三石博行
いじめを考える・人間について学ぶ教育教材
「嫌がらせをしない」こころを教える・人間教育の課題
小中学校で、教師たちは、ことばや態度によって行われる「いじめ」を暴力として生徒が自覚していないことが、「いじめ」に対する無反省、鈍感さの原因になっていることを理解し、その自覚を促す人間教育を企画する必要に立たされている。
例えば、身体的に障害のある子供を、クラスの多くが差別的なまなざしで観ている。そして、ある一人の子供がその障害をもつ子供を「きもい」と言ったとする。その子供は、不特定多数のクラスメートの感情を代弁したと思う。自分は正直に「気持ち悪い奴だ」と言ったのだと思う。そのことは、不特定多数のクラスメートが彼のことば「きもい」に対して、批判的に対応しないことで、彼は多くのクラスメートの意見や感情を代弁する立場を得たと思う。こうして、彼はいじめの先頭に立ってしまった。
多くのクラスメートの無言の態度が、彼のいじめという行為の正当化の理由付けとなる。そして、彼はさらに頻繁に障害を持つクラスメートを攻撃することも出来る。
もし、彼が「気持ちの悪い奴」と嫌がらせは、ことばによる暴力であるという自覚を持つなら、彼が積極的に不特定多数を代表して、「皆が言いたいこと(気持ちの悪い奴という発言)を自分は言っただけだ」という考え方が問われることになる。みんなの言いたいことを代弁することが、正しいことではないと思うだろう。そして、「気持ちの悪い奴」という言動が間違いであることを理解するだろう。
そして、「いじめ」が不当な行為であり人間としても恥ずかしい行為であり、民主主義社会では認められない暴力の一つであると自覚することなる。この自覚があれば、「いじめる」という卑劣な行為を積極的にみんなの前で堂々とすることはないだろう。つまり、「いじめ」を暴力として自覚させることが、小中学校での人間教育課題になる。そして、一度(ひとたび)、生徒たちがその自覚をするなら、彼らの中で、「いじめ」は防止される。
「いじめ」は人間教育のよき教材
しかし、これまで、学校では「いじめ」防止のために、「いじめるな」と指導してきた。子供の虐めを無くするために先生が「いじめるな」と指導することでいじめはなくなるのだろうか。この指導には、「いじめないこころを育てる」ことが課題にされず、「いじめると厳しく叱られる条件」を教えていることでいじめを防ごうとする姿勢が見える。子供もいじめたら叱られるという条件を理解し、いじめと理解されないようないじめを見つけ出そうとするだろう。
つまり、いじめに対する学校側の姿勢は、小中学校での倫理(道徳)や人権教育の中身を示すものである。換言すれば、子供社会で自然発生的に生じる「いじめ」は人権、倫理や道徳を考える絶好の教材である。人間を考える機会を「いじめるな」という先生の命令や学校の規則で失うことはもったいない話である。
「いじめ」を人間教育の生きた教材として学校全体で取り組むためには、教師が人間教育のプランを持ち合わせいなければならない。現在でも、ごく少数ではあるがいじめによって幼い自殺者が出ている。その度に、「いじめはなかった」か「いじめに気がつきませんでした」という学校側の言い分が聞かされる。
そこには、「いじめ」を単にネガティブに受け取り、いじめが起こることが学校の恥であるために、それを隠す姿勢しか見えてこない。もし、暴露されれば、重大な犯罪行為を隠していたかのように誤りに転じるのである。すでに、それらの姿勢に「いじめ」に関する基本的理解の不足を学校側がもっていることに気づかされるのである。
「いじめるな」から「いじめないように努力しよう」へ発想転換
「いじめるな」という説教が、いじめ対策の人権教育にならないのは、そもそも子供社会では「いじめる」行為が、いじめているという自覚なしに、無自覚的にいじめが行われているからである。そこで、いじめるなという外的強制力では、そのいじめ行為を自覚的に理解することは出来ないのである。子供社会での「いじめ」予防には「いじめるな」という掛け声は、いじめてはいけないという価値観を持つことはできるが、主観的な「いじめ」行為を理解するにはあまり有効ではないと言える。
