仮想敵国中国との軍事力競争の時代かそれとも東アジア平和的共存を目指す時代か問われる日本外交の選択
三石博行
安倍首相の靖国参拝の意味するもの
12月26日に安倍首相はA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社に参拝した。同時に、安倍首相は靖国神社の境内にある鎮霊社にも参拝した。この鎮霊社には、「靖国神社にまつられていないすべての戦場に倒れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて全ての戦場で倒れた人々を慰霊のためのお社」(安倍首相の発言)である。この安倍首相の靖国参拝は小泉元首相が行って以来7年ぶりである。
この参拝を巡って今東アジアでの反日感情が再び盛り上がろうとしている。この参拝にアメリカが異例の「批判」を行った。日韓関係の改善はアメリカにとっても大切な課題であり、日ごろから歴史認識問題や竹島(韓国名独島)の領有権問題で日韓関係は悪化の一途を辿り、また日本が国有化した尖閣諸島や中国が突然設定した防空識別圏の問題等々、中国とも同じように日々厳しい対立関係が続く中、この参拝はアメリカも望む東アジアの日中韓関係の改善の道を塞ぐ結果になろうとしている。
さらに、麻生元首相の発言「ナチスがやったように平和憲法を廃棄すべきという」発言や今回の特定秘密保護法での自民党(自公与党)の強制採決、石破自民党幹事長の報道制限や報道人の処罰発言等々、この国が明らかに戦争のできる国に変貌しようとするための憲法9条の破棄に向けた動きが始まっていることは確かになってきた。この一連の政治的動向の背景についてより正確に分析する必要がある。
何故なら、その方向次第では、日本の今後に歴史に悔いを残す大きな選択を迫れられる未来に進む可能性があるからだ。これは、過去の軍国主義国家日本の失敗を再び犯す可能性を秘めているとも謂える。
米国支持の日本の再軍備化時代
安倍政権は1960年に祖父の故岸信介首相が故アイゼンハワー大統領との間で締結した集団的自衛権を前提とした新安保条約を実質的なものにしようとしている。その背景には、海洋大国をめざし台頭する中国の軍事力とそれによって引き起こされている近隣諸国との領有権紛争(その一つとしの尖閣諸島問題)がある。何故なら、日本が中国と軍事的衝突が可能になる条件として集団的自衛権が実質執行できる日米軍事同盟が必要であることは誰も疑わないからである。こうした時代的な背景を活かし自民党は2012年7月に国家安全保障基本法案を提出した。この法律の条件が特定秘密保護法を制定であった。つまりこの法律によって制定される国家安全保障会議の機密を保障するために特定秘密保護法が必要であった。
安倍政権が強固に推し進める強い国家日本の必要な条件、特定秘密保護法、国家安全保障基本法とそれに基づく内閣主導(官僚主導)型の国家安全保障会議の設定はすべて紛糾する国際情勢に対して日本の防衛力を強化する目的で進められていると言われている。仮想敵国は明らかに中国である。その中国と尖閣諸島近辺で起こる可能性のある軍事的衝突、さらにそれに起因する日中戦争を想定して日米同盟の強化、具体的には集団的自衛権を実質化しようとしているのである。
もし、20年前の東西冷戦時代であれば、米国はこの安倍政権の政治的選択を歓迎したと思える。しかし、現在のアメリカの対中外交は、仮想敵国としての中国ではなく、経済大国中国との関係であり、世界政治に責任を持つ米中関係の形成である。今後明らかに世界一の経済力を持つことになる東アジアで米国が影響力を維持するためには、中日韓関係が強化され東アジア共同体が米国の抜きに進むことは望んでいない。しかし、同時に、日中間での軍事的衝突が起こることも望んでいない。こうしたアメリカの東アジア外交、中国を緩やかに牽制しながらも、米中間の政治経済関係の発展も手に入れようとする外交も展開するだろう。
こうしたアメリカの対東アジア外交の変化に対して今後の我国の日米関係の在り方や日中、日韓関係の在り方が問われていることは事実である。自民党の中にアメリカに強制された憲法を改正し自国の独自の憲法を持つことを政治目標にしている勢力がある。これらの勢力は、「日本軍・国防軍」を持つことがまず国が持つべき当然の姿であるという信念の基に日本の軍備強化を主張してきた。
実際、再び日本が軍国主義国家となることを防ぐために、連合国(米国)は平和憲法の公布を推進した。しかし、その意図は米ソ間の軍事的対立、その代理戦争、朝鮮戦争の勃発によって脆くも崩壊することになる。朝鮮半島を共産主義から防衛するために米国軍隊を後方支援する部隊として1950年に警察予備隊創設された。この日本の軍事力所有の準備期間を経て、1954年に正式に日本の軍隊、つまり自衛隊とその自衛隊の行政機関である防衛庁が設置され国家としての軍事行政が復活する。195年からの自衛隊は航空自衛隊は拡張する第1次防衛力整備計画、1961年の第2次防衛力整備計画、1963年の第3次防衛力整備計画、1972年の第4次防衛力整備計画を経て強化された。
さらに戦闘機や各種装備の近代化が中期防衛力整備計画 の第1期から第2期によって図られてきた。その間、日米同盟は強化され1983年に対米武器技術供与決定、1992年 に防衛省は防衛庁へと所属替になり、防衛関連の「情報委員会」が設置され、また海外への平和部隊としての出兵を可能にした「国際平和協力法」「国際緊急援助隊法改正法」が設立し、カンボディア国際平和協力業務や国連イラク化学学者調査団に自衛官派遣された。
つまり、1950年に警察予備隊創設から現在の国際平和部隊に参加している自衛隊の形成、さらにはアメリカの軍事政策下でまで集団的自衛権を発揮できる自衛隊の発展的展開は米国が支持してきた日本の再軍備化過程であると理解できるだろう。
積極的平和主義から積極的軍事主義化への危険性
2011年軍事費ランキングから日本の軍事力を観ると、日本の軍事費は第6位(4兆3623億円)である。その1位はアメリカ(55兆1672億円)、2位は中国(10兆3417億円)、3位がロシア(5兆1298億円)、4位はフランス (4兆6595億円)で5位はイギリス(4兆6300億円)であると言われている。しかし、日本の軍事力の評価は世界で17位とされている。それに対して、中国が3位で韓国が8位と評価されている。勿論、アメリカの軍事力は1位でロシアが2位となっている。
つまり、軍事費から見ても、中国は日本の2倍以上の力を持ち、しかも中国は世界2位の軍事大国である。当然、この具体的な数値からして、日中間で軍事的な衝突が起こった場合、圧倒的に中国が優勢となることは確かである。このことから日本は中国との軍事衝突を避けることが現実的な政治の在り方であると理解するのが常識である。しかし、安倍政権はその現実とかけ離れた対中外交政策を取っている。その大きな理由が日米軍事同盟である。つまり、日米軍事同盟を背景にする限り、日本は中国との軍事衝突を恐れることはないと理解されている。
米国との軍事的同盟を背景にした対中外交を展開するのであれば、自民党政権は米国の対中外交を踏襲することになる。しかし、現在の安倍政権はアメリカ政府が非難する対中外交を展開しようとしているのである。今回の靖国神社参拝問題でアメリカが副大統領を中国に派遣して根回しして来た東アジア政策、対中、対韓外交の努力が水の泡となったと言えるだろう。
では、安倍政権はアメリカとの東アジア外交政策の路線を違えても、対中韓外交を緊迫刺激させなければならない理由があるのだろう。その理由とは何か、それが安倍政権の目指す政治的課題ではないだろうか。その課題を理解するために安倍政権が掲げて「積極的平和主義」を理解する必要がある。2013年9月26日、国連総会で安倍首相は「積極的平和主義」について演説を行った。つまり、PKOをはじめ、国連の集団安全保障措置に、より積極的に日本の自衛隊が参加することを積極的は平和主義活動であると述べている。そして、2013年12月22日、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に従事する韓国軍に弾薬1万発を無償譲渡した。つまり、積極的平和主義とは軍事力を背景にした平和活動を意味すると言えないか。
積極的平和主義を主張する安倍政権が目指すものとは軍事大国としの日本である。この路線はいずれアメリカが制御可能な範囲を超えるだろう。つまり米国の言いなりにならない真に独立した国家日本の形成のために平和憲法を破棄し強大な軍事力を保持し、いずれ核武装も視野に入れ、その力で対中外交を行うことを視野に入れていると思われる。
その為に、またその結果において、益々、中国を刺激し対中関係に軍事的緊張を作り出し、日本の軍事大国化の糸口をつかもうとするだろう。戦後生まれの民主主義教育を受けた安倍氏個人がその軍事大国化への未来を否定したとしても、この国際政治の大きな流れの中で、愛国主義化する中国との軍事的緊張は日本社会を同じように愛国主義化し、強固な軍備路線に導くことになる。そして、積極的平和主義が積極的軍事主義へと変貌し始めた時、日米関係は変化し、対中関係はますます悪化するだろう。
無責任文化国家・現代日本社会
何故、安倍政権を代表する日本の保守勢力は積極的軍事化を目指すのだろうか。その理由は安倍総理個人の問題でも自民党を代表する我国の保守勢力の問題だけでもなく、実に、我国の政治思想文化に根差したものがあると思われる。そして、同時にこの政治思想文化は国民の中に深く根ざしているがゆえに保守勢力が支持されている要因をなすとも言える。
では、その積極的軍事化を意図する政治思想文化とはなにか。歴史認識を問い掛ける中国や韓国に対して、内政干渉という保守勢力、例えば石原氏や橋下氏は国民の意識とかけ離れた主張をしている訳ではない。むしろ、彼らの発言はある意味で大半の国民的な意識でもある。そのことがここでは最も問題なのである。
このことは、日本の戦後処理を巡る課題に辿り着く。つまり、誰があの250万人の日本人、そして数千万と言われる中国や東アジア及び東南アジア、勿論米国の犠牲者に対する戦争の責任を取ったのだろうか。戦争に協力した報道、教育機関、自治体、国民運動、婦人会等々、その責任は不当な東京裁判に掛けられて高死刑台に散った戦犯と称する犠牲者によって帳消しにされたのだろうか。誰一人責任を取らない、取れない文化が始まったこの戦後の問題そこ日本史の中で未来語られる悲劇の始まりではないのか。
その事実から目をそらすために、多くの仕掛けを行った。それが靖国神社ではないか。いつの間にかA級戦犯者が合祀された。しかも、第二次世界大戦で戦死し遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している千鳥ケ淵戦没者墓苑や、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含め戦場に倒れた人々を慰霊した鎮霊社(靖国神社境内)に静かにお参りする儀式をこれまで政府(社会党連立や民主党政権も含めて)は積極的に行うことはなかった。
この甚だ信じがたい責任を取らない日本の文化は命がけで責任を取ることを習わしにした中・近世の武士の文化と異質のものであると言える。つまり、いつの間にか、日本人は責任を取ることを忘れた。
そして、太平洋戦争に突き進んだ軍部の無責任な判断、非現実的な戦争突入、非科学的な戦略と戦術、非合理な精神主義、そして、そこに戦後、原爆で被爆した人々への差別、水俣公害とその公害病への差別、こんどは原子力ムラの利権とその災害である福島原発事故とその被害者への無関心さ、こうした責任を取らない日本文化が始まった。
しかし、責任を取るとは腹を切って自害することではない。それはその失敗の原因を探求し、その失敗が起こらないための考え方、方法、技術、制度を確立することである。失敗を個人的に責め、そしてその個人を排除する思想と失敗を無責任に放置する思想は類似している。それらは失敗を経験として理解していない。失敗は個人の問題として解釈されている。そのため、失敗した人を排除するか、もしくは排除しないで認めるかを選択することになる。それに対して失敗を一つの経験として理解する考え方は、失敗を活かし、将来の人々や社会に役立てようとするのである。
こうした視点に立てば、日本文化に誇りを持ち日本の伝統を守ろうとする保守勢力が武士道を忘れた無責任な現代文化を支持していることは何とも皮肉な文化現象であると言えないか。実は、この皮肉な現実に日本の現代社会で進もとしている積極的軍事化と軍事大国化を進めたい精神構造がある。その精神構造を理解しなければならないだろう。
なぜ日本は中国を仮想敵国にし韓国を無視するのか
日本とまった逆の戦後処理を行った国がドイツである。つまりドイツは徹底して戦争犯罪への自己批判を行った。ナチスを賛美することも、またヒットラーを戦没者の墓に合祀することしなかった。
その大きな理由はドイツがフランスと共に戦後形成し続けてきたヨーロッパ社会の平和的共存のための活動にある。1951年パリ条約によって欧州石炭鉄鋼共同体の形成から始まる。それから欧州評議会、欧州経済共同体、欧州共同体と現在のヨーロッパ連合へと発展して行く過程で、ドイツは常に戦争犯罪を自己批判してきた。それがこの欧州連合をドイツが積極的に形成して行くための必要十分条件であった。
しかし、戦後の日本は自らの戦争責任に於いて、東アジアの平和的共存を政治課題に挙げていない。その大きな理由にこの国際地域の中心に東西冷戦構造がそのまま位置していたことが挙げられる。そのため韓国では軍事政権が1980年代まで続くことになる。そして中国の近代化も共産党政権によって進められ、東アジアの最大の国である中国の政治体制が今の一党独裁政権によって運営されている。その意味で資本主義民主国家の韓国や日本と政治システムが異なり、それらの国々が平和的に共存する政治的条件が整っていないとも言えるだろう。しかし、それに反論するようにして2015年のASEAN共同体構築を目指して様々な取り組みを加速しているASEAN(東南アジア諸国連合)がある。
言い換えると、日本は東アジアでの平和的共存を目指す東アジア共同体の形成のための指導的立場に立つことを国家の利益と考え、国の政治方針の中心に置いていないのである。そのために、EU連合を成功させたドイツと異なり、その逆に東アジアでの軍事的緊張を利用し、再軍備化を進めようとしているのである。
従って、誇り高き日本とはアジアで初めて近代化に成功し、列強として認められた日本帝国であると言える。その国家的イメージを再現すること、つまり美しい日本とは誇り高い近代国家日本のイメージなのだろうか。そのイメージは常に欧米コンプレックスとアジア蔑視の上に成立している。それはアメリカへの卑屈な限りの外交路線であり、同時に傲慢なアジア外交に繋がる。今や日本を超える経済力と軍事力を持つ中国を「シナ」と呼ぶ人々、それには計り知れないアジアへの差別と偏見がある。その差別や偏見は近代日本が培った歪な欧米模倣主義とその反動であるとも言えないだろうか。
問題は多くの日本人が欧米模倣主義とその反動的な精神構造を持ちながら、アジア蔑視と欧米反発の感情を持っていることを自覚しないことである。つまり、我々は日本文化への誇りを言いながらも、実際にはその確信が得られないのである。どこが日本的なのか、そんなものがどこかに行ったのでないかと思っている。例えば、もう畳の生活もないし、また和食文化もない。それなのに和食が世界文化遺産になる。つまり、我々日本人は、皮肉なことに日本の伝統を守りたい言いながら、便利な洋式のトイレ、システムキッチンとよばれる台所、寝室のベッ等々、ありとあらゆる洋式尽くめの生活の中にドップリト浸かっていることは確かである。それでも、保守勢力は欧米模倣主義を毛嫌いしながら日本主義、伝統主義に憧れているのである。
ある意味で本当の日本の伝統的文化を語るなら、そこには朝鮮半島や中国との長い歴史的関係があり、それに影響され、そしてそこを土台とした日本文化がある。つまり我々の文化のルーツを語るなら東アジア、中国や韓国との文化的共同体を無視しては成立しない日本的伝統文化があることに気付くに違いない。その意味で、東アジアの文化的共同体を無視する思想は極めて新しい社会思想であると言えないか。それらは近代日本で生まれ、そして成長した欧米模倣主義から生まれた思想であると言えないだろうか。
この精神構造(文化構造)が生み出す政治思想からは大東亜共栄圏の発想は生まれても、東アジア共同体の発想は生まれないことは確かだ。この我々の精神構造から生まれたものが、我々の仮想敵国としての中国であり、韓国無視の政治姿勢ではないだろうか。
政治の原点に返る
ここまで、中国や韓国との外交上の問題を引き起こすことを敢えて行う政治家、安倍氏の靖国参拝という政治的行為の深層は単に彼がそう願っていたと言う単純な理由では説明されないことを述べてきた。しかし、この日本人の近代化の過程で形成されたトラウマの構造に言及し、そして、安倍氏個人を代表する日本人の欧米模倣主義を生み出す精神構造について話したとしても、政治家安倍氏の責任問題が問われるのである。
つまり、もう一度、政治とは何か。この疑問の原点に返り、靖国神社参拝の意味を深く理解しなければならないだろう。その行為が引き起こす政治的リアクションに対する責任問題と彼が抱えた英霊と称する戦死者(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念とそれを表すための参拝行為の持つ政治的意味をここでは明確にしておかねばならないだろう。行きたかったから行きましたでは政治家としてあまりにもお粗末な説明と言えるだろう。
もし、そうした個人的感情でなく、多くの日本国民の希望として首相として戦争に身をささげた英霊(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念を示すために靖国神社を参拝したとなると、それを希望する国民がどれぐらいいるのかを知っているべきだろう。その上で、大半の国民の意志を代表して行く行為を選んだと言えるだろう。
もし仮に、この行為が中国や韓国に批判されることによって生じる感情、つまり靖国参拝は内政干渉であるという考えがあるとすれば、それを批判する東アジアの国々の立場や戦争犠牲者の感情に対する配慮も同時に問われることになるだろう。そして、これらの批判に対して政策として答えることが政治家の役割である。首相が国(日本帝国)のために戦死した英霊(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念をその犠牲者となったアジアの国々の人々に説明しても理解されないことは当たり前である。こちら(我々日本人)が加害者であり、向こうはその被害者である。例えば、酔っ払い運転の自動車事故で子供を殺した運転手が、仮に同じように彼もその事故で死んだとして、それは確かに彼は事故の犠牲者ではあったが、酔っ払いという重大な交通違反(侵略と言う重大な国際法違反)を犯している。その罪を認めない限り、彼は一人の犠牲者として被害を受けた人々から認めてもらえないだろう。それと同じ論理なのである。
靖国参拝の前に、日本の政治家は責任をもって、歴史的反省に基づき、考えてみる必要がある。何故なら、国の面子を語りそのために軍事的衝突も辞さないということが本当に政治家の取るべき外交なのだろうか。国民の生活や平和を犠牲にして守らなければならない面子とは何か。考えるべきである。
前の戦争でも軍国主義はそうした無謀な愛国心を掻き立てながら、国民を戦争に駆り立てた。そして協力しない国民委は非国民というレッテルまで準備した。戦争を勝手に起こしておいて、そしてそれに協力しない人々を脅迫し逮捕し拷問に掛けた。あの悲惨な歴史を忘れてはならない。戦争ほど大きな犯罪はない。人々を何の理由もなく殺し、家や財産を焼き払い、人々に憎しみの歴史を作る。これ以上の犯罪があるだろうか。その犯罪を国家の正義として語る。そしてその歴史を反省するのでなく賛美する。あってはならない政治家の行動である。
何が政治にとって重要なのか。国の面子か、それとも国民の人権や平和的生活か、それすら疑わなければならないことが今、日本の民主主義社会の中で、平然として行われようとしている。すでに長い歳月、国民主権(民主主義)、人権主義、平和主義の憲法を基にして培った社会の中で 我々はそう容易く軍国主義化を許さないだろう。そして、今、昨年安倍政権を支持たいた多くの国民も理解し始め、その結果は次の選挙に現われるだろう。私は、この国の人々の良識を信じる。
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関連ブログ文書集
日中の軍事衝突を避けるために何をなすべきか
1、問われる日本外交の姿
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2621.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/03/blog-post.html
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2013年12月28日土曜日
2012年3月22日木曜日
ブログ文書集「人間社会学基礎論(1) 精神分析学とその科学方法論批判」
「人間社会学基礎論(1) 精神分析学とその科学方法論批判」の目次
三石博行
1. 精神分析の科学方法論批判
1-1、フロイト精神分析学の説明仮説(アブダクション)の有効性の点検で求められる科学哲学への課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_20.html
1-2、フロイト精神分析学の科学性の検証、アブダクションの批判的点検
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_2734.html
1-3、フロイト精神分析学の説明仮説の拡張可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_2734.html
1-4、フロイト精神分析の解釈学的科学性の成立条件について
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_24.html
2. 他者性の形成過程をめぐる議論
2-1、非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/1_27.html
2-2、非自己としての空間の発見と場所的空間の形成
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/2_27.html
2-3、生理的感覚空間の形成から社会的関係空間の形成の前哨段階へ 欲望の形成
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_31.html
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三石博行
1. 精神分析の科学方法論批判
1-1、フロイト精神分析学の説明仮説(アブダクション)の有効性の点検で求められる科学哲学への課題
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1-2、フロイト精神分析学の科学性の検証、アブダクションの批判的点検
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1-3、フロイト精神分析学の説明仮説の拡張可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_2734.html
1-4、フロイト精神分析の解釈学的科学性の成立条件について
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_24.html
2. 他者性の形成過程をめぐる議論
2-1、非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/1_27.html
2-2、非自己としての空間の発見と場所的空間の形成
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/2_27.html
2-3、生理的感覚空間の形成から社会的関係空間の形成の前哨段階へ 欲望の形成
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2011年2月21日月曜日
精神構造的暴力と社会構造的暴力の相互補完関係
人間論から解釈される暴力の概念(4)
三石博行
社会構造的暴力の内化としての精神構造的暴力
本能の壊れている動物・人間が生きていくために人類が見つけ出した装置がタブー、伝統、習慣、社会規範や法律、規則であった。総じて、それらの社会文化的規範を自己化することを、現実則に即して動く自我と呼んだ。人類が考えた精神エネルギーを現実の生活や生命の維持のために活用する社会文化的規則に即して、自我が機能することで、自我は現実的に生存可能な行動や思考を行うことが出来るようになった。
つまり、社会文化規則(社会構造的暴力)がなければ、現実則(精神構造的暴力)を形成することは出来ない。換言すると、精神構造的暴力は社会構造的暴力が無ければ形成されない。社会構造的暴力がなければ、本能が機能しない人類は他者との共存も不可能になり、その結果、自らの生存条件を獲得することも出来ないことになる。自らの生命を維持するために、自我は現実則で機能することになる。
社会構造的暴力に類似した精神構造的暴力を自我に形成することで、生態系との調和や種の保存を生命活動の第一次的目的に出来ない人間的行動が修正され、無条件に自己をリビドー(人間的性欲)の対象とする自我の原初的な形態が抑制される。社会の規則に即して欲望を満たすこと、社会的価値の具現的対象としてある他者を自己の理想とする機能が生まれ、そのイメージが自己化され、自己の理想とする価値観やモラルが形成される。
社会構造的暴力は本能の壊れた動物・人間を存続させるために創り出された(発明された)機能なのである。つまり、本能が壊れている人間の生物的生存可能性を保障するための文化的装置としての社会構造的暴力であり、その内化によって作り出されたものが精神構造的暴力である。
意識・社会構造的暴力の土台に類似して機能する精神構造的暴力の産物
人間(乳児)が言語を話すようになって、自我(自己意識)が形成された。自己とは自ら発した言語によって再確認された存在を意味する。もし、言語が無ければ自己意識はない。声帯運動によって作り出されている音を同時に聴覚器官によって知覚し、その聴覚刺激が脳で意味となると同時に、運動野で生み出されている声帯運動の指示と同時化することによって生じたものが自己意識である。
聴覚野の音声パターンが視覚野の表象パターンへ変換し、その表象パターンが運動野の声帯運動パターンへ変換し、その声帯運動パターの声帯運動を生み出す(1)。それによって、自己の外に飛び出した音(音声)が、同時に、また再び、聴覚を刺激し、聴覚神経の刺激パターンが聴覚野へ伝達を繰り返すのである。この内的身体機能運動によって生産された外的世界の産物によって、再び内的身体機能が刺激され、外的世界の産物を通じて(声を聴くことを通じて)内的身体機能の所在を理解するのである。これが、所謂自己意識なのだ。
自己とは自己の生み出す身体運動の彼方に存在するものである。自己とは、その身体運動を認識する法則(言語的法則・文法や意味)を前提にして、理解された他者(外化された自己・自我活動によって外に生み出された自己の影)なのである。つまり、自我が言語化されていない限り、自己意識は存在しえない。何故なら自己意識とは言語活動を自我する自我がその生産物(言語活動・音声)を認知することによって生じた意識であるからだ。
更に述べると、精神構造的暴力の土台が社会構造的暴力の土台を真似て作られなければ、自己意識や意識は生み出せない。言語によって構造化されて自我の結果として、自己意識や対象意識(意識)が存在しているのである。つまり、意識とは、言語と呼ばれる社会文化的産物、社会構造的暴力の土台に類似して機能する言語活動と呼ばれる精神構造的暴力の産物によって生み出される。
内的世界の外化、外的世界の内化
そこで、意識は基本的には社会構造的暴力の土台に規定されている。それらは社会文化規範、つまり言語、価値、習慣、規範と呼ばれる社会や文化の構造に規定されている。しかし、その社会文化は人間活動の生産物である。人間活動がなければ、社会文化的構造は生産されない。その生産物として社会文化の構造、つまり社会構造的暴力を生み出すシステムが存在している。
同時に、社会構造は社会を構成する人々の意識によって機能する。例えば、もし、職業や社会的所属に対する意識(責任感)、社会的役割という個人の社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないだろう。社会制度があるから社会が機能するのでなく、その制度を担う人々、言い換えればそれらの人々の自分の社会的役割と呼ばれる社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないのである。(2)
社会構造的暴力の効力は、精神構造的暴力が社会を構成する人々に共通して機能していることが前提条件となる。これを、共同主観と呼ぶことも出来る。つまり、社会構成員がその社会的役割を自己意識として確立していなければ、社会は機能しないし、社会構造的暴力は生み出されないのである。社会機能の有効性は個人的意識において有効性を持つことで発揮されている。しかも、その個人とは社会的な個人である。つまり、ある集団であり、その集団を構成する大半の個人が共通に持っている価値観、モラル、社会文化規範、常識とよばれる意識である。
その意味で、社会構造的暴力やその土台は、精神構造的暴力やその土台と相互に補完し合う関係にある。つまり、生産活動において内的構造(精神構造)は外化(社会構造化)される。その外化作用の蓄積によって社会構造の土台が形成され、その社会構造の土台はそれを生産した人々の意識によって運営される。その運営形態を社会構造的暴力と呼ぶ。社会構造的暴力によって、社会構造(過去の人間的生産物の蓄積とその構造)は、あたかもそれ自体(生産物自体)が生きているかのように機能するのである。それを動かすのは、その社会の構成する人々、そしてその人々が持つ社会的役割意識とよばれる精神構造なのである。
しかし、同時にそれらの人々の持つ社会的役割意識は、以前に作られた生産物の蓄積、つまり社会構造によって根拠づけられるのである。その物的根拠なくして、社会的機能に関する個人の役割意識もそして精神構造的暴力も生産されないのである。
つまり、社会構造的暴力によって精神構造的暴力は形成され、精神構造的暴力によって社会構造的暴力は機能する。その社会構造的暴力の機能によって、精神構造的暴力は規定され、その規定された環境からさらに社会構造的暴力が再生産されるのでる。
生存するための闘い・暴力の起源
社会構造的暴力と精神構造的暴力の限りない相互補填運動によって、社会構造的暴力は維持され、その限りにおいて精神構造的暴力も維持されつづけるなら、つまり、この二つの相互補完関係が限りなく続くなら、自我の破綻や社会の破綻の根拠、そして新しい自我や社会変革が生まれる過程を説明できないだろう。
社会構造を維持するための力、つまり社会的価値観や規範の強制力である。その意味で、この力を社会構造的暴力と呼んだ。社会はその社会を構成する人々に、社会を維持させるために力(強制力)をもって登場する。その強制力は、しかし、精神構造化されることで有効に発揮される。個人の価値観、道徳心、モラルが形成される。それを精神構造的暴力と呼んだ。社会構造的暴力によって生み出された精神構造的暴力を持つことで、人々は(そのモラルに基づき)社会的役割を自覚し、生活、社会行動、生産活動を行うことが可能になった。
