2022年11月18日金曜日

人を大切にする考え方が民主主主義の根底に流れている

日本での民主主義文化の構築に向けて




三石博行




1、アジア資本主義の歴史を踏まえ私たちの文化に根差した民主主義社会の形成



日本の民主主義は欧米に比べて未熟である。その理由の一つに、日本の近代化の歴史がある。欧米列強と不平等条約を提携し、日本の植民地化を防ぐために、国家指導の近代化政策が行われた。その結果、アジア型資本主義(国家資本主義)によって(と共に)形成されてきた日本の民主主義の歴史があるためだ。私たちは、現在の民主主義文化の遅れた日本社会を考える時、過去の日本の近代化(資本主義化・西洋化)の歴史を前提にしながら、理解する必要がある。

そして、この日本社会の民主主義文化を発展させるためには、欧米型の民主主義を移植することではない。もちろん、海外の素晴らしい制度を学び参考にすべきであるが、同時に、民主主義が文化であり人格であるとすれば、それは先人が日本型の近代化を行ったように、私たちは日本の風土の馴染んだ民主主義を創造する必要があるだろう。

日本型の民主主義文化の形成とは、日本の伝統や風土として存在している「人を大切にするこころ」を確りと再確認し、それを現在の社会制度の中に再構築することだと思う。しかし、そのための方法は見つかってはいない。そのため、ここでは民主主義の原則について述べる。この原則に従い、私たちの生活様式、コミュニケーションの方法、社会的コンセンサス形成の手段を点検しながら、他者との協働活動の実践を積み重ねるしかない。

民主主義とは、今、そこに生きる人々が、その生活空間に対して責任を持ち、それを構成する人々と共に、よりよくするための考え方である。つまり、私たちの社会を構成する多様な人々が、それぞれ多様な姿で生活することを認められ、それらの人々がそれら独自のやり方で自分たちの社会に責任をもって参加する市民参画型の社会文化である。その意味で、民主主義は、構成される市民の社会性、文化性、歴史性によって多様な姿をもつと言える。


人権思想の上に成立する自由と平等



人権、自由と平等は民主主義の三大要素である。しかし自由が絶対的に優先することはない。もし、人権を伴わない自由を認めるなら、人は何をやっても許されることになる。つまり、公共性を無視した個人の意のままの行動を自由と考える風潮が生まれる。

人権思想が未熟な状態での民主主義社会では、自由は公共性(他者の自由と衝突を避け、他者と共存できる自分の自由な行動の範囲を自覚する考え方)と対立することになる。個人が好き勝手に何でもできることを自由だと考え、自由を尊重するなら公共性(公共の利益)を無視してもよいと考えることになる。

また、民主主義の未熟な段階では平等も個々人の多様性を認めない平等主義となる。その結果、同調圧力に屈し他人に同じ意見や行動を強制することも、他人との違いを恐れ、自分らしさを表現しない悪平等主義が生まれることになる。

人権の中で最も平等を重視したのが「社会主義」である。中世的な君主制の下での不平等を正すためにすべての人々が社会的に平等であると考えた。しかし、自由という人権思想を伴わない平等主義は、経済的不平等が生まれる生産手段や土地の所有まで否定することになる。その極端な形態が、すべての人々を未熟な平等主義を強要する一党独裁政権の姿である。そして、自由という人権を無視した平等は多様な立場や考え方・信条をもつ国民を認めず、国家が唱える考え方を一方的に押し付けることになる。

こうした人権思想のない平等主義の社会を支えるのも、その社会を構成する人々である。彼らは個々人の多様性を認めない。みんなが同じでなければならない同調圧力で機能する社会をつくりだす。そして無言にうちに世間と同じ意見や行動を他人に強制する。また、社会的常識、多数者と違う少数者を排除する。もし人々が自分らしさを表現するなら、それを嫌い、すべて同じような考え、行動、服装をしなければいけないように強制する。

未熟な民主主義文化では自由と平等は対立概念になるだろう。何故なら、その二つの社会思想の土台に人権思想がないからなのだ。自由も平等も人権思想の上に成り立たない限り、それらは成立しない。


