商品化した他者の再生は可能か
三石博行
抽象的に感謝の気持ちが湧くだろうか
よく感謝の気持ちをもって生きるという道徳心が語られる。この「感謝の気持ちを持つ」ということばは、道徳的なことばとして語られる場合、そのことを実践的に理解する上での困難さや疑問に出会う。しかし、「感謝の気持ちを持って生きる」ということに疑問を投げかける人はいない。何故なら、それは人として大切な心遣いであるということが余りにも自明であるとされているからである。
感謝する、人に感謝するという感情は抽象的な対象、人に対して沸きあがるだろうか。感謝である以上、何か具体的な内容、感謝すべき内容と、具体的な対象、感謝したい人(具体的な個人)がいるはずである。その意味で、感謝という感情を人という一般的な対象に対して、一般的な気持ちとして持つことは、何か無理があるように思う。
同じようなことばとして「生かされている自分」への自覚という概念がある。人は一人で生きているのではなく、人々は協力しあい支えあい生きているという当たり前の考えに立って、自分だけで生きているという考え方に対する批判的な視点を、この概念は与えている。生かされている自分の自覚と人への感謝の気持ちとは、前者が生きている自分の現実を意味し、後者は生きている中での具体的な他者からの行為に対する感情を意味している。
従って「生かされている自分」の自覚(意識化)は、人間が社会的存在であることの自覚として理解される。この意識は具体的な誰かに対してや何かに対してという感情ではなく、自分が生きて来た(生きている)現実に対する自己意識的な生きてきたという解釈(主体性論)から、多くの人々の労働や行為によって生かされているという解釈(社会文化環境論)へ変換、つまり理解や解釈の変更を意味する。
しかし、「生かされている自分」という気持ちが「感謝」と結び付くとき、「生かされている自分の現実」に対する解釈が、より具体的な事実(出来事)や具体的な個人に対する感情として、それらの人々によって今まで生かされてきた自分への自覚となる。その場合、「努力し状況を切り開いてきた自分(主体的に生きている自分)」という解釈から、「誰々(具体的個人)の何々という協力(具体的な行為や物質的根拠を背景にした助け)に対して自分ひとりではどうにもできなかったある具体的課題を解決、もしくは解決の糸口を見つけた」ことに対する感謝の念を抱いている心理的状況を意味している。その場合、「生かされている自分」という自覚は、何か具体的な課題が前提にした誰か具体的な人への「感謝」であるといえる。
もし、人は漠然とありがとうという気持ちを持ち、抽象的に感謝の感情を抱くことはないのなら、「人に感謝の気持ちをもって生活する」という道徳的な教えは、もっと説明が必要になるだろう。そして、感謝を一般的に「有難いと思う」と語ることは、実は感謝の本質を理解していないと批判されても仕方がないのではないだろうか。この感謝を道徳的なテーマとして提案することに対して、ここでは批判的に検討してみる必要がある。
見えない人々の絆や手助けに対する繊細な感情
「感謝の気持ちをもって生活したか」という項目を一日の反省の課題に取り入れるなら、その点検作業をどのように進めるだろうか。前記したように、今日一日の生活の中で、具体的な課題である誰かに対して感謝の念を抱く経験をしたかとうい事になる。しかし、もし、感謝の念という感情を、他者のある積極的な行為に対する感情として受け取るなら、多分、毎日、感謝の気持ちが湧くような機会には恵まれないのではないだろうか。
言い換えると、多くの人々から援助され、また手助けされる状況は、よほど大変な被害にあった状況、たとえば今回のような大震災の後に避難所生活をしているような境遇でない限り、生まれないだろう。普通は、殆ど、他人の積極的な手助けを必要としない程度に十分自分でやりくりしている。だとすると、毎日、感謝の気持ちをもって生活したかと問いかけるのはやり過ぎだと思われるかもしれない。
しかし、日常生活では、色々な他者の手助けにあっている。例えば、こうして仕事を大学の研究室で行っているのは、この大学が存続しているからであり、また、学生がこの大学に入学してくれているからである。さらに、この文章を書くためのPCがあり、それを動かす電気があり、ブログをアップする機能(インターネット)があり、また、情報処理を行う知識(それを学んだ経験)があり、そして、研究室の机、暖房器具、照明器具、知的労働を手助けするノート、筆記道具、その他の文房具、等々。数えると限りない多くのもの(過去と現在の人々の労働の産物)に囲まれていることには確かである。それらの一つひとつに対して感謝の念を持つということは、多分「それらのものを大切に使う」ということに尽きるだろう。そして、何よりそれらのものを使って、より社会に貢献する働きを行うということになるだろう。
感謝の気持ちとは、自分が支えられている具体的な現実を理解することである。人々はそれぞれの現実生活の中で生きている。その意味で個々人の感謝の内容はその人々の具体的な現実生活の中身によって異なるものである。しかし、感謝するこころのあり方には、共通したものがある。それは、自分に与えられた現実の生活を営むことができるという状況である。その状況を生み出している環境(ものやひとによって生み出された)に対する理解となる。
会社のトップの例で言うと、その会社で働く人々から会社の製品を使ってくれる消費者、そして、その会社の製品製造のための原料を提供する人々や企業等、それらのすべてに対して感謝の念を持つということになる。すると、感謝の念とは、抽象的なものではないと気付く。それは極めて具体的であり、そしてことばだけでなく、社会貢献等の社会行為や他者を利することによって自己を利すると信じる生活行為として表現されるものだと思える。
つまり、感謝という気持ちは、見えない人々の絆や手助けに対する繊細なこころ(感情)のように思える。感謝の念を持つということは、自分を取り巻く世界によって生かされている自分の現在を見つめる気持ちから生まれるのではないだろうか。
商品化した他者
もし、確りと自分の周り(生活環境)を見つめ、今まで自覚していなかった人々の労働(労力)や援助(手助け)、そしてそれを可能にしている社会、その社会のモラルに対する繊細なこころを持つことが出来れば、人々は、日常的に感謝の気持ちを持つことが出来るかもしれない。もし、これがなかったら大変な苦労をしたかもしれない。もし、この人が居ないなら、仕事は終わっていないかもしれない。もし、この社会の制度がなければ自分はこうした生活を送ることは出来なかったかもしれない、等々。限りなく、多くの条件(生活環境の)が自分を守り、自分を生かしていることに気付くかもしれない。
そして、他人の手助けで動いている社会(高度に分業化した社会・商品生産を行う社会)では、他者の労働が商品として売り出され、それを買った人は、その労働を自分のものだと理解してしまう。金を払った以上、その商品を自分が捨てようが壊そうがそれは自分が決める権利を持つと信じている。つまり、この資本主義社会は、他者の労働力(商品)を豊富に手に入れることができる。
その意味で豊かな社会、言換えるとより多くのそして多様な人々によって相互に支えあっている社会であると言える。その反面、この社会では商品化された労働、つまり具体的人々の労働の姿が見えなくなる社会でもある。それは使用価値を失った交換価値だけの商品(通貨)によってしか、商品の交換ができないからである。それ自体、資本主義社会(経済の発達した社会)の宿命であると言えるだろう。
そこで、商品に囲まれた社会で生まれ育った人々、つまり金があれば何でも買えるという考え方(我々の社会常識)をもった人々にとって、カネで自分が買った商品(品物や労働力)に感謝の気持ちを持てと言う方が無理難題、言いがかりを付けているとしか思えないだろう。これが、この社会の常識なのである。資本主義社会は、他者の労力を商品化することによって、その労力を普及させ、多様化させ、その労力の交換をスムーズにさせた。そして同時に、他者は商品化し、商品化した他者に囲まれて生活することになる。つまり、他者の人格も感情も自己に介入し自己を動揺させることも、感銘させるることもないのである。
商品に作った人の顔をイメージする力
地産地消をモットーにした八百屋の店頭に名前入り野菜が出回る。何とも安心感を持つのは、その野菜が安全だと言うだけではない。その野菜をつくった人々の顔が見えるからだろう。また、オーダーメードの商品が受けるのは、多分、自分に合った品物ということと同様に、作った職人の顔が見えるからだろう。
人々は、本来の商品交換の姿を求めている。それは、労働力(お金)と労働力(品物)の交換である。そして、その交換に必要なものは、失いかけている人の顔や関係(絆)の確認である。感謝という言葉でなく、お互いの作ったものを評価すること、そして大切に使うこと、そのことに感謝の内実が含まれているようだ。
他者の働きを評価すること、例えば、上司が自分の仕事を手伝う部下の人々への気遣い、夫が家庭を守る妻の苦労を理解してやる気持ち、同僚の作業内容を理解し彼らの力を得て自分が仕事をすることが可能になっているという気持ち等々、日常生活の中では不断に他人の働きを感謝している。そうした気持ちがあることで、家庭、職場や地域社会の和が成立している。言い換えると、日常の家庭や職場の中に、共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころを感謝の気持ちと呼んでいるのだろう。そう考えるなら、それらの考え方や感情、生き方が、自分自身にそのまま問われていることに気付くのである。私は果たして、自分の周りの人々や社会への感謝の念を持って生活しているのだろうか。
商品社会・資本主義社会では、商品に作った人の顔をイメージする力が欠落することで、より巨大な消費社会を可能にした。商品が顔を持たないことで、つまり大量生産システムが可能になることで、人々は口数の少ない商品、つまり安価な商品を手に入れることが可能になった。その意味で、資本主義社会は、広範な地域での労働力の交換に成功し、より多くの生産物をより早く、より多く流通させることが出来た。その速度に反比例するように、労働力から人の顔が消滅していったようだ。つまり、資本主義社会で、消費に感謝の気持ちがないというのは時代錯誤も甚だしい意見であるともいえる。いちいち、商品に顔を付けていたら、時間が掛かるし、大量に生産することは不可能なのだ。
しかし、この社会もようやく一回りしたようだ。人々は安さよりも安全を、均一な商品よりも個性のある商品を、既製品よりもオーダーメード商品を求めるようになった。野菜にも生産者の名前が入り、ハンカチにも作者名が入る。そしてそれらの品物を大切に出来る限り長く使う。壊れたら直し、使えなくなったらその材料で別のものを作ったりする。この行為を感謝と呼んでもいいのだと思う。何故なら、感謝とは共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころなのだから。
誤字修正 2012年2月24日
--------------------------------------------------------------------------------
Tweet
哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2012年2月22日水曜日
2010年12月2日木曜日
新しい日本社会・民主主義と個人主義時代の責任の取り方
責任を取る行為・考え方の転回期を迎えた現代日本社会
三石博行
失敗したら切腹、美しい国日本の文化
切腹という異常なまでの責任の取り方をもつ武士の文化、それを精神文化の基本としていた日本人が、全く、責任を取らない日本人と、国内の企業や組織の中は勿論のこと、アジアや国外からも言われるようになったのは、いつごろからだろうか。
そして、何故、我々の日本文化から責任を取らないという習慣が生まれたのだろうか。また、責任を取るという個人の態度やモラルは、いつごろから喪失したのだろうか。
そこで、つい最近までの、日本人の中にあった失敗の取り方の習慣を考えてみる。つい最近まで、少なくとも1990年代までは、失敗の責任を取る仕来りがあった。それは辞めることであった。つまり、辞表する。失敗の程度によるが、会社に損失を与えた場合、役員であれば会社を辞表する。職員であれば減給にする。組織の長や執行部の失敗は、その程度によりけりで、組織を去る、職務を辞める、減給する等々である。しかし、最も立派とされる失敗の責任の取り方は辞表であった。
どのような立場の人も、もし失敗を認めれば辞職しなければならないと言う極端な結論は、ある意味で、日本的なものではないか言える。何故なら、間違いを犯した場合武士は切腹、やくざは指をつめるという習慣(失敗の取り方の作法)のように、自らの死(辞表)をもって、失敗の責任を取らなければならないからである。
この失敗したら会社を辞めるという考え方はつい最近まであった。今もやはりある社会では確りと残っている。
日本式責任の取りか方の消滅の理由、終身雇用制度の崩壊
考え方を換えて観れば、今の日本人は、失敗を取らなくなったのでなく、今までのような失敗の責任の取り方をしなくなったと理解すべきではないか。
それも失敗の程度によるが、企業に甚大な被害を及ぼすような失敗でなく、事業計画などが失敗したことで企業にある程度の損害が生じしても、以前のように切腹まではしなくて済むようになった。精々、役職を辞めればいいのである。
そして、今の日本では、新しい責任の取り方が見つかっていない状態にある。それが、失敗と取らない日本人の姿として観えるのではないだろうか。
失敗の責任の取り方には、あるモラル、行為の美学や作法に関する美意識が内在している。
桜の花が散るように、武市は見事に腹を切った。
桜の花が散るように、健さんは見事に弟分の責任を取って、指をつめた。
そこには、日本的美談、潔い行き方への憧れがある。
年功序列、終身雇用制度があった時代には、こうした美談に憧れる余裕があったかもしれないが、いつでもリストラされる社会で生きる人々には、その余裕もないのが現実である。
武士の社会文化も終身雇用制の終焉とともに、この日本から消滅使用としているのかもしれない。つまり、企業戦士(侍)は、明日は浪人になる立場に立っている。企業のために命を掛けた戦士も、その企業から簡単にリストラされる時代に直面している。今までのように、命を無駄にしていたら、何回も腹を切ることになり、終には、万年浪人の生活がまっており、ホームレスで終わる可能性もある。
日本的責任の取り方が消滅したのは、日本的な雇用制度、終身雇用制がなくなったのと無縁ではなさそうである。
そのため、今までのように、武士は潔く腹を切ることを辞めた。今までのように、日本式の責任の取り方をしなくなったといえる。
今、失敗に対する対応が問われている
しかし、一方で、責任を取らないという、新しいサラリーマン文化がもたらす社会的問題が生じている。そして、日本では、誰も責任を取らない体質が企業や組織で蔓延していると言われているようになった。
例えば、ある企画を行った人々が、その結果に対して責任を取らないために、組織では、生じた課題を基本的に解決することが出来ない。そのため、同じような失敗を繰り返す結果となる。最も代表的な例は、ブログ「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
で示した、雪印食品や動燃の失敗例である。
同じ失敗を繰り返すことで、その組織や企業は、社会的信頼を決定的に失うことになる。つまり、組織の失敗を、組織内部で点検、修正する力がなければ、また同様に、組織内部で失敗に対する処理を間違えば、その結果は、いずれ、その組織の外部評価の損失、社会的信頼を失い、その組織が存続することは不可能となる。
つい最近、例えば三菱自動車や雪印食品のように、それに近い状況で、企業が危機に瀕し、倒産した事件があった。失敗に対する対応の失敗に結果で、企業は倒産する時代が来ていることも確かである。
つまり、日本伝統の責任の取り方の文化が消滅しながらも、新しい責任の取り方の社会文化や組織運営のあり方が見つからないために、結果的には、社会全体が大きな損失を蒙っていると言えるのではないだろうか。
失敗学から導かれる行為責任論
この答えを導くために、畑村洋太郎氏が提案してきた『失敗学』は大いに参考となる。畑村氏の失敗の概念は、成功の反対概念ではなく、行為の目標値(期待値)に対する負のズレである。そのため、失敗は個人個人の目標に対して、計量的に(程度としても)測定可能になる。
また、失敗という目に見える現象を生み出すもの、つまり失敗の原因と呼ばれているものを、畑村洋太郎氏は、「からくり」と「要因」に区分した。「からくり」とは、行為の主体者、個人や組織の性質、体質、技能、考え方、方法論などである。つまり、行為を導き出す作法や様式に近い概念である。「要因」は、その行為主体を取り巻く環境や条件である。
要因は色々と考えられるのであるが、からくりを見つけることが一番大変なことである。
何故なら、自分の癖は自分では分からないからだ。組織の体質も組織内部にどっぷりつかった人々には見えない。日本社会の習慣も日本から出たことのない人々には理解できない。
この失敗学から導かれる失敗の責任の取り方のヒントは
1、 ある部署で、失敗を起こしたら、その部署の人々で、まず、そのからくりや要因を見つけ出す。
2、 しかし、そこで導かれた「からくり」つまり失敗の原因と考えられる組織や個人の考え方、体質、方法、技能等に関しては、外部から人を入れて、再度点検する必要がある。
3、 それらの失敗から学んだこと、教訓を出来るだけ情報公開して、さらに他の失敗例との関係を求め、普遍化する必要がある。
仕事のスタイルとしての責任の取り方を見つけ出す必要性
新しい時代、つまり、個人主義は日本社会の中に確りと根付き、今までの古い雇用制度でなく、能力評価を得ながら、その個人の力の評価を基にして、雇用関係が成立する時代に向かった、失敗の取り方一つにしても、社会は真摯に考え、そして解答を見つけ出さなければならないだろう。
日本人は責任を取らなくなったのではなく、新しい責任の取り方を見つけ出せない状態にあると言える。そのことを理解した上で、失敗学から導かれる責任論をさらに展開する必要がある。
新しい時代での、失敗に対する責任の取り方を見つけ出すことによって、企業が存続するあり方や、日本という社会が国際社会の進展から取り残されない方法を、見つけ出すことが出来ると思う。
参考文献
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、
Tweet

2011年6月28日 大幅に修正の予定
三石博行
失敗したら切腹、美しい国日本の文化
切腹という異常なまでの責任の取り方をもつ武士の文化、それを精神文化の基本としていた日本人が、全く、責任を取らない日本人と、国内の企業や組織の中は勿論のこと、アジアや国外からも言われるようになったのは、いつごろからだろうか。
そして、何故、我々の日本文化から責任を取らないという習慣が生まれたのだろうか。また、責任を取るという個人の態度やモラルは、いつごろから喪失したのだろうか。
そこで、つい最近までの、日本人の中にあった失敗の取り方の習慣を考えてみる。つい最近まで、少なくとも1990年代までは、失敗の責任を取る仕来りがあった。それは辞めることであった。つまり、辞表する。失敗の程度によるが、会社に損失を与えた場合、役員であれば会社を辞表する。職員であれば減給にする。組織の長や執行部の失敗は、その程度によりけりで、組織を去る、職務を辞める、減給する等々である。しかし、最も立派とされる失敗の責任の取り方は辞表であった。
どのような立場の人も、もし失敗を認めれば辞職しなければならないと言う極端な結論は、ある意味で、日本的なものではないか言える。何故なら、間違いを犯した場合武士は切腹、やくざは指をつめるという習慣(失敗の取り方の作法)のように、自らの死(辞表)をもって、失敗の責任を取らなければならないからである。
この失敗したら会社を辞めるという考え方はつい最近まであった。今もやはりある社会では確りと残っている。
日本式責任の取りか方の消滅の理由、終身雇用制度の崩壊
考え方を換えて観れば、今の日本人は、失敗を取らなくなったのでなく、今までのような失敗の責任の取り方をしなくなったと理解すべきではないか。
それも失敗の程度によるが、企業に甚大な被害を及ぼすような失敗でなく、事業計画などが失敗したことで企業にある程度の損害が生じしても、以前のように切腹まではしなくて済むようになった。精々、役職を辞めればいいのである。
そして、今の日本では、新しい責任の取り方が見つかっていない状態にある。それが、失敗と取らない日本人の姿として観えるのではないだろうか。
失敗の責任の取り方には、あるモラル、行為の美学や作法に関する美意識が内在している。
桜の花が散るように、武市は見事に腹を切った。
桜の花が散るように、健さんは見事に弟分の責任を取って、指をつめた。
そこには、日本的美談、潔い行き方への憧れがある。
年功序列、終身雇用制度があった時代には、こうした美談に憧れる余裕があったかもしれないが、いつでもリストラされる社会で生きる人々には、その余裕もないのが現実である。
武士の社会文化も終身雇用制の終焉とともに、この日本から消滅使用としているのかもしれない。つまり、企業戦士(侍)は、明日は浪人になる立場に立っている。企業のために命を掛けた戦士も、その企業から簡単にリストラされる時代に直面している。今までのように、命を無駄にしていたら、何回も腹を切ることになり、終には、万年浪人の生活がまっており、ホームレスで終わる可能性もある。
日本的責任の取り方が消滅したのは、日本的な雇用制度、終身雇用制がなくなったのと無縁ではなさそうである。
そのため、今までのように、武士は潔く腹を切ることを辞めた。今までのように、日本式の責任の取り方をしなくなったといえる。
今、失敗に対する対応が問われている
しかし、一方で、責任を取らないという、新しいサラリーマン文化がもたらす社会的問題が生じている。そして、日本では、誰も責任を取らない体質が企業や組織で蔓延していると言われているようになった。
例えば、ある企画を行った人々が、その結果に対して責任を取らないために、組織では、生じた課題を基本的に解決することが出来ない。そのため、同じような失敗を繰り返す結果となる。最も代表的な例は、ブログ「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
で示した、雪印食品や動燃の失敗例である。
同じ失敗を繰り返すことで、その組織や企業は、社会的信頼を決定的に失うことになる。つまり、組織の失敗を、組織内部で点検、修正する力がなければ、また同様に、組織内部で失敗に対する処理を間違えば、その結果は、いずれ、その組織の外部評価の損失、社会的信頼を失い、その組織が存続することは不可能となる。
つい最近、例えば三菱自動車や雪印食品のように、それに近い状況で、企業が危機に瀕し、倒産した事件があった。失敗に対する対応の失敗に結果で、企業は倒産する時代が来ていることも確かである。
つまり、日本伝統の責任の取り方の文化が消滅しながらも、新しい責任の取り方の社会文化や組織運営のあり方が見つからないために、結果的には、社会全体が大きな損失を蒙っていると言えるのではないだろうか。
失敗学から導かれる行為責任論
この答えを導くために、畑村洋太郎氏が提案してきた『失敗学』は大いに参考となる。畑村氏の失敗の概念は、成功の反対概念ではなく、行為の目標値(期待値)に対する負のズレである。そのため、失敗は個人個人の目標に対して、計量的に(程度としても)測定可能になる。
また、失敗という目に見える現象を生み出すもの、つまり失敗の原因と呼ばれているものを、畑村洋太郎氏は、「からくり」と「要因」に区分した。「からくり」とは、行為の主体者、個人や組織の性質、体質、技能、考え方、方法論などである。つまり、行為を導き出す作法や様式に近い概念である。「要因」は、その行為主体を取り巻く環境や条件である。
要因は色々と考えられるのであるが、からくりを見つけることが一番大変なことである。
何故なら、自分の癖は自分では分からないからだ。組織の体質も組織内部にどっぷりつかった人々には見えない。日本社会の習慣も日本から出たことのない人々には理解できない。
この失敗学から導かれる失敗の責任の取り方のヒントは
1、 ある部署で、失敗を起こしたら、その部署の人々で、まず、そのからくりや要因を見つけ出す。
2、 しかし、そこで導かれた「からくり」つまり失敗の原因と考えられる組織や個人の考え方、体質、方法、技能等に関しては、外部から人を入れて、再度点検する必要がある。
3、 それらの失敗から学んだこと、教訓を出来るだけ情報公開して、さらに他の失敗例との関係を求め、普遍化する必要がある。
仕事のスタイルとしての責任の取り方を見つけ出す必要性
新しい時代、つまり、個人主義は日本社会の中に確りと根付き、今までの古い雇用制度でなく、能力評価を得ながら、その個人の力の評価を基にして、雇用関係が成立する時代に向かった、失敗の取り方一つにしても、社会は真摯に考え、そして解答を見つけ出さなければならないだろう。
日本人は責任を取らなくなったのではなく、新しい責任の取り方を見つけ出せない状態にあると言える。そのことを理解した上で、失敗学から導かれる責任論をさらに展開する必要がある。
新しい時代での、失敗に対する責任の取り方を見つけ出すことによって、企業が存続するあり方や、日本という社会が国際社会の進展から取り残されない方法を、見つけ出すことが出来ると思う。
参考文献
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、
Tweet
2011年6月28日 大幅に修正の予定
2010年11月29日月曜日
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評
三石博行
第1章 テキストの出典
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、第一章「失敗学の基礎知識」pp17-63
テキストの文献記号は、(HATAyo05A )とする。
著者畑村洋太郎は1941年生まれ、東京出身、東京大学名誉教授、工学博士、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学を研究。最近では、工学分野に留まらず、経営分野における失敗学などの研究を行っている。
畑村氏は、失敗学に関して、「失敗学のすすめ」「回復力 失敗からの復活」、「危険不可視社会」、「失敗学(図解雑学)」、「危機の経営」、「だから失敗が起こる」、「失敗を生かす仕事術」、「失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される」等々、多くの著書を出版している。
第2章「失敗学の基礎知識」pp17-63の要約
2-0、「失敗学」における失敗の定義
著者は失敗学における失敗の定義を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものとなる」(HATAyo05A p14)と述べている。つまり、失敗とは、ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している。
2-1、「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる
著者は、「初めて失敗学に触れる人たちのことを考え、第一章では、失敗学の基本的な考え方を」述べる。
「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる
著者は「失敗を生かすための第一段階は」、失敗のからくりを理解することであると述べている。つまり、「どんな原因がどんな結果(失敗)をもたらしたか」を正しく理解することである。
失敗が起きたときに目に見えるものは、失敗したと評価されている「結果」の部分である。問題は、何故失敗したか、その原因は何かということであるが、「原因」は目に見えない。その目に見えない失敗の原因を辿っていくことを「失敗学では「逆演算」と呼」ぶ。(p19)「HATAta05Aを省略してページ数のみを表示する」
「失敗学では失敗の構造をより正確に把握するために、「原因」を《要因》と《からくり》の二つに分けて」(p19)考える。「つまり、失敗の構造を《要因》《からくり》《結果》の三要素から構成されていると考える」(p19)。そして、失敗学では、見える結果から見えない失敗の要因やからくりに逆に辿っていく手法が取られる。この手法(方法)を「失敗学における逆演算」と呼ぶ。つまり失敗の《結果》(目に見える状態)から「《要因》と《からくり》という見えない二つのものを逆に辿(たど)って探していく」(p20)のである。
雪印食品での失敗例
雪印食品の牛肉偽装・詐欺事件(2002年1月)は、単純に原因は「狂牛病問題のせい」で、結果は「詐欺事件が起きた」ことになる。つまり、雪印食品は狂牛病問題で困っていて、その結果、牛肉偽装の詐欺事件を起こしたという説明が成立する。
「しかし、狂牛病問題のせいで困っていた会社は雪印食品以外にもあり、それらの会社がすべて牛肉偽装・詐欺を働いたわけでは」(p20)ない。つまり、上記した原因(狂牛病問題)があっても、必ずしも結果(牛肉偽装)という結びつきは起こらない。
そこで、この雪印食品の失敗《結果》を《要因》と《からくり》に分けて分析する。すると《からくり》にはいんちきをしてでも、儲けたいという「雪印の企業体質」が挙げられる。つまり《狂牛病=要因》を、《雪印食品の企業体質=からくり》の中に入力したからこそ、《牛肉偽装・詐欺事件=結果》が出力されたのである。(p20)
この雪印食品の例から分かるように、《からくり》の正体を明らかにすることで、「本当の失敗の原因を究明できる」(p20)のである。
この例から、失敗を引き起こす《要因》は、社会問題や過去の事件(企業経営に関する)、個人の場合には失敗行動を起こす「動機」であったりする。また、失敗を引き起こす《からくり》は組織や個人の「特性」、つまり企業体質や理念、個人の考え方、行動規範や性質などが考えられる。(p21)
売れる営業マンと売れない営業マンの例
私たちが実際に失敗に遭遇した場合に、逆演算の方法を使って具体的に問題を解決していく例として、自動車販売会社の二人の社員、売れない営業マンAさんと売れる営業マンBさんの例をとって、逆演算のやり方の説明を行う。
第一段階 失敗の原因を知るために《要因》《からくり》を知る必要性がある。
売れない営業マンAさんから見えてくる現状は「自動車が売れない」という結果である。その結果からAさんは「不景気だから」とかAさんがたまたま運悪く、財布のひもの固い人々の多い車の売れない地域の担当になったからだと考える。(p21)
しかし、同僚のBさんは同じ条件下でも売り上げを伸ばしている。売れる営業マンBさんがいる以上、Aさんの考えた売れない原因は正しくないことになる。(p22)
そこで、Aさんは、失敗学の逆演算の方法を使って、売れないという《結果》に至る《要因》と《からくり》の二つの要素を探る必要が生じた。失敗の《結果》からその《要因》と《からくり》を探る必要性を感じるというのが失敗の原因を知るための第一段階である。
第二段階 《からくり》の正体を探す
第二段階は、失敗の《結果》を導く《からくり》の正体を探すことである。
そこでAさんは、同僚のBさんのセールスの方法と自分のそれとの違いを検討することになる。つまり、車が売れない《からくり》はセールスの方法の違いであると仮設(仮説)した。その仮説から車が売れないという《結果》を逆算した。(p22)
Aさんの車が売れないという《結果》に共通する部分は「Aさんが価格を安くしてセールスをしている」(p22)ことで、この共通部分に失敗の《からくり》の基本構造が隠されている。言い換えるとAさんは車を売るセールス方法は「安く売るやり方」だと考えていたことが理解できた。安ければ顧客は車を買うという考えがAさんのセールスを決めていたことになる。
第三段階《からくり》に架空の《要因》を入れてみる
第二段階で《からくり》の正体が明らかになったら、つぎにさまざまな《要因》を想定して、《からくり》の中に入れてみる。そして、それから導かれる架空の《結果》を推測する。
一つの架空の結果の推測として、例えば、お金があるので「乗り心地がよくて飽きのこない車がほしい」という架空の《要因》を入れて、Aさんのセールス方法の《からくり》である「価格が安ければ売れるだろう」から、「高くてもいいから、性能、デザインともに、もっと質の高い車がほしいから買わない」という《結果》が出てくる。
もう一つの架空の結果の推測として、例えば、「自動車にかけられる予算があまりないので、できるだけ長持ちする車がほしい」(p24)という《要因》にAさんの《からくり》を入れれば、安いが、すぐ故障する車は買わないという《結果》が導ける。(p24)
このように、可能な限り色々な《要因》を仮設して、見つけ出した失敗の《からくり》に入れてみる。そこから導かれる色々な《結果》を取り出す(計算する)。
第四段階 《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、予測・類推につなげる
第三段階で思考実験した《要因》群と《結果》群から、《要因》《からくり》《結果》の関係が浮かび上がってくる。(p25)Aさんの場合、もし「値段以外のことを重視する客(要因)が来」たら、Aさんの安ければ売れるという方法(からくり)では、この客には車を売れないという《結果》が生じる。(p25)
つまり、Aさんのセールスの方法《からくり》が一つしかない場合、色々な顧客の要求(要因)に対応して車を売ることができないという《結果》が生まれる。そこで、Aさんは、セールスの方法(からくり)を見直し、顧客のニーズにあったセールス方法を見つけ出す必要が生じていることに気付く。
Aさんの車が売れない《からくり》を見つけ出し、その《からくり》を変更しない限り、つまり顧客のニーズに合わせてセールスの方法を変える《からくり》にしない限り、いつまでも車が売れない《結果》になることが予測できるのである。
うまいラーメン屋の逆演算とは
失敗の本当の原因を理解することは、失敗を克服するためである。そこで、失敗を克服する方法について考える。それは状況に合わせて対策を講じるというやり方である。そこで人気のある東京のあるラーメン屋の例を取って説明を行う。
ラーメン屋の主人は開業以来、百回を超える味変えをしている。なぜなら、人は最初はおいしいと思った味もじきに飽きるとこの店の主人は考え、「味をよくする努力を怠ってはいけない」し、また一年に一回から二回の割りであらゆる角度から味を見直す、よい味にする試作を重ねる。そして客の反応を見ながら、客がどんな味を欲しいのかを観察し続けている。(p26-28)
これは、よくはやっているラーメン屋という《結果》である。この結果を導く《要因》や《からくり》を理解するために、失敗学の逆演算を活用してみる。
すると、繁盛しているラーメン屋《結果》は、ただ味がうまいからではなく、…お客が求めているものを提供するという営業理念《からくり》がある。(p28)繁盛するラーメン屋になるためには、色々な《要因》を《からくり》入れて、その《結果》を演算するとよい。そして、最も大切なことは自分でうまいラーメン屋の主人となるための《からくり》を見つけ出すことである。(p28-29)
2-2、「失敗の脈絡」分析で失敗を予測せよ
異なる《要因》でも、同じ《からくり》から同じような失敗《結果》が予測される
「逆演算によって一般化した失敗の《要因》《からくり》《結果》の関係のことを、失敗学では「失敗の脈絡」と呼」ぶ。(p30)この失敗の脈絡を使った、失敗の《要因》と《からくり》を類推すれば、…どんな失敗がどういう経緯で起こるかを、予測できる」(p30)のである。
狂牛病騒動が日本で起こる三ヶ月前に新聞にEUが「狂牛病の拡大を防ぐために、EUの欧州委員会はもちろん、それ以外の国についても危険度の調査を行い警告を発してきた。日本について…感染リスクが高い国と評価される可能性があったのに、日本は調査を中止するように申し入れた」(p30-31)経過があった。
日本で起きた狂牛病騒動・農水省の失敗《結果》に関連する《要因》と《からくり》の関連、つまり失敗の脈絡は、まったく薬剤エイズ事件・厚生省(現在の厚生労働省)失敗の脈絡と同じである。(p31)
「厚生省はアメリカから非加熱製剤は危険だという情報を得ながら無視」したことが《要因》となり、官僚、お役所体質である事なかれ主義や特定の人物や業者との癒着しやすい体質《からくり》によって、薬剤エイズ事件の失敗《結果》が起こる。(p31)
つまり、狂牛病の場合にも、農水省は欧州委員会の調査で狂牛病の危険を知りながらも無視した事実が《要因》となり、お役所の事なかれ主義体質が《からくり》として働き、その《結果》が、狂牛病の感染が日本で見つかるということになった。(p31)
二つの失敗は、同じ《からくり》つまりお役所の事なかれ主義の体質によって引き起こされていることが理解できる。(p31)つまり、すでに、一つの失敗の脈絡を理解すれば、同じ《からくり》を見出すことで、別の失敗を予測することができるのである。
安全宣言は危険宣言
農水省は狂牛病の発見から「感染牛は一頭だけなので、牛肉を食べても安全」と早々と安全宣言を行った。しかし、著者(畑村洋太郎氏)は、その安全宣言を疑った。何故なら、それ以前に同じようなことがJR西日本山陽新幹線のトンネル内コンクリート剥落事故でもあったからだ。つまり、JR西日本は事故後詳しい調査もしないで応急処置をしただけで安全宣言を出した。その後二ヶ月でまた同じようなトンネル内のコンクリート剥落事故が発生した。
JR西日本のコンクリート剥落事故後の安全宣言と農水省の狂牛病発見後の安全宣言は、まったく別の分野の事故への対応(安全宣言)であるが、失敗の脈絡からみると、同じ《からくり》つまり原因究明の前に安全宣言を出すという企業・組織の体質を持っている以上、同じ結果が生じる。その意味で、JR西日本の事故への対応の失敗が、農水省の事故への対応に対する結果の予測が可能となるのである。(p32)
他の失敗から学ぶ、失敗の脈絡を理解する力
「失敗の脈絡」を理解するなら、「ある分野の「失敗の脈絡」を、別の分野に当てはめて失敗の各要素を類推すれば、失敗はかなり的確に予測すること」(p33)が可能になるし、「失敗を未然に防ぐことができる」。(p33) つまり、他の分野で起きた他人の「失敗の脈絡」を、自分、自分の所属する組織に当てはめて、失敗の各要素を類推し、結果を予測し、失敗につながらないような対策を講じることができる。(p33)
失敗学では、つねに身の回りで起こるさまざまな事象(失敗につながるような)に対して、その要因とからくりを考える習慣を身につける心がけを大切にしている。(p33)
2-3、失敗は確率現象である
ハインリッヒの法則と大失敗を防ぐ対処法
労働災害の発生確率に関する法則に1941年にアメリカのH.W.ハインリッヒが事故や災害の調査結果から導き出した結論、つまり1件の重大災害の裏には29件の軽微な災害があり、さらにその後ろにはヒヤリ、ハッとする事例が300件潜んでいるという「ハインリッヒの法則」がある。(p34)
