三石博行
昨年10月27日の不幸な知らせを受けて、急遽、吉田民人先生の論文リストの作成に取り掛かりました。
吉田民人先生が1959年から2008年までに発表されました論文を殆ど入手し、リストにしました。
リストは グループメール「プログラム科学論研究会」の「ファイル」に「吉田民人論文リスト(1958-2008)というPDFファイル名を付けて置いてありますので、誰でもダウンロードできます。必要な方は、活用してください。
プログラム科学論のサイトでは、ファイルを添付できません。
そこで 三石博行ホームページに「吉田民人論文リスト」のページを作ってあります。
三石博行のプログラム科学論研究
発表論文等記載
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html
吉田民人先生の発表論文リスト
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_03/cYoshida_ronbunlist.pdf
プログラム科学論研究会
http://groups.google.co.jp/group/programeology?hl=ja
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プログラム科学論・自己組織性の設計科学に関する文書はブログ文書集を見てください。
ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」目次と文書リンク
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_3891.html
哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2010年1月28日木曜日
2010年1月7日木曜日
コルカタ
コルカタ
三十年ぶりのコルカタ。
昔のリキシャはタクシーに代わって、すごい排気ガスを出しながら走っている。
必死になってその日を生きている人々。
明日という幻想でなく、これから1時間後に生きていられるという幻想を痛いほど理解さす街。
それでも、人々は激しい喧騒の呼びかけ合いの中に、私の理解をはるかに超えたやさしさをもっていた。
それは理解を超えた文法と意味からなるクラクションのメロディーだった。
生きることに執着することは美しいのだとドロだらけのアスファルトから、
もうもうと湯煙を上げて、壊れた陶器のかけらが騒ぐ。
これは限界の世界だ。
これは狂気の世界だ。
それでも、人々の生はあまりにも軽く湯煙のように散っていく。
もし、明日があれば、それは奇跡だ。
もし、君と明日出会えれば、それも奇跡だ。
それは、寛容の世界だ。
それは、了解の世界だ。
しかし、もう私は眠い。
三十年ぶりのコルカタ。
昔のリキシャはタクシーに代わって、すごい排気ガスを出しながら走っている。
必死になってその日を生きている人々。
明日という幻想でなく、これから1時間後に生きていられるという幻想を痛いほど理解さす街。
それでも、人々は激しい喧騒の呼びかけ合いの中に、私の理解をはるかに超えたやさしさをもっていた。
それは理解を超えた文法と意味からなるクラクションのメロディーだった。
生きることに執着することは美しいのだとドロだらけのアスファルトから、
もうもうと湯煙を上げて、壊れた陶器のかけらが騒ぐ。
これは限界の世界だ。
これは狂気の世界だ。
それでも、人々の生はあまりにも軽く湯煙のように散っていく。
もし、明日があれば、それは奇跡だ。
もし、君と明日出会えれば、それも奇跡だ。
それは、寛容の世界だ。
それは、了解の世界だ。
しかし、もう私は眠い。
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