多様な民主主義文化の存在:その社会独自の市民参加型社会



民主主義は文化であり人格である。その意味で、伝統や歴史、その社会文化、政治経済的状況の異なるそれぞれの社会に多様な民主主義文化の形態が存在しているとも言える。言い換えるなら、民主主義文化は多様な在り方をしている。これが民主主義のもう一つの特徴でもある。

そのため、民主主義を考える時、自分たちの社会、国の歴史、伝統、文化を確りと見つめ、その上に矛盾なく成立している人権(自分や他人の命や生活を大切にする考え方)を見直し、点検し、最も自分たち独自の社会文化に適した制度が民主主義文化の基本になる。

それぞれの社会はその社会の歴史や文化を背景にしえ独自のスタイルで存在している。独自の社会文化をもつ集団(日本)を前提にするなら、この社会での民主主義文化の形成とは、まったく違い社会、例えば西洋社会の様式をそのまま取り込むことではない。このやり方が近代化と呼ばれていたが、民主主義社会は近代化ではないといえる。それはそれを目指し形成する人々(日本の社会の人々)の自覚的(主体的)な、それらの人々にとっての自由や平等の在り方を摸索する社会の構築である。

多様な人々(国民・市民)が多様な個人の自由と社会的平等を維持するための提携した社会契約の制度を模索しなければならない。民主主義の基本にある社会契約とは、その社会をよりよく維持するために構築するための考え方であり制度である。まず、この社会契約の考え方が国民に理解されていなければ民主主義は形成不可能である。

そのため、国や社会は「民主主義教育」を行う。人々は小中学校から民主主義について学び、異なる信条、思想や意見を持つ人々とのコミュニケーションの取り方、また共存の仕方を学ぶ必要がある。そのための制度や社会的機能が必要となる。

例えば、正しい情報の共有の仕方、間違った情報への対応の仕方も学ぶ。国を挙げて(社会全体で)、最も大切な教養(社会的常識)として、民主主義を教育する制度なしには、民主主義は醸成されない。しかも、その醸成は20年単位の時間が必要だと理解すべきである。その意味で、日本の民主主義教育の後れは、日本が民主主義後進国になっている原因の一つであると言えるだろう。

それ以外に多くの社会機能(民主主義を醸成するための道具)が必要だろう。それも、社会を構成する人々が議論し構築し、またそれを点検し、新たな制度を見つけ出すために脱構築していくのだろう。民主主義社会では、その過程がもっとも大切なのだから。


フェイスブック記載 2022年11月17日

日本型「反セクト法」・セクトから国民を守る制度の提案

セクトから国民を守る法律の必要性




三石博行




1、21世紀は宗教の時代、そこで起こるセクトへの対策の必要性



こらまで、オーム真理教をはじめセクトによって国民は大きな被害を受けてきた。今回、1970年代から続いてきた旧統一教会の反社会的宗教活動が問題になっている。霊感商法等による巨額の献金、信者家庭の財政的破壊、合同結婚式、子供への信仰の強制、政治家との癒着による組織防衛等々、旧統一教会が行ってきた宗教活動と自称する行為が日本社会を揺るがす社会スキャンダルとなっている。

旧統一教会は日本では宗教法人として認可されている。その意味で、宗教法人法に守られ、税金等の優遇措置を受けている。それに対して、今、国民の中から、この宗教法人の法人資格を認めるべきでないという声が沸き起こっている。また、一方では、宗教法人資格を剥奪するのは信仰の自由に反するという批判もある。

科学技術文明社会が発展し続ける21世紀は他方で「宗教の世紀」とも言われている。何故なら、人々は科学技術的合理性によってのみ生きることは出来ない。生るものにとって死は避けがたい現実であり、その死に対して科学技術の知識では答えることが出来ない。何らかの生と死の課題に納得するために人は宗教を求めるかも知れない。その意味で、多くの人々がより宗教的課題に接することになる。

そうであれば、21世紀の社会ではオーム真理教や旧統一教会と同じように新しいセクトが発生し続けることを理解しておく必要がある。そして、今回の旧統一教会への対応を契機にして、今後、セクトから国民を守るための対策を考える必要があるだろう。