そこで、少しでもヒヤリ、ハッとした経験をした場合には、その背景になる職場環境の要因が重大事故につながるという認識を持ち、十分な対策を行えば、重大災害を未然に防ぐことができる。(p34)
失敗ついて、ハインリッヒの法則が当てはまる。新聞沙汰になる大きな失敗があるなら、その背後に必ず顧客からのクレームなどの軽度の失敗が29件ほどある。そしてその背後に失敗とはいわないが、何らかのヒヤリ、ハッとする経験が300件ぐらいある。(p34)致命的な大失敗が起こる確率は300分の1(厳密には330分の1)である。
つまり、大きな失敗(重大災害)は常に300分の1で起こる確率として存在しているといえる。(p35)言い換えると失敗とは確率現象だといえる。(p36)「どんな小さなことでも「ヒヤリ」としたら失敗の予兆だと受け止めて、それを構成している要因をきちんとつきとめて、それがどういう危険性を持っているかを考え、適切な対処をすれば致命的な大失敗は必ず防げる」(p36)のである。
雪印乳業は三百倍以上のツケを払った
重大事故の前には何らかの予兆が必ずある。それに気づいたときに適切な対応をしていれば、事故は防げるのである。(p37)
2000年3月に発生した営団地下鉄日比谷線の脱線事故も、同様な事故が1992年12月にも起きていた。また、2000年6月に発生した雪印乳業の集団中毒事件も、同じ事故(集団中毒事件)が30年前にも同じ工場で起きていた。重大な失敗が起こる前兆は以前からあったが、それを見逃し、きちんと対処しなかったために、致命的な失敗を引き起こすことになった。(p37)
日頃起きている些細な事故や失敗を無視せず、それらの一つひとつの問題を日常的に解決していく真摯な姿勢が致命的な失敗を防ぐのである。(p37)
もし、そうした姿勢を失い重大事故や失敗を起こしてしまえば、その損害は甚大なものになり、一般にその被害は「三百倍のツケを払わなければならない」と言われている。(p39)
2-4、失敗は拡大再生産される
失敗の拡大再生産とは 動燃のビデオ隠しの例
失敗の《要因》と《からくり》を解明し、その失敗につながる《要因》《からくり》を変える対策を打たなければ、同じ《要因》が同じ《からくり》を通して、同じ失敗の《結果》が起こる。つまり、同じ「失敗の脈絡」で失敗が繰り返されることになる。そんを「失敗の拡大再生産」と呼ぶ。(p40)
この「失敗の拡大再生産」の典型的な例として、1995年5月10日に起きた高速増殖炉「もんじゅ」の事故での動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の「ビデオ隠し事件」がある。事故翌日に事故現場のビデオを報道陣に公開した。その時、動燃は「撮影はカメラ1台で行い、これ以外の映像はない」と説明した。ところが、その後すぐに(2日後)県と市の原子力安全対策課が現場調査したところ、公開されたビデオにはない事故の悲惨さを目の当たりにした。それで、動燃の意図的なビデオ編集(事故を小さく見せようとした)が発覚した。動燃自身の調査によってビデオの意図的編集(「もんじゅ」の幹部が「刺激が強すぎるのでカットしたほうがよい」と指示したこと)が発覚した。(p40-41)
動燃は、一回目の報告を訂正して、ビデオ撮影は事故直後、二台のカメラで行ったと二回目の報告を行う。しかし、科学技術庁(現在の文部科学省)の調査で、この訂正報告にもウソがあったことがさらに発覚した。つまり、訂正した時間よりも早く、別のビデオを撮影していたことが判明した。このビデオでは、現場に白煙が立ち込め、配管から漏洩した多量のナトリウム化合物が下に堆積していた。(p41)
この情報隠しに関する調査は、社会調査を担当していた総務部次長の投身自殺で幕を閉じた。しかし、多くの国民はこの事件以来、動燃を信頼できないと感じている。
動燃の失敗の拡大再生産の《からくり》と失敗を防ぐ対策
動燃がビデオ隠しを繰り返し行った、つまり失敗の拡大再生産の《からくり》が動燃の「世の中には原子力に対する強い不信感がある。少しでもネガティブな印象を持たれたら『もんじゅ』は終わりだ」(p42)という強迫観念である。この思い《からくり》が3回のビデオ隠し(失敗の拡大再生産)を生み出したことになる。(p42)
この強迫観念《からくり》をぬぐい去って《からくり》を変えれば、同じ手口のごまかしという失敗の拡大再生産を途中でストップすることが可能だったかもしれない。(p42)
動燃の取るべき対応は「事故を起こした時点で、危険度はどれくらいなのか、今後、同様の事故が起こる可能性はあるのか否かなど事故の情報を正確に伝えること」(p43)であった。事故を起こした失敗を厳しく責められても、ウソ(情報を隠して)をついて「国民の信頼を決定的に失う」(p43)というもっと重大な失敗をすることは避けられた筈である。
「失敗から目を背け、隠そうと」(p43)することで同じ失敗を繰り返すか、また別の新しい失敗を生んでしまう。冷静に失敗の結果から失敗の要因とからくりを逆演算しながら見つけ出し、失敗の脈絡をつかむことが同じ失敗を繰り返さない対策となる。(p43)
2-5、千三つの法則
未知の分野への挑戦には失敗はつきもの
未知な分野に挑戦すると「99.7%は失敗」すると著者は述べている。(p45)つまり、新しいことをする場合に物事がうまくいく確率は「0.3%」である。そして、「日本では昔から“千三つ”(せんみつ・本来、千に三つしか真実はない常習的な嘘つきの意味)とうい言葉があって、現在では「何か賭けをしたとき、うまくいくのは千に三つぐらいしかない」という意味で使われている。新しい挑戦で成功する確率も、この“千三つ”(せんみつ)であると言える。(p45)
未知の分野に挑戦して成功する確率が千に三つぐらい低い状態、成功率の低さを考えて、新しいことに挑戦することをやめるなら、失敗学は始まらない。失敗学は失敗しないで安全で安らかな生活を求めるためにあるのではなく、成功確率の低さを十分に認識し、失敗に真正面から取り組む覚悟を持つこと、つまり失敗の多い未知な分野に挑戦し、そこで経験する失敗を生かすためにある。(p45)
新しい事業をゼロから起こす場合、その事業を立ち上げて運営展開するために少なくとも十個ぐらいの要素が必要である。例えば、「企画内容、技術、事業を興す本人の資質、設備、場所、人材、流行、社会の経済状況、人脈」(p45)である。これらの10の要因の一つひとつに関して「うまくいくか否か」の二分の一の成功確率を単純に掛け合わせていくと、1020分の1の確率で事業が成功するということが示される。これが客観的に示されるベンチャー企業等の新しい試みを行う事業の成功確率である。(p45-46)
つまり、新たな事業を興して成功する確率は、約千に一つである。そして、千三つ(せんみつ)の法則よりも厳しいといえる。(p46)
新しい事業に成功する確率を上げる方法・他者の失敗に学ぶ
どんな事業でも生き方でも新しいことに挑戦しなければならない。その場合の成功率は千分の一である。つまり、ほとんどの試みが失敗する可能性が大きい。それで、成功の確率を高める努力や知識が必要となる。(pp46-47)
著者は、「他の誰かがその分野で成功しているかもしれない。いや、失敗をしているかもしれない」と考え、そのことを調査し知ることは「もうけもの」であると提案している。今までの他人の失敗を手本とした「逆演算」と「類推」をすることで、失敗の道筋を学ぶことができる。(p47)
2-6、「課題設定」がすべての始まり
課題設定の習慣が失敗に直面したときの判断力を鍛える
「無駄な失敗を防ぎ、新しい創造の種を生み出すために」は「自分自身の中に課題(問題意識)を持つこと」である。「自分がいま何をすべきか」という行動を起す時の「課題設定」が、失敗に直面したときの判断力や新しいチャレンジへの企画力を鍛える。(p48)
それらの判断力と企画力を鍛えるには、まず、課題設定をして、それの解決方法や手段の提案力を鍛えること(pp48-49)
課題設定の訓練
自動車事故の例から、課題設定をする。例えば自動車が塀にぶつかって、前方がぐちゃぐちゃに潰れたという交通事故を仮定する。そして、この事故を防ぐためにはどのようにすればいいかという問題を立てる。(p48)
この問題提起、つまり問題に関する課題設定に対して、二つの回答が考えられる。つまり、一つは、「塀にぶつかっても人的被害が少ないようにする」と言うもの、事故は避けられないので、その事故が起こった後、人的被害をなるべく少なくするという考え方である。もう一つは、「自動車を塀にぶつからないようにする」と言うもので、衝突事故自体を起こさせないようにするという考え方である。(pp48-49)
前者の課題設定から、例えば「ぶつかった際に飛び出すエアバックなどの安全装置を自動車に取り付ける」(p49)という問題解決案が出され、さらにエアバックの出るタイミングや膨らみ方、さらにはエアバックの欠点やその改良案等々、前者の課題設定を展開する解決案が出される。
後者の問題設定から、例えば「塀にぶつかりそうになったら自動的に警告音が鳴るようなシステムを作る」(p49)とか「運転手の覚醒を促す音楽や匂いを流す…」(p49)という問題解決案が出され、同様に事故自体を起こさないための上記の提案を具体化するための案が検討され続けることになる。
共通の課題を持つ人を観察する
課題設定をする訓練によって、同じ課題を持つ他のケースの観察によって、他者の経験に学ぶことが可能になる。つまり、同じ課題を持つ人が、その課題を解決するために経験したこと、それが失敗であれ成功であれ、その試みに学ぶことが出来る。例えば、失敗ならその対処法や予防策を考えることができる。成功ならその道筋を学ぶことができる。
例えば、設計ミスから生じた事故が多発している自動車会社(三菱自動車のような)のリコール隠しを例に取り、設計部のAさんとBさんの対応例の違いを示す。
Aさんは会社のリコールを見過ごすように指示している上司や会社の不正を告発する。そのことによって、Aさんは社内で居場所を失い、退職した。
BさんはAさんの行動の結果、つまり正義感によって会社の不正を告発したが会社を辞めなければならなくなった結果(失敗)を観察し、その失敗に学ぶことで、「この会社は見込みがないから、希望退職を募集して、割増金をもらって辞める道を選択した。(pp50-51)
会社(三菱自動車)は、その後のリコール隠しの不正が社会に暴露され、関係者が逮捕され、マスコミや消費者から厳しい批判に遭い、結局、経営が危機的状況となり、外資系の自動車会社に売却された。
2-7、「仮想演習」がすべてを決める
共通の課題を持つ人を観察する
課題設定が済めば、その後に必要なものは「仮想演習」である。課題設定をいかに解決すればいいかを思考実験することを仮想演習と呼ぶ。この仮想演習・頭の中で失敗の状況を予測し、それに対する対策を検討する作業は失敗学においてはかなり重要な意味を持っている。(p52)
仮想演習は、起こりうる失敗を予想し、その対策を検討するばかりでなく、こうした状況の中で(自分の)上司は何をすべきかを想像する演習にも活用できる。つまり、ある失敗が起こった場合、自分のすぐ上の上司の行動を観察し、「もし自分が彼(上司)ならどう判断し、どう行動するか」を考える作業になる。(pp52-53)
この仮想演習によって自分の実際の経験の範囲を超えて(仮想状態ではあるが)経験できる範囲を広げることが可能になる。現実に自分が所属している部署以外に、他の部署にもこの仮想演習を適用することによって、自分の関心の守備範囲を広げることが出来るだろう。(p53)
仮想演習をしたベンチャー起業家の例と新しく起業するための条件
「仮想演習は人を五倍に成長させる」という考えの説明。(pp54-56)
しかし、人は歳を取るたびに能力が衰える。つまり、新しいことを吸収する力は5年ごとに半減する。すると、仮想演習をして人の5倍成長する能力をもっていても、その能力が5年ごとに半減するなら、その二つの関係から、新たに転職してベンチャーを起業する場合の年齢制限が予測できるだろうと著者は述べている。(pp56-57)
第3章「失敗学の基礎知識」に関する批評(批判的評価)
3-1、失敗は確率的に存在するという意味の理解
失敗とは期待値(目標)に達しないズレの値
著者は失敗学における失敗の定義を、「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と述べた。著者は、失敗という概念を希望していた結果に達しない割合が大きいか小さいかの量的判断を伴って表現したことになる。
言い換えると、畑村洋太郎氏の定義した失敗は期待値に達しないズレを意味する。そして失敗は、ただ単に失敗しなかったと失敗したという二つに区分された一方の概念でなく、目標への到達率が何%なのかという表現として語られる。つまり、目標をすべて達成した100%の成功率(0パーセントの失敗率)と目標をまったく達成できなかった0%の成功率(100%の失敗率)の間に、現実の失敗とよばれる結果は存在していることになる。
失敗を量的に判断(測定)することの意味
著者の失敗の概念を用いると、失敗(行為の結果)を反省するということは、結果がよかったかとか間違っていたかという点検をするのでなく、行為を起こすときに目標とした課題に、行為の結果がどれくらい達成したかを点検することになる。つまり、失敗学では、行為の結果の良し悪しの評価を問題にしているのではなく、また、完全に目標を達成できたかできないかでなく、行為の結果によって達成された課題を定量的に評価することになる。
そのことによって、あらゆる行為が、ある程度目標に近づくことを可能にしているので、その程度、つまりよく目標に近づくことが出来たか、あまり目標に近づけなかったか、とい評価の程度を示す基準(量的判断基準の一つ)を設けて、行為の結果を検証することになる。
失敗学であるので、あまり目標を達成することが出来なかったとまったく目標を達成できなかったという行為の結果に関しての分析が始まることになる。
失敗の評価基準は個人的(主観的)な判断によって決まる
もし、失敗を「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と定義づけた場合、「望ましくない結果や期待」とは個人的な(もしくはある集団での)判断基準を基にして、評価されたものであると解釈できる。
つまり、著者畑村氏の失敗の定義は、主観的(共同主観的)な評価基準を前提にして成立している概念であると言えるだろう。そのため、失敗の程度を定量的に測定することも、一般的な基準を設定して可能になる訳ではなく、個人的な評価基準によって(もしくはある集団の評価基準によって)行われるということを意味する。
日常的に行為を点検する場合、その行為の評価が個人によってかなり異なる場合が生じても不思議ではない。例えば、目標を高く持つ人は、一般的に言って、その高い目標に達することができない場合が多く生じる。その人(目標の高い人)は、失敗の確率が上がることになる。しかし、目標を小さく抑えれば、同じ行為の結果も失敗の確率が低くなる。
目標値(期待値)への達成度(達成確率)を、失敗として考える場合、失敗を少なくするためには、目標値を下げるという行為が働くことになる。
すると、誰も、失敗を恐れない、目標値の高い行動を計画することはないだろう。つまり、失敗確率を低く抑えるために、予め(あらかじめ)、難しい企画や行動目標を立てないということにならないだろうか。
著者は以上の疑問に答えるために、「失敗が確率現象である」という節を設けた。これに関しては、後で批評する。
3-2、失敗の構造、「結果」「要因」「からくり」と失敗の脈絡(三つの要素の構造的関係)
失敗の様式的原因要素(からくり)と環境的原因要素(要因)
著者は、「失敗(結果)は原因(失敗の)を持っている」という一般的な表現を、「失敗(結果)はその失敗を起こす要因とからくりからなる」と表現し直した。つまり、失敗の原因という表現は、失敗を分析する上であまり役に立たない表現であることを指摘し、失敗の原因という意味を「失敗を生み出す要因とからくり」という二つの分析可能で観察可能な概念に変換したのである。
著者の定義する「失敗のからくり」とは、失敗行為を行ってしまった人や組織(集団)の失敗行為を生み出す原因を意味する。つまり、それらの人々(個人)の考え方、技能、態度や、組織(集団、会社、社会や国家)の規則(決まり)、制度、習慣(文化)等々である。著者は失敗の「からくり」という表現を用いて、失敗行為主体の内的な原因を表現した。
また、著者が定義する「失敗の要因」とは、失敗(結果)を引き起こす外的な環境や条件として位置づけている。例えば、雪印食品が引き起こした牛肉偽造(失敗の結果)は、狂牛病(要因)や経営的な危機(要因)が会社の体質(からくり)に入力されて生じた現象であると考えた。食品会社を襲った狂牛病と会社が当時経営的不振になっていた二つの条件が、会社の消費者をごまかし儲け主義に走る体質(経営陣の考え方)に入力されて、食品偽装(詐欺)という結果が生まれたと、著者は説明した。言い換えると、著者が定義した失敗の要因とは、会社(個人)を取り巻く外的な環境や条件を意味している。
つまり、原因は、「からくり」と呼ばれる失敗を引き起こす様式的原因要素と、「要因」と呼ばれる環境的原因要素に分類される。
「逆演算」で失敗のからくり(行為決定の様式要素)を見つけるために問われる問題
失敗とはある行為の具体的な結果(目標であった状態に対して望ましくない結果)である。その期待はずれの結果が現れることで、失敗したことを理解するのである。その行為の結果や期待はずれの状態から、失敗の原因、ここではからくりと要因を見つけ出す作業が始まる。
つまり、失敗学はつねに失敗という明らかな結果を分析し、その原因である失敗の要因と失敗を引き起こしたからくりは目に見えない状態にある。その目に見えない失敗の原因(要因とからくり)を辿っていくことを失敗学では「逆演算」と呼のである。失敗の二つの原因である内的な要因(からくり)と外的な要因(条件や環境)を探り当てる逆演算の作業を通じてしか、失敗の原因究明は出来ないのである。
「逆演算」という方法を用いて、失敗の要因とからくりを発見(推定し、その推定を検証確認)する方法を著者は四つの段階を設定して述べる。まず、第一段階では、失敗の原因《要因》《からくり》を知る作業、その次の第二段階では、《からくり》の正体を探す作業、三つめの段階では探し当てた《からくり》に架空の《要因》を入れて、どのような結果が推定されるか仮想実験をしながら結果を導き出す。そして、最後の段階では、《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、これららの失敗(結果)の予測や類推に活用する。つまり、からくりが正しく設定されると、色々な要因をそこに入れることで、現実の失敗結果はもちろんのことこれから起こる失敗も推測できる。
この逆演算は失敗学にとって大切な方法論である。失敗学が成立するためには、この逆演算が失敗事例に対して実際に行えるようにしなければならないだろう。その場合、要因を探り当てることはさほど困難ではない。つまり、個人や組織の失敗の条件となる生活や社会環境や状況が要因として仮定される。
しかし、失敗の「からくり」を見つけ出すことは失敗の要因(原因)追求の中で最も困難な作業であると言える。何故なら、失敗を引き起こす企業の体質や個人の性格、考え方や技能内容などは、失敗をしている当人や組織の姿である以上、その人々や組織が自分の欠点を自分で見つけ出す作業の困難さが付きまとう。言わば、自分では自分の姿が見えないという困難な立場に立っての作業を必要とされていることを意味する。
つまり、失敗の要因である「からくり」は、個人、集団や組織など行為主体がもつその行為決定に関連する要素である。つまり、からくりは行為を決める基準であり、行為決定に関係するなんらかの決まりであると言える。
そのために、著者の失敗のからくりを見つけるための「逆演算」は、単なる失敗発見の方法というよりも、つまり失敗経験を点検するための技術的な理解と共に、自らの方法や考え方を点検する方法が求められているのである。
失敗の脈略を活用した失敗の予測実験
失敗(結果)には、必ず、要因つまり外的な失敗の原因要素とからくりつまり内的な失敗の原因要素がある。これを失敗の脈絡と呼んだ。著者は結果から要因とからくりを逆演算して見つけ出し、その相互関連、失敗の脈略を見つけ出す。これが失敗学の失敗原因の探求の過程である。
それから、失敗学は、見つけ出したからくりに、仮定できる色々な要因を入力し、その結果生じる状況(失敗の)を思考実験する。つまり、まず、仮定した「からくり」が正しいかを検証し、その「からくり」が正しいなら、次に、色々な予測できる「要因」を「からくり」に入力することで、これから予測できる結果(失敗の)を示して行く。
これが、将来起こる失敗の予測となる。失敗学の目的は、将来の失敗を予測し、失敗の確率を出来るだけ小さく押さえることに結びつくのである。
3-3、失敗学は失敗の確率を下げるための技術論である
ハインリッヒの法則から、失敗を防ぐ方法としての職場の取り組みとは
労働災害の発生確率を調査研究から割り出したハインリッヒの法則は、そのまま失敗学でも活用できる。つまり、1件の重大事故には29件の軽微の事故が潜み、300のヒヤリとする出来事が潜んでいる。逆に辿れば、1件のヒヤリとする出来事の約30分の1の割合で軽微の事故が潜み、また300分の1の割合で重大事故が潜んでいる。さらに1件の軽微の事故には、30分の1の重大事故が潜んでいるということになる。
重大事故を防ぐには、ヒヤリとした出来事を日々に点検する「ヒヤリハット」の手法が取り入れられている。特に生命に直接関わる職場、医療や食品関係の職場では、ヒヤリハットは日々の作業の中で行われている。
この考え方は、失敗は人間の行為に付随した必然的な現象であり、ある確率で生じる現象であるという考え方にたっている。つまり、決意やがんばりでは失敗を避けることが出来ないため、失敗を避けるための技術が必要となる。それが失敗学であり、ヒヤリハットである。
問題は、職場で失敗を防ぐために、どのような教育や訓練がなされ、また日常的に業務の中で失敗を防ぐ手段や方法が検討されているかが最も大きな課題となる。
失敗学が教える失敗を恐れない仕事の仕方、失敗は成功の母
ハインリッヒの法則は、失敗は確率現象であると説明している。つまり、どのような行為にも失敗は生じる。そして人が何かをすることと失敗は不可分の関係にある。つまり、失敗を避けては何事も出来ないことを意味する。
失敗を恐れ、失敗しないように慎重に物事を行うことは必要であるが、失敗を恐れ、新しいことに挑戦することを止めてしまえば、新しい事業も発見も生まれないだろう。
失敗学は失敗を避けるためにある学問ではあるが、失敗を避けるために、新しい挑戦まで控えることを勧める理論ではない。むしろ逆で、失敗が多く発生するベンチャー起業で、出来るだけ成功率をあげるための技術を研究し教えるのが失敗学の課題である。
失敗の確率を下げるための努力、まず失敗をしたら、その経験を活かし、失敗の要因とからくりを見つける。そして、見つけ出したからくりが正しいかどうか、仮定できる要因をからくに入れて結果を導く、思考実験を繰り返す。
失敗学・他人の失敗に学ぶ技術
さらに、他人の失敗の例を研究し、同じように、それらの失敗事例から、その失敗のからくりを予測し、仮定できる限り多くの要因をそのからくりに入力して、結果を計算する。もし、その計算で、予測した要因から生じた失敗事例が出力できるなら、そのからくりは正しい、言い換えるとからくりの仮説は有効であると判断できる。
こうして、考えられる限りの色々な要因をからくりに入力し、何回となく計算結果を取り出し、特に今後の予測可能な結果を推察する。つまり、失敗学は、将来起こるだろう失敗の可能性を少なくするための方法となる。
3-4、失敗学を学ぶことの意味
人生という失敗だらけの航海のために
生きている以上、つねに新しいことに出会う。そして新しきことに挑戦しなければならない。大学を卒業し、社会に出る。就職して仕事をする。結婚して、家庭を持つ。子供を育てる。自治会など地域社会の活動に参加する。インターネット等で新しい友達を作る。起業する。海外に出張する。放送大学に登録して新しい分野の勉強に挑戦する等々。人生とは、限りなく新しい生き方の局面を乗り越える航海のようなものである。今までの経験しなかった局面を乗り越えて生きていかなければならない。
その中で、新しいことを始める時、また新しい局面で生きていく場合、失敗学は役に立つ知識とこころを教えるだろう。
つまり、失敗学が教える人生という失敗だらけの航海に必要な考え方「強く生きるからくり」を見つけ出すことである。これが、失敗学が提起する「失敗を恐れない」、「失敗に学ぶ」、そして「他人の失敗にも学ぶ」たくましい生き方の方法・倫理ではないだろうか。
参考
三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
Tweet
第1章 テキストの出典
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、第一章「失敗学の基礎知識」pp17-63
テキストの文献記号は、(HATAyo05A )とする。
著者畑村洋太郎は1941年生まれ、東京出身、東京大学名誉教授、工学博士、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学を研究。最近では、工学分野に留まらず、経営分野における失敗学などの研究を行っている。
畑村氏は、失敗学に関して、「失敗学のすすめ」「回復力 失敗からの復活」、「危険不可視社会」、「失敗学(図解雑学)」、「危機の経営」、「だから失敗が起こる」、「失敗を生かす仕事術」、「失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される」等々、多くの著書を出版している。
第2章「失敗学の基礎知識」pp17-63の要約
2-0、「失敗学」における失敗の定義
著者は失敗学における失敗の定義を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものとなる」(HATAyo05A p14)と述べている。つまり、失敗とは、ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している。
2-1、「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる
著者は、「初めて失敗学に触れる人たちのことを考え、第一章では、失敗学の基本的な考え方を」述べる。
「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる
著者は「失敗を生かすための第一段階は」、失敗のからくりを理解することであると述べている。つまり、「どんな原因がどんな結果(失敗)をもたらしたか」を正しく理解することである。
失敗が起きたときに目に見えるものは、失敗したと評価されている「結果」の部分である。問題は、何故失敗したか、その原因は何かということであるが、「原因」は目に見えない。その目に見えない失敗の原因を辿っていくことを「失敗学では「逆演算」と呼」ぶ。(p19)「HATAta05Aを省略してページ数のみを表示する」
「失敗学では失敗の構造をより正確に把握するために、「原因」を《要因》と《からくり》の二つに分けて」(p19)考える。「つまり、失敗の構造を《要因》《からくり》《結果》の三要素から構成されていると考える」(p19)。そして、失敗学では、見える結果から見えない失敗の要因やからくりに逆に辿っていく手法が取られる。この手法(方法)を「失敗学における逆演算」と呼ぶ。つまり失敗の《結果》(目に見える状態)から「《要因》と《からくり》という見えない二つのものを逆に辿(たど)って探していく」(p20)のである。
雪印食品での失敗例
雪印食品の牛肉偽装・詐欺事件(2002年1月)は、単純に原因は「狂牛病問題のせい」で、結果は「詐欺事件が起きた」ことになる。つまり、雪印食品は狂牛病問題で困っていて、その結果、牛肉偽装の詐欺事件を起こしたという説明が成立する。
「しかし、狂牛病問題のせいで困っていた会社は雪印食品以外にもあり、それらの会社がすべて牛肉偽装・詐欺を働いたわけでは」(p20)ない。つまり、上記した原因(狂牛病問題)があっても、必ずしも結果(牛肉偽装)という結びつきは起こらない。
そこで、この雪印食品の失敗《結果》を《要因》と《からくり》に分けて分析する。すると《からくり》にはいんちきをしてでも、儲けたいという「雪印の企業体質」が挙げられる。つまり《狂牛病=要因》を、《雪印食品の企業体質=からくり》の中に入力したからこそ、《牛肉偽装・詐欺事件=結果》が出力されたのである。(p20)
この雪印食品の例から分かるように、《からくり》の正体を明らかにすることで、「本当の失敗の原因を究明できる」(p20)のである。
この例から、失敗を引き起こす《要因》は、社会問題や過去の事件(企業経営に関する)、個人の場合には失敗行動を起こす「動機」であったりする。また、失敗を引き起こす《からくり》は組織や個人の「特性」、つまり企業体質や理念、個人の考え方、行動規範や性質などが考えられる。(p21)
売れる営業マンと売れない営業マンの例
私たちが実際に失敗に遭遇した場合に、逆演算の方法を使って具体的に問題を解決していく例として、自動車販売会社の二人の社員、売れない営業マンAさんと売れる営業マンBさんの例をとって、逆演算のやり方の説明を行う。
第一段階 失敗の原因を知るために《要因》《からくり》を知る必要性がある。
売れない営業マンAさんから見えてくる現状は「自動車が売れない」という結果である。その結果からAさんは「不景気だから」とかAさんがたまたま運悪く、財布のひもの固い人々の多い車の売れない地域の担当になったからだと考える。(p21)
しかし、同僚のBさんは同じ条件下でも売り上げを伸ばしている。売れる営業マンBさんがいる以上、Aさんの考えた売れない原因は正しくないことになる。(p22)
そこで、Aさんは、失敗学の逆演算の方法を使って、売れないという《結果》に至る《要因》と《からくり》の二つの要素を探る必要が生じた。失敗の《結果》からその《要因》と《からくり》を探る必要性を感じるというのが失敗の原因を知るための第一段階である。
第二段階 《からくり》の正体を探す
第二段階は、失敗の《結果》を導く《からくり》の正体を探すことである。
そこでAさんは、同僚のBさんのセールスの方法と自分のそれとの違いを検討することになる。つまり、車が売れない《からくり》はセールスの方法の違いであると仮設(仮説)した。その仮説から車が売れないという《結果》を逆算した。(p22)
Aさんの車が売れないという《結果》に共通する部分は「Aさんが価格を安くしてセールスをしている」(p22)ことで、この共通部分に失敗の《からくり》の基本構造が隠されている。言い換えるとAさんは車を売るセールス方法は「安く売るやり方」だと考えていたことが理解できた。安ければ顧客は車を買うという考えがAさんのセールスを決めていたことになる。
第三段階《からくり》に架空の《要因》を入れてみる
第二段階で《からくり》の正体が明らかになったら、つぎにさまざまな《要因》を想定して、《からくり》の中に入れてみる。そして、それから導かれる架空の《結果》を推測する。
一つの架空の結果の推測として、例えば、お金があるので「乗り心地がよくて飽きのこない車がほしい」という架空の《要因》を入れて、Aさんのセールス方法の《からくり》である「価格が安ければ売れるだろう」から、「高くてもいいから、性能、デザインともに、もっと質の高い車がほしいから買わない」という《結果》が出てくる。
もう一つの架空の結果の推測として、例えば、「自動車にかけられる予算があまりないので、できるだけ長持ちする車がほしい」(p24)という《要因》にAさんの《からくり》を入れれば、安いが、すぐ故障する車は買わないという《結果》が導ける。(p24)
このように、可能な限り色々な《要因》を仮設して、見つけ出した失敗の《からくり》に入れてみる。そこから導かれる色々な《結果》を取り出す(計算する)。
第四段階 《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、予測・類推につなげる
第三段階で思考実験した《要因》群と《結果》群から、《要因》《からくり》《結果》の関係が浮かび上がってくる。(p25)Aさんの場合、もし「値段以外のことを重視する客(要因)が来」たら、Aさんの安ければ売れるという方法(からくり)では、この客には車を売れないという《結果》が生じる。(p25)
つまり、Aさんのセールスの方法《からくり》が一つしかない場合、色々な顧客の要求(要因)に対応して車を売ることができないという《結果》が生まれる。そこで、Aさんは、セールスの方法(からくり)を見直し、顧客のニーズにあったセールス方法を見つけ出す必要が生じていることに気付く。
Aさんの車が売れない《からくり》を見つけ出し、その《からくり》を変更しない限り、つまり顧客のニーズに合わせてセールスの方法を変える《からくり》にしない限り、いつまでも車が売れない《結果》になることが予測できるのである。
うまいラーメン屋の逆演算とは
失敗の本当の原因を理解することは、失敗を克服するためである。そこで、失敗を克服する方法について考える。それは状況に合わせて対策を講じるというやり方である。そこで人気のある東京のあるラーメン屋の例を取って説明を行う。
ラーメン屋の主人は開業以来、百回を超える味変えをしている。なぜなら、人は最初はおいしいと思った味もじきに飽きるとこの店の主人は考え、「味をよくする努力を怠ってはいけない」し、また一年に一回から二回の割りであらゆる角度から味を見直す、よい味にする試作を重ねる。そして客の反応を見ながら、客がどんな味を欲しいのかを観察し続けている。(p26-28)
これは、よくはやっているラーメン屋という《結果》である。この結果を導く《要因》や《からくり》を理解するために、失敗学の逆演算を活用してみる。
すると、繁盛しているラーメン屋《結果》は、ただ味がうまいからではなく、…お客が求めているものを提供するという営業理念《からくり》がある。(p28)繁盛するラーメン屋になるためには、色々な《要因》を《からくり》入れて、その《結果》を演算するとよい。そして、最も大切なことは自分でうまいラーメン屋の主人となるための《からくり》を見つけ出すことである。(p28-29)
2-2、「失敗の脈絡」分析で失敗を予測せよ
異なる《要因》でも、同じ《からくり》から同じような失敗《結果》が予測される
「逆演算によって一般化した失敗の《要因》《からくり》《結果》の関係のことを、失敗学では「失敗の脈絡」と呼」ぶ。(p30)この失敗の脈絡を使った、失敗の《要因》と《からくり》を類推すれば、…どんな失敗がどういう経緯で起こるかを、予測できる」(p30)のである。
狂牛病騒動が日本で起こる三ヶ月前に新聞にEUが「狂牛病の拡大を防ぐために、EUの欧州委員会はもちろん、それ以外の国についても危険度の調査を行い警告を発してきた。日本について…感染リスクが高い国と評価される可能性があったのに、日本は調査を中止するように申し入れた」(p30-31)経過があった。
日本で起きた狂牛病騒動・農水省の失敗《結果》に関連する《要因》と《からくり》の関連、つまり失敗の脈絡は、まったく薬剤エイズ事件・厚生省(現在の厚生労働省)失敗の脈絡と同じである。(p31)
「厚生省はアメリカから非加熱製剤は危険だという情報を得ながら無視」したことが《要因》となり、官僚、お役所体質である事なかれ主義や特定の人物や業者との癒着しやすい体質《からくり》によって、薬剤エイズ事件の失敗《結果》が起こる。(p31)
つまり、狂牛病の場合にも、農水省は欧州委員会の調査で狂牛病の危険を知りながらも無視した事実が《要因》となり、お役所の事なかれ主義体質が《からくり》として働き、その《結果》が、狂牛病の感染が日本で見つかるということになった。(p31)
二つの失敗は、同じ《からくり》つまりお役所の事なかれ主義の体質によって引き起こされていることが理解できる。(p31)つまり、すでに、一つの失敗の脈絡を理解すれば、同じ《からくり》を見出すことで、別の失敗を予測することができるのである。
安全宣言は危険宣言
農水省は狂牛病の発見から「感染牛は一頭だけなので、牛肉を食べても安全」と早々と安全宣言を行った。しかし、著者(畑村洋太郎氏)は、その安全宣言を疑った。何故なら、それ以前に同じようなことがJR西日本山陽新幹線のトンネル内コンクリート剥落事故でもあったからだ。つまり、JR西日本は事故後詳しい調査もしないで応急処置をしただけで安全宣言を出した。その後二ヶ月でまた同じようなトンネル内のコンクリート剥落事故が発生した。
JR西日本のコンクリート剥落事故後の安全宣言と農水省の狂牛病発見後の安全宣言は、まったく別の分野の事故への対応(安全宣言)であるが、失敗の脈絡からみると、同じ《からくり》つまり原因究明の前に安全宣言を出すという企業・組織の体質を持っている以上、同じ結果が生じる。その意味で、JR西日本の事故への対応の失敗が、農水省の事故への対応に対する結果の予測が可能となるのである。(p32)
他の失敗から学ぶ、失敗の脈絡を理解する力
「失敗の脈絡」を理解するなら、「ある分野の「失敗の脈絡」を、別の分野に当てはめて失敗の各要素を類推すれば、失敗はかなり的確に予測すること」(p33)が可能になるし、「失敗を未然に防ぐことができる」。(p33) つまり、他の分野で起きた他人の「失敗の脈絡」を、自分、自分の所属する組織に当てはめて、失敗の各要素を類推し、結果を予測し、失敗につながらないような対策を講じることができる。(p33)
失敗学では、つねに身の回りで起こるさまざまな事象(失敗につながるような)に対して、その要因とからくりを考える習慣を身につける心がけを大切にしている。(p33)
2-3、失敗は確率現象である
ハインリッヒの法則と大失敗を防ぐ対処法
労働災害の発生確率に関する法則に1941年にアメリカのH.W.ハインリッヒが事故や災害の調査結果から導き出した結論、つまり1件の重大災害の裏には29件の軽微な災害があり、さらにその後ろにはヒヤリ、ハッとする事例が300件潜んでいるという「ハインリッヒの法則」がある。(p34)
そこで、少しでもヒヤリ、ハッとした経験をした場合には、その背景になる職場環境の要因が重大事故につながるという認識を持ち、十分な対策を行えば、重大災害を未然に防ぐことができる。(p34)
失敗ついて、ハインリッヒの法則が当てはまる。新聞沙汰になる大きな失敗があるなら、その背後に必ず顧客からのクレームなどの軽度の失敗が29件ほどある。そしてその背後に失敗とはいわないが、何らかのヒヤリ、ハッとする経験が300件ぐらいある。(p34)致命的な大失敗が起こる確率は300分の1(厳密には330分の1)である。
つまり、大きな失敗(重大災害)は常に300分の1で起こる確率として存在しているといえる。(p35)言い換えると失敗とは確率現象だといえる。(p36)「どんな小さなことでも「ヒヤリ」としたら失敗の予兆だと受け止めて、それを構成している要因をきちんとつきとめて、それがどういう危険性を持っているかを考え、適切な対処をすれば致命的な大失敗は必ず防げる」(p36)のである。
雪印乳業は三百倍以上のツケを払った
重大事故の前には何らかの予兆が必ずある。それに気づいたときに適切な対応をしていれば、事故は防げるのである。(p37)
