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2015年12月9日水曜日

撮る撮られる関係の解消

森一生氏の写真芸術

三石博行

* * * *

10月中旬に島根と出雲を旅行した。大雪山の麓にあった「上田正治写真美術館」に行った。上田正治の写真を観ながら、森一生氏の写真を思い出していた。

日常生活、家族、町並み、自分の生活空間にそのままある何ともないと言えば何ともない風景や情景、それらに潜む生活美を写し取る。そこには、写真家の観る眼がなければ、観えない世界があるようだと思った。

私の森一生氏の写真への感銘。それは、多分、彼の写真館に家族や自分の記念写真を取りに来る人々に共感し、シャッターを切る写真家森一生氏の姿を前提にして、はじめて、その説明にたどり着けるのだと思った。

森写真館に訪れて、家族の記念写真を撮りたいと思った人々に寄り添うように、森一生はすべての街の風景と自然に寄り添っているのだろうと思った。

森一生氏の写真の根底にはそうした生活の美に関する思想があるのかもしれない。あるがままの世界のあるがままの人々とその風景、さらにはそれらの人々を取り巻く世界を描き写しだそうとする芸術家、森一生の作品。

それは、あたかも今日の朝ごはんのように、何の気取りもなく、何のタイトルもなく、あるがままに、おもうままに、このフェイスブックに無造作に、並べられ、我々を楽しませている。

「2015年11月27日、森一生撮影」


* * * *


以前から森一生氏の写真を観ながら思っていたこと。それは、被写体がすでにその被写体でなくなった瞬間を撮った芸術作品とも言うべき「街の写真家森一生」の作品をどのようにして彼はうみだすのかという事だった。彼の写真館を見たかった。  

名古屋に向かった。しかし、会ってみて、その写真館の芸術作品は、彼の写真館にあるのでなく、森一生という写真家の姿にあることを知った。彼には、つまり、被写体たちが被写体であるという自意識を喪失させる眼差しがあった。  

彼の前で被写体たちは写される自分から生活している自分に帰ることが出来た。つまり、自然な日常の自分たちを、彼の写真館で、彼の写真機の前で、取り戻したのだ。それは、その写真館という空間にあるのでなく、森一生という写真家が創りだした被写体と自分との関係の空間に在ったのだと理解できた。  

ふと気が付けば、私は彼の前で、自然に自分を表現していた。その瞬間、ふと、どうしたのだろうかという不思議な感性に襲われた。彼のあの写真の面白さを知るために、ここまで来たのだはなかったか。それなのに、なぜ彼に質問を浴びせることが出来ず、何故、自分の話をしてしまうのか。その不思議な彼の雰囲気と自分の場違いな行動を観察しながら、自問していた。

しかし、その瞬間、私は彼の写真芸術の技術、「被写体が被写体としての自意識を消し去り、日常の世界へと立ち戻る」ことを可能にさせる撮影技能を理解した。つまり、そこに私が聞きたいことの答えが在った。その答えは、彼の職業的人柄と人格の調和によって出来ているものであった。彼は、私の不思議な感性して、その問いに答えていたのだった。それが、彼の写真芸術の本質だと、私は理解した。  

「どうして、貴方の写真の話を聴きたいのに、自分の話をしてしまうのか。」それが、彼の写真芸術の基本であったと、そう語りながら自覚した。不思議な瞬間であった。


* * * *


森さんとの名古屋の古い町並みの散歩、楽しいでした。最も、私の関心を呼んだことは、森さんが街の人々、商店、飲み屋、喫茶店、おばあちゃんから若い人まで、知り合いで、気さくに言葉を交わし、その日の出来事や、これからあるイベントの話を手短に、言い合い、そして、簡単に約束をしている姿であった。

彼は、この町の一人の住民として写真館を開き、写真を撮っているいう事でした。私が「上田正治写真美術館」で上田正治の写真を観ながら、森一生氏の写真を思い出していた世界が、名古屋の彼の生活空間に繋がっていた。

写真屋森さんの姿が、その町並みに溶け込んで、ジーパン姿で、皆さんの思い出の写真を取ってくれる写真屋のおっちゃん」であり、写真芸術家森一生は、そのおまけのような存在に映った。

最後に彼の行きつけのビルの前にへばり付いた飲み屋に行った。一杯飲み屋の狭い部屋で、常連やその連れがお互いに譲り合って、一杯引っかけて、冗談を飛び交わす。そんな庶民生活、そのものの日常風景と森さんの写真の関係の連立方程式の解が解けたようだった。

冬の薄暗い名古屋駅のビルの谷間に小さくなった空の下を潜り抜けて、新幹線の改札入口に近くなるにつれて、少し心残りがしながら、京都へ帰った。

「2014年12月6日 森一生撮影」


https://www.facebook.com/pashanova2011?fref=photo



2015年7月25日土曜日

「美にとって時間とは何か」

所幸則氏のポスト光描写芸術への挑戦

- 所幸則氏の写真展に行って -


三石博行


高精度の写真芸術は
生きている時性を極限にまで微分し
超写実主義の表現を可能にした。

しかし、それは
光描写の芸術は瞬間を切り抜き
リアルな世界を映し出す芸術。

しかし、彼は
写真芸術の進化に敢えて立ち向かい
機械による極限の時間微分から
生た人間の表象認識の時性
を描く。


さらに、彼は
光から色彩を奪い
視覚は光度に集中され
時性のみが物語る。


白黒の世界は
鑑賞者たちを一つの事実・生きた時間に集中させ

高速で走る新幹線から
視覚的な構造性が維持された遠距離の世界
パターン化される前に時間と共に過ぎ去る近距離の世界

目の前にある形象前の光の世界
構造前の光の表象現実


だから、
時性を微分する
写真芸術は生きた世界を
精巧に静物画化した
と、彼は語る。


だが、
現実の視覚の世界は
光の速さに押しつぶされ、
具象性を与えられないまま
非構造化されている
と、彼は語る。

それは、
写真芸術の進化
超写実主義静物画化への流れ
に抗うかのようにも観える。

そして、
美に取って時間とは何か
を問い掛ける。

あたかも、
分析、精密の概念に含まれた
「生きた時性」を排除し続けた
現代科学文明への
問い掛けのように思えた。


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所 幸則 「アインシュタインロマン」
https://www.facebook.com/events/1572418426342840/

