哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2013年7月31日水曜日
旅立ち
三石博行
その時、過去と呼ばれる履歴の先に、約束された未来という新たな予測が消え失せ
目の前は暗黒の世界となる。
もはや、予定された未来はない。
新たに現れた現実は、過去の履歴方程式から一切の未来の解を求めることは出来ない。
私は、過去の時空の切断された暗黒の現実に立たされて
自の決意を後悔する。
もう、元には戻れない。
もう、今までの精神時空の延長線に安堵の世界はない。
私は、目の前の余りにも暗い世界に慄き
今あった確信がことごとく不安の海に沈むのを見る。
もう、元には戻れない。
もう、今まであった生活慣性力の延長線上に私の存在はない。
眼前の暗黒の現実は、私が望んだものではない。
断絶された約束の未来は、私が予測したものではない。
しかし、今、私は暗黒の現実と
過去の履歴からの断絶の道を敢えて選んでしまった。
そして、「僕の前に道はない。 僕の後ろに道は出来る」
と詠うのなら、
日の照らされた希望の路ではないことを覚悟せよ。
夢に溢れた愉快な路ではないことを知れ。
挑戦とは、暗黒の現実の中を、戸惑いながら進むことなのだから。
解説
人には、運命と呼ばれる今まであった過去の世界が突然消えうせる瞬間や、絶望的な現実を受け止めなければならない瞬間がある。また、積極的に今までの生活のしがらみを断ち切り、無謀な旅に出ることもある。それが未来と呼ばれる未知への挑戦なのだ。災害や不幸という運命に立ち向かう人々、進んで過酷な旅に出る人々、そして無謀な旅で命を落した人々。 それらの人々へ、「それでも生きるのだ」、「それでも私は旅にでるのだと」いう叫びの歌を書いた。
2013年7月31日(修正)
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2013年7月19日金曜日
詩にとって表現とは何か
画家笹井孝太氏と詩人寺田悦二氏との出会いの中で
三石博行
画家笹井孝太氏の絵
その画風は暗く、まるで後期ゴヤの作品のように思えた。一人の人間の顔面から強烈な魂が飛び出している。それは、「君は今どう生きているのだ」と問いかけているようだ。
笹井孝太氏のホームページから
http://koutasasaiartstudio.tumblr.com/
寺田悦二氏のFacebookにこの絵がシェアされていた。
https://www.facebook.com/etuji.terada
笹井孝太氏のブログに「私は広島の宮島という島で画家をしながら、スタジオの一部を公開展示スペースにして作品をご高覧、またお求めいただいております。 スタジオは築120年ほどの古民家をお借りして、呼吸するような光のなか、極力自然光で作品をお見せしております。もし宮島へおこしになることがあれば、是非お立ち寄りください。また、お気軽に、お越しの際や、ご質問、また、このブログを通してのご相談や、作品のお求めを上記のメールにてお伝えくださればうれしいです。」(笹井孝太氏のホームページ)と自己紹介されていた。
言語にとって感性とは何か
寺田悦二氏のFacebookを通じて、笹井氏、寺田氏と私の会話が始まった。課題は、敢えてタイトルを付ければ「言語にとって感性とは何か」というテーマとなる。三人の会話をブログ調に編集しなおしてみた。
まず、会話の火ぶたを切ったのは私だった。笹井氏の絵に対して「すごい。何という迫力と問いかけだろうか。」と直感したことばを書き込んだ。
そして、私は、この凄い画家に「笹井さま、芸術や文化はもっともメッセージ力をもつメディアだと思います。言語を超えるもの、そこの人間の感性の原点があります。音楽、絵画や彫刻、演劇、映画、建築、都市、里山等々、人は美しいと感じ、また感激するものに、私たちの精神の基本的なあり方が存在していると思います。この絵を多くの人々に見せたいですね。そして彼が真剣に問いかけているものを感じさせたいですね。」とメッセージを送る。
すると笹井氏から「人間は精神です。最も精神的な媒介は言葉です。言葉には反省が伴います。反省は僕たちの神です。芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。僕たちは言葉を軽視しすぎる傾向にあります。なぜなら言葉をぼくたちは、文化だと思っているからです。言葉は決して文化ではありません。言葉は芸術そのものです。つまり人のいのちです。」とメッセージが返ってきた。
私は嬉しかった。そこで「笹井さま、いいですね。本当に共感できる感性のことばですね。」と返信した。
