2011年1月11日火曜日

こどものいじめと人権教育の課題

三石博行

初中等教育での人権・人間教育課題

こどものいじめ・大人社会での人権意識の反映

学校でのいじめ(虐め)には、子供社会にある「お山の大将を決める行動」に由来するもの、嫉妬によるもの、そして刑事事件的な暴力行為まであると言われている。その具体的な手口は、悪口を言う、笑いものにする、悪いうわさを立てるなどの言葉による暴力、無視する態度による暴力から集団暴行(暴力を振るう)、恥ずかしい行為を強制する、金銭を要求する、万引きなどの犯罪行為を強制するまである。

一般に小学校のクラスで起こるいじめは、クラスの5、6人の小さな集団が中心となってクラス全体の傍観者を入れた、ある特定の個人への嫌がらせである。いじめにあっている子供がクラス(共同体)の秩序を破壊している訳でもなく、またその子供への制裁をクラス会で決めたわけでもないし、クラス全員が制裁に参加している訳ではない。それは、いじめを行っている少数のグループの子供たちが、同じクラスのある子供に対して、個人的な感情による陰湿な暴力行為である。

しかし、いじめている子供もまたいじめを傍観しているクラスの大半の子供も、その行為が人権を侵害する行為、暴力行為、卑怯な行為であるという自覚はない。この無自覚さは、こどもたちと呼ばれる社会性を身に着けていない人々が持つ「無邪気な行為」について理解しておく必要がある。

つまり、多くの人間関係を経験したことのない人々(子供)に、自らの行為によって引き起こされる他人の痛みについて理解する心を育てなければならない。そのこころが育ってない精神構造からは、自らが引き起こす、他者の心を傷つける行為が暴力であるという自覚は生まれない。つまり、子供のいじめの現状の全ての責任は、大人たちの教育にある。そのことがまず、こどものいじめを目の前にして、考えなければならない課題であると言える。

言い方を換えれば、こどもの社会でいじめが蔓延していることは、大人の社会に虐めが存在していること、その大人を観ながら子供たちは虐めを当然とする社会で育っていることを意味している。つまり、大人社会での人権意識の反映としてこども社会でいじめが蔓延すると理解すべきである。


民主主義文化のバロメータとしてのこどものいじめの現象

つまり、いじめに鈍感な日本社会は、ある意味で民主主義が社会の文化として定着していない現れと解釈できる。どのような小さな集団であっても人々の集いの全てが、民主的に運営され維持されているかということが「いじめ」を起こさないことを保障するのである。

いじめは暴力の一種である。暴力には色々な形がある。例えば、肉体的に痛めつける暴力、言葉によって心を傷つける暴力、コミュニケーションを遮断する暴力、人格を無視する暴力等々。つまり、他者を積極的に傷つける行為である点がそれらすべての暴力に共通する。いじめは個人的な憎しみや妬みをあらわす積極的な他者への行為である。

いじめに対して、民主主義社会の対応は極めて明快である。つまり、その暴力は社会的犯罪である以上、いじめへの対応は犯罪行為に対する対応となる。いじめを行った人々を裁くことである。つまり、いじめの行為が明らかに法律違反している限りにおいて、社会は暴力としてのいじめに対応できる。

しかし、多くの場合、子供の社会で行われているいじめは、被害者のこころの傷の大きさに比べて、加害者の社会的責任追及は不可能に近い。それが現実である。被害者が自殺するに至っても、加害者への責任追及、損害賠償や刑事的責任の追及は不可能である。

これまで多くの学校ではいじめに対する取り組みは遅かった。いじめを予防するための国や地方自治体の対策が出されるまで、現場、学校が率先していじめ対策を講じていくケースは少なかった。このことは、学校自体がいじめの環境を積極的に作っているという自覚が無いことを意味していた。教育課題としていじめを取り上げる、つまり人権教育の課題として、日常的な子供たちの行為を問題にし、それを学習教材にする対応が現場の学校で工夫されないことが問題なのである。

もし学校が、いじめ対応に対する法律の社会的対応を待ち、いじめを社会的制度の中で解決すると考えるなら、学校での人権教育を考えることを破棄したと言えるだろう。学校でのいじめの問題で、刑法などの法律的な暴力としてのいじめへの対応策はいじめ問題の基本的な解決を導くとは考えられないのである。

日常的に些細ながらもいじめがおこる子供社会とは、人権に鈍感な社会の反映である。つまりこども社会でのいじめ問題の解決は、大人の社会での人権重視の社会構築にあるだろう。
そして社会が、真剣に人権を守ることの大切さを考え、子供たちに、それを伝えようとしない限り、こども社会でのいじめを防ぐことは出来ないだろう。


虐め(集団的暴力)を是認する傍観者の存在

村八分は民主主義社会では認められない人権侵害行為であるが、日本人の「村落共同体意識」には、村八分を正当化しないまでも、それが行われていることを無言のうちに了承している人々の意識がある。この無言の人権侵害への傍観者意識が、人権侵害を起こす大きな原因となっている。