2、信条ではなく、行為を規制する法律の制定



セクト(旧統一教会)から日本の国民を守るためには、フランスの反セクト法、正式には「人権及び基本的自由の侵害をもたらすセクト的運動の防止及び取締りを強化するための2001年6月12日法律2001-504号」の日本版を制定することだ。大切なことは、この法律は「信条」に関しての規制しているのではなく、「行為」に対する規制していることだ。つまり、個人は何を信じても自由というのが「信条」の自由である。極端な言い方をすれば、「正義のためなら人を殺してもいい」と考えるのは自由だが、本当に人を殺した場合には「殺人罪」として裁かれることになる。

反セクト法では、まず、セクトを識別するための10の基準を定めている。つまり、この10項目の行動が実際に行われた場合に、その団体を反セクト法の対象として国民の「人権及び基本的自由の侵害」したとしてそれらの団体を「セクト的運動」として認定し、その「防止及び取締り」を行うことが出来る。

フランスの反セクト法で定められている「人権及び基本的自由の侵害」行為とは以下の10項目である。
・精神的不安定化
・法外な金銭要求
・元の生活からの意図的な引き離し
・身体の完全性への加害
・児童の加入強要
・何らかの反社会的な言質
・公序への侵害
・多大な司法的闘争
・通常の経済流通経路からの逸脱
・公権力への浸透の企て


2、民主的手法や人道的立場に立った段階を踏まえた法的制度



では、どのようにしてこの反セクト法が適用されるのか。その適用も民主主義の原則を踏まえなければならない
まず、第一段階は
・警察及び監督行政機関は、ある団体が国民から反セクト法違反の告訴を受けた場合、当該団体が反セクト法に定める違反項目(10項目)の中のいずれの項目に該当すると判断された場合、すみやかに、当該団体を告訴しなければならない。
・告訴を受け、裁判所は当該団体が反セクト法に該当するかどうか、被告(当該団体)と原告(告発人)をよび、その事実を審議しなければならない。 ・裁判所によって、当該団体が、反セクト法に違反すると判断された場合、当該団体は、それらの違反事項の内容によって、その損害を補償し、また違反行為を起こさないための改善策を提出しなければならない。

第二段階
・以前、裁判所によって反セクト法に違反したと判断された団体が、裁判所に提出した違反行為防止のための改善策や被害者への保障を実施していないと告訴され、それが裁判によって認められた場合、当該団体に対して改善策や被害者への補償を実施することを強制する判決が裁判所から出される。

第三段階
・当該団体が、上記第二段階での裁判所の判決を違反し、さらに反セクト法に規定された違反行為を繰り返し行う場合、当該団体に与えられている公共的立場(例えば宗教法人、社団法人、企業法人等)の資格を剥奪することが出来る。
・当該団体が、上記第二段階での裁判所の判決を無視し、さらに反社会的行為(反セクト法に違反する)を継続し、かつ被害者を増やしていると判断された場合、当該団体を刑事告訴することが出来る。


3,最も大切なことはそれを決定する民主的手段(過程)があること



反セクト法の対象は宗教団体だけでなく政治団体等にも及ぶ可能性がある。その意味で、反セクト法の在り方は民主主義と人権思想を十分に配慮し、その原則からはみ出てはならない。国民をセクトから守るための規制の必要性と共にそれらの規制を悪用する権力から国民を守らなければならない。そのため、こうした法律に関しては、国会(立法機関)だけでの議論ではなく、第三者委員会(専門家や異なるステイクホルダーの参加による)を設け、また、それらの議論の内容を公開することによって、国民の関心と参加のもとに決定すべきだと思う。


フェイスブック記載 2022年11月18日

2022年11月14日月曜日

脆弱な民主主義文化、危機の日本社会を救うための提案

危機的状態にある日本の民主主義を救う三つの提案




三石博行




1 、旧統一教会に操られる日本の政治家の本音



旧統一教会と政治家の関係があきらかにしたことは、日本の民主主義の脆弱さであった。国民が選ぶ政治家は、国民から多額の献金を集め家庭崩壊を行っている反日セクトと言われる団体に長年選挙協力してもらっていた。日本の保守系の政治家、伝統的家族倫理を重視し、日本民族の誇りを謳う政治家たちが、教祖の前に天皇をひざまずかせる儀式を行っていたセクトと政策協定まで結んでいた。