2000年3月に発生した営団地下鉄日比谷線の脱線事故も、同様な事故が1992年12月にも起きていた。また、2000年6月に発生した雪印乳業の集団中毒事件も、同じ事故(集団中毒事件)が30年前にも同じ工場で起きていた。重大な失敗が起こる前兆は以前からあったが、それを見逃し、きちんと対処しなかったために、致命的な失敗を引き起こすことになった。(p37)
日頃起きている些細な事故や失敗を無視せず、それらの一つひとつの問題を日常的に解決していく真摯な姿勢が致命的な失敗を防ぐのである。(p37)
もし、そうした姿勢を失い重大事故や失敗を起こしてしまえば、その損害は甚大なものになり、一般にその被害は「三百倍のツケを払わなければならない」と言われている。(p39)
2-4、失敗は拡大再生産される
失敗の拡大再生産とは 動燃のビデオ隠しの例
失敗の《要因》と《からくり》を解明し、その失敗につながる《要因》《からくり》を変える対策を打たなければ、同じ《要因》が同じ《からくり》を通して、同じ失敗の《結果》が起こる。つまり、同じ「失敗の脈絡」で失敗が繰り返されることになる。そんを「失敗の拡大再生産」と呼ぶ。(p40)
この「失敗の拡大再生産」の典型的な例として、1995年5月10日に起きた高速増殖炉「もんじゅ」の事故での動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の「ビデオ隠し事件」がある。事故翌日に事故現場のビデオを報道陣に公開した。その時、動燃は「撮影はカメラ1台で行い、これ以外の映像はない」と説明した。ところが、その後すぐに(2日後)県と市の原子力安全対策課が現場調査したところ、公開されたビデオにはない事故の悲惨さを目の当たりにした。それで、動燃の意図的なビデオ編集(事故を小さく見せようとした)が発覚した。動燃自身の調査によってビデオの意図的編集(「もんじゅ」の幹部が「刺激が強すぎるのでカットしたほうがよい」と指示したこと)が発覚した。(p40-41)
動燃は、一回目の報告を訂正して、ビデオ撮影は事故直後、二台のカメラで行ったと二回目の報告を行う。しかし、科学技術庁(現在の文部科学省)の調査で、この訂正報告にもウソがあったことがさらに発覚した。つまり、訂正した時間よりも早く、別のビデオを撮影していたことが判明した。このビデオでは、現場に白煙が立ち込め、配管から漏洩した多量のナトリウム化合物が下に堆積していた。(p41)
この情報隠しに関する調査は、社会調査を担当していた総務部次長の投身自殺で幕を閉じた。しかし、多くの国民はこの事件以来、動燃を信頼できないと感じている。
動燃の失敗の拡大再生産の《からくり》と失敗を防ぐ対策
動燃がビデオ隠しを繰り返し行った、つまり失敗の拡大再生産の《からくり》が動燃の「世の中には原子力に対する強い不信感がある。少しでもネガティブな印象を持たれたら『もんじゅ』は終わりだ」(p42)という強迫観念である。この思い《からくり》が3回のビデオ隠し(失敗の拡大再生産)を生み出したことになる。(p42)
この強迫観念《からくり》をぬぐい去って《からくり》を変えれば、同じ手口のごまかしという失敗の拡大再生産を途中でストップすることが可能だったかもしれない。(p42)
動燃の取るべき対応は「事故を起こした時点で、危険度はどれくらいなのか、今後、同様の事故が起こる可能性はあるのか否かなど事故の情報を正確に伝えること」(p43)であった。事故を起こした失敗を厳しく責められても、ウソ(情報を隠して)をついて「国民の信頼を決定的に失う」(p43)というもっと重大な失敗をすることは避けられた筈である。
「失敗から目を背け、隠そうと」(p43)することで同じ失敗を繰り返すか、また別の新しい失敗を生んでしまう。冷静に失敗の結果から失敗の要因とからくりを逆演算しながら見つけ出し、失敗の脈絡をつかむことが同じ失敗を繰り返さない対策となる。(p43)
2-5、千三つの法則
未知の分野への挑戦には失敗はつきもの
未知な分野に挑戦すると「99.7%は失敗」すると著者は述べている。(p45)つまり、新しいことをする場合に物事がうまくいく確率は「0.3%」である。そして、「日本では昔から“千三つ”(せんみつ・本来、千に三つしか真実はない常習的な嘘つきの意味)とうい言葉があって、現在では「何か賭けをしたとき、うまくいくのは千に三つぐらいしかない」という意味で使われている。新しい挑戦で成功する確率も、この“千三つ”(せんみつ)であると言える。(p45)
未知の分野に挑戦して成功する確率が千に三つぐらい低い状態、成功率の低さを考えて、新しいことに挑戦することをやめるなら、失敗学は始まらない。失敗学は失敗しないで安全で安らかな生活を求めるためにあるのではなく、成功確率の低さを十分に認識し、失敗に真正面から取り組む覚悟を持つこと、つまり失敗の多い未知な分野に挑戦し、そこで経験する失敗を生かすためにある。(p45)
新しい事業をゼロから起こす場合、その事業を立ち上げて運営展開するために少なくとも十個ぐらいの要素が必要である。例えば、「企画内容、技術、事業を興す本人の資質、設備、場所、人材、流行、社会の経済状況、人脈」(p45)である。これらの10の要因の一つひとつに関して「うまくいくか否か」の二分の一の成功確率を単純に掛け合わせていくと、1020分の1の確率で事業が成功するということが示される。これが客観的に示されるベンチャー企業等の新しい試みを行う事業の成功確率である。(p45-46)
つまり、新たな事業を興して成功する確率は、約千に一つである。そして、千三つ(せんみつ)の法則よりも厳しいといえる。(p46)
新しい事業に成功する確率を上げる方法・他者の失敗に学ぶ
どんな事業でも生き方でも新しいことに挑戦しなければならない。その場合の成功率は千分の一である。つまり、ほとんどの試みが失敗する可能性が大きい。それで、成功の確率を高める努力や知識が必要となる。(pp46-47)
著者は、「他の誰かがその分野で成功しているかもしれない。いや、失敗をしているかもしれない」と考え、そのことを調査し知ることは「もうけもの」であると提案している。今までの他人の失敗を手本とした「逆演算」と「類推」をすることで、失敗の道筋を学ぶことができる。(p47)
2-6、「課題設定」がすべての始まり
課題設定の習慣が失敗に直面したときの判断力を鍛える
「無駄な失敗を防ぎ、新しい創造の種を生み出すために」は「自分自身の中に課題(問題意識)を持つこと」である。「自分がいま何をすべきか」という行動を起す時の「課題設定」が、失敗に直面したときの判断力や新しいチャレンジへの企画力を鍛える。(p48)
それらの判断力と企画力を鍛えるには、まず、課題設定をして、それの解決方法や手段の提案力を鍛えること(pp48-49)
課題設定の訓練
自動車事故の例から、課題設定をする。例えば自動車が塀にぶつかって、前方がぐちゃぐちゃに潰れたという交通事故を仮定する。そして、この事故を防ぐためにはどのようにすればいいかという問題を立てる。(p48)
この問題提起、つまり問題に関する課題設定に対して、二つの回答が考えられる。つまり、一つは、「塀にぶつかっても人的被害が少ないようにする」と言うもの、事故は避けられないので、その事故が起こった後、人的被害をなるべく少なくするという考え方である。もう一つは、「自動車を塀にぶつからないようにする」と言うもので、衝突事故自体を起こさせないようにするという考え方である。(pp48-49)
前者の課題設定から、例えば「ぶつかった際に飛び出すエアバックなどの安全装置を自動車に取り付ける」(p49)という問題解決案が出され、さらにエアバックの出るタイミングや膨らみ方、さらにはエアバックの欠点やその改良案等々、前者の課題設定を展開する解決案が出される。
後者の問題設定から、例えば「塀にぶつかりそうになったら自動的に警告音が鳴るようなシステムを作る」(p49)とか「運転手の覚醒を促す音楽や匂いを流す…」(p49)という問題解決案が出され、同様に事故自体を起こさないための上記の提案を具体化するための案が検討され続けることになる。
共通の課題を持つ人を観察する
課題設定をする訓練によって、同じ課題を持つ他のケースの観察によって、他者の経験に学ぶことが可能になる。つまり、同じ課題を持つ人が、その課題を解決するために経験したこと、それが失敗であれ成功であれ、その試みに学ぶことが出来る。例えば、失敗ならその対処法や予防策を考えることができる。成功ならその道筋を学ぶことができる。
例えば、設計ミスから生じた事故が多発している自動車会社(三菱自動車のような)のリコール隠しを例に取り、設計部のAさんとBさんの対応例の違いを示す。
Aさんは会社のリコールを見過ごすように指示している上司や会社の不正を告発する。そのことによって、Aさんは社内で居場所を失い、退職した。
BさんはAさんの行動の結果、つまり正義感によって会社の不正を告発したが会社を辞めなければならなくなった結果(失敗)を観察し、その失敗に学ぶことで、「この会社は見込みがないから、希望退職を募集して、割増金をもらって辞める道を選択した。(pp50-51)
会社(三菱自動車)は、その後のリコール隠しの不正が社会に暴露され、関係者が逮捕され、マスコミや消費者から厳しい批判に遭い、結局、経営が危機的状況となり、外資系の自動車会社に売却された。
2-7、「仮想演習」がすべてを決める
共通の課題を持つ人を観察する
課題設定が済めば、その後に必要なものは「仮想演習」である。課題設定をいかに解決すればいいかを思考実験することを仮想演習と呼ぶ。この仮想演習・頭の中で失敗の状況を予測し、それに対する対策を検討する作業は失敗学においてはかなり重要な意味を持っている。(p52)
仮想演習は、起こりうる失敗を予想し、その対策を検討するばかりでなく、こうした状況の中で(自分の)上司は何をすべきかを想像する演習にも活用できる。つまり、ある失敗が起こった場合、自分のすぐ上の上司の行動を観察し、「もし自分が彼(上司)ならどう判断し、どう行動するか」を考える作業になる。(pp52-53)
この仮想演習によって自分の実際の経験の範囲を超えて(仮想状態ではあるが)経験できる範囲を広げることが可能になる。現実に自分が所属している部署以外に、他の部署にもこの仮想演習を適用することによって、自分の関心の守備範囲を広げることが出来るだろう。(p53)
仮想演習をしたベンチャー起業家の例と新しく起業するための条件
「仮想演習は人を五倍に成長させる」という考えの説明。(pp54-56)
しかし、人は歳を取るたびに能力が衰える。つまり、新しいことを吸収する力は5年ごとに半減する。すると、仮想演習をして人の5倍成長する能力をもっていても、その能力が5年ごとに半減するなら、その二つの関係から、新たに転職してベンチャーを起業する場合の年齢制限が予測できるだろうと著者は述べている。(pp56-57)
第3章「失敗学の基礎知識」に関する批評(批判的評価)
3-1、失敗は確率的に存在するという意味の理解
失敗とは期待値(目標)に達しないズレの値
著者は失敗学における失敗の定義を、「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と述べた。著者は、失敗という概念を希望していた結果に達しない割合が大きいか小さいかの量的判断を伴って表現したことになる。
言い換えると、畑村洋太郎氏の定義した失敗は期待値に達しないズレを意味する。そして失敗は、ただ単に失敗しなかったと失敗したという二つに区分された一方の概念でなく、目標への到達率が何%なのかという表現として語られる。つまり、目標をすべて達成した100%の成功率(0パーセントの失敗率)と目標をまったく達成できなかった0%の成功率(100%の失敗率)の間に、現実の失敗とよばれる結果は存在していることになる。
失敗を量的に判断(測定)することの意味
著者の失敗の概念を用いると、失敗(行為の結果)を反省するということは、結果がよかったかとか間違っていたかという点検をするのでなく、行為を起こすときに目標とした課題に、行為の結果がどれくらい達成したかを点検することになる。つまり、失敗学では、行為の結果の良し悪しの評価を問題にしているのではなく、また、完全に目標を達成できたかできないかでなく、行為の結果によって達成された課題を定量的に評価することになる。
そのことによって、あらゆる行為が、ある程度目標に近づくことを可能にしているので、その程度、つまりよく目標に近づくことが出来たか、あまり目標に近づけなかったか、とい評価の程度を示す基準(量的判断基準の一つ)を設けて、行為の結果を検証することになる。
失敗学であるので、あまり目標を達成することが出来なかったとまったく目標を達成できなかったという行為の結果に関しての分析が始まることになる。
失敗の評価基準は個人的(主観的)な判断によって決まる
もし、失敗を「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と定義づけた場合、「望ましくない結果や期待」とは個人的な(もしくはある集団での)判断基準を基にして、評価されたものであると解釈できる。
つまり、著者畑村氏の失敗の定義は、主観的(共同主観的)な評価基準を前提にして成立している概念であると言えるだろう。そのため、失敗の程度を定量的に測定することも、一般的な基準を設定して可能になる訳ではなく、個人的な評価基準によって(もしくはある集団の評価基準によって)行われるということを意味する。
日常的に行為を点検する場合、その行為の評価が個人によってかなり異なる場合が生じても不思議ではない。例えば、目標を高く持つ人は、一般的に言って、その高い目標に達することができない場合が多く生じる。その人(目標の高い人)は、失敗の確率が上がることになる。しかし、目標を小さく抑えれば、同じ行為の結果も失敗の確率が低くなる。
目標値(期待値)への達成度(達成確率)を、失敗として考える場合、失敗を少なくするためには、目標値を下げるという行為が働くことになる。
すると、誰も、失敗を恐れない、目標値の高い行動を計画することはないだろう。つまり、失敗確率を低く抑えるために、予め(あらかじめ)、難しい企画や行動目標を立てないということにならないだろうか。
著者は以上の疑問に答えるために、「失敗が確率現象である」という節を設けた。これに関しては、後で批評する。
3-2、失敗の構造、「結果」「要因」「からくり」と失敗の脈絡(三つの要素の構造的関係)
失敗の様式的原因要素(からくり)と環境的原因要素(要因)
著者は、「失敗(結果)は原因(失敗の)を持っている」という一般的な表現を、「失敗(結果)はその失敗を起こす要因とからくりからなる」と表現し直した。つまり、失敗の原因という表現は、失敗を分析する上であまり役に立たない表現であることを指摘し、失敗の原因という意味を「失敗を生み出す要因とからくり」という二つの分析可能で観察可能な概念に変換したのである。
著者の定義する「失敗のからくり」とは、失敗行為を行ってしまった人や組織(集団)の失敗行為を生み出す原因を意味する。つまり、それらの人々(個人)の考え方、技能、態度や、組織(集団、会社、社会や国家)の規則(決まり)、制度、習慣(文化)等々である。著者は失敗の「からくり」という表現を用いて、失敗行為主体の内的な原因を表現した。
また、著者が定義する「失敗の要因」とは、失敗(結果)を引き起こす外的な環境や条件として位置づけている。例えば、雪印食品が引き起こした牛肉偽造(失敗の結果)は、狂牛病(要因)や経営的な危機(要因)が会社の体質(からくり)に入力されて生じた現象であると考えた。食品会社を襲った狂牛病と会社が当時経営的不振になっていた二つの条件が、会社の消費者をごまかし儲け主義に走る体質(経営陣の考え方)に入力されて、食品偽装(詐欺)という結果が生まれたと、著者は説明した。言い換えると、著者が定義した失敗の要因とは、会社(個人)を取り巻く外的な環境や条件を意味している。
つまり、原因は、「からくり」と呼ばれる失敗を引き起こす様式的原因要素と、「要因」と呼ばれる環境的原因要素に分類される。
「逆演算」で失敗のからくり(行為決定の様式要素)を見つけるために問われる問題
失敗とはある行為の具体的な結果(目標であった状態に対して望ましくない結果)である。その期待はずれの結果が現れることで、失敗したことを理解するのである。その行為の結果や期待はずれの状態から、失敗の原因、ここではからくりと要因を見つけ出す作業が始まる。
つまり、失敗学はつねに失敗という明らかな結果を分析し、その原因である失敗の要因と失敗を引き起こしたからくりは目に見えない状態にある。その目に見えない失敗の原因(要因とからくり)を辿っていくことを失敗学では「逆演算」と呼のである。失敗の二つの原因である内的な要因(からくり)と外的な要因(条件や環境)を探り当てる逆演算の作業を通じてしか、失敗の原因究明は出来ないのである。
「逆演算」という方法を用いて、失敗の要因とからくりを発見(推定し、その推定を検証確認)する方法を著者は四つの段階を設定して述べる。まず、第一段階では、失敗の原因《要因》《からくり》を知る作業、その次の第二段階では、《からくり》の正体を探す作業、三つめの段階では探し当てた《からくり》に架空の《要因》を入れて、どのような結果が推定されるか仮想実験をしながら結果を導き出す。そして、最後の段階では、《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、これららの失敗(結果)の予測や類推に活用する。つまり、からくりが正しく設定されると、色々な要因をそこに入れることで、現実の失敗結果はもちろんのことこれから起こる失敗も推測できる。
この逆演算は失敗学にとって大切な方法論である。失敗学が成立するためには、この逆演算が失敗事例に対して実際に行えるようにしなければならないだろう。その場合、要因を探り当てることはさほど困難ではない。つまり、個人や組織の失敗の条件となる生活や社会環境や状況が要因として仮定される。
しかし、失敗の「からくり」を見つけ出すことは失敗の要因(原因)追求の中で最も困難な作業であると言える。何故なら、失敗を引き起こす企業の体質や個人の性格、考え方や技能内容などは、失敗をしている当人や組織の姿である以上、その人々や組織が自分の欠点を自分で見つけ出す作業の困難さが付きまとう。言わば、自分では自分の姿が見えないという困難な立場に立っての作業を必要とされていることを意味する。
つまり、失敗の要因である「からくり」は、個人、集団や組織など行為主体がもつその行為決定に関連する要素である。つまり、からくりは行為を決める基準であり、行為決定に関係するなんらかの決まりであると言える。
そのために、著者の失敗のからくりを見つけるための「逆演算」は、単なる失敗発見の方法というよりも、つまり失敗経験を点検するための技術的な理解と共に、自らの方法や考え方を点検する方法が求められているのである。
失敗の脈略を活用した失敗の予測実験
失敗(結果)には、必ず、要因つまり外的な失敗の原因要素とからくりつまり内的な失敗の原因要素がある。これを失敗の脈絡と呼んだ。著者は結果から要因とからくりを逆演算して見つけ出し、その相互関連、失敗の脈略を見つけ出す。これが失敗学の失敗原因の探求の過程である。
それから、失敗学は、見つけ出したからくりに、仮定できる色々な要因を入力し、その結果生じる状況(失敗の)を思考実験する。つまり、まず、仮定した「からくり」が正しいかを検証し、その「からくり」が正しいなら、次に、色々な予測できる「要因」を「からくり」に入力することで、これから予測できる結果(失敗の)を示して行く。
これが、将来起こる失敗の予測となる。失敗学の目的は、将来の失敗を予測し、失敗の確率を出来るだけ小さく押さえることに結びつくのである。
3-3、失敗学は失敗の確率を下げるための技術論である
ハインリッヒの法則から、失敗を防ぐ方法としての職場の取り組みとは
労働災害の発生確率を調査研究から割り出したハインリッヒの法則は、そのまま失敗学でも活用できる。つまり、1件の重大事故には29件の軽微の事故が潜み、300のヒヤリとする出来事が潜んでいる。逆に辿れば、1件のヒヤリとする出来事の約30分の1の割合で軽微の事故が潜み、また300分の1の割合で重大事故が潜んでいる。さらに1件の軽微の事故には、30分の1の重大事故が潜んでいるということになる。
重大事故を防ぐには、ヒヤリとした出来事を日々に点検する「ヒヤリハット」の手法が取り入れられている。特に生命に直接関わる職場、医療や食品関係の職場では、ヒヤリハットは日々の作業の中で行われている。
この考え方は、失敗は人間の行為に付随した必然的な現象であり、ある確率で生じる現象であるという考え方にたっている。つまり、決意やがんばりでは失敗を避けることが出来ないため、失敗を避けるための技術が必要となる。それが失敗学であり、ヒヤリハットである。
問題は、職場で失敗を防ぐために、どのような教育や訓練がなされ、また日常的に業務の中で失敗を防ぐ手段や方法が検討されているかが最も大きな課題となる。
失敗学が教える失敗を恐れない仕事の仕方、失敗は成功の母
ハインリッヒの法則は、失敗は確率現象であると説明している。つまり、どのような行為にも失敗は生じる。そして人が何かをすることと失敗は不可分の関係にある。つまり、失敗を避けては何事も出来ないことを意味する。
失敗を恐れ、失敗しないように慎重に物事を行うことは必要であるが、失敗を恐れ、新しいことに挑戦することを止めてしまえば、新しい事業も発見も生まれないだろう。
失敗学は失敗を避けるためにある学問ではあるが、失敗を避けるために、新しい挑戦まで控えることを勧める理論ではない。むしろ逆で、失敗が多く発生するベンチャー起業で、出来るだけ成功率をあげるための技術を研究し教えるのが失敗学の課題である。
失敗の確率を下げるための努力、まず失敗をしたら、その経験を活かし、失敗の要因とからくりを見つける。そして、見つけ出したからくりが正しいかどうか、仮定できる要因をからくに入れて結果を導く、思考実験を繰り返す。
失敗学・他人の失敗に学ぶ技術
さらに、他人の失敗の例を研究し、同じように、それらの失敗事例から、その失敗のからくりを予測し、仮定できる限り多くの要因をそのからくりに入力して、結果を計算する。もし、その計算で、予測した要因から生じた失敗事例が出力できるなら、そのからくりは正しい、言い換えるとからくりの仮説は有効であると判断できる。
こうして、考えられる限りの色々な要因をからくりに入力し、何回となく計算結果を取り出し、特に今後の予測可能な結果を推察する。つまり、失敗学は、将来起こるだろう失敗の可能性を少なくするための方法となる。
3-4、失敗学を学ぶことの意味
人生という失敗だらけの航海のために
生きている以上、つねに新しいことに出会う。そして新しきことに挑戦しなければならない。大学を卒業し、社会に出る。就職して仕事をする。結婚して、家庭を持つ。子供を育てる。自治会など地域社会の活動に参加する。インターネット等で新しい友達を作る。起業する。海外に出張する。放送大学に登録して新しい分野の勉強に挑戦する等々。人生とは、限りなく新しい生き方の局面を乗り越える航海のようなものである。今までの経験しなかった局面を乗り越えて生きていかなければならない。
その中で、新しいことを始める時、また新しい局面で生きていく場合、失敗学は役に立つ知識とこころを教えるだろう。
つまり、失敗学が教える人生という失敗だらけの航海に必要な考え方「強く生きるからくり」を見つけ出すことである。これが、失敗学が提起する「失敗を恐れない」、「失敗に学ぶ」、そして「他人の失敗にも学ぶ」たくましい生き方の方法・倫理ではないだろうか。
参考
三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
Tweet
2010年10月19日火曜日
善悪の確率的彼岸とは何か
三石博行
善と悪の回帰運動
善を深く知るものは悪を知っている。そして、悪を深く知るものは善を知っている。その両者を深く知るものは人間を知っている。
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
悪への自覚は善への入り口を作り、善からの判断は悪への入り口を作る。なんと皮肉なことか。キリストの原罪思想も親鸞の悪人正機説も、ソクラテスの無知の知のように、逆説的に理解することによって、あまり大きな過ちを犯さない処方を教えているようだ。
つまり、我々が身を滅ぼすほどの大きな過ちを犯さないために、悪を知るということが存在しているようにも思える。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
そして、悪は善を理解するためにあり、善は悪を理解するためにある。つまり、悪と善はつねに相互を決定するために用意されているようだ。
最も、問題にすべきは、悪として自覚できない悪の存在である。それは主観的には、まったく悪ではないものとして理解されていることである。多分、私にも、他者から見れば悪として理解されながら、自分の中では、悪として自覚できないものがあるかもしれない。
善となろうとするものが悪になるのは自然なことだ
国家権力の中心にいる人々、例えば政治家や高級官僚などの犯罪を摘発する特捜(検察庁特別捜査部)として国民の圧倒的支持を得て、またロッキード事件などを解決してきたその組織が、今逆に、意識的に市民を冤罪被害者にする犯罪が指摘されている。
先月、2010年9月、大阪地検特捜部のM主任検事が厚生労働省の村木厚子元局長らの犯罪を裏付けるために押収したフロッピーディスクのデータを書き換えたことが明らかになり、前田主任検事は逮捕された事件。
正義の使者「特捜検事」のエリート、M主任検事。きっと、彼は悪の巣窟、官僚と政治家(小沢さんみたいな人)を「正したかった」のだと思う。そして、彼の正義を貫くためには、手段を選ばなくてもよかったと堅く信じていたのだ。
悪い奴をヤッケルのだから、世の中の悪を退治するのだから、証拠のフロッピー日付の書き換えなどはそう大いしたことはないと信じていたのではかろうか。
悪と闘い続けてきたM主任検事が、田中角栄元総理のような怪物と闘うために、彼は田中角栄氏よりもより強大な権力者となる必要があった。そして、M主任検事が、強大な権力と闘う以上、M主任検事も強大な権力者となったのである。これは実に自然なことだはないか。
今、世間では、昨日の悪玉(官僚)が無罪となり、正義の使者(特捜検事)が有罪となろうとしている。
この問題は、M主任検事の個人的な資質の問題ではない。特捜の星M主任検事を創ったのは検察組織、民主主義国家国日本、そしてマスコミ。M主任検事を語るとき、我々の社会的評価や価値観などは無傷でいられるのであろうか。怪物M主任検事の誕生を騒ぐ前に、まず自分に潜む怪物を点検するべきだろう。
またもや、M主任検事を悪としM労働厚生省元局長を善として、社会が作り出す善悪物語がマスコミに登場する。その面白く分かりやすい話(ストーリー)を聴くたびに私は常に不安を感じる。
評価の悪い確率が80%以上の状態 悪と評される可能性が高い
悪とは何かを考えるとき、善に対する悪という二元論から、評価の非常に最高に悪いと言われるものという表現がある。
この考えは、失敗学を創設した畑村洋太郎氏の定義した「失敗」の概念に近い。つまり、彼は「失敗学における失敗の定義」を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」と書いてくる。言い換えると、行為の結果は主観的な評価基準によって失敗と感じることも、そうでないこともあると言える。その評価は極めて主観的である。
するとそれらの主観的評価(個人的評価)が集まり、ある評価集合を作ったとすれば、その平均値がそれらの主観的評価の平均値、つまり共同主観的評価となる。そして、ある行為結果に対して、統計的な解釈を導入すると、悪という評価は、まずいという評価から始まる程度の順序の最高値であると気付くのである。
つまり、まずいから悪への順序は以下のようになる。
1、あまりよくないといわれること
2、まずいといわれること
3、大変まずいといわれること
4、悪として評価されたもの
5、最悪といわれるもの
この評価段階表を基にすれが、悪(犯罪行為)という評価に至るまでに、すでに他者からの批判的評価を受けていたと思いますね。問題は、それらの批判的評価を受け入れられない自分、またはそれを過小評価している自分の問題が浮き彫りになる。
つまり、失敗と同じで、つねにある確率で選択した行為に対しては同じ評価集合内の他者の批判が生じる。ましては、何かに挑戦する場合には、その批判の起こる確率は非常に高い。そして、それらの批判をどのように処理していくか。
特捜の組織の中では、こうした批判的評価に対して、それを受け入れてはならないという組織的文化があるのではないか。つまり、その背景に、世論が係わっている。今までの特捜が行った政治家や官僚への厳しい闘いを我々は支持してきたのだ。その上で、彼らは、彼ら独特の捜査手法の落とし穴を検証する機会がなかったのかもしれない。
他者からの批判的評価を無視する、理解しない、拒絶するという過程を経ながら、大きな落とし穴(犯罪行為)に落ちるのだと思う。
社会が悪(犯罪行為として評価された状態)と断定するまでに、多分、社会は軽度から重度の批判的評価を下し続けたと思われる。ですから、善か悪かの整数値を行為評価に与えるのでなく、批判的評価関数の平均値からのズレを問題にする発想が必要だと思う。
その意味で絶対的な悪も絶対的な善も存在すると考えることは、不可能に近い悪と善の姿をイメージしていることになると思う。
問題は、M主任検事でなく、M主任検事の思想です。M主任検事の司法や捜査に対する考え方の問題だと思う。
彼は、その意味で自らがもつ権力の恐ろしさを忘れていたのだと思います。
しかし、自らの持つ権力の恐ろしさを忘れるのは、M主任検事だけではないでしょう。小さな企業でも、家族でも、学校でも、どこでも起こるような人間的現象のように思える。
参考資料
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文芸春秋社、文春文庫、2005年6月10日 第1刷、268頁
http://mixi.jp/home.pl?from=global
mixi 「考える糧ゴリー」
Tweet
善と悪の回帰運動
善を深く知るものは悪を知っている。そして、悪を深く知るものは善を知っている。その両者を深く知るものは人間を知っている。
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
悪への自覚は善への入り口を作り、善からの判断は悪への入り口を作る。なんと皮肉なことか。キリストの原罪思想も親鸞の悪人正機説も、ソクラテスの無知の知のように、逆説的に理解することによって、あまり大きな過ちを犯さない処方を教えているようだ。
つまり、我々が身を滅ぼすほどの大きな過ちを犯さないために、悪を知るということが存在しているようにも思える。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
そして、悪は善を理解するためにあり、善は悪を理解するためにある。つまり、悪と善はつねに相互を決定するために用意されているようだ。
最も、問題にすべきは、悪として自覚できない悪の存在である。それは主観的には、まったく悪ではないものとして理解されていることである。多分、私にも、他者から見れば悪として理解されながら、自分の中では、悪として自覚できないものがあるかもしれない。
善となろうとするものが悪になるのは自然なことだ
国家権力の中心にいる人々、例えば政治家や高級官僚などの犯罪を摘発する特捜(検察庁特別捜査部)として国民の圧倒的支持を得て、またロッキード事件などを解決してきたその組織が、今逆に、意識的に市民を冤罪被害者にする犯罪が指摘されている。
先月、2010年9月、大阪地検特捜部のM主任検事が厚生労働省の村木厚子元局長らの犯罪を裏付けるために押収したフロッピーディスクのデータを書き換えたことが明らかになり、前田主任検事は逮捕された事件。
正義の使者「特捜検事」のエリート、M主任検事。きっと、彼は悪の巣窟、官僚と政治家(小沢さんみたいな人)を「正したかった」のだと思う。そして、彼の正義を貫くためには、手段を選ばなくてもよかったと堅く信じていたのだ。
悪い奴をヤッケルのだから、世の中の悪を退治するのだから、証拠のフロッピー日付の書き換えなどはそう大いしたことはないと信じていたのではかろうか。
悪と闘い続けてきたM主任検事が、田中角栄元総理のような怪物と闘うために、彼は田中角栄氏よりもより強大な権力者となる必要があった。そして、M主任検事が、強大な権力と闘う以上、M主任検事も強大な権力者となったのである。これは実に自然なことだはないか。
今、世間では、昨日の悪玉(官僚)が無罪となり、正義の使者(特捜検事)が有罪となろうとしている。
この問題は、M主任検事の個人的な資質の問題ではない。特捜の星M主任検事を創ったのは検察組織、民主主義国家国日本、そしてマスコミ。M主任検事を語るとき、我々の社会的評価や価値観などは無傷でいられるのであろうか。怪物M主任検事の誕生を騒ぐ前に、まず自分に潜む怪物を点検するべきだろう。
またもや、M主任検事を悪としM労働厚生省元局長を善として、社会が作り出す善悪物語がマスコミに登場する。その面白く分かりやすい話(ストーリー)を聴くたびに私は常に不安を感じる。
評価の悪い確率が80%以上の状態 悪と評される可能性が高い
悪とは何かを考えるとき、善に対する悪という二元論から、評価の非常に最高に悪いと言われるものという表現がある。
この考えは、失敗学を創設した畑村洋太郎氏の定義した「失敗」の概念に近い。つまり、彼は「失敗学における失敗の定義」を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」と書いてくる。言い換えると、行為の結果は主観的な評価基準によって失敗と感じることも、そうでないこともあると言える。その評価は極めて主観的である。
するとそれらの主観的評価(個人的評価)が集まり、ある評価集合を作ったとすれば、その平均値がそれらの主観的評価の平均値、つまり共同主観的評価となる。そして、ある行為結果に対して、統計的な解釈を導入すると、悪という評価は、まずいという評価から始まる程度の順序の最高値であると気付くのである。
つまり、まずいから悪への順序は以下のようになる。
1、あまりよくないといわれること
2、まずいといわれること
3、大変まずいといわれること
4、悪として評価されたもの
5、最悪といわれるもの
この評価段階表を基にすれが、悪(犯罪行為)という評価に至るまでに、すでに他者からの批判的評価を受けていたと思いますね。問題は、それらの批判的評価を受け入れられない自分、またはそれを過小評価している自分の問題が浮き彫りになる。
つまり、失敗と同じで、つねにある確率で選択した行為に対しては同じ評価集合内の他者の批判が生じる。ましては、何かに挑戦する場合には、その批判の起こる確率は非常に高い。そして、それらの批判をどのように処理していくか。
特捜の組織の中では、こうした批判的評価に対して、それを受け入れてはならないという組織的文化があるのではないか。つまり、その背景に、世論が係わっている。今までの特捜が行った政治家や官僚への厳しい闘いを我々は支持してきたのだ。その上で、彼らは、彼ら独特の捜査手法の落とし穴を検証する機会がなかったのかもしれない。
他者からの批判的評価を無視する、理解しない、拒絶するという過程を経ながら、大きな落とし穴(犯罪行為)に落ちるのだと思う。
社会が悪(犯罪行為として評価された状態)と断定するまでに、多分、社会は軽度から重度の批判的評価を下し続けたと思われる。ですから、善か悪かの整数値を行為評価に与えるのでなく、批判的評価関数の平均値からのズレを問題にする発想が必要だと思う。
その意味で絶対的な悪も絶対的な善も存在すると考えることは、不可能に近い悪と善の姿をイメージしていることになると思う。
問題は、M主任検事でなく、M主任検事の思想です。M主任検事の司法や捜査に対する考え方の問題だと思う。
彼は、その意味で自らがもつ権力の恐ろしさを忘れていたのだと思います。
しかし、自らの持つ権力の恐ろしさを忘れるのは、M主任検事だけではないでしょう。小さな企業でも、家族でも、学校でも、どこでも起こるような人間的現象のように思える。
参考資料
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文芸春秋社、文春文庫、2005年6月10日 第1刷、268頁
http://mixi.jp/home.pl?from=global
mixi 「考える糧ゴリー」
Tweet
2010年6月21日月曜日
いじめるという行為の分析、いじめないということの困難さ
倫理問題(人間観の問題)としての虐めの課題
▽ 教育学者によると虐めには、子供社会にある「お山の大将を決める行動」に由来するもの、嫉妬によるもの、そして刑事事件的な暴力行為まである。その具体的な手口は、悪口を言う、笑いものにする、悪いうわさを立てるなどの言葉による暴力、無視する態度による暴力から集団暴行(暴力を振るう)、恥ずかしい行為を強制する、金銭を要求する、万引きなどの犯罪行為を強制するまである。
▽ 刑事事件の対象になる虐めに関しては発見した際に警察の協力が必要で、保護者も学校も警察に通告しなければならない。例えば自殺者を出すなど、重大な事件に発展し被害者の保護者の憤激を伴う場合、刑事事件として告訴しなければならない場合が生じる。それ以外に、こどもの喧嘩(暴力を振るう行為)によって傷害事件も発生するだろう。それらのすべての事件を刑事事件として告訴することは出来ない。暴力事件が起こったとしても、教育の立場から、学校での虐め対策を検討し、教育活動として虐め問題を考える機会を与え、予防対策をおこなう必要がある。
▽ また言葉や態度による虐めに対しても常に敏感に対応し、それ以上虐めがエスカレートしないように学校として(職場として)対策を行う必要がある。つまり、虐めた子供も虐められた子供も含めて文部科学省が提案しているマニュアルなどを活用し学校やクラス全体で虐めに対する対応をしなければならない。この課題はこれまで2回にわたって学習してきた。つまり、社会的対応と教育的な対応が必要である。
▽ ここで問題にしたいことは、虐めを倫理的問題として考えるために、虐めの構造を理解する必要がある。これまでの議論では、虐めたという自覚を持つこと、また虐めが暴力であるという意識を持つことの二つの点に関して問題を整理してきた。さらに、虐めの問題を人間性や倫理の課題として議論してみよう。
「傷つけた」という思いと「いじめた」という思い
▽ アンケートで、クラスの学生に、「いじめられたことがあるか」という質問を出す。殆どの学生が「ある」と答える。その逆の「いじめたことがあるか」という質問には「ある」と答える学生は少ない。さらに、「人を傷つけたことがあるか」と問いかけると「ある」と殆どの学生が答える。
▽ 「いじめる」という行為は「ひとを傷つける」行為である。しかし、人を傷つけたと思う人でも、ひとをいじめたとは思っていない。何故なら、「人を傷つけてしまった」と思う現在の自分は、「傷つけるつもりで傷つけたからではなく、結果的に傷つけてしまった」ことを記憶している。「あのとき、あの人を傷つけたのだ」という思いが、「ひとを傷つけてしまった」という記憶として、心に留まり続けている。それがこの「人を傷つけたことがある」という答えの背景ではないだろうか。
