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2014年12月28日日曜日

LAの青い空とGospelの歌声

三石博行

12月23日、サンフランシスコのLorraine Hansberry Theater で開催されたSoulful Christmas A Gospel Holiday Concertに行ってきた。その演奏会場は、以前兵舎だった施設で、今は市民の芸術活動に提供するために改築されていた。芸術活動を行っている多くの市民団体が、この施設を活用している。

二棟ある大きな建物の一つの三階に200名ほど入る会場があった。開会間際にその会場に入った。もう会場は殆ど満員であった。その日の演奏は約3時間程度だった。余りの感銘で、自然に涙がこぼれていた。魂を揺さぶられる音楽だった。そして、奴隷として扱われた彼らの強さ、明るさ、楽天的な生き方も伝わってくる曲だった。あまり、感動したので、言葉が出てこない。

12月24日、サンフランシスコからロスアンゼルスに来た。LAの空は真っ青だ。いつも、ここにきてこの空の色に驚く。乾燥した地中海性気候のせいで、こうした青いそらに出会えるのだろう。

よく、LAに移民してきた人々が、差別などを受けて苦しんでいるときに、またアメリカのような新自由主義の社会の厳しく不当な扱いを受けながら、苦しい時、悲しい時、「それでも、ここには青いそらがある。だからいい」と言うらしいです。

そういえば、中学時代、恩師の岩松弘先生(故人)が私に教えてくれたことばがあった。「嘆かじな、青空を見ん。青空は、永久(とこしえ)の色に澄みておらんや。」と言う句だったと思う。人が、苦しい時、そして絶望している時、こうした青い空が勇気を与えてくれる。その感銘も、多分心のなかで自ら作り出したものだろう。その感銘は自ら持っている生命力によって産み出されたもんだろう。

しかし、人は本当に逞しい(たくましい)と思う。あの Gospel のコンサートで流れた曲は明るく楽しい、しかもユーモアに満ちたものがあった。我々の想像を絶する苦しみや絶望の中で、これほど明るい曲が生まれるのか。私は驚きと感銘、それを超える畏敬の念を持って聞いていた。青空に感銘する人々と通じる感性、昨日までの絶望を逞しく乗り越えて、明日に向かって生きようという生命力だと思う。


1, Lorraine Hansberry Theatre -- Soulful Christmas: A Gospel Holiday Concert
http://www.fortmason.org/events/events-details?id=3101


12月25日、フェイスブック記載文章 



日系アメリカ人の戦争被害と平和への願い

三石博行

今日、12月25日、LAの日系アメリカ人の家族と共にクリスマスパーティを楽しんだ。2世のEさんを囲んで50代の3世、そして20代から10代までの4世とEさんの家族がほぼ全員集まってきた。

2世以下になると、日系アメリカ人は殆ど日本語を話さない。その点では中国系アメリカ人たちと違う。そのことについて、以前「海外に暮らす日本人はすぐにその土地に順応する」からだと言われていた。

しかし、日本人は異国の文化にそれ程上手く順応し、自分たちの祖国、もしくは先祖の国の文化を簡単に捨てることが出来るとは思えない。LAの日系アメリカ人たちは日系社会をつくり、日本の文化を大切にしている。

殆どの2世の人々が日本語を喋れないという理由は日米戦争にある。つまり、あの過酷な日米戦争の被害者にされた彼らの記憶があることを忘れてはならない。日系アメリカ人たちが第二次世界大戦の時に、日本人であるという理由で逮捕され、資産を没収され、強制収容者に入れられていたという歴史である。そこで彼らはアメリカへの忠誠を示すために戦争に志願し、ヨーロッパ戦線で最も過酷な戦場で戦ったのである。部隊の殆どの兵士が殉死し、その死をもってアメリカへの日系アメリカ人の忠誠を示したのである。

隣の座った90歳になるEさんが私に「ねえ、ヒロさん、日本では最近、教科書で日本が戦争のときに中国や韓国でしたことを教えていないのだってね」と質問をしてきた。勿論、それは間違いで日本の教科書では一応そのことは書いてはあるのだが、それを実際に授業で教えているかどうかは疑問であった。そこで、「イエスとノーですね」と答えるしかなかった。

私も、1990年代まで、つまりアメリカの日系人の人々と出会うまで、戦争の時に日系アメリカ人がどういう生き方をしなければならなかったのかを知らなかった。そして、収容所やヨーロッパ戦線の日系部隊の話も知らなかった。

つまり、そして強制収容所に送られた日系アメリカ人、その中から生まれた日系部隊の意味することは、彼らは日米戦争の犠牲者であったという事だ。日系アメリカ人たちは日本人としてのアイデンティティを捨て去り、アメリカ市民となることを迫ら、兵隊に志願し、また日本語を話さなくなったのだという事である。

彼らが日本語を話さなくなったのは、「海外に暮らす日本人がすぐにその土地に順応する」ためではなかったのである。過酷な戦禍の中を生き延びるために、そうなったのである。

そして、それだけに彼らの中には日本への思いが強いのである。アメリカに留学した人々は知っていると思うが、彼らは常に日本人留学生、旅行者、企業人たちを助けて来た。無償の日本人へのサポートをして来た。私たち家族も助けられ、そして、今日まで家族のような関係が続いている。

最近になって、日系アメリカ人の戦争被害の話が日本でも報道されるようになった。私は、かれらから当時の新聞の記事や強制収容所の資料を貰ったことがあった。それらの資料を同じ職場の元NHKの勤めていた友人に渡した。それらの資料が活かされていることを信じたい。