私は、もう一度、笹井氏の文章を読み直し、そして真面目な寺田氏に答えるために、文章の展開を企画した。その構成は三つから成り立っていた。一つは、笹井氏の問題提起である「言語にとって感性とは何か」、二つ目は、我々三人が問いかけたかった「芸術としてのことばとは何か」という課題、そして最後は寺田氏が求めていた課題「詩にとって表現とは何か」というテーマであった。
「笹井さんの「言葉には反省が伴います。反省は僕たちの神です。」という表現はいいですね。人にとって神(絶対的な存在)もコトバによって作らざるを得ないもの。つまり、我々(本能の狂った動物・神の支配を拒否した動物)は再びその存在を理解するために理性という言葉の機能(文化や精神の構造)によって再確認するしかないのでしょうか。」と私は書いてみた。
しかし、それは彼の「詩をどのようにお考えですか」という質問への入り口にすぎなかった。
つまり、笹井氏の言う「言葉が反省を伴う」という命題は、言葉がその言葉の主体に返された瞬間において成立することを意味すると考えたからだった。
笹井氏の芸術には人間存在への表現という課題があった。
そのため、彼は「芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。」(笹井)と書いたのだろう。
つまり、反省によって感性が「ことば」化するのだと笹井氏は述べている。笹井氏は、反省の意味の深さによって感性が「ことばと」して生まれ変わるのだと考えているのだろう。
そして、イメージ不可能な「感性」が人間存在そのものを問いかける「反省によって把握されるやいなや」、その感性は「ことば」を身につけ、「ことば」に化身することになる。その時、笹井氏は「言葉は芸術そのものです。つまり人のいのちです。」(笹井)という芸術(詩や文学の)表現について語ったのだろうか。
芸術としてのことばとは何か
笹井氏のコメントで直感的にすごいと思える文章は「芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。」という表現であった。
私は、笹井氏に「つまり、道徳とは正と悪を二分する論理を前提にして成立しています。しかし、人の善(前向きに生きる力)は悪(欲望に浸る生命体)の力によって生み出され、悪のない善はなく、善のない悪はない。自らの行為を善と信じることによってどれほどの極悪が繰り返されたか。芸術も哲学もそのことを訴えた。そして欲望(悪)は美として評価され、形式(善)はつまらないものとして飽きられていったのだと思います。」(三石)とコメントした。
そして、「人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。」(笹井)という彼が敢えて逆説的に導こうとした感性とことばとの関係に対して、「笹井さんの考え方もあると思います。しかし、詩人は多分、言語(反省的表現)を超えるために、ことば(感性的表現)を駆使しているように思えます。つまり、ことばに含まれる概念よりもイメージを探し、そのイメージから出てくるコトバの力を引き出そうとしているようです。私は理性的に語られる言葉が好きです。しかし、同時に感性的なことばの力も理解できます。その二つの側面に人間的な精神構造があるように思えます。」(三石)と答えることにした。
この論理の方が、素直だと思ったのだ。
つまり、ことばは多分、人の在り方そのもので、それによって人が始まり、人が終わるようにも思える。「その意味で聖書の一節は意味深い。つまり、人という動物はその存在を維持するために自ら文化(ことば)という生態環境を作らざるを得なかったのだと思う」(三石)と述べた。しかし、この論理は非常にありきたりのものに過ぎない。
詩にとって表現とは何か
これらの前置きは、寺田氏が投げかけた「感性が反省によって把握される」場合において、「感性はことばになる」という笹井氏の考え方に対して、「詩をどのようにお考えですか」という疑問に近づくためのものである。
何故なら、詩人にとってことばは感性的表現だけでなく表現化するための作戦(戦術)でもある。そのことを詩人は知っている。そのために、単純に感性がことばとなると言いきれないのだろう。
私は詩を書くことについて、以前、「詩的に表現することとは何か 詩にとって真実とは何か」、私のブログの中で、詩を書くことの自己欺瞞を書いたことがあった。
それは、死刑囚大道寺将司氏の俳句集「棺一基」を呼んで、ぎりぎりの言葉(ことば)、自己欺瞞をすべてそぎ落としたことばに接したからだった。それについてブログに「言(ことば)が肉となった」を書いた。
寺田氏の答えは明快であった。詩を書く主体でなく、その詩を読む対象者達の感性、つまり「詩の真実とは読む人の感動だと考えます」という返答であった。詩人は自らの感性をそのままことば化する作業をしておけばいいのだ。自分は詩人であると意識する必要はない。それは意識過剰ではないかと寺田氏は言っているのだ。