そうして事実が明るみに出るや、彼らは掌を返すように、旧統一教会との縁を切ったと宣言した。しかし、何故、このセクトと関係を持ったのかは明らかにしない。それは、彼らの政治家としての基本が問われるからだろう。つまり、彼らは、本音では、自分の利益や既得権を維持するためには、国民が犠牲になろうが、国家が侮辱されようが、どうでもよいと思っているのだ。それが、明らかになることは避けたいのだろう。

今、野党は旧統一教会と関係した閣僚(旧統一教会への対策を検討する立場にある政治家)の批判、また被害者の救済のための法制度の成立に向けて協議を重ねている。しかし、今年中に、被害者救済のための法律が成立するかは不明のままである。もともと、国民の犠牲を無視し続けて来た政治家にとって、被害者の救済は、さほど重大な課題ではない。彼らは、旧統一教会との関係を問いただされるこの国会を早めに閉会したいと思っているかも知れない。


2、「国民はいつか忘れますよ」と言われている私たち



と言うのも、この国会が終われば、そして来年になれば、旧統一教会と政策協定を結んでいたことも、イベントで講演したことも、教祖を賛美したことも全部「国民は忘れますよ」(故安倍氏)と、思っているからだろう。事実、森加計や桜を見る会の問題もいつの間にか「国民は忘れ」、報道も取り上げなくなり、もし誰かがそれを言うなら、「過ぎたことでしょう」「それよりも大切な予算、安全保障等の議論があるのでは」と言われることになる。

「国民はいつか忘れますよ」という日本社会の政治文化は、すべてに行きわたっているようだ。例えば、オリンピックでは予算を超える支出、多量の料理の廃棄(食べられない人々がいるのにかかわらず)、国民の血税がまるで湯水のように使われた。そして、それを運営する組織員会等のスキャンダルが暴かれようとしている。だが、政治家だけでなく、利権に群がる彼らも、「いつか国民は忘れますよ」と思っている。「いつか国民は忘れてくれる」から、何をやっても、そう問題にならない。もし、問題になったとしても、時間を稼げば、批判から逃れられる。それが日本流のやり方だと、彼らは信じて疑わないのである。

自分の利益や既得権を維持することが最も大切な「政治活動の課題」となっている政治家が国会にまた地方の議会におれるのは、政治家の不正を忘れてくれる国民と過去の不正を都合よく忘れる政治家の国だからなのか。こんな情けない国に日本はなっているのだ。これは亡国に一丁目と言わないで何というか。もし、三島由紀夫がいたら、彼は激を飛ばし、ひょうとすると、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地でなく、永田町で切腹しているかもしれない。

参考資料
松谷創一郎 「日本人の“忘却癖”を利用した安倍政権のイメージ戦略──安倍ポピュリズムの実態とは」


3、何かから始めるべきか



旧統一教会と政治家の癒着の問題が露呈したのは日本社会の民主主義文化の脆弱さであった。その脆弱さを生み出している社会文化的構造にメスをいれ、改革をしなければ、同じ問題が今後も起こるだろう。そして、また、問題をおこした人々は同じように「国民はいつか国民は忘れますよ」と言うだろう。

こうした状況を変えるために何をしなければならないのか。考えられることは沢山ある。ここで、私が考えている三つのテーマを列挙する。もちろん、これ以外に他にもあるだろう。こうした議論を起こすさなければならない。広く社会全体を巻き込む議論を起こし、人々がそれらの課題に関して意見を述べ合う文化、社会コミュニケーションを作ることだと思う。コミュニケーションの過程こそが、民主主義文化を醸成する。そして、そこで生まれた多様な社会活動によって、よりバランスの取れた課題解決(民主主義文化を醸成するための)が進むことを願っている。