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武蔵野大学教授 荒木義修氏と所幸則氏の写真展に行く。


2015年7月3日金曜日

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」


どの分野でも言えることかもしれないが、理論的に考えること、物事の基本構造を理解するための方法や論理を見つけることは、大切なことだと思う。それが出来ていることによって、応用問題を解くことが出来る。生活の中で問われることは、多くの場合、応用問題のようなものである。

つまり、柔軟な発想や状況に適した処置は、その場その場の対応ではなく、多分、物事の本質を理解し、その解決を状況に照らしながら行うことが出来ることを意味している。もし、思想や哲学を課題にする人々が日常の中で生じる事象に対して適切な対応が出来ないといことを、それらの思想問題や哲学的課題と理解していないなら、多分、それらの思索や研究は殆どが意味を成さないものではないだろうか。

私は、思想や哲学を日常生活の改善のための道具として位置付けて来た。その考え方は、日本の大学での哲学研究では主流ではないと思える。現在では少なくともそのことは変化しつつあると思われるが、西洋の哲学という学問を輸入し、近代日本の思想を構築してきた日本では、哲学研究の大半が「哲学史の研究」であった。哲学者とは「哲学史研究者」であり「過去のそして他所の哲学者の研究の紹介者・翻訳者であり解釈者」であった。

しかし、最近、少し変わってきた。哲学者と呼ばれる人々が、自らも哲学者と自称しながら、テレビ番組の社会評論や文化評論に他の分野の人々と共に、社会や政治、時にはスポーツについてまで評論・コメントしている。それを観ている大学哲学人は、嫌な感情を持っているかも知れないが、世間が、哲学者と自称している人々に歴史哲学の話でなく、今の世の中のことを話してくれと言っていることには違いはない。

その意味で、日本の哲学は、大学から変わるのでなく、世の中の人々の哲学に対する要求によって変わるのだろうと思った。哲学は常に反哲学的(哲学的であることを否定すること)であることによって、その哲学の存在意義を深める。思想は生活や社会実践に活かされ、かつ点検されることによって、その意味を理解される。日本の哲学が形成されるとすれば、それは大学からではない。多分、人々の生活運動と呼ばれる新しい時代に向かう生活文化活動とそれに向き合う自己探求の中から生まれるのだと思う。

2015年7月3日facebook記載

2015年1月17日土曜日

フェイブック芸術評論文集 序文

- 酔っ払いの無礼講としての作品批評 - 


三石博行


フェイブックでは沢山の芸術家がアトリエを開き絵画や写真を展示している。また、音楽コンサートルームで作曲した曲まで演奏して聴かせてくれる。そして、展示された作品にフェイスブック友人たちからコメントが書かれる。コメントを読むのも面白い。勝手な解釈が殆どのコメントで書かれている。中には、賛同できるものもある。

このフェイスブック展示会では、アーティストの展示作品の下に落書き帳が用意されている。そのフェイスブック落書き帳に友人たちが思うままに勝手な解釈を書き込む。アーティストもそれを楽しむ。これを「酔っ払いの無礼講のようなものだ」とフェイブック友人の写真家の森一生さんが言っていた。全く同感である。

鑑賞者(私のこと)はアーティストの作品に勝手なコメント・評論をしたがる。展示会場や美術館の観客は作品を観ながらブツブツと独り言を言っている。また、多くの観客は作品とその横に書かれている解説に読みふけっている。そして、多くの場合、解説が作品の評価となる。殆どの鑑賞者は解説のコピーのような評論を始める。そこで、私は、展覧会に行ったら一切解説を読まないことにした。

パリの印象派美術館でルノアールの絵が展示されていた。印象派の絵は私を含めて多くの日本人が好む画風である。巨匠ルノアールの絵であるから、どれも素晴らしい絵だと思うのが当たり前なのだが、私には、一つか二つの絵が、どうしても「駄作」に観えて仕方がなかった。それで、この巨匠の絵の前で「これは駄作だな」(日本語)と言ってしまった。横にいた妻(私より絵画に詳しい)が、私の手を引っ張って「マー、何て不謹慎なことを。。。」と小さな声(日本語)で囁いた。そこは幸いパリ、日本語は分からない。それで、少し大きな声で、印象派美術館の中で、巨匠ルノアールの絵を「駄作」と言っても横にいるフランス人には分からないのである。

もし、これらの絵を「ルノアールの描いた絵だ」と前もってコメントされないで、どこか場末のカフェーで観たなら、多くの人が私と同じく「この絵はルノアールの真似をしているようだが、駄作だなー」というかも知れない。それくらい、我々は、自分の感性で観ていると言うよりも「誰の作品か」とか「その作品紹介に何が書かれていたか」という偏見で作品を観ている。


その点では、フェイブック展示会はいい。別に自分を有名だと自負している様子もないアーティストたちが自由に展示会を開いて、無造作に作品を展示している。まるで、カフェーで似顔絵を描いて日銭を稼いでいるモジリアニの様に(フェイブック展示会では日銭も稼げないのだが)、そして、フェイブック展示会の公開「落書き帳」には得体の知れないフェイブック友人たちからでたらめなコメントが送ってくる。私もその一人で勝手なコメントを書き続けている。もちろん、殆どのフェイブック友人達は親切で、楽しいコメントを書いてくれるのだが、殆どチンプンカンプンな内容であるのではないかと思う。