もっと、戦争の時の話をすべきだ。何があったのか。真実を語るべきだと思う。本当のことを知るべきだと思う。戦争被害者は日本国民であり、アメリカ人であり、中国人であり、韓国朝鮮人であり、フィリピン人であり、等々。つまり、すべての国民なのだ。その現実を、国を超えお互いに話し合うべきだと思う。最も避けなければならないことは、簡単に戦争をする意思決定の在り方なのだ。それだけは避けなければならないし、それを避けるためにも、戦争の被害者は黙っていてはいけないのだと思う。



参考資料

1、第442連隊戦闘団 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3

2、日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦 第100大隊のイタリア戦線参戦
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050203/

3、アメリカ陸軍442連隊
https://www.youtube.com/watch?v=tbO6K_Ig7Y4


12月26日 フェイスブック記載文章



2010年12月16日木曜日

イラン・イスラム国家の近代化過程と日本の国際戦略

三石博行

近代化政策の失敗が生み出す手痛い損害と新たな近代化過程の形成


欧米的な社会イラン1979年

今から30年以上前、1979年のイラン革命の最中に、イランを旅したことがあった。インドから陸路でパキスタンのクエッタを通り、パキスタンのイラン国境の町ミルジャワからイランの入り口であるザヘダンを経てバスでテヘランに向かった。

テヘランからカスピ海の町、チグリスユーフラテス川岸にありイラクと国境を接する石油の町、アーバーダーン等々、バスで一週間ぐらいだったか、イラン国内をまわった。

当時(1979年)のイランは、それまで続いたイラン帝国、パフラヴィー(パーレビ)王朝の近代化政策もあって、生活様式全体がパキスタンなどの周辺国に比べて比較にならないぐらい欧米的で近代的な雰囲気を持っていた。パキスタンのミルジャワからイランのザヘダンに入った瞬間に、道路、バス、建物も豊かな石油生産国イランとイラン国民の生活状態を一瞬の内に理解させる、垢抜けた立派なものであった。イランは豊かだという印象が、特にバングラディシュ、インドとパキスタンを旅行してきた私に鮮明に残った印象だった。

この豊かなイランを導いたパーレビ前政権が崩壊しなければならなかったのか。疑問を抱えたまま、バスの旅行は続く。テヘランは美しい街であった。山地の麓から豊かに湧き出す水をふんだんに使い、テヘランの街の中心街にある大きな並木道の両側の小さな水路に透き通った清水が流れる。交通は整理され、多量の車、殆どが外車(GM、フード、トヨタ、ホルクスワーゲン等の車)がスムースに道路を流れていた。


崩壊した伝統的農業

この旅の目的はイランの農業を観察するためであった。そのため事前にイラン式農業についての資料を読んでいた。資料によると、雨量の極度に少ない乾燥地帯であるイランでは、ペルシャ時代から続く伝統的なカナートとよばれる灌漑技術を使った農業があった。カナートとは、高地の豊かな雪解け水や雨水を地下水として貯め、それを山の斜面に地下の水路(トンネル)を造って流すという当時としては画期的な灌漑技法であった。紀元前800年ごろの古代イラン(ペルシャ)で発達したカナートの優秀な技術は、ペルシャを征服したギリシャ人によって、古代エジプトに持ち込まれるなど、アジア、中東やアフリカに広がったと言われている。

豊かなイランの農業を想像した私が観たものは、耕運機で稲作をしていたカスピ海沿岸の豊かな水田地帯を除いて、荒廃したテヘラン近郊の畑、大型トラクターを使った巨大な農地、泥水で機能していない灌漑用のダム等々であった。

豊かなイランの社会的インフラは、石油生産で得られた莫大な収入を使って整備されたものであった。また、当時の食料はイスラエルやアメリカから輸入されていた。石油輸出国イランが輸入国との貿易収支を調整するために行った政策、世界の石油生産国という国際分業の一翼を担い、その分、他の国から農業生産物を輸入する経済政策が取られていた。

海外からの安価な農業生産物や工業生産物の輸入によって、国内農業はことごとく淘汰荒廃して行った。これが、パフラヴィー(パーレビ)体制の進めたイラン近代化政策であった。


拮抗した国際分業と近代化政策

国際分業論に基づくイランの近代化とは、国内産業の育成ではなく、先進国からの製品を国内に満たすこと、それによって国民は先進国並みの生活環境を手に入れることが出来た。

例えばインドは当時、海外車の輸入を厳しく制限し、古い型のインド国産車が走っていた。しかし、イランでは、多量の立派な外国車が道路にひしめいていた。その風景は、殆ど日本と変わらなかった。違いは日本の車は国内で生産されたものであるが、イランの車は海外のものであるということだけである。イランで、ヒッチハイクをしながら旅をした時、偶然、イラン国産自動車を運転する人に乗せてもらったことがあった。彼は、イラン国産車である自分の車を褒め称えたが、私を乗せてすぐに彼の自慢のイラン国産車はエンストしてしまった。それが、当時のイラン国産車の状態で、殆どの人は、故障の多い国産車を買おうとはしなかったのだろう。

旅行者の私には、一見、豊かな社会に観えたイランは、その経済構造は先進国(特にアメリカ)の経済植民地に近い状態になっていた。豊かな王族、貴族、資産家や商人達とテヘランの下町に移住してきた失業者・貧民の群れ(と言ってもインドの貧しい人々に比べれば豊かすぎる人々であったが)に石油から得た富の分配を問題になっていた。

自国産業の育成を前提にした近代化過程が形成されないまま、海外からの豊かな工業生産物で社会は満たされていた。石油が生産でき、その莫大な収益がある以上、他の産業の育成の必要性は緊急な課題ではなかったのだろう。しかし、その政策のもっとも大きな犠牲者は伝統的ペルシャ農業を続けてきたイラン中部地帯の農民であったといえる。


