三石博行
暴力行為としての「いじめ」の自覚過程
規則で「いじめ」を取り締まることは可能か
小学校でのいじめ(虐め)には、子供社会にある「お山の大将を決める行動」に由来するものから嫉妬によるものがある。
そのいじめの手口は悪口を言う、笑いものにする、悪いうわさを立てるなどの言葉による暴力、無視する等の態度による暴力から、集団暴行(暴力を振るう)、恥ずかしい行為を強制するとエスカレートし、最後は、金銭を要求する、万引きなどの犯罪行為を強制する等、刑事事件として扱われる暴力行為までに至る。
いじめの場合、前者のことばや態度による暴力による手口を使ったケースが、ほとんどの場合を占める。つまり、いじめている側からすると、日常的に行われるいじめは、極めて軽い気持ちでの行為であると言える。
つまり、意地悪行為、つまり悪口を言う、笑いものにする、悪いうわさを立てるなどの言葉による嫌がらせ、相手を無視する等の心理作戦の様な目に見えない暴力や意地悪行為は、こどもの社会では、日常的に、何処にでも起こる。その意味で、日常的な意地悪行為まで学校が取り締まることは不可能に近い。つまり、明らかに犯罪行為に匹敵する場合を除いては、意地悪行為で語られる「いじめ」を取り締まることは非常に困難であると言える。
最近では子供の間で、冗談半分にからかう行為を、悪意のある「いじめ」と区別するために、「いじる」ということばで表現している。「いじる・弄る」とは、指先や手で触ったりなでたりすることや、物事を少し変えたり、動かしたりすることを意味する。補説的に、「自分のことをいう場合には、軽い自嘲や謙遜の気持ちを、相手のことでは、小ばかにした気持ちを含むことがある。」(goo辞書) また、「ひねくる」とか「もてあそぶ」同義語である。「もとあそぶ」は、「なぶる」、つまりからかってばかにすると意味がある。冗談半分にからかう「いじる」という言葉を使うことで、悪意のある行為の意味をもつ「いじめ」ではないことを定義付けようとしているのである。
しかし、「いじる」とは行為をした立場からの行為内容の解釈である。しかし、その行為をされた立場から、「悪意のない冗談」として受け取られる場合もあれば行為者の意図に反して「悪意ある行為」と解釈される可能性もあることは否定されない。
つまり、「いじる」側と「いじられた」側の日常的な人間関係によって、「いじる・なぶる」(意地悪行為)にもなれば、「いじる・ひねくる」(冗談行為)にもなるのである。同じ行為の行為内容ではなく、行為者とその対象者の関係に依存して、悪意の存在有無が決定される。もし、「いじられた」側から、その行為が意地悪な行為として解釈されるなら、その行為は「いじめ」と同義語となるだろう。
このように、いじめと冗談の境界が行為者の視点から明確に意識されていない子供社会での行為を考えると、子供の社会でのいじめを無くする方法として、いじめへの処罰は難しい。つまり、こどもの冗談行為、軽い嫌がらせに対しても学校が懲罰(ちょうばつ)規則の設定することは不可能である。
いじめ・人を傷つける行為を理解する一歩とは
学生に、「いじめられたことがあるか」とい質問を投げかけると、ほとんどの学生が「ある」と答える。その逆の「いじめたことがあるか」という質問には「ある」と答える学生は少ない。さらに、「人を傷つけたことがあるか」と問いかけると「ある」とほとんどの学生が答える。
「いじめる」という行為は「ひとを傷つける」行為である。しかし、人を傷つけたと思う人でも、ひとをいじめたとは思っていない。何故なら、「人を傷つけてしまった」と思う現在の自分は、「傷つけるつもりで傷つけたからではなく、結果的に傷つけてしまった」ことを記憶している。「あのとき、あの人を傷つけたのだ」という思いが、「ひとを傷つけてしまった」という記憶として、心に留まり続けている。それがこの「人を傷つけたことがある」という答えの背景ではないだろうか。
また、多くの学生が「傷つけたことがあった」が、「いじめたこと」はないという答え(過去の行為に関する自覚)を示したのは、「傷つける」行為と「いじめる」ということばのニュアンスの違いがあるからではないだろうか。