しかし、何しろこのフェイブック落書き帳は、酔っ払いたちの落書きを許している世にも稀な手帳である。フェイブックでのトンチンカンな書き込み(実は私が最もトンチンカンな書き込みをしているのだが)を通じて、私は多くのフェイスブック友だちと、芸術評論めいた書き込みを続けることができた。この勝手な落書きも、皆が寄って集ってやりだすと、不思議なことに、なにか体を成してくるもんである。そこで、私は皆さんのアイデアを貰いながら、素人集団の勝手なコメント、「酔っ払いの無礼講としての作品批評」を書くことにした。殆ど間違いだらけの批評を集めて、これも一つの作品となることを理解した。

つまり、評論・コメントとは、評論を受ける側に評論される課題が在ると言うよりも、むしろ、評論をしなければならない側(私ですが)に、評論することの意味があるのです。アーティストの作品にコメントしながら、実は、自分の言いたいことを探しているのです。評論とは評論家のためにあるのであって、何もアーティストのためにあるのではないのです。従って、アーティストは、軽く、私の批評に耳を傾け、それらの殆ど間違いだらけの評論には、「今日の、つまみは大して美味しくもないが、珍しいなー」という具合に、軽く、酒の足し、つまり作品作成のために役立つものだけ摘み取れば良いのだと思います。酒の足し程度のものが、私が呼ぶフェイスブック評論なのです。

これから始まる私の素人評論は、言わば「酔っ払いの無礼講」であり、「書きたい放題の落書き」です。その点を、どうか、その点をお許し願いたい。


芸術評論文集「芸術評論落書き帳」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_1.html

フェイブック2015年1月17日記載

2015年1月12日月曜日

写真芸術の革命「1秒間の写真映像」

美に取って時間とは何か(1)


- 試論 所幸則写真芸術評論 -



三石博行


***** 1 *****

写真機はミクロな単位まで正確に対象を映し出すことができる。そこで、写真機を使った芸術・機械芸術によって超写実主義的な表現方法、光の世界の描写を正確に映し出す「光描写芸術」が可能になった。

この光描写芸術は、精度の高い写真機によって発展してきた。写真映像としての超写実的具象表現は、生きた時間表現を捨象して、形の最小単位である点まで明暗の差異を正確に表現できる写真機によって可能になった。

言うまでもなく、写真芸術の最も得意とする表現は精度の高い写実表現である。そのため、これまで正確な写実表現で描くことを要求された芸術はすべて写真にその座を奪われた。今では、芸術的な目的以外に、例えば、肖像画像を画家に描いてもらおうとは思わないだろう。写真で写せば、素早く、安く自分の姿を撮ることができる。

つまり、具象的表現の頂点に写真芸術は躍り出た。そして、写真の発明によって、絵画は写実主義的で具象的な表現から全面撤退を決め、新たな領域を開発し続け、現在の絵画芸術を生み出したのかも知れない。


***** 2 *****

しかし、所幸則氏は、写真芸術に一つの革命を起こそうとしている。写真芸術の進化の方向、つまり精度の高い光描写芸術の流れに反する超写実主義からの脱却を試みようとしている。彼は、光の世界にある構造的写実でなく、生きた光の流れの世界を、ある時は視覚の時間性を、そしてある時は身体運動の時間性を映しだそうと試みているようだ。

所幸則氏の「1秒間の写真映像」の作品、シリーズ「富士を撮る」やシリーズ「バレエダンサー樋笠理子」(私が勝手に命名)で、写真芸術で通時的に流れている生きた時間が表現できるかどうかという課題に挑戦している。普通、写真芸術を分かる人々から考えれば、彼の試みは常識を疑う挑戦であるとも言えるだろう。何故なら、写真芸術の醍醐味は、その機械芸術にしか可能にすることのできない超写実主義的な光の世界の描写であり、瞬時の造形美の最高の表現であると理解されているからだ。

所幸則氏撮影 タイトル 【300kmの速度から見えた不条理】


私の知る限り、これまでアインシュタインロマンシリーズのなかでみた「富士を撮る」では、白黒写真が使われてきた。時間性を表現するために白黒写真が使われている。何故なら、光から色彩を奪い、光の強弱の世界に視覚を集中させることによって、時間以外の余計な物語が飛び込んでくることを防ぐことが出来る。写真芸術家たちは、光の世界(世界の光)と心象色彩の違いを知っている。心象世界の一切の解釈を断ち切る手段として、白黒の世界を敢えて選ぶのである。つまり、その選択は、鑑賞者たちを一つの事実に集中させる手段なのである。


***** 3 *****

しかし、所氏はバレエダンサー樋笠理子さんとの共同制作(2014年11月30日ファイスブック公開)、シリーズ「バレエダンサー樋笠理子」ではカラーで撮っている。ダンサーにとって写真よりもビデオで自分の身体表現を取ってもらう方が自然だと思う。写真家とダンサーの二人(チーム)は写真で「美に取って時間とは何か」という課題に挑んでいるのだろうか。

所幸則氏と樋笠理子バレエダンサー


所氏の作品には、身体運動の美の表現、踊り子の姿、身体の具象性が色彩と光の強弱の世界に溶け出すことによって身体運動の時間の動きが表現されている。これはカラーであるからこそ、ダンサーが表現したい身体運動の音楽性が描けるのだとも言える。

これまでアインシュタインロマンシリーズの作品は白黒写真であったが、先日、2015年1月11日にカラー写真のTITLE「300kmの速度から見えた鉄橋」がフェイスブックで公開された。