挫折したイラン民主化運動とイラ国民運動としての近代化過程

再び、テヘランにかえて来た私を友人が「面白い場所に連れて行ってあげる」と言う事で、彼の通うテヘラン大学の正門の付近まで行った(そう記憶しているのだが)。学生達が自動小銃おをもって警戒していた建物があった。それが、当時、世界中を騒がせていた「イランアメリカ大使館の占拠」の現場であった。

一ヶ月以上も、インド国内の鉄道の旅をして、パキスタンとイランを回ってきた私は世界の情勢(出来事)について全く情報を持っていなかった。まさか、自分が立っている前の建物が世界を騒がせている現場であると思いもせずに、その入り口まで行った。

友人から説明を受けてびっくりした。大使館の前でマシンガンをもっている学生と話しを始めた。どうしても聞きたいことが一つあった。何故なら、彼はマシンガンを片手に、コカコーラを飲んでいた。

「君は、右手にアメリカ帝国主義に闘うためのマシンガンを持って、左手でアメリカのコカコーラを飲んでいるのだが、どうなんだい。なぜアメリカが嫌いなのかね? 」と尋ねた。その学生は、真剣なまなざしになった。そして、議論が始まった。
「イランには伝統的な乳製品ののみのもがあるじゃない? なんで、その飲み物でなく、コカコーラなんだい? 君はアメリカ文化が本当は好きなのだろう?」と際どい質問に対して、彼は考え込んでしまった。その真剣な眼差しを今でも思い出す。

あれから、イランイラク戦争が起こった。私を歓迎した多くのイランの若者たち、私がただ日本人であるという理由で、家に招待し、ご馳走し、泊めてくれた若者達、彼らが今生きているのだろうか。彼らは、戦争に駆り出され死んだのではないだろうか。もしそうなら、本当にイランの将来のためには、残念なことだったと思える。

右手に自動小銃を持ちながらも、左手でアメリカのコカコーラを飲んでいの若者達こそが、イラン国民のためのイラン国民によるイラン国民の近代化を成功させる道筋を提起できたのではないだろうか。


近代化政策の失敗によるイスラム回帰化 

その後のイランの社会的変貌を、先進国の政治勢力の誰が予測できただろうか。

フランスの亡命していたイスラムシーア派の指導者ルーホッラー・ホメイニーが英雄的に帰国し、パフラヴィー(パーレビ)皇帝は国外に亡命した。イラン帝国は壊滅し、イラン・イスラム共和国が建国した。国家の構造の変化を簡単に述べると、王国からイスラム共和国にイランの政治体制が変化したといえる。

パフラヴィー(パーレビ)王朝の王族や貴族を中心とする絶対君主制が解体し、イスラムシーア派の国民を中心とした宗教国家が形成された。つまり、宗教指導者の権力の下に、国民は選挙で共和国を運営することになる。その限りにおいて、王朝時代よりも、イラン国民の政治参加の自由度は増えたと解釈できる。

しかし、パーレビ帝国の時代にアメリカ文化や思想に非常に大きな影響を受けたことで、多くの若者が欧米式の考え方やライフスタイルを経験理解することになるが、その全てを、イスラム主義は排除する方向で政治体制を構築することになる。

パーレビ王朝の近代化によって生まれた欧米民主主義文化を吸収した若者、そして彼らはその民主主義の思想において王政主義を批判しイランに民主社会を実現しようとした。また、他方、パーレビ王朝の近代化政策の犠牲によって生み出された膨大な数の失業者(イスラム教徒)、彼らは近代化によって破壊されたイスラム伝統文化と社会制度を復活しようとした。

つまり、イラン革命は二つの異なる集団の共闘によって展開し、結果的には、多数を占めたイスラム教徒、イラン民衆の勝利で終わるのである。そして、どの社会の革命に共通するように、少数派である知識階層の人々の革命理念は挫折、多数派のイスラム主義者・イスラム原理主義によって駆逐排除されるのである。

イランのイスラム革命の主流派の形成は、明らかにパーレビ帝国時代の近代化政策の失敗によるものであった。イランの近代化政策の失敗によってイスラム原理主義への回帰運動が起こったと理解できるのである。


イスラム回帰化から生じる新たなイランの近代化政策 

イラン・イスラム共和国がイスラム主義と呼ばれる宗教イデオロギーによって運営されようと、政治指導部は、国の産業化政策や富国強兵政策を推し進めなければならない。そのためには、好むと好まざるに関わらす、欧米先進国を中止のとする科学技術を取り入れなければならない。もし、国が近代化政策に失敗し、豊かな経済や強固な軍事力を形成することが出来なければ、国民経済は困窮し、海外からの侵略におびえることになる。

当然、欧米の科学合理主義の思想や資本主義・民主主義の制度を拒否したとしても、明治時代に日本が経験したように、部分的に、欧米民主主義、資本主義、西洋の科学技術文化、科学主義を取り入れざるを得ないのである。

考え方を変えて観れば、近代化過程に失敗したイランが、イスラム共和国という道具を使って、イラン式の、イラン的な近代化過程を模索、構築しようとしていると理解できないだろうか。


日本の近代化過程の分析研究の成果を発展途上国の近代化政策に役立てよう

問われている問題は、発展途上国称される国々、しかし古代ペルシャ文明からの古い伝統文化とそれに対する誇りを持つ民族・イラン国民による、イラン国民のための近代化過程を我々が正しく理解するために課題を考えなければならない。

何故なら、以前、米国を代表する欧米列強(帝国主義)が行った周辺国家への自国流の民主主義と近代化過程の押し売りという失敗を繰り返さないためである。そのために、我々は、イスラム共和国という過程を通じて展開しつつある近代化過程に関して理解を深めなければならないだろう。

