2013年6月10日月曜日

「死体とうんこ」

総合地球環境研究所の副所長佐藤洋一郎氏に会ったとき、彼が現代の日本社会では「死体とうんこ」を隠す文化に成っていると話していた。

死体、つまり死、そしてうんこ、つまり生命と生成物の廃棄物はある意味で生命の姿の別の一面でもある。生があるから死がり、生きるすべてが死を待っているともいえる。死体を隠すことは、ある意味で、生を隠すことにならないか。

うんこについても同じようなことが言える。

つまり、生成されたものは利用活用され、そして廃棄される。有用なものが利用され、そして最後に消費され、分子レベルまで分解される。しかし、途中で消費されず、そのまま前の形を留め、または形が破壊され、ごみと呼ばれる廃棄物となっているものがある。

それらの廃棄物は、分解可能であれば、また別の生命体の栄養となる。その繰り返しをエコサイクルとか、食物連鎖とか、生態系とか呼んでいる。しかし、人工物の中には、自然に(生物や化学反応によって)分解されないものがある。それは、厄介なことを生態(生体)環境に引き起こす。

うんこは生命活動の中で生じる廃棄物である。言わば、生命が存在してからずーと生み出された廃棄物である。その廃棄物は最近人間が化学的に造りだした廃棄物とは違う。生態系の中では、その廃棄物は他の生命の栄養となる。また、その生命もその栄養を食べて、新しい廃棄物を生み出す。

つまり、うんこは生命と生命をつなぐ物質として自然の中では活躍している。うんこを生態系の食物連鎖の中に組み入れないシステム、下水処理場は、生態資源の無駄使いをしているともいえる。

また、うんこを隠すことは、生命と生命が食物連鎖によって繋ぎ合っていることを隠すことを意味する。つまり、うんこは生命について考える一つの契機を与えているのである。

「死体とうんこ」を隠す文化は、生命について考える契機を奪い、もしくは、その現実を見つめる機会を与えないようにしているようだ。

死を考える生活スタイルの中に、本当に生きることを知る生活環境や文化が形成されるだろう。 そう考えると冗談のように聞こえる「死体とうんこ」というテーマの深い意味が理解できるかもしれない。


「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html



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