▽ また、多くの学生が「傷つけたことがあった」が、「いじめたこと」はないという答え(過去の行為に関する自覚)を示したのは、「傷つける」行為と「いじめる」ということばのニュアンスの違いがあるからではないだろうか。
▽ 言換えると、「いじめる」という行為がはるかに「傷つける」行為よりも悪意に満ちた意図的な行為であり、その意味で、いじめる行為の方が暴力的に聞こえる。傷つけるとは家族、友人や恋人のこころを傷つけたというニュアンスが大きい。しかし、いじめるとはあるいじめの集団の一員として意図的に弱い人をターゲットにして陰湿な暴力行為を行ったというニュアンスに近い。その意味で、いじめると傷つけるは大きく主観的な意味が異なることになる。
▽ また、傷つけたと言うニュアンスには、その行為への罪悪感が匂う。すべての人が、何らかの形で、ひとを傷つけてしまったという罪悪感(良心)を持っている。特に自分の愛する人に対してこの感情を持つ。この感情が愛なのだろう。ある意味で、他者への愛が、人(友人)を傷つけたという気持ち(罪悪感と呼ばれる良心)として現れているのである。
▽ 例えば、「人を傷つけた」と答えた人に「あなたの傷つけた相手は誰ですか」と問うたとする。女子大の学生なら「母親」という答えが多く返ってくる。また、若い夫婦なら「自分のパートナー」、年を取った人々なら「過去に老いた両親の面倒をみてやれなかった」という答えが返ってくる。自分の行為の不十分さ、未熟さを省み、それを悔やんでいる場合に「不十分で未熟な自分の対応を受けた他者への思いが、何かもっとしてやりたかった。なにもあんなことを言わなくてもよかった。そうした悔恨の気持ちが「傷つけた」という感情として残り続けるのである。それは、悔恨と呼ばれる愛の姿、呵責という良心の姿ではないだろうか。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』
暴力行為としての虐めの自覚
▽ 傷つけたという思いがあることはすでに虐めたと云う過去への反省が始まっていることを意味する。自分が人を虐めたことがあると言えるとき、そこから虐めに対して向き合う姿勢が生まれる。虐めたことを認めない場合よりも、虐めたこと、つまり人を傷つけたことを自覚していることが、虐めの問題を解決する鍵となる。
▽ 考えてみると「いじめ」と平仮名(ひらがな)で書かれると、子供たちや友達の間に生まれる遊びに近いニュアンスをもった「嫌がらせ」や「仲間はずれ」を意味する。実際、「いじめ」は言葉による嫌がらせから肉体的暴力や金銭を要求する恐喝行為まで含めた幅広い意味を持っている。ひらがなの「いじめ」をここではあえて漢字で「虐め」と書いたのは、この行為が「人を傷つけること」をそのことばの意味の中心におきたかったからである。その意味で「いじめ」が「ひとにいやな思いをさせる」という緩やかな、あそび心のある行為であったとしても、それは明らかに他者を「虐める」という暴力であることには変わりないのである。
▽ 暴力という言葉は明らかに他者を傷つけるという意味を持っている。しかも暴力は、ことばの暴力から肉体的暴力、また個人の暴力から集団の暴力、そして社会や国家による暴力まで、その種類も形態も多様である。つまり暴力という言葉には否定的な意味が強く含まれている。暴力という言葉を使い、その暴力の良さを語ることは非常に困難になる。そこで、虐めを暴力として理解することで、そのいじめが人を傷つけている行為であることを自覚する必要がある。
▽ 暴力を振るってはいけないという意味は、殆どの場合、肉体的暴力を意味している。何故なら暴力の「力」が具体的な行為を意味するので暴力という用語が肉体的な行為を意味するからである。言葉や態度で示す他者への嫌がらせを精神的暴力とか言葉による暴力と呼んでいるのは、もともと暴力は肉体的にダメージを与えるという意味が基本となっているからだ。
▽ 虐めを暴力として自覚していないことが、虐めへの反省が生まれない原因になっている。つまり、誰もが「きもい」と思っている奴に自分が正直に「気持ち悪い奴だ」と言ってやったという不特定多数の他者の意見や感情を代弁する立場に立って、虐めという行為が正当化されるのである。もし、「気持ち悪い奴」と言う事が暴力であるという自覚を持つなら、不特定多数を代表するという「皆が言いたいことを言った」という社会正義の錯覚や主観的イメージを持つことは苦しくなる。
▽ 自覚的に虐めが不当な行為であり社会的にも認められない暴力であると自覚することによって、虐めるという行為が卑劣であるという意味付けが可能になる。卑劣な行為は誰もやりたくないだろう。その意味で、虐めるという行為を恥ずかしく思えるだろう。つまり、虐めを行った人々が虐めを暴力として自覚することが虐めの問題を解決する糸口を与えると思われる。
最広義の暴力への抑制と無意識の自己中心的な自我の世界の自覚
▽ 暴力と呼ばれる行為を非常に広い意味(広義)に解釈すると人を傷つける行為と言えるのであるが、人を傷つける行為は人間の行為の中でまったく特別な行為ではない。何故なら日常的に人は何らかの形で人を傷つけているからである。しかし、この「人を傷つける行為」が意図して行われた場合と意図しないで行われた場合を分けるなら、暴力は意図して行われた人を傷つける行為であると解釈できるだろう。
▽ 意図しないで、つまり主観的には傷つける気持ちはまったくなかったのだが、結果的に人を傷つける行為をしてしまう場合もある。すなわち差別用語などの、言葉によって人を傷つける行為は、差別用語を使う人々は日常的にそのことばをつかっているので、別状取り立てて悪意をもって使っているわけではない。例えば、「片手落ち」という用語は「何かが足らない状態を意味する」のである。そこで上肢(じょうし)障害を持つ身体障害者にとっては、この「片手落ち」の国語表現は、自分の身体的状況を「不完全なもの」と一般解釈されていることになるため、上肢障害を持つ身体障害者にとっては特別な意味となる。つまり、身体的な状況をもった自分の存在は、一般的な意味で「不完全なもの」、「未熟な状態」という意味になるのである。
▽ 日常的に使われている日本語に含まれている意味を我々は深く考えもしない、そして用語としてそれらの単語や言い回しを使うのである。主観的にはまったく人を傷つける気持ちはないのであるが、結果的にはそのことばで誰かが傷ついている。この状況は、広義の暴力の定義に該当しないため、さらに最広義の暴力として位置づけてみよう。つまり、最広義の暴力とは、「主観的に意図して行われていない状態で人を傷つけていること」という概念である。こう考えると、日常生活の中で、非常に多くのことばや態度でまったく主観的に意図していないが人を傷つけていることは数々あることに気づく。
▽ 例えば、我々は、自然に自分の自慢をしている。人と話始めたら、決まって、自分の自慢話、子供の自慢話、兄弟の自慢、友達の自慢、恋人の自慢、になっている。人の自慢話ほど聞いていられない話はないが、その自分も口を開ければ、聞きたくない人の話と同じように自慢話をしている。他人の自慢話は聞きたくないものである。不愉快である。何故なら、その自慢に対してどこか自分が惨めになるように思われるからである。他人の自慢話を笑って聞ける人は、自慢話をしている人よりも少し優位に立っているようにおもえる。「あの人はあんなに自慢しなければ身が持たないのだ」とか「自慢は、コンプレックスの裏返しだらか、よっぽどコンプレックスを持っているのだろう」とか、非常に冷たく自慢話をする人を上から見下ろせば、きっと他人の自慢話も滑稽(こっけい)な話に聞こえる。そして、自慢話をしている人のその裏の心理を察しながら、どこかで同情したり哀れんだりできるのかもしれない。しかし、よっぽど自信家でない限り、他人の自慢話は我慢がならないものだ。
▽ 自慢話をしない偉い人、謙虚な人間として他の人々からの尊敬を集めている人が、まったく自分を自慢する気持ちがないのではなく、彼らは自慢話をされた人の気持ちが理解できているから自慢しないのである。彼ら(謙虚で偉いと言われた人々)は自慢話をされた人が持つ不愉快さと、自慢話をする人の滑稽さを知っているので、努めて自慢話をしないのである。決して彼らが自分を自慢したいことを持たないために、自慢話をしないのではなく、ただあえて自慢したいことを自慢しないだけである。その違いをもって、人は謙虚な偉人になれば、うぬぼれ屋の俗人にもなるのである。
▽ 人は自己中心的世界をもって生きている。それを自我とよんでいる。すべての人にとって他者や世界は自己の周りにあるもの、自己を取り巻くものであり、また自己によって認識されたものである。その意味で対象世界も他者も自我によって認識されて登場したものである。その状態を主観と呼ぶ。しかし、現実の世界は、自分が認めようと認めまいと、自分が生まれる前から存在したし、また自分に関係なく運動し存在している。現実の世界にとって自己がむしろ「存在をゆるされている」ものであり、「生かされているもの」である。しかし主観的世界からは世界が自分によって認められたもの解釈されたものとして存在している。
▽ 最広義の暴力を抑制するためには、自分に潜在的に存在し、そして無意識に湧き上がる自慢や自己愛というナルシシズムを抑える意識力を持たなければならないことになる。 意図しないで人を傷つけたことばや態度を意識的に拾い上げ自己分析、反省しながら、その行為(なんとなしに語る言葉や態度)を対自化(たいじか)、つまり自分の外に取り出して、自分の意識の対象にし、分析的に理解する作業に組み込まなければならないのである。
▽ この作業、最広義の暴力を引き起こさない作業は至難の業である。それ程、困難な作業、自己点検分析、反省の作業が必要とされているのだ。しかし、それを可能にすることは殆ど出来ないのではないだろうか。
残酷な自己中心的存在者としての人間、人間性の自覚
▽ 話しが飛ぶようだが、生物の世界では個体は生き延びるために他の生物を食べている。その生物の生存のための決まりは人間でも例外ではない。つまり、人は他の命を食らい生きている。もちろん、生きるために他の生物を食らうことは生命活動の自然な姿であり、生態学では食物連鎖と呼んでいる。人があらゆる生物、植物から動物までを食べるのは、人間が食物連鎖の最上段に位置しているからである。
▽ 動物愛護団体の活動、例えば捕鯨反対運動を行い哺乳動物・鯨を守る団体(シーシェパード・SS)のメンバーが、日本の捕鯨船に乱入するという事件が起こった。鯨の乱獲によってある種の鯨が絶滅しようとしている。その意味で捕鯨を制限しなければならない。乱獲を防ぐための国際的規制を作る必要がある。しかし、すべての鯨の種が絶滅種になっているわけではない。捕鯨に反対する人々の言い分は、鯨やイルカが海の哺乳動物ということで、動物愛護団体の立場から、イルカ漁や捕鯨に反対している場合もある。
▽ 動物愛護団体に参加し、捕鯨反対を唱(とな)えている人々は多くの場合、欧米先進国の人々である。彼らは鯨の肉やイルカの肉を食材に使ってきた歴史や伝統文化はない。欧米では、これまで鯨はナガス油(狭義の鯨油)と呼ばれる食料油とマッコウ油とよばれる工業用油の材料として使っている。ある少数民族を除いて伝統的に鯨を食べる習慣はない。その意味で、捕鯨の中止は、彼らの生活文化(食文化)に大きな影響を与えることはない。
▽ しかし、もし仏教国の動物愛護団体が豚や牛を殺すことに異論を唱え、豚肉や牛肉を食材とすることを動物愛護精神に反する残虐な行為であると批判するなら欧米の人々はどのように反応するだろうか。彼らの食文化から豚肉や牛肉を取り除くことが出来ない以上、鯨肉を食べる食文化圏の人々のように、屠殺(とさつ)(現在「屠殺・とさつ」と言うことばは差別用語とされている。)に反対されることは大変なことに違いない。
▽ 実際、屠殺は残酷である。例えば上等の豚肉は5ヶ月ぐらいの子豚を屠殺するのであるから、豚は屠殺されるために生まれてきたと言っても言い過ぎではない。そして、日常生活の風景として、屠場に運ばれ食肉に加工された牛肉や豚肉は、お肉屋さんやスーパーの食肉コーナーに並べられ、それを我々は買い求め、毎日の食材として使っている。
▽ 多くの人々が菜食主義者ではない。1970年代までは、屠殺はハンマーを使って豚や牛の脳天を叩き殺していた。一瞬にして豚も牛も死んでしまう。しかし、隣で殺される仲間を見ながら仔豚たちが叫び泣く声は悲痛であった。一回でも屠場に行ったことがあるものなら、あの泣き声を忘れることはできないだろう。しかし、それでも豚肉を食べるだろう。
▽ 日常生活を過ごす自分達の姿をリアルに観ることによって、そう深く考えなくても、人間のリアルな姿が少し正しく理解されるだろう。例えば子豚を食らう我々人間の姿から、人間の姿が見える。人は他の生命によって生かされている動物である。
▽ だが、そういう肉食という残酷な生活文化や生活習慣を自覚したとしても、やはり生きるためにその肉食を続けるだろうし、仔豚を屠殺し続けるだろう。
▽ 仏教文化を持つ日本では、長い期間肉食の文化がなかった。そのため屠殺行為は封建社会の士農工商の階級制度から除外された部落民の仕事になっていた。近代日本が始まり、西洋文化を取り入れ肉食文化が輸入され、食肉加工のために屠殺が行われるようになっても、屠殺にまつわる古い差別意識が残り、屠殺という言葉が差別用語に結びつくように、肉食をしながらも、屠殺行為を忌み嫌い、嫌悪し、屠殺を行う人々を非民の慣わしとして差別してきた。
▽ 豚肉や牛肉を食しながら、屠殺することで得られているそれらの食材の現実を認めないところに実は、人間が宿命として多くの動物の犠牲の上に生きている残酷でありながら宿命的な現実をも否定する意識の構造が隠されている。実は、この現実、つまり屠殺して他の動物を食らって生きている現実を直視しない現実こそが、最も問われなければならない問題である。
▽ 前節で自覚しないで人を傷つけている行為を最広義の暴力と定義をした。その最広義の暴力を振るわないようにするためには、例えば自慢話の例ではないが、無意識に行っている自己中心的な行為によって、自分の周りの人々の受ける気持ちを理解する作業が必要であった。しかも、それによって仮に自慢話をしなくなったとしても、本来、人は自分を最も愛している以上、自慢話をするようにできているために、自慢話を決定的に防ぐことは出来ないという自覚が必要であった。
▽ ある意味の逆説、つまり、人が本来自己中心的存在であり、自我という意識を持ち、世界を自分の周りに認識している以上(本来、世界によって自分は創られたのだが、意識的には世界は自分によって認識されて存在していると理解されている)、その意識中心主義が起こしている認識世界と存在世界のあり方の逆転を防ぐことは出来ない。そこで、もっとも現実の自分、世界によって生かされ、他の動物を食らうことで生かされ、他の人々の労働によって生かされ、家族という制度で生かされ、育てられ、社会という制度で育てられてきた人間としての自分を理解することからはじめなければならないのである。
▽ 最広義の暴力とは、自己中心的な意識をいかに現実の世界の中に正しく置き換えるかによって自覚的に抑えることが可能になるのではないだろうか。そして、他の生命、仔豚を食らう自分がいるなら、その肉を食い散らさない、捨てない、最後まで、きれいに食べてあげる親切さを忘れないことだろう。その努力に、最広義の暴力を理解する術が隠されていないだろうか。
「いじめるな」から「いじめない努力をしよう」という考え方の変換
▽ 虐めを無くするためにこれまで「いじめるな」と教育してきた。しかし、本来人間は、自己中心的な存在であるため、虐めるという行為は自然に現れる。意識的に虐めなくても無意識的に他者よりも優位に立ち、他者よりも立派だと評価されよと努力する。その努力がある意味で自分を高めながらも、同時に他人を傷つける結果となる。
▽ 自己中心的意識から生まれる行為や言語(認識)活動と他者より優位に立ち、自分をよりよく見せようとする行為は不可分の関係にある。それらは人間的行為の典型である。つまり、人は自己の利益を追い求め、自己を高めるというモラルと人は他者を助け、共に共存するというモラルの二律背反するモラルをもって生きている。その二つは互いに反しながら、そして自我の確立と社会性の確立の両方を同時に備えるために必要とされている。
▽ 虐めるなという行為要求は、その意味で自己に自己中心性よりも他利中心性の大切さを解く論理から導かれている。つまり、人は自己中心的であってはならない。そこで「虐める」ことは悪であり、もし虐めるという行為があるならそれを悪として徹底的に否定しなければならない。
▽ だが、果たして「いじめるな」という説教が虐めに対して、虐めない人間の内面性や倫理感を育てることができるだろうか。最広義の暴力を防ぐ力を与えるだろうか考えてみたい。
▽ そこで、まったく発想を変えて「虐めるな」でなくて、逆に自覚的に「虐めないように努力する」ことを課題にしてはどうか。何故なら、人は自己中心的存在であり、その意味で人は自然に他人を傷つける存在(虐める存在)である。無意識の自己中心的な存在、自然と他者を無視する存在、その限りにおいて他者を傷つけずにはいられない存在、そうした人間の性(さが)、自我のあり方を自覚的に理解する方法として、せめてこれ以上「虐めない」ように努力をし続けること、虐めを予防する対応として理解する必要はないだろうか。
▽ 虐めない努力をするという対応がいじめるなという対応よりも、より現実的な対応ではないだろうか。つまり、人が自己中心的存在であることを自覚的に受け止めているから、虐めないための最低限の努力をするのである。この「虐めない」努力をすることは、虐めの対策を自己中心的人間性の自覚の上にたったそれ以上傷つけないという倫理的目標として提案されたものである。
▽ 「いじめない努力をする」ということを考えるとき、中学2年だったころの思い出が浮かぶ。それは、中学2年の担任の先生のことばだった。中学の周りに生えていた松の木が春になると、すっと細長い小枝を伸ばす。その小枝は柔らかく、棒で叩くと、まるで刀にすっぱりと切られた枝のように簡単に折れる。その快感を味わいながら、パクパクとようやく待ち望んだ春に力いっぱい伸びる松の枝を切っていた。担任の先生が「君、その枝はまっすぐと伸びようとしているではないか。何故、そんな可哀そうなことをするのだ」と私に注意した。
▽ その時、はじめて松が必死になって生きようとしている生命であることに気付いた。想像力のなさ。子供であるということを一言でいうと、想像力のなさだろう。そして無邪気な残酷さだろう。
▽ いじめとはその無邪気な残酷さ、想像力のない子供じみた行為のように思える。いじめないということは、その無邪気で残酷な子供らしさから抜け出て、大人になること、想像力を持つこと、によって獲得される人間性ではないだろうか。
▽ 他者への共感は、自己にある他者という共通する存在を自覚した経験を前提にして生まれる。もっと高く伸びたかった先生には、まっすぐと高く伸びようとする松の若芽が美しく見えたのだ。その伸びようとする生命を残酷に切り落とす私の行為を見過ごすことは出来なかったのだろう。
▽ いじめないという行為の困難さを教える。否、共に自覚しあうことが、いじめに対して大人が子供に語らなければならない作業かもしれない。今は、あの担任の先生のように、諭す大人や教師がいないのだろうか。それとも、大人もこともと同じくらい陰湿ないじめにあっているのだろうか。
引用資料
ブログ「生活運動から思想運動へ」2008年1月 三石博行
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html
▽ 教育学者によると虐めには、子供社会にある「お山の大将を決める行動」に由来するもの、嫉妬によるもの、そして刑事事件的な暴力行為まである。その具体的な手口は、悪口を言う、笑いものにする、悪いうわさを立てるなどの言葉による暴力、無視する態度による暴力から集団暴行(暴力を振るう)、恥ずかしい行為を強制する、金銭を要求する、万引きなどの犯罪行為を強制するまである。
▽ 刑事事件の対象になる虐めに関しては発見した際に警察の協力が必要で、保護者も学校も警察に通告しなければならない。例えば自殺者を出すなど、重大な事件に発展し被害者の保護者の憤激を伴う場合、刑事事件として告訴しなければならない場合が生じる。それ以外に、こどもの喧嘩(暴力を振るう行為)によって傷害事件も発生するだろう。それらのすべての事件を刑事事件として告訴することは出来ない。暴力事件が起こったとしても、教育の立場から、学校での虐め対策を検討し、教育活動として虐め問題を考える機会を与え、予防対策をおこなう必要がある。
▽ また言葉や態度による虐めに対しても常に敏感に対応し、それ以上虐めがエスカレートしないように学校として(職場として)対策を行う必要がある。つまり、虐めた子供も虐められた子供も含めて文部科学省が提案しているマニュアルなどを活用し学校やクラス全体で虐めに対する対応をしなければならない。この課題はこれまで2回にわたって学習してきた。つまり、社会的対応と教育的な対応が必要である。
▽ ここで問題にしたいことは、虐めを倫理的問題として考えるために、虐めの構造を理解する必要がある。これまでの議論では、虐めたという自覚を持つこと、また虐めが暴力であるという意識を持つことの二つの点に関して問題を整理してきた。さらに、虐めの問題を人間性や倫理の課題として議論してみよう。
「傷つけた」という思いと「いじめた」という思い
▽ アンケートで、クラスの学生に、「いじめられたことがあるか」という質問を出す。殆どの学生が「ある」と答える。その逆の「いじめたことがあるか」という質問には「ある」と答える学生は少ない。さらに、「人を傷つけたことがあるか」と問いかけると「ある」と殆どの学生が答える。
▽ 「いじめる」という行為は「ひとを傷つける」行為である。しかし、人を傷つけたと思う人でも、ひとをいじめたとは思っていない。何故なら、「人を傷つけてしまった」と思う現在の自分は、「傷つけるつもりで傷つけたからではなく、結果的に傷つけてしまった」ことを記憶している。「あのとき、あの人を傷つけたのだ」という思いが、「ひとを傷つけてしまった」という記憶として、心に留まり続けている。それがこの「人を傷つけたことがある」という答えの背景ではないだろうか。
▽ また、多くの学生が「傷つけたことがあった」が、「いじめたこと」はないという答え(過去の行為に関する自覚)を示したのは、「傷つける」行為と「いじめる」ということばのニュアンスの違いがあるからではないだろうか。
▽ 言換えると、「いじめる」という行為がはるかに「傷つける」行為よりも悪意に満ちた意図的な行為であり、その意味で、いじめる行為の方が暴力的に聞こえる。傷つけるとは家族、友人や恋人のこころを傷つけたというニュアンスが大きい。しかし、いじめるとはあるいじめの集団の一員として意図的に弱い人をターゲットにして陰湿な暴力行為を行ったというニュアンスに近い。その意味で、いじめると傷つけるは大きく主観的な意味が異なることになる。
▽ また、傷つけたと言うニュアンスには、その行為への罪悪感が匂う。すべての人が、何らかの形で、ひとを傷つけてしまったという罪悪感(良心)を持っている。特に自分の愛する人に対してこの感情を持つ。この感情が愛なのだろう。ある意味で、他者への愛が、人(友人)を傷つけたという気持ち(罪悪感と呼ばれる良心)として現れているのである。
▽ 例えば、「人を傷つけた」と答えた人に「あなたの傷つけた相手は誰ですか」と問うたとする。女子大の学生なら「母親」という答えが多く返ってくる。また、若い夫婦なら「自分のパートナー」、年を取った人々なら「過去に老いた両親の面倒をみてやれなかった」という答えが返ってくる。自分の行為の不十分さ、未熟さを省み、それを悔やんでいる場合に「不十分で未熟な自分の対応を受けた他者への思いが、何かもっとしてやりたかった。なにもあんなことを言わなくてもよかった。そうした悔恨の気持ちが「傷つけた」という感情として残り続けるのである。それは、悔恨と呼ばれる愛の姿、呵責という良心の姿ではないだろうか。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』
暴力行為としての虐めの自覚
▽ 傷つけたという思いがあることはすでに虐めたと云う過去への反省が始まっていることを意味する。自分が人を虐めたことがあると言えるとき、そこから虐めに対して向き合う姿勢が生まれる。虐めたことを認めない場合よりも、虐めたこと、つまり人を傷つけたことを自覚していることが、虐めの問題を解決する鍵となる。
▽ 考えてみると「いじめ」と平仮名(ひらがな)で書かれると、子供たちや友達の間に生まれる遊びに近いニュアンスをもった「嫌がらせ」や「仲間はずれ」を意味する。実際、「いじめ」は言葉による嫌がらせから肉体的暴力や金銭を要求する恐喝行為まで含めた幅広い意味を持っている。ひらがなの「いじめ」をここではあえて漢字で「虐め」と書いたのは、この行為が「人を傷つけること」をそのことばの意味の中心におきたかったからである。その意味で「いじめ」が「ひとにいやな思いをさせる」という緩やかな、あそび心のある行為であったとしても、それは明らかに他者を「虐める」という暴力であることには変わりないのである。
▽ 暴力という言葉は明らかに他者を傷つけるという意味を持っている。しかも暴力は、ことばの暴力から肉体的暴力、また個人の暴力から集団の暴力、そして社会や国家による暴力まで、その種類も形態も多様である。つまり暴力という言葉には否定的な意味が強く含まれている。暴力という言葉を使い、その暴力の良さを語ることは非常に困難になる。そこで、虐めを暴力として理解することで、そのいじめが人を傷つけている行為であることを自覚する必要がある。
▽ 暴力を振るってはいけないという意味は、殆どの場合、肉体的暴力を意味している。何故なら暴力の「力」が具体的な行為を意味するので暴力という用語が肉体的な行為を意味するからである。言葉や態度で示す他者への嫌がらせを精神的暴力とか言葉による暴力と呼んでいるのは、もともと暴力は肉体的にダメージを与えるという意味が基本となっているからだ。
▽ 虐めを暴力として自覚していないことが、虐めへの反省が生まれない原因になっている。つまり、誰もが「きもい」と思っている奴に自分が正直に「気持ち悪い奴だ」と言ってやったという不特定多数の他者の意見や感情を代弁する立場に立って、虐めという行為が正当化されるのである。もし、「気持ち悪い奴」と言う事が暴力であるという自覚を持つなら、不特定多数を代表するという「皆が言いたいことを言った」という社会正義の錯覚や主観的イメージを持つことは苦しくなる。
▽ 自覚的に虐めが不当な行為であり社会的にも認められない暴力であると自覚することによって、虐めるという行為が卑劣であるという意味付けが可能になる。卑劣な行為は誰もやりたくないだろう。その意味で、虐めるという行為を恥ずかしく思えるだろう。つまり、虐めを行った人々が虐めを暴力として自覚することが虐めの問題を解決する糸口を与えると思われる。
最広義の暴力への抑制と無意識の自己中心的な自我の世界の自覚
▽ 暴力と呼ばれる行為を非常に広い意味(広義)に解釈すると人を傷つける行為と言えるのであるが、人を傷つける行為は人間の行為の中でまったく特別な行為ではない。何故なら日常的に人は何らかの形で人を傷つけているからである。しかし、この「人を傷つける行為」が意図して行われた場合と意図しないで行われた場合を分けるなら、暴力は意図して行われた人を傷つける行為であると解釈できるだろう。
▽ 意図しないで、つまり主観的には傷つける気持ちはまったくなかったのだが、結果的に人を傷つける行為をしてしまう場合もある。すなわち差別用語などの、言葉によって人を傷つける行為は、差別用語を使う人々は日常的にそのことばをつかっているので、別状取り立てて悪意をもって使っているわけではない。例えば、「片手落ち」という用語は「何かが足らない状態を意味する」のである。そこで上肢(じょうし)障害を持つ身体障害者にとっては、この「片手落ち」の国語表現は、自分の身体的状況を「不完全なもの」と一般解釈されていることになるため、上肢障害を持つ身体障害者にとっては特別な意味となる。つまり、身体的な状況をもった自分の存在は、一般的な意味で「不完全なもの」、「未熟な状態」という意味になるのである。
▽ 日常的に使われている日本語に含まれている意味を我々は深く考えもしない、そして用語としてそれらの単語や言い回しを使うのである。主観的にはまったく人を傷つける気持ちはないのであるが、結果的にはそのことばで誰かが傷ついている。この状況は、広義の暴力の定義に該当しないため、さらに最広義の暴力として位置づけてみよう。つまり、最広義の暴力とは、「主観的に意図して行われていない状態で人を傷つけていること」という概念である。こう考えると、日常生活の中で、非常に多くのことばや態度でまったく主観的に意図していないが人を傷つけていることは数々あることに気づく。
▽ 例えば、我々は、自然に自分の自慢をしている。人と話始めたら、決まって、自分の自慢話、子供の自慢話、兄弟の自慢、友達の自慢、恋人の自慢、になっている。人の自慢話ほど聞いていられない話はないが、その自分も口を開ければ、聞きたくない人の話と同じように自慢話をしている。他人の自慢話は聞きたくないものである。不愉快である。何故なら、その自慢に対してどこか自分が惨めになるように思われるからである。他人の自慢話を笑って聞ける人は、自慢話をしている人よりも少し優位に立っているようにおもえる。「あの人はあんなに自慢しなければ身が持たないのだ」とか「自慢は、コンプレックスの裏返しだらか、よっぽどコンプレックスを持っているのだろう」とか、非常に冷たく自慢話をする人を上から見下ろせば、きっと他人の自慢話も滑稽(こっけい)な話に聞こえる。そして、自慢話をしている人のその裏の心理を察しながら、どこかで同情したり哀れんだりできるのかもしれない。しかし、よっぽど自信家でない限り、他人の自慢話は我慢がならないものだ。
▽ 自慢話をしない偉い人、謙虚な人間として他の人々からの尊敬を集めている人が、まったく自分を自慢する気持ちがないのではなく、彼らは自慢話をされた人の気持ちが理解できているから自慢しないのである。彼ら(謙虚で偉いと言われた人々)は自慢話をされた人が持つ不愉快さと、自慢話をする人の滑稽さを知っているので、努めて自慢話をしないのである。決して彼らが自分を自慢したいことを持たないために、自慢話をしないのではなく、ただあえて自慢したいことを自慢しないだけである。その違いをもって、人は謙虚な偉人になれば、うぬぼれ屋の俗人にもなるのである。
▽ 人は自己中心的世界をもって生きている。それを自我とよんでいる。すべての人にとって他者や世界は自己の周りにあるもの、自己を取り巻くものであり、また自己によって認識されたものである。その意味で対象世界も他者も自我によって認識されて登場したものである。その状態を主観と呼ぶ。しかし、現実の世界は、自分が認めようと認めまいと、自分が生まれる前から存在したし、また自分に関係なく運動し存在している。現実の世界にとって自己がむしろ「存在をゆるされている」ものであり、「生かされているもの」である。しかし主観的世界からは世界が自分によって認められたもの解釈されたものとして存在している。
▽ 最広義の暴力を抑制するためには、自分に潜在的に存在し、そして無意識に湧き上がる自慢や自己愛というナルシシズムを抑える意識力を持たなければならないことになる。 意図しないで人を傷つけたことばや態度を意識的に拾い上げ自己分析、反省しながら、その行為(なんとなしに語る言葉や態度)を対自化(たいじか)、つまり自分の外に取り出して、自分の意識の対象にし、分析的に理解する作業に組み込まなければならないのである。
▽ この作業、最広義の暴力を引き起こさない作業は至難の業である。それ程、困難な作業、自己点検分析、反省の作業が必要とされているのだ。しかし、それを可能にすることは殆ど出来ないのではないだろうか。
残酷な自己中心的存在者としての人間、人間性の自覚
▽ 話しが飛ぶようだが、生物の世界では個体は生き延びるために他の生物を食べている。その生物の生存のための決まりは人間でも例外ではない。つまり、人は他の命を食らい生きている。もちろん、生きるために他の生物を食らうことは生命活動の自然な姿であり、生態学では食物連鎖と呼んでいる。人があらゆる生物、植物から動物までを食べるのは、人間が食物連鎖の最上段に位置しているからである。
▽ 動物愛護団体の活動、例えば捕鯨反対運動を行い哺乳動物・鯨を守る団体(シーシェパード・SS)のメンバーが、日本の捕鯨船に乱入するという事件が起こった。鯨の乱獲によってある種の鯨が絶滅しようとしている。その意味で捕鯨を制限しなければならない。乱獲を防ぐための国際的規制を作る必要がある。しかし、すべての鯨の種が絶滅種になっているわけではない。捕鯨に反対する人々の言い分は、鯨やイルカが海の哺乳動物ということで、動物愛護団体の立場から、イルカ漁や捕鯨に反対している場合もある。
▽ 動物愛護団体に参加し、捕鯨反対を唱(とな)えている人々は多くの場合、欧米先進国の人々である。彼らは鯨の肉やイルカの肉を食材に使ってきた歴史や伝統文化はない。欧米では、これまで鯨はナガス油(狭義の鯨油)と呼ばれる食料油とマッコウ油とよばれる工業用油の材料として使っている。ある少数民族を除いて伝統的に鯨を食べる習慣はない。その意味で、捕鯨の中止は、彼らの生活文化(食文化)に大きな影響を与えることはない。
▽ しかし、もし仏教国の動物愛護団体が豚や牛を殺すことに異論を唱え、豚肉や牛肉を食材とすることを動物愛護精神に反する残虐な行為であると批判するなら欧米の人々はどのように反応するだろうか。彼らの食文化から豚肉や牛肉を取り除くことが出来ない以上、鯨肉を食べる食文化圏の人々のように、屠殺(とさつ)(現在「屠殺・とさつ」と言うことばは差別用語とされている。)に反対されることは大変なことに違いない。
▽ 実際、屠殺は残酷である。例えば上等の豚肉は5ヶ月ぐらいの子豚を屠殺するのであるから、豚は屠殺されるために生まれてきたと言っても言い過ぎではない。そして、日常生活の風景として、屠場に運ばれ食肉に加工された牛肉や豚肉は、お肉屋さんやスーパーの食肉コーナーに並べられ、それを我々は買い求め、毎日の食材として使っている。
▽ 多くの人々が菜食主義者ではない。1970年代までは、屠殺はハンマーを使って豚や牛の脳天を叩き殺していた。一瞬にして豚も牛も死んでしまう。しかし、隣で殺される仲間を見ながら仔豚たちが叫び泣く声は悲痛であった。一回でも屠場に行ったことがあるものなら、あの泣き声を忘れることはできないだろう。しかし、それでも豚肉を食べるだろう。
▽ 日常生活を過ごす自分達の姿をリアルに観ることによって、そう深く考えなくても、人間のリアルな姿が少し正しく理解されるだろう。例えば子豚を食らう我々人間の姿から、人間の姿が見える。人は他の生命によって生かされている動物である。
▽ だが、そういう肉食という残酷な生活文化や生活習慣を自覚したとしても、やはり生きるためにその肉食を続けるだろうし、仔豚を屠殺し続けるだろう。
▽ 仏教文化を持つ日本では、長い期間肉食の文化がなかった。そのため屠殺行為は封建社会の士農工商の階級制度から除外された部落民の仕事になっていた。近代日本が始まり、西洋文化を取り入れ肉食文化が輸入され、食肉加工のために屠殺が行われるようになっても、屠殺にまつわる古い差別意識が残り、屠殺という言葉が差別用語に結びつくように、肉食をしながらも、屠殺行為を忌み嫌い、嫌悪し、屠殺を行う人々を非民の慣わしとして差別してきた。
▽ 豚肉や牛肉を食しながら、屠殺することで得られているそれらの食材の現実を認めないところに実は、人間が宿命として多くの動物の犠牲の上に生きている残酷でありながら宿命的な現実をも否定する意識の構造が隠されている。実は、この現実、つまり屠殺して他の動物を食らって生きている現実を直視しない現実こそが、最も問われなければならない問題である。
▽ 前節で自覚しないで人を傷つけている行為を最広義の暴力と定義をした。その最広義の暴力を振るわないようにするためには、例えば自慢話の例ではないが、無意識に行っている自己中心的な行為によって、自分の周りの人々の受ける気持ちを理解する作業が必要であった。しかも、それによって仮に自慢話をしなくなったとしても、本来、人は自分を最も愛している以上、自慢話をするようにできているために、自慢話を決定的に防ぐことは出来ないという自覚が必要であった。
▽ ある意味の逆説、つまり、人が本来自己中心的存在であり、自我という意識を持ち、世界を自分の周りに認識している以上(本来、世界によって自分は創られたのだが、意識的には世界は自分によって認識されて存在していると理解されている)、その意識中心主義が起こしている認識世界と存在世界のあり方の逆転を防ぐことは出来ない。そこで、もっとも現実の自分、世界によって生かされ、他の動物を食らうことで生かされ、他の人々の労働によって生かされ、家族という制度で生かされ、育てられ、社会という制度で育てられてきた人間としての自分を理解することからはじめなければならないのである。
▽ 最広義の暴力とは、自己中心的な意識をいかに現実の世界の中に正しく置き換えるかによって自覚的に抑えることが可能になるのではないだろうか。そして、他の生命、仔豚を食らう自分がいるなら、その肉を食い散らさない、捨てない、最後まで、きれいに食べてあげる親切さを忘れないことだろう。その努力に、最広義の暴力を理解する術が隠されていないだろうか。
「いじめるな」から「いじめない努力をしよう」という考え方の変換
▽ 虐めを無くするためにこれまで「いじめるな」と教育してきた。しかし、本来人間は、自己中心的な存在であるため、虐めるという行為は自然に現れる。意識的に虐めなくても無意識的に他者よりも優位に立ち、他者よりも立派だと評価されよと努力する。その努力がある意味で自分を高めながらも、同時に他人を傷つける結果となる。
▽ 自己中心的意識から生まれる行為や言語(認識)活動と他者より優位に立ち、自分をよりよく見せようとする行為は不可分の関係にある。それらは人間的行為の典型である。つまり、人は自己の利益を追い求め、自己を高めるというモラルと人は他者を助け、共に共存するというモラルの二律背反するモラルをもって生きている。その二つは互いに反しながら、そして自我の確立と社会性の確立の両方を同時に備えるために必要とされている。
▽ 虐めるなという行為要求は、その意味で自己に自己中心性よりも他利中心性の大切さを解く論理から導かれている。つまり、人は自己中心的であってはならない。そこで「虐める」ことは悪であり、もし虐めるという行為があるならそれを悪として徹底的に否定しなければならない。
▽ だが、果たして「いじめるな」という説教が虐めに対して、虐めない人間の内面性や倫理感を育てることができるだろうか。最広義の暴力を防ぐ力を与えるだろうか考えてみたい。
▽ そこで、まったく発想を変えて「虐めるな」でなくて、逆に自覚的に「虐めないように努力する」ことを課題にしてはどうか。何故なら、人は自己中心的存在であり、その意味で人は自然に他人を傷つける存在(虐める存在)である。無意識の自己中心的な存在、自然と他者を無視する存在、その限りにおいて他者を傷つけずにはいられない存在、そうした人間の性(さが)、自我のあり方を自覚的に理解する方法として、せめてこれ以上「虐めない」ように努力をし続けること、虐めを予防する対応として理解する必要はないだろうか。