精神構造的暴力が有効に働かない場合にその精神構造的暴力装置(自我)の機能を解体し、新しい自我の機能に変えなければならない。精神分析が語る「転移」がそこで生じる。つまり、理想の自我の変換が起こる。そのためには、古い理想を捨てなければならない。この理想の自我、自我の理想の廃棄のためには、新しいリビドーの対象が選ばれることになる。古い自我を捨てるために、新しい理想の対象が登場し(新しい精神エネルギーの投資対象が登場し)の自我の変革作業が進行するのである。新しい自我によって、精神の安定を獲得し、より有効に精神エネルギーを投資し、現実の生活を運営するために、自我の変換が行われるのである。
また、社会構造的暴力が有効に働かない場合には、古い社会的習慣や規則は破棄される。その破壊の主体は新しい社会的価値観をもった人々(若者)たちである。彼らは、これまでの社会構造的暴力の正当性を否定する。その根拠は、その社会構造的暴力では社会構造が安定しえないからである。例えば、現在北アフリカで進む民主化運動は、民衆化という理念的課題を追求するために生じている運動ではない。食料や生活の貧困が生み出す社会的危機に対して、その解決として現在の制度を否定しているのである。人民が満足しているなら、革命は生じない。しかし、社会が人々の生存を保障しないから、人々はその社会制度や秩序を否定し、新たな秩序や制度を確立するために動く。目的は、あくまでも、飢餓や貧困から人民を救済するために有効な制度を持つ社会の確立である。40年前、カダフィーがやった様に、若い人々が独裁者カダフィーに対してリビア人民の貧困か社会を救済するために血を流すのである。
古い精神構造や社会構造を破壊するために、新たな理想、価値観が登場し、自我や社会は変革されて行く。例えば、新しい世界観、西洋科学技術観、民主主義や資本主義思想によって影響を受けた人々によって、幕末や明治の日本の近代化(社会変革)が行われたよう、欧米近代思想やその社会的価値観が日本の近代社会への変革の力となった。欧米列強による植民地化を防ぐために、明治維新、近代化政策や富国強兵政策を推し進めたのである。
また、戦後民主主義は敗戦の責任として古い日本への批判と同時に戦勝国の新しい社会的価値観が導入され、国民主権、人権擁護と平和主義を謳う日本国憲法が公布され施行さることで、戦後民主主義社会思想に基づく自由主義と平等主義を原則とする自我が形成される。つまりそれまでの封建的自我は破棄され新しい自我に変革されるのである。そして、自由主義経済を興し、平和な経済国家を目指し、戦後の経済復興に取り組んできたのである。
精神構造的病理と社会構造的病理への対策として・構造的暴力の意味
ある時代の精神構造的暴力とは、その時代の人々の自我を維持するための間接的暴力であり、それによって個人(社会的個人・社会的役割を担う個人)の精神構造のシステムが維持されるのである。その力を持つことによって、社会構造的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。それが、社会病理に対する対応策なのである。
また、ある時代の社会構造的暴力とは、その時代の社会を維持するための間接的暴力であり、それによって社会文化の構造やシステム維持されるのである。その力を持つことによって、個人的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。つまり、それが精神病理に対する対策となる。
参考資料
(1)吉田民人先生(以後、吉田民人と呼ぶ)はある記号から別の記号への変換、つまり「記号が記号を意味する作用を『内包する』と呼んだ。 吉田民人『自己組織性の情報科学』、新曜社、1990、pp47-49
(2)ピーター・バーガー トーマス・ルックマン 山口節郎訳 『現実の社会的構成 知識社会学論考 』 新曜社、新版2003.2、pp111-140
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三石博行
社会構造的暴力の内化としての精神構造的暴力
本能の壊れている動物・人間が生きていくために人類が見つけ出した装置がタブー、伝統、習慣、社会規範や法律、規則であった。総じて、それらの社会文化的規範を自己化することを、現実則に即して動く自我と呼んだ。人類が考えた精神エネルギーを現実の生活や生命の維持のために活用する社会文化的規則に即して、自我が機能することで、自我は現実的に生存可能な行動や思考を行うことが出来るようになった。
つまり、社会文化規則(社会構造的暴力)がなければ、現実則(精神構造的暴力)を形成することは出来ない。換言すると、精神構造的暴力は社会構造的暴力が無ければ形成されない。社会構造的暴力がなければ、本能が機能しない人類は他者との共存も不可能になり、その結果、自らの生存条件を獲得することも出来ないことになる。自らの生命を維持するために、自我は現実則で機能することになる。
社会構造的暴力に類似した精神構造的暴力を自我に形成することで、生態系との調和や種の保存を生命活動の第一次的目的に出来ない人間的行動が修正され、無条件に自己をリビドー(人間的性欲)の対象とする自我の原初的な形態が抑制される。社会の規則に即して欲望を満たすこと、社会的価値の具現的対象としてある他者を自己の理想とする機能が生まれ、そのイメージが自己化され、自己の理想とする価値観やモラルが形成される。
社会構造的暴力は本能の壊れた動物・人間を存続させるために創り出された(発明された)機能なのである。つまり、本能が壊れている人間の生物的生存可能性を保障するための文化的装置としての社会構造的暴力であり、その内化によって作り出されたものが精神構造的暴力である。
意識・社会構造的暴力の土台に類似して機能する精神構造的暴力の産物
人間(乳児)が言語を話すようになって、自我(自己意識)が形成された。自己とは自ら発した言語によって再確認された存在を意味する。もし、言語が無ければ自己意識はない。声帯運動によって作り出されている音を同時に聴覚器官によって知覚し、その聴覚刺激が脳で意味となると同時に、運動野で生み出されている声帯運動の指示と同時化することによって生じたものが自己意識である。
聴覚野の音声パターンが視覚野の表象パターンへ変換し、その表象パターンが運動野の声帯運動パターンへ変換し、その声帯運動パターの声帯運動を生み出す(1)。それによって、自己の外に飛び出した音(音声)が、同時に、また再び、聴覚を刺激し、聴覚神経の刺激パターンが聴覚野へ伝達を繰り返すのである。この内的身体機能運動によって生産された外的世界の産物によって、再び内的身体機能が刺激され、外的世界の産物を通じて(声を聴くことを通じて)内的身体機能の所在を理解するのである。これが、所謂自己意識なのだ。
自己とは自己の生み出す身体運動の彼方に存在するものである。自己とは、その身体運動を認識する法則(言語的法則・文法や意味)を前提にして、理解された他者(外化された自己・自我活動によって外に生み出された自己の影)なのである。つまり、自我が言語化されていない限り、自己意識は存在しえない。何故なら自己意識とは言語活動を自我する自我がその生産物(言語活動・音声)を認知することによって生じた意識であるからだ。
更に述べると、精神構造的暴力の土台が社会構造的暴力の土台を真似て作られなければ、自己意識や意識は生み出せない。言語によって構造化されて自我の結果として、自己意識や対象意識(意識)が存在しているのである。つまり、意識とは、言語と呼ばれる社会文化的産物、社会構造的暴力の土台に類似して機能する言語活動と呼ばれる精神構造的暴力の産物によって生み出される。
内的世界の外化、外的世界の内化
そこで、意識は基本的には社会構造的暴力の土台に規定されている。それらは社会文化規範、つまり言語、価値、習慣、規範と呼ばれる社会や文化の構造に規定されている。しかし、その社会文化は人間活動の生産物である。人間活動がなければ、社会文化的構造は生産されない。その生産物として社会文化の構造、つまり社会構造的暴力を生み出すシステムが存在している。
同時に、社会構造は社会を構成する人々の意識によって機能する。例えば、もし、職業や社会的所属に対する意識(責任感)、社会的役割という個人の社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないだろう。社会制度があるから社会が機能するのでなく、その制度を担う人々、言い換えればそれらの人々の自分の社会的役割と呼ばれる社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないのである。(2)
社会構造的暴力の効力は、精神構造的暴力が社会を構成する人々に共通して機能していることが前提条件となる。これを、共同主観と呼ぶことも出来る。つまり、社会構成員がその社会的役割を自己意識として確立していなければ、社会は機能しないし、社会構造的暴力は生み出されないのである。社会機能の有効性は個人的意識において有効性を持つことで発揮されている。しかも、その個人とは社会的な個人である。つまり、ある集団であり、その集団を構成する大半の個人が共通に持っている価値観、モラル、社会文化規範、常識とよばれる意識である。
その意味で、社会構造的暴力やその土台は、精神構造的暴力やその土台と相互に補完し合う関係にある。つまり、生産活動において内的構造(精神構造)は外化(社会構造化)される。その外化作用の蓄積によって社会構造の土台が形成され、その社会構造の土台はそれを生産した人々の意識によって運営される。その運営形態を社会構造的暴力と呼ぶ。社会構造的暴力によって、社会構造(過去の人間的生産物の蓄積とその構造)は、あたかもそれ自体(生産物自体)が生きているかのように機能するのである。それを動かすのは、その社会の構成する人々、そしてその人々が持つ社会的役割意識とよばれる精神構造なのである。
しかし、同時にそれらの人々の持つ社会的役割意識は、以前に作られた生産物の蓄積、つまり社会構造によって根拠づけられるのである。その物的根拠なくして、社会的機能に関する個人の役割意識もそして精神構造的暴力も生産されないのである。
つまり、社会構造的暴力によって精神構造的暴力は形成され、精神構造的暴力によって社会構造的暴力は機能する。その社会構造的暴力の機能によって、精神構造的暴力は規定され、その規定された環境からさらに社会構造的暴力が再生産されるのでる。
生存するための闘い・暴力の起源
社会構造的暴力と精神構造的暴力の限りない相互補填運動によって、社会構造的暴力は維持され、その限りにおいて精神構造的暴力も維持されつづけるなら、つまり、この二つの相互補完関係が限りなく続くなら、自我の破綻や社会の破綻の根拠、そして新しい自我や社会変革が生まれる過程を説明できないだろう。
社会構造を維持するための力、つまり社会的価値観や規範の強制力である。その意味で、この力を社会構造的暴力と呼んだ。社会はその社会を構成する人々に、社会を維持させるために力(強制力)をもって登場する。その強制力は、しかし、精神構造化されることで有効に発揮される。個人の価値観、道徳心、モラルが形成される。それを精神構造的暴力と呼んだ。社会構造的暴力によって生み出された精神構造的暴力を持つことで、人々は(そのモラルに基づき)社会的役割を自覚し、生活、社会行動、生産活動を行うことが可能になった。
精神構造的暴力が有効に働かない場合にその精神構造的暴力装置(自我)の機能を解体し、新しい自我の機能に変えなければならない。精神分析が語る「転移」がそこで生じる。つまり、理想の自我の変換が起こる。そのためには、古い理想を捨てなければならない。この理想の自我、自我の理想の廃棄のためには、新しいリビドーの対象が選ばれることになる。古い自我を捨てるために、新しい理想の対象が登場し(新しい精神エネルギーの投資対象が登場し)の自我の変革作業が進行するのである。新しい自我によって、精神の安定を獲得し、より有効に精神エネルギーを投資し、現実の生活を運営するために、自我の変換が行われるのである。
また、社会構造的暴力が有効に働かない場合には、古い社会的習慣や規則は破棄される。その破壊の主体は新しい社会的価値観をもった人々(若者)たちである。彼らは、これまでの社会構造的暴力の正当性を否定する。その根拠は、その社会構造的暴力では社会構造が安定しえないからである。例えば、現在北アフリカで進む民主化運動は、民衆化という理念的課題を追求するために生じている運動ではない。食料や生活の貧困が生み出す社会的危機に対して、その解決として現在の制度を否定しているのである。人民が満足しているなら、革命は生じない。しかし、社会が人々の生存を保障しないから、人々はその社会制度や秩序を否定し、新たな秩序や制度を確立するために動く。目的は、あくまでも、飢餓や貧困から人民を救済するために有効な制度を持つ社会の確立である。40年前、カダフィーがやった様に、若い人々が独裁者カダフィーに対してリビア人民の貧困か社会を救済するために血を流すのである。
古い精神構造や社会構造を破壊するために、新たな理想、価値観が登場し、自我や社会は変革されて行く。例えば、新しい世界観、西洋科学技術観、民主主義や資本主義思想によって影響を受けた人々によって、幕末や明治の日本の近代化(社会変革)が行われたよう、欧米近代思想やその社会的価値観が日本の近代社会への変革の力となった。欧米列強による植民地化を防ぐために、明治維新、近代化政策や富国強兵政策を推し進めたのである。
また、戦後民主主義は敗戦の責任として古い日本への批判と同時に戦勝国の新しい社会的価値観が導入され、国民主権、人権擁護と平和主義を謳う日本国憲法が公布され施行さることで、戦後民主主義社会思想に基づく自由主義と平等主義を原則とする自我が形成される。つまりそれまでの封建的自我は破棄され新しい自我に変革されるのである。そして、自由主義経済を興し、平和な経済国家を目指し、戦後の経済復興に取り組んできたのである。
精神構造的病理と社会構造的病理への対策として・構造的暴力の意味
ある時代の精神構造的暴力とは、その時代の人々の自我を維持するための間接的暴力であり、それによって個人(社会的個人・社会的役割を担う個人)の精神構造のシステムが維持されるのである。その力を持つことによって、社会構造的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。それが、社会病理に対する対応策なのである。
また、ある時代の社会構造的暴力とは、その時代の社会を維持するための間接的暴力であり、それによって社会文化の構造やシステム維持されるのである。その力を持つことによって、個人的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。つまり、それが精神病理に対する対策となる。
参考資料
(1)吉田民人先生(以後、吉田民人と呼ぶ)はある記号から別の記号への変換、つまり「記号が記号を意味する作用を『内包する』と呼んだ。 吉田民人『自己組織性の情報科学』、新曜社、1990、pp47-49
(2)ピーター・バーガー トーマス・ルックマン 山口節郎訳 『現実の社会的構成 知識社会学論考 』 新曜社、新版2003.2、pp111-140
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2011年2月18日金曜日
精神構造的暴力と社会構造的暴力の相反構造
人間論から解釈される暴力の概念(3)
三石博行
精神構造的暴力の最小作用の法則・現実則
社会的秩序を守ることで自我は欲望を抑制することができる。この抑制機能を現実則と呼んだ。つまり、現実則は現実の自我を守るために自我の過剰な精神エネルギーの投資活動を抑制する機能である。そして、現実則によって自我は幻想でしかない欲望の対象に精神エネルギーを費やすことを極力抑えることが可能になるのである。
言い換えると、現実則とは精神構造のシステム内のエネルギーを少なくする機能を持っている。精神構造を維持しているリピドーが精神構造的暴力の起源であったので、現実則は過剰な精神構造的暴力は抑える精神経済的メカニズムであり、物理的用語を使うなら、丁度、精神構造的暴力の最小作用の法則であるとも言える。
例えば、精神構造的暴力が抑制されている人を、理性的で、社会的で、協調性のある、モラルを持った人だと我々は呼んでいる。殆どの堅実で保守的な人々は、この部類に所属している。それらの人々は、決して欲望に身を任すことはなく、感情を抑え、論理的飛躍を嫌い、社会規則を守り、他人への迷惑行為を慎み、皆と協力し合い、身持ちよく、きちんとした生活を送る。これが、精神構造的暴力をその機能を維持するための最小限の状態に抑えることに成功している人の思考や行動パターンである。そして、精神構造的暴力を必要最小限に抑制できている人々は社会で高く評価されている。
精神構造的暴力の抑制による社会構造的暴力の強化
社会はその社会秩序を守る人々によって安全に運営されている。社会的役割に対する個人的責任を全うする人々によって社会は機能している。つまり、現実則に従って動く人が社会機能を維持していると言える。そして、社会構造は、社会秩序を守り、自己の社会的役割分担に責任を持つ人々が多くいることで安定する。当然の事であるが、保守的で体制維持派の人々が多いほど社会は平穏に運営されるのである。
社会秩序を守る人は、前記したように、現実則によって自己の欲望を抑制している、つまり精神構造的暴力を抑制している人である。そして、精神構造的暴力を抑制している人々の価値観が社会全体に押し広げられた場合、社会は保守的になる。
社会は、個人に対してその社会の価値観を強要する。また、社会は個人の行動をその社会的規則によって厳しく制限することになる。その典型が中世、封建時代の社会である。身分制度や宗教的価値観で個人の行動は厳しく規制されていた。社会的役割は生まれながらにして決定され、農民は生涯農民として、女性は出産と育児が社会的義務とされていた。自由な社会経済活動は一切許されなかった。
言い換えると、精神構造的暴力を極度に抑制し、その抑制を社会全体で奨励もしくは強制することによって、こんどは逆に、社会構造的暴力が強化されるのである。
近代化(精神構造的暴力の拡大化)から生まれた現代資本主義社会
人類の歴史を振り返ると、社会経済の進歩は社会構造的暴力を抑え、精神構造的暴力を寛容してきた。近代社会を生み出す自由思想は、身分制度や宗教的世界観等の封建主義社会秩序を崩壊させた。職業選択の自由、表現の自由、経済活動の自由、学問の自由、信条や信仰の自由等々によって、人々は自分の行動や思想を自分で選択する権利を得た。
つまり、精神構造的暴力を認め、リピドーを自己に投資し、自己の理想や夢に向かって生きる。封建社会で創られた自我、つまり自らの人生はすでに定められ、それに従って生きることを美徳とするのでなく、自らの人生は自らの力で切り開くこと、希望に向かって生きることが人生の美徳となる。近代的自我が形成され、自由を縛りつけてきた社会的制約を払いのけ、人生を冒険すること、自分の意思で自分の生き方を選ぶことが新たな自我のスタイルとなる。社会的にも、自由に生き、そして社会的に成功することが高く評価される。
近代化とは、個人的自由を束縛した社会構造的暴力(封建制度の価値観や世界観)を取り除き、人間が自由な存在であることを自覚したことから始まる。中世的世界観の抑制から解放されるために、その世界観を支配していた哲理、観念、法則をことごとく否定し、新しい合理性を打ち立てた。その合理性は、実際に新たな産業を興す力となるのである。
資本主義経済は精神構造的暴力をできる限り認め、自由と呼ばれる価値観によって、営まれる経済競争による紛争、市場獲得や独占、新たな経済格差の承認を認めてきた。それは自由経済や資本主義社会と呼ばれる社会構造暴力のシステムを構築し続けてきた。
つまり、人間の自由がすべての権利の中で最高を占め、生命や生活の保護よりも、人間の自由が重要視されることになる。食糧が先物取引や投資の材料となり、食料価格が上がることで投資家が利益を得る。その利益の犠牲者として発展途上国では貧困にあえぐ人々が食糧まで奪われることになる。エジプトの庶民が一日、200円の生活で主食の材料する買えない生活の中で、先進国の富裕層は数千億の財を築くのである。
精神構造的暴力を最大限に発揮させ、突き進んできた近代化、民主化、資本主義経済化、自由主義の嵐は、これから先、どのようになるのだろうか。現在の先端資本主義経済・金融資本主義は、寧ろ、資本主義経済の限界を示す状態に辿り着いたと言えないだろうか。
そして、これまでの自由主義を改めさせる新しい社会思想によって、肥大化した精神構造的暴力を抑制するために、新たな社会構造的暴力が準備されようとしていないだろうか。つまり、新しいファシズムやナチズムが、台頭しないと誰が保障するのだろうか。
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三石博行
精神構造的暴力の最小作用の法則・現実則
社会的秩序を守ることで自我は欲望を抑制することができる。この抑制機能を現実則と呼んだ。つまり、現実則は現実の自我を守るために自我の過剰な精神エネルギーの投資活動を抑制する機能である。そして、現実則によって自我は幻想でしかない欲望の対象に精神エネルギーを費やすことを極力抑えることが可能になるのである。
言い換えると、現実則とは精神構造のシステム内のエネルギーを少なくする機能を持っている。精神構造を維持しているリピドーが精神構造的暴力の起源であったので、現実則は過剰な精神構造的暴力は抑える精神経済的メカニズムであり、物理的用語を使うなら、丁度、精神構造的暴力の最小作用の法則であるとも言える。
例えば、精神構造的暴力が抑制されている人を、理性的で、社会的で、協調性のある、モラルを持った人だと我々は呼んでいる。殆どの堅実で保守的な人々は、この部類に所属している。それらの人々は、決して欲望に身を任すことはなく、感情を抑え、論理的飛躍を嫌い、社会規則を守り、他人への迷惑行為を慎み、皆と協力し合い、身持ちよく、きちんとした生活を送る。これが、精神構造的暴力をその機能を維持するための最小限の状態に抑えることに成功している人の思考や行動パターンである。そして、精神構造的暴力を必要最小限に抑制できている人々は社会で高く評価されている。
精神構造的暴力の抑制による社会構造的暴力の強化
社会はその社会秩序を守る人々によって安全に運営されている。社会的役割に対する個人的責任を全うする人々によって社会は機能している。つまり、現実則に従って動く人が社会機能を維持していると言える。そして、社会構造は、社会秩序を守り、自己の社会的役割分担に責任を持つ人々が多くいることで安定する。当然の事であるが、保守的で体制維持派の人々が多いほど社会は平穏に運営されるのである。
社会秩序を守る人は、前記したように、現実則によって自己の欲望を抑制している、つまり精神構造的暴力を抑制している人である。そして、精神構造的暴力を抑制している人々の価値観が社会全体に押し広げられた場合、社会は保守的になる。
社会は、個人に対してその社会の価値観を強要する。また、社会は個人の行動をその社会的規則によって厳しく制限することになる。その典型が中世、封建時代の社会である。身分制度や宗教的価値観で個人の行動は厳しく規制されていた。社会的役割は生まれながらにして決定され、農民は生涯農民として、女性は出産と育児が社会的義務とされていた。自由な社会経済活動は一切許されなかった。
言い換えると、精神構造的暴力を極度に抑制し、その抑制を社会全体で奨励もしくは強制することによって、こんどは逆に、社会構造的暴力が強化されるのである。
近代化(精神構造的暴力の拡大化)から生まれた現代資本主義社会
人類の歴史を振り返ると、社会経済の進歩は社会構造的暴力を抑え、精神構造的暴力を寛容してきた。近代社会を生み出す自由思想は、身分制度や宗教的世界観等の封建主義社会秩序を崩壊させた。職業選択の自由、表現の自由、経済活動の自由、学問の自由、信条や信仰の自由等々によって、人々は自分の行動や思想を自分で選択する権利を得た。
つまり、精神構造的暴力を認め、リピドーを自己に投資し、自己の理想や夢に向かって生きる。封建社会で創られた自我、つまり自らの人生はすでに定められ、それに従って生きることを美徳とするのでなく、自らの人生は自らの力で切り開くこと、希望に向かって生きることが人生の美徳となる。近代的自我が形成され、自由を縛りつけてきた社会的制約を払いのけ、人生を冒険すること、自分の意思で自分の生き方を選ぶことが新たな自我のスタイルとなる。社会的にも、自由に生き、そして社会的に成功することが高く評価される。
近代化とは、個人的自由を束縛した社会構造的暴力(封建制度の価値観や世界観)を取り除き、人間が自由な存在であることを自覚したことから始まる。中世的世界観の抑制から解放されるために、その世界観を支配していた哲理、観念、法則をことごとく否定し、新しい合理性を打ち立てた。その合理性は、実際に新たな産業を興す力となるのである。
資本主義経済は精神構造的暴力をできる限り認め、自由と呼ばれる価値観によって、営まれる経済競争による紛争、市場獲得や独占、新たな経済格差の承認を認めてきた。それは自由経済や資本主義社会と呼ばれる社会構造暴力のシステムを構築し続けてきた。
つまり、人間の自由がすべての権利の中で最高を占め、生命や生活の保護よりも、人間の自由が重要視されることになる。食糧が先物取引や投資の材料となり、食料価格が上がることで投資家が利益を得る。その利益の犠牲者として発展途上国では貧困にあえぐ人々が食糧まで奪われることになる。エジプトの庶民が一日、200円の生活で主食の材料する買えない生活の中で、先進国の富裕層は数千億の財を築くのである。
精神構造的暴力を最大限に発揮させ、突き進んできた近代化、民主化、資本主義経済化、自由主義の嵐は、これから先、どのようになるのだろうか。現在の先端資本主義経済・金融資本主義は、寧ろ、資本主義経済の限界を示す状態に辿り着いたと言えないだろうか。
そして、これまでの自由主義を改めさせる新しい社会思想によって、肥大化した精神構造的暴力を抑制するために、新たな社会構造的暴力が準備されようとしていないだろうか。つまり、新しいファシズムやナチズムが、台頭しないと誰が保障するのだろうか。
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2011年2月17日木曜日
精神構造的暴力・自我を維持するための力
人間論から解釈される暴力の概念(2)
三石博行
前節で、人間的暴力の起源として今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)が述べた「根源分割」に言及しながら、生命力(エロス)とナルシシズムを具体的な暴力の起源として語った。つまり、リビドー(人間的な性的欲望、欲動)を、人間論的な視点から、暴力性を生み出す力と考えた。
生命力の起源としてのリビドー(人間的性欲)・暴力性
もし、エロスがなければ、人は人として生きることは出来ない。また、もしナルシシズムがなければ、人は自分の理想を持ち、その理想に向かって生きることは出来ない。つまり、人間として生きている条件に十分なリビドー(プラスの精神エネルギー)があり、その精神エネルギーを自己に投資することで自我の基本的構造である「自我の理想(ideal de moi )」(欲望の対象)を形成している。自我の理想とは現実の自己ではない。それは尊敬する人である。
「現実の自我」はこの「自我の理想」(尊敬する人)を目標にしながら努力し続けることが出来る。「現実の自我」(尊敬する人)は「現実の自我」ではないが、その自我の精神エネルギーを投資している対象(欲望の対象)である。その対象に自己を同化させ、その対象のまねをする。
つまり、「自我の理想」に向けられた精神エネルギーとは、現実の自己がその欲望の対象である「自我の理想」へ同化しようとする作用であると言える。勿論、現実の自我は、「自我の理想」ではない。リビドーの対象(理想の人)へ現実の自我を同化しようとするのである。この同化作用とは、観方を変えれば現実の自我を理想化された幻想の自我の姿として解釈する作用であるとも言える。自我の理想に同化しようとして形成された幻想の自我を「理想の自我( moi ideal )」と呼んでいる。
自我は自我の理想を持ち(希望を持ち)、その自我の理想(尊敬する人)に現実の自分を近づくために努力する。しかし、その理想には到底達し得ない。それが現実の姿である。だが、どうしてもこの現実の惨めな自分を勇気付け、そして一歩でも尊敬する人のようになりたいと思う。昨日の失敗を反省し、今日も努力する。そして、昨日よりも今日はよく出来た。その自分を励ましながら生きている。自分は出来る。必ず出来ると思いながら生きている。その力は、自分が尊敬する人に少しずつ近づいているという確信から生み出される。つまり、その確信とは確かに幻想かもしれないが、努力し、尊敬する人のようになりたいという自分にとっては希望の星なのだ。
以上の議論から、エロスやナルシズムの力(人間的暴力の起源)を取り除くことは、人間にとっては不可能なことであることが理解できるのである。
精神構造的暴力と社会構造的暴力
自我を維持するために、絶対的に必要な力、つまりエスからのプラスの精神エネルギー(リビドー・欲望)、そのエネルギーによって生み出されたエロスやナスシシズム、しかし、それは同時に、人間的暴力性の起源となる。
この暴力性は精神構造を維持するために必要なエネルギーであり、精神構造はその暴力性によって安定していると言える。この精神構造のシステムを維持するために、つまり、自我が、リピドーの具体的な投資対象(理想の自我)を持つことで、自我は安定しているのである。
この精神構造のシステム(自我)を維持する力を「精神構造的暴力」と呼ぶことにする。この名称は、以前、社会文化構造のシステムを維持する力として構造的暴力を定義したが、それと同様に、精神構造を維持する力を精神構造的暴力と呼ぶことにする。また、混乱を避けるために、社会文化の構造的暴力を「社会構造的暴力」と言いかえ、自我のシステムを維持する力を「精神構造的暴力」と命名することにした。
また、この二つの構造的暴力は、自我にしろ、社会文化にしろ、システムを維持するための暴力(エネルギー)であるので、間接的暴力として現れる。つまり、精神構造的暴力は誰かを具体的に直接的に攻撃しているのではなく、むしろ、間接的に攻撃しているスタイルを取る。例えば、ナスシシストの態度は「鼻につく」という不愉快感を人に与えるのだが、ナルシシストが誰かに悪意を持って自分の顔の美しさを鏡で見ていることはない。ただ、彼は(彼女は)自分の美しさに惚れ惚れし、もっと美しくありたいと願っているのである。しかし、その行為が、誰かにとっては「たまらない」ものに感じるのである。構造的暴力の一般的定義から、この暴力は常に間接的暴力の形態を取るのである。
過剰な精神構造的暴力を抑える現実則の働き
精神構造的暴力を抑制するために、つまりナルシシストにならないための精神機能が現実則とよばれる精神経済機能である。過剰の精神エネルギー(リビドー)の自己投資によって、つまり理想の自我を追い求めようとすることによって、自我は不安定になる。例えば、高い理想、実現不可能な理想を持てば、だれでも挫折するだろう。そこで、そんな高い理想でなく、「自分の背丈にあった目標を持つべきだ」と現実の自我が呼びかける。そうすることで、不可能な目標を立てて苦しむ自我を救うのである。これが「現実則」と呼ばれる精神機能の働きである。
また、他人や社会の迷惑を考えずに、自分の欲望を直接満たそうとする気持ちを抑え、社会的規則を守り欲望を満たすための方法を見つけ出すこころの働きを生み出す作用が、この現実則である。現実則によって、人々は、他の人々と共存できる。また現実則によって、社会的規則に従って考え行動する自我が生まれる。エス(無意識の自我)から直接湧き上がるリビドーを調整し、社会的に認められた方法で欲望を満たす行動をさせるために現実則は機能する。