高速で走る新幹線から観える世界は、遠い風景なら視覚的な構造性は維持されている。しかし、近距離にある物体は、殆ど、そのパターンを正確につかむことは不可能である。実際の視覚世界では、殆どが、パターン化される前に、時間と共に過ぎ去る。そして新しい世界が飛び込んでくる。この速度の世界はどのように視覚理解されているのか。多分、それは殆ど記憶の中に正確に留まることはないだろう。何故なら、それらのパターンは言語化しえない瞬間の世界にしか存在することを許されなかったからである。


所幸則氏撮影 TITLE「300kmの速度から見えた鉄橋」



この言語化される時間も許されなかった事物(前事象的表象世界)は、具象性を与えられなかった世界である。その世界を撮る。これは所氏の「1秒間の写真映像」という写真思想と写真技術によってしか生み出せない作品である。

光の速さに押しつぶされた現実の視覚の世界、時間的変化を受けて非構造化された世界、それこそ時間が視覚的空間を決定している世界である。その具象的世界は、言わば、ゆっくりと視覚的パターンを許されて成立している常識の世界から見れば、抽象画の世界になる。この抽象画の世界こそ、実際に存在していた高速で走る新幹線から観えた現実の世界であった。

この写真は、速度に捨象された視覚の世界の具象形態が抽象画的世界に成ってしまっている現実を教える。つまり、抽象性と具象性の間には認知時間の差異でしかないことを物語っているのである。言い換えると、我々は至る所で、実際は抽象画的世界に接している。しかし、それらの抽象画的世界は具象化されて意識に残り、記憶に保存されている。

更に、極論すれば、抽象的世界の風景が具象的世界の風景を取り囲んでいるのだという視覚や認識の世界の常識を破る、恐ろしい仮説を科学哲学者に投げかけているようであった。所さんの写真から、「美にとって時間とは何か」という課題は、科学哲学の中にある合理主義的世界観を震撼させる響きをもって聴こえてくるのである。



1月7日 フェイスブック記載文書 修正

https://www.facebook.com/yukinori.tokoro

https://www.facebook.com/hiro.mitsuishi



芸術評論文集「芸術評論落書き帳」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_1.html

2015年1月2日金曜日

写真的世界、絵画的世界と詩的世界の共鳴

パウル・ツェランの詩「息の折り返し」が問い掛けた「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」と201512日公開された岩本拓郎氏2枚の絵について

- 水上勉氏とのフェイブック会話を通じて-

三石博行



**** 1 ****


201512日に岩本拓郎氏がフェイスブックに記載した2枚の絵を巡て、水沢勉氏、岩本拓郎氏と私の三人は会話を始めた。

まず、水沢勉氏が この岩本氏の2枚の絵に「なぜかツェランの詩が浮かぶ・・・「氷河の部屋」・・・」とコメントした。しかし、私は、ツェランの詩氷河の部屋」を知らなかった。その意味も解らなかった。

このパウル・ツェランは現在はウクライナに属するブコビナ地方チェルニウツィー出身のドイツ系ユダヤ人であった。彼はユダヤ系の本名パウル・アンチェル(Paul Antschel)を隠すためにパウル・ツェラン( Paul Ancel) と名乗っていた。日本でも、非常に難しいドイツ語で書かれているパウル・ツェランの研究や紹介がなされている。彼の詩の紹介は例えば、「ツェラン特集、ユリイカ」、19921月号、青土社、のように、近年になって行われたと言える。

水沢氏は20087月に 横浜美術館レクチャールーム20087月に横浜美術館協力会の主催で開かれた横浜美術館レクチャールームの講演会の総合ディレクターであった。この講演会で「パウル・ツェラン」の詩の紹介があったので、当然、パウル・ツェランについて詳しい。

私は、このフェイスブックでの会話を通じて、初めてパウル・ツェランを知った。そこで、パウル・ツェランに関する情報をWebでさがす。「横浜トリエンナーレ2008・タイムクレバスの概要について」のブログで、水沢勉氏の言う「氷河の部屋」の詩に出会えた。この邦訳は講演者の井筒俊彦氏が訳したものであろうと言われている。それを紹介する。

パウル・ツェラン「息の折り返し」1967

「腐食させ、剥ぎ取る
汝が語る、光に射抜かれた言葉の疾風が
浅はかな体験の色とりどりのおしゃべりを
 ---- 私の百枚舌の 
詩、非-詩を
旋風に吹きさらわれ
視界の開けた
道を ひとのすがたをした雪
贖罪者の氷柱 なかを歩み
もてなしの準備万端整った
氷河の部屋へ入り、氷河のテーブルにつく

深く
時間のクレヴァスのなか  ( ZeitenSchrunde )
気泡だらけの氷のそば
息の結晶
汝のゆるぎなき証人 
それが私を待っている」

「横浜トリエンナーレ2008・タイムクレバスの概要について」から引用

だから、私は水沢勉氏がパウル・ツェランの詩、「深く  時間のクレヴァスのなか  気泡だらけの氷のそば  息の結晶   汝のゆるぎなき証人  それが私を待っている」が思い浮かぶのだと思った。

確かに、岩本氏のこの絵の中の横に広がる色彩空間の流れは、ツェランの詩「息の折り返し」で表現されている死と生との境界(二つの時間、動き続ける時間と止まった時間)の示すクレヴァス( crack)のように観えると水沢氏は解釈したのだと思った。しかし、私には、その時間のクレヴァスの中から、ツェランの詩から伝わる悲壮な叫びではなく、澄み切った明るく悲しいメロディーが岩本氏の絵から聞こえてくるのである。

パウル・ツェランの詩に詳しい水沢氏は、ツェランの詩の「気泡だらけの氷」 の表現は、ドイツ語の原文では Wabeneins で、直訳すると「蜂の巣氷」の意味になると指摘してくれた。つまり、Wabeneins(蜂の巣氷)は井筒俊彦氏によって「気泡だらけの氷」と意訳されたのである。