これからの世界経済の担い手、国際政治の表舞台で活躍する人々、それは、現在近代化過程に格闘している発展途上国と呼ばれる国々である。その大先輩が我が国日本である。大先輩としての日本の政治、外交、産業、教育研究活動等々すべての我が国の歴史的社会的資産を展開し、これらの国々に発展に貢献することが、日本が、国際社会で大きな影響を持つ国として展開する将来の課題となる。





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2010年4月28日水曜日

1980年、パキスタンから激動するイランへ

三石博行

ムジャーヒディーン(mujāhidīn)とエチオピアのエリート船員

▽ その日、私は寝坊してしまった。朝早く立つバスに乗りそこなった。パキスタンの西部にあるクエッタの町は、砂漠の中にあるオアシスの町だ。アフガニスタンに近く、多くの人や物資がアフガニスタンからやってくる。パキスタンの鉄道にのってこの町まで来たが、これからは、バスにのって砂漠を越えて、イランに向かう予定だった。

▽ ホテルの人が、もう一台バスがイランの国境近くの町まで出ると教えてくれた。タクシーに乗って、そのバス停まで急いで行った。パキスタン人以外の旅行者は、英語の話せないスペイン人、二人のエチオピア人(二人とも外国航路の船員でバカンス旅行中)と私の四人だった。バスをまっていると、大きな体格の男達がたくさんやって来た。聞くとアフガニスタンから来たらしい。

▽ これからの予定を確認する。クエッタからバスで約36時間かけてかイランの国境まで行き、そこで別のバスに乗って、イランとパキスタンの国境の町へ向い、その町でさらに一泊してイランに入国する。そこからイランの国境の町ミルジャワに向かう。そのミルジャワからさらにザヘダンに別のバスに乗って行く。ザヘダンからテヘラン行きのバスが出るとのことだった。

▽ クエッタからのバスが出発した。おおよそ二日間バスに揺られ、砂漠をわたる。バスは木製の車体で、サイドの荷物入れにガソリンをドラム缶を二つ積み、がたがたの山道をすごいスピードで走る。すごいゆれで身体が浮き上がり、そして、そのまま落ちる。長くのっているとお腹がおかしくなる。運転手は、噛みタバコを口に入れ、時より、車の窓から褐色のつばきを吐きながらハンドルを握る。車内はすざましいボリュームの異国情緒のパキスタン音楽が鳴り響く。

▽ バスに同上したアフガニスタンの乗客は「ムジャーヒディーン」(侵略者と戦うイスラム義勇軍)の兵士だった。バスは時間が来ると止まり、男たちは外に出て、一定の方向を向いて座りお祈りをする。
▽ 当時、アフガニスタンのゲリラはソビエト連邦の侵略と戦っていた。それを軍事的にアメリカやヨーロッパの国々が支援していた。バスの中では、若いイスラム教徒のムジャーヒディーンの兵士がたどたどしい、ほとんど理解できない英語で話しかけてくる。

▽ 「日本人は友人だ。ドイツ人も友人だ。しかしソ連人は敵だ。」と言っていた。彼は政治の話を始めた。すると、二人のエチオピア人は社会主義者らしく、ソビエトを批判し社会主義を批判していたムジャーヒディーンの若者に反論しようとした。私は危機感を感じた。反射的に「その議論をすれば、殺されるかもしれないことが解らないのか」と早口の英語で彼らの口を塞いだ。

▽ もし、ソビエトと命を掛けて闘っている若いムジャーヒディーンの兵士が、我々の中の二人がソビエトの手先ではないかと疑ったとき、何がそこで起こるだろうか。そうした心配は、この無邪気なエチオピアの青年達には通じなかったか。それから、一切、政治の話をしなかった。いや、私が彼らにそれをさせなかったのだ。

▽ バスは春に起こる砂漠の嵐の中、雨が降り注ぎ、水が谷から流れる中を、猛スピードで走った。稲妻が横に走る。その壮絶な風景。多分、このバスに当たると、我々は、あのドラム缶に詰めたガソリンもろとも爆発して死ぬのだろうと思った。

▽ イラン国境の手前の小さいパキスタンの町でバスは止まった。その夜は、その町の小さな宿屋で一泊した。


アフガン難民とフランス人の女の子

▽ 朝早く、朝日を見ながらパキスタンの国境からイランの国境の町ミルジャワに向かった。三、四時間してイランの国境の町ミルジャワに着く。もうここはイランだ。インドからはるばる陸路でイランまで来た。イランに入ると立派なバスが待っていた。道路も舗装されていた。イランがバスパキスタンより随分豊かな国であることがすぐに感じられた。

▽ ミルジャワからザヘダン行きのバスに乗り換えることになった。ザヘダン行きのバス停には、すでに20名ぐらいの旅行者がいた。ヨーロッパから来た旅行者、オーストラリア人、ブラジル人と日本人の私だ。テヘラン行きのバスがやって来た。旅行者がバスに乗ろうとしたとき、少年のような体つきをした、そして顔だけが老け込んだバスの車掌が、バスの奥の椅子に座るように外国人の旅行者に命令した。かなり威圧的で一方的な命令だった。

▽ すると、フランスから来ていた女の子が、その命令に反して、自分の好きな席に座った。車掌男は、彼女に命令を繰り返した。その女の子は二人と男の子と一緒に旅行をしていた。連れの二人も、その女の子の行動をやめさせようとしていなかった。

▽ 車掌は激怒し、彼女につかみかかった。そして殴りかかった。二人の男子はそれを止める様子もない。私は反射的に、車掌に向かって行った。危険な場面であった。私が登場したことで、車掌はフランスから来た女の子に手を振り下ろすことはしなかった。しかし、私と彼女に出て行けと叫んでいた。イランのペルシャ語が理解できないので、車掌が正確に何を言ったのか理解できなかったが、出て行けというすごい剣幕の身振りから、これは大変なことになったと理解できた。