現実則によって精神構造的暴力は最小限自我の維持のために使われることになる。現実則によって過剰な精神エネルギーの投資を抑えられる。つまり、現実的でない高い目標を追いかける無駄な行動を起こさない。そして、出来ることをコツコツとこなす日常生活を大切にする。そのことで、こころは安定する。
自我の内部に過剰なエネルギーを持ち続けることは、つまり、何かの情熱に浮かれた状態を想像すれば理解できる。例えば、現実生活を無視しても、その理想や不可能な恋の対象を追い掛け回す毎日が続くなら、必ず現実の生活は破綻を来たすのである。そこで、自我の内部の過剰なエネルギーを抑制するために、自我が持つ機能として超自我がある。この超自我は無条件に自我のエネルギーに急ブレーキを掛ける。急ブレーキでなく、納得積みのブレーキ、つまり自らが理解して自我の過剰なエネルギーを抑えるのが現実則である。
この現実則の働きは「社会的規則に従う」という大儀名分が用いられる。また、「そうでないと人が迷惑する」というモラルが用いられ、そして「そうすることでお互いが助かる」という理念に支えられるのである。つまり、精神構造的暴力を抑える力として現実則が存在し、その力を我々は理性、社会性、協調性やモラルと呼んでいる。
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修正 誤字 2011年6月28日
三石博行
前節で、人間的暴力の起源として今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)が述べた「根源分割」に言及しながら、生命力(エロス)とナルシシズムを具体的な暴力の起源として語った。つまり、リビドー(人間的な性的欲望、欲動)を、人間論的な視点から、暴力性を生み出す力と考えた。
生命力の起源としてのリビドー(人間的性欲)・暴力性
もし、エロスがなければ、人は人として生きることは出来ない。また、もしナルシシズムがなければ、人は自分の理想を持ち、その理想に向かって生きることは出来ない。つまり、人間として生きている条件に十分なリビドー(プラスの精神エネルギー)があり、その精神エネルギーを自己に投資することで自我の基本的構造である「自我の理想(ideal de moi )」(欲望の対象)を形成している。自我の理想とは現実の自己ではない。それは尊敬する人である。
「現実の自我」はこの「自我の理想」(尊敬する人)を目標にしながら努力し続けることが出来る。「現実の自我」(尊敬する人)は「現実の自我」ではないが、その自我の精神エネルギーを投資している対象(欲望の対象)である。その対象に自己を同化させ、その対象のまねをする。
つまり、「自我の理想」に向けられた精神エネルギーとは、現実の自己がその欲望の対象である「自我の理想」へ同化しようとする作用であると言える。勿論、現実の自我は、「自我の理想」ではない。リビドーの対象(理想の人)へ現実の自我を同化しようとするのである。この同化作用とは、観方を変えれば現実の自我を理想化された幻想の自我の姿として解釈する作用であるとも言える。自我の理想に同化しようとして形成された幻想の自我を「理想の自我( moi ideal )」と呼んでいる。
自我は自我の理想を持ち(希望を持ち)、その自我の理想(尊敬する人)に現実の自分を近づくために努力する。しかし、その理想には到底達し得ない。それが現実の姿である。だが、どうしてもこの現実の惨めな自分を勇気付け、そして一歩でも尊敬する人のようになりたいと思う。昨日の失敗を反省し、今日も努力する。そして、昨日よりも今日はよく出来た。その自分を励ましながら生きている。自分は出来る。必ず出来ると思いながら生きている。その力は、自分が尊敬する人に少しずつ近づいているという確信から生み出される。つまり、その確信とは確かに幻想かもしれないが、努力し、尊敬する人のようになりたいという自分にとっては希望の星なのだ。
以上の議論から、エロスやナルシズムの力(人間的暴力の起源)を取り除くことは、人間にとっては不可能なことであることが理解できるのである。
精神構造的暴力と社会構造的暴力
自我を維持するために、絶対的に必要な力、つまりエスからのプラスの精神エネルギー(リビドー・欲望)、そのエネルギーによって生み出されたエロスやナスシシズム、しかし、それは同時に、人間的暴力性の起源となる。
この暴力性は精神構造を維持するために必要なエネルギーであり、精神構造はその暴力性によって安定していると言える。この精神構造のシステムを維持するために、つまり、自我が、リピドーの具体的な投資対象(理想の自我)を持つことで、自我は安定しているのである。
この精神構造のシステム(自我)を維持する力を「精神構造的暴力」と呼ぶことにする。この名称は、以前、社会文化構造のシステムを維持する力として構造的暴力を定義したが、それと同様に、精神構造を維持する力を精神構造的暴力と呼ぶことにする。また、混乱を避けるために、社会文化の構造的暴力を「社会構造的暴力」と言いかえ、自我のシステムを維持する力を「精神構造的暴力」と命名することにした。
また、この二つの構造的暴力は、自我にしろ、社会文化にしろ、システムを維持するための暴力(エネルギー)であるので、間接的暴力として現れる。つまり、精神構造的暴力は誰かを具体的に直接的に攻撃しているのではなく、むしろ、間接的に攻撃しているスタイルを取る。例えば、ナスシシストの態度は「鼻につく」という不愉快感を人に与えるのだが、ナルシシストが誰かに悪意を持って自分の顔の美しさを鏡で見ていることはない。ただ、彼は(彼女は)自分の美しさに惚れ惚れし、もっと美しくありたいと願っているのである。しかし、その行為が、誰かにとっては「たまらない」ものに感じるのである。構造的暴力の一般的定義から、この暴力は常に間接的暴力の形態を取るのである。
過剰な精神構造的暴力を抑える現実則の働き
精神構造的暴力を抑制するために、つまりナルシシストにならないための精神機能が現実則とよばれる精神経済機能である。過剰の精神エネルギー(リビドー)の自己投資によって、つまり理想の自我を追い求めようとすることによって、自我は不安定になる。例えば、高い理想、実現不可能な理想を持てば、だれでも挫折するだろう。そこで、そんな高い理想でなく、「自分の背丈にあった目標を持つべきだ」と現実の自我が呼びかける。そうすることで、不可能な目標を立てて苦しむ自我を救うのである。これが「現実則」と呼ばれる精神機能の働きである。
また、他人や社会の迷惑を考えずに、自分の欲望を直接満たそうとする気持ちを抑え、社会的規則を守り欲望を満たすための方法を見つけ出すこころの働きを生み出す作用が、この現実則である。現実則によって、人々は、他の人々と共存できる。また現実則によって、社会的規則に従って考え行動する自我が生まれる。エス(無意識の自我)から直接湧き上がるリビドーを調整し、社会的に認められた方法で欲望を満たす行動をさせるために現実則は機能する。
現実則によって精神構造的暴力は最小限自我の維持のために使われることになる。現実則によって過剰な精神エネルギーの投資を抑えられる。つまり、現実的でない高い目標を追いかける無駄な行動を起こさない。そして、出来ることをコツコツとこなす日常生活を大切にする。そのことで、こころは安定する。
自我の内部に過剰なエネルギーを持ち続けることは、つまり、何かの情熱に浮かれた状態を想像すれば理解できる。例えば、現実生活を無視しても、その理想や不可能な恋の対象を追い掛け回す毎日が続くなら、必ず現実の生活は破綻を来たすのである。そこで、自我の内部の過剰なエネルギーを抑制するために、自我が持つ機能として超自我がある。この超自我は無条件に自我のエネルギーに急ブレーキを掛ける。急ブレーキでなく、納得積みのブレーキ、つまり自らが理解して自我の過剰なエネルギーを抑えるのが現実則である。
この現実則の働きは「社会的規則に従う」という大儀名分が用いられる。また、「そうでないと人が迷惑する」というモラルが用いられ、そして「そうすることでお互いが助かる」という理念に支えられるのである。つまり、精神構造的暴力を抑える力として現実則が存在し、その力を我々は理性、社会性、協調性やモラルと呼んでいる。
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修正 誤字 2011年6月28日
2011年2月11日金曜日
根源分割、生命力(エロス)、ナルシシズムと呼ばれる暴力性
人間論から解釈される暴力の概念(1)
三石博行
根源分割の痕跡・欲望の対象、記号、主体(自我)
前節で、人間論的視点から暴力の起源に関して、これまで今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)のJ.ソレル(Sorel)の解釈やデリダの解釈を基にしながら議論してきた。取り分け、今井の暴力の起源としての根源分割の意味について再度検討する。
今村は「根源分割」を暴力の起源においた(1)。認識論的視点から解釈すると今村の「根源分割」とは自己の世界の登場を意味する。つまり、この本源分割、対象が認識の風景に登場する過程(対象と非対象の間に線を引く過程)であり、その分割の結果の痕跡として表象が生じる。つまり根源分割は表象形成過程・対象認識過程と解釈することが出来る。
また、今井の「根源分割」は、精神分析の視点から解釈すると主体の形成過程を意味する。まず、自己と非自己の間に亀裂(線が引かれ)が生じ、主体に対する対象世界が生まれる。それらの対象世界は主体の精神活動の結果であるとも言える。(2)
さらに、この「根源分割」は、言語学的視点から観れば、対象世界の命名であり、その対象世界との能動的関係性(文法化)である。言語的規則性(構造化)によって主体は動く、つまり文化的秩序によって自我の精神運動が形成される。社会文化的存在者としての人間が生まれるのである。その出発は、根源分割機能を持ってしか作れない言語的記号によって可能となるとも言える。
つまり、人間学的な暴力の起源としての今井の「根源分割」は、欲望の対象とその記号、欲望の主体(自我)の三つの概念が生み出される過程を意味し、その痕跡として対象、記号や主体が存在すると解釈できる。
暴力としての生命力
前節での解釈、つまり本源分割を起源として、人間的暴力の要素として「欲望の対象とその記号、欲望する主体(自我)の三つの概念」に関して述べる。これらの三つの概念の形成過程と暴力性との関係について考える。
前節で述べた今村のソレルの6つ暴力の概念の分類は(3)、暴力とは生命力を意味するものであり、その生命力によって生み出される意志、観念、創造力、モラル、労働や徳が自我の姿であると解釈されている。
生の躍動とは、苦難に立ち向かい、降りかかる困難と闘い「人生を激しく充実して生きようとする意志」(3)であり、生命力である。その意味で、激しい命の闘いを「暴力性」に含めることが出来る。この場合、「暴力」とは他者を傷つけ破壊する行為というネガティブなイメージに「生命力」というポジチィブなイメージが馴染まないという批判が生まれる。
しかし、ある生命体は他の生命体を食し、侵略し、破壊する力である。個体を維持する強烈な生命力とは他の生命体を食べつくす力である。その二つの側面、個体を維持することと他を破壊することは生命力、つまり「生きようとする力」に関する同義語となる。
その生命力を前提にしなければ、無から有が生み出された歴史を説明することが出来ない。つまり、社会や国家の原型の形成史を物語る時、破壊と創造の物語の基盤に、原初的な荒ぶる力、生命力を置かなければならないのである。
また、社会が発展していく力、創造力、自己犠牲力、指導力、変革力、持続力の人間の生命力によって社会機能の成立しているのである。
そしてまた、暴力と生命力を同義的に置くことで、革命という秩序転換のメカニズムで生じる既成概念の崩壊と新しい秩序形成の過程が、社会的悪から社会的善への価値観の変換過程が、理解でいるのである。今村は、この法的秩序の崩壊や社会規範の変動は、暴力によって生じるある神話の崩壊と再生のドラマであると述べている。(1)
暴力としてのナルシシズム
以上述べた暴力概念は、人間の生物的生命力、精神的生命力、社会的生命力を意味する。それを生の哲学が「生の躍動」と語り、またフロイトはその生命力をエロスと呼び、その精神エネルギーをリビドーと呼んだ。
フロイトのリビドー(人間的な性欲)とは、人間は種の保存のエネルギー(動物的性欲)を個体保存のために使うと人間独自の性欲の在り方を意味している。種の保存のために個体は存在する。これが動物界の厳しい掟である。その掟に従って生きることを本能と呼んでいる。つまり、人間はその掟に従わず、性欲を自分のために使う。鏡を見てニッコリする猫も猿もいないのだが、人間だけは毎日鏡を見たい。川面に映った自分の姿に恋するナルシスとは、本能の狂った動物・人間の典型的な行為であると言える。
自分への性欲エネルギーの投資(自分の理想・幻想に向かって努力すること)によって、人は人間界で評価・「目標をもって生きる」人間であると尊敬される。理想を持つこと、目標に向かって生きること、そのすべてが性欲を自分のために使う本能が狂った行為、人間的行為によって生み出されている。
理想のために生きなくても、人は自分の飾り立て、綺麗な服装とお化粧をし、立派な時計を腕にまき、高級車に乗り、贅沢な生活に憧れる。そして、どれほどみすぼらしい生活をしていても、その質素な生活に人知れず誇りを持ち、それを自慢する。人から、プライドや自慢を取り除くことは、人間稼業を辞めよと言うのと等しい。それくらい、人は自分を褒めたい衝動と要求を常にもっているのである。これが、人間的な姿である。そして、その極端に、その自分の理想、夢、幻想ために自分の命さえ失うことを惜しまないという人にもなれるのである。
人間的行為の典型であるナルシシズムは、他者への無関心や排除を生み出す(4)。つまりナルシシズムとは人間的暴力性を秘めた生命力である。そこで、本来ナルシストである人間は、自然に自分と異なる他者を受け入れない。例えば、日本人であることへの誇りやプライドはそのまま在日外国人への排除心の基盤となる。
しかし、日本人としてのアイデンティティーを持たないで生きている日本人は居ないように、何かの国家、民族、社会や集団に所属する人間、これを社会的文化的存在と呼んでいる。民族としての自己のアイデンティティーを持たない人間はいない。
つまり、ナルシシズムやアイデンティティーは、精神活動の構造的暴力と理解できる。それらのエネルギー(暴力)が存在することで、精神構造は安定している。しかし、そのエネルギーは同時に、他者の排除を行う気持ちや感情のエネルギーとなっている。我々はナルシズムによって自分を未来に向けて努力させ向上さすことができる。そして、同時にそのナルシシズムによって他者を排除する暴力と破局にも自分を導くこともできるのである。
参考資料
(1)今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p.
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html
(2)三石博行 「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシシズム的形態 -今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html
(3)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf
(4)三石博行「いじめるという行為 -「いじめない」ことの困難さ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html
2011年2月14日 誤字修正
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三石博行
根源分割の痕跡・欲望の対象、記号、主体(自我)
前節で、人間論的視点から暴力の起源に関して、これまで今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)のJ.ソレル(Sorel)の解釈やデリダの解釈を基にしながら議論してきた。取り分け、今井の暴力の起源としての根源分割の意味について再度検討する。
今村は「根源分割」を暴力の起源においた(1)。認識論的視点から解釈すると今村の「根源分割」とは自己の世界の登場を意味する。つまり、この本源分割、対象が認識の風景に登場する過程(対象と非対象の間に線を引く過程)であり、その分割の結果の痕跡として表象が生じる。つまり根源分割は表象形成過程・対象認識過程と解釈することが出来る。
また、今井の「根源分割」は、精神分析の視点から解釈すると主体の形成過程を意味する。まず、自己と非自己の間に亀裂(線が引かれ)が生じ、主体に対する対象世界が生まれる。それらの対象世界は主体の精神活動の結果であるとも言える。(2)
さらに、この「根源分割」は、言語学的視点から観れば、対象世界の命名であり、その対象世界との能動的関係性(文法化)である。言語的規則性(構造化)によって主体は動く、つまり文化的秩序によって自我の精神運動が形成される。社会文化的存在者としての人間が生まれるのである。その出発は、根源分割機能を持ってしか作れない言語的記号によって可能となるとも言える。
つまり、人間学的な暴力の起源としての今井の「根源分割」は、欲望の対象とその記号、欲望の主体(自我)の三つの概念が生み出される過程を意味し、その痕跡として対象、記号や主体が存在すると解釈できる。
暴力としての生命力
前節での解釈、つまり本源分割を起源として、人間的暴力の要素として「欲望の対象とその記号、欲望する主体(自我)の三つの概念」に関して述べる。これらの三つの概念の形成過程と暴力性との関係について考える。
前節で述べた今村のソレルの6つ暴力の概念の分類は(3)、暴力とは生命力を意味するものであり、その生命力によって生み出される意志、観念、創造力、モラル、労働や徳が自我の姿であると解釈されている。
生の躍動とは、苦難に立ち向かい、降りかかる困難と闘い「人生を激しく充実して生きようとする意志」(3)であり、生命力である。その意味で、激しい命の闘いを「暴力性」に含めることが出来る。この場合、「暴力」とは他者を傷つけ破壊する行為というネガティブなイメージに「生命力」というポジチィブなイメージが馴染まないという批判が生まれる。
しかし、ある生命体は他の生命体を食し、侵略し、破壊する力である。個体を維持する強烈な生命力とは他の生命体を食べつくす力である。その二つの側面、個体を維持することと他を破壊することは生命力、つまり「生きようとする力」に関する同義語となる。
その生命力を前提にしなければ、無から有が生み出された歴史を説明することが出来ない。つまり、社会や国家の原型の形成史を物語る時、破壊と創造の物語の基盤に、原初的な荒ぶる力、生命力を置かなければならないのである。
また、社会が発展していく力、創造力、自己犠牲力、指導力、変革力、持続力の人間の生命力によって社会機能の成立しているのである。
そしてまた、暴力と生命力を同義的に置くことで、革命という秩序転換のメカニズムで生じる既成概念の崩壊と新しい秩序形成の過程が、社会的悪から社会的善への価値観の変換過程が、理解でいるのである。今村は、この法的秩序の崩壊や社会規範の変動は、暴力によって生じるある神話の崩壊と再生のドラマであると述べている。(1)
暴力としてのナルシシズム
以上述べた暴力概念は、人間の生物的生命力、精神的生命力、社会的生命力を意味する。それを生の哲学が「生の躍動」と語り、またフロイトはその生命力をエロスと呼び、その精神エネルギーをリビドーと呼んだ。
フロイトのリビドー(人間的な性欲)とは、人間は種の保存のエネルギー(動物的性欲)を個体保存のために使うと人間独自の性欲の在り方を意味している。種の保存のために個体は存在する。これが動物界の厳しい掟である。その掟に従って生きることを本能と呼んでいる。つまり、人間はその掟に従わず、性欲を自分のために使う。鏡を見てニッコリする猫も猿もいないのだが、人間だけは毎日鏡を見たい。川面に映った自分の姿に恋するナルシスとは、本能の狂った動物・人間の典型的な行為であると言える。
自分への性欲エネルギーの投資(自分の理想・幻想に向かって努力すること)によって、人は人間界で評価・「目標をもって生きる」人間であると尊敬される。理想を持つこと、目標に向かって生きること、そのすべてが性欲を自分のために使う本能が狂った行為、人間的行為によって生み出されている。
理想のために生きなくても、人は自分の飾り立て、綺麗な服装とお化粧をし、立派な時計を腕にまき、高級車に乗り、贅沢な生活に憧れる。そして、どれほどみすぼらしい生活をしていても、その質素な生活に人知れず誇りを持ち、それを自慢する。人から、プライドや自慢を取り除くことは、人間稼業を辞めよと言うのと等しい。それくらい、人は自分を褒めたい衝動と要求を常にもっているのである。これが、人間的な姿である。そして、その極端に、その自分の理想、夢、幻想ために自分の命さえ失うことを惜しまないという人にもなれるのである。
人間的行為の典型であるナルシシズムは、他者への無関心や排除を生み出す(4)。つまりナルシシズムとは人間的暴力性を秘めた生命力である。そこで、本来ナルシストである人間は、自然に自分と異なる他者を受け入れない。例えば、日本人であることへの誇りやプライドはそのまま在日外国人への排除心の基盤となる。
しかし、日本人としてのアイデンティティーを持たないで生きている日本人は居ないように、何かの国家、民族、社会や集団に所属する人間、これを社会的文化的存在と呼んでいる。民族としての自己のアイデンティティーを持たない人間はいない。
つまり、ナルシシズムやアイデンティティーは、精神活動の構造的暴力と理解できる。それらのエネルギー(暴力)が存在することで、精神構造は安定している。しかし、そのエネルギーは同時に、他者の排除を行う気持ちや感情のエネルギーとなっている。我々はナルシズムによって自分を未来に向けて努力させ向上さすことができる。そして、同時にそのナルシシズムによって他者を排除する暴力と破局にも自分を導くこともできるのである。
参考資料
(1)今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p.
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html
(2)三石博行 「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシシズム的形態 -今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html
(3)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf
(4)三石博行「いじめるという行為 -「いじめない」ことの困難さ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html
2011年2月14日 誤字修正
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2011年2月1日火曜日
暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシシズム的形態
今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評
三石博行
はじめに
今村仁司氏(以後 今村とよぶ)は、死去2年半前の2004年12月24日に立命館大学人文科学研究所暴力論研究会の第6回講演で、「暴力以前の力 暴力の起源」(1)について語った。
長年、暴力論を展開した今村のたどり着いた暴力の起源に関する考察が、この講演で展開されたのではないだろうか。講演資料のテキスト批評を通じ、今村氏が提起した暴力論の起源について解釈と分析を試みる。
テキスト批評とは知的生産にとって一種の演習問題に近い作業である。暴力の起源について考えるとき、社会科学的アプローチと人間科学的アプローチの二つが想定されるのであるが、デリダや今村の暴力論は人間科学的立場からの研究である。テキスト批評を通じて、その課題をより深める。
1、分析資料と著者の紹介
活用文献
今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p. 文献コード名 (IMANhit 04a)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html
著者紹介
今村仁司 (1942年2月26日-2007年5月5日) 日本の哲学者、社会経済思想家、特にフランス現代思想を日本に紹介し、日本の現代思想の潮流を形成する。多くの著書、翻訳をはじめとして、さらに『廣松渉著作集』を共編する等々、数々の業績を残している。
参考 Wikipedea 「今村仁司」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E4%BB%81%E5%8F%B8
2、文献の要約
2-1、「はじめに」(IMANhit 04a p1)
今村仁司氏(以後 今村と呼ぶ)は、講演の冒頭で「暴力現象は人間社会のなかで弁別できないほど多様に、また無数に出現する。」(IMANhit 04a p1)そしてそれらの暴力現象を示す用語も無数に生まれる。
そのような複雑な暴力現象を表現する用語や概念の密林に迷い込み、暴力的現象を明確に区別し理解することの出来なくなった現代社会に対して、今村は「この(暴力現象の)錯綜の森をどうして切り抜けていくことができるのだろうか。
以下では、暴力以前の力が何ごとであるかについて試論を提起してみたい。」(IMANhit 04a p1)と語りかけている。
2-2、「線を引くこと(根源分割)」(IMANhit 04a pp1-3)
根源分割とは
暴力の起源について語るとき、今村がまず引用したのがヘーゲルの「分割する(Scheiden)という行為は悟性の力と働き(Arbeit)であり、その悟性とはもっとも驚くべき、またもっとも大きい力、いやむしろ絶対的な力である。」(同上)という概念である。
つまり、今村は、「形なき空間に一本の線を引く」原初的線引きを「線引きは分割であり、分割は無形から有形を産出する。 原初の線引きすなわち根源分割があり、そこから形と姿をもつ「世界」が現れる」(同上)と述べた。
この根源分割「原初の分割」を、ヘーゲルの主知主義の埒内での分割作用、つまり悟性(知性)的な概念形成等の知的思考作用・「人間的精神(思考するという意味での)の開始」として議論するのでなく、「人間的存在の開始」であると考える。従って、今村の言う「根源分割は「人間の」現実存在を生み出す」ものであり、その分割によって人間的なものは作り出されると考えた。(同上)
比喩的に述べると、「分割(分ける)とはまだ具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことである。」(同上)その分けられたものとは、「自然としての自然のなかに存在しなかった」ものである。つまり分割するとは、反自然的存在「人間的なもの」を「具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことであり、その行為によって「人間的なもの」が「出現させる」のであると今村は説明している。(同上)
この分割によって生じる「人間的なもの」の出現とは、まず「ことば」を意味する。「語り得ないもの(無限)のなかに線を引くこと(分割、切断の線)によって」(同上)、具体的な形相が生じる。その形相とは「有形の世界」を意味する。そしてこの形相を意味するもの、つまり、他方で、語り得ないものという「言葉」・「無限」を、出現させる。(同上) この今村の説明は難解である。
無形の分割の結果としての登場する存在形態の二元化、存在(在るもの)・自己の現実存在と(在る)・対象的世界
つまり、今村は、根源分割によって生じるものは(結果は)「自己の「ある」こと」に対する「原初の存在における原初の存在感情」であると考えた。換言すると、「根源分割」とは、「自己の現実存在を感じる」こととして出現する「情感的受け取り」である。つまり、言語化された世界とは、世界そのものではなく、「分けられた片割れとしての世界」である。そしてその結果として自己(自己意識としての自己)も登場する。自己は対象世界の結果であり、同時に世界は自己の結果でもある。(同上)
そこで、今村は、「根源分割によって、無形の無限は「ある」(存在)に変貌し、それを感じるものは「在るもの」に変貌する。いわゆる存在と存在者の区別は、無形の無限の根源分割と原初感情の結果であって、その逆ではない。」(同上)と述べた。
我々は、根源分割という人間的な原初的生存活動の形態によって、創られたもの、我々に意識もその現象に過ぎない。我々の自我も精神も、その結果に過ぎない。つまり「エゴは、根源分割の結果として、無限のなかにあり、それと同時に世界のなかに内在する。」(同上) 精神活動があって、世界があるのではない。その意味で事象つまり、「人間的な物の出現とは根源分割である。」言い換えると「それに(事象の出現)よって、語る存在としての人間は、おのれ自身であるところの存在と区別される言葉「ある」を発することができる」と説明した。
つまり、もし「人間の「そこに=ある」を現=存在というなら」、ここで語られた「そこに=現に」という表現こそが、正しく今村の定義したかった「根源分割」の存在根拠であり、その根源分割という存在の原初的生存活動を通じて、世界との原初的関係、つまり「無形の何かに分断線を刻む」作業を行い続けるのである。「人間的現存在は、人間的存在とその人間存在のなかに存在する世界を区別しながら出現させる」ことになる。(同上)
事象化、つまり分節化しながら登場する世界(自己意識としての対象意識、内的世界内外的世界存在)とは、「分割作用の結果として「存在」に縮小変換されて、人間の言葉のなかに現れる」現象を言う。(同上) 言葉化されとは 縮小しつづける自然の存在形態「無限」を意味する。つまり、「人間化されること、分割されることによって、つまり「言葉「存在」の出現」によって、「存在と存在者(世界)への分節化」(同上)されることになる。そして、自然の存在形態(無限)は人間化され縮小し続けるのである。(同上)
しかし、「我々は無数の屈折が生じたとしても、人間が出現してきた原初の無形的なものは原初の感情によってつねに受け止めてられており、それは憧憬として感じられ続ける。ここから想像的妄想による彼岸思想も生まれることもあれば、それとは反対に存在の満足を自己の無限内存在の概念的で情感的な把握を通して獲得する道もまた用意される」(同上)とも今村は述べている。つまり、自然が分節化され人工化され無限を有限化し、つまりある概念に観念化したとしても、その自然に潜む無限(生を超えるもの・死=無)は、その有限(生)を覆うことになると今村は語っているようである。
発生論的な「存在・存在する」生存形態の概念
今村は根源分割の進化過程を三つの局面(段階)に分類した
第一局面とは「最初に、唯一の線が引かれる。無形無限は、切断線によって、二つの領域に分かたれる」ことを意味する。つまりその「分割する線とは、人間的存在そのものである。それは線分を引きつつ現実存在する。二つの領域のうちのひとつは「世界」であり、もうひとつは「存在」である。」(同上)と述べている。
第二局面とは、「無形無限が二分される瞬間に、無形無限は「存在」への変貌する、あるいは縮小する。純粋存在はまだ語り得ないものであるが、にもかかわらず存在者を通して暗示される。無形無限の変貌体である存在は存在者の蔭に隠れるとはいえ、言葉によって密かに温存される。ひとは特定のものについて語りながら、「何かがある」と言う。言葉「存在」は純粋存在を隠しつつ、暗示的に現す。」(同上)