思想家井筒俊彦氏が、Wabeneins を「蜂の巣氷」と訳さずに「気泡だらけの氷」と意訳したのは何故なのか。私はそのことにむしろ興味を持ってしまった。そして、水沢氏が「蜂の巣氷」のイメージをサイトから探し出して敢えて見せてくれたその意味も理解したかった。

岩本氏は、20141227日から「ガラス窓氷結」シリーズを記載してきた。つまり、岩本氏は、この「ガラス窓氷結」シリーズの写真画を発表すうる意図について、以前、私に「氷結が半分解けて濡れたガラスの向こうに外の景色が見える」「運動の時間性、まさに。そしてボクの絵も絶えず動いているストロークの重なり、その間、アワイから見えてくるものであり、そこには時間性を孕んだ溶解と結晶化が渾然と絡み合っていると思っています。そんなアリアリとしたものをつくりたい。」と書いていた。

つまり、岩本氏は毎日の「ガラス窓氷結」の観察、写真「 窓の氷結シリーズ」 に記載した日々多様に変化する 「氷結」 の姿、それらは更に時間的に変化する姿、自然の造形美とは時間と共にあること、氷の結晶が解け、新たな模様が生まれる過程、構造化されていたものが融解していく状態、氷の結晶がもつ対称性が失われる運動過程(時間性)の中に生きた世界があること、自然のアリアリと続く世界を形象に含まれた時間を、形象化して失われる時間を、色彩空間へ解釈することによって、描きだそうとしていると、私は思った。

岩本拓郎氏作 2015年1月2日
























**** 2 ****


私の関心は寧ろ、水沢勉氏がコメントした「なぜかツェランの詩が浮かぶ・・・「氷河の部屋」・・・」に向かっていた。井筒俊彦氏が訳した思われるパウル・ツェラン「息の折り返し」に私のこころは奪われていた。

あの不思議なことば、そして、こころにいつまでも残る余韻。

「腐食させ、剥ぎ取る
汝が語る、光に射抜かれた言葉の疾風が
浅はかな体験の色とりどりのおしゃべりを
 ---- 私の百枚舌の 
詩、非-詩を
旋風に吹きさらわれ
視界の開けた
道を ひとのすがたをした雪
贖罪者の氷柱 なかを歩み
もてなしの準備万端整った
氷河の部屋へ入り、氷河のテーブルにつく」


私は以前(2012419日)ブログ「生活運動から思想運動へ」に「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」と言う詩を書いた。この詩は、「詩人と呼ばれる言葉の詐欺師」と「詩的に表現するという闇に実存を葬る行為」の二つの節からなっていた。

パウル・ツェラン(翻訳した井筒俊彦氏が意訳した)「汝が語る、光に射抜かれた言葉の疾風が  浅はかな体験の色とりどりのおしゃべりを」語るのは、詩人パウル・ツェラン自身であり、その自分の「(私の)百枚舌の  詩、非-詩」を 自ら「旋風に吹きさらわれ 視界の開けた道を」求めるのも自分であった。

彼(パウル・ツェラン)は何故、ここまで、つまり、詩人が語ることばの虚像を否定しなければならなかったのか。詩にとって真実とは何かを問い掛け、そして詩人の欺瞞性を見破ろうとしなければならかかったのか。詩的に表現することによって葬り去られる現実の実存の在り方を救いたかったのか。

彼の出会った「ひとのすがたをした雪 贖罪者の氷柱  なかを歩み もてなしの準備万端整った」とは何か。つまり、彼は、詩を一つの救いとして、詩を書くことは、彼には十字架を背負うと同じであったのか。まるで、最後の晩餐を連想させるように、彼は「氷河の部屋へ入り、氷河のテーブルにつく」のである。

岩本拓郎氏作 2015年1月2日


















**** 3 ****

なぜ、水沢氏は、岩本氏の2枚の絵画にツェランの詩が浮かんだのだろうか。まだ、私の疑問は続いている。
 
201512日に岩本拓郎氏がフェイスブックに記載した「外が明るくなってまた違う表情に。」の写真を発表した。その写真に対して、再び三人のコメント会話が始まった。

岩本氏から「FMでグルダとウイーンフィルのモーツアルトピアノ協奏曲20番が流れています。1976年。とても好きな演奏。なんかこの氷結に相応しい。」と「外が明るくなってまた違う表情に」と題する写真へのコメントが書き込まれる。

私は、「綺麗ですね。拓郎さんのアトリエは自然の美術館で、毎日、空気や水たちが、そして木々や小鳥たちが、楽しく作品制作をして、「拓郎さん、今日の作品、どうおもいますか」と言っているようですね」とコメントした。

しかし、水沢氏は「「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」。やはり、ツェランがお似合いです。それが作画にも響いている・・・向こう側に風景がわすかに透けて見えるのが対位法的です。あくまでツェラン・フリークのコメントですが」とすぐさまコメントを書いてきた。

ツェランの詩のことばを使った水沢氏の岩本氏の写真へのコメント「 「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」 」は、そのことばが独自に引き起こすイメージによって、私の想像力は掻き立てられていた。「氷河の部屋」がイメージする厳しく過酷な世界、そして「息の結晶」から想像される突然の死の訪れ。

私はこの水沢氏の「 「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」 」の表現に対して、人は、生きていたその時間を「息」として残す。そして、それは厳しい人生の中で、氷河の部屋で、死を迎え「結晶」となる。冷たい結晶となるというイメージを想像した。