寺田氏が詩を意識したのは中学生であった。「私(寺田氏)も詩人になろうとはなぜか思いませんでした。むしろ画家に憧れていました。でも結局は詩を書くことに自分の生きる糧のようなものを感じています。今も好きで勝手に書いているだけの者で、普通の会社員です。詩を書くのに特別な条件はいりません。(あなたもただ書けば)いのではないでしょうか」と詩を書きたいが書くことを禁止している私を励ましてくれた。
これまで、私は「ことばをできるだけ詩的な世界から切り離すことを仕事にしてきました。だが、やはり私は詩を書きたい。詩でしか私であり得ない世界がある」ことを知っている。詩を書くことは、詩人になる(意識過剰になる)ことではない。ただ、寺田氏のように書きたいがために書くことに過ぎない行為なのだと理解した。
私は、寺田氏や笹井氏に感謝した。彼らとの出会いで、私はまた詩を書きたいと思った。その詩のスタイルは三石流でいいのだろう。そして、これまで書いたブログの文章で詩となってしまったものに新しく「詩」というタグを作ってみた。
エピローグ
笹井氏から「画家にとって真実とは何か」という内容の文章が送られて来た。
彼は「絵は見ることと筆を動かすことしかありません。目の前に出てきたものにすがったとたん、芸術は力を失います。それはみていたものをみなくなったからです。だから手法手段はどれだけ稚拙でも、みることによって芸術に力を与えることができます。だいたい手段なんて言うものは みな、どっこいどっこいのうそです。でもそれに照応される嘘じゃないものがある。もし手段手法が真実なら、あらわれてくるものは、嘘です。」(笹井)と書いた。
「絵は見ること」によって成り立つ。もし、それをそのまま見ることでなく、それを自分の解釈(ある表現手段を前提にした見方)によって見ようとすることになるなら、絵を見る力は削がれるだろう。その意味で笹井氏は芸術を力を失うと言った。
また彼は、解釈、つまり理解や表現の手段(芸術家達が追い求める作風や流儀)は、どれもとどの詰まり、同じようなものだろうと言い切った。ここまで来ると、画家笹井氏の思想を理解することが困難に思えた。解釈なくして世界を見ることも表現することも出来ない。だが、それよりも前に画家には問われている世界がある。それは「見ること」だと言うのだ。そのままに見ること。
余りにも、技法に囚われていることによって、美は力を失う。これが画家笹井氏の結論であった。そのことは、詩的に表現することが技法でなく、現実の世界と湧きあがることばの照応現象であることによって、「詩にとって真実とは何か」が感じられると彼は、「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」(私のブログ)に対して答えてくれたのだった。
笹井氏は寺田氏や私が問いかけた「詩にとって表現とは何か」の答えを画家としての生活の中から語りかけてくれたのだった。
引用、参考資料
寺田悦二氏のFacebook
https://www.facebook.com/etuji.terada
笹井孝太氏のホームページ
http://koutasasaiartstudio.tumblr.com/
三石博行 「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_4925.html
三石博行 「言(ことば)が肉となった」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_17.html
NHKETV特集「失われた言葉を探して」2012年4月15日 辺見庸出演
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0415.html
大道寺将著 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)
http://mmall.jp/item/170872390?aff_id=src0101&l=true
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三石博行
画家笹井孝太氏の絵
その画風は暗く、まるで後期ゴヤの作品のように思えた。一人の人間の顔面から強烈な魂が飛び出している。それは、「君は今どう生きているのだ」と問いかけているようだ。
笹井孝太氏のホームページから
http://koutasasaiartstudio.tumblr.com/
寺田悦二氏のFacebookにこの絵がシェアされていた。
https://www.facebook.com/etuji.terada