▽ 虐めない努力をするという対応がいじめるなという対応よりも、より現実的な対応ではないだろうか。つまり、人が自己中心的存在であることを自覚的に受け止めているから、虐めないための最低限の努力をするのである。この「虐めない」努力をすることは、虐めの対策を自己中心的人間性の自覚の上にたったそれ以上傷つけないという倫理的目標として提案されたものである。
▽ 「いじめない努力をする」ということを考えるとき、中学2年だったころの思い出が浮かぶ。それは、中学2年の担任の先生のことばだった。中学の周りに生えていた松の木が春になると、すっと細長い小枝を伸ばす。その小枝は柔らかく、棒で叩くと、まるで刀にすっぱりと切られた枝のように簡単に折れる。その快感を味わいながら、パクパクとようやく待ち望んだ春に力いっぱい伸びる松の枝を切っていた。担任の先生が「君、その枝はまっすぐと伸びようとしているではないか。何故、そんな可哀そうなことをするのだ」と私に注意した。
▽ その時、はじめて松が必死になって生きようとしている生命であることに気付いた。想像力のなさ。子供であるということを一言でいうと、想像力のなさだろう。そして無邪気な残酷さだろう。
▽ いじめとはその無邪気な残酷さ、想像力のない子供じみた行為のように思える。いじめないということは、その無邪気で残酷な子供らしさから抜け出て、大人になること、想像力を持つこと、によって獲得される人間性ではないだろうか。
▽ 他者への共感は、自己にある他者という共通する存在を自覚した経験を前提にして生まれる。もっと高く伸びたかった先生には、まっすぐと高く伸びようとする松の若芽が美しく見えたのだ。その伸びようとする生命を残酷に切り落とす私の行為を見過ごすことは出来なかったのだろう。
▽ いじめないという行為の困難さを教える。否、共に自覚しあうことが、いじめに対して大人が子供に語らなければならない作業かもしれない。今は、あの担任の先生のように、諭す大人や教師がいないのだろうか。それとも、大人もこともと同じくらい陰湿ないじめにあっているのだろうか。
引用資料
ブログ「生活運動から思想運動へ」2008年1月 三石博行
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html
2010年6月16日水曜日
いじめるという行為に沁(し)みこんでいる日本社会の文化と歴史
三石博行
「いじめ」に混入する社会的制裁のニュアンス
▽ 「いじめる」ということに、なぜ日本社会は鈍感であるだろうか。この問いかけは「いじめる」という行為が何らかの形で社会から認められているからではないだろか。また、「いじめる」ということばに関連する他のことば、例えば「排除する」、「戒める」、「懲らしめる」等々、「いじめ」には処罰的意味合いが含まれている。それらの処罰的意味には、つねに誰かが誰かに対して、ある決まりの下に、ある理由をもって発動されるというニュアンスが付着している。社会的処罰的意味は、つねに社会や共同体的決まりから発動される、秩序を乱す者への戒め処罰というニュアンスを持つ。つまり、もし「いじめ」が「戒める」という意味を付着するなら、同時に、また暗黙の裡に(うちに)共同体の秩序を乱す者への懲罰を意味し、その上で、「いじめ」がその正当性や存在理由を主張しているように思われる。
▽ では、なぜ個人的な私怨(しえん)や妬みから発生した「いじめる」という行為が、社会的な制裁のニュアンスを漂(ただよ)わすのだろうか。そして、極めて個人的な負の感情がどのようなカラクリを使って「社会的正義」の紋章を付けることに成功しているのか。それらの疑問を解明し、その原因を知る必要がある。その疑問を紐解くために、まず「いじめ」に連想し思い浮かび上がる言葉を考えてみよう。
▽ 例えば、「村八分」という言葉がある。村八分は村の多数者がある少数者へ行う制裁行為であり、その制裁行為が強い者(多数者)によるよわい物(少数者)への行為と解釈される。その限りにおいて、村八分は「いじめ」と同じように集団からある人間を排除し、人間としての権利を奪い、名誉を剥奪する行為であると解釈されるだろう。その行為の現象面から観て、村八分といじめが同次元の行為、同義語として理解されることになる。
▽ 村八分は中世日本社会、取り分け村落共同体で行われていた共同体の秩序維持のための慣わしであり、村民は村の長(おさ)の私怨によって村八分にあったのでなく、村の秩序を破壊したために、二分の権利、葬式と火事に対して村の協力を得られる権利を除いて、村の八分の権利を失うことになったのである。中世社会の村落共同体の秩序を維持するための掟が村八分であった。
▽ 国民主権と民主主義によって成立している現代日本社会での社会秩序の根本は日本国憲法によって定められている。日本国憲法に則して、犯罪者を取り締まる刑法が決まっている。村ごと、村にあったように懲罰規則を決めているわけでない。どのような集団、社会や組織であっても、その中でしか適用できない規則を決めて、集団の多数の人々といえどもそれを遵守しない少数の人にいかなる制裁も加えてはならないのである。日本国憲法に違反しないこと、違反者に対して刑罰を科すことは国家以外にはできないこと等が、組織が懲罰規定を設ける条件となる。会社であれば就業規則は、憲法、労働基準法に違反してはならないし、また違反者を、牢獄の代わりに会社の倉庫に閉じ込めるとか、死刑に代わりに上司が平手打ちをすることは出来ない。就業規則上の懲罰規定は、会社へ損失を与えた職員に対して最も重い処分として、会社に所属している身分を奪う、解雇処分である。
▽ ところが小学校のクラスで起こるいじめは、クラスの5、6人の小さな集団がある特定の個人に行う暴力行為である。いじめにあっている子供がクラス(共同体)の秩序を破壊している訳でもなく、またその子供への制裁をクラス会で決めたわけでもないし、クラス全員が制裁に参加している訳ではない。いじめを行っている少数のグループの子供たちが、同じクラスのある子供に対して、個人の主観的な感情によって引き起こされている暴力行為、ある特定の個人を陰惨に痛めつける暴力行為である。
▽ 私怨による暴力が社会的制裁のニュアンスを獲得していく過程について、古い日本社会の伝統にある村八分や村落共同体意識について理解を深めなければならない。
中世社会での村落共同体の制裁としての村八分
▽ 人間が社会的存在であると言うことは、社会なしには個人が成立していない人間的存在様式の基本を物語っている。つまり、どの時代でもどの文化社会でも、その人間的存在様式は変化していない。例えば、家族という制度なくしては人類は種を保存することができなかっただろう。つまり、人間がこの地球上で活動し始めてから現代まで人間個人と社会文化を切り離すことはできない。
▽ その限りにおいて、社会はつねに社会自体の保存のために社会制度を作りそれを維持してきた。ある意味で、社会とは人類が存続するための装置として、人間個人にその装置の維持管理を委ねてきたのである。個人は社会制度の中で、自分の社会的役割を理解し、それを果たすことで、人類が長年かけて作り上げてきた人類の保存装置の維持管理に貢献しているのである。
▽ 社会機能が祈祷や占いによって運営された古代社会から、律令制をもって運営していく社会への転換は時間をかけて行われた。日本でも7世紀の大化の改新以降、当時の先進国である唐を真似て律令制を導入する。
▽ しかし、中世前期(平安末期~鎌倉中期)までは、民衆(百姓など)の生活を維持管理するための法律、国家的な法令はない。当時の律令(法律)は公家や武家に対して定められた法令・公家法・本所法・武家法など支配者により定められたものしか存在していなかった。そして、民衆に対する司法権・警察権の行使(検断沙汰)も支配者である荘園・公領領主や地頭武士に限られていた。(Wikipedia)つまり中世前期の社会では、国家として村落共同体の運営管理を行う規則はなかった。
▽ 鎌倉後期ごろから室町前期にかけての中世日本社会の村落共同体では、強い自治意識と連帯意識に支えられた惣村を形成する。その惣村では惣掟(そうおきて)と呼ばれる村落共同体での掟(おきて)を独自に作った。
▽ 惣掟とは、中世日本社会での百姓の自治的共同体である惣村(そうそん・多くは地縁的結合によって作られる共同組織)において、その共同体の秩序を維持するための掟とそれに違反するものへの制裁を惣村の全構成員による寄合で決議したものである。そのため、惣村構成員に惣掟は厳しく適用された。特に、共同体秩序を崩壊させるような行為(窃盗、放火、殺人など)に対する罰則は、ほとんどの場合、死刑とされた。
▽ 中世前期の社会では、現代社会のように国民全体に適応される憲法や刑法があったわけではなく、村民は村の掟を独自に作り、その掟に従って村の運営と管理、政(まつりごと)と治安を行っていた。その意味で、村八分はこの惣掟に中に含まれる共同体独自の刑法である。
▽ 中世社会では、国民という概念がなく、封建身分制度社会の秩序を維持するために律令(法度)しかなかった。そのため村落では惣掟の制定以来、村独自に掟が定められ、それに従い、村の秩序に従わないものを処罰し排除してきた。村八分という制度は、村落共同体の十の共同行為の中で、葬式と火事以外の結婚式、出産、病気の世話などをしないという習慣を示すものである。江戸時代では、村八分にあったものは村落共同体で共有する土地の使用も禁止されるために、共同山林での薪炭(しんたん)・用材(ようざい)・肥料用の落葉の採取が不可能となり、事実上生活が不可能になる。
▽ 村八分は、中世の村落共同体で成立していた掟に従って執り行われた刑罰の一つであり、その目的は村の秩序維持であった。今日、現代法治国家では、村落独自の刑法は存在しないため、村八分行為は憲法及び法律違反となる。
▽ 戦前まで村八分の習慣は根強く古い習慣を維持してきた村落共同体に残存してきた。しかし、現在では、それらの村八分の習慣は、村の有力者による脅迫や人権侵害行為として法律上認められていない行為として理解されている。この村八分は戦後も続き、例えば「2004年の新潟県関川村(せきがわむら)で起こった村の有力者による「お盆の行事」に参加しない人たちへの村八分にするという発言は裁判にまで発展したことが記録されている」(Wikipedia)
法律違反としての村八分
▽ 社会秩序の維持機能としての中世社会での村八分を、現代社会で古き伝統を守る村落共同体でも行うなら明らかに法律違反となる。中世社会では、民主主義社会や国民主権国家は成立していない。そのため、村の掟が村民に適用されることに対して、その是非を問う社会的機能(司法制度)はない。村民の同意が村の掟とその執行を決めていた。しかし、現代社会では、憲法がありそれに基づく刑事訴訟法や民事訴訟法があり、訴訟された罪状を法律に基づいて認否評価する司法制度があり、個人への刑の判断と執行が決定するのである。
▽ ある集団がその集団の利害を損するという理由から、その集団が独自に作っている刑法を被疑者に適用することはできない。それらの罰則規定は憲法や法律に違反する場合、無効となる。法律に違反しない範囲で、企業や法人の就業規則における罰則規定が成立している。
▽ 当然ながら、団地の集まり、自治会、学校、クラスでもし村八分が生じるなら、その村八分こそ基本的人権を守る日本国憲法に違反することになる。いかなる集団も勝手に人を罰することはできない。それらの集団が集団構成員に対する懲罰規定を作るなら、その条項は法律違反をしていないか国家によって検証される。例えば就業規則での罰則規定に関しても、労働基準法に触れないか労働監督所によって点検される。もし就業規則(罰則規定)が法律違反と判断されるなら、直ちに就業規則改善命令が企業に出されることになる。
▽ 民主主義と国民主権で運営される現代社会では、どのような理由があっても村八分は法律違反となる。
虐め(集団的暴力)を是認する傍観者の存在
▽ 村八分は民主主義社会では認められない人権侵害行為であるが、我々日本人が深層心理にもつ「村落共同体意識」には、村八分を正当化する、正当化しないまでも、それが行われていることを無言のうちに了承している意識がある。
▽ クラスで数人の子供がある子供を虐めているとする。クラスの多くの子供たちは、いじめっ子によって絶好のターゲットが決まり、虐めが行われていることを理解している。しかし、大半の子供たちは、その虐めには参加してはない。ただ、それを傍観しているだけである。虐めているグループにあえて虐めをやめるように忠告する訳でなく、もし虐めをやめろといえば逆に自分が虐めの対象にされる危険性があることを知っている。だから、ただその虐めの現実にかかわりたくないと決め込んでいるのである。それがクラスの大半の子供たちの姿である。
▽ これらの傍観者の存在によって、つまり虐めを認めている人々の存在があることが、虐めている人々にとっては、自分たちの行為の承認者として映る。その消極的な承認者を得ることで、私怨(しえん)や個人的鬱憤行為(うっぷんこうい)も社会的存在理由を見つける。もはや、私怨による行為でなく、皆が認めている皆と共同してやっている行為に変貌するのである。
▽ このクラスの大半の子供たち、不特定多数の傍観者の存在によって、いじめっ子の暴力は、社会的制裁行為の意味付けをもらい、伝統的に村の中で繰り広げられた村八分的行為に変貌するのである。
▽ 傍観者の存在は、伝統的な村落社会の無言の協同者を意味する。その存在は、古い村落共同体の社会運営に関する慣わし、つまり日本人の深層心理にしっかりはまり込んでいる「暗黙の同意」によって運営される村の掟を呼び覚ます。
▽ いじめっ子が堂々とクラスで暴力を振るためには、傍観者の存在が必要なのだ。もし彼らがいなければ、その行為の主観性は見破られるのである。彼らは堂々と暴力を振るうことは難しくなるだろう。それだけでも、虐めはクラスの中で公然と起こらないだろう。
▽ そして、クラスの大多数の子供が、傍観者から虐めを批判する側に立つなら、つまりクラスの多くの子供たちが、「弱いもの虐めをやめよ」というなら、いじめっ子の中で正当化したい暴力の公共性は忽ち(たちまち)崩れ去り、虐めという行為が露に(あらわに)社会(クラス)の中に露呈(ろてい)するだろう。個人的感情によって生まれた自分の行為としての虐めに含ませたかった「社会的」制裁の意味合いを失うだろう。
▽ 私怨によって生じる暴力「いじめ」に、社会的制裁にニュアンスの混入を防ぐためには、虐めが暴力であると明確に意識する契機を得るためには、その虐めを見て見ぬ振りをする大多数の傍観者達のモラルを問いかけ、彼らの協力を得る以外にないのである。
「いじめ」に混入する社会的制裁のニュアンス
▽ 「いじめる」ということに、なぜ日本社会は鈍感であるだろうか。この問いかけは「いじめる」という行為が何らかの形で社会から認められているからではないだろか。また、「いじめる」ということばに関連する他のことば、例えば「排除する」、「戒める」、「懲らしめる」等々、「いじめ」には処罰的意味合いが含まれている。それらの処罰的意味には、つねに誰かが誰かに対して、ある決まりの下に、ある理由をもって発動されるというニュアンスが付着している。社会的処罰的意味は、つねに社会や共同体的決まりから発動される、秩序を乱す者への戒め処罰というニュアンスを持つ。つまり、もし「いじめ」が「戒める」という意味を付着するなら、同時に、また暗黙の裡に(うちに)共同体の秩序を乱す者への懲罰を意味し、その上で、「いじめ」がその正当性や存在理由を主張しているように思われる。
▽ では、なぜ個人的な私怨(しえん)や妬みから発生した「いじめる」という行為が、社会的な制裁のニュアンスを漂(ただよ)わすのだろうか。そして、極めて個人的な負の感情がどのようなカラクリを使って「社会的正義」の紋章を付けることに成功しているのか。それらの疑問を解明し、その原因を知る必要がある。その疑問を紐解くために、まず「いじめ」に連想し思い浮かび上がる言葉を考えてみよう。
▽ 例えば、「村八分」という言葉がある。村八分は村の多数者がある少数者へ行う制裁行為であり、その制裁行為が強い者(多数者)によるよわい物(少数者)への行為と解釈される。その限りにおいて、村八分は「いじめ」と同じように集団からある人間を排除し、人間としての権利を奪い、名誉を剥奪する行為であると解釈されるだろう。その行為の現象面から観て、村八分といじめが同次元の行為、同義語として理解されることになる。
▽ 村八分は中世日本社会、取り分け村落共同体で行われていた共同体の秩序維持のための慣わしであり、村民は村の長(おさ)の私怨によって村八分にあったのでなく、村の秩序を破壊したために、二分の権利、葬式と火事に対して村の協力を得られる権利を除いて、村の八分の権利を失うことになったのである。中世社会の村落共同体の秩序を維持するための掟が村八分であった。
▽ 国民主権と民主主義によって成立している現代日本社会での社会秩序の根本は日本国憲法によって定められている。日本国憲法に則して、犯罪者を取り締まる刑法が決まっている。村ごと、村にあったように懲罰規則を決めているわけでない。どのような集団、社会や組織であっても、その中でしか適用できない規則を決めて、集団の多数の人々といえどもそれを遵守しない少数の人にいかなる制裁も加えてはならないのである。日本国憲法に違反しないこと、違反者に対して刑罰を科すことは国家以外にはできないこと等が、組織が懲罰規定を設ける条件となる。会社であれば就業規則は、憲法、労働基準法に違反してはならないし、また違反者を、牢獄の代わりに会社の倉庫に閉じ込めるとか、死刑に代わりに上司が平手打ちをすることは出来ない。就業規則上の懲罰規定は、会社へ損失を与えた職員に対して最も重い処分として、会社に所属している身分を奪う、解雇処分である。
▽ ところが小学校のクラスで起こるいじめは、クラスの5、6人の小さな集団がある特定の個人に行う暴力行為である。いじめにあっている子供がクラス(共同体)の秩序を破壊している訳でもなく、またその子供への制裁をクラス会で決めたわけでもないし、クラス全員が制裁に参加している訳ではない。いじめを行っている少数のグループの子供たちが、同じクラスのある子供に対して、個人の主観的な感情によって引き起こされている暴力行為、ある特定の個人を陰惨に痛めつける暴力行為である。
▽ 私怨による暴力が社会的制裁のニュアンスを獲得していく過程について、古い日本社会の伝統にある村八分や村落共同体意識について理解を深めなければならない。
中世社会での村落共同体の制裁としての村八分
▽ 人間が社会的存在であると言うことは、社会なしには個人が成立していない人間的存在様式の基本を物語っている。つまり、どの時代でもどの文化社会でも、その人間的存在様式は変化していない。例えば、家族という制度なくしては人類は種を保存することができなかっただろう。つまり、人間がこの地球上で活動し始めてから現代まで人間個人と社会文化を切り離すことはできない。
▽ その限りにおいて、社会はつねに社会自体の保存のために社会制度を作りそれを維持してきた。ある意味で、社会とは人類が存続するための装置として、人間個人にその装置の維持管理を委ねてきたのである。個人は社会制度の中で、自分の社会的役割を理解し、それを果たすことで、人類が長年かけて作り上げてきた人類の保存装置の維持管理に貢献しているのである。
▽ 社会機能が祈祷や占いによって運営された古代社会から、律令制をもって運営していく社会への転換は時間をかけて行われた。日本でも7世紀の大化の改新以降、当時の先進国である唐を真似て律令制を導入する。
▽ しかし、中世前期(平安末期~鎌倉中期)までは、民衆(百姓など)の生活を維持管理するための法律、国家的な法令はない。当時の律令(法律)は公家や武家に対して定められた法令・公家法・本所法・武家法など支配者により定められたものしか存在していなかった。そして、民衆に対する司法権・警察権の行使(検断沙汰)も支配者である荘園・公領領主や地頭武士に限られていた。(Wikipedia)つまり中世前期の社会では、国家として村落共同体の運営管理を行う規則はなかった。
▽ 鎌倉後期ごろから室町前期にかけての中世日本社会の村落共同体では、強い自治意識と連帯意識に支えられた惣村を形成する。その惣村では惣掟(そうおきて)と呼ばれる村落共同体での掟(おきて)を独自に作った。
▽ 惣掟とは、中世日本社会での百姓の自治的共同体である惣村(そうそん・多くは地縁的結合によって作られる共同組織)において、その共同体の秩序を維持するための掟とそれに違反するものへの制裁を惣村の全構成員による寄合で決議したものである。そのため、惣村構成員に惣掟は厳しく適用された。特に、共同体秩序を崩壊させるような行為(窃盗、放火、殺人など)に対する罰則は、ほとんどの場合、死刑とされた。
▽ 中世前期の社会では、現代社会のように国民全体に適応される憲法や刑法があったわけではなく、村民は村の掟を独自に作り、その掟に従って村の運営と管理、政(まつりごと)と治安を行っていた。その意味で、村八分はこの惣掟に中に含まれる共同体独自の刑法である。
▽ 中世社会では、国民という概念がなく、封建身分制度社会の秩序を維持するために律令(法度)しかなかった。そのため村落では惣掟の制定以来、村独自に掟が定められ、それに従い、村の秩序に従わないものを処罰し排除してきた。村八分という制度は、村落共同体の十の共同行為の中で、葬式と火事以外の結婚式、出産、病気の世話などをしないという習慣を示すものである。江戸時代では、村八分にあったものは村落共同体で共有する土地の使用も禁止されるために、共同山林での薪炭(しんたん)・用材(ようざい)・肥料用の落葉の採取が不可能となり、事実上生活が不可能になる。
▽ 村八分は、中世の村落共同体で成立していた掟に従って執り行われた刑罰の一つであり、その目的は村の秩序維持であった。今日、現代法治国家では、村落独自の刑法は存在しないため、村八分行為は憲法及び法律違反となる。
▽ 戦前まで村八分の習慣は根強く古い習慣を維持してきた村落共同体に残存してきた。しかし、現在では、それらの村八分の習慣は、村の有力者による脅迫や人権侵害行為として法律上認められていない行為として理解されている。この村八分は戦後も続き、例えば「2004年の新潟県関川村(せきがわむら)で起こった村の有力者による「お盆の行事」に参加しない人たちへの村八分にするという発言は裁判にまで発展したことが記録されている」(Wikipedia)
法律違反としての村八分
▽ 社会秩序の維持機能としての中世社会での村八分を、現代社会で古き伝統を守る村落共同体でも行うなら明らかに法律違反となる。中世社会では、民主主義社会や国民主権国家は成立していない。そのため、村の掟が村民に適用されることに対して、その是非を問う社会的機能(司法制度)はない。村民の同意が村の掟とその執行を決めていた。しかし、現代社会では、憲法がありそれに基づく刑事訴訟法や民事訴訟法があり、訴訟された罪状を法律に基づいて認否評価する司法制度があり、個人への刑の判断と執行が決定するのである。
▽ ある集団がその集団の利害を損するという理由から、その集団が独自に作っている刑法を被疑者に適用することはできない。それらの罰則規定は憲法や法律に違反する場合、無効となる。法律に違反しない範囲で、企業や法人の就業規則における罰則規定が成立している。
▽ 当然ながら、団地の集まり、自治会、学校、クラスでもし村八分が生じるなら、その村八分こそ基本的人権を守る日本国憲法に違反することになる。いかなる集団も勝手に人を罰することはできない。それらの集団が集団構成員に対する懲罰規定を作るなら、その条項は法律違反をしていないか国家によって検証される。例えば就業規則での罰則規定に関しても、労働基準法に触れないか労働監督所によって点検される。もし就業規則(罰則規定)が法律違反と判断されるなら、直ちに就業規則改善命令が企業に出されることになる。
▽ 民主主義と国民主権で運営される現代社会では、どのような理由があっても村八分は法律違反となる。
虐め(集団的暴力)を是認する傍観者の存在
▽ 村八分は民主主義社会では認められない人権侵害行為であるが、我々日本人が深層心理にもつ「村落共同体意識」には、村八分を正当化する、正当化しないまでも、それが行われていることを無言のうちに了承している意識がある。
▽ クラスで数人の子供がある子供を虐めているとする。クラスの多くの子供たちは、いじめっ子によって絶好のターゲットが決まり、虐めが行われていることを理解している。しかし、大半の子供たちは、その虐めには参加してはない。ただ、それを傍観しているだけである。虐めているグループにあえて虐めをやめるように忠告する訳でなく、もし虐めをやめろといえば逆に自分が虐めの対象にされる危険性があることを知っている。だから、ただその虐めの現実にかかわりたくないと決め込んでいるのである。それがクラスの大半の子供たちの姿である。
▽ これらの傍観者の存在によって、つまり虐めを認めている人々の存在があることが、虐めている人々にとっては、自分たちの行為の承認者として映る。その消極的な承認者を得ることで、私怨(しえん)や個人的鬱憤行為(うっぷんこうい)も社会的存在理由を見つける。もはや、私怨による行為でなく、皆が認めている皆と共同してやっている行為に変貌するのである。
▽ このクラスの大半の子供たち、不特定多数の傍観者の存在によって、いじめっ子の暴力は、社会的制裁行為の意味付けをもらい、伝統的に村の中で繰り広げられた村八分的行為に変貌するのである。
▽ 傍観者の存在は、伝統的な村落社会の無言の協同者を意味する。その存在は、古い村落共同体の社会運営に関する慣わし、つまり日本人の深層心理にしっかりはまり込んでいる「暗黙の同意」によって運営される村の掟を呼び覚ます。
▽ いじめっ子が堂々とクラスで暴力を振るためには、傍観者の存在が必要なのだ。もし彼らがいなければ、その行為の主観性は見破られるのである。彼らは堂々と暴力を振るうことは難しくなるだろう。それだけでも、虐めはクラスの中で公然と起こらないだろう。
▽ そして、クラスの大多数の子供が、傍観者から虐めを批判する側に立つなら、つまりクラスの多くの子供たちが、「弱いもの虐めをやめよ」というなら、いじめっ子の中で正当化したい暴力の公共性は忽ち(たちまち)崩れ去り、虐めという行為が露に(あらわに)社会(クラス)の中に露呈(ろてい)するだろう。個人的感情によって生まれた自分の行為としての虐めに含ませたかった「社会的」制裁の意味合いを失うだろう。
▽ 私怨によって生じる暴力「いじめ」に、社会的制裁にニュアンスの混入を防ぐためには、虐めが暴力であると明確に意識する契機を得るためには、その虐めを見て見ぬ振りをする大多数の傍観者達のモラルを問いかけ、彼らの協力を得る以外にないのである。
2010年5月20日木曜日
倫理と規範の関係
三石博行
社会的存在としての人間に関する研究にとって、
1、人間の社会的行為を形成している精神構造
2、社会の人間的行為を規制する社会文化的構造
この二つの構造とそれらの関係を解明しなければならない。
2の法律や社会制度は、それを了解する社会構成員の倫理やモラル、つまり1によって成立している。
1の倫理やモラルによる内的な規範のない状態で、2の法律が機能することはない。しかし、だからと言って、法律の規定したものがモラルや倫理の内容にそのままなるわけではない。
2の法律や社会制度は人間社会が継続するために用意された外的世界に準備された道具である。と同時に、その道具を動かす技能が必要となる。それが内的世界に準備される道具としての1のモラルや倫理である。
現代の社会学、構造主義、現象学社会学や構築主義はこのことについて語ってきた。
社会的存在としての人間に関する研究にとって、
1、人間の社会的行為を形成している精神構造
2、社会の人間的行為を規制する社会文化的構造
この二つの構造とそれらの関係を解明しなければならない。
2の法律や社会制度は、それを了解する社会構成員の倫理やモラル、つまり1によって成立している。
1の倫理やモラルによる内的な規範のない状態で、2の法律が機能することはない。しかし、だからと言って、法律の規定したものがモラルや倫理の内容にそのままなるわけではない。
2の法律や社会制度は人間社会が継続するために用意された外的世界に準備された道具である。と同時に、その道具を動かす技能が必要となる。それが内的世界に準備される道具としての1のモラルや倫理である。
現代の社会学、構造主義、現象学社会学や構築主義はこのことについて語ってきた。
2010年5月17日月曜日
今を維持する力を与えよ
三石博行
一
自分の人生は自分のもの。
だから、自分が納得して生きるしかない。
それが、自分らしいという自分の姿をつくる。
自分の姿は、将来のイメージにはない。
自分の姿は、自分の足跡によって作られたものだ。
自分らしいということは、自分の足跡への自分なりの納得にすぎない。
これから未来に、創ろうとしているものでなく、
今までつくられたものとして、自分が存在する。
二
全ての人に、それぞれの自分があるのは、それぞれの足跡があるからだろう。
予め(あらかじめ)用意された自分はない。
自分が昨日何をして、
その前の日に何をして、
そして一ヶ月前に何をしたのかということが自分なのだ。
だから、もっと自分に正直に生きるしかない。
だから、もっと自分の現実を受け止めるしかない。
そこに、納得という自分がつくられた自分に対する理解が生まれる。
三
そして、もし明日があれば、それは今日の自分の姿の現れ。
そして、もし未来があれば、それは今まで過去の生き方の方向。
だから、未来という自分を生み出すものは今という時間しかない。
自分を変える可能性を持つものは、今という時間でしかない。
過去はもう返らない時間のことだ。
過ぎ去った時間は、今の自分を作ってはいるが
明日の自分へとその過去をつなぎとめることは保障できない。
明日の自分へ過去の自分をつなぎとめるものは、唯一今の自分だけなのだ。
四
だから、今しかない。
今しか、自分は存在しない。
問われていることは、
今をどう生きるか、どう今に生きているか、
ということだけである。
明日は、今の自分によってしか創れないのだから。
未来に逃げることはできない。
過去に逃げることもできない。
だから、自分の現実を受け止め
だから、自分らしく生きることだ。
もう、未来に逃げることも過去に逃げることもできない。
だから、今の自分の志向性は昨日の自分から継続されたのか。
だから、今の自分の志向性は明日の自分へと継続されようとしているのか。
それのみが問われるのだ。
一
自分の人生は自分のもの。
だから、自分が納得して生きるしかない。
それが、自分らしいという自分の姿をつくる。
自分の姿は、将来のイメージにはない。
自分の姿は、自分の足跡によって作られたものだ。
自分らしいということは、自分の足跡への自分なりの納得にすぎない。
これから未来に、創ろうとしているものでなく、
今までつくられたものとして、自分が存在する。
二
全ての人に、それぞれの自分があるのは、それぞれの足跡があるからだろう。
予め(あらかじめ)用意された自分はない。
自分が昨日何をして、
その前の日に何をして、
そして一ヶ月前に何をしたのかということが自分なのだ。
だから、もっと自分に正直に生きるしかない。
だから、もっと自分の現実を受け止めるしかない。
そこに、納得という自分がつくられた自分に対する理解が生まれる。
三
そして、もし明日があれば、それは今日の自分の姿の現れ。
そして、もし未来があれば、それは今まで過去の生き方の方向。
だから、未来という自分を生み出すものは今という時間しかない。
自分を変える可能性を持つものは、今という時間でしかない。
過去はもう返らない時間のことだ。
過ぎ去った時間は、今の自分を作ってはいるが
明日の自分へとその過去をつなぎとめることは保障できない。
明日の自分へ過去の自分をつなぎとめるものは、唯一今の自分だけなのだ。
四
だから、今しかない。
今しか、自分は存在しない。
問われていることは、
今をどう生きるか、どう今に生きているか、
ということだけである。
明日は、今の自分によってしか創れないのだから。
未来に逃げることはできない。
過去に逃げることもできない。
だから、自分の現実を受け止め
だから、自分らしく生きることだ。
もう、未来に逃げることも過去に逃げることもできない。
だから、今の自分の志向性は昨日の自分から継続されたのか。
だから、今の自分の志向性は明日の自分へと継続されようとしているのか。
それのみが問われるのだ。
2010年5月13日木曜日
自己を罪びとと思っている義人と自己を義人と思っている罪びと
三石博行
何故、自分の失敗を認めることが大切なのだろうか。何故、失敗をしないために、失敗を否定するのでなく、それを受け止めることが自分に必要なのか。
逆説的に成立する人間性のあり方(真実)
▽ 理性と情欲の二つの異なるベクトルをもつ生命力、一方は快楽を満たそうとし、他方はそれを抑制しようとする力からなる人間性、それらの闘争状態として人間の生命や生活活動が展開される。
▽ その活動は、いずれにしても失敗、絶望、敗北、悪、違反、撹乱、錯乱、狂気等々の否定的精神状態と、成功、希望、勝利、正義、遵守、維持、安定、冷静等々の肯定的精神状態が明確に異なる境界線や境界領域を有しているのでなく、その否定側面と肯定的側面が相互に関連しながら、一方が他方の原因となり、また逆にその結果となるという現実を生み出すのである。
▽ 例えば、人は心の安定を求めながら、不安定さの要因を作る。その逆に不安定さを受入れながら精神を安定させることが出来る。
▽ また、成功を目指しながら失敗の原因を作る。その逆に失敗を受け入れることで成功の道筋を見つけ出すことも出来る。
▽ 勝利に酔いながら敗北の原因を作り、敗北を噛み締めることによって勝利への準備を整えることも出来る。
▽ うまく物事が運ぶとき、もっとも恐れなければならないのはその状況(うまくいっている)に安心する自分である。困難な道が現れたとき、それにひるむことなく進む自分がいるなら、その困難さは貴重な経験となるだろう。しかし順調な時には、その状況から学ぶことは少ない。何故なら、その順調な状況は、改革し改良し状況に立ち向かう機会を得ることがないからである。困難な状況こそ最も素晴らしい人生の教師であると良くいわれるのはそのためである。
▽ このような「人間的なそしてあまりにも人間的な」生命・精神・生活活動の現実を受け止めることが課題となる。そのことは、人間の理性や思惟の有限性を理解すること、人間が神のような完全な存在でもなく、またその逆のまったく自然や宇宙の法則に支配され、それを完全に受け入れる他の生命体のような存在でもないこと。その中間にある存在、つまり、不完全な理性や知性を持つ存在者であることを自覚する以外にない。
▽ 言い換えると、人間は、その生命が有限であり、必ず死という生命活動の終わりを持つ存在である。しかも、宇宙の中では微細な塵に等しい存在である。その人間の悲惨な存在形態(実存)を知ることが、人間に与えられた思惟活動(生命の進化によって異常に発達した脳による生命活動)の中で、最も偉大なことであると理解できるのである。
▽ つまり、人は自らその知性の活動において、自らの存在とそれを創った大自然・宇宙のあり方を理解できるのである。つまり、有限な肉体を持つ生命がその生命を形成した宇宙の存在を理解することが出来るのである。それは、他の生物には不可能な認識活動である。その無限の存在・宇宙と有限の存在・自分の理解が人間の知性の最高の結果といえよう。パスカルはこの了解(理解)を人の偉大である理由として挙げた。
▽ つまり、それは、人が常に、宇宙の無限性と同時にその人間の知性や思惟の有限性を知ることを意味する。そして、それは、また人の理性が不完全なものであることを知ることを意味する。つまり、最高の理性とは、理性の限界を知る理性であるという結論に達するのである。
▽ 前節でのべた結論、「人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもない」というパスカルの帰結は、逆説的に成立している人間性の現実に結びつくのである。人が偉大であることの理由は、人が自分の悪(罪)を知ること、自分の敗北を認めること、自分の失敗を知ることであるといえる。
▽ その理解は、前節でのべた「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であり、逆に人間の偉大さを示すものであるといえる。つまり、その知性と理性の活動が唯一残された不完全な人間の最も高度な理性的活動を意味するのである。
▽ そのことは、これから考える反省活動の限界を知ることが人の反省する最後の姿であるという意味に繋がる。
罪びと
▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。
▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。
「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園に実る全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木の実だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ呪われた存在となった。」(Wikipedia)
「罪びと」(悪人)と「義人」(善人)の成立条件
▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼でいる。この考えはキリスト教の原罪論から来たものである。
▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。
▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。
▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。
▽ この論理から成立している「義人」つまり善人は、「罪びと」の自覚を持ち続けることによって成り立っている。この考え方は、前節でのべた逆説的に成立している人間性の姿、つまり、「理性の限界を知る理性の確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそが道徳や徳の基本であるという理論に繋がる。
▽ 人は生きている以上、何らかの誤りや失敗をし続けている。そのことは人の基本的な誤りではない。それは仕方のないこと、つまり、人間という不完全な理性をもつ存在者の宿命である。問題は、それに対する自分の理解とそれへの対応である。失敗を認め、それを直そうとする努力が、反省の姿である。反省は次回必ず失敗しないということを意味しない。それは何回も失敗を続けるであろうが、しかし、失敗をしないように前向きに生きる生き方を示している。不完全な自分に諦めずに向き合うことを「反省」していると呼んでいいのではないだろうか。
▽ このパスカルの原罪に関する解釈から、人の狂気や原罪が、人が本来持つ宿命的な姿である。何故なら、人は快楽を追い求める存在者であり、それゆえに理性を働かす存在であるからだ。そうした現実の自分(人間)への自覚を持ち続けることを、道徳や倫理の基本とした。つまり、つねに休むことなく、考え続けなければ、思考し続けなけなければ、倫理的な思惟は成立しないのである。
▽ 人(自分)は、必ず失敗を犯すものである。問題は、その現実を受け止め、理解することが問われている。その理解によって、致命的に失敗から身を滅ばされない可能性が生まれる。それが唯一の失敗への手立てではないか。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