そして、岩本氏の絵は、ツェランの詩の世界とは少し違う穏やかなもののようにも思えた。ツェランは迫害を受けたドイツ系ユダヤ人の運命を背負って出来ている。岩本氏もパウル・ツェランと同じくらい厳しい芸術家としての人生があるが、ツェラン的な時代性や世界は無い。

「氷河の部屋」のように寒気が襲うアトリエで、その日の創作活動に打ち込んだ生命力は、アトリエの作品として結晶する。それはある意味で芸術家にとって生きた時間(通時的時間)から死んだ時間(共時的時間)への変換を意味する。「息の結晶」が作品として形成する。それは作者にとって、喜ばしい瞬間であり、そして過去から現在への時間の不連続点を意味することになる。

だが、岩本氏は、二つの絵の誕生を喜んでいるに違いない。そこには自分のすべてがある。それは絵の中に入り込んだ自己の姿であり、氷となった自分息である。その「息の結晶」は美しく、悲しく、澄んだメロディーのように、他者化した自分の作品から聴こえてくるのではないだろうか。

「人は、生きていたその時間を「息」として残す。そして、それは厳しい人生の中で、氷河の部屋で、死を迎え「結晶」となる。冷たい結晶となる。だが、その結晶は美しく、悲しく、澄んだメロディーに共鳴している。多分、拓郎さんは、この窓ガラスの氷結の姿を ツェラン の詩の中にあった「氷河の部屋の息の結晶」、つまり 「深く 時間のクレヴァスのなか 気泡だらけの氷のそば 息の結晶  汝のゆるぎなき証人 それが私を待っている」 という詩の一節に通じる、 モーツアルトピアノ協奏曲20番 の悲しいが澄んだメロディーが、流れて来たのかも知れませんね。」

だが、私の中では、ツェランの詩が言いたかった「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」の意味は、まだ不明なのだ。

「深く
時間のクレヴァスのなか ( ZeitenSchrunde )
気泡だらけの氷のそば
息の結晶
汝のゆるぎなき証人 
それが私を待っている」

このツェランの詩の中に、果たして、私は「息の結晶」としての「汝のゆるぎなき証人」を見出すことが出来るのか。そしてツェランのように「それが私を待っている」と確信することができるのか。


参考資料


「横浜トリエンナーレ2008・タイムクレバスの概要について」

水沢勉氏のフェイスブック

岩本拓郎氏のフェイスブック

三石博行のフェイスブック


三石博行詩集 『心象色彩の館』

三石博行「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」

パウル・ツェラン Wikipedia
  
詩空間 20142月 河津聖恵のブログ 「それを通してすべてが消え去る輝き──」(M.ブランショ)
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2014/02/





芸術評論文集「芸術評論落書き帳」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_1.html

2015年1月2日

2014年12月18日木曜日

中間補色の織りなす表現戦略 岩本拓郎氏の絵

三石博行

岩本拓郎作(2014年12月16日)


岩本拓郎氏のフェイスブック
https://www.facebook.com/takurou.iwamoto.73?pnref=story

「中間補色の織りなす表現戦略」

*** 1 ***

岩本拓郎氏の絵を観ていると、中間色の語る物語が聴こえまるようです。中間色で彩られた色彩物語を想像してしまうのです。

日本人は多彩な中間色の文化の中で生活し、会話をしているように思います。

もし、私の記憶に間違いがなければ、以前、拓郎さんは、私に「西洋風の油絵技術は日本人には使いこなせない。色を重ねる技術が油絵と日本画では異なる。」とお話していたと、記憶しています。

拓郎さんの絵は、「極端な色彩」を避けているように感じるのです。多分、その意味は、強烈な補色を用いることで、失うものを感じているのかも知らません。強烈な色彩を避けることで、多様で豊かな補色表現を引き出しているのだはないでしょか。

極端な主張を好まない日本人は、色彩も原色を使うのを避けるかも知れませんね。そこには、日本的な風土の在り方の形が存在しているのかも知れませんね。


*** 2 ***

岩本拓郎さんの芸術には、「これは私独自の創作活動なのです」というメッセージが添付されていない。

「今日は、こういう気分でした」という軽やかな挨拶めいた語りが伝わってくるようだ。

だが多分、それは私の勝手な解釈で。彼は、寝る間もなく、色彩たちの議論を聴き入っているのだと思う。

そして、色彩たちの会話に付き合いながら、夜がが明け、そして筆を取り、その断片をスケッチしてみた。

スケッチした彼らのお話を、「お早うございます」と我々友人に言うように、送っている。

「今日は、こんな面白い話をきいたのですよ」と色彩たちの会話を、 白い寒気に包まれた森のアトリエから 、私たちに紹介しているようだ。


*** 3 ***

岩本拓郎さんの描く色彩空間から飛び出してくる
造形の光に、私は常に魅せられる。

そこで、
私は、「描かれた線は偶然なのですか。それとも、何かの形として表されたものなのですか。」
と彼に聞いてみた。

形象化しようとする表現戦略に隠された文脈
中間補色の織りなす表現戦略に隠されたメッセージ

それは夢の中の表象のように、
観る者が視られる世界に登場しているのだと、
言っているようだ。

彼から電話が掛かってきた。

多分、文字にできない多くのことばを抱え
忙しいアトリエの作業を中断し

私に迸るように話したことは

私が彼の絵から受け取る
色彩空間のリズムに関する説明であった




他在する世界内自己・他者としての自己 岩本拓郎氏の絵から

三石博行

岩本拓郎作(2014年12月16日)

岩本拓郎氏のフェイスブック
https://www.facebook.com/takurou.iwamoto.73?pnref=story

岩本拓郎氏の絵から聴こえる世界。それは「私に対する対象世界」・色彩表現ではなく、「対象世界に存在する私の世界」・色彩表現でした。

つまり、中間色間の織りなす補色の網目から、「それは(その世界は)私としての他者」である世界なのか、それとも「それは他者としての私」という世界なのかという課題でした。

