的なCOVID-19パンデミック災害対策を検討するために、災害社会学の視点に立って感染症災害に関する分析を試み、その災害対策を三つの段階に分け、現状で必要とされる対策を整理した。また、同時に、状況の変化(ワクチン開発と接種)による感染症災害対策の質的変化についても述べた。

この報告はこれまでの災害社会学、COVID-19、そのパンデミック災害等に関する研究に基づき、感染症災害対策の提案を試みたものである。つまり、この報告は感染症災害を分析するためのフレームを提案したもんである。しかし、これらの提案は現実のデータによって実証されたものではない。これらの提案は、理論的に可能になったものである。その意味で、この提案を検証しなければならない。そのために、今後、わが国での第一期のデータを基にした分析を引き続き行う予定である。

人類の活動が地球環境へ影響与えている時代、それによって多様な災害が多発し、同時に人類はそれらの災害対策を求めらる。その対策は被害への対処のみでなく、長期的視点に立った対策、つまり我々の経済、社会、生活文化の改革を前提にしたものでなければならないだろう。その意味で、今回の報告は、これらの課題に触れた。とは言え、合理的な災害対策は科学的検証を前提にして成立している。そのため、今回の報告は、災害社会学の視点に立てば、序章に過ぎない。


参考資料

三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「パンデミック対策にむけて」





2021年5月8日土曜日

COVID-19パンデミックへの三つの「隔離」対処とその経済的効果とは

 -パンデミック災害の経済合理的対策とは何か- 

三石博行


a、「地理的隔離」と「検査隔離」

今更ながら議論する必要もないが、今回の日本の感染症対策は「国民一人一人の移動の自粛」及び「人の集まる場所の閉鎖」であった。この対策は間違いではない。これは防疫の基本である。しかし、この自粛要請や休業要請を中心にした感染症対策が経済合理性の視点から考えて正しいかどうかを厳密に検証する必要があると思われる。

感染は人の移動で広がる。そのため防疫の基本は「感染者の隔離」である。これが伝統的な感染症学の基本である。隔離とは感染者との距離を取ることを意味するので、三密を避けることがそこから当然帰結される。また、感染者が判明できない場合にはすべての人々が接触しないようにする「地理的隔離」が用いられる。ロックダウンとは「地理的無条件隔離」である。また、移動自粛とは「地理的条件隔離」である。つまり、この「地理的隔離」はロックダウンから移動自粛までの施策がある。それらは「条件」によってその隔離の強度が決定されている。

しかし、この施策は生活経済活動を抑制することになる。そのため、この施策は非常に大きな経済的負担を課すことになる。そこで、感染者のみを隔離する方法が用いられる。それが「検査による隔離」である。この場合、病原体の確定、その検査技術開発、その精度が問題となる。「検査による隔離」がもたらす感染症対策の効力は、「検査の精度」「検査回数」、「検査結果による陽性者隔離率」等の要素を含むことになる。実際、その効果を評価するために「検査隔離」による再生産数の変動が求められる。

「検査隔離」によって移動を制限された人々は生活経済活動を行うことは出来ない。その分の社会経済的には経済活動が低下すると評価される。同じように無検査で「地理的隔離」による社会経済的ダメージの評価が課題となる。無条件に移動を制限された人々によって生じる社会経済活動に減少が課題となる。ここでは精密な計算のモデルを議論出来ないので、極めて単純に上記の二つ、「検査隔離」による経済負担と「地理的隔離」による経済的負担を、それぞれ隔離された人数と考えることにする。

例えば、人々の生活経済活動を人々の生活行動と考え、その行動が制限されることは、同時に生活経済活動が制限されていると解釈・評価する。まず、話を単純にするために、行動制限を受けている人の数が経済活動の制限の大きさと比例することになると考えた。この解釈から「検査隔離」と「地理的隔離」による経済的負担を比較してみよう。例えば、感染者がある社会の人口の5%であったとする。つまり、人口100万の都市では5万人の感染者がいることになる。この感染者をすべて隔離できれば残りの95万人の人々は生活経済活動を続けられるだろう。しかし、誰が感染者であるか不明の場合には、極端な場合100万人の人々を隔離しなければならない。当然、5万人分の経済ダメージに比べて100万人分の経済ダメージは20倍の差がある。

勿論、話はこれほど単純ではない。もし、検査・隔離対策に莫大な資金が必要であるなら、高額な検査や隔離よりも人の移動を制限が安上がりであると言われるだろう。ここでは、「検査隔離による経済負担」は「検査隔離件数」、「検査・隔離に必要な費用」によって決まる。実際、昨年2月にPCR検査が困難な理由として「PCR検査は非常に難しく高度な技術が必要である」とか「2%足らずの患者を見つけるために全員検査するのは検査費用の無駄遣い」とか「検査をして陽性者が多くでると病院が困る」とか色々な意見が出されていた。それらの意見に対して丁寧に「検査隔離」と「地理的隔離」による経済的負担の比較による評価の意味を説明する必要はある。

とは言え、大まかに経済的影響を理解するために、ここでは極めて単純に「地理的隔離による社会経済負担」と「検査・隔離による社会経済負担」を隔離される人数で評価した。上記したように単純な計算のようにはならないものの、経済負担の少ないものを感染症拡大防止の施策として選択する以外にない。