第三局面とは「存在者に吸収され、しかも言葉「存在」によって隠される純粋存在、すなわち存在としての存在は、分割以後ではもはや無形無限ではない。それは無形無限の末裔であり、変貌形態であり、そのかぎりで無形無限とのかすかなつながりを保存している。根源分割の働きであるかぎりでの人間は、分割によって生じた「世界」のなかに存在すると同時に、無限の縮小である純粋存在を媒介にして無限のなかに存在する。人間は世界内人間であり、同時に無限内存在である。」(同上)
2-3.分割の瞬間と出来事(IMANhit 04a pp3-4)
人間的認識の転倒 「表象する存在の活動」よって「表象されている世界が存在する」
今村は「根源分割の後でのみ、ひとは語り言う(すなわち知る)ことができる。」と述べている。つまり、「分割以前のことは語り得ないし、分割の瞬間(イマノトキとしての現在)についても語ることはできない。」(同上) 人が自己意識を持つとは、その人が語ることによって、その語りを聞くこと、つまり語る対象が聞く対象と同時化されることによって、人は自己意識を持つ。もし、「語ることができない」なら、人は自己を「知ることができない状況」にあるともいえる。(同上)
語ることを通じて、語る自己の外に「出来事が出現する」。その出来事の出現の瞬間とは、出来事としての語る自己の意識に中に生じた精神現象であり、その精神現象(つまり対象認識とよばれる意識現象)を根拠にして成立している自己意識である。このことを今村は「原初の場面でいえば、この出来事は人間的現実存在である。人間的現実存在は、それ自身が根源分割の働きであり、同時にこの分割作用としての原因の結果である。」と述べている。(同上)
この「在るもの・存在」と「在るという」意識の現象は、言い換えれば、「人間の存在は、その分割する作用に世って「世界」と「存在」を構成するものでありながら、構成された二つの領分の構成要素であるからである。」 つまり「人間という出来事は、そのなかに逆説を含んでいる」と今村は指摘する。何故なら、「根源分割としての人間存在は、原因でありながら、あたかも結果であるかのようにみえる」からであり、「根源分割は原因でありながら、「知る(認識する)」の側からみれば、結果として知られる」からである。(同上)
「我考えるゆえに、我あり」・転倒したゴギトから根源分割的コギト・「我ゆえに考える」
精神現象的に見れば、表象する世界と表象される世界の関係は、「事柄の順序からいえば、転倒しているのだが」、表象するものがあって表象されるものがあるように思う。つまり表象は表象を映し出す人間的欲望、生理的反応、生存活動、生命活動の結果であるのだが、表象を認知した人間からはそれはすでにあったものとして理解される。
言い換えると「人間的思考は」転倒的に構成され、結果であるものが原因として認知、理解される。さらに言うなら、自ら発した疑によって、疑っている自己を疑えないと帰結し辿りついた自己存在の確信問題の解であるゴギトは、正しく、人間的思考の転倒的構成を物語る代表であるといえる。
つまり、語る自分いて、その語る自分を疑えないのは、語る自分の結果である。言い換えると、「コギトは自身が結果でありながら、あたかも自身を原因であるかのように考え」ているのである。(同上)それゆえに(疑い考えるゆえに)自分が存在しているのではなく、存在していることによって「疑い考える」ことが成立しているのである。
「根源分割とその結果に関わるパラドクスは、人間的事象のすべてに貫徹する。「非知のなかでのみ、出来事の出来事性が構成される。」(Derrida, Force de loi,p.88.強調は引用)(同上)と今村はデリダのコギト解釈を展開した。
革命(暴力的瞬間)が暴露した転倒的存在物 超越的存在者を演じる法律と制度の本質
今村は、表象や意識として現れた世界は根源分割活動の結果であるため、一般的な日常言語表現で言われる「現在」と語る(言う)ことは、厳密には不可能であると述べている。つまり、 「瞬間としての現在は「知る」ことができない」し、「瞬間は非知であるから、それを語り知るためには比喩をもってするしかない」と今村は説明する。(同上)
例えば、デリダの考察に従いながら「政治的切断としての「革命的」危機あるいは暴力的瞬間を例に」とって考える。すると「革命的危機のときには、ひとはその危機の瞬間も、そのなかにいる「われわれのいま」も、知ることはできない、というパラドクスを含む」ことになると説明している。(同上)
そこでは、「新しい法体系はまだない。それは宙づりの空位期であり、暴力的瞬間が」起こる。つまり革命とは、「危機的で暴力的な瞬間、法の空位期である。それは歴史の流れの切断であり、法体系(社会的秩序)の連続性の根源分割である」(同上)。そして「分割し切断する暴力(根源的暴力)は、社会の秩序を宙づりにし、法の体系を無効にする。善悪の判断基準を宙づりにするが故に、切断の瞬間においては、この瞬間自身を解読することはできない。」(同上)その革命的暴力によって、つまり現存する秩序を「切断の力は、既存の秩序を解体し、それ以外の物を現象させるが、それ自身では現象しない。それは「与える力」でありえても、与えられるもの(現れるもの)ではない。根源的な分割力は、世界を作る力であり、また世界を解体する力でもある。」(同上)
そして、「暴力は既存の法を中断し、別の法を作ろうとする。この宙づりの瞬間、このエポケー、法を創設したり革命したりするこの瞬間は、法のなかにあって非=法の審級である。しかしこれは法の全歴史でもある。」つまり、革命の瞬間、人は法を到来するものとして暴力の中で創設してゆく。つまり、法律という制度は、そのときもっとも人の近くに存在している。その神学的な超越的な法律の演出し続けてきたベールがはぎ落とされる。(同上)
以下、解釈が極めて困難であり、そのため、箇条書きにしながら、文脈をまとめる。
1、 法的秩序の崩壊 その社会規範の変動が、「あらゆる「主体」はあらかじめこのアポリア的構造のなかに囚われている」ために、つまり「ひとがひとであるかぎり回避できない原初の構造の効果」を導くことになる。この文で、社会的変動(法的秩序)の崩壊によって、人々は、その基盤にしていた社会観念の崩壊、つまりは、自己の価値観の崩壊を経験するという意味なのか。
2、 その法秩序の崩壊によって引き起こされる「原初の構造の効果」とは「人間的現実存在はそれ自身で根源分割である。だからデリダが言うように、分割と切断の瞬間はいつでも生起しているが、しかし現前の相では生起しないのである。根源分割は「与える働き」そのものであるから、与えられたもの(結果)からしか接近できない。それは語り得ないものであるから、因果の連結を超えるものであり、したがって与えられたものから出発して、所与存在がいわば原因であるかのごとく、与えるものをあたかも結果であるかのようにとらえるほかはない。与えるはたらきである根源分割は本来「作用原因」であるのだが、それ自身が生産したものによって結果として「与えられる」ことになる。」(同上)つまり、その社会的価値観・個人の価値観の解体から新たな価値観の再構築過程を経験することで、新しい法(社会秩序)を作る作業を経験することになる。その作業が新しい価値を与える働き・根源分割を身近に体現させる。
3、 つまり、結果として「与えられたものから見れば、与える働きは現実存在に内在的でありながらも、すでに超越的にみえるという「神学的」構造もまた、根源分割の構造に刻まれていた。通常の神学=宗教的な、あるいは神話的思考は、根源分割の構造を誤認しつつ、ある種の真実を反映していることも、おのずと明らかになる。」(同上)
4、 以上の根源分割が表層化する現象、多くの場合革命などの社会的価値観の大転換期において、「デリダの用語法に近づけて言えば、彼の言うところのdifférance(差延)は、われわれの言う根源分割として解釈し改作することもできるだろう。それは言語的差異体系の成立以前の原初的な「分ける」働きであるからである。デリダはそれをarchi-violence(原初の暴力)とよぶ。われわれは原初の線引きを根源分割とよぶ。根源分割は、主体と客体、時間と空間が出現する以前の、それらを結果として産出する力である。」
2-4.tracer (線引き)と trace(痕跡)(IMANhit 04a pp4-6)
線を引く動きの出現とその消滅 「痕跡」
今村は、根源分割の結果として痕跡(軌道)が生じると考え、その痕跡を生み出した「線を引きの動き」を仮定する。当然、線引きの動きは結果としての痕跡の中に姿を消すことになる。つまり、線を引く動きは動きの結果である痕跡と区別できない。換言すれば、「人間の現実存在に即していえば、それは線を引くこと(根源分割)であり、同時に運動の痕跡である。」(同上)
つまり、「分割する線引きの特徴は、それの出現が同時にその消滅であるという点にある。」そして、根源分割現象で生じる分割する動き・線引きの動きの「出現」とその結果としての痕跡は同時に存在する。言い方を変えれば線引きの動きの「消滅」が同時に痕跡の「出現」を意味する。つまり、線引きの動きとその痕跡の関係は分割の「出現」とその分割の「消滅」による分割された痕跡の「出現」である。「同じ事態の異なる側面で」あり、「あるいは消滅することが出現の条件である。」そして「存在が無であるという矛盾した事態」をしめものである。
この消滅と出現の弁証法的運動は、「日常的経験のなかで意識する(できる)ことではなく、現実存在の原初条件を概念的に語ることから出てくることである。」(同上)
一次的痕跡(音波)と二次的痕跡(聴覚)
つまり、「痕跡は不可視である。質料的な実物を結果として残す働きが痕跡であり、より正しくは痕跡と同じ線引きである。線を引く動きにして効果である痕跡は、けっして可視的でない。」そして、「不可視の線(痕跡)が運動として可視的なものを、人間的存在とそれのおいてある場所を結果として残す。これを図式的に言えば、次のようになる。」(同上)
1、 「一次的痕跡(トラース)。分割線を引く働きがあり、同時に軌跡がのこり、その軌跡が痕跡として別の実物的な結果を残す。分割する働きは効果を「もの」のなかに刻み、それ自身は消失する。」つまり、この一次的痕跡を根源分割と仮定し、この根源分割によって、副次的に非知覚的な現象、例えば神経生理的反応等々が生じると今村はさらに仮定する。
2、 「二次的痕跡。根源分割の効果から生じるものが二次的な痕跡である。可視的な、したがって姿を現す(現象する)結果は二次的な派生体である。現世内のすべての「現象」や事物は例外なく二次的な痕跡であり、現象する結果である。人間の存在や人間的思考もまた二次的結果である。人間自身が二次的痕跡(トラース)であるのだから、それについて語る行為としての言説は痕跡の痕跡となる。言説の組織は、二次的痕跡(結果)から始まるのだから、痕跡を生み出した一次的な原初の線引き(tracer)は言説によってとらえることはできない。根源分割は言説が開始するとき、すでに姿を消してしまっている。)つまり、この二次的痕跡は、一時的痕跡(根源分割)によって生じるもので、この結果として知覚的現象や事象が生じると今村は仮定する。
この一次的痕跡と二次的痕跡の事例として、今村は物理的音波「音」と脳神経的反応を経て知覚化された「聴くこと」を区別して説明している。
つまり、「われわれが自分の言うことを聴く場合、「音」と「聴くこと」が区別されているし、またこの区別がなければ聴くこともできない。音を聴く(または聞く)とき、すでにそこには根源的トラース(原初の分割)が働いている。音を聴く行為は、根源的トラースの効果を生きることであり、効果(結果)を経験することが形を与えられることである。音という感覚的ヒュレー(マチエール)と聴くというフォルムは区別されると同時に不可分一体である。この事態は二次的トラース(痕跡)であり、それはさらに別の二次的派生態を際限なく産出する。二次的痕跡だけが経験できるが、根源的トラースはそれらによって隠され消去されるから、感覚的な経験の意味で経験されることはできない。しかし根源的(一次的)トラースなしには、現実存在するものもありえない。くりかえすが、根源的分割は二次的痕跡のなかに不在的に内在(現前)しているのであって、現実世界の「彼岸」に超越しているのではない。それは内在的であるがゆえに、効果をもつことができる。」(同上)
一次的痕跡としての生きている労働と二次的痕跡としての過去の労働の概念
そして「二次派生態は絶対的過去〔根源分割〕の働きの結果であるから、けっしてこの過去に追いつくことはできない。」その二次的派生態の結果である「事物の経験は」過去の働きに結果として出来ている。「それは存在論的宿命である。」つまり、「二次的世界の事物は派生の派生という歴史的時間を凝縮している(過去的経験を含んでいる)が、それらが派生体であるかぎりは、けっして純粋過去としての根源的な「与える」には追いつけない。しかし少なくとも人間のなかには絶対過去性である根源分割そのものを示す働きがある。最も遠くて最も近い根源的で原初的なもの、それが生きて働くことである(lebendige Arbeit)。」と今村は考えた。 (同上)
この考え方から「労働」の概念を展開する。つまり「人間的労働は生きているかぎりで(単なる物体、たんなる死体のごとき物でないかぎりで)無形の無限のなかに「一本の線を引く」ことである。生きている労働は根源的分割であり、それは二次的・派生的な具体的生産行為とも違っている。生きている労働なしには具体的(特定の用途をもつ)生産活動はありえない。生きていることにアクセントをもつ人間的労働は、過去の死んだ労働の無際限の蓄積(生産素材や生産手段の中に凝縮した過去労働)を、生きて働くそのつどに「一挙に」に蘇生させて、死せる過去労働を生ける労働のなかに組み入れる」のである。(同上)
3、三石によるテキスト批評(批判的解釈)
暴力の起源としての生命力
今村は、この講演で「暴力の起源」を「根源分割」、つまりデリダの言語的差異体系の成立以前の原初的な「線を引く動き」に置いた。例えば、人間が生きるために世界に働きかける行為、原初的生存活動を「根源分割」と考えることが出来る。その根源分割は、乳児の行動で言えば、母からオッパイをもらい生理的に個体保存をするために生き続けようする活動であると解釈できる。
オッパイを吸うこと、オッパイが生理的要求の対象であること、オッパイを母の身体から分割し、それを自分の生理的要求の対象にする。この作業を今村は「根源分割」を行う、つまり母の身体とオッパイに線を引き、その結果、自分の生理的要求「オッパイを吸う」という行為に直結した「痕跡」、つまり、まだ「オッパイ」という名称を与えられないものが登場することになる。
オッパイを吸うという行為は、空腹から来る生理的要求や触覚的快感を求める生理的要求を満たす行為、その行為の痕跡(生理的反応に対する記憶・一次的痕跡)によって、つねに生理的要求が生じるたびに同じ行為が導かれ、それらは母と乳児の関係という痕跡・二次的痕跡として沈着する。
今村の根源分割の概念を通じて、乳児の生理的要求の対象である「オッパ」とそれを獲得する行為、その行為の習慣化によって生じる乳児とオッパイ(母の部分)の関係が理解できる。しかし、この根源分割がなぜ暴力の起源となるかという説明は明確ではない。今村の理論から、赤ちゃんのオッパイをしゃぶる行為が暴力の起源となると解釈できる。この場合の暴力の概念を定義しなければならない。つまり、今村は生命力を暴力の起源と考えたのだろうか。
言語的差異体系の成立以前の原初的なオッパイを母の身体から「分ける」、つまり、オッパを「線を引く」という動き、この動きをデリダはそれを暴力以前の力、暴力の起源と考えた。そして、今村も、このデリダの暴力概念を前提にして、「線引き」「根源分割」、暴力の起源と考えた。
ホスト構造主義が依拠する精神分析的説明仮説の有効性
デリダや今村が、暴力概念を導くために活用した「根源分割」、「線引き」や「痕跡」の考え方は、メタレベルの精神世界の構造や現象仮説である。この概念を導くために援用した科学的根拠は何もない。つまら、この説明は、根拠無い説明仮説であると言える。
敢えて、その根拠を求められるなら、メタレベルの意識世界の精神現象の説明モデルとして、精神分析の説明仮説が援用されていると考えられる。しかし、ここでは、今村は暴力の起源に援用したであろう精神分析の説明仮説を活用するための権利問題が厳密に吟味されていない。
参考資料
「非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1_27.html
「非自己としての空間の発見と場所的空間の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2_27.html
「生理的感覚空間の形成から社会的関係空間の形成の前哨段階へ 欲望の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_31.html
訂正(誤字) 2011年2月8日
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三石博行
はじめに
今村仁司氏(以後 今村とよぶ)は、死去2年半前の2004年12月24日に立命館大学人文科学研究所暴力論研究会の第6回講演で、「暴力以前の力 暴力の起源」(1)について語った。
長年、暴力論を展開した今村のたどり着いた暴力の起源に関する考察が、この講演で展開されたのではないだろうか。講演資料のテキスト批評を通じ、今村氏が提起した暴力論の起源について解釈と分析を試みる。
テキスト批評とは知的生産にとって一種の演習問題に近い作業である。暴力の起源について考えるとき、社会科学的アプローチと人間科学的アプローチの二つが想定されるのであるが、デリダや今村の暴力論は人間科学的立場からの研究である。テキスト批評を通じて、その課題をより深める。
1、分析資料と著者の紹介
活用文献
今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p. 文献コード名 (IMANhit 04a)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html
著者紹介
今村仁司 (1942年2月26日-2007年5月5日) 日本の哲学者、社会経済思想家、特にフランス現代思想を日本に紹介し、日本の現代思想の潮流を形成する。多くの著書、翻訳をはじめとして、さらに『廣松渉著作集』を共編する等々、数々の業績を残している。
参考 Wikipedea 「今村仁司」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E4%BB%81%E5%8F%B8
2、文献の要約
2-1、「はじめに」(IMANhit 04a p1)
今村仁司氏(以後 今村と呼ぶ)は、講演の冒頭で「暴力現象は人間社会のなかで弁別できないほど多様に、また無数に出現する。」(IMANhit 04a p1)そしてそれらの暴力現象を示す用語も無数に生まれる。
そのような複雑な暴力現象を表現する用語や概念の密林に迷い込み、暴力的現象を明確に区別し理解することの出来なくなった現代社会に対して、今村は「この(暴力現象の)錯綜の森をどうして切り抜けていくことができるのだろうか。
以下では、暴力以前の力が何ごとであるかについて試論を提起してみたい。」(IMANhit 04a p1)と語りかけている。
2-2、「線を引くこと(根源分割)」(IMANhit 04a pp1-3)
根源分割とは
暴力の起源について語るとき、今村がまず引用したのがヘーゲルの「分割する(Scheiden)という行為は悟性の力と働き(Arbeit)であり、その悟性とはもっとも驚くべき、またもっとも大きい力、いやむしろ絶対的な力である。」(同上)という概念である。
つまり、今村は、「形なき空間に一本の線を引く」原初的線引きを「線引きは分割であり、分割は無形から有形を産出する。 原初の線引きすなわち根源分割があり、そこから形と姿をもつ「世界」が現れる」(同上)と述べた。
この根源分割「原初の分割」を、ヘーゲルの主知主義の埒内での分割作用、つまり悟性(知性)的な概念形成等の知的思考作用・「人間的精神(思考するという意味での)の開始」として議論するのでなく、「人間的存在の開始」であると考える。従って、今村の言う「根源分割は「人間の」現実存在を生み出す」ものであり、その分割によって人間的なものは作り出されると考えた。(同上)
比喩的に述べると、「分割(分ける)とはまだ具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことである。」(同上)その分けられたものとは、「自然としての自然のなかに存在しなかった」ものである。つまり分割するとは、反自然的存在「人間的なもの」を「具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことであり、その行為によって「人間的なもの」が「出現させる」のであると今村は説明している。(同上)
この分割によって生じる「人間的なもの」の出現とは、まず「ことば」を意味する。「語り得ないもの(無限)のなかに線を引くこと(分割、切断の線)によって」(同上)、具体的な形相が生じる。その形相とは「有形の世界」を意味する。そしてこの形相を意味するもの、つまり、他方で、語り得ないものという「言葉」・「無限」を、出現させる。(同上) この今村の説明は難解である。
無形の分割の結果としての登場する存在形態の二元化、存在(在るもの)・自己の現実存在と(在る)・対象的世界
つまり、今村は、根源分割によって生じるものは(結果は)「自己の「ある」こと」に対する「原初の存在における原初の存在感情」であると考えた。換言すると、「根源分割」とは、「自己の現実存在を感じる」こととして出現する「情感的受け取り」である。つまり、言語化された世界とは、世界そのものではなく、「分けられた片割れとしての世界」である。そしてその結果として自己(自己意識としての自己)も登場する。自己は対象世界の結果であり、同時に世界は自己の結果でもある。(同上)
そこで、今村は、「根源分割によって、無形の無限は「ある」(存在)に変貌し、それを感じるものは「在るもの」に変貌する。いわゆる存在と存在者の区別は、無形の無限の根源分割と原初感情の結果であって、その逆ではない。」(同上)と述べた。
我々は、根源分割という人間的な原初的生存活動の形態によって、創られたもの、我々に意識もその現象に過ぎない。我々の自我も精神も、その結果に過ぎない。つまり「エゴは、根源分割の結果として、無限のなかにあり、それと同時に世界のなかに内在する。」(同上) 精神活動があって、世界があるのではない。その意味で事象つまり、「人間的な物の出現とは根源分割である。」言い換えると「それに(事象の出現)よって、語る存在としての人間は、おのれ自身であるところの存在と区別される言葉「ある」を発することができる」と説明した。
つまり、もし「人間の「そこに=ある」を現=存在というなら」、ここで語られた「そこに=現に」という表現こそが、正しく今村の定義したかった「根源分割」の存在根拠であり、その根源分割という存在の原初的生存活動を通じて、世界との原初的関係、つまり「無形の何かに分断線を刻む」作業を行い続けるのである。「人間的現存在は、人間的存在とその人間存在のなかに存在する世界を区別しながら出現させる」ことになる。(同上)
事象化、つまり分節化しながら登場する世界(自己意識としての対象意識、内的世界内外的世界存在)とは、「分割作用の結果として「存在」に縮小変換されて、人間の言葉のなかに現れる」現象を言う。(同上) 言葉化されとは 縮小しつづける自然の存在形態「無限」を意味する。つまり、「人間化されること、分割されることによって、つまり「言葉「存在」の出現」によって、「存在と存在者(世界)への分節化」(同上)されることになる。そして、自然の存在形態(無限)は人間化され縮小し続けるのである。(同上)
しかし、「我々は無数の屈折が生じたとしても、人間が出現してきた原初の無形的なものは原初の感情によってつねに受け止めてられており、それは憧憬として感じられ続ける。ここから想像的妄想による彼岸思想も生まれることもあれば、それとは反対に存在の満足を自己の無限内存在の概念的で情感的な把握を通して獲得する道もまた用意される」(同上)とも今村は述べている。つまり、自然が分節化され人工化され無限を有限化し、つまりある概念に観念化したとしても、その自然に潜む無限(生を超えるもの・死=無)は、その有限(生)を覆うことになると今村は語っているようである。
発生論的な「存在・存在する」生存形態の概念
今村は根源分割の進化過程を三つの局面(段階)に分類した
第一局面とは「最初に、唯一の線が引かれる。無形無限は、切断線によって、二つの領域に分かたれる」ことを意味する。つまりその「分割する線とは、人間的存在そのものである。それは線分を引きつつ現実存在する。二つの領域のうちのひとつは「世界」であり、もうひとつは「存在」である。」(同上)と述べている。
第二局面とは、「無形無限が二分される瞬間に、無形無限は「存在」への変貌する、あるいは縮小する。純粋存在はまだ語り得ないものであるが、にもかかわらず存在者を通して暗示される。無形無限の変貌体である存在は存在者の蔭に隠れるとはいえ、言葉によって密かに温存される。ひとは特定のものについて語りながら、「何かがある」と言う。言葉「存在」は純粋存在を隠しつつ、暗示的に現す。」(同上)
第三局面とは「存在者に吸収され、しかも言葉「存在」によって隠される純粋存在、すなわち存在としての存在は、分割以後ではもはや無形無限ではない。それは無形無限の末裔であり、変貌形態であり、そのかぎりで無形無限とのかすかなつながりを保存している。根源分割の働きであるかぎりでの人間は、分割によって生じた「世界」のなかに存在すると同時に、無限の縮小である純粋存在を媒介にして無限のなかに存在する。人間は世界内人間であり、同時に無限内存在である。」(同上)
2-3.分割の瞬間と出来事(IMANhit 04a pp3-4)
人間的認識の転倒 「表象する存在の活動」よって「表象されている世界が存在する」
今村は「根源分割の後でのみ、ひとは語り言う(すなわち知る)ことができる。」と述べている。つまり、「分割以前のことは語り得ないし、分割の瞬間(イマノトキとしての現在)についても語ることはできない。」(同上) 人が自己意識を持つとは、その人が語ることによって、その語りを聞くこと、つまり語る対象が聞く対象と同時化されることによって、人は自己意識を持つ。もし、「語ることができない」なら、人は自己を「知ることができない状況」にあるともいえる。(同上)
語ることを通じて、語る自己の外に「出来事が出現する」。その出来事の出現の瞬間とは、出来事としての語る自己の意識に中に生じた精神現象であり、その精神現象(つまり対象認識とよばれる意識現象)を根拠にして成立している自己意識である。このことを今村は「原初の場面でいえば、この出来事は人間的現実存在である。人間的現実存在は、それ自身が根源分割の働きであり、同時にこの分割作用としての原因の結果である。」と述べている。(同上)
この「在るもの・存在」と「在るという」意識の現象は、言い換えれば、「人間の存在は、その分割する作用に世って「世界」と「存在」を構成するものでありながら、構成された二つの領分の構成要素であるからである。」 つまり「人間という出来事は、そのなかに逆説を含んでいる」と今村は指摘する。何故なら、「根源分割としての人間存在は、原因でありながら、あたかも結果であるかのようにみえる」からであり、「根源分割は原因でありながら、「知る(認識する)」の側からみれば、結果として知られる」からである。(同上)
「我考えるゆえに、我あり」・転倒したゴギトから根源分割的コギト・「我ゆえに考える」
精神現象的に見れば、表象する世界と表象される世界の関係は、「事柄の順序からいえば、転倒しているのだが」、表象するものがあって表象されるものがあるように思う。つまり表象は表象を映し出す人間的欲望、生理的反応、生存活動、生命活動の結果であるのだが、表象を認知した人間からはそれはすでにあったものとして理解される。
言い換えると「人間的思考は」転倒的に構成され、結果であるものが原因として認知、理解される。さらに言うなら、自ら発した疑によって、疑っている自己を疑えないと帰結し辿りついた自己存在の確信問題の解であるゴギトは、正しく、人間的思考の転倒的構成を物語る代表であるといえる。
つまり、語る自分いて、その語る自分を疑えないのは、語る自分の結果である。言い換えると、「コギトは自身が結果でありながら、あたかも自身を原因であるかのように考え」ているのである。(同上)それゆえに(疑い考えるゆえに)自分が存在しているのではなく、存在していることによって「疑い考える」ことが成立しているのである。
「根源分割とその結果に関わるパラドクスは、人間的事象のすべてに貫徹する。「非知のなかでのみ、出来事の出来事性が構成される。」(Derrida, Force de loi,p.88.強調は引用)(同上)と今村はデリダのコギト解釈を展開した。
革命(暴力的瞬間)が暴露した転倒的存在物 超越的存在者を演じる法律と制度の本質
今村は、表象や意識として現れた世界は根源分割活動の結果であるため、一般的な日常言語表現で言われる「現在」と語る(言う)ことは、厳密には不可能であると述べている。つまり、 「瞬間としての現在は「知る」ことができない」し、「瞬間は非知であるから、それを語り知るためには比喩をもってするしかない」と今村は説明する。(同上)
例えば、デリダの考察に従いながら「政治的切断としての「革命的」危機あるいは暴力的瞬間を例に」とって考える。すると「革命的危機のときには、ひとはその危機の瞬間も、そのなかにいる「われわれのいま」も、知ることはできない、というパラドクスを含む」ことになると説明している。(同上)
そこでは、「新しい法体系はまだない。それは宙づりの空位期であり、暴力的瞬間が」起こる。つまり革命とは、「危機的で暴力的な瞬間、法の空位期である。それは歴史の流れの切断であり、法体系(社会的秩序)の連続性の根源分割である」(同上)。そして「分割し切断する暴力(根源的暴力)は、社会の秩序を宙づりにし、法の体系を無効にする。善悪の判断基準を宙づりにするが故に、切断の瞬間においては、この瞬間自身を解読することはできない。」(同上)その革命的暴力によって、つまり現存する秩序を「切断の力は、既存の秩序を解体し、それ以外の物を現象させるが、それ自身では現象しない。それは「与える力」でありえても、与えられるもの(現れるもの)ではない。根源的な分割力は、世界を作る力であり、また世界を解体する力でもある。」(同上)
そして、「暴力は既存の法を中断し、別の法を作ろうとする。この宙づりの瞬間、このエポケー、法を創設したり革命したりするこの瞬間は、法のなかにあって非=法の審級である。しかしこれは法の全歴史でもある。」つまり、革命の瞬間、人は法を到来するものとして暴力の中で創設してゆく。つまり、法律という制度は、そのときもっとも人の近くに存在している。その神学的な超越的な法律の演出し続けてきたベールがはぎ落とされる。(同上)
以下、解釈が極めて困難であり、そのため、箇条書きにしながら、文脈をまとめる。
1、 法的秩序の崩壊 その社会規範の変動が、「あらゆる「主体」はあらかじめこのアポリア的構造のなかに囚われている」ために、つまり「ひとがひとであるかぎり回避できない原初の構造の効果」を導くことになる。この文で、社会的変動(法的秩序)の崩壊によって、人々は、その基盤にしていた社会観念の崩壊、つまりは、自己の価値観の崩壊を経験するという意味なのか。