クラスで数人の子供がある子供を虐めているとする。クラスの多くの子供たちは、いじめっ子が絶好のターゲットを決めて、虐めが行われていることを理解している。しかし、大半の子供たちは、その虐めには参加してはいない。ただ、それを傍観しているだけである。虐めているグループにあえて虐めをやめるように忠告する訳でなく、もし虐めをやめろといえば逆に自分が虐めの対象にされる危険性があることを知っている。だから、ただその虐めの現実にかかわりたくないと決め込んでいるのである。それがクラスの大半の子供たちの姿である。

これらの傍観者の存在によって、つまり虐めを認めている人々の存在があることが、虐めている人々にとっては、自分たちの行為の承認者として映る。その消極的な承認者を得ることで、私怨(しえん)や個人的鬱憤行為(うっぷんこうい)も社会的存在理由を見つける。もはや、私怨による行為でなく、皆が認めている皆と共同してやっている行為に変貌するのである。

このクラスの大半の子供たち、不特定多数の傍観者の存在によって、いじめっ子の暴力は、社会的制裁行為の意味付けをもらい、伝統的に村の中で繰り広げられた村八分的行為に変貌するのである。

傍観者の存在は、伝統的な村落社会の無言の協同者を意味する。その存在は、古い村落共同体の社会運営に関する慣わし、つまり日本人の深層心理にしっかりはまり込んでいる「暗黙の同意」によって運営される村の掟を呼び覚ます。

いじめっ子が堂々とクラスで暴力を振るためには、傍観者の存在が必要なのだ。もし彼らがいなければ、その行為の主観性は見破られるのである。彼らは堂々と暴力を振るうことは難しくなるだろう。それだけでも、虐めはクラスの中で公然とは起こらなくなる。

そして、クラスの大多数の子供が、傍観者から虐めを批判する側に変わるなら、つまりクラスの多くの子供たちが、「弱いもの虐めをやめよ」というなら、いじめっ子の中で正当化したい暴力の公共性は忽ち(たちまち)崩れ去り、虐めという行為があらわに社会(クラス)の中に露呈(ろてい)するだろう。個人的感情によって生まれた自分の行為としての虐めに含ませたかった「社会的」制裁の意味合いを失うだろう。

私怨によって生じる暴力「いじめ」に、社会的制裁のニュアンスの混入を防ぐためには、つまり虐めが暴力であると明確に意識する契機を得るためには、その虐めを見て見ぬ振りをする大多数の傍観者達のモラルを問いかけ、彼らの協力を得る以外にないのである。


いじめについて考える人権教育

つまり、非常に日常的に起こる言葉や態度によるいじめに対して、教育の立場から常に敏感に対応する姿勢が必要である。いじめはこどもの社会では常に起こるものである。こども社会でのいじめを防ぐためには、いじめる子供たちに対する懲罰ではなく、いじめを考える人権教育の普及が必要である。いじめを通じて、こどもたちに人権教育の機会を作ることが出来るのである。つまり、日常的に生じるいじめを積極的に取り上げ学校側の教育姿勢が必要である。

もし、学校や教師が、そうした姿勢を持たないなら、学校や教師の側に人権に対する意識の低さがあり、そのことが学校でのいじめの蔓延を放置していると考えるべきであろう。日常的にいじめを積極的に取り上げることが教育の場として必要である。それを理解しない学校や教師は、現実の大人社会で行われている人権侵害の行為に対しても鈍感であると言えるだろう。

教育活動として虐めを問題にして、いじめた経験のある子供、いじめられた経験のある子供も共にそのことを考える機会を与えことで、教育の立場からいじめを防ぐことができる。換言すれば、いじめは人権教育のもっともよい教材となる。子供たちは、自らの行為をもって、人権について考える機会を得る。これがまず学校が取らなければならない虐めへの対策ではないだろうか。

教育プログラムとしていじめに対する対策が行われている事を前提にして、具体的に発生する虐めへ対策を考える必要である。虐めた子供も虐められた子供も含めて文部科学省が提案しているマニュアルなどを活用し学校やクラス全体で虐めに対する対応をしなければならないが、しかし、もっと大切なことは、教育現場で、具体的でしかも生きた教育材料を活用しながら、人権教育を企画できる教育力が教師や学校に求められている。

さらに、刑事事件の対象になる虐めに関しては発見した際に警察の協力が必要で、保護者も学校も警察に通告しなければならない。例えば自殺者を出すなど、重大な事件に発展し被害者の保護者の憤激を伴う場合、刑事事件として告訴しなければならない場合が生じる。

しかし、こどもの喧嘩(暴力を振るう行為)によっても傷害事件が発生する。それらのすべての事件を刑事事件として告訴することは出来ない。こども同士の喧嘩による暴力事件に対しても、単純に刑事事件として扱うのでなく、こどもと保護者を入れた話し合いを学校が企画し、こどもへの暴力に対する自覚を教えなければならないだろう。つまり、どのような事件がおこっても、マニュアル通りに解決するのでなく、そこにいる子供の現実と状況を理解したケースバイケースの教師と学校の対応が求められている。

こどもの人格を尊重する学校や教師の考え方がない所にこどもへの人権教育は芽生えないのである。




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