▽ 砂漠の町ミルジャワからの町から今出られなければ、多分、明日のバスを待つしかない。一日、旅が長くなる。予定が変更される。これは大変だと思った。そして、とっさに「君は、ここがどこだと思っているのか。ここはフランスではないイランなのだ。そのことが理解できないで、この国を旅行するな!」と大声でフランス人の女の子に怒鳴った。その私の態度を車掌は見ていた。そして、私が女の子を叱ったと思い、私たちを許し、外に追い出さずに、席に戻るように命令した。

▽ 女の子は不満そうな態度だった。彼女は恐怖に慄いていたが、それでもどこか、まだ強気な表情を残していた。私が演技でもフランス人の女の子を怒鳴ることで、車掌は許してくれたのだ。私は、その場を、何とか切り抜け、砂漠の町に置いてきぼりにされる状況から逃れることが出来た。安心した私もフランスの女の子もバスの後ろに座席に大人しく座った。

▽ 「君は何を考えているのだ。ここは一歩誤ると命すら保障されていない情況を抱えた国なのだ。 君はそのことを本当に理解しているのか。」と、もう一度彼女にゆっくりとした口調で話す。しかし、彼女は私に「ありがとう」の一言も言わなかった。ただ不愉快そうな視線を送っていた。そして、また自分の危険な状態を見て見ぬ振りをした二人のフランス人の男達の横に座った。「君達は、本当になんという人々なのだ」と私は彼らにいった。彼らから何もことばは返ってこなかった。それから、私は彼らとは一言も話しをしなかった。そして、「このバスから降りたら、生涯、彼らに会うこともないのだ」と思った。

▽ バスはミルジャワのバス停で少し待った。すると我々のザヘダン行きのバスに三、四十名のチャドルを着た女性と子供がバスに乗り込んできた。うわさによるとアフガニスタンからの難民だと言うことだった。彼女らがバスの前方に座り終わると、バスはザヘダンに向かって出発した。


旅をして異文化を理解すること

▽ 当時(1980年)、イランやアフガニスタンは政治的に非常に緊張していた。アフガニスタンはソビエトと戦争をしていた。国は内戦状態だった。アフガニスタンの周辺国、パキスタンやイランはアメリカの要請を受けて、アフガニスタンのイスラム義勇軍(ムジャーヒディーン)がゲリラ活動をしていた。
▽ イランは16世紀以来続いたイラン王国がイラン・イスラム革命によって1979年に崩壊し、イラン国内も不安定な状況であった。 新しいイラン・イスラム共和国はこれまでの親米路線を変更し、反米的な政治姿勢を打ち出していた。

▽ 一人の旅行者にとって激動する国際政治事件は関心のない出来事であろうが、ひとたび、その現場に居ると、好むと好まざるに係わらず、その政治的な事件から生み出される状況に呑み込まれるのである。その恐ろしい状況は、一人の人間の努力で乗り越えられるものではない。

▽ その時、政治的に不安定な地域をめぐる旅は命がけになる。異国の社会や文化的な状況を正しく理解しなければならない。あのフランスの女の子のように、自分の国の常識や考え方を、旅先の国に当てはめることによって、とんでもない事件に巻き込まれるのである。

引き裂かれた民族と作られた国境

三石博行


▽ 私は、今から30年ほど前、1980年にリックを一つ背負って、インド、バングラディシュ、パキスタン、イランの国々を鉄道やバスを経由しながら陸路で旅行をした。若いからこそできる旅で、その中で多くのものを見た。

▽ インドのデーリーから汽車に乗ってパキスタンへ向かう途中、アムリトサルにあるシーク教の黄金寺院に立ち寄った。アムリサルは、インド北西部にあるパンジャーブ地方のシーク教の聖地であり、1919年アムリットサル事件でも有名である。アムリットサル事件とは、イギリスのインド植民地政府が交付した法律で、テロ組織に参加していると疑われる人を令状なく逮捕し、裁判なくして投獄できる制度であった。この法律に反対するために集まった非武装の市民にインド植民地の軍隊が無差別射撃し多数の市民を射殺した事件である。そのため、アムリットサル事件のあった場所は、インド独立運動を牽引した非暴力抵抗運動の始まりの地として多くの観光客が集まる。

▽ パンジャーブ州(インド北西部)は、公用語としてヒンディー語と共にパンジャーブ語が使われている。しかも、隣接するパキスタンにも同じパンジャーブ州がある。そして同じ言語、パンジャーブ語が話されている。この二つの地方は、宗教上の違いを理由にイギリスからインドとパキスタンがそれぞれ1947年に独立したときに、インドとパキスタンに分離されたのである。その後、1948年にカシミールの領有権をめぐり二つの国は戦争を起こすことになる。インドとパキスタンに分離された一つの民族、パンジャーブ人は、インド人とパキスタン人として争うことになるのである。

▽ 私はインドからインダス川を渡りパキスタンに入った。パキスタンで宿を取った。その日の夕方、安ホテル待合室の椅子に座って夕日を眺めていた時、同じ宿泊者の二人のパキスタンの青年と会った。二人は兄弟だった。弟のほうは二十歳前後だろうか、まだ若かった。彼がたどたどしい英語で私に話しかけてきた。

▽ 「君は、私達の民族の歴史を知っているか。インダス川の向こうに自分たちと同じ民族がいて、同じことばを喋る。しかし、国が違う。それだけでない。我々の文字と彼らの文字が違う。我々はアラビア風になった文字を使い、かれらはヒンディー風の文字なのだ。どうだ、この大変さが理解できるか。どうして、自分達はこんな目にあうのだ。同じ民族が、どうして違う国に所属し、違う文字を使わなければならないのだ。」