以下、三つの課題、マニフェストを重視する選挙制度の変革、報道の自由とフェイクニュース対策と小中学校での民主主義教育の充実に関する情報を記載した。

3a、選挙制度の変革 (例えばマニフェスト選挙)



議会制民主主義で国民が唯一政治に参加できる機会は選挙である。その意味で、国民主権を謳う国家・日本ではより多くの国民が参加できる選挙制度を確立する努力、また、立候補者個人、または政党にはより民主的な選挙活動を義務づける必要がある。

参考資料
三石博行 「クトに利用されない日本の選挙制度のための変革案 」2022.11.12
rainy「マニフェストとは?意味や具体例、調べ方も解説」2021.10.28
senhime「マニフェストとは?各党の公約一覧をご紹介!」2021.11.14
早稲田大学マニフェスト研究所 「マニフェスト Q&A?」


3b、報道の自由とフェイクニュース対策



日本の報道の自由に関して「国境なき記者団」の評価がある。それによると日本は世界で71位となっている。ウクライナ侵攻を行ったロシア社会、それを許した国民は徹底した公共放送の政権プロパガンダ情報を信じ切っていた。日本の戦中を思い出すとよい。NHK(日本放送局)は、同じような失敗を行ていた。そして、国民を戦場に送り出す機関の一翼を担っていた。

日本の放送法を他の先進国のそれと比較する必要がある。ドイツの事例などが参考になる。公共放送が国家のプロパガンダとなる宿命は避けられない側面があるなら、積極的に市民メディアを育成し、国民は自由に報道活動を行う文化を形成すべきだろう。

一方、自由な情報発信は、インターネットでSNSを通じて行われている。その情報伝達機能を通じて、間違った情報、悪意に満ちたデマ等が流されている。報道の自由と反社会的で、悪意に満ちた情報(報道)の点検機能が社会的に必要となる。その機能を充実させない限り、報道(情報発信)の自由は守れない。

参考資料
Wikipedia 「世界報道自由度ランキング」
「報道の自由度ランキング」 (2021年7月6日)https://ecodb.net/ranking/pfi.html
「日本の報道の自由度はG7の中で最も評価が低い。この理由として、国境なき記者団は、「記者クラブの存在」や、「特定秘密保護法」等を問題点として挙げている。」, 2022年の報道の自由度ランキングで日本は71位。先進国とは思えない、報道の自由後進国として評価されている。
日本経済新聞 「報道自由度、日本は4つ下げ71位に 国境なき記者団」2022年5月3日
NHK「報道の自由度 日本 世界71位 “大企業の影響力 自己検閲促す” 」2022年5月4日

MEDIA KOKUSYO「フランスでフェイクニュースを取り締まるための法改正が成立、言論統制に悪用される可能性も」2018年07月05日 黒薮哲哉の「メディア黒書」

総務省 「インターネット上のフェイクニュースや偽情報への対策」


3c、小中学校での民主主義教育



民主主義は文化である。それは人の人格であり、家族文化や地域社会文化である。人権思想(人の命と生活を大切にする考え方)が無ければ民主主義文化は育たない。人が自分と同じ人間でありることを学ぶことで、民主主義の重要な要素「平等」に関する考え方が生まれる。また、人は人それぞれ個人として生き方、希望や欲望を持っている。従って、自分の生き方や欲望を理解してもらうためには、他人のそれを理解し、認めなければならない。自由とは相互にそれぞれの個人の多様な生き方を認め合うことで社会的に成立する。こうした考え方は家庭教育、幼児教育、小学校や中学校での教育を通じて育成される。それらの教育がなければ民主主義文化は形成されないだろう。

現在、少なくとも小中学校教育での民主主義教育の強化や導入が必要である。自由に自分の意見を言い、また他人の意見を聞くための訓練を小学校から行わなければならない。自分の意見を言えない、大勢の人々の意見に同調し、違い意見の人を排除する人にならないための訓練を行うことで、「いじめ」に対して、子供たちが自分たちの力で解決できるだろう。

さらに、学校の決まり、社会課題を考え、それらの問題を解決するための方法、コミュニケーションの仕方を実践的に学ぶことで、民主主義に関して実践的に理解するだろう。そして、そこで育てられた子供たちは未来の日本に大きく貢献するこだろう。