笹井孝太氏のブログに「私は広島の宮島という島で画家をしながら、スタジオの一部を公開展示スペースにして作品をご高覧、またお求めいただいております。 スタジオは築120年ほどの古民家をお借りして、呼吸するような光のなか、極力自然光で作品をお見せしております。もし宮島へおこしになることがあれば、是非お立ち寄りください。また、お気軽に、お越しの際や、ご質問、また、このブログを通してのご相談や、作品のお求めを上記のメールにてお伝えくださればうれしいです。」(笹井孝太氏のホームページ)と自己紹介されていた。
言語にとって感性とは何か
寺田悦二氏のFacebookを通じて、笹井氏、寺田氏と私の会話が始まった。課題は、敢えてタイトルを付ければ「言語にとって感性とは何か」というテーマとなる。三人の会話をブログ調に編集しなおしてみた。
まず、会話の火ぶたを切ったのは私だった。笹井氏の絵に対して「すごい。何という迫力と問いかけだろうか。」と直感したことばを書き込んだ。
そして、私は、この凄い画家に「笹井さま、芸術や文化はもっともメッセージ力をもつメディアだと思います。言語を超えるもの、そこの人間の感性の原点があります。音楽、絵画や彫刻、演劇、映画、建築、都市、里山等々、人は美しいと感じ、また感激するものに、私たちの精神の基本的なあり方が存在していると思います。この絵を多くの人々に見せたいですね。そして彼が真剣に問いかけているものを感じさせたいですね。」とメッセージを送る。
すると笹井氏から「人間は精神です。最も精神的な媒介は言葉です。言葉には反省が伴います。反省は僕たちの神です。芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。僕たちは言葉を軽視しすぎる傾向にあります。なぜなら言葉をぼくたちは、文化だと思っているからです。言葉は決して文化ではありません。言葉は芸術そのものです。つまり人のいのちです。」とメッセージが返ってきた。
私は嬉しかった。そこで「笹井さま、いいですね。本当に共感できる感性のことばですね。」と返信した。
私は、もう一度、笹井氏の文章を読み直し、そして真面目な寺田氏に答えるために、文章の展開を企画した。その構成は三つから成り立っていた。一つは、笹井氏の問題提起である「言語にとって感性とは何か」、二つ目は、我々三人が問いかけたかった「芸術としてのことばとは何か」という課題、そして最後は寺田氏が求めていた課題「詩にとって表現とは何か」というテーマであった。
「笹井さんの「言葉には反省が伴います。反省は僕たちの神です。」という表現はいいですね。人にとって神(絶対的な存在)もコトバによって作らざるを得ないもの。つまり、我々(本能の狂った動物・神の支配を拒否した動物)は再びその存在を理解するために理性という言葉の機能(文化や精神の構造)によって再確認するしかないのでしょうか。」と私は書いてみた。
しかし、それは彼の「詩をどのようにお考えですか」という質問への入り口にすぎなかった。
つまり、笹井氏の言う「言葉が反省を伴う」という命題は、言葉がその言葉の主体に返された瞬間において成立することを意味すると考えたからだった。
笹井氏の芸術には人間存在への表現という課題があった。
そのため、彼は「芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。」(笹井)と書いたのだろう。
つまり、反省によって感性が「ことば」化するのだと笹井氏は述べている。笹井氏は、反省の意味の深さによって感性が「ことばと」して生まれ変わるのだと考えているのだろう。
そして、イメージ不可能な「感性」が人間存在そのものを問いかける「反省によって把握されるやいなや」、その感性は「ことば」を身につけ、「ことば」に化身することになる。その時、笹井氏は「言葉は芸術そのものです。つまり人のいのちです。」(笹井)という芸術(詩や文学の)表現について語ったのだろうか。
芸術としてのことばとは何か
笹井氏のコメントで直感的にすごいと思える文章は「芸術は常に道徳を超えたところにありますが、文化は道徳の範疇にとどまるか、または道徳からの堕落です。」という表現であった。
私は、笹井氏に「つまり、道徳とは正と悪を二分する論理を前提にして成立しています。しかし、人の善(前向きに生きる力)は悪(欲望に浸る生命体)の力によって生み出され、悪のない善はなく、善のない悪はない。自らの行為を善と信じることによってどれほどの極悪が繰り返されたか。芸術も哲学もそのことを訴えた。そして欲望(悪)は美として評価され、形式(善)はつまらないものとして飽きられていったのだと思います。」(三石)とコメントした。