▽ 彼の目には怒りが漲(みなぎ)っていた。そして、何もしらない日本人の私に、その怒りの目は突き刺さるように向けられていた。私は困惑し、ことばを失っていた。その青年の気持ちを理解するにも、理解できる土台がないのだ。迷惑そうに彼の質問に答える私を見ていたか、三十歳前後の彼の兄が、心配そうに近づいて来た。私に済まなそうな視線を送りながら、弟に言った。

▽ 「もういい、もういい、彼(日本人)にそんなこと言ったって、解るわけがないだろう。」とやさしく、弟の肩に手を掛けて、弟を自分達の部屋に連れて行った。

▽ 私は、一人の青年の深刻で苦しそうな目を忘れることが出来なかった。彼は、引き裂かれた民族の歴史をそのまま背負っているのだろうか。そんな深刻で、どうしようもない現実を私は経験したことはない。日本が二つの国に分断され、家族に会うにも会えない。そんな経験をしたことのない私に、彼の悩みが解るわけがないのだ。

▽ 同じ民族が二つの国に分断されていると言えば、東アジアの国では韓国と北朝鮮、1940年から1990年まで続いた東西ドイツを思い出すだろう。しかし、それらの国々ばかりではない。世界には、私の知らない多くの民族が、政治的理由によって分断されているかもしれない。そしてどれだけ多くの人々が不条理な民族、家族の分断に苦しんでいるかを私は知らない。


参考 Wikipedia 「パンジャーブ」「パキスタン」「アムリットサル事件」等々

多言語文化社会の生活風景

三石博行

インド社会の成り立ちと多言語文化社会

▽ インドは紀元前2600年から前1600年頃までにインダス川流域に文明(インダス文明)が栄え、紀元前1500年頃にアーリア人がパンジャーブ地方に移住、その後、ガンジス川流域の先住民を支配し、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度(カースト制度)に基づく社会を形成し、今日のインド社会の基礎を創った。その後、長い歴史を経て、1877年から1947年まで続いたイギリス植民地時代から独立し、南アジア最大の国、インド亜大陸の28州からなる連邦共和国(インド憲法に書かれている正式国名はインド社会主義共和国「Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic」である)、インド共和国を1947年8月に設立(イギリスから独立)した。

▽ インドの公用語はヒンディー語と英語である。インドで話されている言語は800種類に及び、中央政府とは別に各州に政府があり、それぞれの地方政府別に地方政府の公用語がある。主な言語だけでも15以上あり、インド政府の発行する紙幣には17の言語で印刷されている。インド憲法には22言語が公的に承認された言語と言われている。

▽ インドの人口は、1950年に約3億5千万人、1980年には約6億9千万人、2008年には約12億に達している。インドで最も多くの人々が日常的に話していることばはヒンディー語で、全人口の約40%(約4億人)、11%(約0.9億人)が英語を第一、第二ないし第三の公用語として話している。


カルカッタ(コルカタ)の街での会話風景

▽ 私は1979年の冬から1980年の初夏まで、インドのコルカタ(カルカッタ)に滞在した。コルカタは西ベンガル州の首都で、ベンガル語が地方政府の公用語となっていた。ベンガル人にとってベンガル語は大切なことばであり、ベンガル語を国語とする人々はバングラディシュの人口をあわせると、約2億2千万人で、世界で7番目に多い人口を持つ言語である。ベンガル語はまた文化的に高い歴史を誇り、ベンガル語で書かれた文学は多くある。中でも詩人であり思想家であったタゴールはベンガル語で詩を書きアジアで初めて1913年にノーベル文学賞を受賞した。タゴールの詩は世界的にも有名であり、彼のベンガル語の詩が多くの外国語に翻訳されている。

▽ 当時(1979年)、カルカッタ(現在のコルカタ)には、ベンガル語で講義する大学、カルカッタ大学と英語で講義する大学があった。小学校でもヒンディー語とベンガル語で教育がなされていた。また、英語教育は一般に小学校6年から行われ、高校では英語の授業もなされていた。英語は日常的に使われているため、インド連邦内の企業や公務員は日常的に仕事で英語を使うため、インド社会では、英語を使えない人は大きな会社では働けない。

▽ コルカタ(カルカッタ)の家族の会話は、ベンガル人であれば家庭内でベンガル語を話している。しかし、タミール地方から来た人々は、その現地の言葉を家族内では喋る。しかし、外ではベンガル語を話したり書いたりできない限り、コルカタでの社会生活は不自由であるため、会社や公共施設で働く人々は殆どが、出身地の地方公用語、ベンガル語、ヒンディー語と英語の四ヶ国語を話す。例えば南インドのケララ州から来ている場合にはマラヤラーム語を話し、コルカタの会社ではヒンディー語や英語を話し、街ではベンガル語を話している。

▽ こうしたコルカタの人々の日常生活の庶民の会話風景から、多言語文化社会で成立しているインド社会では、教育を受けていない人々を除いて、国民の多くがバイリンガル(二つのことばを自由に喋る人)やトリリンガル(三つのことばを自由に喋る人)であるといえる。


世界の国々の半分以上が多言語文化社会

▽ 多言語社会はインドに限らない。Wikipedea によると、北米ではアメリカ合衆国では州によって、フランス語やスペイン語が公用語となっている。カナダでは英語とフランス語(ケベック州はフランス語のみ)、中南米では、ニカラグア、ペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンなどでスペイン語以外に先住民の言語が公用語となっている。