参考資料
KIDSNA編集部「【スウェーデンの教育】社会に問いを立てる民主主義教育」


フェイスブック記載 2022年11月13日

2022年11月12日土曜日

セクトに利用されない日本の選挙制度のための変革案

民主主義を醸成する選挙文化を構築するために




三石博行




どのように選挙制度を変革すれば、旧統一教会のようなセクトによって日本の政治家や政党が利用されないようになるだろうか。幾つか、今、私が思いつく点を書いてみた。もちろん、それだけでないと思う。今後、日本の民主主義を守る、もしくは醸成するために選挙制度の改革に関する議論と制度設計を行う必要がある。


1、小選挙区制と比例制のバランスを考える



現在、小選挙区制が課題になっている。確かに、この制度では多くの票が死票となる。そのため、小選挙区制を導入する場合、全国区で政党比例投票を行う必要がある。小選挙区で当選する議員数と比例で当選する議員数を同数にする。つまり、比例を半分にし、小選挙区の区割りを変えて当選者数を半分にすることで、小選挙区制での死票数を減らすことができる。

しかし、他方で問題も起こる。何故なら、人口減少の地方の区割りが今までのように県単位では出来ないかも知れない。とは言え、人口減少は日本全体の課題でもある。人口減少に合わせて衆議院は議員数を少なくしなければならない。今後、衆議院は人口の少ない地方では、二つ自治体に一人の小選挙区が出来ても不思議ではない。その上で、全国レベルの比例制を取り入れる。この比例制で政党政治が優位な立場を得ることになる。それは、マニフェストを選挙の基本におくことを推進するのなら、それなりの貢献をするだろう。

参議院は、各都道府県から一人の小選挙区制と全国レベルの比例制にするのはどうだろうか。参議院では人口減少した各自治体にもそれなりの発言権を持たすとよいのではないか。そうなると、一票の格差が問題になるかも知れない。それが日本国憲法に違反するとなれば、参議院でも上記した衆議院選挙の制度が良い。


2、立候補者の社会的身分保障



地方議会、知事選、衆参の国政選挙、全ての選挙で、立候補する場合、元の職場を辞めなくてもよく、また、落選した場合も、任期や自分から辞退した場合も、もとの職場に復帰できるように、議員の社会的身分を保障する制度が必要である。そうでないと、議員の世襲制が続くことになる。もしくは、確りした政党の立候補者のみが、落選のリスクを保障され、選挙に出馬できることになる。


3、マニフェスト、およびその点検に関する報告義務 



立候補者は選挙公約(マニフェスト)を必ず示さなければならない。なた、現職及び前職の立候補者は過去の選挙公約に対する自己点検及び第三者からの点検を示さなければならない。その点検で課題になったことを選挙活動中に報告、説明をしなければならない。それらの報告や説明を、口頭、文書、SNS等のあらゆる手段を使い出来る限り多くの選挙民に対して行う努力をしなければならない。


4 、立候補資格制度



地方議会、知事選、衆参の国政選挙の立候補者は、それぞれの選挙制度に付随する立候補資格を前提としなければならない。つまり、まったく一人で突然選挙に立候補することは出来ず、少なくともある人数、もしくはある政党や団体の推薦を前提に立候補しなければならない。

何故なら、選挙とはある政治公約や政治理念をもつ個人(立候補者)が、それに共感する市民から委託を受けるために行われる社会的行事である。それらの公約は、選挙以前に、すでに多くの市民と共に検討されていることが前提になる。選挙の時に、突然、ある個人が彼の政治理念や政策を訴える場ではない。多額の税金を使い行う社会的行事である以上、立候補者は立候補の条件を充たし、立候補すべきである。


5、選挙結果に対する全立候補者の報告義務



選挙は、多くの立候補者の中から、わずかの票数の違いも含めて、当選か落選かの二者択一の結果をもたらす。その意味で、ある立候補者にとっては不本意な結果と言えるし、またある立候補者にとっては当然の結果と思うだろう。いずれにしても、当選者や落選者のすべての立候補者が、その結果に関して、選挙が終わってから1週間以内に義務として選挙結果にたいする意見を述べることを義務化しなければならない。