2、 その法秩序の崩壊によって引き起こされる「原初の構造の効果」とは「人間的現実存在はそれ自身で根源分割である。だからデリダが言うように、分割と切断の瞬間はいつでも生起しているが、しかし現前の相では生起しないのである。根源分割は「与える働き」そのものであるから、与えられたもの(結果)からしか接近できない。それは語り得ないものであるから、因果の連結を超えるものであり、したがって与えられたものから出発して、所与存在がいわば原因であるかのごとく、与えるものをあたかも結果であるかのようにとらえるほかはない。与えるはたらきである根源分割は本来「作用原因」であるのだが、それ自身が生産したものによって結果として「与えられる」ことになる。」(同上)つまり、その社会的価値観・個人の価値観の解体から新たな価値観の再構築過程を経験することで、新しい法(社会秩序)を作る作業を経験することになる。その作業が新しい価値を与える働き・根源分割を身近に体現させる。
3、 つまり、結果として「与えられたものから見れば、与える働きは現実存在に内在的でありながらも、すでに超越的にみえるという「神学的」構造もまた、根源分割の構造に刻まれていた。通常の神学=宗教的な、あるいは神話的思考は、根源分割の構造を誤認しつつ、ある種の真実を反映していることも、おのずと明らかになる。」(同上)
4、 以上の根源分割が表層化する現象、多くの場合革命などの社会的価値観の大転換期において、「デリダの用語法に近づけて言えば、彼の言うところのdifférance(差延)は、われわれの言う根源分割として解釈し改作することもできるだろう。それは言語的差異体系の成立以前の原初的な「分ける」働きであるからである。デリダはそれをarchi-violence(原初の暴力)とよぶ。われわれは原初の線引きを根源分割とよぶ。根源分割は、主体と客体、時間と空間が出現する以前の、それらを結果として産出する力である。」
2-4.tracer (線引き)と trace(痕跡)(IMANhit 04a pp4-6)
線を引く動きの出現とその消滅 「痕跡」
今村は、根源分割の結果として痕跡(軌道)が生じると考え、その痕跡を生み出した「線を引きの動き」を仮定する。当然、線引きの動きは結果としての痕跡の中に姿を消すことになる。つまり、線を引く動きは動きの結果である痕跡と区別できない。換言すれば、「人間の現実存在に即していえば、それは線を引くこと(根源分割)であり、同時に運動の痕跡である。」(同上)
つまり、「分割する線引きの特徴は、それの出現が同時にその消滅であるという点にある。」そして、根源分割現象で生じる分割する動き・線引きの動きの「出現」とその結果としての痕跡は同時に存在する。言い方を変えれば線引きの動きの「消滅」が同時に痕跡の「出現」を意味する。つまり、線引きの動きとその痕跡の関係は分割の「出現」とその分割の「消滅」による分割された痕跡の「出現」である。「同じ事態の異なる側面で」あり、「あるいは消滅することが出現の条件である。」そして「存在が無であるという矛盾した事態」をしめものである。
この消滅と出現の弁証法的運動は、「日常的経験のなかで意識する(できる)ことではなく、現実存在の原初条件を概念的に語ることから出てくることである。」(同上)
一次的痕跡(音波)と二次的痕跡(聴覚)
つまり、「痕跡は不可視である。質料的な実物を結果として残す働きが痕跡であり、より正しくは痕跡と同じ線引きである。線を引く動きにして効果である痕跡は、けっして可視的でない。」そして、「不可視の線(痕跡)が運動として可視的なものを、人間的存在とそれのおいてある場所を結果として残す。これを図式的に言えば、次のようになる。」(同上)
1、 「一次的痕跡(トラース)。分割線を引く働きがあり、同時に軌跡がのこり、その軌跡が痕跡として別の実物的な結果を残す。分割する働きは効果を「もの」のなかに刻み、それ自身は消失する。」つまり、この一次的痕跡を根源分割と仮定し、この根源分割によって、副次的に非知覚的な現象、例えば神経生理的反応等々が生じると今村はさらに仮定する。
2、 「二次的痕跡。根源分割の効果から生じるものが二次的な痕跡である。可視的な、したがって姿を現す(現象する)結果は二次的な派生体である。現世内のすべての「現象」や事物は例外なく二次的な痕跡であり、現象する結果である。人間の存在や人間的思考もまた二次的結果である。人間自身が二次的痕跡(トラース)であるのだから、それについて語る行為としての言説は痕跡の痕跡となる。言説の組織は、二次的痕跡(結果)から始まるのだから、痕跡を生み出した一次的な原初の線引き(tracer)は言説によってとらえることはできない。根源分割は言説が開始するとき、すでに姿を消してしまっている。)つまり、この二次的痕跡は、一時的痕跡(根源分割)によって生じるもので、この結果として知覚的現象や事象が生じると今村は仮定する。
この一次的痕跡と二次的痕跡の事例として、今村は物理的音波「音」と脳神経的反応を経て知覚化された「聴くこと」を区別して説明している。
つまり、「われわれが自分の言うことを聴く場合、「音」と「聴くこと」が区別されているし、またこの区別がなければ聴くこともできない。音を聴く(または聞く)とき、すでにそこには根源的トラース(原初の分割)が働いている。音を聴く行為は、根源的トラースの効果を生きることであり、効果(結果)を経験することが形を与えられることである。音という感覚的ヒュレー(マチエール)と聴くというフォルムは区別されると同時に不可分一体である。この事態は二次的トラース(痕跡)であり、それはさらに別の二次的派生態を際限なく産出する。二次的痕跡だけが経験できるが、根源的トラースはそれらによって隠され消去されるから、感覚的な経験の意味で経験されることはできない。しかし根源的(一次的)トラースなしには、現実存在するものもありえない。くりかえすが、根源的分割は二次的痕跡のなかに不在的に内在(現前)しているのであって、現実世界の「彼岸」に超越しているのではない。それは内在的であるがゆえに、効果をもつことができる。」(同上)
一次的痕跡としての生きている労働と二次的痕跡としての過去の労働の概念
そして「二次派生態は絶対的過去〔根源分割〕の働きの結果であるから、けっしてこの過去に追いつくことはできない。」その二次的派生態の結果である「事物の経験は」過去の働きに結果として出来ている。「それは存在論的宿命である。」つまり、「二次的世界の事物は派生の派生という歴史的時間を凝縮している(過去的経験を含んでいる)が、それらが派生体であるかぎりは、けっして純粋過去としての根源的な「与える」には追いつけない。しかし少なくとも人間のなかには絶対過去性である根源分割そのものを示す働きがある。最も遠くて最も近い根源的で原初的なもの、それが生きて働くことである(lebendige Arbeit)。」と今村は考えた。 (同上)
この考え方から「労働」の概念を展開する。つまり「人間的労働は生きているかぎりで(単なる物体、たんなる死体のごとき物でないかぎりで)無形の無限のなかに「一本の線を引く」ことである。生きている労働は根源的分割であり、それは二次的・派生的な具体的生産行為とも違っている。生きている労働なしには具体的(特定の用途をもつ)生産活動はありえない。生きていることにアクセントをもつ人間的労働は、過去の死んだ労働の無際限の蓄積(生産素材や生産手段の中に凝縮した過去労働)を、生きて働くそのつどに「一挙に」に蘇生させて、死せる過去労働を生ける労働のなかに組み入れる」のである。(同上)
3、三石によるテキスト批評(批判的解釈)
暴力の起源としての生命力
今村は、この講演で「暴力の起源」を「根源分割」、つまりデリダの言語的差異体系の成立以前の原初的な「線を引く動き」に置いた。例えば、人間が生きるために世界に働きかける行為、原初的生存活動を「根源分割」と考えることが出来る。その根源分割は、乳児の行動で言えば、母からオッパイをもらい生理的に個体保存をするために生き続けようする活動であると解釈できる。
オッパイを吸うこと、オッパイが生理的要求の対象であること、オッパイを母の身体から分割し、それを自分の生理的要求の対象にする。この作業を今村は「根源分割」を行う、つまり母の身体とオッパイに線を引き、その結果、自分の生理的要求「オッパイを吸う」という行為に直結した「痕跡」、つまり、まだ「オッパイ」という名称を与えられないものが登場することになる。
オッパイを吸うという行為は、空腹から来る生理的要求や触覚的快感を求める生理的要求を満たす行為、その行為の痕跡(生理的反応に対する記憶・一次的痕跡)によって、つねに生理的要求が生じるたびに同じ行為が導かれ、それらは母と乳児の関係という痕跡・二次的痕跡として沈着する。
今村の根源分割の概念を通じて、乳児の生理的要求の対象である「オッパ」とそれを獲得する行為、その行為の習慣化によって生じる乳児とオッパイ(母の部分)の関係が理解できる。しかし、この根源分割がなぜ暴力の起源となるかという説明は明確ではない。今村の理論から、赤ちゃんのオッパイをしゃぶる行為が暴力の起源となると解釈できる。この場合の暴力の概念を定義しなければならない。つまり、今村は生命力を暴力の起源と考えたのだろうか。
言語的差異体系の成立以前の原初的なオッパイを母の身体から「分ける」、つまり、オッパを「線を引く」という動き、この動きをデリダはそれを暴力以前の力、暴力の起源と考えた。そして、今村も、このデリダの暴力概念を前提にして、「線引き」「根源分割」、暴力の起源と考えた。
ホスト構造主義が依拠する精神分析的説明仮説の有効性
デリダや今村が、暴力概念を導くために活用した「根源分割」、「線引き」や「痕跡」の考え方は、メタレベルの精神世界の構造や現象仮説である。この概念を導くために援用した科学的根拠は何もない。つまら、この説明は、根拠無い説明仮説であると言える。
敢えて、その根拠を求められるなら、メタレベルの意識世界の精神現象の説明モデルとして、精神分析の説明仮説が援用されていると考えられる。しかし、ここでは、今村は暴力の起源に援用したであろう精神分析の説明仮説を活用するための権利問題が厳密に吟味されていない。
参考資料
「非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1_27.html
「非自己としての空間の発見と場所的空間の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2_27.html
「生理的感覚空間の形成から社会的関係空間の形成の前哨段階へ 欲望の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_31.html
訂正(誤字) 2011年2月8日
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2011年1月31日月曜日
生理的感覚空間の形成から社会的関係空間の形成の前哨段階へ 欲望の形成
精神分析学的説明仮説から推論できる他者性の形成過程に関する哲学的議論(3)
三石博行
生理的感覚空間から場所的配置空間の変移
前節で、寝返りを打てない状態からようやく二足歩行をはじめた乳児期(生まれて1年以内・フロイト精神分析学で言う口唇期)の他者性(非自己)の形成過程についての仮説的説明の可能性を述べた。(1)
まず、制御不可能な自らの身体をはじめて非自己として乳児は認める。この自己の身体を他者性(非自己)として認知する段階を、他者性(非自己)の形成第一段階と考えた。(2)
その後、乳児は寝返り運動などの制御可能な身体を獲得する時期を迎える。制御可能な身体を得ることで、非自己化された身体は自己化することになる。その自己化した身体によって、身体の外に生理的に感覚される世界が形成される。さらに、ハイハイをすることで、生理的に感覚された世界は広がる、つまり「非自己的身体(しんたい)から個体としての身体・身体(からだ)への進化によって、「ここ」と「ここでない」二つの位置関係(空間的関係)が生じるである。身体の外に生理的感覚された空間の形成を第二段階の他者性(非自己)が形成される。」(3)
そして、二足歩行運動によって、ハイハイの運動する身体から見えて「生理的要求対象」と「生理的要求」との視覚平面内(平面的視野)での直線的関係から、立体的視野へと変化することになる。すると、乳児の視覚には、生理的要求対象とそれ以外の対象物とが同時に見える。言い方を変えると生理的要求対象はそれ以外のものにと混在することになる。乳児は、それ以外の対象物を避けて、生理的要求対象への運動を選択する運動が可能となると考えられる。
つまり、平面的視野の世界では、生理的要求対象は「ある」か「ないか」の二つに一つであった。しかし、立体的視野から確認できる生理的対象は「どこにある」という場所を持つことになると考えられる。乳児は「生理的感覚としての空間」から「生理的感覚対象の場所的位置」へと「空間」は広がるのではないかと仮定できる。
生理的身体運動の秩序 快感原則で動く身体運動
この場所的位置の登場は、生理的対象物が「ある」か「ないか」という次元から「場所的に配列されている」次元、つまり「場所的秩序」をもつ次元への変化であると解釈できないだろうか。されに飛躍すれば「生理的要求対象が感覚的空間において場所的秩序」をもっていることを乳児が理解する仮定できるのではないだろうか。
つまり、乳児は制御可能な身体運動の秩序、つまり生理的要求に即して動く身体機能を得る。この身体運動の秩序は、すべての動物が持つ「生理的要求に従う身体運動の秩序」であるといえる。
秩序化された生理的身体運動から、その身体運動を活用し、つまり生理的反応で動く身体を使って、さらに乳児の生理的要求を満たすために、寝返りをし、ハイハイをし、二足歩行を行って、その要求の対象に身体を動かす。その生理的行動を通じて、生理的感覚空間における場所的秩序を理解する。
つまり、より経済的な生理的行動、合理的な身体運動は乳児から生理的要求対象への最短距離を見つけること、さらにその最短距離内にある障害物を避けること、生理的感覚空間の外的世界に登場した最初の区分作業の基準となる。つまり、「ある」か、もしくは「ない」かという生理的感覚空間では、対象が「ある」場合には、同時にそれへの直線的行動が可能となる。そうでない場合には、つまり対象は存在しない(見えない)ため生理的感覚空間はない。
しかし、二足歩行を可能にした乳児には、生理的対象は、色々なものの中に混在して「ある」。つまり、そのとき、空間は対象が「ある」と「ない」の二つによって構成されず、対象はいろいろなものの中に「ある」ことになる。そのため、乳児はその対象に対して、直線的な動きでなく、生理的要求以外のものを避けながら、生理的要求に近づかなければならない。
つまり、このとき乳児は、避けるという行動を起こすことになる。生理的要求に近づくために、それ以外のものを避ける行動が取られる。この避ける行動、ここでは生理的に避けるという意味であるが、避けながら近づく、近づくために避けるという行動運動のプラスとマイナスを組合し、生理的要求対象に接近する運動規則(秩序)を身につけることになる。生理的対象が「ある」場合、そこに生理的対象への空間が存在し、そして生理的行動は生まれる。それが「ない」場合には、生理的対象への空間はなく、生理的行動も生じない。
つまり、ハイハイを行っている段階の乳児の世界は、要求する対象とは接近できる対象を意味する。対象が「ある」ということは、それに対して接近が可能な空間的対象を意味する。見方を変えれば、生理的要求対象が「ある」という「感覚」が、その対象物を得る条件で成立することになる。この成立条件は快感原則と類似する。
つまり、すべての生理的要求対象とはすべての獲得可能な対象であると言える。それは、獲得可能な対象しか「ある」と感覚されない乳児の世界の姿であり、生理的要求対象が「ない」世界とは乳児の感覚の外を意味する。つまり、あるものは得られるものである。これを得られるものから見ればすべての世界が彼には得られる対象であることになる。この世界を快感原則に基づく一次ナルシズム的世界と呼ぶことが出来るだろう。
生理的身体運動の秩序から場所的運動の秩序へ
二足歩行を行うようになった乳児が、生理的感覚対象が場所的空間に配列する過程で、生理的感覚世界に場所的秩序が持ち込まれることになる。つまり、乳児はその場所的秩序を理解することで、最も経済的な運動を選択し、生理的に要求する対象へ接近することが出来るようになるのである。
これらの、生理的身体の秩序化から生理的感覚対象の場所的秩序化の乳児における学習過程の延長上に、所謂、社会秩序の受け入れが準備されるのではないだろうか。つまり、一次ナルシズム的世界から二次ナルシズム世界への移行過程には、つまり、二次ナルシズム的精神現象を誘発する精神経済則・現実則(社会文化的規則を基にして機能する精神経済法則)までに、幾つかの段階が仮定される。その仮定は、生理的運動空間が場所的運動空間へ移行する時に生じる場所的身体運動を獲得する過程から想定されるのである。
また、この説明仮説には、ある意味で、上記した仮設的説明は、フロイトが常に引き合いに出す「個体発生は系統発生を繰り返す」という考えを想定している。
つまり、原始的動物も生理的要求対象にたいして反応する個体を持つ、それらの反応は単純な反応から、次第にそれらが高等な動物に進化することによって、生理的要求対象を得るための一次元的な行動から次元数を増やす行動バターンを獲得する。そして、もっとも合理的に身体を動かすことによって獲物を獲得する運動を獲る段階にまで発達するのである。その合理性とは、身体運動を規定する規則を活用し、最小の身体エネルギーで最高の運動効率を上げることを意味しているのである。
さらも、乳児はこれまでの動物が獲得した生理的運動の合理性を得る身体内運動(筋肉運動)の規則性を獲得することから場所的空間運動の合理性を得る身体外運動(場所的空間認識)の規則を見出すのである。
言い換えると、快感原則から現実則を得る過程は、個体が生理的要求対象を場所的に感覚し、その対象に対して接近するための生理的方法、つまり、最小エネルギーによる最大効果を得る身体運動の獲得によって、可能となる。その過程は、場所的空間運動の合理的運動能力の獲得をもって表現される。この合理的な場所的移動や運動の法則(秩序)を現実則の前哨段階と考えることも可能である。
このようにその合理的な身体の運動能力を得ること、つまり場所的配置空間で身体の運動の規則性(障害物を避け、生理的対象を最小エネルギーの力で獲得するための身体の動かし方)を理解するのである。この規則性の理解によって、個体保存のための能力は磨かれ、個体は与えられた環境に順応するという表現で生存することが出来るのである。この合理的な場所的移動や運動の法則を理解することによって、現実則を身につける身体的ど土台が出来上がっていることになる。
生理的要求対象から言語的意味対象へ (欲望の発生)
乳児が二足歩行を始めることで、フロイトの説明仮説である口唇期(一次ナルシズム的世界、快感原則で機能する自我)は終焉に向かう。
生理的要求対象が場所的空間運動によってそれ以外の障害物と混在しはじめ、その混在はますます広がる。つまり、乳児は二足歩行によってより多くの生理的要求対象以外のものを見る。視覚的能力が向上することによって、その混在はますますひどくなるだろう。もはや、自分欲しいもの(オッパイ)は、それ以外のものの中に隠れてします。
乳児は、色々なものを口にし、それが生理的要求物(オッパイ)でないことを確認し続けることになる。そして、ますます大きくなる生理的要求を求めて、色々なものを口にし、それを一つ一つ確かめなければならない。
それらの生理的要求物意外のものを口から吐き出すことで、それらは明確に非身体であり、身体の外に置かれることになる。乳児が口にするもの、それらが生理的要求以外のものの初めての出会いを意味し、それらが身体の外に生まれる初めての世界である。生理的要求物でない「もの」を吐き出すことで世界は外に広がる。(4)
それらの身体の外に吐き出され、生理的要求の対象物でないもので覆い尽くされながら、非自己の空間的世界が生まれる。それらの空間を占めるものは、まず、生理的要求の対象物への障害物となる。生理的要求の対象物を得るためには、それらの障害物を理解しなければならない。それを避けるために、それを生理的要求の対象物と誤解しないために、乳児は、それと生理的要求の対象物を区別するために、まず、その対象物を区別する手段を手に入れようとする。
「マンマ」という呼び名が生理的要求の対象物に命名される。それはその対象物を持つ母であり、母のオッパイである。そして、「マンマ」ということ対象物がそれ以外の他ものと区別される。つまり、乳児の音声から生じた「マンマ」は「オッパイ」を意味するもの(記号)であり、乳児の頭には「オッパイ」の視覚的表象が指示物として存在し、その視覚的に指示するものと「マンマ」という音声によって指示するものが、その「マンマ」の記号によって意味されるものと連動する。そこに「マンマ」(音記号)と「オッパイ」(視覚的表象)と「マンマ・オッパイ」(意味)が形成するのである。(5)(6)
生理的要求の対象とは視覚的な対象である。その視覚的対象が言語化されることによって、生理的反応から言語活動的反応にと変化することになる。つまり、生理的要求の対象であった「オッパイ」は母の身体の一部である。しかし、言語化された「マンマ」は、その身体から切り離された「対象」となる。ある具体的な他者の身体性を捨象することで、意味としての独立した「マンマ」が存在することになる。乳児は、母の身体性から抽象的な「マンマ」・オッパイを要求する。つまり、この抽象的なオッパイ、言語化されたオッパイ「マンマ」は、もはや乳児の生理的要求の具体的に対象物でなく、意味化した要求物に抽象化されることになるのである。この抽象的な要求を「欲望」と呼んでいる。
欲望は生理的要求を土台にしている。その意味で欲望は身体的作用がその背景となるように思われるが、明らかにそれは言語活動によって生じたものである。つまり、乳児が生理的要求対象を言語化しなければ、「欲望」は形成されないのである。
参考資料
(1)NHKアインシュタインの眼「赤ちゃんの奇跡」2011年1月23日放映
司会 古田敦也 ゲスト:堀ちえみ、小西行郎(日本赤ちゃん学会理事長)
番組 「赤ちゃん 運動発達の神秘」
http://www.nhk.or.jp/einstein/archive/index.html
(2)「非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1_27.html
(3)「非自己としての生理的空間の発見と場所的空間の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2_27.html
(4)岸田秀氏が「ものぐた精神分析」で語る肛門期での空間の成立過程を参考
(5)ソシュールの言語学を基にした考え方を参考
(6)三石博行 システム言語学研究
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_04.html
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_04/cMITShir00j.pdf
(7)Hiroyuki Mitsuishi DECONSTRUCTION ET RECONSTRUCTION DE LA METAPSYCHOLOGIE FREUDIENNE - ESSAI D'EPISTEMOLOGIE SYSTEMIQUE - 邦訳 フロイトメタ心理学の解体と再構築-システム認識論の試み- Atelier national de reproduction des these France、584p 1993年10月 単著
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05_02.html
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05.html
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三石博行
生理的感覚空間から場所的配置空間の変移
前節で、寝返りを打てない状態からようやく二足歩行をはじめた乳児期(生まれて1年以内・フロイト精神分析学で言う口唇期)の他者性(非自己)の形成過程についての仮説的説明の可能性を述べた。(1)
まず、制御不可能な自らの身体をはじめて非自己として乳児は認める。この自己の身体を他者性(非自己)として認知する段階を、他者性(非自己)の形成第一段階と考えた。(2)
その後、乳児は寝返り運動などの制御可能な身体を獲得する時期を迎える。制御可能な身体を得ることで、非自己化された身体は自己化することになる。その自己化した身体によって、身体の外に生理的に感覚される世界が形成される。さらに、ハイハイをすることで、生理的に感覚された世界は広がる、つまり「非自己的身体(しんたい)から個体としての身体・身体(からだ)への進化によって、「ここ」と「ここでない」二つの位置関係(空間的関係)が生じるである。身体の外に生理的感覚された空間の形成を第二段階の他者性(非自己)が形成される。」(3)
そして、二足歩行運動によって、ハイハイの運動する身体から見えて「生理的要求対象」と「生理的要求」との視覚平面内(平面的視野)での直線的関係から、立体的視野へと変化することになる。すると、乳児の視覚には、生理的要求対象とそれ以外の対象物とが同時に見える。言い方を変えると生理的要求対象はそれ以外のものにと混在することになる。乳児は、それ以外の対象物を避けて、生理的要求対象への運動を選択する運動が可能となると考えられる。
つまり、平面的視野の世界では、生理的要求対象は「ある」か「ないか」の二つに一つであった。しかし、立体的視野から確認できる生理的対象は「どこにある」という場所を持つことになると考えられる。乳児は「生理的感覚としての空間」から「生理的感覚対象の場所的位置」へと「空間」は広がるのではないかと仮定できる。
生理的身体運動の秩序 快感原則で動く身体運動
この場所的位置の登場は、生理的対象物が「ある」か「ないか」という次元から「場所的に配列されている」次元、つまり「場所的秩序」をもつ次元への変化であると解釈できないだろうか。されに飛躍すれば「生理的要求対象が感覚的空間において場所的秩序」をもっていることを乳児が理解する仮定できるのではないだろうか。
つまり、乳児は制御可能な身体運動の秩序、つまり生理的要求に即して動く身体機能を得る。この身体運動の秩序は、すべての動物が持つ「生理的要求に従う身体運動の秩序」であるといえる。
秩序化された生理的身体運動から、その身体運動を活用し、つまり生理的反応で動く身体を使って、さらに乳児の生理的要求を満たすために、寝返りをし、ハイハイをし、二足歩行を行って、その要求の対象に身体を動かす。その生理的行動を通じて、生理的感覚空間における場所的秩序を理解する。
つまり、より経済的な生理的行動、合理的な身体運動は乳児から生理的要求対象への最短距離を見つけること、さらにその最短距離内にある障害物を避けること、生理的感覚空間の外的世界に登場した最初の区分作業の基準となる。つまり、「ある」か、もしくは「ない」かという生理的感覚空間では、対象が「ある」場合には、同時にそれへの直線的行動が可能となる。そうでない場合には、つまり対象は存在しない(見えない)ため生理的感覚空間はない。
しかし、二足歩行を可能にした乳児には、生理的対象は、色々なものの中に混在して「ある」。つまり、そのとき、空間は対象が「ある」と「ない」の二つによって構成されず、対象はいろいろなものの中に「ある」ことになる。そのため、乳児はその対象に対して、直線的な動きでなく、生理的要求以外のものを避けながら、生理的要求に近づかなければならない。
つまり、このとき乳児は、避けるという行動を起こすことになる。生理的要求に近づくために、それ以外のものを避ける行動が取られる。この避ける行動、ここでは生理的に避けるという意味であるが、避けながら近づく、近づくために避けるという行動運動のプラスとマイナスを組合し、生理的要求対象に接近する運動規則(秩序)を身につけることになる。生理的対象が「ある」場合、そこに生理的対象への空間が存在し、そして生理的行動は生まれる。それが「ない」場合には、生理的対象への空間はなく、生理的行動も生じない。
つまり、ハイハイを行っている段階の乳児の世界は、要求する対象とは接近できる対象を意味する。対象が「ある」ということは、それに対して接近が可能な空間的対象を意味する。見方を変えれば、生理的要求対象が「ある」という「感覚」が、その対象物を得る条件で成立することになる。この成立条件は快感原則と類似する。
つまり、すべての生理的要求対象とはすべての獲得可能な対象であると言える。それは、獲得可能な対象しか「ある」と感覚されない乳児の世界の姿であり、生理的要求対象が「ない」世界とは乳児の感覚の外を意味する。つまり、あるものは得られるものである。これを得られるものから見ればすべての世界が彼には得られる対象であることになる。この世界を快感原則に基づく一次ナルシズム的世界と呼ぶことが出来るだろう。
生理的身体運動の秩序から場所的運動の秩序へ
二足歩行を行うようになった乳児が、生理的感覚対象が場所的空間に配列する過程で、生理的感覚世界に場所的秩序が持ち込まれることになる。つまり、乳児はその場所的秩序を理解することで、最も経済的な運動を選択し、生理的に要求する対象へ接近することが出来るようになるのである。
これらの、生理的身体の秩序化から生理的感覚対象の場所的秩序化の乳児における学習過程の延長上に、所謂、社会秩序の受け入れが準備されるのではないだろうか。つまり、一次ナルシズム的世界から二次ナルシズム世界への移行過程には、つまり、二次ナルシズム的精神現象を誘発する精神経済則・現実則(社会文化的規則を基にして機能する精神経済法則)までに、幾つかの段階が仮定される。その仮定は、生理的運動空間が場所的運動空間へ移行する時に生じる場所的身体運動を獲得する過程から想定されるのである。
また、この説明仮説には、ある意味で、上記した仮設的説明は、フロイトが常に引き合いに出す「個体発生は系統発生を繰り返す」という考えを想定している。
つまり、原始的動物も生理的要求対象にたいして反応する個体を持つ、それらの反応は単純な反応から、次第にそれらが高等な動物に進化することによって、生理的要求対象を得るための一次元的な行動から次元数を増やす行動バターンを獲得する。そして、もっとも合理的に身体を動かすことによって獲物を獲得する運動を獲る段階にまで発達するのである。その合理性とは、身体運動を規定する規則を活用し、最小の身体エネルギーで最高の運動効率を上げることを意味しているのである。
さらも、乳児はこれまでの動物が獲得した生理的運動の合理性を得る身体内運動(筋肉運動)の規則性を獲得することから場所的空間運動の合理性を得る身体外運動(場所的空間認識)の規則を見出すのである。
言い換えると、快感原則から現実則を得る過程は、個体が生理的要求対象を場所的に感覚し、その対象に対して接近するための生理的方法、つまり、最小エネルギーによる最大効果を得る身体運動の獲得によって、可能となる。その過程は、場所的空間運動の合理的運動能力の獲得をもって表現される。この合理的な場所的移動や運動の法則(秩序)を現実則の前哨段階と考えることも可能である。
このようにその合理的な身体の運動能力を得ること、つまり場所的配置空間で身体の運動の規則性(障害物を避け、生理的対象を最小エネルギーの力で獲得するための身体の動かし方)を理解するのである。この規則性の理解によって、個体保存のための能力は磨かれ、個体は与えられた環境に順応するという表現で生存することが出来るのである。この合理的な場所的移動や運動の法則を理解することによって、現実則を身につける身体的ど土台が出来上がっていることになる。
生理的要求対象から言語的意味対象へ (欲望の発生)
乳児が二足歩行を始めることで、フロイトの説明仮説である口唇期(一次ナルシズム的世界、快感原則で機能する自我)は終焉に向かう。