言い換えると、我々は自己をどのように認識しているのかという疑問を常に突き付けられ、その答えを求めて生きています。

そして、自己とは、世界に対して存在していのであると結論し、自我を世界に対自しながら形成しようと考えることもできます。

また、逆に、自我を他者の存在やそれとの関係の中で位置付けようとすることもできます。つまり、対自された世界を逆に自己の世界として位置付けようとする試みです。日本的な自我はこの考え方に基づく場合が多いですね。

拓郎さんのこの絵を観ていると、無数の中間色とその補色関係が織りなす色彩世界が、後者、つまり、外的世界として観えたものに内在している自己ではないかという世界内自己の直感的な理解を感じてしまいます。

そして、沖縄でどくいりおむすびを渡した日本兵の懺悔が、戦争の悲惨さの物語に加わることを要求していると感じるのです。殺した側と殺された側に共に存在している悲劇が戦争の悲劇だと、色彩世界は言っているようです。

それによって、キリストとピエロ、サーカスと人生、この一見して結びがたい二つの共通項を見出すことが出来るのかもしれません。


2013年7月19日金曜日

詩にとって表現とは何か

画家笹井孝太氏と詩人寺田悦二氏との出会いの中で


三石博行


画家笹井孝太氏の絵

その画風は暗く、まるで後期ゴヤの作品のように思えた。一人の人間の顔面から強烈な魂が飛び出している。それは、「君は今どう生きているのだ」と問いかけているようだ。





















笹井孝太氏のホームページから
http://koutasasaiartstudio.tumblr.com/

寺田悦二氏のFacebookにこの絵がシェアされていた。
https://www.facebook.com/etuji.terada

笹井孝太氏のブログに「私は広島の宮島という島で画家をしながら、スタジオの一部を公開展示スペースにして作品をご高覧、またお求めいただいております。 スタジオは築120年ほどの古民家をお借りして、呼吸するような光のなか、極力自然光で作品をお見せしております。もし宮島へおこしになることがあれば、是非お立ち寄りください。また、お気軽に、お越しの際や、ご質問、また、このブログを通してのご相談や、作品のお求めを上記のメールにてお伝えくださればうれしいです。」(笹井孝太氏のホームページ)と自己紹介されていた。


言語にとって感性とは何か

寺田悦二氏のFacebookを通じて、笹井氏、寺田氏と私の会話が始まった。課題は、敢えてタイトルを付ければ「言語にとって感性とは何か」というテーマとなる。三人の会話をブログ調に編集しなおしてみた。

まず、会話の火ぶたを切ったのは私だった。笹井氏の絵に対して「すごい。何という迫力と問いかけだろうか。」と直感したことばを書き込んだ。

そして、私は、この凄い画家に「笹井さま、芸術や文化はもっともメッセージ力をもつメディアだと思います。言語を超えるもの、そこの人間の感性の原点があります。音楽、絵画や彫刻、演劇、映画、建築、都市、里山等々、人は美しいと感じ、また感激するものに、私たちの精神の基本的なあり方が存在していると思います。この絵を多くの人々に見せたいですね。そして彼が真剣に問いかけているものを感じさせたいですね。」とメッセージを送る。

すると笹井氏から「人間は精神です。最も精神的な媒介は言葉です。言葉には反省が伴います。反省は僕たちの神です。芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。僕たちは言葉を軽視しすぎる傾向にあります。なぜなら言葉をぼくたちは、文化だと思っているからです。言葉は決して文化ではありません。言葉は芸術そのものです。つまり人のいのちです。」とメッセージが返ってきた。

私は嬉しかった。そこで「笹井さま、いいですね。本当に共感できる感性のことばですね。」と返信した。

私は、もう一度、笹井氏の文章を読み直し、そして真面目な寺田氏に答えるために、文章の展開を企画した。その構成は三つから成り立っていた。一つは、笹井氏の問題提起である「言語にとって感性とは何か」、二つ目は、我々三人が問いかけたかった「芸術としてのことばとは何か」という課題、そして最後は寺田氏が求めていた課題「詩にとって表現とは何か」というテーマであった。

「笹井さんの「言葉には反省が伴います。反省は僕たちの神です。」という表現はいいですね。人にとって神(絶対的な存在)もコトバによって作らざるを得ないもの。つまり、我々(本能の狂った動物・神の支配を拒否した動物)は再びその存在を理解するために理性という言葉の機能(文化や精神の構造)によって再確認するしかないのでしょうか。」と私は書いてみた。

しかし、それは彼の「詩をどのようにお考えですか」という質問への入り口にすぎなかった。

つまり、笹井氏の言う「言葉が反省を伴う」という命題は、言葉がその言葉の主体に返された瞬間において成立することを意味すると考えたからだった。

笹井氏の芸術には人間存在への表現という課題があった。

そのため、彼は「芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。」(笹井)と書いたのだろう。

つまり、反省によって感性が「ことば」化するのだと笹井氏は述べている。笹井氏は、反省の意味の深さによって感性が「ことばと」して生まれ変わるのだと考えているのだろう。

そして、イメージ不可能な「感性」が人間存在そのものを問いかける「反省によって把握されるやいなや」、その感性は「ことば」を身につけ、「ことば」に化身することになる。その時、笹井氏は「言葉は芸術そのものです。つまり人のいのちです。」(笹井)という芸術(詩や文学の)表現について語ったのだろうか。


芸術としてのことばとは何か

笹井氏のコメントで直感的にすごいと思える文章は「芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。」という表現であった。