諦め(あきらめ)という最高の安定したこころの世界
▽ しかし、人は果たして、「その悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命体である自分の姿」について、休むことなく思考し続けられるのだろうか。人は救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。
▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。
▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。何故なら、人間の理性は不完全であり、その不完全な理性によって、人間本来の生命力である快楽を求める欲望を抑制しなければならない。つまり、他人の要求には厳しい人も、自分の欲望には鈍感なのが我々の当たり前の姿である。そのため、他人からの親切をありがたいとも思わないが、他人へ施した親切は忘れることはない。人の理性にもその人の主観性が持ち込まれる。科学的思惟はそれを極力排除したのであるが、結果的には人類を滅ぼす技術を作り出した。
▽ 人間の不完全さを変えることは出来ない。それを受入れ、むしろそれを自覚する方法が必要である。過去の歴史を解釈することは現代社会の価値観で過去を勝手に位置づけることであると歴史学者が語るなら、歴史問題は、少しは解決するかもしれない。また、他の社会への理解は常に誤解から始まるのだと理解しているなら、異文化の衝突も少なくなるかもしれないし、自分達の社会の制度を異なる文化を持つ人々に押し付けることはない。つい最近でも、世界の最大の文明国の大統領が、人類社会の最高の到達点としてアメリカ民主主義を考え、それをイラクに押し付けるのである。
▽ 人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成している。人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。
▽ その意味で、人(自分)は、必ず失敗を犯すものであり、失敗をまったく犯さないように努力することも不可な試みであることも同時に理解しなければならない。つまり、残された失敗を避けるための対策は、本来、失敗をしないためにあるのではなく、最低限、致命的な失敗から身を滅ぼされないためにあるともいえる。そうだとしても、致命的な失敗で身を滅ぼすかもしれない。その現実を受け入れる以外に手立てがないのである。そのことを理解する以外に失敗から身を守る道はないのかもしれない。
▽ 失敗しないように常に反省し努力することと共に、そのことを受け入れる(諦める)ことが問われる。そして、それによって、他の人々への優しさ(悲哀)は生まれるのではないだろうか。
「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
何故、自分の失敗を認めることが大切なのだろうか。何故、失敗をしないために、失敗を否定するのでなく、それを受け止めることが自分に必要なのか。
逆説的に成立する人間性のあり方(真実)
▽ 理性と情欲の二つの異なるベクトルをもつ生命力、一方は快楽を満たそうとし、他方はそれを抑制しようとする力からなる人間性、それらの闘争状態として人間の生命や生活活動が展開される。
▽ その活動は、いずれにしても失敗、絶望、敗北、悪、違反、撹乱、錯乱、狂気等々の否定的精神状態と、成功、希望、勝利、正義、遵守、維持、安定、冷静等々の肯定的精神状態が明確に異なる境界線や境界領域を有しているのでなく、その否定側面と肯定的側面が相互に関連しながら、一方が他方の原因となり、また逆にその結果となるという現実を生み出すのである。
▽ 例えば、人は心の安定を求めながら、不安定さの要因を作る。その逆に不安定さを受入れながら精神を安定させることが出来る。
▽ また、成功を目指しながら失敗の原因を作る。その逆に失敗を受け入れることで成功の道筋を見つけ出すことも出来る。
▽ 勝利に酔いながら敗北の原因を作り、敗北を噛み締めることによって勝利への準備を整えることも出来る。
▽ うまく物事が運ぶとき、もっとも恐れなければならないのはその状況(うまくいっている)に安心する自分である。困難な道が現れたとき、それにひるむことなく進む自分がいるなら、その困難さは貴重な経験となるだろう。しかし順調な時には、その状況から学ぶことは少ない。何故なら、その順調な状況は、改革し改良し状況に立ち向かう機会を得ることがないからである。困難な状況こそ最も素晴らしい人生の教師であると良くいわれるのはそのためである。
▽ このような「人間的なそしてあまりにも人間的な」生命・精神・生活活動の現実を受け止めることが課題となる。そのことは、人間の理性や思惟の有限性を理解すること、人間が神のような完全な存在でもなく、またその逆のまったく自然や宇宙の法則に支配され、それを完全に受け入れる他の生命体のような存在でもないこと。その中間にある存在、つまり、不完全な理性や知性を持つ存在者であることを自覚する以外にない。
▽ 言い換えると、人間は、その生命が有限であり、必ず死という生命活動の終わりを持つ存在である。しかも、宇宙の中では微細な塵に等しい存在である。その人間の悲惨な存在形態(実存)を知ることが、人間に与えられた思惟活動(生命の進化によって異常に発達した脳による生命活動)の中で、最も偉大なことであると理解できるのである。
▽ つまり、人は自らその知性の活動において、自らの存在とそれを創った大自然・宇宙のあり方を理解できるのである。つまり、有限な肉体を持つ生命がその生命を形成した宇宙の存在を理解することが出来るのである。それは、他の生物には不可能な認識活動である。その無限の存在・宇宙と有限の存在・自分の理解が人間の知性の最高の結果といえよう。パスカルはこの了解(理解)を人の偉大である理由として挙げた。
▽ つまり、それは、人が常に、宇宙の無限性と同時にその人間の知性や思惟の有限性を知ることを意味する。そして、それは、また人の理性が不完全なものであることを知ることを意味する。つまり、最高の理性とは、理性の限界を知る理性であるという結論に達するのである。
▽ 前節でのべた結論、「人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもない」というパスカルの帰結は、逆説的に成立している人間性の現実に結びつくのである。人が偉大であることの理由は、人が自分の悪(罪)を知ること、自分の敗北を認めること、自分の失敗を知ることであるといえる。
▽ その理解は、前節でのべた「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であり、逆に人間の偉大さを示すものであるといえる。つまり、その知性と理性の活動が唯一残された不完全な人間の最も高度な理性的活動を意味するのである。
▽ そのことは、これから考える反省活動の限界を知ることが人の反省する最後の姿であるという意味に繋がる。
罪びと
▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。
▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。
「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園に実る全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木の実だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ呪われた存在となった。」(Wikipedia)
「罪びと」(悪人)と「義人」(善人)の成立条件
▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼でいる。この考えはキリスト教の原罪論から来たものである。
▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。
▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。
▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。
▽ この論理から成立している「義人」つまり善人は、「罪びと」の自覚を持ち続けることによって成り立っている。この考え方は、前節でのべた逆説的に成立している人間性の姿、つまり、「理性の限界を知る理性の確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそが道徳や徳の基本であるという理論に繋がる。
▽ 人は生きている以上、何らかの誤りや失敗をし続けている。そのことは人の基本的な誤りではない。それは仕方のないこと、つまり、人間という不完全な理性をもつ存在者の宿命である。問題は、それに対する自分の理解とそれへの対応である。失敗を認め、それを直そうとする努力が、反省の姿である。反省は次回必ず失敗しないということを意味しない。それは何回も失敗を続けるであろうが、しかし、失敗をしないように前向きに生きる生き方を示している。不完全な自分に諦めずに向き合うことを「反省」していると呼んでいいのではないだろうか。
▽ このパスカルの原罪に関する解釈から、人の狂気や原罪が、人が本来持つ宿命的な姿である。何故なら、人は快楽を追い求める存在者であり、それゆえに理性を働かす存在であるからだ。そうした現実の自分(人間)への自覚を持ち続けることを、道徳や倫理の基本とした。つまり、つねに休むことなく、考え続けなければ、思考し続けなけなければ、倫理的な思惟は成立しないのである。
▽ 人(自分)は、必ず失敗を犯すものである。問題は、その現実を受け止め、理解することが問われている。その理解によって、致命的に失敗から身を滅ばされない可能性が生まれる。それが唯一の失敗への手立てではないか。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
諦め(あきらめ)という最高の安定したこころの世界
▽ しかし、人は果たして、「その悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命体である自分の姿」について、休むことなく思考し続けられるのだろうか。人は救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。
▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。
▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。何故なら、人間の理性は不完全であり、その不完全な理性によって、人間本来の生命力である快楽を求める欲望を抑制しなければならない。つまり、他人の要求には厳しい人も、自分の欲望には鈍感なのが我々の当たり前の姿である。そのため、他人からの親切をありがたいとも思わないが、他人へ施した親切は忘れることはない。人の理性にもその人の主観性が持ち込まれる。科学的思惟はそれを極力排除したのであるが、結果的には人類を滅ぼす技術を作り出した。
▽ 人間の不完全さを変えることは出来ない。それを受入れ、むしろそれを自覚する方法が必要である。過去の歴史を解釈することは現代社会の価値観で過去を勝手に位置づけることであると歴史学者が語るなら、歴史問題は、少しは解決するかもしれない。また、他の社会への理解は常に誤解から始まるのだと理解しているなら、異文化の衝突も少なくなるかもしれないし、自分達の社会の制度を異なる文化を持つ人々に押し付けることはない。つい最近でも、世界の最大の文明国の大統領が、人類社会の最高の到達点としてアメリカ民主主義を考え、それをイラクに押し付けるのである。
▽ 人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成している。人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。
▽ その意味で、人(自分)は、必ず失敗を犯すものであり、失敗をまったく犯さないように努力することも不可な試みであることも同時に理解しなければならない。つまり、残された失敗を避けるための対策は、本来、失敗をしないためにあるのではなく、最低限、致命的な失敗から身を滅ぼされないためにあるともいえる。そうだとしても、致命的な失敗で身を滅ぼすかもしれない。その現実を受け入れる以外に手立てがないのである。そのことを理解する以外に失敗から身を守る道はないのかもしれない。
▽ 失敗しないように常に反省し努力することと共に、そのことを受け入れる(諦める)ことが問われる。そして、それによって、他の人々への優しさ(悲哀)は生まれるのではないだろうか。
「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
理性と情念の両方を持つ人間の姿 パスカルから
三石博行
理性と情欲の間に生じる内的闘争(人間的な精神構造)
▽ パスカルは、人間の性は本来悪でもなければ善でもないと言っている。もし、人の悪の起源が欲望であるとするなら、欲望を持たない人間はいないので、全ての人が悪人となる。また、その逆に人の善の起源が理性であるとするなら、理性を持たない人はいないので、全ての人は善人となる。しかし、人は欲望と理性の両方をもつために、悪人であり善人でもある。人の性を本来悪とすることも、また逆に善とすることも、あまりにも単純な人間観であると言えないだろうか。
▽ しかし、その二つ、欲望と理性を持つことで、人はその二つの要求に引き裂かれ、その二つの力のぶつかり合いを日常生活の中で経験し続けなればならない存在になったとパスカルは言うのである。
▽ 前回の講義で、理性と情念「両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」というパスカルの文章から、人間のあり方について考えた。今回、もう一度その課題に立ち返り、議論を深めたい。
「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル『パンセ』(412)
快楽を追い求める力・欲望 とそれを抑制する力・理性
▽ 前回の学習を簡単に復習すると、以下のパスカルが述べた四つの人間に関する課題があった。一つ目は、人間の欲望に関する理解であるが、人は本来快楽を求めて生きているため、禁欲主義は非現実的であること。二つ目は、人間が宇宙の中で一滴の水で生命を落とす小さな悲惨な存在であること、人間がその「人間の悲惨さを理解できる知性」思惟を持っている存在であることが人間の偉大さであるとパスカルは考えた。三つ目は、「思惟(人間の偉大さの理由)」や「理性(人間が善人であるために必要なもの)」が在ったとしても、「人間が狂気(きょうき)じみていることは避けがたい」事実であると考えた。そして、四つ目は、人間の生(生命や生活)とは、理性(思惟によって形成された)と情念(欲望によって噴出している)の二つの避けがたい闘争状態であるとパスカルは帰結した。
「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」(347)
▽ パスカルの一つ目の主張は、人が欲望を持ち、それを満たすために行動することは人の自然の姿であるということである。人間は快楽を求めながら生きている。快楽を満たそうとする生命力を欲望と呼んでいる。その欲望が理性(思惟)によって、一時的(刹那的)快楽から将来の人生の希望や夢へと昇華される。人はその欲望を実現するために努力をしている。その希望の実現することで得られるものが利益と呼ばれる高度な(社会的に認められた)快楽であることを知っている。例えば、人に尊敬される立派な人になりたいという名誉欲、お金持ちに成りたいという金銭欲、偉い人や強い人に成りたいという権力欲、ハンサムな男や美人と一緒になりたいという性欲等々、それらの欲望を満たすことによって快楽を手に入れることが出来るのである。
▽ その意味で、快楽を求めること、つまり欲望を悪と決めつけるのであるなら、人間本来の姿を無視することになる。よりよく生きようとする生命力を否定し、それを悪いこととして禁止することになる。愛することも、結婚し子育てをし、幸せな家族をつくることも、友達と楽しく過ごすことも、すべて禁止する極端な禁欲主義者になってしまう。人が快楽を求めて生きている、つまり人が情欲(欲望)を持っていることを否定することは出来ない。
▽ しかし、手段を選ばす(社会的決まりを無視して)快楽を求める行為をしたなら、社会や他者の非難に出会うだろう。自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するためには、社会の認める規則(法律や道徳)に従い、その夢を獲得しなければならない。欲望を満たす目的の為に手段を選ばない行為をすることは社会から認められない。もし、その手段を選ばないで欲望を満たす行為が社会で横行するなら、社会には犯罪が多発し、大混乱が発生するだろう。
▽ つまり、社会的ルールに即して欲望を満たすための人々が取る行為を「理性的行為」と呼んでいる。人間は本来快楽を追い求めて生きている。その人間の本性を理解し、それを社会の規則(法律や倫理)に即して強制・制御する力を理性と呼んでいる。パスカルは人が欲望だけの存在でないことを人が知っている。 つまり、人は本来快楽を求めて生きる存在であるが、その欲望が引き起こす結末を理解する知性や思惟(考える行為)が人に備わっていると主張した。それが二つ目の例である。
人は善的存在でもなければ悪的存在でもない、その両者が同時に共存している
▽ 人間は本来快楽を求める存在であること、また人間は思惟する能力を持つ存在であること、その二つの生命活動によって生じた、理性と情念の闘争状態を生活と呼んでいる。生きている限り、その二つの力、快楽を求める力と快楽を抑制する力が衝突し続ける。
▽ 言い換えると、理性と情欲の二つの人間性の衝突によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。
▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。
▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。
▽ しかし、欲望や快楽を現実的に(合理的に)、つまり社会と衝突しないで(他人に迷惑を掛けないで)上手に抑制する力である筈の思惟や理性も決して完全なものではない、むしろ非常に不完全なものであるといえる。不完全な制御装置を装備し、欲望を燃やし続けながら動く生命機械である人間とは結果的には失敗(悪)を作り出す運命にある。その失敗を最小限に防ぐためには、より高い理性(社会制度を発展させ、刑罰を重くし、科学技術を発展させ人間の欲望を抑制する道具や装置を開発する)を求めること、もしくは欲望を最小限に押さえつけること(厳しい禁欲主義を貫き通すこと)では解決しないかもしれない。
▽ 残された道はなにか、それはその人間存在の宿命を受け入れること、つまり人間の悲惨さを理解する思惟を持つこと、また理性の限界を知る理性を確立することではないかとパスカルは問いかける。
▽ そして、完全な存在、悪を犯すことのない善人の存在(イエス・キリスト)を理性や思惟によって理解しながらも、悪を犯さざるを得ない存在者としての自分を理解することではないかとパスカルは考えた。
▽ 歴史を振り返ると人類は正義の名において戦争(悪)を行い、宗教の教義(神への信仰)の名において異なる宗教に属すという理由の基に異教徒とよばれる人々を迫害してきた。これらの史実から、その逆転劇(正義の名において殺害を行い、他の悪を駆逐した素晴らしい人間の歴史)の結末やその矛盾を批判し乗り越えるために、もう一度、善や道徳の概念を考えなければならないのである。つまり、「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であると考えたのである。
▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結したのである。
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
人間的理性の限界を知ることそえが最後の理性の姿である
▽ 人を偉大にした思惟(知性)・理性について知らなければならないこと、それは理性の限界である。我々は無限の宇宙に対する有限な、そして悲惨な(水一滴で消滅する生命体である)人間を知る力(思惟)があったとしても、無限の宇宙を知ることは出来ない。その意味で、人間の思惟(知性)や理性は限界を持つものである。有限な人間である以上、有限な能力(思惟)しか持ち合わせていない。それを理解することが、理性の最後の姿、理性を超えることを知っている理性(もはや科学的知でなく、祈りにも近いもの、パスカルの信仰)のあり方が問われる。
▽ もし、人が自己の理性(科学的知)を知らなければ、自然に支配され、猛獣の脅威に慄き、生きるために逃げまとい、恐怖心から逃れるためにひたすら祈祷しつづける、今日の科学技術文明社会の住民から見れば卑屈な生き方になるだろう。しかし、もし人が自己の理性の限界を知らなければ、あらゆる問題、地球規模の気候変動すら人間の知識、科学技術によって完全に解決できると信じ、さらに新しい、そして強力な生産体制を確立し、多くのエネルギーを消耗し続けるかもしれない。この行動は、古代人から見れば、あまりにも自然の力を見くびった、その結果として人間が受けている災害に感じられるだろう。つまり、傲慢な知性の過信によって、人々は益々生態系を破壊し続けるかもしれない。
▽ つまり、理性と欲望の闘争、人間的思惟の作り出すその結果、人間社会は発展し続けてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、人々は知的活動を行い、理性を磨き上げてきた。つまり、その結果、猛獣や自然の脅威に晒(さら)されていた時代を克服し、それらを逆に支配活用し、今日の科学技術文明社会を形成し、人間の偉大さを確立してきた。
▽ すなわち、人間は豊かさ(快楽)を追い求めて、それを可能にするために社会を発展させ、道具や装置を発明し改良してきた。人類は社会的分業を考え出し、専門的職業を形成し、社会制度を高度に発展させ、巨大な生産力を生み出し、科学技術を発展させ、合理的な生産ラインを作り出し、短時間労働で大量生産を可能にしてきた。
▽ 人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。社会は、石器時代、土器時代、青銅器時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明構造を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。
▽ 考えること、思惟、つまり知性によって何十万年も支配され続けてきた猛獣達を駆逐し、自然を支配し、その自然の法則やエネルギーを逆に活用し、豊かな人間社会を構築し続けてきた。その豊かさは、人間がこの地球上の生命体の長であり、もっとも進化していることを自覚させた。それは逆に、人間が「水一滴によって滅びる悲惨な生命体」であること、つまり悲惨な人間の実存形態(姿)を忘れさせることになった。
▽ 言い換えると、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。
▽ この人間の悲惨さを忘却することを「不完全な理性の証」と逆にパスカル考えた。「傲慢」さとは、本来人が持っている不完全な理性によって必然的に人に生じる自然な姿なのかもしれない。
「自己の悲惨さを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。神を知らずに自己の悲惨さを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは中間をなす。というのも、われわれはそこに神とわれわれの悲惨さとを見いだすからである。」パスカル『パンセ』(527)
道徳とは人間の傲慢さへの戒め
▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。
▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。
▽ だが、人間はその人間の悲惨さを知らない思考によって、傲慢になる。その結果、自ら開発した知識によって自らを崩壊させる。例えば、人類は自然の法則を解明した。そして質量の意味、エネルギーとの物理的関係を見つけ出す。光速の二条に質量を掛けることによって宇宙のエネルギー量を導き出すことが出来た。つまり、そのことが核分裂や核融合によって得られるエネルギーであることを発見した。その偉大な発見は、そのまま人類を滅ぼす核兵器を開発に繋がった。
▽ 言い換えると偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。
▽ 人間がその知性を展開しなければ自然に支配される他の動物のように猛獣にそして川の流れにもおびえながら生きなければならないだろう。そして、人間は知性によってその恐怖を克服した。と同時に、人間は自ら手に入れた知性の限界を知らない。そのために、その知性によって、自ら滅びる道を選んでしまった。それは、その知性が宇宙の存在にくらべて有限なものであること、また人間という生命体が有限な存在であること、そして人間が悲惨な存在者(死という存在の終わりを持つもの)であることを忘れるためである。このことをパスカルは「傲慢」と呼んでいた。
人間的行為と呼ばれる狂気
▽ 傲慢さとは、人間の本来の姿である悲惨さを知らずに例えば神を知ることであるとパスカルは述べた。この意味は、人類が本来人間の救済のために考え出した宗教の名の下に戦争や殺戮(さつりく)を繰り広げた宗教戦争、知性の勝利とも言うべき科学研究によって人類消滅の技術を開発してしまった歴史を意味している。
▽ 人間の偉大さの象徴とも言うべき思惟(考えること)、そしてその結果得られる理性(知性)によって、人は最良の存在者(天使)になろうとしながら最悪の存在者(禽獣)になってしまっている。このことの原因は、人間の悲惨な状態を救うために考えられた知性、科学的思惟、その応用、技術が結果的にたどり着く「大量破壊兵器」や「地球温暖化」の現実を受け止めることで納得できるだろう。
▽ もし、人間の理性の限界を理解することが理性に問われる最後の闘いであるなら、科学的知に問われる最後の科学的知識は、その科学的知の限界を理解することではないだろうか。
▽ つまり、パスカルが求めた最も高度な科学的理解とは「傲慢さ」を作り出す科学的知識でなく、むしろ、「人間の悲惨さの理解」するための科学的知ではないだろうか。
▽ しかし、あらゆる世界を理解するために前進的に進む科学的知によって、人が人の知の限界を理解することは可能なのか。もし可能なら、すでに科学的知性と呼ばれるものでない異質の知のあり方が登場するかもしれない。科学的知は「力」である以上、必然的に人間の傲慢さを生み出すのだ。しかも、その傲慢さを自覚することもできないぐらい、危機的な状況に来ているのが科学技術文明社会と呼ばれる現代社会の一面の姿である。
▽ 地球規模の生態系の危機的状況や人類を破滅させる核兵器所有とは、人間の傲慢さによって作り出されたもの、それは征服したと勘違いしている自然の逆襲であるともいえる。人間を生み出した自然、地球の生態系を支配し、それを制御できると錯覚した人間の姿こそ、自らの開発した核兵器によってその存在の危機を迎える姿なのかもしれない。つまり、それが人間の悲惨な、ある意味で滑稽な姿なのだろう。
▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮(さつりつ)が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を撲滅することを英雄と呼ぶ。殺戮行為には、正当な理由と不当な理由が歴史社会の中では常につけられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺とも呼んできた。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
人に道徳を守らすには社会の規則が必要である。そのため政治学が研究された。
▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。
▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。
▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。
▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。
▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。
▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
理性と情欲の間に生じる内的闘争(人間的な精神構造)
▽ パスカルは、人間の性は本来悪でもなければ善でもないと言っている。もし、人の悪の起源が欲望であるとするなら、欲望を持たない人間はいないので、全ての人が悪人となる。また、その逆に人の善の起源が理性であるとするなら、理性を持たない人はいないので、全ての人は善人となる。しかし、人は欲望と理性の両方をもつために、悪人であり善人でもある。人の性を本来悪とすることも、また逆に善とすることも、あまりにも単純な人間観であると言えないだろうか。
▽ しかし、その二つ、欲望と理性を持つことで、人はその二つの要求に引き裂かれ、その二つの力のぶつかり合いを日常生活の中で経験し続けなればならない存在になったとパスカルは言うのである。
▽ 前回の講義で、理性と情念「両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」というパスカルの文章から、人間のあり方について考えた。今回、もう一度その課題に立ち返り、議論を深めたい。
「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル『パンセ』(412)
快楽を追い求める力・欲望 とそれを抑制する力・理性
▽ 前回の学習を簡単に復習すると、以下のパスカルが述べた四つの人間に関する課題があった。一つ目は、人間の欲望に関する理解であるが、人は本来快楽を求めて生きているため、禁欲主義は非現実的であること。二つ目は、人間が宇宙の中で一滴の水で生命を落とす小さな悲惨な存在であること、人間がその「人間の悲惨さを理解できる知性」思惟を持っている存在であることが人間の偉大さであるとパスカルは考えた。三つ目は、「思惟(人間の偉大さの理由)」や「理性(人間が善人であるために必要なもの)」が在ったとしても、「人間が狂気(きょうき)じみていることは避けがたい」事実であると考えた。そして、四つ目は、人間の生(生命や生活)とは、理性(思惟によって形成された)と情念(欲望によって噴出している)の二つの避けがたい闘争状態であるとパスカルは帰結した。
「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」(347)
▽ パスカルの一つ目の主張は、人が欲望を持ち、それを満たすために行動することは人の自然の姿であるということである。人間は快楽を求めながら生きている。快楽を満たそうとする生命力を欲望と呼んでいる。その欲望が理性(思惟)によって、一時的(刹那的)快楽から将来の人生の希望や夢へと昇華される。人はその欲望を実現するために努力をしている。その希望の実現することで得られるものが利益と呼ばれる高度な(社会的に認められた)快楽であることを知っている。例えば、人に尊敬される立派な人になりたいという名誉欲、お金持ちに成りたいという金銭欲、偉い人や強い人に成りたいという権力欲、ハンサムな男や美人と一緒になりたいという性欲等々、それらの欲望を満たすことによって快楽を手に入れることが出来るのである。
▽ その意味で、快楽を求めること、つまり欲望を悪と決めつけるのであるなら、人間本来の姿を無視することになる。よりよく生きようとする生命力を否定し、それを悪いこととして禁止することになる。愛することも、結婚し子育てをし、幸せな家族をつくることも、友達と楽しく過ごすことも、すべて禁止する極端な禁欲主義者になってしまう。人が快楽を求めて生きている、つまり人が情欲(欲望)を持っていることを否定することは出来ない。
▽ しかし、手段を選ばす(社会的決まりを無視して)快楽を求める行為をしたなら、社会や他者の非難に出会うだろう。自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するためには、社会の認める規則(法律や道徳)に従い、その夢を獲得しなければならない。欲望を満たす目的の為に手段を選ばない行為をすることは社会から認められない。もし、その手段を選ばないで欲望を満たす行為が社会で横行するなら、社会には犯罪が多発し、大混乱が発生するだろう。
▽ つまり、社会的ルールに即して欲望を満たすための人々が取る行為を「理性的行為」と呼んでいる。人間は本来快楽を追い求めて生きている。その人間の本性を理解し、それを社会の規則(法律や倫理)に即して強制・制御する力を理性と呼んでいる。パスカルは人が欲望だけの存在でないことを人が知っている。 つまり、人は本来快楽を求めて生きる存在であるが、その欲望が引き起こす結末を理解する知性や思惟(考える行為)が人に備わっていると主張した。それが二つ目の例である。
人は善的存在でもなければ悪的存在でもない、その両者が同時に共存している
▽ 人間は本来快楽を求める存在であること、また人間は思惟する能力を持つ存在であること、その二つの生命活動によって生じた、理性と情念の闘争状態を生活と呼んでいる。生きている限り、その二つの力、快楽を求める力と快楽を抑制する力が衝突し続ける。
▽ 言い換えると、理性と情欲の二つの人間性の衝突によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。
▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。
▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。
▽ しかし、欲望や快楽を現実的に(合理的に)、つまり社会と衝突しないで(他人に迷惑を掛けないで)上手に抑制する力である筈の思惟や理性も決して完全なものではない、むしろ非常に不完全なものであるといえる。不完全な制御装置を装備し、欲望を燃やし続けながら動く生命機械である人間とは結果的には失敗(悪)を作り出す運命にある。その失敗を最小限に防ぐためには、より高い理性(社会制度を発展させ、刑罰を重くし、科学技術を発展させ人間の欲望を抑制する道具や装置を開発する)を求めること、もしくは欲望を最小限に押さえつけること(厳しい禁欲主義を貫き通すこと)では解決しないかもしれない。
▽ 残された道はなにか、それはその人間存在の宿命を受け入れること、つまり人間の悲惨さを理解する思惟を持つこと、また理性の限界を知る理性を確立することではないかとパスカルは問いかける。
▽ そして、完全な存在、悪を犯すことのない善人の存在(イエス・キリスト)を理性や思惟によって理解しながらも、悪を犯さざるを得ない存在者としての自分を理解することではないかとパスカルは考えた。
▽ 歴史を振り返ると人類は正義の名において戦争(悪)を行い、宗教の教義(神への信仰)の名において異なる宗教に属すという理由の基に異教徒とよばれる人々を迫害してきた。これらの史実から、その逆転劇(正義の名において殺害を行い、他の悪を駆逐した素晴らしい人間の歴史)の結末やその矛盾を批判し乗り越えるために、もう一度、善や道徳の概念を考えなければならないのである。つまり、「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であると考えたのである。
▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結したのである。
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
人間的理性の限界を知ることそえが最後の理性の姿である
▽ 人を偉大にした思惟(知性)・理性について知らなければならないこと、それは理性の限界である。我々は無限の宇宙に対する有限な、そして悲惨な(水一滴で消滅する生命体である)人間を知る力(思惟)があったとしても、無限の宇宙を知ることは出来ない。その意味で、人間の思惟(知性)や理性は限界を持つものである。有限な人間である以上、有限な能力(思惟)しか持ち合わせていない。それを理解することが、理性の最後の姿、理性を超えることを知っている理性(もはや科学的知でなく、祈りにも近いもの、パスカルの信仰)のあり方が問われる。
▽ もし、人が自己の理性(科学的知)を知らなければ、自然に支配され、猛獣の脅威に慄き、生きるために逃げまとい、恐怖心から逃れるためにひたすら祈祷しつづける、今日の科学技術文明社会の住民から見れば卑屈な生き方になるだろう。しかし、もし人が自己の理性の限界を知らなければ、あらゆる問題、地球規模の気候変動すら人間の知識、科学技術によって完全に解決できると信じ、さらに新しい、そして強力な生産体制を確立し、多くのエネルギーを消耗し続けるかもしれない。この行動は、古代人から見れば、あまりにも自然の力を見くびった、その結果として人間が受けている災害に感じられるだろう。つまり、傲慢な知性の過信によって、人々は益々生態系を破壊し続けるかもしれない。
▽ つまり、理性と欲望の闘争、人間的思惟の作り出すその結果、人間社会は発展し続けてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、人々は知的活動を行い、理性を磨き上げてきた。つまり、その結果、猛獣や自然の脅威に晒(さら)されていた時代を克服し、それらを逆に支配活用し、今日の科学技術文明社会を形成し、人間の偉大さを確立してきた。
▽ すなわち、人間は豊かさ(快楽)を追い求めて、それを可能にするために社会を発展させ、道具や装置を発明し改良してきた。人類は社会的分業を考え出し、専門的職業を形成し、社会制度を高度に発展させ、巨大な生産力を生み出し、科学技術を発展させ、合理的な生産ラインを作り出し、短時間労働で大量生産を可能にしてきた。
▽ 人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。社会は、石器時代、土器時代、青銅器時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明構造を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。