言換えると、「いじめる」という行為がはるかに「傷つける」行為よりも悪意に満ちた意図的な行為であり、その意味で、いじめる行為の方が暴力的に聞こえる。傷つけるとは家族、友人や恋人のこころを傷つけたというニュアンスが大きい。しかし、いじめるとはあるいじめの集団の一員として意図的に弱い人をターゲットにして陰湿な暴力行為を行ったというニュアンスに近い。その意味で、いじめると傷つけるは大きく主観的な意味が異なることになる。
また、傷つけたと言うニュアンスには、その行為への罪悪感が匂う。すべての人が、何らかの形で、ひとを傷つけてしまったという罪悪感(良心)を持っている。特に自分の愛する人に対してこの感情を持つ。この感情が愛なのだろう。ある意味で、他者への愛が、人(友人)を傷つけたという気持ち(罪悪感と呼ばれる良心)として現れているのである。
例えば、「人を傷つけた」と答えた人に「あなたの傷つけた相手は誰ですか」と問うたとする。女子大生の多くは「母親」という答えが返ってくる。また、若い夫婦なら「自分のパートナー」、年を取った人々なら「過去に老いた両親の面倒をみてやれなかった」という答えが返ってくる。自分の行為の不十分さ、未熟さを省み、それを悔やんでいる場合に「不十分で未熟な自分の対応を受けた他者への思いが、何かもっとしてやりたかった。なにもあんなことを言わなくてもよかった。そうした悔恨の気持ちが「傷つけた」という感情として残り続けるのである。それは、悔恨と呼ばれる愛の姿、呵責という良心の姿である。
「いじめた」ことを思い出すことができれば、それは人を傷つけたという思いがあることになる。つまり、自覚的に自分が過去に誰かを虐めたことがあると意識することは、いじめた過去の自分に対して向き合う姿勢が生まれ、その行為(いじめ)を悔やんでいることを意味する。つまり、「いじめ」という卑劣な行為を反省的に理解する契機を得たことを意味する。言い方を変えるなら、いじめた過去を対自化(思い出して客観的にその卑劣な行為を理解)することができないより、いじめた自分の卑劣さを恥じている方が、いじめの問題を考え、解決していく糸口を持っていると云える。
暴力行為としての「いじめ」に対する自覚
漢字で「虐め」と書くよりも、平仮名(ひらがな)で書かれた「いじめ」と書かれることで、陰湿なその行為も遊び感覚のニュアンスを持つことになる。子供たちの間で、遊びに近いニュアンスをもった「嫌がらせ」や「仲間はずれ」、冗談のように相手をやっつける行為として「いじめ」は登場する。
そして、冗談のような「いじめ」が、言葉による嫌がらせからエスカレートし肉体的暴力や金銭を要求する恐喝行為まで進展する契機となる。ことばの暴力を軽い冗談と思う気持ちが、「いじめ」というひらがな用語から始まり、その自然な進展の行き先が犯罪行為であることを自覚することはできない。
ひらがなの「いじめ」をここではあえて漢字で「虐め」と書いたのは、この行為が「人を傷つけること」をそのことばの意味の中心におきたかったからである。その意味で「いじめ」が「ひとにいやな思いをさせる」という緩やかな、あそび心のある行為であったとしても、それは明らかに他者を「虐める」という暴力であることには変わりないと自覚しなければならない。
一般に暴力とは、「乱暴な力。無法な力。正当性と合法性を欠いて用いられる物理的強制力。対象となる個人や集団に身体的な苦痛を与え、自由や生命さえも奪うこと」と国語辞典では定義されている。この場合、「暴力」は直接的で肉体的にダメージを与える暴力を意味している。
しかし、暴力には、ことばの暴力から肉体的暴力、また個人の暴力から集団の暴力、そして社会や国家による暴力まで、その種類も形態も多様である。その意味で、「いじめ」は、必ずしも直接に肉体的なダメージを与える暴力ばかりでなく、ことばや態度で人を傷つけるやり方も含まれている。問題は、「いじめる」ことや「いじめた」ことが、暴力を行使したことと同義語であることを理解すること、少なくとも何らかのかたちで人を傷つけていることであることを自覚できることである。
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