何故なら、選挙は巨額の税金を使って行われる行事であり、その結果は当選であろうと落選であろうと、共にその経費に対する義務を持つ。その社会的義務を果たさない立候補者が次回、立候補することは出来ない。


皆さんはどう思いますか。また、皆さんとともに、「旧統一教会のようなセクトに利用されない日本の選挙制度」を構築するための議論や提案を行なえることを希望します。



フェイスブック記載 2022年11月12日

2022年11月9日水曜日

旧統一教会の戦略にはまる日本の選挙文化の構造的課題

- 国民との選挙公約 (マニフェスト)を基本とする選挙制度の構築 – 




三石博行




1、旧統一教会の選挙支援を受ける背景



なぜ旧統一教会が政党(特に自民党)に影響を与えられたのか。旧統一教会のエバの国日本はアダムの国韓国に無条件に貢ぎ続けなければならないとい教義は、駄々でさえ戦前の朝鮮半島の植民地政策を反省することのない国家主義を信奉する多くの自民党議員には到底受け入れられるものではないと思われる。だが、その統一教会と政策協定まで結ぶのだから、どうなっているのか不思議な話だ。

もし、国粋主義に命をかけた三島由紀夫がこのことを知ったら、統一教会に選挙協力を得ている自民党の議員たちを「似非民族主義者」として激しく糾弾してるただろう。だから、政策協定を結んだ自民党議員や旧統一教会やその関連団体で挨拶をしたり、教祖と記念写真を撮ったりした議員たちは、きっと三島が生きてなくてホットしているかもしれない。しかし、それでも日本会議の幹部は居るのだから、国粋主義の幹部からクレームをつけられたり、場合によっては、脅迫されたりはしないだろうか。それもないなら、この国の右翼も国粋主義もとどのつまり、極めて実利的プラグマティストだと言われるかもしれない。

しかし、自民党議員(自民党議員でなくても)が何故旧統一教会に政策協定書まで書かされたのか、その本当の理由を明らかにしなければならない。思うに、大半の理由は、候補者が「選挙に勝ちたい」からだと言えるだろう。それも人情としては理解できる話である。真面目に、彼らといえども、「エバの国日本とアダムの国韓国」の関係を信じてはないだろうし、また、「政策協定」も半分が真面目に読みもしないで、結んだものだろう。確かに、その中の多くが、自民党の政策と同じである以上、例えば「日韓トンネルの成功」などという馬鹿げた構想があったとしても、それは無視したのかもしれない。ただ、選挙に負けると議員という食い口を失うことになる。それは、誰でも理解できる「失業」という恐ろしい生活が待っているのだ。


2、問われる日本の選挙文化



この現実から、言えることは、むしろ、旧統一教会は日本の選挙文化の現実をよく理解していて、その上で、候補者の要求にそった選挙協力をしたのではないかと言える。つまり、候補者の弱みを理解し、どの政党の候補者がその弱みに耐えられないか、また、選挙協力した後に、一番利用できる候補者であるかを、この団体は極めて冷酷に理解していたと思う。その上で、長期的視点に立って、選挙協力をしてきたのだろう。

それでも、ほとんどの国民は怒りもしないし、マスコミも「なんて国民をバカにしたうるさいウグイスの鳴き声なのか」と批判さえしない。むしろ、選挙では候補者が金を持ってきてお願いに来るものだと信じて疑わない人々もいる。真昼堂々と、お金がばら撒かれることが起こる。これはいつの時代の選挙なのかと疑う現実が、つい数年前にあったし、それへの点検も然りとなされていない。これが現実の日本の選挙文化・民主主義文化の程度でなのだろう。