私は、笹井氏に「つまり、道徳とは正と悪を二分する論理を前提にして成立しています。しかし、人の善(前向きに生きる力)は悪(欲望に浸る生命体)の力によって生み出され、悪のない善はなく、善のない悪はない。自らの行為を善と信じることによってどれほどの極悪が繰り返されたか。芸術も哲学もそのことを訴えた。そして欲望(悪)は美として評価され、形式(善)はつまらないものとして飽きられていったのだと思います。」(三石)とコメントした。

そして、「人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。」(笹井)という彼が敢えて逆説的に導こうとした感性とことばとの関係に対して、「笹井さんの考え方もあると思います。しかし、詩人は多分、言語(反省的表現)を超えるために、ことば(感性的表現)を駆使しているように思えます。つまり、ことばに含まれる概念よりもイメージを探し、そのイメージから出てくるコトバの力を引き出そうとしているようです。私は理性的に語られる言葉が好きです。しかし、同時に感性的なことばの力も理解できます。その二つの側面に人間的な精神構造があるように思えます。」(三石)と答えることにした。

この論理の方が、素直だと思ったのだ。

つまり、ことばは多分、人の在り方そのもので、それによって人が始まり、人が終わるようにも思える。「その意味で聖書の一節は意味深い。つまり、人という動物はその存在を維持するために自ら文化(ことば)という生態環境を作らざるを得なかったのだと思う」(三石)と述べた。しかし、この論理は非常にありきたりのものに過ぎない。


詩にとって表現とは何か

これらの前置きは、寺田氏が投げかけた「感性が反省によって把握される」場合において、「感性はことばになる」という笹井氏の考え方に対して、「詩をどのようにお考えですか」という疑問に近づくためのものである。

何故なら、詩人にとってことばは感性的表現だけでなく表現化するための作戦(戦術)でもある。そのことを詩人は知っている。そのために、単純に感性がことばとなると言いきれないのだろう。

私は詩を書くことについて、以前、「詩的に表現することとは何か 詩にとって真実とは何か」、私のブログの中で、詩を書くことの自己欺瞞を書いたことがあった。

それは、死刑囚大道寺将司氏の俳句集「棺一基」を呼んで、ぎりぎりの言葉(ことば)、自己欺瞞をすべてそぎ落としたことばに接したからだった。それについてブログに「言(ことば)が肉となった」を書いた。

寺田氏の答えは明快であった。詩を書く主体でなく、その詩を読む対象者達の感性、つまり「詩の真実とは読む人の感動だと考えます」という返答であった。詩人は自らの感性をそのままことば化する作業をしておけばいいのだ。自分は詩人であると意識する必要はない。それは意識過剰ではないかと寺田氏は言っているのだ。

寺田氏が詩を意識したのは中学生であった。「私(寺田氏)も詩人になろうとはなぜか思いませんでした。むしろ画家に憧れていました。でも結局は詩を書くことに自分の生きる糧のようなものを感じています。今も好きで勝手に書いているだけの者で、普通の会社員です。詩を書くのに特別な条件はいりません。(あなたもただ書けば)いのではないでしょうか」と詩を書きたいが書くことを禁止している私を励ましてくれた。

これまで、私は「ことばをできるだけ詩的な世界から切り離すことを仕事にしてきました。だが、やはり私は詩を書きたい。詩でしか私であり得ない世界がある」ことを知っている。詩を書くことは、詩人になる(意識過剰になる)ことではない。ただ、寺田氏のように書きたいがために書くことに過ぎない行為なのだと理解した。

私は、寺田氏や笹井氏に感謝した。彼らとの出会いで、私はまた詩を書きたいと思った。その詩のスタイルは三石流でいいのだろう。そして、これまで書いたブログの文章で詩となってしまったものに新しく「詩」というタグを作ってみた。


エピローグ

笹井氏から「画家にとって真実とは何か」という内容の文章が送られて来た。

彼は「絵は見ることと筆を動かすことしかありません。目の前に出てきたものにすがったとたん、芸術は力を失います。それはみていたものをみなくなったからです。だから手法手段はどれだけ稚拙でも、みることによって芸術に力を与えることができます。だいたい手段なんて言うものは みな、どっこいどっこいのうそです。でもそれに照応される嘘じゃないものがある。もし手段手法が真実なら、あらわれてくるものは、嘘です。」(笹井)と書いた。

「絵は見ること」によって成り立つ。もし、それをそのまま見ることでなく、それを自分の解釈(ある表現手段を前提にした見方)によって見ようとすることになるなら、絵を見る力は削がれるだろう。その意味で笹井氏は芸術を力を失うと言った。

また彼は、解釈、つまり理解や表現の手段(芸術家達が追い求める作風や流儀)は、どれもとどの詰まり、同じようなものだろうと言い切った。ここまで来ると、画家笹井氏の思想を理解することが困難に思えた。解釈なくして世界を見ることも表現することも出来ない。だが、それよりも前に画家には問われている世界がある。それは「見ること」だと言うのだ。そのままに見ること。

余りにも、技法に囚われていることによって、美は力を失う。これが画家笹井氏の結論であった。そのことは、詩的に表現することが技法でなく、現実の世界と湧きあがることばの照応現象であることによって、「詩にとって真実とは何か」が感じられると彼は、「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」(私のブログ)に対して答えてくれたのだった。

笹井氏は寺田氏や私が問いかけた「詩にとって表現とは何か」の答えを画家としての生活の中から語りかけてくれたのだった。


引用、参考資料

寺田悦二氏のFacebook
https://www.facebook.com/etuji.terada

笹井孝太氏のホームページ
http://koutasasaiartstudio.tumblr.com/

三石博行 「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_4925.html

三石博行 「言(ことば)が肉となった」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_17.html

NHKETV特集「失われた言葉を探して」2012年4月15日 辺見庸出演
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0415.html

大道寺将著 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)
http://mmall.jp/item/170872390?aff_id=src0101&l=true


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