極めて単純に、「検査隔離」もしくは「地理的隔離」がもたらすCOVID-19対策による経済効果を議論することは出来ないのだろうか。何故なら、現在の日本政府のCOVID-19対策は「地理的隔離」主義であり、その対策と経済活動が相対立するものであるという考えから、政府の対策はこの二律背反した二つの対策をバランスよく行うことが、現在出来る最善のCOVID-19パンデミック災害への対策であると思っている。それによる国民の生活経済負担を計量的に理解しなければならないだろう。


b、「検査隔離」と「集団免疫的隔離」

また、この感染症を唯一の対策はワクチンと治療薬である。ワクチンとは集団免疫を人工的に作りだす疫学的機能を持つ。集団免疫と「ある感染症に対して集団の大部分が免疫を持っている際に生じる間接的な保護効果であり、免疫を持たない人を保護する手段である。」(Wikipedia)病原菌に対して免疫を持つ人々が多くなることによって、病原菌を持つ感染者が免疫を持たない非感染者と接触する確率が低くなる。言い換えると、免疫を獲得した人々が感染者と非感染者の「距離」を生み出しているのである。ある社会の人口に対するワクチン接種者数の割合が70%に達したとき集団免疫が成立するという説もあるが、何れにしても、ワクチンは感染を拡大させないための唯一確かな手段である。ワクチンによる集団免疫が生み出す「距離」がその効力の理由になる。この「距離」は「地理的隔離」や「検査隔離」の概念と同じである。感染症拡大防止対策としてワクチンは感染者と非感染者の「隔離」率を上げる作用をしている。ここで、ワクチンの感染拡大防止の効果を「集団免疫的隔離」によるものであると考える。

感染拡大を防ぐことがパンデミック災害対策の基本である。その対策は三つある。一つは移動制限や閉鎖による「地理的隔離」、二つ目は検査による「検査隔離」と三つ目のワクチンによる「集団免疫的隔離」である。これらの三つ対策は感染病に対する私たちの防御状態によって選択される。例えば、パンデミックの原因(疫学的、病理的)が不明である場合、検査やワクチンは勿論ない時、唯一可能な防御手段は感染者を隔離することである。つまり「地理的隔離」が最善の方法となる。次に、病原体の正体が解明された時、そのゲノム解析が行われ、検査方法が確立し、またワクチン製造の研究が可能になる。ワクチン製造は非常に長い時間を必要とするために、先ず、検査による防御対策、つまり「検査隔離」が用いられる。検査の精度を上げ、検査評価の基準を決め、検査時間を短縮し、検査方法の改良がなされながら、効率良く感染者と非感染者を分離する感染拡大防止が行われる。しかし「検査隔離」では非感染者の感染を防ぐことが出来ない。この方法も感染者と非感染者の空間的距離を作り出し、感染拡大を防ぐという、いわば「消極的防御策」である。それに対して、ワクチンは「集団免疫的隔離」だけでなく、非感染者が抗体免疫を獲得し感染しない体になることで感染拡大を防ぐ、いわば「積極的防衛策」の働きがある。とは言え、ワクチンは開発、治験やその認可のために非常に多くの経費と時間を必要とされる。それにもかかわらずワクチンによる感染症拡大防止策は完璧に効果を発揮することになる。

ワクチンによって生み出される経済効果の評価とは、ワクチン開発費やワクチン接種費等々の費用負担に対してワクチンによる経済活動再開による国民総生産の増加額の差であると言える。もし、パンデミック災害による経済的ダメージよりも巨額のワクチン開発費が必要であると判断するならワクチン開発は行われず、感染拡大による集団免疫獲得でのパンデミック災害の終焉を待つことになる。この場合、感染症流行による経済的被害、犠牲者(重症者や死者)数やその全人口の中で占める割合が問題となるだろう。感染症の歴史を観る限り、ワクチンは感染症対策の最も有効な手段として評価されてきた。


c、問われる三つの「隔離」対処に対する日本のCOVID-19対策の検証

災害社会学の立場からCOVID-19パンデミック災害対策で手段は、ワクチンや治療薬の無い段階とそれらが準備されてた段階を分けた。ワクチンや治療薬の無い段階は、感染症に対する最善の対策はない。そのため、感染者を隔離する二つの方法、「地理的隔離」と「検査隔離」が取られる。しかし、ワクチン接種が可能になるとワクチンによる「集団免疫的隔離」が最も有効で敏速な感染症対策として加わる。「地理的隔離」、「検査隔離」と「集団免疫的隔離」の三つの対処はそれぞれの感染状況に合わせてパンデミック災害対策として取られる。言い換えると、それぞれの感染状況に対して最も現実的で有効な感染拡大防止を行うことがパンデミック災害対策の基本である。

災害社会学では、感染状況と感染対策の関係を明らかにしながら、現実的・経済合理的感染症対策に関する分析と評価を行うことがその研究課題になる。また、その視点から、ワクチン接種前の、2020年2月から2021年3月まで第1期での「地理的隔離」、「検査隔離」に関する日本政府のCOVID-19感染防止対策を点検する必要がある。ワクチンによる「集団免疫的隔離」がCOVID-19パンデミック災害対策の最終手段であることは感染症学では基本的知識である。2020年2月時点で、日本政府の国内産ワクチンに対する政策対策を検証する必要がある。また、国内ワクチンの開発が不可能であると判断したとき、日本政府は国外企業とのワクチン入荷やその国内生産に対する対策の有無、またその内容に関しても検証する必要がある。

感染症対策の基本、三つの「隔離」対処に対する日本のCOVID-19対策は現在でも混乱の最中にある。その原因を明らかにしなければならない。それは、国際化が社会経済文化の基盤となる21世紀の社会で常態化するパンデミック災害への対処が不可能になるからである。



2021年5月6日 Facebook 記載


三石博行 ブログ文書集「パンデミック対策にむけて」