▽ アジアでは、中国、香港、マカオ、シンガポール、台湾、フィリピン、スリランカ、東ティモール、ブルネイ、パラオ、中央アジア諸国など、またヨーロッパでもアイルランド、イギリス、スイス、スペイン、フィンランド、ベルギー、マルタなど二つ以上の言葉が公用語となっている。

▽ アフリカでは多くの国が英語とフランス語の2カ国語を公用語にしているが、多種多様な先住民の言語存在し、民衆は日常生活では、もともと先祖が使っていたことばを喋っている。

▽ 日本の周り、東アジアの国では、ロシア連邦の極東連邦でもロシア語と先住民の言語が公用語として使われている。中国では、公用語は中国語(北京語)であるが、数多くの方言(広東語など)があり、それ以外にも50以上の少数民族の言語が存在している。中国は多民族国家である。多くの少数民族自治州(区)では、中国語が公用語とされているが、その民族独自の言語が公用語として使われている場合もある。台湾では中国語が公用語であるが、先住民(オーストロネシア語族やマレー・インドネシア文化に属する人々)の言語が使われ、国語(中国語)以外に、台湾語(中国語と同じシナ・チベット語)、客家語(中国語の方言)、原住民語(オーストロネシア語)の教育も義務化されている。

▽ 東アジアでも、国民が一つのことばを喋る国は、日本、韓国や北朝鮮である。つまり、世界を見渡すと、一のことばを話す、モノリンガルの言語文化を持つ国が大半を占める分けではない。

▽ 我々は、モノリンガルの言語文化の中で育った。そして、国民は全て日本語を話すのが当然と思ってきた。そのため、南米、特に日系ブラジル人や日系ペルー人が、日本人の姿をし、日本人の名前を持ちながら、日本語が話せない姿をみて、逆にショックを受けているのである。このショックや違和感の中に、実は、モノリンガル言語文化社会から出た経験を持たない私達日本人の大半の人々の異文化理解の姿(本音)が隠されている。


多言語文化社会を土台とした新しい国家建設の実験・EU(ヨーロッパ連合)

▽ ヨーロッパは1914年から1918年の第一次世界大戦で約2千万人の死者と2千2百万人の負傷者を出した。また、1940年から1945年まで第二次世界大戦の戦場となり、約5千万人以上の犠牲者が出た。この二つの悲惨な戦争を繰り返さないために、ヨーロッパは半世紀をかけてEU(ヨーロッパ連合)を形成してきた。

▽ このヨーロッパ連合では、23カ国が公用語とされている。EUは、ヨーロッパが多数の民族による多言語文化圏であることを前提にして、ヨーロッパの文化の多様性に価値を置き、その多様性を維持するために、少数民族の言語文化の保護を、EUの文化政策として実行してきた。そのため、これまで、アイルランド、コルシカ、バスク、アルザスなど境界地方にあった方言や独自の文化の保護が行われ、それらの人々の分離独立運動を抑えることが出来た。

▽ すでに、近代国家としての連邦国家は1776年7月に独立したアメリカ合衆国、1917年3月に成立した(旧)ソビエト連邦や1947年に独立したインド共和国では、多言語文化社会の国家建設がなされてきた。これらの国々は、その国の事情もあり、一つの公用語を選択した国、二つの公用語を設定した国などがある。しかし、いずれにしても、ヨーロッパ連合のように連合に参加した主な国23カ国の言語を公用語としてはいない。EUとそれまでの連邦国家の形成過程が異なる以上、公用語決定に関する政治的見解の相違がある。

▽ しかし、すでにヨーロッパでは多言語文化社会を経験している国々が多くあり、特にEUの中心になっているベルギーでは、フランス語、ドイツ語とオランダ語が公用語として活用されている。また、中立国スイスでも、約4万平方キロメートル(日本の約9分の1より小さい)小さな国土でフランス語、ドイツ語、イタリア語とロマンシュ語の四つの言語が使われ、日本と同じように不自由なく公共サービスや市民生活が営まれている。

▽ 多言語文化社会環境を永年形成した国々の経験が、これから世界が交流し、多くの民族や文化が交差する時代に必要となるのかもしれない。スイスでは4つの言葉が公用語になっている。また、ベルギーでは3つの言葉が公用語となっている。

▽ すでに、これまでヨーロッパ社会に存在していた多言語文化社会の歴史を土台にしながら、EUは新しい政治経済制度の建設のみでなく、多言語文化国家の建設も試みているのである。


参考 Wikipedia 「インド」、「多言語」、「台湾」「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」「アメリカ合衆国」「ソビエト連邦」等々

2010年4月9日金曜日

プライド

一

その年の冬にインドのカルカッタ(現在のコルカタ)に私は着いた。

マザーテレサも 彼女がその年(1979年)にノーベル平和賞を受賞したことも、まったく知らないままで、外人の集まるサマーストリートのホテルで知り合ったオーストリアの青年に誘われ、「死を待つ人々の家」を訪問した。
だった。
一日目のボランティアは、その施設に運び込まれた人々に食事を与えることだった。

その日、十代(多分高校生ぐらいの少女)とそのお母さんがボランティアに来ていた。サリーの良く似合う美しい少女と気品を感じさせる中年の女性、二人は寝たきりの人々の食事を手伝っていた。

一人の老人の前で少女が困惑した様子をしている。その老人は、二人の女性を睨み付けている。彼女がスプーンに注いだ食べ物を頑なに口を閉じて拒絶している。少女は、困惑した顔から悲しそうな表情へと移っていく。