▽ 考えること、思惟、つまり知性によって何十万年も支配され続けてきた猛獣達を駆逐し、自然を支配し、その自然の法則やエネルギーを逆に活用し、豊かな人間社会を構築し続けてきた。その豊かさは、人間がこの地球上の生命体の長であり、もっとも進化していることを自覚させた。それは逆に、人間が「水一滴によって滅びる悲惨な生命体」であること、つまり悲惨な人間の実存形態(姿)を忘れさせることになった。
▽ 言い換えると、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。
▽ この人間の悲惨さを忘却することを「不完全な理性の証」と逆にパスカル考えた。「傲慢」さとは、本来人が持っている不完全な理性によって必然的に人に生じる自然な姿なのかもしれない。
「自己の悲惨さを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。神を知らずに自己の悲惨さを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは中間をなす。というのも、われわれはそこに神とわれわれの悲惨さとを見いだすからである。」パスカル『パンセ』(527)
道徳とは人間の傲慢さへの戒め
▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。
▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。
▽ だが、人間はその人間の悲惨さを知らない思考によって、傲慢になる。その結果、自ら開発した知識によって自らを崩壊させる。例えば、人類は自然の法則を解明した。そして質量の意味、エネルギーとの物理的関係を見つけ出す。光速の二条に質量を掛けることによって宇宙のエネルギー量を導き出すことが出来た。つまり、そのことが核分裂や核融合によって得られるエネルギーであることを発見した。その偉大な発見は、そのまま人類を滅ぼす核兵器を開発に繋がった。
▽ 言い換えると偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。
▽ 人間がその知性を展開しなければ自然に支配される他の動物のように猛獣にそして川の流れにもおびえながら生きなければならないだろう。そして、人間は知性によってその恐怖を克服した。と同時に、人間は自ら手に入れた知性の限界を知らない。そのために、その知性によって、自ら滅びる道を選んでしまった。それは、その知性が宇宙の存在にくらべて有限なものであること、また人間という生命体が有限な存在であること、そして人間が悲惨な存在者(死という存在の終わりを持つもの)であることを忘れるためである。このことをパスカルは「傲慢」と呼んでいた。
人間的行為と呼ばれる狂気
▽ 傲慢さとは、人間の本来の姿である悲惨さを知らずに例えば神を知ることであるとパスカルは述べた。この意味は、人類が本来人間の救済のために考え出した宗教の名の下に戦争や殺戮(さつりく)を繰り広げた宗教戦争、知性の勝利とも言うべき科学研究によって人類消滅の技術を開発してしまった歴史を意味している。
▽ 人間の偉大さの象徴とも言うべき思惟(考えること)、そしてその結果得られる理性(知性)によって、人は最良の存在者(天使)になろうとしながら最悪の存在者(禽獣)になってしまっている。このことの原因は、人間の悲惨な状態を救うために考えられた知性、科学的思惟、その応用、技術が結果的にたどり着く「大量破壊兵器」や「地球温暖化」の現実を受け止めることで納得できるだろう。
▽ もし、人間の理性の限界を理解することが理性に問われる最後の闘いであるなら、科学的知に問われる最後の科学的知識は、その科学的知の限界を理解することではないだろうか。
▽ つまり、パスカルが求めた最も高度な科学的理解とは「傲慢さ」を作り出す科学的知識でなく、むしろ、「人間の悲惨さの理解」するための科学的知ではないだろうか。
▽ しかし、あらゆる世界を理解するために前進的に進む科学的知によって、人が人の知の限界を理解することは可能なのか。もし可能なら、すでに科学的知性と呼ばれるものでない異質の知のあり方が登場するかもしれない。科学的知は「力」である以上、必然的に人間の傲慢さを生み出すのだ。しかも、その傲慢さを自覚することもできないぐらい、危機的な状況に来ているのが科学技術文明社会と呼ばれる現代社会の一面の姿である。
▽ 地球規模の生態系の危機的状況や人類を破滅させる核兵器所有とは、人間の傲慢さによって作り出されたもの、それは征服したと勘違いしている自然の逆襲であるともいえる。人間を生み出した自然、地球の生態系を支配し、それを制御できると錯覚した人間の姿こそ、自らの開発した核兵器によってその存在の危機を迎える姿なのかもしれない。つまり、それが人間の悲惨な、ある意味で滑稽な姿なのだろう。
▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮(さつりつ)が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を撲滅することを英雄と呼ぶ。殺戮行為には、正当な理由と不当な理由が歴史社会の中では常につけられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺とも呼んできた。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
人に道徳を守らすには社会の規則が必要である。そのため政治学が研究された。
▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。
▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。
▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。
▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。
▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。
▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
2010年4月29日木曜日
人間と倫理2 「人は天使でもなければ禽獣でもない」(パスカル)
三石博行
1、もっとも単純な人間観、性善説と性悪説
▽ 孟子は人の性(人間の性格)は、本来、善きものである。全ての人は生まれながらにして善き性格を平等に与えられている。しかし、その善き人の性は社会の環境によって汚され、不善(よくないもの)になると主張した。この考え方を性善説と呼んだ。
▽ この性善説を荀子は批判し、それと逆の説である性悪説を主張した。つまり、人の性を悪と考え、その本来悪としてある人間の性格を人々は努力し善へと変えていく。その努力が学習であり反省である。社会は、人々が正しく生きること、善行を行うために制度を作っているのである。
▽ 性善説と性悪説という二つの極端な人間性に関する評価を基にして、それらの説から導かれる社会倫理の姿を想像してみた。二つの説から考えられる「学級崩壊のクラス」と「生産地偽造問題を起こした会社での社員の対応」の二つの具体的な課題を考えた。
▽ 例えば、演習1で取り組んだ「学級崩壊」のクラスと騒いでいる生徒への対応であるが、性悪説に従うなら、学級崩壊を起こしているクラスの生徒たちに対しては、騒いでいる生徒を隔離(クラスに入れない)し、懲罰を与え、授業時間に騒ぐことが「悪」であることを教える方法を取ることになる。その逆に性善説に従うなら、騒いでいる生徒を説得する。それでも騒ぎが収まらないなら、騒いでいる生徒を隔離して別のクラスで授業を受けさせる。つまり、性悪説のように懲罰のために隔離するのでなく、その生徒の本来備わっている善き性格を導くために、外部と遮断する方法を選んだ。
▽ 例えば、演習2で取り組んだ「生産地表示偽造問題を起こしている会社」で働く社員の取るべき姿勢を課題にした。社員は自分の雇用が危機に晒(さら)されても、会社幹部の不正を社内で問題にするべきであるという考え方である。この姿勢は、会社で働く以上、そこで生産される商品への責任の一角を一人の社員として持っている。その責任を果たすことが社会的倫理であるという考え方に支えられている。もし、会社がその不正を隠蔽し、また会社内部の批判、点検活動の呼びかけを抹殺する場合、極端な場合、批判した社員を解雇した場合、社員は会社の不正を内部告白する必要があると考えるだろう。
▽ つまり、この演習2の場合には、会社の不正を批判する社員が、性悪説を信じているなら、会社幹部への社会的懲罰を求めることになる。もし、性善説を信じるなら、会社幹部と話をし、彼らが本来持っている人間性の善の姿を引き出し、会社の不正を反省させる行為に出るかもしれない。
▽ 以上、前回2回に亘って、問題を起こしている人々への対応に関する考え方を検討してみた。
2、「両方(理性と情念)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」パスカル 『パンセ』(412)
▽ 実際の社会問題や人間的問題は、性善説や性悪説の二つの立場から解決できるだろうか。性善説や性悪説は、極端な二つの見解であり、人の性は本来悪でもなければ善でもない。人の悪の起源を欲望とするなら、欲望を持たない人間はいない。そして逆に人の善が理性であるなら、理性だけで生きている人もいない。つまり、人間は理性と欲望を同時にもった存在である。
「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル「パンセ」(412)
「もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)
▽ もし、人が何か(立派な人、お金持ちの人,偉い人や強い人)を夢みてそれに成りたいと思わなければ、人は努力をすることはないだろう。人が努力をするのは、欲望があるからだ。
▽ しかし、欲望を悪とする考え方は、人間本来の姿を無視した、「生きることを欲することなく生きる」「愛することを求めることなく結婚し、家族をつくり、子育てをし、家族や友達と過ごす」という不可能な要求を突きつけることになるだろ。
▽ つまり、「欲望を捨てて生きる」という不可能な目標は、すべての場合、失敗すると思われる行動を要求することになる。極端な禁欲主義は、自然な人間の行為を無視し、拒絶し、批判することになる。
▽ もし、人間の欲望を抑えることに成功した社会があったとすれば、その社会では、人々は働く力も、家族をもつ努力も、立派な家を建てる気持ちも、レストランで美味しい食事をする気持ちも、美術館で美しい絵や彫刻を鑑賞する気持ちも、そして学校で勉強する気持ちも失うだろう。
▽ もし、欲望(情欲)を完全に捨て去ることができれば、人を愛することも、逆に人から愛されたいと思うこともないだろう。家族をつくり、子供を育て、家庭を守り、友人や近所の人々と楽しく過ごす喜びを求めることもないだろう。
「もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)
▽ しかし、もし人が自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するために手段を選ばない行為をしたら、社会に大混乱が生まれるだろう。
▽ 例えば、大学の講義で使うための教材を購入するのにお金が欲しいと思う。教材を手に入れる行為は大学で学ぶために必要な行為であり、社会はその行為を評価している。同じ千円でも、アダルトヴィデオを買うより、「大学の授業で使う教材を買う」ことを社会は評価する。何故なら、「教材を買う」ことで、有意義なお金の使い方をしたという評価が生まれるからである。
▽ しかし、もし、そのためにお金をどこかで盗んできたら、例えば、買い物帰りの主婦のバックの中の財布からお金を盗んだなら、その盗んだお金で「教材を買って」いたら、それは犯罪となる。お金を盗む行為は、仮により豊かな知識を学ぶために必要とする材料(教材)を買うためであろうと、許される行為ではないことは誰でも知っているのである。
▽ 自分の欲望を、仮にそれが高い夢や理想であっても、間違った手段、社会が認めない行為によって、それを実現しようとするなら、それらの行為は非難される。社会は、その行為の目的だけなく、その行為そのものを認めていないのである。自分の欲望を満たすことが悪なのではなく、そのために社会で許されていない行為を選択したことが悪として評価され、非難されるのである。
▽ すべての人は自分の欲望を満たすことが許されている。しかし、その場合には、欲望を満たすための行為が、社会の規則や社会の習慣に違反してはならない。もし、人々は自分の欲望(情欲)を満たすために、社会の規則に従わないなら、その社会は混乱し、日常的に犯罪や殺人が社会の中に蔓延(まんえん)するだろう。
▽ そして、結果的に、人々はそうした無秩序の混乱に巻き込まれ、犠牲になるのである。自分の欲望を満たすために許した行為が、自分の生命を奪い、生活を破壊する結果に繋がるのである。
「だが、両方(理性と情欲)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル 『パンセ』(412)
▽ 情欲を満たすには理性に即して行動しなければならない。欲望を満たすためには社会で認められた手順を踏まなければならない。例えば、お腹がすいた人は、空腹を満たすためには、お金を払って「サンドイッチ」を買わなければならない。もし、コンビ二エンスストアーで「サンドイッチ」を盗んだら、それは犯罪となる。
▽ 自分の理想や夢を実現するために、人々は社会が認めた手段、社会の決まりにそって、行動しなければならない。そうすることによって情欲と理性は共に共存することが出来た。だが、その共存は相互に闘いあいながらのことなる二つのベクトルをもった生命活動の共生である。
▽ その結果、欲望は人間社会を発展させてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、社会的分業が生まれ、専門的職業が発生し、社会制度は高度に発展し、巨大な生産力を社会は備え、科学技術は発展し、合理的な生産ラインを作り、人々は短い労働時間で多くの生産物を生み出すことが出来るようになった。人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。
▽ 社会は、人間達が作り出した人工物の素材によって、石器時代、土器時代、青銅時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。
▽ だが、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
3、「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。」パスカル『パンセ』(358)
▽ 理性と情欲の二つの人間性の二律背反運動(異なる二つの要素が互いに作用しあう運動)によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。
▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。
▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。
▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結した。
「天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル『パンセ』(358)
「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」パスカル『パンセ』(347)
▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。
▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。
▽ だが、同時に人類は人類を滅ぼす核兵器を開発した。偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
▽ 天使になろうとして禽獣になる人間の姿。理性と欲望(情欲)の二つの本性をもって存在していている人間。その一方を否定したとき、否定された他の一方から復讐される運命。それが人間の姿なのだ。
▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を殺害することを英雄と呼ぶ。殺戮(さつりつ)行為には、正当な理由と不当な理由が歴史の中では常に付けられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺と呼んできた。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。
▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。
▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。
▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮(さつりく)兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。
▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。
▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。
4、「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
▽ 理性と情欲の二つの本性からなる人間性、狂気として人間性の理解を前提にするとき、人は、どのようにしてそれを受入れ、それと向き合えばいいのだろうか。
▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。
▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。
「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園になる(実る)全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木(の実)だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ、呪われた存在となった。」(Wikipedia)
▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼んだ。
▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。
▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。
▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。
▽ このパスカルの原罪に関する解釈は極めて興味深い。それは、人が宿命的にその人の狂気や原罪を自覚しつづけるには、つねに休むことなく、思考し続けなけなければならないという結論を導くのである。
▽ 休むことなく思考し続けて人はその悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命から救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。
「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)
▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。
▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。
▽ 何故なら、人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成しているからである。
▽ 人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
1、もっとも単純な人間観、性善説と性悪説
▽ 孟子は人の性(人間の性格)は、本来、善きものである。全ての人は生まれながらにして善き性格を平等に与えられている。しかし、その善き人の性は社会の環境によって汚され、不善(よくないもの)になると主張した。この考え方を性善説と呼んだ。
▽ この性善説を荀子は批判し、それと逆の説である性悪説を主張した。つまり、人の性を悪と考え、その本来悪としてある人間の性格を人々は努力し善へと変えていく。その努力が学習であり反省である。社会は、人々が正しく生きること、善行を行うために制度を作っているのである。
▽ 性善説と性悪説という二つの極端な人間性に関する評価を基にして、それらの説から導かれる社会倫理の姿を想像してみた。二つの説から考えられる「学級崩壊のクラス」と「生産地偽造問題を起こした会社での社員の対応」の二つの具体的な課題を考えた。
▽ 例えば、演習1で取り組んだ「学級崩壊」のクラスと騒いでいる生徒への対応であるが、性悪説に従うなら、学級崩壊を起こしているクラスの生徒たちに対しては、騒いでいる生徒を隔離(クラスに入れない)し、懲罰を与え、授業時間に騒ぐことが「悪」であることを教える方法を取ることになる。その逆に性善説に従うなら、騒いでいる生徒を説得する。それでも騒ぎが収まらないなら、騒いでいる生徒を隔離して別のクラスで授業を受けさせる。つまり、性悪説のように懲罰のために隔離するのでなく、その生徒の本来備わっている善き性格を導くために、外部と遮断する方法を選んだ。
▽ 例えば、演習2で取り組んだ「生産地表示偽造問題を起こしている会社」で働く社員の取るべき姿勢を課題にした。社員は自分の雇用が危機に晒(さら)されても、会社幹部の不正を社内で問題にするべきであるという考え方である。この姿勢は、会社で働く以上、そこで生産される商品への責任の一角を一人の社員として持っている。その責任を果たすことが社会的倫理であるという考え方に支えられている。もし、会社がその不正を隠蔽し、また会社内部の批判、点検活動の呼びかけを抹殺する場合、極端な場合、批判した社員を解雇した場合、社員は会社の不正を内部告白する必要があると考えるだろう。
▽ つまり、この演習2の場合には、会社の不正を批判する社員が、性悪説を信じているなら、会社幹部への社会的懲罰を求めることになる。もし、性善説を信じるなら、会社幹部と話をし、彼らが本来持っている人間性の善の姿を引き出し、会社の不正を反省させる行為に出るかもしれない。
▽ 以上、前回2回に亘って、問題を起こしている人々への対応に関する考え方を検討してみた。
2、「両方(理性と情念)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」パスカル 『パンセ』(412)
▽ 実際の社会問題や人間的問題は、性善説や性悪説の二つの立場から解決できるだろうか。性善説や性悪説は、極端な二つの見解であり、人の性は本来悪でもなければ善でもない。人の悪の起源を欲望とするなら、欲望を持たない人間はいない。そして逆に人の善が理性であるなら、理性だけで生きている人もいない。つまり、人間は理性と欲望を同時にもった存在である。
「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル「パンセ」(412)
「もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)
▽ もし、人が何か(立派な人、お金持ちの人,偉い人や強い人)を夢みてそれに成りたいと思わなければ、人は努力をすることはないだろう。人が努力をするのは、欲望があるからだ。
▽ しかし、欲望を悪とする考え方は、人間本来の姿を無視した、「生きることを欲することなく生きる」「愛することを求めることなく結婚し、家族をつくり、子育てをし、家族や友達と過ごす」という不可能な要求を突きつけることになるだろ。
▽ つまり、「欲望を捨てて生きる」という不可能な目標は、すべての場合、失敗すると思われる行動を要求することになる。極端な禁欲主義は、自然な人間の行為を無視し、拒絶し、批判することになる。
▽ もし、人間の欲望を抑えることに成功した社会があったとすれば、その社会では、人々は働く力も、家族をもつ努力も、立派な家を建てる気持ちも、レストランで美味しい食事をする気持ちも、美術館で美しい絵や彫刻を鑑賞する気持ちも、そして学校で勉強する気持ちも失うだろう。
▽ もし、欲望(情欲)を完全に捨て去ることができれば、人を愛することも、逆に人から愛されたいと思うこともないだろう。家族をつくり、子供を育て、家庭を守り、友人や近所の人々と楽しく過ごす喜びを求めることもないだろう。
「もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)
▽ しかし、もし人が自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するために手段を選ばない行為をしたら、社会に大混乱が生まれるだろう。
▽ 例えば、大学の講義で使うための教材を購入するのにお金が欲しいと思う。教材を手に入れる行為は大学で学ぶために必要な行為であり、社会はその行為を評価している。同じ千円でも、アダルトヴィデオを買うより、「大学の授業で使う教材を買う」ことを社会は評価する。何故なら、「教材を買う」ことで、有意義なお金の使い方をしたという評価が生まれるからである。
▽ しかし、もし、そのためにお金をどこかで盗んできたら、例えば、買い物帰りの主婦のバックの中の財布からお金を盗んだなら、その盗んだお金で「教材を買って」いたら、それは犯罪となる。お金を盗む行為は、仮により豊かな知識を学ぶために必要とする材料(教材)を買うためであろうと、許される行為ではないことは誰でも知っているのである。
▽ 自分の欲望を、仮にそれが高い夢や理想であっても、間違った手段、社会が認めない行為によって、それを実現しようとするなら、それらの行為は非難される。社会は、その行為の目的だけなく、その行為そのものを認めていないのである。自分の欲望を満たすことが悪なのではなく、そのために社会で許されていない行為を選択したことが悪として評価され、非難されるのである。
▽ すべての人は自分の欲望を満たすことが許されている。しかし、その場合には、欲望を満たすための行為が、社会の規則や社会の習慣に違反してはならない。もし、人々は自分の欲望(情欲)を満たすために、社会の規則に従わないなら、その社会は混乱し、日常的に犯罪や殺人が社会の中に蔓延(まんえん)するだろう。
▽ そして、結果的に、人々はそうした無秩序の混乱に巻き込まれ、犠牲になるのである。自分の欲望を満たすために許した行為が、自分の生命を奪い、生活を破壊する結果に繋がるのである。
「だが、両方(理性と情欲)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル 『パンセ』(412)
▽ 情欲を満たすには理性に即して行動しなければならない。欲望を満たすためには社会で認められた手順を踏まなければならない。例えば、お腹がすいた人は、空腹を満たすためには、お金を払って「サンドイッチ」を買わなければならない。もし、コンビ二エンスストアーで「サンドイッチ」を盗んだら、それは犯罪となる。
▽ 自分の理想や夢を実現するために、人々は社会が認めた手段、社会の決まりにそって、行動しなければならない。そうすることによって情欲と理性は共に共存することが出来た。だが、その共存は相互に闘いあいながらのことなる二つのベクトルをもった生命活動の共生である。
▽ その結果、欲望は人間社会を発展させてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、社会的分業が生まれ、専門的職業が発生し、社会制度は高度に発展し、巨大な生産力を社会は備え、科学技術は発展し、合理的な生産ラインを作り、人々は短い労働時間で多くの生産物を生み出すことが出来るようになった。人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。
▽ 社会は、人間達が作り出した人工物の素材によって、石器時代、土器時代、青銅時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。
▽ だが、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
3、「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。」パスカル『パンセ』(358)
▽ 理性と情欲の二つの人間性の二律背反運動(異なる二つの要素が互いに作用しあう運動)によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。
▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。
▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。
▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結した。
「天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル『パンセ』(358)
「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」パスカル『パンセ』(347)
▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。
▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。
▽ だが、同時に人類は人類を滅ぼす核兵器を開発した。偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
▽ 天使になろうとして禽獣になる人間の姿。理性と欲望(情欲)の二つの本性をもって存在していている人間。その一方を否定したとき、否定された他の一方から復讐される運命。それが人間の姿なのだ。
▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を殺害することを英雄と呼ぶ。殺戮(さつりつ)行為には、正当な理由と不当な理由が歴史の中では常に付けられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺と呼んできた。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。
▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。
▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。
▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮(さつりく)兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。
▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。
▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。
4、「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
▽ 理性と情欲の二つの本性からなる人間性、狂気として人間性の理解を前提にするとき、人は、どのようにしてそれを受入れ、それと向き合えばいいのだろうか。
▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。
▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。
「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園になる(実る)全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木(の実)だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ、呪われた存在となった。」(Wikipedia)
▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼んだ。
▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。
▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。
▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。
▽ このパスカルの原罪に関する解釈は極めて興味深い。それは、人が宿命的にその人の狂気や原罪を自覚しつづけるには、つねに休むことなく、思考し続けなけなければならないという結論を導くのである。
▽ 休むことなく思考し続けて人はその悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命から救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。
「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)
▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。
▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。
▽ 何故なら、人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成しているからである。
▽ 人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
2010年4月15日木曜日
人間と倫理1 「性善説と性悪説から推察できるモラルのあり方」
三石博行
3、性善説と性悪説から推察できるモラルのあり方を考える
性善説
▽ 性善説からすれば、人は本来、善き存在で、悪(悪い癖)は社会生活の中で受け入れてきたものである。そのため、社会の悪癖(悪い行い)に染まらないように努力する必要がある。もし、悪い友人や集団と交わることで、悪癖を受入、悪に染まってしまったら、その悪友や集団から離れ、自分の良心を取り戻す生活をすればよい。そのことによって、倫理的な生き方を取り戻し、維持することが出来る。
▽ 我々の社会は欲望によって動いている。悪が社会の中で生み出される必然性がそこにある。その社会の中で、自分を善き存在(人)であるように努めるには、出来るだけ悪い集団や習慣に近づかないように努めなければならない。しかし、もし悪い習慣を身につけたなら、その悪い社会環境から離れ、自分ひとりになって、自分に向き合い、自分と会話することで、人本来の姿を取り戻すことが出来る。人は本来善き存在である以上、自分と確り向き合えば、倫理的生き方が維持されるのである。
▽ つまり、人は社会的な影響を受けることで、悪を受け入れてしまう。そのため、そうした社会から出来るだけ離れ、自然の中に身を置き、社会の影響を受けないことで、倫理性は自ずと生まれることになる。
▽ 人間の内面にあるモラルの力を信じ、その内面的な力を引き出すために、出来るだけ一人になり、確りと自分に向き合う時間を持つこと、そうすることで人間は誰でも間違いを見つけ出し、正しい道に戻ることが出来る。
性悪説
▽ 性悪説からすれば、人は本来利己的存在であるため、悪は人間が生まれつきもっている、人間本来の姿であるという考え方である。
▽ 性悪説は人間が本来悪い存在であると述べているのではない。人は、本来、生きるために悪と評価される行為をしなければならないように出来ていると述べているのである。例えば、もし、自分の欲望を満たそうとする力がなければ、人は生きてゆけないだろう。そして、何がなんでも自分の生命や生活を守ることが出来なければ、死んでしまうかもしれないし、大切な人を見殺しにしてしまうかもしれない。
▽ 生きるために行う行為、それは悪と言われようと、善と言われようと、食べるために、命をつなぐために、選ぶ行為がある。
▽ 終戦直後、日本では闇市が禁止されていた。闇市で食料を買わないと生きていけなかった。親は子供に食べさせるために闇市で食料を買いあさった。それは社会的に悪とされている行為である。ある人が、その社会の決まりを守ること、社会が認めない行動をしないことを良心に誓い、闇市で食料を買いあさることをしなかった。その人は餓死したとの事である。
▽ しかし、闇市で商売する人々の弱みにつけこんで、人々から「寺銭」(闇市をするためのお金)を集める人々が生まれる。生きるために闇市をする人々は、社会が認めていない商売をするので、不当なお金を取られることを警察に相談することは出来ない。そこで寺銭を集める人々は、闇市の商売人たちを脅し、半ば強制的にお金を取り上げることができる。
▽ このようにしてヤクザやマフィアは収益を得て、大きく組織を拡大することが出来た。社会の悪は、人が生きるために行う行為によって、さらに拡大し続ける。
▽ 生活物資が不足し、食料が無いときに、人は誰でも自分が生きるために、家族を守るために、それが社会で禁止されていても、それが悪いことだと知っていても、闇市で商売し、闇市で食料を買うのである。貧しい限り、生きるための生活物資が不足している限り、警察が闇市を徹底的に取り締まったにしろ、社会から闇市をなくすることは出来ないのである。
▽ アメリカの禁酒令とマフィアの関係はもう一つの典型的な例である。
▽ 人々が個人の欲望を満たすために争い、殺しあうなら、社会は混乱することになる。食料が欲しければ、スーパーで盗む。カラオケで遊びたかったら、人の金を巻き上げる。こうした行動が日常化している社会がある。この社会では人の命が簡単に奪われる。欲望を満たすために、何をしてもいいわけではない。
▽ そこで、社会の秩序を保つために、社会の平和を維持するために、人々の生活を破壊されないために、人々は決まり(法律)を作った。その決まりを守らすために、警察をつくり、刑務所をつくった。決まりを守らない人は、自分達の社会から排除する制度を作ったのである。