生理的要求対象が場所的空間運動によってそれ以外の障害物と混在しはじめ、その混在はますます広がる。つまり、乳児は二足歩行によってより多くの生理的要求対象以外のものを見る。視覚的能力が向上することによって、その混在はますますひどくなるだろう。もはや、自分欲しいもの(オッパイ)は、それ以外のものの中に隠れてします。
乳児は、色々なものを口にし、それが生理的要求物(オッパイ)でないことを確認し続けることになる。そして、ますます大きくなる生理的要求を求めて、色々なものを口にし、それを一つ一つ確かめなければならない。
それらの生理的要求物意外のものを口から吐き出すことで、それらは明確に非身体であり、身体の外に置かれることになる。乳児が口にするもの、それらが生理的要求以外のものの初めての出会いを意味し、それらが身体の外に生まれる初めての世界である。生理的要求物でない「もの」を吐き出すことで世界は外に広がる。(4)
それらの身体の外に吐き出され、生理的要求の対象物でないもので覆い尽くされながら、非自己の空間的世界が生まれる。それらの空間を占めるものは、まず、生理的要求の対象物への障害物となる。生理的要求の対象物を得るためには、それらの障害物を理解しなければならない。それを避けるために、それを生理的要求の対象物と誤解しないために、乳児は、それと生理的要求の対象物を区別するために、まず、その対象物を区別する手段を手に入れようとする。
「マンマ」という呼び名が生理的要求の対象物に命名される。それはその対象物を持つ母であり、母のオッパイである。そして、「マンマ」ということ対象物がそれ以外の他ものと区別される。つまり、乳児の音声から生じた「マンマ」は「オッパイ」を意味するもの(記号)であり、乳児の頭には「オッパイ」の視覚的表象が指示物として存在し、その視覚的に指示するものと「マンマ」という音声によって指示するものが、その「マンマ」の記号によって意味されるものと連動する。そこに「マンマ」(音記号)と「オッパイ」(視覚的表象)と「マンマ・オッパイ」(意味)が形成するのである。(5)(6)
生理的要求の対象とは視覚的な対象である。その視覚的対象が言語化されることによって、生理的反応から言語活動的反応にと変化することになる。つまり、生理的要求の対象であった「オッパイ」は母の身体の一部である。しかし、言語化された「マンマ」は、その身体から切り離された「対象」となる。ある具体的な他者の身体性を捨象することで、意味としての独立した「マンマ」が存在することになる。乳児は、母の身体性から抽象的な「マンマ」・オッパイを要求する。つまり、この抽象的なオッパイ、言語化されたオッパイ「マンマ」は、もはや乳児の生理的要求の具体的に対象物でなく、意味化した要求物に抽象化されることになるのである。この抽象的な要求を「欲望」と呼んでいる。
欲望は生理的要求を土台にしている。その意味で欲望は身体的作用がその背景となるように思われるが、明らかにそれは言語活動によって生じたものである。つまり、乳児が生理的要求対象を言語化しなければ、「欲望」は形成されないのである。
参考資料
(1)NHKアインシュタインの眼「赤ちゃんの奇跡」2011年1月23日放映
司会 古田敦也 ゲスト:堀ちえみ、小西行郎(日本赤ちゃん学会理事長)
番組 「赤ちゃん 運動発達の神秘」
http://www.nhk.or.jp/einstein/archive/index.html
(2)「非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1_27.html
(3)「非自己としての生理的空間の発見と場所的空間の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2_27.html
(4)岸田秀氏が「ものぐた精神分析」で語る肛門期での空間の成立過程を参考
(5)ソシュールの言語学を基にした考え方を参考
(6)三石博行 システム言語学研究
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_04.html
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_04/cMITShir00j.pdf
(7)Hiroyuki Mitsuishi DECONSTRUCTION ET RECONSTRUCTION DE LA METAPSYCHOLOGIE FREUDIENNE - ESSAI D'EPISTEMOLOGIE SYSTEMIQUE - 邦訳 フロイトメタ心理学の解体と再構築-システム認識論の試み- Atelier national de reproduction des these France、584p 1993年10月 単著
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05_02.html
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05.html
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2011年1月27日木曜日
非自己としての空間の発見と場所的空間の形成
精神分析学的説明仮説から推論できる他者性の形成過程に関する哲学的議論(2)
三石博行
身体性の自己化による生理的空間の発見
前節では、寝返り運動の出来ない乳児の身体運動に関する研究報告を活用しながら、非自己状態の身体性の出現、つまり「第一次の非自己化過程」について語った。その中で、この第一次の非自己化過程・一次ナルシシズム世界での亀裂出現期での、生理的空間や生理的時間の概念についても触れた。つまり、その時期での空間や時間概念は、我々が知る空間や時間概念では想像することの出来ない世界であると謂える。この段階を前期口唇期と呼ぶことにする。
さて、この節では、寝返り運動が可能になった乳児を例にとりながら、非自己化している身体が自己化する過程について考える。つまり、一次ナルシシズム的世界に生じた亀裂過程では、非自己は自己の要求に従って運動しない身体・制御不可能な身体であった。換言すると、この身体が自己の要求に従って運動する身体・制御可能な身体である。この段階は前期口唇期が終焉しようとしている段階であると考えることにする。
この段階で、乳児は制御可能な身体を持つことで寝返りを打ち、生理的要求対象を獲得するための身体運動の飛躍的一歩を踏み出すことができるようになった。その意味で、第一次の非自己化過程で登場した非自己としての身体性は自己化され始める。つまり、生理的反応に即して身体運動を可能にすることで、非自己的身体性は消滅し、自己化した身体が形成される。
しかし、この場合の自己とは、自らの生理的要求を獲得するために自らの身体を動かすことのできる条件を意味する。自己化とは、つまり、生理的要求内容と制御可能な身体運動内容に一対一関係が成立したことを単に意味しているに過ぎない。その意味で、自己の身体性に非自己性という要素が消滅することを意味する。そして、ここから後期口唇期が始まると考える。
感覚的空間の発見 身体運動量による生理的感覚空間
寝返り運動を可能にした乳児は、さらに生理的要求に対して動く身体を次第に獲得して行く。寝返り、ハイハイと乳児の行動半径は広がる。つまりそのハイハイによって生まれる新しい空間は、行動半径の広がり、前節でのべた、寝返りを打てない赤ちゃんの生理的反応から生じる空間感覚、つまり、「つかめる対象・ここ」か「つかめない対象・ここでない」の関係が絶対的に成立している二つの対象理解に付随する差異から生じる感覚ではない。
ハイハイをすることで、赤ちゃんは、「つかめた」と「つかめない」の二つの生理的反応結果を自らの身体運動で可能にし得る。言い換えると、生理的要求を満たす対象物が「つかめないもの・ここでない」であったとしても、それを寝返りやハイハイ運動によって「つかめるもの・ここ」へと変化さすことが可能になる。
この二つの空間関係は身体運動によって能動的に創られる。「ここ」と「ここでない」の関係をつなぐのは運動する身体(自己化した身体)である。言い換えると、「ここ」と「ここでない」の感覚的空間的関係が生じるのは、「つかめない」ものを「つかめる」ように変えうる身体運動を獲得した身体(からだ)によるものである。その非自己的身体(しんたい)から個体としての身体・身体(からだ)への進化によって、「ここ」と「ここでない」二つの位置関係(空間的関係)が生じるである。
感覚的空間は、自己化した身体と自己化していない世界との関係によって生じたのでなく、自己化した身体の運動によって獲得した生理的要求の結果獲得されるのである。つまり、もし、それが欲しいという生理的要求がなければ、そしてその要求を叶えるための身体運動、寝返りやハイハイはない、すると身体運動に結果としての感覚的空間は登場しえないのである。
要求が増えるごとに、その要求を叶える身体運動が必要となる。手や足の指の筋肉を使って効率のよい前進運動を工夫される。そして、ハイハイのスピードが変化し、「ここ」と「ここでない」二つの地点は狭まる。ハイハイの段階では、赤ちゃんの平面的な視覚からは生理的要求物への距離とは、我々の理解している立体的な距離、二つの間にある物理的な距離感覚はないと理解できないか。
生理的感覚で理解される距離とは、「ここ」から「ここでない」までの到達に必要な生理的エネルギー量(消費エネルギー量)によって理解される。つまり、我々の眼から見える赤ちゃんの身体運動速度が、獲得しやすいもの(近いもの)と獲得しにくいもの(遠いもの)の感覚を生み出すことになる。その意味で、生理的感覚空間は生理的運動時間と不可分の関係になると謂える。
二足歩行運動から得られる場所的空間の形成
さらに乳児の生理的要求が大きくなることで、生理的感覚空間は広がり続ける。そして同時に、生理的要求の対象を手に入れるための身体運動は鍛えられ、身体運動効率を上げる。そのことで、生理的感覚空間は相対的に縮まると思われる。
しかし、乳児の生理的要求対象はますます増え続ける。それはハイハイによる身体移動では可能にすることが出来ない。そのために、ハイハイから二足歩行へと身体運動は変化することで、乳児は効率の高い身体運動を獲得しようとするのである。しかし、必ずしも、ハイハイから二足歩行が移動効率の高い運動であったいうより、赤ちゃんの足や手の胴体とのバランスの変化、成長にともなう身体的変化によって、二足歩行へと移行するのではないかた考えられている。
二足歩行をするようになって、乳児の視覚世界を大きく変えることになる。今まで、平面的視野から生理的要求の対象物を見ていた世界が、立体的視野へと変化する。そのことで、身体運動量として理解されていた対象物への距離感を支配していた生理的空間は生滅し、対象物が配列されている空間が登場することになる。つまり、対象物に間にあった「ここ」と「ここでない」空間から、対象物が自分の身体の位置「ここ」から、色々な「ここでない」位置、「そこ」に配列されていることになるのではないだろうか。
「ここ」と「ここでない」一次元的な距離概念の関係は、「ここ」と「そこ」という二つのまったく異なる場所の関係や位置関係へと変化することになる。そのことは、象徴的表現を借りるなら「ここ・自己」と「ここでない・自己でない」同一空間的関係に存在している自己と自己でない世界の未分化状態を意味している世界が「ここ・自己」と「そこ・他者」という二つのまったく異なる存在関係へと変化することになる。
こうして、生理的要求の対象がから空間的配列された対象へと変化する。これは生理的空間が場所的空間へと匿名化される過程、つまり、直接的な欲望対象から間接的な視覚の世界を構成するものへの変遷を意味する。この変遷こそ、超自我が欲望の対象への精神エネルギーの直接投資を禁止する過程(一次ナルシズム世界の終焉・快感原則による精神エネルギーの投資形態の変化)によるものであると理解される。
生理的空間感覚は消滅し、つまり生理的要求に一次元的に了解されていた世界、それゆえに対象に対する直接的な投資形態が可能であった世界から脱却し、場所的(視覚的)空間に配列されて登場している生理的要求対象に対して直線的でないアクセスの仕方を理解する。それは、障害物を避けるための方法の生理的理解であり、間接的に近づく方法の取得でもある。つまり、この生理的空間が場所的空間に変化する段階で、後期口唇期が終焉する。一次ナルシシズムによって機能していた自我はすべて抑制されることになり、口唇期の精神現象は消滅する。
参考資料
「精神分析学的説明仮説から推論できる他者性の形成過程に関する哲学的議論(1)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1_27.html
訂正
2011年1月27日 誤字訂正
2011年1月29日 誤字訂正
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三石博行
身体性の自己化による生理的空間の発見
前節では、寝返り運動の出来ない乳児の身体運動に関する研究報告を活用しながら、非自己状態の身体性の出現、つまり「第一次の非自己化過程」について語った。その中で、この第一次の非自己化過程・一次ナルシシズム世界での亀裂出現期での、生理的空間や生理的時間の概念についても触れた。つまり、その時期での空間や時間概念は、我々が知る空間や時間概念では想像することの出来ない世界であると謂える。この段階を前期口唇期と呼ぶことにする。
さて、この節では、寝返り運動が可能になった乳児を例にとりながら、非自己化している身体が自己化する過程について考える。つまり、一次ナルシシズム的世界に生じた亀裂過程では、非自己は自己の要求に従って運動しない身体・制御不可能な身体であった。換言すると、この身体が自己の要求に従って運動する身体・制御可能な身体である。この段階は前期口唇期が終焉しようとしている段階であると考えることにする。
この段階で、乳児は制御可能な身体を持つことで寝返りを打ち、生理的要求対象を獲得するための身体運動の飛躍的一歩を踏み出すことができるようになった。その意味で、第一次の非自己化過程で登場した非自己としての身体性は自己化され始める。つまり、生理的反応に即して身体運動を可能にすることで、非自己的身体性は消滅し、自己化した身体が形成される。
しかし、この場合の自己とは、自らの生理的要求を獲得するために自らの身体を動かすことのできる条件を意味する。自己化とは、つまり、生理的要求内容と制御可能な身体運動内容に一対一関係が成立したことを単に意味しているに過ぎない。その意味で、自己の身体性に非自己性という要素が消滅することを意味する。そして、ここから後期口唇期が始まると考える。
感覚的空間の発見 身体運動量による生理的感覚空間
寝返り運動を可能にした乳児は、さらに生理的要求に対して動く身体を次第に獲得して行く。寝返り、ハイハイと乳児の行動半径は広がる。つまりそのハイハイによって生まれる新しい空間は、行動半径の広がり、前節でのべた、寝返りを打てない赤ちゃんの生理的反応から生じる空間感覚、つまり、「つかめる対象・ここ」か「つかめない対象・ここでない」の関係が絶対的に成立している二つの対象理解に付随する差異から生じる感覚ではない。
ハイハイをすることで、赤ちゃんは、「つかめた」と「つかめない」の二つの生理的反応結果を自らの身体運動で可能にし得る。言い換えると、生理的要求を満たす対象物が「つかめないもの・ここでない」であったとしても、それを寝返りやハイハイ運動によって「つかめるもの・ここ」へと変化さすことが可能になる。
この二つの空間関係は身体運動によって能動的に創られる。「ここ」と「ここでない」の関係をつなぐのは運動する身体(自己化した身体)である。言い換えると、「ここ」と「ここでない」の感覚的空間的関係が生じるのは、「つかめない」ものを「つかめる」ように変えうる身体運動を獲得した身体(からだ)によるものである。その非自己的身体(しんたい)から個体としての身体・身体(からだ)への進化によって、「ここ」と「ここでない」二つの位置関係(空間的関係)が生じるである。
感覚的空間は、自己化した身体と自己化していない世界との関係によって生じたのでなく、自己化した身体の運動によって獲得した生理的要求の結果獲得されるのである。つまり、もし、それが欲しいという生理的要求がなければ、そしてその要求を叶えるための身体運動、寝返りやハイハイはない、すると身体運動に結果としての感覚的空間は登場しえないのである。
要求が増えるごとに、その要求を叶える身体運動が必要となる。手や足の指の筋肉を使って効率のよい前進運動を工夫される。そして、ハイハイのスピードが変化し、「ここ」と「ここでない」二つの地点は狭まる。ハイハイの段階では、赤ちゃんの平面的な視覚からは生理的要求物への距離とは、我々の理解している立体的な距離、二つの間にある物理的な距離感覚はないと理解できないか。
生理的感覚で理解される距離とは、「ここ」から「ここでない」までの到達に必要な生理的エネルギー量(消費エネルギー量)によって理解される。つまり、我々の眼から見える赤ちゃんの身体運動速度が、獲得しやすいもの(近いもの)と獲得しにくいもの(遠いもの)の感覚を生み出すことになる。その意味で、生理的感覚空間は生理的運動時間と不可分の関係になると謂える。
二足歩行運動から得られる場所的空間の形成
さらに乳児の生理的要求が大きくなることで、生理的感覚空間は広がり続ける。そして同時に、生理的要求の対象を手に入れるための身体運動は鍛えられ、身体運動効率を上げる。そのことで、生理的感覚空間は相対的に縮まると思われる。
しかし、乳児の生理的要求対象はますます増え続ける。それはハイハイによる身体移動では可能にすることが出来ない。そのために、ハイハイから二足歩行へと身体運動は変化することで、乳児は効率の高い身体運動を獲得しようとするのである。しかし、必ずしも、ハイハイから二足歩行が移動効率の高い運動であったいうより、赤ちゃんの足や手の胴体とのバランスの変化、成長にともなう身体的変化によって、二足歩行へと移行するのではないかた考えられている。
二足歩行をするようになって、乳児の視覚世界を大きく変えることになる。今まで、平面的視野から生理的要求の対象物を見ていた世界が、立体的視野へと変化する。そのことで、身体運動量として理解されていた対象物への距離感を支配していた生理的空間は生滅し、対象物が配列されている空間が登場することになる。つまり、対象物に間にあった「ここ」と「ここでない」空間から、対象物が自分の身体の位置「ここ」から、色々な「ここでない」位置、「そこ」に配列されていることになるのではないだろうか。
「ここ」と「ここでない」一次元的な距離概念の関係は、「ここ」と「そこ」という二つのまったく異なる場所の関係や位置関係へと変化することになる。そのことは、象徴的表現を借りるなら「ここ・自己」と「ここでない・自己でない」同一空間的関係に存在している自己と自己でない世界の未分化状態を意味している世界が「ここ・自己」と「そこ・他者」という二つのまったく異なる存在関係へと変化することになる。
こうして、生理的要求の対象がから空間的配列された対象へと変化する。これは生理的空間が場所的空間へと匿名化される過程、つまり、直接的な欲望対象から間接的な視覚の世界を構成するものへの変遷を意味する。この変遷こそ、超自我が欲望の対象への精神エネルギーの直接投資を禁止する過程(一次ナルシズム世界の終焉・快感原則による精神エネルギーの投資形態の変化)によるものであると理解される。
生理的空間感覚は消滅し、つまり生理的要求に一次元的に了解されていた世界、それゆえに対象に対する直接的な投資形態が可能であった世界から脱却し、場所的(視覚的)空間に配列されて登場している生理的要求対象に対して直線的でないアクセスの仕方を理解する。それは、障害物を避けるための方法の生理的理解であり、間接的に近づく方法の取得でもある。つまり、この生理的空間が場所的空間に変化する段階で、後期口唇期が終焉する。一次ナルシシズムによって機能していた自我はすべて抑制されることになり、口唇期の精神現象は消滅する。
参考資料
「精神分析学的説明仮説から推論できる他者性の形成過程に関する哲学的議論(1)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1_27.html
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2011年1月27日 誤字訂正
2011年1月29日 誤字訂正
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非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象
精神分析学的説明仮説から推論できる他者性の形成過程に関する哲学的議論(1)
三石博行
超自我の形成とは、欲望の抑制機能として働くマイナスの精神エネルギーの登場によって生じる。それまでの世界は対象と自己との融合された、言い換えると自己の欲望を満たす「対象」として対象世界が存在している。この精神状態を一次ナルシシズム的世界と呼ぶ。
つまり、超自我の形成によって一次ナルシシズム的世界の終焉が始まることになる。比喩的表現をするなら、この一次ナルシシズム的世界にその一次ナルシシズム的世界以外の新しい世界が登場する。これを一次ナルシシズム世界の亀裂と表現することも出来る。つまり、その亀裂とは、ナルシシズム的自己と非自己(ナルシシズム的自己でない世界)の分裂であると表現することも出来る。この亀裂によって生じる世界存在化過程を、「第一次の非自己化過程」と考えることにする。
例えば、赤ちゃん学の研究から寝返り運動を始めた乳児の腹筋と背筋運動に関する興味深い報告がある。寝返り行動のできない乳児は腹筋や背筋の運動を同時に行い、その二つの筋肉運動を時間的に調整することができない。逆に、寝返りできるようになった乳児は腹筋と背筋運動を調整する能力を得たことになる。(1)
寝返り運動の出来ない状態の乳児にとって、自己の身体は自己調整できない存在で(状態に)ある。つまり、あかちゃんは視覚に入る対象「欲しいもの」に向かって身体を動かすことは出来ない。赤ちゃんの脳は腕や足などへ「欲しい」という生理的要求を満たす生理的身体運動を実現することは出来ない。
この時期(寝返り運動をする前)の乳児は、しきりに自分の足をあげ(腹筋運動をして)、その足を指で握り口に入れる。こうした身体運動から、乳児は口でしゃぶられる足から生理的刺激を受ける。口や手の刺激によって生じるその不明の物体(非自己化されている身体部分・足)から明らかに伝わる生理的刺激を感じる。
つまり、この時期の赤ちゃんには二つの身体が存在している。一つは自己化された身体、つまり、それは口を動かすという生理的要求と口の身体運動の同時性によって成立している。身体運動の生理的指示(生理的要求)、生理的運動するもの(口の筋肉)と生理的に刺激されるもの(口内の感覚)が同時化することで自己の身体性が成立している。
他方、刺激された足は、生理的に刺激されるもの(足の皮膚感覚)のみがある。それらは生理的要求に従って動かすことも、また動くことも出来ない。つまり、足はまだ自己身体として認識されない身体、非自己状態の自己身体であると言える。
比喩的な表現を使うなら、寝返り運動できない乳児にとって「自分である身体・制御可能な筋肉運動をもつ身体」と「自分でない身体・制御不可能な筋肉運動をする身体」が存在しているように思える。つまり、母親からオッパイをもらう「口」(唇や吸う筋肉運動を支配している顔面や喉などの筋肉)などの生理的要求を満たすために動くことが出来る身体的部分と、生理的要求を満たすために動かない身体部分(寝返りを打つための筋肉運動が出来ない腹筋や背筋、足の筋肉等々の身体部分の二つが存在している。
こうした身体部分の亀裂を生み出したものは増幅する生理的要求であった。触りたいもの興味あるものに近づく要求が生まれること、つまり寝返りを打ちたいという要求が生じる。しかし、その要求を満たす身体を赤ちゃんは持っていない。その要求を実現しようとする。そことで、乳児は生理的要求を満たすために動かない身体部分を見つけ出す(比喩的表現を借りるが)ことになる。この生理的要求を満たすための運動をしない身体は、乳児にとって始めに登場した非自己的存在ではないだろうか。つまり、身体の発見が、一次ナルシシズム的な世界の亀裂によって生じる非自己的存在ではないかと想像できる。この身体の発見を「第一次の非自己化過程」と仮定する。
非自己状態の自己身体の以前の状態は、身体性自体が存在しないと比喩的に表現できる。つまり、増幅する生理的要求によって非対象化された自己身体(口)に対峙する形で、非自己化した身体(足)を見つけ出すことになる。これが生理的要求によって生じる身体性(空間)の登場を意味するのである。
寝返りを打てない赤ちゃんの空間と時間は、生理的反応から生じる、例えばその空間感覚は、要求対象と要求する側の関係で生み出される。つまり、その空間感覚は、つかめるかそうでないかの二つの生理的反応結果で示される意味しかない。また、時間感覚は、「要求を満たそうとする」状態から「満たされた状態」の二つの生理的反応の変化によって生まれる。つまり、その時間感覚は、二つの生理的反応の差異を意味する。その時間と空間の感覚は、「第一次の非自己化過程」で登場した身体の生理的反応の一つであるといえる。
参考資料
(1) NHKアインシュタインの眼「赤ちゃんの奇跡」2011年1月23日放映
司会 古田敦也 ゲスト:堀ちえみ、小西行郎(日本赤ちゃん学会理事長)
番組 「赤ちゃん 運動発達の神秘」
「人間の一生の中で一番成長のスピードが早い「赤ちゃん」。寝返り、ハイハイ、二足歩行と、たった1年の間に、驚異的な進化を成し遂げる。赤ちゃんの運動能力はいかにして発達するのか。その謎にスーパーカメラで迫る。まず注目するのは、赤ちゃんにとっての最初の移動行動の、寝返り。赤ちゃんが生まれて初めて寝返りする決定的瞬間を定点カメラでとらえるとともに、寝返りができる子、できない子の差はいったい何なのか探る。さらに、巨大な頭を持つ赤ちゃんが、なぜ二足歩行できるようになるのか? 定点カメラやハイスピードカメラで、その秘密を解き明かすとともに、最初は両手を上にあげ2歩程しか進めない赤ちゃんが、どのようにして上手に歩けるようになっていくのか、赤ちゃんの二足歩行獲得の秘密を解明する。 」
http://www.nhk.or.jp/einstein/archive/index.html
誤字訂正 2011年2月21日
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三石博行
超自我の形成とは、欲望の抑制機能として働くマイナスの精神エネルギーの登場によって生じる。それまでの世界は対象と自己との融合された、言い換えると自己の欲望を満たす「対象」として対象世界が存在している。この精神状態を一次ナルシシズム的世界と呼ぶ。
つまり、超自我の形成によって一次ナルシシズム的世界の終焉が始まることになる。比喩的表現をするなら、この一次ナルシシズム的世界にその一次ナルシシズム的世界以外の新しい世界が登場する。これを一次ナルシシズム世界の亀裂と表現することも出来る。つまり、その亀裂とは、ナルシシズム的自己と非自己(ナルシシズム的自己でない世界)の分裂であると表現することも出来る。この亀裂によって生じる世界存在化過程を、「第一次の非自己化過程」と考えることにする。
例えば、赤ちゃん学の研究から寝返り運動を始めた乳児の腹筋と背筋運動に関する興味深い報告がある。寝返り行動のできない乳児は腹筋や背筋の運動を同時に行い、その二つの筋肉運動を時間的に調整することができない。逆に、寝返りできるようになった乳児は腹筋と背筋運動を調整する能力を得たことになる。(1)
寝返り運動の出来ない状態の乳児にとって、自己の身体は自己調整できない存在で(状態に)ある。つまり、あかちゃんは視覚に入る対象「欲しいもの」に向かって身体を動かすことは出来ない。赤ちゃんの脳は腕や足などへ「欲しい」という生理的要求を満たす生理的身体運動を実現することは出来ない。
この時期(寝返り運動をする前)の乳児は、しきりに自分の足をあげ(腹筋運動をして)、その足を指で握り口に入れる。こうした身体運動から、乳児は口でしゃぶられる足から生理的刺激を受ける。口や手の刺激によって生じるその不明の物体(非自己化されている身体部分・足)から明らかに伝わる生理的刺激を感じる。
つまり、この時期の赤ちゃんには二つの身体が存在している。一つは自己化された身体、つまり、それは口を動かすという生理的要求と口の身体運動の同時性によって成立している。身体運動の生理的指示(生理的要求)、生理的運動するもの(口の筋肉)と生理的に刺激されるもの(口内の感覚)が同時化することで自己の身体性が成立している。
他方、刺激された足は、生理的に刺激されるもの(足の皮膚感覚)のみがある。それらは生理的要求に従って動かすことも、また動くことも出来ない。つまり、足はまだ自己身体として認識されない身体、非自己状態の自己身体であると言える。
比喩的な表現を使うなら、寝返り運動できない乳児にとって「自分である身体・制御可能な筋肉運動をもつ身体」と「自分でない身体・制御不可能な筋肉運動をする身体」が存在しているように思える。つまり、母親からオッパイをもらう「口」(唇や吸う筋肉運動を支配している顔面や喉などの筋肉)などの生理的要求を満たすために動くことが出来る身体的部分と、生理的要求を満たすために動かない身体部分(寝返りを打つための筋肉運動が出来ない腹筋や背筋、足の筋肉等々の身体部分の二つが存在している。
こうした身体部分の亀裂を生み出したものは増幅する生理的要求であった。触りたいもの興味あるものに近づく要求が生まれること、つまり寝返りを打ちたいという要求が生じる。しかし、その要求を満たす身体を赤ちゃんは持っていない。その要求を実現しようとする。そことで、乳児は生理的要求を満たすために動かない身体部分を見つけ出す(比喩的表現を借りるが)ことになる。この生理的要求を満たすための運動をしない身体は、乳児にとって始めに登場した非自己的存在ではないだろうか。つまり、身体の発見が、一次ナルシシズム的な世界の亀裂によって生じる非自己的存在ではないかと想像できる。この身体の発見を「第一次の非自己化過程」と仮定する。
非自己状態の自己身体の以前の状態は、身体性自体が存在しないと比喩的に表現できる。つまり、増幅する生理的要求によって非対象化された自己身体(口)に対峙する形で、非自己化した身体(足)を見つけ出すことになる。これが生理的要求によって生じる身体性(空間)の登場を意味するのである。
寝返りを打てない赤ちゃんの空間と時間は、生理的反応から生じる、例えばその空間感覚は、要求対象と要求する側の関係で生み出される。つまり、その空間感覚は、つかめるかそうでないかの二つの生理的反応結果で示される意味しかない。また、時間感覚は、「要求を満たそうとする」状態から「満たされた状態」の二つの生理的反応の変化によって生まれる。つまり、その時間感覚は、二つの生理的反応の差異を意味する。その時間と空間の感覚は、「第一次の非自己化過程」で登場した身体の生理的反応の一つであるといえる。
参考資料
(1) NHKアインシュタインの眼「赤ちゃんの奇跡」2011年1月23日放映
司会 古田敦也 ゲスト:堀ちえみ、小西行郎(日本赤ちゃん学会理事長)
番組 「赤ちゃん 運動発達の神秘」
「人間の一生の中で一番成長のスピードが早い「赤ちゃん」。寝返り、ハイハイ、二足歩行と、たった1年の間に、驚異的な進化を成し遂げる。赤ちゃんの運動能力はいかにして発達するのか。その謎にスーパーカメラで迫る。まず注目するのは、赤ちゃんにとっての最初の移動行動の、寝返り。赤ちゃんが生まれて初めて寝返りする決定的瞬間を定点カメラでとらえるとともに、寝返りができる子、できない子の差はいったい何なのか探る。さらに、巨大な頭を持つ赤ちゃんが、なぜ二足歩行できるようになるのか? 定点カメラやハイスピードカメラで、その秘密を解き明かすとともに、最初は両手を上にあげ2歩程しか進めない赤ちゃんが、どのようにして上手に歩けるようになっていくのか、赤ちゃんの二足歩行獲得の秘密を解明する。 」