つまり、選挙では何をしても「当選すれば」いいのであって、負ければ、何の意味もないのである。当然は話であって、そのことを疑う人はいない。問題は、何をしても当選すればいいのかという疑問符が、世論に付いていないことではないだろうか。選挙とは、立候補者が、これまでどんな政策活動をしたか、どのような政治的意見や考え方を持っているか、と言うことを国民が評価し、そして、自分の代表として選ぶ制度である。選ぶ行為の中身こそが、選挙活動や選挙行為の内容を決定している。もし、そうしたことが全く課題に挙がらす、「よろしくお願いします」と、自分への投票を呼びかけるなら、そうした選挙活動が常識化しているのであるなら、候補者は、当然のように、どんな手段を使っても選挙に勝てばいいと考え、勝つためには何でもすることになるだろう。こうした選挙文化こそが、旧統一教会にとって、非常に簡単に政治家や政党との関係を作る機会を得られることになるだろう。


3、選挙公約(マニフェスト)に対する点検としての選挙文化の構築



つまり、旧統一教会が巧みに政党や政治家と関係を作り上げた背景を分析し、理解しない限り、旧統一教会との関係を断ったとしても、同じような過ちを、今後も、繰り返すことになるだろう。政治家たちは旧統一教会を利用しなくなっても、また新しい団体を見つけ出し、それを利用して、「勝つためには何をしてもいい」選挙運動を続けるだろう。従って、もう一度、選挙を政党や政治家のマニフェストとその点検活動を前提とした国民・市民の政治参加活動にしない限り、この問題は基本的に解決することはないだろう。

言い換えると、この問題で問われているのは、旧統一教会やそれを使った政治家や政党だけはない。政党が約束した政策の点検活動として選挙を行なえない私たち日本の国民・市民の民主主義文化のレベルの問題だとも思える。

しかし、今までマニフェストを基本にした選挙活動が課題になった歴史がある。2005年9月11日に行われた衆議院議員の総選挙では、各政党がマニフェストを公表し、それをもとに選挙戦が戦われました。しかし、 もっとも真剣にマニフェスト選挙を訴えた旧民主党が、そのマニフェスト選挙を破壊した歴史もあった。2012年、野田政権は選挙公約したはずの消費税の公約を破棄した。何故なら、当時、社会保険に関する財政基盤が深刻な課題となっていたため、その課題を解決すべく、消費税増額を決めた。確かに、確かな財政基盤を作り上げることもなく、政策を提案するのは間違いである。その意味で、野田政権の言うことも理解できる。しかし、問題は、選挙公約を破棄してまで、消費税を上げるということが、議会制民主主義の中で、問題にならないかという疑問である。野田政権は、まるで、自分だけが日本を救うために、どんな反対があっても「消費税を上げる」と言い出した。そして、自民党と共に消費税を上げた。そのことによって、マニフェスト選挙は消滅した。

民主主義とは、意思決定の過程を重視する制度や文化によって成立している。政党がマニフェストで国民と政策を約束し、国民から委託(1票を投票された)のであれば、その約束(マニフェスト)は、次の選挙まで守らなければならない。それが議会制民主主義の原則である。選挙によって選ばれた経過を無視し、まったくマニフェストに反することをするのであれば、それは、議会制民主主義を無視した行為であると言える。この国は「国民主権」の国であって、「議員主権」の国ではない。だから、選挙を通じて選ばれてた政治家は、日本憲法に謳われている民主主義の基本「国民主権」を簡単に反故にすることは出来ない。それは、約束違反、言い換えると詐欺行為である。

もう一度、マニフェスト選挙の文化、その制度を充実させる色々な仕組み作りを真剣に取り組まなければならない。そうでない限り、政治家はいつまでたっても選挙が来たら、票田の稲穂をどれだけ集めるかということだけに心を奪われ、選挙はでは選挙に勝ことが唯一の目的となり、これまで取り組んできた政策の報告、また、新しい政策への提案を訴える場としての選挙文化は育つことはないだろう。それは、取りも直さず民主主義文化を醸成する制度を失った社会・日本に対して、何もしないことを意味する。今、旧統一教会と政党の関係を問いかける時、単に、関係をもった議員たちを糾弾するだけでなく、それを生んだ構造を問題にし、それを基本的に改革するための努力をしなければ、これからの日本社会の未来はないと思う。


フェイスブック記載 2022年11月2日