▽ 社会の秩序が維持されるには、個人の欲望を抑制する社会的機能が必要となる。個人の道徳や倫理的規範を支える社会的な制度、法律、警察、裁判所、刑務所、場合によっては死刑台が必要となる。
▽ つまり、「人のものを盗んではいけない」という道徳規範があり、それが有効に働いていなければならない。人のものを盗む行為を取り締まり、裁き、刑罰を与える制度があり、その制度が機能していなければならない。悪を取り締まる厳しい制度や罰則があって、はじめて犯罪の発生を抑えることが出来る。
▽ 人々は、その罰則を受けないために、ひとのものを盗む行為等の犯罪を行わないように、自分の中で自然に生まれる欲望、例えば「人が持っているいいものが欲しい」という欲望を押さえ込むことが出来る。つまり、人がもっているものが欲しいのだけど、それを勝手に取り上げたり、盗んだりしたら、自分はもっと損をすることになると知っている。欲しいものを直接手に入れることの利益から、それをやった後に受ける懲罰の不利益を引くなら、結果的に損をすることを知っているために、人はものを盗まないのである。
▽ 人間が本来利己的であり、自分の欲望を満たそうとする限り、倫理や道徳で述べられたことが自然にできる分けではない。むしろ、個人のモラルを維持し、社会的倫理規範を維持するためには、法的な強制力をもった抑止力が必要である。
▽ 言い換えると、個人のモラルを助けるために、社会は個人が自分の欲望を抑えるために必要な社会的強制力を他方で用意しなければならない。それが人を罰するために刑法があるというのでなく、人が自分の欲望で自滅しないように、犯罪行為を起こさないように、その抑止力として、刑法や刑罰があると考えることも出来る。
▽ 人のモラルや理性はあまりにも弱い。利己的な人間本来の性格や少しでも良く見せたい、楽をしたい、いいものを手に入れたいという欲望によって、理性やモラルは、簡単に、いつでも破棄されてしまう。ついつい、いつのまにか間違いを犯す。それが人の姿である。その間違いが致命的なことにならなければ何とか生きていける。そして、致命的なことにないように、社会に助けてもらわなくてはならない。それが警察であり、刑務所である。
▽ 懲罰を行う社会制度は、人の引き起こす重大な間違いを事前に抑制するために、もしそれが生じたなら厳しく取り締まるために、性悪説を前提にして設定されているのである。
3、性善説と性悪説から推察できるモラルのあり方を考える
性善説
▽ 性善説からすれば、人は本来、善き存在で、悪(悪い癖)は社会生活の中で受け入れてきたものである。そのため、社会の悪癖(悪い行い)に染まらないように努力する必要がある。もし、悪い友人や集団と交わることで、悪癖を受入、悪に染まってしまったら、その悪友や集団から離れ、自分の良心を取り戻す生活をすればよい。そのことによって、倫理的な生き方を取り戻し、維持することが出来る。
▽ 我々の社会は欲望によって動いている。悪が社会の中で生み出される必然性がそこにある。その社会の中で、自分を善き存在(人)であるように努めるには、出来るだけ悪い集団や習慣に近づかないように努めなければならない。しかし、もし悪い習慣を身につけたなら、その悪い社会環境から離れ、自分ひとりになって、自分に向き合い、自分と会話することで、人本来の姿を取り戻すことが出来る。人は本来善き存在である以上、自分と確り向き合えば、倫理的生き方が維持されるのである。
▽ つまり、人は社会的な影響を受けることで、悪を受け入れてしまう。そのため、そうした社会から出来るだけ離れ、自然の中に身を置き、社会の影響を受けないことで、倫理性は自ずと生まれることになる。
▽ 人間の内面にあるモラルの力を信じ、その内面的な力を引き出すために、出来るだけ一人になり、確りと自分に向き合う時間を持つこと、そうすることで人間は誰でも間違いを見つけ出し、正しい道に戻ることが出来る。
性悪説
▽ 性悪説からすれば、人は本来利己的存在であるため、悪は人間が生まれつきもっている、人間本来の姿であるという考え方である。
▽ 性悪説は人間が本来悪い存在であると述べているのではない。人は、本来、生きるために悪と評価される行為をしなければならないように出来ていると述べているのである。例えば、もし、自分の欲望を満たそうとする力がなければ、人は生きてゆけないだろう。そして、何がなんでも自分の生命や生活を守ることが出来なければ、死んでしまうかもしれないし、大切な人を見殺しにしてしまうかもしれない。
▽ 生きるために行う行為、それは悪と言われようと、善と言われようと、食べるために、命をつなぐために、選ぶ行為がある。
▽ 終戦直後、日本では闇市が禁止されていた。闇市で食料を買わないと生きていけなかった。親は子供に食べさせるために闇市で食料を買いあさった。それは社会的に悪とされている行為である。ある人が、その社会の決まりを守ること、社会が認めない行動をしないことを良心に誓い、闇市で食料を買いあさることをしなかった。その人は餓死したとの事である。
▽ しかし、闇市で商売する人々の弱みにつけこんで、人々から「寺銭」(闇市をするためのお金)を集める人々が生まれる。生きるために闇市をする人々は、社会が認めていない商売をするので、不当なお金を取られることを警察に相談することは出来ない。そこで寺銭を集める人々は、闇市の商売人たちを脅し、半ば強制的にお金を取り上げることができる。
▽ このようにしてヤクザやマフィアは収益を得て、大きく組織を拡大することが出来た。社会の悪は、人が生きるために行う行為によって、さらに拡大し続ける。
▽ 生活物資が不足し、食料が無いときに、人は誰でも自分が生きるために、家族を守るために、それが社会で禁止されていても、それが悪いことだと知っていても、闇市で商売し、闇市で食料を買うのである。貧しい限り、生きるための生活物資が不足している限り、警察が闇市を徹底的に取り締まったにしろ、社会から闇市をなくすることは出来ないのである。
▽ アメリカの禁酒令とマフィアの関係はもう一つの典型的な例である。
▽ 人々が個人の欲望を満たすために争い、殺しあうなら、社会は混乱することになる。食料が欲しければ、スーパーで盗む。カラオケで遊びたかったら、人の金を巻き上げる。こうした行動が日常化している社会がある。この社会では人の命が簡単に奪われる。欲望を満たすために、何をしてもいいわけではない。
▽ そこで、社会の秩序を保つために、社会の平和を維持するために、人々の生活を破壊されないために、人々は決まり(法律)を作った。その決まりを守らすために、警察をつくり、刑務所をつくった。決まりを守らない人は、自分達の社会から排除する制度を作ったのである。
▽ 社会の秩序が維持されるには、個人の欲望を抑制する社会的機能が必要となる。個人の道徳や倫理的規範を支える社会的な制度、法律、警察、裁判所、刑務所、場合によっては死刑台が必要となる。
▽ つまり、「人のものを盗んではいけない」という道徳規範があり、それが有効に働いていなければならない。人のものを盗む行為を取り締まり、裁き、刑罰を与える制度があり、その制度が機能していなければならない。悪を取り締まる厳しい制度や罰則があって、はじめて犯罪の発生を抑えることが出来る。
▽ 人々は、その罰則を受けないために、ひとのものを盗む行為等の犯罪を行わないように、自分の中で自然に生まれる欲望、例えば「人が持っているいいものが欲しい」という欲望を押さえ込むことが出来る。つまり、人がもっているものが欲しいのだけど、それを勝手に取り上げたり、盗んだりしたら、自分はもっと損をすることになると知っている。欲しいものを直接手に入れることの利益から、それをやった後に受ける懲罰の不利益を引くなら、結果的に損をすることを知っているために、人はものを盗まないのである。
▽ 人間が本来利己的であり、自分の欲望を満たそうとする限り、倫理や道徳で述べられたことが自然にできる分けではない。むしろ、個人のモラルを維持し、社会的倫理規範を維持するためには、法的な強制力をもった抑止力が必要である。
▽ 言い換えると、個人のモラルを助けるために、社会は個人が自分の欲望を抑えるために必要な社会的強制力を他方で用意しなければならない。それが人を罰するために刑法があるというのでなく、人が自分の欲望で自滅しないように、犯罪行為を起こさないように、その抑止力として、刑法や刑罰があると考えることも出来る。
▽ 人のモラルや理性はあまりにも弱い。利己的な人間本来の性格や少しでも良く見せたい、楽をしたい、いいものを手に入れたいという欲望によって、理性やモラルは、簡単に、いつでも破棄されてしまう。ついつい、いつのまにか間違いを犯す。それが人の姿である。その間違いが致命的なことにならなければ何とか生きていける。そして、致命的なことにないように、社会に助けてもらわなくてはならない。それが警察であり、刑務所である。
▽ 懲罰を行う社会制度は、人の引き起こす重大な間違いを事前に抑制するために、もしそれが生じたなら厳しく取り締まるために、性悪説を前提にして設定されているのである。
人間と倫理1 「性善説と性悪説」
2、性善説と性悪説
▽ 古代中国の二人の賢人、孟子(もうし)と荀子(じゅんし)は孔子の弟子であったが、人間に関する考え方は真っ向から異なった。孟子は、人間は生まれながらにして善であるという思想であるである性善説を唱え、一方、荀子は孟子の性善説を批判した。
▽ 孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。」 「ウィキペディア(Wikipedia)」
▽ 一方、荀子は性悪説の立場から、孟子の性善説を批判した。「人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべき」だと荀子は主張した。ウィキペディア(Wikipedia)
▽ つまり、荀子は、人間の「性」(本性)は「限度のない欲望」だという前提から、「悪」を「乱」とした。何故なら人々は各自、自分の個人的な欲望を無限に満すために、最終的には奪い合い・殺し合いの騒乱を引き起し、社会は「乱」(=「悪」)に陥ることになる。
▽ 荀子は、そのような欲望を無限に満たそうとするのでなく、それを抑え騒乱を引き起こす行為を治めることを「善」と考えた。つまり、各人の欲望を外的な規範(=「礼」)で規制することによってのみ「治」(=「善」)が実現されるとして、礼を学ぶことの重要性を説いた。
▽ 荀子は、まず人間の性を悪と認めることで、本来人に具わっている悪を自覚し、それを戒める努力が必要であると考えた。従って、人は後天的努力、例えば学問修行、スポーツやボランティア等などによって悪(人の迷惑を顧みず自分のためにだけ行動しても満たしたい自分の欲望)を抑制することが出来る。そして、自分の行動や生活スタイルを他者との共存と対立しない考え方や生き方を工夫し、社会規範を守る行動を心がけ、人々のために働く努力をすることで、人は善へと向かことが出来ると荀子は考えたのである。
参考文献
1、 松尾善弘「性善説と性悪説」鹿児島大学教育学部研究紀要.人文・社会科学編 第47巻(1996) pp11-26
▽ 古代中国の二人の賢人、孟子(もうし)と荀子(じゅんし)は孔子の弟子であったが、人間に関する考え方は真っ向から異なった。孟子は、人間は生まれながらにして善であるという思想であるである性善説を唱え、一方、荀子は孟子の性善説を批判した。
▽ 孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。」 「ウィキペディア(Wikipedia)」
▽ 一方、荀子は性悪説の立場から、孟子の性善説を批判した。「人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべき」だと荀子は主張した。ウィキペディア(Wikipedia)
▽ つまり、荀子は、人間の「性」(本性)は「限度のない欲望」だという前提から、「悪」を「乱」とした。何故なら人々は各自、自分の個人的な欲望を無限に満すために、最終的には奪い合い・殺し合いの騒乱を引き起し、社会は「乱」(=「悪」)に陥ることになる。
▽ 荀子は、そのような欲望を無限に満たそうとするのでなく、それを抑え騒乱を引き起こす行為を治めることを「善」と考えた。つまり、各人の欲望を外的な規範(=「礼」)で規制することによってのみ「治」(=「善」)が実現されるとして、礼を学ぶことの重要性を説いた。
▽ 荀子は、まず人間の性を悪と認めることで、本来人に具わっている悪を自覚し、それを戒める努力が必要であると考えた。従って、人は後天的努力、例えば学問修行、スポーツやボランティア等などによって悪(人の迷惑を顧みず自分のためにだけ行動しても満たしたい自分の欲望)を抑制することが出来る。そして、自分の行動や生活スタイルを他者との共存と対立しない考え方や生き方を工夫し、社会規範を守る行動を心がけ、人々のために働く努力をすることで、人は善へと向かことが出来ると荀子は考えたのである。
参考文献
1、 松尾善弘「性善説と性悪説」鹿児島大学教育学部研究紀要.人文・社会科学編 第47巻(1996) pp11-26
人間と倫理1 「倫理、道徳と規範の意味」
1、 倫理、道徳、規範の意味
▽ 広辞苑によると倫理は「人倫(じんりん)のみち、実際道徳の規範となる原理、道徳」と書いてある。人倫とは孟子のことばで、人と人との秩序関係、例えば親子、夫婦、上司と部下などの社会で成立している人間関係の秩序を意味する。それが転じて、人として守るべき道や行為と解釈されている。その他にも、人倫は人間や人類という意味にも使われている。
▽ この広辞苑の説明では、倫理と道徳や規範ということばが重なりあう。
▽ 例えば、道徳とは「人のふみ行うべき道」、社会の構成員がその社会にたいする行為の、あるいは構成員相互間の行為の、「善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」、しかし「法律のような外面的強制力を伴うのでなく」、あくまでも「個人の内面的な原理」を意味すると広辞苑では説明されている。
▽ また、規範については、(人の道や社会に)「のっとるべき規則、判断・評価または行為などの拠るべき基準」と広辞苑では説明されている。
▽ 倫理、道徳と規範の意味をまとめると、人の道としての倫理と道徳は非常に近い。つまり、倫理は人と人との秩序関係である人倫のみちと説明されている。そして、道徳は社会的に成立している善悪の判断に関する内面的な原理や基準と説明されている。その意味で、倫理も道徳も同義語(同じ意味のことば)である。
▽ 規範は、判断評価や行為の基準であるから、道徳的規範や倫理的規範という概念が使われている。道徳や倫理的規範は、成文化されていない、つまり法律の条文に記されていないが、社会の構成員全員が守るべき行動の指針を意味する。従って、道徳的規範や倫理的規範は法的規範とは異なる。あくまでも主体の内面的なこころの課題としての規範であり、社会的に強制された義務を負っていない。私達が、仮に道徳的規範や倫理的規範を守らないとしても、だからと言って、社会から法律によって(司法的の手続きをもって)罰されることはない。ただ、社会から批判され、人々から嫌われるかもしれない。
▽ 倫理や道徳の用語のかすかな違いを述べると、まず文献によって、倫理と道徳の微妙な解釈が異なる。ある文献では、倫理は個人としての人の道であり、個人の内面的な課題を重視している。それに比べて道徳は時代性や社会文化性によって多様な形態があり、その意味で、社会的に関連した行為者の個人的義務を意味すると述べている。別の文献では、上記した逆が述べられている。
▽ ここでは、倫理も道徳も、社会的な規範ではなく、つまり法的な強制力をもって個人への義務ではなく、個人が内的に(こころの問題として)自分の行う行為や生活スタイルについて、それらが「人のふみ行うべき道」や「人倫の道」であるのか、そうではないのかを自分の問題として捉える(考える)行為であると理解できる。
▽ 広辞苑によると倫理は「人倫(じんりん)のみち、実際道徳の規範となる原理、道徳」と書いてある。人倫とは孟子のことばで、人と人との秩序関係、例えば親子、夫婦、上司と部下などの社会で成立している人間関係の秩序を意味する。それが転じて、人として守るべき道や行為と解釈されている。その他にも、人倫は人間や人類という意味にも使われている。
▽ この広辞苑の説明では、倫理と道徳や規範ということばが重なりあう。
▽ 例えば、道徳とは「人のふみ行うべき道」、社会の構成員がその社会にたいする行為の、あるいは構成員相互間の行為の、「善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」、しかし「法律のような外面的強制力を伴うのでなく」、あくまでも「個人の内面的な原理」を意味すると広辞苑では説明されている。
▽ また、規範については、(人の道や社会に)「のっとるべき規則、判断・評価または行為などの拠るべき基準」と広辞苑では説明されている。
▽ 倫理、道徳と規範の意味をまとめると、人の道としての倫理と道徳は非常に近い。つまり、倫理は人と人との秩序関係である人倫のみちと説明されている。そして、道徳は社会的に成立している善悪の判断に関する内面的な原理や基準と説明されている。その意味で、倫理も道徳も同義語(同じ意味のことば)である。
▽ 規範は、判断評価や行為の基準であるから、道徳的規範や倫理的規範という概念が使われている。道徳や倫理的規範は、成文化されていない、つまり法律の条文に記されていないが、社会の構成員全員が守るべき行動の指針を意味する。従って、道徳的規範や倫理的規範は法的規範とは異なる。あくまでも主体の内面的なこころの課題としての規範であり、社会的に強制された義務を負っていない。私達が、仮に道徳的規範や倫理的規範を守らないとしても、だからと言って、社会から法律によって(司法的の手続きをもって)罰されることはない。ただ、社会から批判され、人々から嫌われるかもしれない。
▽ 倫理や道徳の用語のかすかな違いを述べると、まず文献によって、倫理と道徳の微妙な解釈が異なる。ある文献では、倫理は個人としての人の道であり、個人の内面的な課題を重視している。それに比べて道徳は時代性や社会文化性によって多様な形態があり、その意味で、社会的に関連した行為者の個人的義務を意味すると述べている。別の文献では、上記した逆が述べられている。
▽ ここでは、倫理も道徳も、社会的な規範ではなく、つまり法的な強制力をもって個人への義務ではなく、個人が内的に(こころの問題として)自分の行う行為や生活スタイルについて、それらが「人のふみ行うべき道」や「人倫の道」であるのか、そうではないのかを自分の問題として捉える(考える)行為であると理解できる。
2008年1月28日月曜日
前向きな悲観論
前向きに悲観すること
-自分の弱点と共存する生き方-
三石博行
失敗と決意の終わりなき連鎖・一秒の人生
▽ 今、私の職場は試験期間である。私自身、自分の学生時代の試験の内容に関する記憶は殆どない。何が出たのか、さっぱり思い出さない。思い出すことは、一日多くて3、4科目の試験の準備で、徹夜をしたことなどである。そして、一夜漬けで試験に臨みながら「次回は、こんな一夜漬けの試験勉強は止めよう」と決意したことである。
▽ しかし、その決意も、次の学期が始まると完全に忘れ去り、試験期間には、また前と同じように一夜漬けを繰り返しことになる。しかも、まったく前回と同じように「次回は、こんな一夜漬けの試験勉強は止めよう」と決意するのである。その決意の不履行と再決意を繰り返しながら学生時代は終わった。
▽ 学校を卒業して、仕事をしながら、まだ同じことを繰り返している。仕事の期限ぎりぎりまで、なかなか仕事が終わらない。予め立てた計画も、一日分の仕事完成率の点検も、まだ時間があると思えがすぐに甘くなる。
▽ 期限を切られなければ仕事が終わらない。期限ぎりぎりになって、「こんなことをしていてはいけない。もっと計画的に仕事をこなす必要がある」と決意するのであるが、この決意も次の仕事を始めた時には忘れさられ、次も同じように期限ぎりぎりになってやり始める。そしてまったく以前と同じように、「こんなことをしていてはいけない。もっと計画的に仕事をこなす必要がある」と再決意するのである。そして、そうこうしている内に、年を取って、仕事も出来なくなり、あの世からお迎えがくるかもしれない。
▽ これまで、常に「毎日、確りと計画を持って生きる」ということを考えたし、その為に、中学や高校時代には、日記や生活記録を書いた。大学時代でも生活時間を記録する日記や手帳を書いた。社会に出てからはシステムノートを書いてきた。しっかりと予測される近未来の情況を分析し、現在の生活時間の配分を計算し、こつこつと仕事をこなす態度を身につけようと、長年、努力してきたのであるが、しかし、結果は、こうした几帳面で計画性をもった生活設計が出来るようにはならなかった。
▽ 多分、こうして同じ課題を持ち続けながら時間が過ぎ、いつの間にか人生を50年過ごし、60年過ごし、そして若い人々から見ればと自分を高齢者として位置づけなければならない年齢に達するのであるが、それでも、同じ失敗と同じ問題を抱え、同じ決意と同じ努力を繰り返す生活を続ける。
大人的と子供的な観方、生き方・二つの異文化現象
▽ 子供のころは、大人が偉く見えた。また、子供のころは、大人は分かって生きていると思っていた。そして、子供のころは、大人になるときっと解決できると信じていた。
▽ しかし、大人になると、子供と自分との距離がそうないことに気付く。また、大人になると、子供のころから抱え込んだ問題が解決していないことに気付く。そして、大人になると、子供から今までの時間が余りにも短いと感じる。
▽ 子供は大人を経験してないので大人を知らない。大人は子供を経験しているので子供を知っている。それが大人と子供の違いはである。つまり、子供より大人が長く生きた分だけ多くのことを経験してきた。そして、経験の少ない分、子供は大人より自分の可能性を信じている。他者の死との出会いを多く経験してきた分、大人は未来という時間が無いことを理解している。それが少ないだけに、子供はまだまだ未来があると信じている。
▽ 言換すれば、子供が自分の可能性を信じているのは、まだ人生の時間があるという根拠のみである。しかし大人が諦め(あきらめ)を抱くのは、人生の時間がもうないという根拠なのみである。その両者の根拠を説明できるものは何もない。主観と統計的な推測、つまりそう思ったということと平均的にそうなっているという説明以外になにもない。
▽ 未来を信じられる子供たちは、無謀であり、大胆であり、鈍感であり、そして前向きである。そして、子供たちは、幻想にとりつかれ、無我夢の中に、冒険とロマンを追い求める。つまり、子供たちは、真理や愛を語るドラマの中で、自らの利益や命を顧みず、主役を演技し続ける。彼らは生命の塊で、命の凄さを放し続ける。
▽ だが、大人たちは、現実的で、臆病で、後ろ向きである。何故なら、彼らは世界の中で己の小ささを知り、己の能力に幻滅し、己の力に絶望しながらも、それでも生きなければならないことを知っているからである。 彼らの言い分は自己弁護的で、後ろ向きで、遠慮ばかりしている。彼らは、つまらない映画の脇役である。
▽ 未来への悲観は大人への入り口で与えられ、人生への悲観は大人へ成長の証である。そして、自分への悲観は大人としての優しさや繊細な人の香りを与えるのだろう。
▽ しかし、子供は将来と呼ばれる不在の根拠へ向かう無謀な楽観性を持っている。幻想と呼ばれる未来へ立ち向かう勇気を持っている。無知ゆえに強靭な楽観的感性と未経験ゆえ描く未来への幻想に向かって進む生命力を持っている。
▽ 繊細で「後ろ向きの大人」と鈍感で「前向きな子供」の二つの文化。私はその二つのどれを自分の生きる方法として選び、どれを他人の行き方として評価するだろうか。
怠け癖を治すことは出来ないが、しかし、追い詰めることはできる
▽ 私の試験を落とした学生がやって来た。暗い顔をして、失敗した色々な理由を私に話した。彼と私との隔たりは、社会的には、「採点した私」と「採点され彼」の違いによって生み出されている。私は教師という社会的役割を果し、学生である彼を不可にした。教師と学生いう立場を成立させている学校において存在している関係に過ぎない。
▽ つまり、私という個人は、試験勉強を一夜漬けで行うという点では、その学生と同じ人間であることは間違いない。
▽ 試験勉強は一夜漬けであった若いころから、私は怠け者だった。その怠けものは大人になっても治らなかった。そのため、学位(博士)論文を終えるのも長い年数が掛かった。単著の本すら出版してない。書きかけの論文原稿の山に囲まれている。
▽ 書けないのは怠け者であるだけでなく、勇気がないからであった。つまり、書いて出す自信がなかった。色々書きながら、不十分な文書を世の中に出すことは、自分の名誉を傷つけることであると思った。発表することで恥ずかしい思いをすることに耐える勇気がなかった。
▽ 未完成の論文原稿が記憶媒体の中にどんどん溜まる。文書は、書いてもまた書いても、みんなしまい込まれ、誰の点検からも批判からも隔離され、記憶媒体という閉鎖空間の中に、誰も侵入できない安全地帯の中にしまい込まれていた。しかし、それらの文章は、その安全地帯の中では世界的な論文であるかのように大切に扱われていた。
▽ ある日、不十分な状態であったが発表することを先に決めてしまったことがあった。研究発表までに終わらなければならない。不十分である箇所を出来るだけ少なくするために他の論文や本を読む。そして、不十分なまま発表した。結果は明らかであった。つまり、恥ずかしい思いしか残らなかった。
▽ 記憶媒体の安全地帯の中で、あたかもいい論文であると自負していた私は惨めな自己の現実を知らされ、その未熟な身体を晒(さら)された恥ずかしさと悔しさに打ちのめされていた。
▽ それでも、また、不十分なまま発表することを先に決めて、研究発表するために研究した。研究成果があったから研究発表するのではなく、研究発表を決めたから、研究する作業が続いた。「僕は怠けものなのだよ」という理由によって選択した行動であった。
▽ 今でも、この怠けものは治らない。小学校の時に夏休みの宿題を一夜漬けでやったあの日から続いているこの怠け者を治すことは出来ない。それで、この怠け者を追い詰めることにした。それ以外に、今のところ私が気付いた方法はないようだ。
▽ その追い詰め方として、実に大胆で無責任な手段を取った。まだ、論文は書けていない、まだ研究成果を明確に言えない、だが発表すると学会事務教に宣言するのだ。画家がまだ書いてない絵について画商と交渉するようなものだ。研究者としてこれほど無謀な行動があるだろうか。しかし、この無謀さをもってはじめて怠け者の私は焦るのである。
▽ 大人になっても子供のころと同じ性格は変わらない。大人は、ただ自己変革の可能性を信じない悲観論者なのだ。そしてその悲観論者である自分を認め。自分が自分で変えられないことを知るしかない。自分は自分によって変革することのできる存在であるなら、不可能な試みをする必要はない。もし、自分の怠け者を変えるためにもう一度生まれ変わるしかない。しかし、それは不可能な希望である。
▽ 結果的に、私が選んだ道は、みっともないと言われるかもしれないが、怠け者である自分を変えなくてもいいということであった。今後も怠け者として生きるしかないということであった。つまり、怠け者である自分を認めることだった。そして、同時に、この怠け者の自分が怠けておれないようにしてしまう。怠け者の自分を追い込むことが、私の選んだ方法であった。
▽ 勿論(もちろん)今でも、これ以外の色々な怠け者対策を調べる。そして、よち有効な方法があれば、それを取り入れることにしている。しかし、怠け者の自分を追い込むという方法が、現在の私が考えた最も有効な対策である。
前向きな悲観論者の煩悩
▽ 自分の意志の強さに自信を持つ人なら、自分の弱点を人の力を借りて治す方法を取らずにすんだかも知れない。しかし、自分に自信のない人なら、自分の力で自分の弱点を克復する方法は取らないだろう。何故なら、その方法は意志の弱い自分にはハードルの高い難しいやり方であるからだ。
▽ 自分の能力に自信のある人なら、自分の力を信じて自分の考えを中心に仕事をするだろう。しかし、自分の能力に自信を持たない人なら、他者の考えや方法を聴き、自分を点検するだろう。
▽ 本当に必要な能力は、精々、自分の弱点を理解する能力である。その弱点を克服するための方法を見つけ出す知性と技能が、最も実践力のある能力である。だが、予め自信をもつ人々は、その実践的な能力を身につけるための条件を失っていると言える。
▽ 真摯に生きること、その条件として自分の弱点を認めることが挙げられる。その生き方は、前向きに自信を持って生きる楽観主義を捨て、前向きに自分への自信や確信を疑う悲観的な立場を取ることではないだろうか。
▽ 子供の柔らかい精神と大人の強かな(したたかな)技法を共存させることは出来ないものかと思った瞬間に、希望という幻想に囚われ楽観主義が生まれようとしている。そして、この子供じみた幻想から前向きな根拠なき自信や確信が生まれようとしている。これは、何ということだ。

-自分の弱点と共存する生き方-
三石博行
失敗と決意の終わりなき連鎖・一秒の人生
▽ 今、私の職場は試験期間である。私自身、自分の学生時代の試験の内容に関する記憶は殆どない。何が出たのか、さっぱり思い出さない。思い出すことは、一日多くて3、4科目の試験の準備で、徹夜をしたことなどである。そして、一夜漬けで試験に臨みながら「次回は、こんな一夜漬けの試験勉強は止めよう」と決意したことである。
▽ しかし、その決意も、次の学期が始まると完全に忘れ去り、試験期間には、また前と同じように一夜漬けを繰り返しことになる。しかも、まったく前回と同じように「次回は、こんな一夜漬けの試験勉強は止めよう」と決意するのである。その決意の不履行と再決意を繰り返しながら学生時代は終わった。
▽ 学校を卒業して、仕事をしながら、まだ同じことを繰り返している。仕事の期限ぎりぎりまで、なかなか仕事が終わらない。予め立てた計画も、一日分の仕事完成率の点検も、まだ時間があると思えがすぐに甘くなる。
▽ 期限を切られなければ仕事が終わらない。期限ぎりぎりになって、「こんなことをしていてはいけない。もっと計画的に仕事をこなす必要がある」と決意するのであるが、この決意も次の仕事を始めた時には忘れさられ、次も同じように期限ぎりぎりになってやり始める。そしてまったく以前と同じように、「こんなことをしていてはいけない。もっと計画的に仕事をこなす必要がある」と再決意するのである。そして、そうこうしている内に、年を取って、仕事も出来なくなり、あの世からお迎えがくるかもしれない。
▽ これまで、常に「毎日、確りと計画を持って生きる」ということを考えたし、その為に、中学や高校時代には、日記や生活記録を書いた。大学時代でも生活時間を記録する日記や手帳を書いた。社会に出てからはシステムノートを書いてきた。しっかりと予測される近未来の情況を分析し、現在の生活時間の配分を計算し、こつこつと仕事をこなす態度を身につけようと、長年、努力してきたのであるが、しかし、結果は、こうした几帳面で計画性をもった生活設計が出来るようにはならなかった。
▽ 多分、こうして同じ課題を持ち続けながら時間が過ぎ、いつの間にか人生を50年過ごし、60年過ごし、そして若い人々から見ればと自分を高齢者として位置づけなければならない年齢に達するのであるが、それでも、同じ失敗と同じ問題を抱え、同じ決意と同じ努力を繰り返す生活を続ける。
大人的と子供的な観方、生き方・二つの異文化現象
▽ 子供のころは、大人が偉く見えた。また、子供のころは、大人は分かって生きていると思っていた。そして、子供のころは、大人になるときっと解決できると信じていた。
▽ しかし、大人になると、子供と自分との距離がそうないことに気付く。また、大人になると、子供のころから抱え込んだ問題が解決していないことに気付く。そして、大人になると、子供から今までの時間が余りにも短いと感じる。
▽ 子供は大人を経験してないので大人を知らない。大人は子供を経験しているので子供を知っている。それが大人と子供の違いはである。つまり、子供より大人が長く生きた分だけ多くのことを経験してきた。そして、経験の少ない分、子供は大人より自分の可能性を信じている。他者の死との出会いを多く経験してきた分、大人は未来という時間が無いことを理解している。それが少ないだけに、子供はまだまだ未来があると信じている。
▽ 言換すれば、子供が自分の可能性を信じているのは、まだ人生の時間があるという根拠のみである。しかし大人が諦め(あきらめ)を抱くのは、人生の時間がもうないという根拠なのみである。その両者の根拠を説明できるものは何もない。主観と統計的な推測、つまりそう思ったということと平均的にそうなっているという説明以外になにもない。
▽ 未来を信じられる子供たちは、無謀であり、大胆であり、鈍感であり、そして前向きである。そして、子供たちは、幻想にとりつかれ、無我夢の中に、冒険とロマンを追い求める。つまり、子供たちは、真理や愛を語るドラマの中で、自らの利益や命を顧みず、主役を演技し続ける。彼らは生命の塊で、命の凄さを放し続ける。
▽ だが、大人たちは、現実的で、臆病で、後ろ向きである。何故なら、彼らは世界の中で己の小ささを知り、己の能力に幻滅し、己の力に絶望しながらも、それでも生きなければならないことを知っているからである。 彼らの言い分は自己弁護的で、後ろ向きで、遠慮ばかりしている。彼らは、つまらない映画の脇役である。
▽ 未来への悲観は大人への入り口で与えられ、人生への悲観は大人へ成長の証である。そして、自分への悲観は大人としての優しさや繊細な人の香りを与えるのだろう。
▽ しかし、子供は将来と呼ばれる不在の根拠へ向かう無謀な楽観性を持っている。幻想と呼ばれる未来へ立ち向かう勇気を持っている。無知ゆえに強靭な楽観的感性と未経験ゆえ描く未来への幻想に向かって進む生命力を持っている。
▽ 繊細で「後ろ向きの大人」と鈍感で「前向きな子供」の二つの文化。私はその二つのどれを自分の生きる方法として選び、どれを他人の行き方として評価するだろうか。
怠け癖を治すことは出来ないが、しかし、追い詰めることはできる
▽ 私の試験を落とした学生がやって来た。暗い顔をして、失敗した色々な理由を私に話した。彼と私との隔たりは、社会的には、「採点した私」と「採点され彼」の違いによって生み出されている。私は教師という社会的役割を果し、学生である彼を不可にした。教師と学生いう立場を成立させている学校において存在している関係に過ぎない。
▽ つまり、私という個人は、試験勉強を一夜漬けで行うという点では、その学生と同じ人間であることは間違いない。
▽ 試験勉強は一夜漬けであった若いころから、私は怠け者だった。その怠けものは大人になっても治らなかった。そのため、学位(博士)論文を終えるのも長い年数が掛かった。単著の本すら出版してない。書きかけの論文原稿の山に囲まれている。
▽ 書けないのは怠け者であるだけでなく、勇気がないからであった。つまり、書いて出す自信がなかった。色々書きながら、不十分な文書を世の中に出すことは、自分の名誉を傷つけることであると思った。発表することで恥ずかしい思いをすることに耐える勇気がなかった。
▽ 未完成の論文原稿が記憶媒体の中にどんどん溜まる。文書は、書いてもまた書いても、みんなしまい込まれ、誰の点検からも批判からも隔離され、記憶媒体という閉鎖空間の中に、誰も侵入できない安全地帯の中にしまい込まれていた。しかし、それらの文章は、その安全地帯の中では世界的な論文であるかのように大切に扱われていた。
▽ ある日、不十分な状態であったが発表することを先に決めてしまったことがあった。研究発表までに終わらなければならない。不十分である箇所を出来るだけ少なくするために他の論文や本を読む。そして、不十分なまま発表した。結果は明らかであった。つまり、恥ずかしい思いしか残らなかった。
▽ 記憶媒体の安全地帯の中で、あたかもいい論文であると自負していた私は惨めな自己の現実を知らされ、その未熟な身体を晒(さら)された恥ずかしさと悔しさに打ちのめされていた。
▽ それでも、また、不十分なまま発表することを先に決めて、研究発表するために研究した。研究成果があったから研究発表するのではなく、研究発表を決めたから、研究する作業が続いた。「僕は怠けものなのだよ」という理由によって選択した行動であった。
▽ 今でも、この怠けものは治らない。小学校の時に夏休みの宿題を一夜漬けでやったあの日から続いているこの怠け者を治すことは出来ない。それで、この怠け者を追い詰めることにした。それ以外に、今のところ私が気付いた方法はないようだ。
▽ その追い詰め方として、実に大胆で無責任な手段を取った。まだ、論文は書けていない、まだ研究成果を明確に言えない、だが発表すると学会事務教に宣言するのだ。画家がまだ書いてない絵について画商と交渉するようなものだ。研究者としてこれほど無謀な行動があるだろうか。しかし、この無謀さをもってはじめて怠け者の私は焦るのである。
▽ 大人になっても子供のころと同じ性格は変わらない。大人は、ただ自己変革の可能性を信じない悲観論者なのだ。そしてその悲観論者である自分を認め。自分が自分で変えられないことを知るしかない。自分は自分によって変革することのできる存在であるなら、不可能な試みをする必要はない。もし、自分の怠け者を変えるためにもう一度生まれ変わるしかない。しかし、それは不可能な希望である。
▽ 結果的に、私が選んだ道は、みっともないと言われるかもしれないが、怠け者である自分を変えなくてもいいということであった。今後も怠け者として生きるしかないということであった。つまり、怠け者である自分を認めることだった。そして、同時に、この怠け者の自分が怠けておれないようにしてしまう。怠け者の自分を追い込むことが、私の選んだ方法であった。
▽ 勿論(もちろん)今でも、これ以外の色々な怠け者対策を調べる。そして、よち有効な方法があれば、それを取り入れることにしている。しかし、怠け者の自分を追い込むという方法が、現在の私が考えた最も有効な対策である。
前向きな悲観論者の煩悩
▽ 自分の意志の強さに自信を持つ人なら、自分の弱点を人の力を借りて治す方法を取らずにすんだかも知れない。しかし、自分に自信のない人なら、自分の力で自分の弱点を克復する方法は取らないだろう。何故なら、その方法は意志の弱い自分にはハードルの高い難しいやり方であるからだ。
▽ 自分の能力に自信のある人なら、自分の力を信じて自分の考えを中心に仕事をするだろう。しかし、自分の能力に自信を持たない人なら、他者の考えや方法を聴き、自分を点検するだろう。
▽ 本当に必要な能力は、精々、自分の弱点を理解する能力である。その弱点を克服するための方法を見つけ出す知性と技能が、最も実践力のある能力である。だが、予め自信をもつ人々は、その実践的な能力を身につけるための条件を失っていると言える。
▽ 真摯に生きること、その条件として自分の弱点を認めることが挙げられる。その生き方は、前向きに自信を持って生きる楽観主義を捨て、前向きに自分への自信や確信を疑う悲観的な立場を取ることではないだろうか。
▽ 子供の柔らかい精神と大人の強かな(したたかな)技法を共存させることは出来ないものかと思った瞬間に、希望という幻想に囚われ楽観主義が生まれようとしている。そして、この子供じみた幻想から前向きな根拠なき自信や確信が生まれようとしている。これは、何ということだ。
登録:
投稿 (Atom)