私は、その二人の横に行った。そして、少女の指からスプーンをそっと取って、それを老人の口元に持っていった。

彼は私に微笑みかけながら口を開いた。


二

「死を待つ人々の家」でのボランティア作業の最中、明らかに病気で苦しんでいる人々を前にして、私は「何か薬はないですか」と近くにいたシスターに聞く。すると、彼女から「私達は、ここに運ばれてくる人々の病気を治そうと思って、この活動をしているのではありません」という答えが返ってきた。

「何故」と聞こうと思った瞬間、「ここに運ばれてくる人々は、生まれてから一回も、人々に大切にされた経験を持っていないのです。自分が生まれてきてよかったと思うことも、生を得たことに感謝することなく、悲惨な人生を送ってきたのです。これらの人々にせめて一回だけでもいいから、他人から親切を施してもらった経験をしてもらいたいのです。死ぬ前に、一回でも、生きているとこんなこと(他人が自分に何を期待することもなく親切にしてくれること)もあるのだという経験をしてもらいたいのです。」と彼女は答えた。

この答えは私にはショックだった。そんな人々が、今、自分の目の前にいる。今まで、これほどにも悲惨な生き方をしてきて、人としての基本的な尊厳の一かけらも受けたことのない人々が、今、私の目の前にいる。
本や映画では奴隷や女工哀史の少女たちを読んだりみたりしてきた。しかし、自分の目の前にいる人々は、明らかに人間でありながら人間としての扱いを受けていなかったのだ。そう思った時、今までの、自分の社会思想が問われ、解体して行くようだった。


三

コルカッタの町を歩く。当時、コルカッタ市は地下鉄の工事をしていた。市の大通りは深く掘られ、地下の土を多くの労働者が頭の上にのせて、竹や木で造った階段を上がり、トラックに積み込んでいた。その労働者の殆どが不可触(賎)民と呼ばれる人々だった。友人のジャーナリストは、「彼らには、給与は支給されず、その日の食事が与えられるだけで、まるで奴隷と同じだ」と言っていた。

ある日、年取った老人、明らかに不可蝕民が路上電車の線路を渡ろうとしていた。彼は、近づいてくる電車を機敏に避けることが出来なかった。
勿論、電車は人が線路上に居るからといって、事故を避けるために、速度を落とすことはない。そして、老人は電車にはねられた。
電車は止まった。それは線路に倒れた障害物(怪我をした老人)を取り除くためであった。車掌が出てきて、その足を痛めた老人を、ぽいと線路の横に投げ捨てて、電車に乗り込み、そのまま電車は立ち去った。

こうした光景は、コルカタの日常風景だとのことだ。それを観ていた我々は、ショックを隠しきれない。この社会では、不可蝕民は人間としては扱われていないのだという現実を見せ付けられたのだった。


四

優しく食事を口に運ぶ少女、ボランティアに来た少女、美しいサリーを着た少女、その少女への老人の怒った目つき。
この現象を理解するためには、難解な方程式を解かなければならない。

難解な方程式の解として、コルカッタを歩かなければならない。
不可蝕民の生活に触れなければならない。
地下鉄工事の現場を見なければならない。
路線電車にはねられた老人のその後の経過を知らなければならない。

あの目の奥には、優しく差し出された少女の手や指へ、激しく唸る怨念の嵐が渦巻いている。
あの目の奥には、美しいサリーに象徴された冷酷な人々の行為への憎しみや怒りが焼き付けられている。

そして、悲しそうにした少女もそれを知っていたのだ。
そして、自分の力を超えた世界に対して、救いを求めようとしていたのだ。


五

インドには古代社会から続くカースト制度に属さない人々が居る。代表的な人々が不可蝕民である。これらの人々の多くはイスラム教化している。
他方、長いイギリスの植民地時代の中で、イギリス人とインド人の間に生まれた子供達、アングロインディアンと呼ばれる人々の多くはキリスト教化している。

キリスト教化した人々の中には、インド南部からくる人々、ポルトガル植民地政策に影響されている人々、カースト制度から抜けた知識人もいる。
あの少女と母親は、多分、キリスト教徒ではなかったか。

その不可蝕民に親切さを与えるべきと思うキリスト教徒もカースト制度からはみ出しイスラム化した不可蝕民も、1947年に独立し、約33年目を迎えた、1980年の若いインドの現実に苦しみ、洪水のように押し寄せてくる問題解決の問いかけに闘っていのだ。

その人々のこころを支える力、それはプライドであった。インド人としての、人間としての、プライドであった。

老人は差別者の服装をした人間を、たとえ死んでも、許さなかった。
少女は、キリストの前で、カースト制度と植民地化によって作り出された歴史の産物である貧困と迫害への罪を、自ら引き受けようとしていた。

コルカタは今日も轟音を発しながら動いている。
生きるために、自らであり続けるために、コルカタの人々は、
歩き、働き、話し、寝るのだ。

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2010年1月7日木曜日

コルカタ

コルカタ

三十年ぶりのコルカタ。
昔のリキシャはタクシーに代わって、すごい排気ガスを出しながら走っている。

必死になってその日を生きている人々。

明日という幻想でなく、これから1時間後に生きていられるという幻想を痛いほど理解さす街。

それでも、人々は激しい喧騒の呼びかけ合いの中に、私の理解をはるかに超えたやさしさをもっていた。

それは理解を超えた文法と意味からなるクラクションのメロディーだった。

生きることに執着することは美しいのだとドロだらけのアスファルトから、
もうもうと湯煙を上げて、壊れた陶器のかけらが騒ぐ。

これは限界の世界だ。
これは狂気の世界だ。

それでも、人々の生はあまりにも軽く湯煙のように散っていく。

もし、明日があれば、それは奇跡だ。
もし、君と明日出会えれば、それも奇跡だ。

それは、寛容の世界だ。
それは、了解の世界だ。

しかし、もう私は眠い。