http://www.nhk.or.jp/einstein/archive/index.html
誤字訂正 2011年2月21日
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2011年1月24日月曜日
フロイト精神分析学の説明仮説の拡張可能性
三石博行
フロイト精神分析学の説明仮説の拡張条件、無意識概念と臨床行為
フロイト理論の援用に関する権利問題
前節(1)で、フロイトによる臨床行為の中で確立したメタ心理学の説明仮説を援用する場合、フロイトの時代と社会文化的背景がそのフロイトの解釈モデルに内在していることが前提となっていることを理解しておかなければならないことについて述べた。
つまり、フロイトの精神分析理論と呼ばれる個別科学的説明仮説(アブダクション)の成立条件は、フロイトがその理論を導き出した作業である臨床行為、その行為の時代、社会文化的背景が前提となっている。
言い換えると、その理論の科学的有効性は、その理論が形成されている条件内に限定されているということになる。すると、現代のフロイト派の多くの理論がその有効性を疑われ、その存立条件を失うことになる。つまり、フロイト精神分析学の理論は、臨床精神分析行為に限定され、それ以外のその理論の援用権利が認められるかどうかを検討する必要が生じているといえるのである。
臨床精神分析理論から社会精神分析理論への拡張の可能性について
例えば、1980年代フロイト理論を援用し、現代の日本社会文化を分析した岸田秀氏は、日本の近代化過程での伝統文化と外来文化(特にアメリカの影響)から生じる文化的分裂や江戸末期に列強と取り結んだ不平等条約や開国への社会文化的ショック経験を反復した朝鮮王朝への開国要求や侵略を社会経済的視点でなく社会精神構造的視点から説明した。(2)
岸田秀氏の独自の社会精神分析の理論の数々は、1980年代以後現代に至るまで日本社会で大きな反響を呼び、精神分析の流行を作ったといえる。
後期フロイトの理論、例えば1913年に書かれた「トーテムとタブー」(フロイト)に代表されるフロイトの研究を例に取れば、文化構造と自我との類似性を前提にして、それまでのフロイトの精神分析の理論が展開されている。(3)つまり、フロイトは、文化的産物としての自我の構造を前提にしながら、臨床精神学で提案した説明仮説を社会精神分析に適用している。その意味で、岸田秀氏の展開はフロイトの理論範疇に入ると仮定できる。
岸田秀氏は、欧米帝国主義列強の植民地化を防ぐために当時の日本と日本人が取った政治経済的判断、その政治的判断の犠牲となる伝統的文化(生活文化)によって生じる社会文化的病理現象、つまり、明治維新から終戦までの日本の社会史、それを生み出す同時代人の社会観念形態の分析を、フロイト理論を援用しながら行った。これらの社会分析は多くの反響や共感を得たことはすでに述べた通りである。つまり、日本人論を語る道具として岸田秀氏の「社会精神分析」を1980年代の日本人たちは採用したのである。
岸田秀氏の社会精神分析から導かれる近代日本社会の社会精神構造分析から、日本は天皇制を活用し、またロシアや中国は社会主義を活用して、近代化過程をいそいだという理解が成り立つ。列強との熾烈な競争を前提にして進む近代化・資本主義化過程は、ヨーロッパとは異なる様相を示す。つまり、伝統的な経済学や政治学を基礎とする社会経済発展史観では、後発型資本主義の近代化過程の特殊性を説明する理論はない。その意味で、社会精神分析の手法は周辺資本主義国家の近代化過程を理解する理論を提供したといえる(4)。
以上の議論から、岸田秀氏の社会精神分析学的方法によって、フロイトの理論から新しい近代日本社会の分析の視点が確立したと言える。つまり、この社会分析の新しい解釈を与えたフロイト理論に関して謂うなら、フロイトの臨床精神分析で確立したメタ心理学理論(解釈モデル)が、社会精神分析に有効に活用される事実である。個人的自我に関する説明仮説が社会文化の精神構造分析にまで拡張可能性となる意味について考えることが、他方、精神分析学に関する科学哲学の課題となるのである。
つまり、精神分析学の説明仮説で用いられる自我の構造に関するモデルは、社会精神構造に関する理解のモデルに拡張可能であるとすれば、精神分析の説明仮説(アブダクション)は、その個人的な深層心理構造のメタ理論であると同時に社会観念形態のメタ理論となることを意味するのである。つまり、精神分析の理論は、その二つの世界、個人と集団の意識構造を理解する有効な仮説であると言えるのか、もしくは、個人の精神構造と社会の文化構造に類似性があると言えるのだろうかという疑問にたどり着くのである。
この個人の意識と社会の意識構造は共に精神分析学のモデルによって認識解釈可能であると言えるなら、社会的意識とは個人の意識の集合形態(集合表象)であり、社会的意識の土台として個人の意識の集合体を考え、社会観念の基盤として個人的自我の意識形態を単純に考えることが可能だといえるのか。つまり、個人的意識の統計的な平均値が社会的意識であるといえるのかという疑問が生まれるのである。
これまで日本では、今和次郎氏の「生活病理学」に見られるように、近代化過程における人々の精神文化、生活文化の変化を語る研究は成されたが、前近代化の生活環境が「生活病理」の原因であるという前提、つまり近代化を進めることによって生活改善が進み・生活病が無くなると考えていた。(5)しかし、岸田秀氏は、逆に、日本の近代化過程が生み出す新しい社会病理を示したことになる。その究極の姿が第二次世界大戦へつく進む日本の非合理性であった。
確かに社会の近代化は古い封建的社会が継承する伝統・非合理的慣わしを排除し、近代的な豊かな生活を持ち込む。生活学の視点からすれば生活文化の近代化によって多くの女性が古い家の伝統から開放され、豊かな生活を手に入れることが出来ると近代化を評価するのは当然である。しかしながら、伝統文化の崩壊によって、地域社会の共同体や伝統的家族制度は崩壊し、新しい社会病理が形成されることになる。その課題を語る人間社会学として社会精神分析が用いられる。
特に、中心ヨーロッパ諸国(フランスとイギリス)の近代化過程と異なるが政治経済の発展の姿を示す周辺国家(ロシアや日本)の近代化過程に関する分析として、社会学や経済学だけでは、ロシア革命や明治維新の歴史的意味を説明することは不可能である。そこで、社会文化人類学の方法、代表的な理論として梅棹忠夫氏による「文明の生態史観」と、岸田秀氏の社会精神分析学が用いられる。
しかし、こうした理論が形成された背景を超えて拡張可能を許す根拠が問題となる。つまり、臨床精神分析で成立発展したフロイトの理論が、近代日本社会文化の領域の病理的課題にまで拡張しえるという理論的論拠、言い換えると精神分析的説明仮説(アブダクション)が社会文化の分析的説明仮説(アブダクション)に応用転用される根拠とは何かが、精神分析学の科学性を理解するための科学哲学的課題となる。
フロイトの無意識の概念が導く20世紀の人間社会科学の理論へ分岐と展開
フロイトの理論は20世紀の文化人類学、言語学、人間学、社会学や哲学に影響を与える。その影響の共通項は、無意識という概念の導入を認めることに掛かっていた。近代合理主義や科学主義の影響を受けた18世紀以後の近代人間社会科学の研究対象としての人間や社会とは、意識化された世界であった。無意識という証明不明の概念を前提にすることは、科学的方法論上許されなかったのである。
近代合理主義や科学主義や啓蒙主義、その影響を受けたカント哲学も意識主義の哲学の流れの上に成立している。その哲学的な基本課題はゴギトの解釈にあった。フロイトと同時代にヤスパース実存主義(精神病理学)やフッサール現象学やソシュール言語学(構造主義)が登場するのであるが、これらの哲学や人間学の流れを受けて、現代哲学は形成される。
つまり、20世紀になって哲学は近代思想を構築してきた近代合理主義、その落とし子である科学主義と物理主義への反論の材料を求めていた。フロイトの理論は、社会学を展開した機能主義、言語学や記号学を展開した構造主義と同様に、新しい説明仮説を人間学に持ち込むと思われた。
つまり、精神分析の説明仮説が援用される背景には、明らかに近代合理主義、啓蒙主義、科学主義、カント哲学と脈々と西洋思想と科学に流れている意識主義から人間社会科学の理論の脱却が可能かという課題があった。その糸口として、フロイト精神分析学、ソシュール言語学やデルケイムの機能主義社会学があったと言えるだろう。そして、この議論は、現象学、解釈学、ポスト構造主義や吉田民人の自己組織性の情報科学・設計科学などに展開していると言える。
フロイト理論の拡張に関する権利問題 臨床行為を目的にした人間社会科学の理論
さらに、フロイト精神分析の説明仮説が「無意識」の概念の導入以外に、さらに人間社会科学の活用される根拠について述べる必要がある。つまり、フロイトの精神分析が臨床の知であることにその理由が隠されている。
つまり、精神分析は臨床行為の道具として有効性を発揮する限り、その理論的有効性を支持できるため、理論の論理実証性を証明することよりも、その理論が臨床的効果を持つか、実践的な説明仮説であることが条件となる。
臨床精神分析家フロイト理論の拡張に関する権利問題として、
1、 その理論が人間の精神病理に関連する領域であることが前提となる。つまり、社会精神分析も社会精神病理現象を解釈し、その文化的環境に規定された個人の自我構造である以上、社会精神病理的原因の解明は、そのまま個人の自我の精神病理的問題の解明に繋がる。
2、 哲学の理論がこころや精神、社会や人間の病理に関するメタレベルの臨床学を目的とする以上、フロイトの理論の援用は可能になる。
参考資料
(1)「フロイト精神分析の解釈学的科学性の成立条件について」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_24.html
(2)岸田秀 『ものぐさ精神分析』 中公文庫 1982年10月 岸田秀
(3)E.フロイト 『フロイト全集(12)1912-1913 トーテムとタブー』 須藤訓任 門脇健翻訳 岩波文庫
(4)三石博行 「中国の近代化・民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
(5) 今和次郎 「生活病理学」 『生活学』今和次郎集 第五巻 ドメス出版 1971年9月、pp.399-478
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フロイト精神分析学の説明仮説の拡張条件、無意識概念と臨床行為
フロイト理論の援用に関する権利問題
前節(1)で、フロイトによる臨床行為の中で確立したメタ心理学の説明仮説を援用する場合、フロイトの時代と社会文化的背景がそのフロイトの解釈モデルに内在していることが前提となっていることを理解しておかなければならないことについて述べた。
つまり、フロイトの精神分析理論と呼ばれる個別科学的説明仮説(アブダクション)の成立条件は、フロイトがその理論を導き出した作業である臨床行為、その行為の時代、社会文化的背景が前提となっている。
言い換えると、その理論の科学的有効性は、その理論が形成されている条件内に限定されているということになる。すると、現代のフロイト派の多くの理論がその有効性を疑われ、その存立条件を失うことになる。つまり、フロイト精神分析学の理論は、臨床精神分析行為に限定され、それ以外のその理論の援用権利が認められるかどうかを検討する必要が生じているといえるのである。
臨床精神分析理論から社会精神分析理論への拡張の可能性について
例えば、1980年代フロイト理論を援用し、現代の日本社会文化を分析した岸田秀氏は、日本の近代化過程での伝統文化と外来文化(特にアメリカの影響)から生じる文化的分裂や江戸末期に列強と取り結んだ不平等条約や開国への社会文化的ショック経験を反復した朝鮮王朝への開国要求や侵略を社会経済的視点でなく社会精神構造的視点から説明した。(2)
岸田秀氏の独自の社会精神分析の理論の数々は、1980年代以後現代に至るまで日本社会で大きな反響を呼び、精神分析の流行を作ったといえる。
後期フロイトの理論、例えば1913年に書かれた「トーテムとタブー」(フロイト)に代表されるフロイトの研究を例に取れば、文化構造と自我との類似性を前提にして、それまでのフロイトの精神分析の理論が展開されている。(3)つまり、フロイトは、文化的産物としての自我の構造を前提にしながら、臨床精神学で提案した説明仮説を社会精神分析に適用している。その意味で、岸田秀氏の展開はフロイトの理論範疇に入ると仮定できる。
岸田秀氏は、欧米帝国主義列強の植民地化を防ぐために当時の日本と日本人が取った政治経済的判断、その政治的判断の犠牲となる伝統的文化(生活文化)によって生じる社会文化的病理現象、つまり、明治維新から終戦までの日本の社会史、それを生み出す同時代人の社会観念形態の分析を、フロイト理論を援用しながら行った。これらの社会分析は多くの反響や共感を得たことはすでに述べた通りである。つまり、日本人論を語る道具として岸田秀氏の「社会精神分析」を1980年代の日本人たちは採用したのである。
岸田秀氏の社会精神分析から導かれる近代日本社会の社会精神構造分析から、日本は天皇制を活用し、またロシアや中国は社会主義を活用して、近代化過程をいそいだという理解が成り立つ。列強との熾烈な競争を前提にして進む近代化・資本主義化過程は、ヨーロッパとは異なる様相を示す。つまり、伝統的な経済学や政治学を基礎とする社会経済発展史観では、後発型資本主義の近代化過程の特殊性を説明する理論はない。その意味で、社会精神分析の手法は周辺資本主義国家の近代化過程を理解する理論を提供したといえる(4)。
以上の議論から、岸田秀氏の社会精神分析学的方法によって、フロイトの理論から新しい近代日本社会の分析の視点が確立したと言える。つまり、この社会分析の新しい解釈を与えたフロイト理論に関して謂うなら、フロイトの臨床精神分析で確立したメタ心理学理論(解釈モデル)が、社会精神分析に有効に活用される事実である。個人的自我に関する説明仮説が社会文化の精神構造分析にまで拡張可能性となる意味について考えることが、他方、精神分析学に関する科学哲学の課題となるのである。
つまり、精神分析学の説明仮説で用いられる自我の構造に関するモデルは、社会精神構造に関する理解のモデルに拡張可能であるとすれば、精神分析の説明仮説(アブダクション)は、その個人的な深層心理構造のメタ理論であると同時に社会観念形態のメタ理論となることを意味するのである。つまり、精神分析の理論は、その二つの世界、個人と集団の意識構造を理解する有効な仮説であると言えるのか、もしくは、個人の精神構造と社会の文化構造に類似性があると言えるのだろうかという疑問にたどり着くのである。
この個人の意識と社会の意識構造は共に精神分析学のモデルによって認識解釈可能であると言えるなら、社会的意識とは個人の意識の集合形態(集合表象)であり、社会的意識の土台として個人の意識の集合体を考え、社会観念の基盤として個人的自我の意識形態を単純に考えることが可能だといえるのか。つまり、個人的意識の統計的な平均値が社会的意識であるといえるのかという疑問が生まれるのである。
これまで日本では、今和次郎氏の「生活病理学」に見られるように、近代化過程における人々の精神文化、生活文化の変化を語る研究は成されたが、前近代化の生活環境が「生活病理」の原因であるという前提、つまり近代化を進めることによって生活改善が進み・生活病が無くなると考えていた。(5)しかし、岸田秀氏は、逆に、日本の近代化過程が生み出す新しい社会病理を示したことになる。その究極の姿が第二次世界大戦へつく進む日本の非合理性であった。
確かに社会の近代化は古い封建的社会が継承する伝統・非合理的慣わしを排除し、近代的な豊かな生活を持ち込む。生活学の視点からすれば生活文化の近代化によって多くの女性が古い家の伝統から開放され、豊かな生活を手に入れることが出来ると近代化を評価するのは当然である。しかしながら、伝統文化の崩壊によって、地域社会の共同体や伝統的家族制度は崩壊し、新しい社会病理が形成されることになる。その課題を語る人間社会学として社会精神分析が用いられる。
特に、中心ヨーロッパ諸国(フランスとイギリス)の近代化過程と異なるが政治経済の発展の姿を示す周辺国家(ロシアや日本)の近代化過程に関する分析として、社会学や経済学だけでは、ロシア革命や明治維新の歴史的意味を説明することは不可能である。そこで、社会文化人類学の方法、代表的な理論として梅棹忠夫氏による「文明の生態史観」と、岸田秀氏の社会精神分析学が用いられる。
しかし、こうした理論が形成された背景を超えて拡張可能を許す根拠が問題となる。つまり、臨床精神分析で成立発展したフロイトの理論が、近代日本社会文化の領域の病理的課題にまで拡張しえるという理論的論拠、言い換えると精神分析的説明仮説(アブダクション)が社会文化の分析的説明仮説(アブダクション)に応用転用される根拠とは何かが、精神分析学の科学性を理解するための科学哲学的課題となる。
フロイトの無意識の概念が導く20世紀の人間社会科学の理論へ分岐と展開
フロイトの理論は20世紀の文化人類学、言語学、人間学、社会学や哲学に影響を与える。その影響の共通項は、無意識という概念の導入を認めることに掛かっていた。近代合理主義や科学主義の影響を受けた18世紀以後の近代人間社会科学の研究対象としての人間や社会とは、意識化された世界であった。無意識という証明不明の概念を前提にすることは、科学的方法論上許されなかったのである。
近代合理主義や科学主義や啓蒙主義、その影響を受けたカント哲学も意識主義の哲学の流れの上に成立している。その哲学的な基本課題はゴギトの解釈にあった。フロイトと同時代にヤスパース実存主義(精神病理学)やフッサール現象学やソシュール言語学(構造主義)が登場するのであるが、これらの哲学や人間学の流れを受けて、現代哲学は形成される。
つまり、20世紀になって哲学は近代思想を構築してきた近代合理主義、その落とし子である科学主義と物理主義への反論の材料を求めていた。フロイトの理論は、社会学を展開した機能主義、言語学や記号学を展開した構造主義と同様に、新しい説明仮説を人間学に持ち込むと思われた。
つまり、精神分析の説明仮説が援用される背景には、明らかに近代合理主義、啓蒙主義、科学主義、カント哲学と脈々と西洋思想と科学に流れている意識主義から人間社会科学の理論の脱却が可能かという課題があった。その糸口として、フロイト精神分析学、ソシュール言語学やデルケイムの機能主義社会学があったと言えるだろう。そして、この議論は、現象学、解釈学、ポスト構造主義や吉田民人の自己組織性の情報科学・設計科学などに展開していると言える。
フロイト理論の拡張に関する権利問題 臨床行為を目的にした人間社会科学の理論
さらに、フロイト精神分析の説明仮説が「無意識」の概念の導入以外に、さらに人間社会科学の活用される根拠について述べる必要がある。つまり、フロイトの精神分析が臨床の知であることにその理由が隠されている。
つまり、精神分析は臨床行為の道具として有効性を発揮する限り、その理論的有効性を支持できるため、理論の論理実証性を証明することよりも、その理論が臨床的効果を持つか、実践的な説明仮説であることが条件となる。
臨床精神分析家フロイト理論の拡張に関する権利問題として、
1、 その理論が人間の精神病理に関連する領域であることが前提となる。つまり、社会精神分析も社会精神病理現象を解釈し、その文化的環境に規定された個人の自我構造である以上、社会精神病理的原因の解明は、そのまま個人の自我の精神病理的問題の解明に繋がる。
2、 哲学の理論がこころや精神、社会や人間の病理に関するメタレベルの臨床学を目的とする以上、フロイトの理論の援用は可能になる。
参考資料
(1)「フロイト精神分析の解釈学的科学性の成立条件について」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_24.html
(2)岸田秀 『ものぐさ精神分析』 中公文庫 1982年10月 岸田秀
(3)E.フロイト 『フロイト全集(12)1912-1913 トーテムとタブー』 須藤訓任 門脇健翻訳 岩波文庫
(4)三石博行 「中国の近代化・民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
(5) 今和次郎 「生活病理学」 『生活学』今和次郎集 第五巻 ドメス出版 1971年9月、pp.399-478
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フロイト精神分析の解釈学的科学性の成立条件について
三石博行
個別科学的説明仮説(アブダクション)の理解、フロイト精神分析の科学性
神経生理学的モデルからメタ心理学的モデル(説明的仮説)の形成過程
脳神経生理学者であったフロイトはパリに留学しヒステリーの研究の権威ジャン=マルタン・シャルコーのもとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学んだ。その後、フロイトは一般開業医としてヒステリーの治療を実践する。「治療を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。」(Wikipedia)この自由連想法によって、患者は過去の精神的病因を思い出す、つまり病因を意識化することによって病気を治癒する治療する方法、精神分析医療がフロイトによって確立した。
ヒステリーの精神病理学的研究の科学方法論について考えるなら、この自由連想法を支えた理論的土台は神経生理学である。ヒステリーは脳内の生理的エネルギー量の増大による脳内のエネルギー状態の不安定性によるものであると言う解釈が成されていた。つまり、脳内の不安定なエネルギー状態を定常活動状態に移行することが、当然、考えられた治療法であったといえる。その治療法として催眠法や自由連想法が用いられていた。
生理学者フロイトが援用した科学的理論は、神経生理学の理論、つまりその基礎は熱力学である。熱力学では、系の内部エネルギー状態に関する理論、系が外部から熱を受け取ることでエンタルピーが上昇し、逆に外部に熱を出すことでエンタルピーが減少するというエンタルピーの概念がある。つまり、系(脳)は内部エネルギーを発散さすことで脳の内部エネルギー量は減少する。心的外傷状態、つまり脳のストレス状態(高エネルギー状態)を催眠療法や自由連想法によって発散・解消することで、ヒステリーの治療が可能になると考えた。
この精神分析を用いた精神療法の理論も、ヘルムホルツの理論や神経生理学の理論を背景にしていたとしても、脳を熱力学的系と仮定した精神療法の理論である以上、つまり脳のエネルギー量を測定し、催眠による脳内エネルギーの減少と科学的(生理学的)に実証していない限り、一種の比喩的推論(アブダクション)であると言える。
フロイトは、その後 「夢分析」を行う。ヒステリー研究で用いた説明仮説で、夢という精神機能は脳の過剰なエネルギーを発散している現象であると解釈説明することができた。しかし、この精神エネルギー論では、夢の表象分析を行うことは出来なかった。
フロイトは夢表象の分析や解釈を考え出す。その解釈モデル(説明仮説)が、メタ心理学と呼ばれる諸理論ある。例えば、自我の構造(空間論と呼ばれる超自我、自我、エスの三つの異なる機能を持つ自我)と精神機能論)、その構造によって形成される三つの心的構造(無意識、前意識、無意識)、自我の発生論的解釈(性精神分析学による三つの性的対象の発達段階・口唇期、肛門期と生殖期)、精神経済理論(快感原則と現実則)等々。こうして、フロイト精神分析学の理論が形成した。
科学主義者フロイトと解釈学者フロイトの二側面・フロイト主義
神経生理学者フロイトからメタ心理学理論創設者フロイトの理論的飛躍を、実証科学的モデルから解釈学的モデルへの移行として理解するが出来ないだろうか。その場合、臨床医としてのフロイトが医学的に根拠としたかたのは、明らかに物理科学を土台とする神経生理学であった。
フロイトを理解するために理解しておきたいことがある。つまり、それは初期フロイトが精神医学理論モデルであった「科学的心理学」の原稿が未刊のまま、しかも破棄されることなく残されていたことである。そのことから、フロイトは解釈学的心理療法を提案しながらも、他方で、科学的表現の理想モデルとして、物理科学的説明によって可能になる精神医学の理論の追求の可能性を信じていたのではなかったかという筆者の解釈である。
つまり、解釈学的深層心理学の創設者フロイトは、他方でカーテェジアン(近代合理主義者)として、深層心理現象・精神構造が物理科学的モデルによって説明出来ると信じていたかったのではないだろうか。それは、構造主義・解釈学者「フロイトの科学主義者であらんとする夢」のように思えるのである。このフロイトの科学思想と臨床実践理論の二つの分裂は、20世紀初頭という物理主義が科学と哲学を席巻していた時代、その共同主観的世界(時代精神)前提にしなければ理解できないないだろうか。
臨床の知、精神分析の形成過程
フロイトは開業医として、午前中患者の治療に専念し、午後から臨床データを使った理論作業を行った。つまり、臨床医として、フロイトは実証科学的者姿勢で精神病理現象(個別具体的患者の疾患)を分析し、有効な精神分析の方法を探究していたと言える。
その結果が、彼が辿り着いた治療手段(精神分析の)である解釈学的心理学モデル(メタ心理学理論)であった。それらのモデルは、フロイト自身、臨床の場で検証し、その有効性を確認し続けたものであると言える。
ここで大切なことは、現場(フロイトのクリニック)での臨床医(フロイト)が具体的(その時代とその社会で)に扱った患者(具体的個人)の精神疾患への治療行為がフロイトの理論形成の前提となっているということである。
その臨床課題以外に、フロイトは メタ心理学的解釈の必要性を感じたわけではない。つまり、彼にとってメタ心理学理論(説明仮説)は自分のクリニックに来院してきた具体的個人の精神疾患への有効な治療行為として提案されたものであった。これが、フロイトの精神分析を理解するためにまず踏まえなければならない原点である。
解釈学的なフロイト理論の了解の彼方へ
治療行為の道具としての「メタ心理学理論」の有効性は、フロイトが生きていたヨーロッパの社会とその時代に規定されることは言うまでもない。つまり、フロイトが医療の対象としていた患者の精神構造や深層心理が、フロイトと同時代の人々の精神疾患とよばれる時代や社会の産物であることは疑えない。
フロイトのメタ心理学的解釈モデルがその同時代性や時代的精神構造に規定されているとするなら、解釈学者フロイトの理論を社会文化や歴史的要素を前提に理解する必要がある。つまり、フロイトの理論をフロイト的に解釈する必要が、フロイト研究者に問われる課題となる。それが解釈学者フロイトの科学的理解の第一歩である。
精神分析の科学性とは、その治療に必要な技術や道具とその治療の対象(精神疾患)が、ある時代性や社会文化性に規定された行為主体と行為対象とよばれる関係で成立していることをその解釈理論の前提にしていることである。つまり、解釈可能性を、時代性や文化性を入れた生活空間に限定していることである。その意味で、精神分析は、時代や社会文化によって変化し続けるといえる。
その意味で、現代のフロイト主義者が、フロイトのメタ心理学のドグマに犯されないことを、フロイトは願っているともいえる。それは、若きフロイトが夢見た実証主義的・科学主義的精神分析学(科学的心理学)を未刊のまま墓場まで持ち去って行ったように、フロイト主義の我々もメタ心理学のモデルを現代の時代性と文化社会性に汎用できるモデルの仮説の有効性を問い続けながら、そのモデルを同時代の臨床事例に有効な解釈理論として展開することが求められている。
つまり、フロイトのメタ心理学のドグマ的理解から開放されなければならないのである。その理由は、ただ単に、それが現実的であるかどうかと言う問いかけによるものである。その問いかけに耐えうるメタ心理学仮説の展開力を、精神分析学の科学性の維持と考えることが出来る。臨床の知としての有効性をメタ心理学仮説の成立条件の第一義に置くことで、我々はフロイト主義を堅持することが可能になる。
参考資料
Hiroyuki Mitsuishi DECONSTRUCTION ET RECONSTRUCTION DE LA METAPSYCHOLOGIE FREUDIENNE - ESSAI D'EPISTEMOLOGIE SYSTEMIQUE - 邦訳 フロイトメタ心理学の解体と再構築-システム認識論の試み- Atelier national de reproduction des these France、584p 1993年10月 単著
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05_02.html
個別科学的説明仮説(アブダクション)の理解、フロイト精神分析の科学性
神経生理学的モデルからメタ心理学的モデル(説明的仮説)の形成過程
脳神経生理学者であったフロイトはパリに留学しヒステリーの研究の権威ジャン=マルタン・シャルコーのもとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学んだ。その後、フロイトは一般開業医としてヒステリーの治療を実践する。「治療を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。」(Wikipedia)この自由連想法によって、患者は過去の精神的病因を思い出す、つまり病因を意識化することによって病気を治癒する治療する方法、精神分析医療がフロイトによって確立した。
ヒステリーの精神病理学的研究の科学方法論について考えるなら、この自由連想法を支えた理論的土台は神経生理学である。ヒステリーは脳内の生理的エネルギー量の増大による脳内のエネルギー状態の不安定性によるものであると言う解釈が成されていた。つまり、脳内の不安定なエネルギー状態を定常活動状態に移行することが、当然、考えられた治療法であったといえる。その治療法として催眠法や自由連想法が用いられていた。
生理学者フロイトが援用した科学的理論は、神経生理学の理論、つまりその基礎は熱力学である。熱力学では、系の内部エネルギー状態に関する理論、系が外部から熱を受け取ることでエンタルピーが上昇し、逆に外部に熱を出すことでエンタルピーが減少するというエンタルピーの概念がある。つまり、系(脳)は内部エネルギーを発散さすことで脳の内部エネルギー量は減少する。心的外傷状態、つまり脳のストレス状態(高エネルギー状態)を催眠療法や自由連想法によって発散・解消することで、ヒステリーの治療が可能になると考えた。
この精神分析を用いた精神療法の理論も、ヘルムホルツの理論や神経生理学の理論を背景にしていたとしても、脳を熱力学的系と仮定した精神療法の理論である以上、つまり脳のエネルギー量を測定し、催眠による脳内エネルギーの減少と科学的(生理学的)に実証していない限り、一種の比喩的推論(アブダクション)であると言える。
フロイトは、その後 「夢分析」を行う。ヒステリー研究で用いた説明仮説で、夢という精神機能は脳の過剰なエネルギーを発散している現象であると解釈説明することができた。しかし、この精神エネルギー論では、夢の表象分析を行うことは出来なかった。
フロイトは夢表象の分析や解釈を考え出す。その解釈モデル(説明仮説)が、メタ心理学と呼ばれる諸理論ある。例えば、自我の構造(空間論と呼ばれる超自我、自我、エスの三つの異なる機能を持つ自我)と精神機能論)、その構造によって形成される三つの心的構造(無意識、前意識、無意識)、自我の発生論的解釈(性精神分析学による三つの性的対象の発達段階・口唇期、肛門期と生殖期)、精神経済理論(快感原則と現実則)等々。こうして、フロイト精神分析学の理論が形成した。