言い換えると、いじめ禁止令は、自然発生的に発生している他者への自己中心的行為、広い意味での他者への不愉快感や広義の暴力行為を自覚することにはあまり有効ではない。その自然発生的な暴力を防ぐためには、自己中心的な行為の暴力性を理解する想像力が必要である。想像力とは、内面性や倫理感を育てかければ身につくことは出来ないのである。
そこで、「虐めるな」でなくて、逆に自覚的に「虐めないように努力する」ことをいじめ問題の解決方法として考えてみよう。人は自己中心的存在であり、その意味で人は自然に他人を傷つける存在(虐める存在)である以上、無意識の自己中心的な存在、自然と他者を無視する存在、その限りにおいて他者を傷つけずにはいられない存在である。そうした人間の性(さが)、自我のあり方を自覚的に理解する方法として、せめてこれ以上「虐めない」ように努力をし続けること、虐めを予防する対応として理解する必要はないだろうか。
虐めない努力をするという対応は、虐めている結果から生じるのでなく、虐める可能性から生じる課題である。つまり、あらゆる行為の前に、いじめないための努力がすでに問われていることになる。言い換えれば、自らの行為の結果生じるすべての影響への想像する作業を意味する。いじめないという問いかけの課題は「想像力」を持たなければ不可能となる。いじめないと努力することで、自己の主観では到底理解しえない世界に対して、自己の主観の理解度を高める努力を続けることになる。
つまり、人が自己中心的存在であることを自覚的に受け止めているから、虐めないための最低限の努力をするのである。この「虐めない」努力をすることによって、虐めの対策を自己中心的人間性の自覚の上にたったそれ以上傷つけないという倫理的目標として提案されたものである。
しかし、いじめない努力をしなければならない我々、想像力を身に着けることでいじめている自分を反省的に理解する力(内面性)は、小中学校の生徒には理解困難ではないかと言われるかもしれない。そのためには、無自覚的に生じている自己中心的行為が含む最広義の暴力について語る必要があるが、現場の教師は、子供に理解できる具体的な実例を用いながら、語る教育力を身につけなければならないだろう。
他者の痛みへの想像力を養うための努力、優しさを育てる教育
「いじめない努力をする」ということを考えるとき、中学2年だったころの思い出が浮かぶ。それは、中学2年の担任の白石三郎先生のことばだった。中学の周りに生えていた松の木が春になると、すっと細長い小枝を伸ばす。その小枝は柔らかく、棒で叩くと、まるで刀にすっぱりと切られた枝のように簡単に折れる。その快感を味わいながら、パクパクとようやく待ち望んだ春に力いっぱい伸びる松の枝を切っていた。担任の先生が「君、その枝はまっすぐと伸びようとしているではないか。何故、そんな可哀そうなことをするのだ」と私に注意した。
その時、はじめて松が必死になって生きようとしている生命であることに気付いた。想像力のなさ。子供であるということを一言でいうと、想像力のなさだろう。そして無邪気な残酷さだろう。
いじめとはその無邪気な残酷さ、想像力のない子供じみた行為のように思える。いじめないということは、その無邪気で残酷な子供らしさから抜け出て、大人になること、想像力を持つこと、によって獲得される人間性ではないだろうか。
他者への共感は、自己にある他者という共通する存在を自覚した経験を前提にして生まれる。背丈が低く、そのことを気にし、もっと高く伸びたかった白石先生には、まっすぐと高く伸びようとする松の若芽が美しく見えたのだ。その伸びようとする生命を残酷に切り落とす私の行為を見過ごすことは出来なかったのだろう。
いじめないという行為の困難さを教える。否、共に自覚しあうことが、いじめに対して大人が子供に語らなければならない作業かもしれない。今は、白石三郎先生のように、諭す大人や教師がいないのだろうか。それとも、大人もこともと同じくらい陰湿ないじめにあっているのだろう。
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