科学主義者フロイトと解釈学者フロイトの二側面・フロイト主義
神経生理学者フロイトからメタ心理学理論創設者フロイトの理論的飛躍を、実証科学的モデルから解釈学的モデルへの移行として理解するが出来ないだろうか。その場合、臨床医としてのフロイトが医学的に根拠としたかたのは、明らかに物理科学を土台とする神経生理学であった。
フロイトを理解するために理解しておきたいことがある。つまり、それは初期フロイトが精神医学理論モデルであった「科学的心理学」の原稿が未刊のまま、しかも破棄されることなく残されていたことである。そのことから、フロイトは解釈学的心理療法を提案しながらも、他方で、科学的表現の理想モデルとして、物理科学的説明によって可能になる精神医学の理論の追求の可能性を信じていたのではなかったかという筆者の解釈である。
つまり、解釈学的深層心理学の創設者フロイトは、他方でカーテェジアン(近代合理主義者)として、深層心理現象・精神構造が物理科学的モデルによって説明出来ると信じていたかったのではないだろうか。それは、構造主義・解釈学者「フロイトの科学主義者であらんとする夢」のように思えるのである。このフロイトの科学思想と臨床実践理論の二つの分裂は、20世紀初頭という物理主義が科学と哲学を席巻していた時代、その共同主観的世界(時代精神)前提にしなければ理解できないないだろうか。
臨床の知、精神分析の形成過程
フロイトは開業医として、午前中患者の治療に専念し、午後から臨床データを使った理論作業を行った。つまり、臨床医として、フロイトは実証科学的者姿勢で精神病理現象(個別具体的患者の疾患)を分析し、有効な精神分析の方法を探究していたと言える。
その結果が、彼が辿り着いた治療手段(精神分析の)である解釈学的心理学モデル(メタ心理学理論)であった。それらのモデルは、フロイト自身、臨床の場で検証し、その有効性を確認し続けたものであると言える。
ここで大切なことは、現場(フロイトのクリニック)での臨床医(フロイト)が具体的(その時代とその社会で)に扱った患者(具体的個人)の精神疾患への治療行為がフロイトの理論形成の前提となっているということである。
その臨床課題以外に、フロイトは メタ心理学的解釈の必要性を感じたわけではない。つまり、彼にとってメタ心理学理論(説明仮説)は自分のクリニックに来院してきた具体的個人の精神疾患への有効な治療行為として提案されたものであった。これが、フロイトの精神分析を理解するためにまず踏まえなければならない原点である。
解釈学的なフロイト理論の了解の彼方へ
治療行為の道具としての「メタ心理学理論」の有効性は、フロイトが生きていたヨーロッパの社会とその時代に規定されることは言うまでもない。つまり、フロイトが医療の対象としていた患者の精神構造や深層心理が、フロイトと同時代の人々の精神疾患とよばれる時代や社会の産物であることは疑えない。
フロイトのメタ心理学的解釈モデルがその同時代性や時代的精神構造に規定されているとするなら、解釈学者フロイトの理論を社会文化や歴史的要素を前提に理解する必要がある。つまり、フロイトの理論をフロイト的に解釈する必要が、フロイト研究者に問われる課題となる。それが解釈学者フロイトの科学的理解の第一歩である。
精神分析の科学性とは、その治療に必要な技術や道具とその治療の対象(精神疾患)が、ある時代性や社会文化性に規定された行為主体と行為対象とよばれる関係で成立していることをその解釈理論の前提にしていることである。つまり、解釈可能性を、時代性や文化性を入れた生活空間に限定していることである。その意味で、精神分析は、時代や社会文化によって変化し続けるといえる。
その意味で、現代のフロイト主義者が、フロイトのメタ心理学のドグマに犯されないことを、フロイトは願っているともいえる。それは、若きフロイトが夢見た実証主義的・科学主義的精神分析学(科学的心理学)を未刊のまま墓場まで持ち去って行ったように、フロイト主義の我々もメタ心理学のモデルを現代の時代性と文化社会性に汎用できるモデルの仮説の有効性を問い続けながら、そのモデルを同時代の臨床事例に有効な解釈理論として展開することが求められている。
つまり、フロイトのメタ心理学のドグマ的理解から開放されなければならないのである。その理由は、ただ単に、それが現実的であるかどうかと言う問いかけによるものである。その問いかけに耐えうるメタ心理学仮説の展開力を、精神分析学の科学性の維持と考えることが出来る。臨床の知としての有効性をメタ心理学仮説の成立条件の第一義に置くことで、我々はフロイト主義を堅持することが可能になる。
参考資料
Hiroyuki Mitsuishi DECONSTRUCTION ET RECONSTRUCTION DE LA METAPSYCHOLOGIE FREUDIENNE - ESSAI D'EPISTEMOLOGIE SYSTEMIQUE - 邦訳 フロイトメタ心理学の解体と再構築-システム認識論の試み- Atelier national de reproduction des these France、584p 1993年10月 単著
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05_02.html
2011年1月20日木曜日
フロイト精神分析学の説明仮説(アブダクション)の有効性の点検で求められる科学哲学への課題
三石博行
精神分析学の説明的仮説(アブダクション)への批判と反批判 -現代科学哲学に問われている課題-
精神分析の有効性さに対する不信・治療に有効なのは薬である
フロイト精神分析学の理論への批判の多くはその理論が用いるモデル、たとえば自我の構造や性精神分析モデル等、謂わば、精神分析学の理論仮説(アブダクション)に関するものから生じている。それらの意義申し立ての発祥地は、伝統的な神経生理学の科学方法論で精神医学の理論を前提にして、臨床行為を行う専門家達である。つまり、神経生理学を土台にしながら精神医学を形成してきた学問的流れを前提にしている以上、フロイトの物理科学(物理学や化学)的説明のつかないモデルに対して同意できないのである。
特に、現在、脳科学に代表される脳神経生理学の伝統的な研究方法、それが正統派精神医学の流れである以上、精神分析学は大学医学部病院で行われる研究や臨床行為ではなく、日本では街の「精神分析家」によって、秘かに行われている似非医療行為に類似される。丁度、大学病院の整形外科の専門家達が、巷で流行るカイロプラクティスや整体に関して持つその科学的説明への不信、医学の一分野として認めることのできない気持ちと類似している。
しかし、カイロプラクティスや整体によって実際、腰痛等の痛みが消え、治療効果が報告されている以上、それらの治療をまったく認めないと言うのはおかしな話である。また、精神分析によって治癒する患者がいる以上、精神分析学を有効でないとは言えない。
つまり、精神分析への批判の多くは、医学とその臨床学の土台にある伝統的な自然科学的方法と精神分析が用いる説明仮説が同じ科学的パラダイム内に共存しえないことに起因している。その具体的例は、精神分析が言語分析を臨床行為の基本に置くことである。一般に精神科では薬理療法が行われる。そして、精神分析を行う精神科医ですら抗うつ剤を使用する以上、精神分析療法だけで患者を治癒することができないと自ら証明しているというのがその理由となる。
精神分析学の専門家集団の形成
日本では1955年から日本精神分析学会が発足し、現在、900名近くの医師と1600名近くの臨床心理士など専門家2600名近くの会員を持つ組織として活動している。また、日本精神分析学会は精神分析療法の専門家の認定制度をもっている。
この学会が発行する認定資格は、医者であれば日本精神分析学会認定精神療法医として、また臨床心理士であれば日本分析学会認定心理療法士となる。例えば、日本分析学会認定心理療法士になるためには、以下の6つの条件を満たさなければならない。
「 (1)臨床心理士を取ってから5年の経験
(2)個人スーパーヴィジョンを2名のスーパーヴァイザーから、3症例をそれぞれ週1回1年以上、合計150回以上受けなければならない。
(3)分析学会で口頭発表2回以上
(4)精神分析研究に論文1本以上
(5)学会が認定する事例研究会に3年以上所属し、3回の発表を経験
(6)学会が認定する系統講義に100時間以上参加する。」(1)
学会が認定する精神分析の専門資格を得るためには大変な努力が必要であることが理解できる。つまり、誰でも精神分析学を学べば専門家として認定される分けではない。しかし、この困難な専門資格認定が設定されていても、精神分析学が精神病理を改善治癒し、多くの効果を挙げているということとは別である。
特殊専門家集団による専門知識の蓄積過程(経験科学としての精神分析学)
しかし、日本精神分析学会では「精神分析研究」を1955年から発行し、臨床研究の報告や理論的な研究を行い続けてきた。例えば、2010年には54巻1号から4号まで年間4回発行を続けてきた。例えば、2007年 51巻2号(Vol.51 No2 2007.4)の「精神分析研究」では「精神療法と自殺」が特集され、海外や国内の面談臨床による症例報告がされている。(2)また、この研究誌には毎号、研修症例が報告されている。「面談」を中心とする治療に関する臨床データが報告されている。
つまり、仮にフロイトが精神病理の臨床行為を通じて、説明的仮説(アブダクション)として提案したメタ心理学理論があったとしても、現実のフロイト派を自称する臨床医や臨床心理士の研究活動は、その理論を活用したにしろそうでないにしろ、その原則は、実際の治療対象者への具体的治療行為であり、その研究報告は症例報告に限定されている。その限り、精神分析研究に記載された研究は「経験科学」に基づく研究成果の報告であると理解される。
言い換えれば、中国医学の鍼灸の場合も、その理論、例えば漢方医学の経絡や陰陽の考え方(理論)を日本の大半の大学医学部の例えば生理学教室の研究者は認めることはできないだろう。しかし、だからと言って、漢方医学や鍼灸治療の効果を否定することはできないだろう。漢方医学の理論もアブダクションの一種である。経験科学にとって説明項は、現実に有効な技術や技法の助けとなればよいのである。つまり、説明的仮説の意味は、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。
西洋科学の論理、現在は物理や化学的記号や法則による説明とまったく異なる説明的仮説で成り立つが有効な技術、その技術を支える独自の論理体系、ここで鍼灸治療と中国医学や精神分析と精神分析学がその具体的例であるが、それらの説明仮説(アブダクション)によって構成されている科学技術は、経験科学の特殊ケースであると理解できる。
これらの経験科学技術は、その技術に対するニーズが社会に存在している限り、その科学の有効性を否定することはできない。つまり、他の如何なる科学的理論体系からも説明不可能であったとしても、問題解決力をもつ実学性を維持している限り、これらの特殊経験科学の独自の説明的仮説は否定できないのである。
現代の科学哲学や科学認識論の課題として、物理主義的科学論以外の特殊経験科学の科学性に関する研究が求められていると謂える。
参考資料
(1) 日本精神分析学会
http://www.seishinbunseki.jp/authorization.html
(2) 特集 精神療法と自殺 『精神分析研究』 日本世親分析学会 第51巻 第2号 (2007)pp. 1-77
精神分析学の説明的仮説(アブダクション)への批判と反批判 -現代科学哲学に問われている課題-
精神分析の有効性さに対する不信・治療に有効なのは薬である
フロイト精神分析学の理論への批判の多くはその理論が用いるモデル、たとえば自我の構造や性精神分析モデル等、謂わば、精神分析学の理論仮説(アブダクション)に関するものから生じている。それらの意義申し立ての発祥地は、伝統的な神経生理学の科学方法論で精神医学の理論を前提にして、臨床行為を行う専門家達である。つまり、神経生理学を土台にしながら精神医学を形成してきた学問的流れを前提にしている以上、フロイトの物理科学(物理学や化学)的説明のつかないモデルに対して同意できないのである。
特に、現在、脳科学に代表される脳神経生理学の伝統的な研究方法、それが正統派精神医学の流れである以上、精神分析学は大学医学部病院で行われる研究や臨床行為ではなく、日本では街の「精神分析家」によって、秘かに行われている似非医療行為に類似される。丁度、大学病院の整形外科の専門家達が、巷で流行るカイロプラクティスや整体に関して持つその科学的説明への不信、医学の一分野として認めることのできない気持ちと類似している。
しかし、カイロプラクティスや整体によって実際、腰痛等の痛みが消え、治療効果が報告されている以上、それらの治療をまったく認めないと言うのはおかしな話である。また、精神分析によって治癒する患者がいる以上、精神分析学を有効でないとは言えない。
つまり、精神分析への批判の多くは、医学とその臨床学の土台にある伝統的な自然科学的方法と精神分析が用いる説明仮説が同じ科学的パラダイム内に共存しえないことに起因している。その具体的例は、精神分析が言語分析を臨床行為の基本に置くことである。一般に精神科では薬理療法が行われる。そして、精神分析を行う精神科医ですら抗うつ剤を使用する以上、精神分析療法だけで患者を治癒することができないと自ら証明しているというのがその理由となる。
精神分析学の専門家集団の形成
日本では1955年から日本精神分析学会が発足し、現在、900名近くの医師と1600名近くの臨床心理士など専門家2600名近くの会員を持つ組織として活動している。また、日本精神分析学会は精神分析療法の専門家の認定制度をもっている。
この学会が発行する認定資格は、医者であれば日本精神分析学会認定精神療法医として、また臨床心理士であれば日本分析学会認定心理療法士となる。例えば、日本分析学会認定心理療法士になるためには、以下の6つの条件を満たさなければならない。
「 (1)臨床心理士を取ってから5年の経験
(2)個人スーパーヴィジョンを2名のスーパーヴァイザーから、3症例をそれぞれ週1回1年以上、合計150回以上受けなければならない。
(3)分析学会で口頭発表2回以上
(4)精神分析研究に論文1本以上
(5)学会が認定する事例研究会に3年以上所属し、3回の発表を経験
(6)学会が認定する系統講義に100時間以上参加する。」(1)
学会が認定する精神分析の専門資格を得るためには大変な努力が必要であることが理解できる。つまり、誰でも精神分析学を学べば専門家として認定される分けではない。しかし、この困難な専門資格認定が設定されていても、精神分析学が精神病理を改善治癒し、多くの効果を挙げているということとは別である。
特殊専門家集団による専門知識の蓄積過程(経験科学としての精神分析学)
しかし、日本精神分析学会では「精神分析研究」を1955年から発行し、臨床研究の報告や理論的な研究を行い続けてきた。例えば、2010年には54巻1号から4号まで年間4回発行を続けてきた。例えば、2007年 51巻2号(Vol.51 No2 2007.4)の「精神分析研究」では「精神療法と自殺」が特集され、海外や国内の面談臨床による症例報告がされている。(2)また、この研究誌には毎号、研修症例が報告されている。「面談」を中心とする治療に関する臨床データが報告されている。
つまり、仮にフロイトが精神病理の臨床行為を通じて、説明的仮説(アブダクション)として提案したメタ心理学理論があったとしても、現実のフロイト派を自称する臨床医や臨床心理士の研究活動は、その理論を活用したにしろそうでないにしろ、その原則は、実際の治療対象者への具体的治療行為であり、その研究報告は症例報告に限定されている。その限り、精神分析研究に記載された研究は「経験科学」に基づく研究成果の報告であると理解される。
言い換えれば、中国医学の鍼灸の場合も、その理論、例えば漢方医学の経絡や陰陽の考え方(理論)を日本の大半の大学医学部の例えば生理学教室の研究者は認めることはできないだろう。しかし、だからと言って、漢方医学や鍼灸治療の効果を否定することはできないだろう。漢方医学の理論もアブダクションの一種である。経験科学にとって説明項は、現実に有効な技術や技法の助けとなればよいのである。つまり、説明的仮説の意味は、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。
西洋科学の論理、現在は物理や化学的記号や法則による説明とまったく異なる説明的仮説で成り立つが有効な技術、その技術を支える独自の論理体系、ここで鍼灸治療と中国医学や精神分析と精神分析学がその具体的例であるが、それらの説明仮説(アブダクション)によって構成されている科学技術は、経験科学の特殊ケースであると理解できる。
これらの経験科学技術は、その技術に対するニーズが社会に存在している限り、その科学の有効性を否定することはできない。つまり、他の如何なる科学的理論体系からも説明不可能であったとしても、問題解決力をもつ実学性を維持している限り、これらの特殊経験科学の独自の説明的仮説は否定できないのである。
現代の科学哲学や科学認識論の課題として、物理主義的科学論以外の特殊経験科学の科学性に関する研究が求められていると謂える。
参考資料
(1) 日本精神分析学会
http://www.seishinbunseki.jp/authorization.html
(2) 特集 精神療法と自殺 『精神分析研究』 日本世親分析学会 第51巻 第2号 (2007)pp. 1-77
2011年1月18日火曜日
フロイト精神分析学の科学性の検証、アブダクションの批判的点検
三石博行
精神分析学のモデル批判 科学認識論の課題
文学的表現とは何か メタアブダクション
哲学的文書、特にポスト構造と呼ばれる人々の文書は、隠喩的な表現が絶大な市民権を得ている。そのため、検証されていない人間学モデルを前提にした文章の展開がなされる。こうした隠喩的表現の有効性を問題にしなければ、人間学を科学として認めることは出来ないだろう。計量的表現が科学的記述の条件となろうとしている時に、隠喩的表現が市民権をもつ世界は文学に限定されることになる。
文学である以上、科学的な解釈ではなく、表現された世界が持つ説得力が問題となる。しかし、その説得力とは極めて主観的な世界を前提にしなければならない以上、文学的表現に対する有効性を一般化することは不可能となる。
しかし、これらの人間学的理論は、まったく異なる仮説を前提にした科学的立場からは、成立しないし、理論的根拠すら疑問視され、その根拠をすべて失うことになる。つまり、人間学を構成する論理や学問的モデルは、多くの場合、演繹や帰納的に展開検証されるものや数量的アプローチ(統計的な手法による検証作業)ではなく、隠喩的モデルを仮定し、そのモデルでの解釈有効性が成立する限り、人間学的説明の有効性が成り立つ。
つまり、人間学的モデル(理論)の成立過程では、それを根拠付ける一般法則もなければ、また計量化しえるデータもない。そこには直感とよばれる人間学研究者の隠喩、換喩や提喩(ていゆ)作業があるのみだ。この直感的な何かに例えるというメタモデル作成作業が人間学理論の論理、アブダクションを導くことになる。つまり、この作業をここでは便宜的にメタアブダクションと呼称する。ちなみに、このメタアブダクションは文学的表現作業でつねに行われているといえる。
人間学の論証と論理 アブダクション
つまり、隠喩的モデルは、説明事項を質的にアプローチしながら、その事実間の関係を解釈する。解釈可能である限り、そのモデルの有効性は検証されていると了解される。多くの人間学の解釈モデルの場合、そのモデルによる語りの事実性、解釈学的説明の有効性が問題にされるのである。つまり、そのモデルと解釈項との関係は、ある意味でトトロジーを構成することになる。
観測されたデータから帰納的に理論が形成されたのでなく、また一般的な法則性から演繹的に関係式が導かれ、その式にようって現象が説明された訳でもない。ある意味で、現象(事実)を物語るための解釈理論を考え出し、その解釈理論で新しい事実をさらに解釈し、その解釈が有効であるなら、解釈理論を維持し続ける。
この理論が維持し続けられる限りモデルの反証は不可能である。その限りにおいて理論の有効性は持続すると考える。言い換えると、解釈モデルによってある事実が説明可能な状態にある場合、その解釈モデルを導き出した仮説的推論は有効であると考える。こうした理論の有効性を検証する論理をアブダクションと呼んでいる。
フロイト精神分析学の科学性の成立 アブダクションとその検証作業
例えば、臨床心理学や精神分析学は隠喩的表現が使われるのであるが、それらは患者の治療に有効であることが条件となる。つまり、それらの隠喩的表現、非計量的モデル、質的アプローチが現場の語りを通じて行われる治療で有効に働くことが、そのモデルの有効性を確認する手段となる。一言で言うなら効くか効かないかという実際の効果によって、そのモデルの実学的な検証がなされる。
具体的に説明するなら、フロイトの三つの意識形態 (意識、前意識、無意識)を説明するための自我の構造モデル(超自我、自我、エス)、とその形成に関する性精神分析理論、性的対象の三つの段階(口唇期、肛門期と生殖期の発展段階)と、口唇期から肛門期への段階 エディプ期 肛門期の攻撃性(サティズムの起源)等々。フロイト精神分析学の場合には、フロイト理論はフロイト本人をはじめ、多くの精神分析家たちが、理論を臨床活動の中で点検検証する作業をしている。
もし、フロイトの性精神分析理論が臨床現場で有効でなければ、フロイトの理論は破棄されることになる。その意味で、人間学での理論はその理論による解釈や技術の有効さによって検証され続けられる。臨床現場で有効な治療効果を生み出す限り、その理論は活用される。理論の活用期間中は、その解釈モデル(理論)を精神分析学史や人間学史の一ページに仕舞い込むことはないだろう。
アブダクションの有効性の検証作業としての科学哲学の課題
もし、臨床現場や問題解決の要求に対して、答える義務を持たない理論や解釈が存在するなら、その解釈は思弁的であると癒えるだろう。つまり、人間学において、アブダクションの有効性を問わないことが生じる。それらの人間学の技術性や実学性が否定され、教養として人間学が語られ、知識人のアクセサリーとなった哲学や文学が蔓延するとき、人間学的知識は、文章表現方法として存在可能となる。
多くの哲学的知識が教養化され、それらは知ることが生きることや変わることに無関係な情報となる。この状態を知識の思弁化と呼ぶ。人間社会科学の理論が有効性を失っても、存続できるのはそれらの知の思弁性によるものである。
固定したモデル、ドグマ化したアブダクションを批判的に点検する作業が必要となる。言い換えるとアブダクションによって形成された理論の根拠は、その解釈の有効性にのみあるために、その有効性が失われ思弁化する人間学の科学性を恒常的に点検し続けなければならないのである。
ある意味で、人間学の理論の思弁化は自然発生的に生み出される。例えば、フロイトの性精神分析学が、どの犯罪者の犯罪深層心理の説明に活用され、その定説が無条件に採用されだしたときに、フロイト精神分析学の危機が同時に進行していることを、彼ら(フロイト学者)は知る由もない。
この事態に対して、哲学がこうした人間学の理論のドグマ化、有効性を失ったモデルへの点検や破棄、つまり科学的説明の思弁性を暴露する役割をもたなければならないだろう。それが、科学哲学や科学認識論の役割なのである。つまり、科学哲学や科学認識論は、人間学の理論(アブダクションによって成立する理論)の思弁性を点検する作業を意味する。
参考資料
三石博行 フロイト精神分析の科学性批判
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_02/cMITShir97c.pdf
Hiroyuki Mitsuishi DECONSTRUCTION ET RECONSTRUCTION DE LA METAPSYCHOLOGIE FREUDIENNE - ESSAI D'EPISTEMOLOGIE SYSTEMIQUE - 邦訳 フロイトメタ心理学の解体と再構築-システム認識論の試み- Atelier national de reproduction des these France、584p 1993年10月 単著
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05_02.html
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05.html
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精神分析学のモデル批判 科学認識論の課題
文学的表現とは何か メタアブダクション
哲学的文書、特にポスト構造と呼ばれる人々の文書は、隠喩的な表現が絶大な市民権を得ている。そのため、検証されていない人間学モデルを前提にした文章の展開がなされる。こうした隠喩的表現の有効性を問題にしなければ、人間学を科学として認めることは出来ないだろう。計量的表現が科学的記述の条件となろうとしている時に、隠喩的表現が市民権をもつ世界は文学に限定されることになる。
文学である以上、科学的な解釈ではなく、表現された世界が持つ説得力が問題となる。しかし、その説得力とは極めて主観的な世界を前提にしなければならない以上、文学的表現に対する有効性を一般化することは不可能となる。
しかし、これらの人間学的理論は、まったく異なる仮説を前提にした科学的立場からは、成立しないし、理論的根拠すら疑問視され、その根拠をすべて失うことになる。つまり、人間学を構成する論理や学問的モデルは、多くの場合、演繹や帰納的に展開検証されるものや数量的アプローチ(統計的な手法による検証作業)ではなく、隠喩的モデルを仮定し、そのモデルでの解釈有効性が成立する限り、人間学的説明の有効性が成り立つ。
つまり、人間学的モデル(理論)の成立過程では、それを根拠付ける一般法則もなければ、また計量化しえるデータもない。そこには直感とよばれる人間学研究者の隠喩、換喩や提喩(ていゆ)作業があるのみだ。この直感的な何かに例えるというメタモデル作成作業が人間学理論の論理、アブダクションを導くことになる。つまり、この作業をここでは便宜的にメタアブダクションと呼称する。ちなみに、このメタアブダクションは文学的表現作業でつねに行われているといえる。
人間学の論証と論理 アブダクション
つまり、隠喩的モデルは、説明事項を質的にアプローチしながら、その事実間の関係を解釈する。解釈可能である限り、そのモデルの有効性は検証されていると了解される。多くの人間学の解釈モデルの場合、そのモデルによる語りの事実性、解釈学的説明の有効性が問題にされるのである。つまり、そのモデルと解釈項との関係は、ある意味でトトロジーを構成することになる。
観測されたデータから帰納的に理論が形成されたのでなく、また一般的な法則性から演繹的に関係式が導かれ、その式にようって現象が説明された訳でもない。ある意味で、現象(事実)を物語るための解釈理論を考え出し、その解釈理論で新しい事実をさらに解釈し、その解釈が有効であるなら、解釈理論を維持し続ける。
この理論が維持し続けられる限りモデルの反証は不可能である。その限りにおいて理論の有効性は持続すると考える。言い換えると、解釈モデルによってある事実が説明可能な状態にある場合、その解釈モデルを導き出した仮説的推論は有効であると考える。こうした理論の有効性を検証する論理をアブダクションと呼んでいる。
フロイト精神分析学の科学性の成立 アブダクションとその検証作業
例えば、臨床心理学や精神分析学は隠喩的表現が使われるのであるが、それらは患者の治療に有効であることが条件となる。つまり、それらの隠喩的表現、非計量的モデル、質的アプローチが現場の語りを通じて行われる治療で有効に働くことが、そのモデルの有効性を確認する手段となる。一言で言うなら効くか効かないかという実際の効果によって、そのモデルの実学的な検証がなされる。
具体的に説明するなら、フロイトの三つの意識形態 (意識、前意識、無意識)を説明するための自我の構造モデル(超自我、自我、エス)、とその形成に関する性精神分析理論、性的対象の三つの段階(口唇期、肛門期と生殖期の発展段階)と、口唇期から肛門期への段階 エディプ期 肛門期の攻撃性(サティズムの起源)等々。フロイト精神分析学の場合には、フロイト理論はフロイト本人をはじめ、多くの精神分析家たちが、理論を臨床活動の中で点検検証する作業をしている。
もし、フロイトの性精神分析理論が臨床現場で有効でなければ、フロイトの理論は破棄されることになる。その意味で、人間学での理論はその理論による解釈や技術の有効さによって検証され続けられる。臨床現場で有効な治療効果を生み出す限り、その理論は活用される。理論の活用期間中は、その解釈モデル(理論)を精神分析学史や人間学史の一ページに仕舞い込むことはないだろう。
アブダクションの有効性の検証作業としての科学哲学の課題
もし、臨床現場や問題解決の要求に対して、答える義務を持たない理論や解釈が存在するなら、その解釈は思弁的であると癒えるだろう。つまり、人間学において、アブダクションの有効性を問わないことが生じる。それらの人間学の技術性や実学性が否定され、教養として人間学が語られ、知識人のアクセサリーとなった哲学や文学が蔓延するとき、人間学的知識は、文章表現方法として存在可能となる。
多くの哲学的知識が教養化され、それらは知ることが生きることや変わることに無関係な情報となる。この状態を知識の思弁化と呼ぶ。人間社会科学の理論が有効性を失っても、存続できるのはそれらの知の思弁性によるものである。
固定したモデル、ドグマ化したアブダクションを批判的に点検する作業が必要となる。言い換えるとアブダクションによって形成された理論の根拠は、その解釈の有効性にのみあるために、その有効性が失われ思弁化する人間学の科学性を恒常的に点検し続けなければならないのである。
ある意味で、人間学の理論の思弁化は自然発生的に生み出される。例えば、フロイトの性精神分析学が、どの犯罪者の犯罪深層心理の説明に活用され、その定説が無条件に採用されだしたときに、フロイト精神分析学の危機が同時に進行していることを、彼ら(フロイト学者)は知る由もない。
この事態に対して、哲学がこうした人間学の理論のドグマ化、有効性を失ったモデルへの点検や破棄、つまり科学的説明の思弁性を暴露する役割をもたなければならないだろう。それが、科学哲学や科学認識論の役割なのである。つまり、科学哲学や科学認識論は、人間学の理論(アブダクションによって成立する理論)の思弁性を点検する作業を意味する。
参考資料
三石博行 フロイト精神分析の科学性批判
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_02/cMITShir97c.pdf
Hiroyuki Mitsuishi DECONSTRUCTION ET RECONSTRUCTION DE LA METAPSYCHOLOGIE FREUDIENNE - ESSAI D'EPISTEMOLOGIE SYSTEMIQUE - 邦訳 フロイトメタ心理学の解体と再構築-システム認識論の試み- Atelier national de reproduction des these France、584p 1993年10月 単著
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_05_02.html
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