そして、「人間の感性は言語を超えるものではなくてむしろその後退だと僕は思います。僕たちは感性をイメージすることはできません、感性が反省によって把握されるやいなや、感性はことばになります。」(笹井)という彼が敢えて逆説的に導こうとした感性とことばとの関係に対して、「笹井さんの考え方もあると思います。しかし、詩人は多分、言語(反省的表現)を超えるために、ことば(感性的表現)を駆使しているように思えます。つまり、ことばに含まれる概念よりもイメージを探し、そのイメージから出てくるコトバの力を引き出そうとしているようです。私は理性的に語られる言葉が好きです。しかし、同時に感性的なことばの力も理解できます。その二つの側面に人間的な精神構造があるように思えます。」(三石)と答えることにした。
この論理の方が、素直だと思ったのだ。
つまり、ことばは多分、人の在り方そのもので、それによって人が始まり、人が終わるようにも思える。「その意味で聖書の一節は意味深い。つまり、人という動物はその存在を維持するために自ら文化(ことば)という生態環境を作らざるを得なかったのだと思う」(三石)と述べた。しかし、この論理は非常にありきたりのものに過ぎない。
詩にとって表現とは何か
これらの前置きは、寺田氏が投げかけた「感性が反省によって把握される」場合において、「感性はことばになる」という笹井氏の考え方に対して、「詩をどのようにお考えですか」という疑問に近づくためのものである。
何故なら、詩人にとってことばは感性的表現だけでなく表現化するための作戦(戦術)でもある。そのことを詩人は知っている。そのために、単純に感性がことばとなると言いきれないのだろう。
私は詩を書くことについて、以前、「詩的に表現することとは何か 詩にとって真実とは何か」、私のブログの中で、詩を書くことの自己欺瞞を書いたことがあった。
それは、死刑囚大道寺将司氏の俳句集「棺一基」を呼んで、ぎりぎりの言葉(ことば)、自己欺瞞をすべてそぎ落としたことばに接したからだった。それについてブログに「言(ことば)が肉となった」を書いた。
寺田氏の答えは明快であった。詩を書く主体でなく、その詩を読む対象者達の感性、つまり「詩の真実とは読む人の感動だと考えます」という返答であった。詩人は自らの感性をそのままことば化する作業をしておけばいいのだ。自分は詩人であると意識する必要はない。それは意識過剰ではないかと寺田氏は言っているのだ。
寺田氏が詩を意識したのは中学生であった。「私(寺田氏)も詩人になろうとはなぜか思いませんでした。むしろ画家に憧れていました。でも結局は詩を書くことに自分の生きる糧のようなものを感じています。今も好きで勝手に書いているだけの者で、普通の会社員です。詩を書くのに特別な条件はいりません。(あなたもただ書けば)いのではないでしょうか」と詩を書きたいが書くことを禁止している私を励ましてくれた。
これまで、私は「ことばをできるだけ詩的な世界から切り離すことを仕事にしてきました。だが、やはり私は詩を書きたい。詩でしか私であり得ない世界がある」ことを知っている。詩を書くことは、詩人になる(意識過剰になる)ことではない。ただ、寺田氏のように書きたいがために書くことに過ぎない行為なのだと理解した。
私は、寺田氏や笹井氏に感謝した。彼らとの出会いで、私はまた詩を書きたいと思った。その詩のスタイルは三石流でいいのだろう。そして、これまで書いたブログの文章で詩となってしまったものに新しく「詩」というタグを作ってみた。
エピローグ
笹井氏から「画家にとって真実とは何か」という内容の文章が送られて来た。
彼は「絵は見ることと筆を動かすことしかありません。目の前に出てきたものにすがったとたん、芸術は力を失います。それはみていたものをみなくなったからです。だから手法手段はどれだけ稚拙でも、みることによって芸術に力を与えることができます。だいたい手段なんて言うものは みな、どっこいどっこいのうそです。でもそれに照応される嘘じゃないものがある。もし手段手法が真実なら、あらわれてくるものは、嘘です。」(笹井)と書いた。
「絵は見ること」によって成り立つ。もし、それをそのまま見ることでなく、それを自分の解釈(ある表現手段を前提にした見方)によって見ようとすることになるなら、絵を見る力は削がれるだろう。その意味で笹井氏は芸術を力を失うと言った。
また彼は、解釈、つまり理解や表現の手段(芸術家達が追い求める作風や流儀)は、どれもとどの詰まり、同じようなものだろうと言い切った。ここまで来ると、画家笹井氏の思想を理解することが困難に思えた。解釈なくして世界を見ることも表現することも出来ない。だが、それよりも前に画家には問われている世界がある。それは「見ること」だと言うのだ。そのままに見ること。
余りにも、技法に囚われていることによって、美は力を失う。これが画家笹井氏の結論であった。そのことは、詩的に表現することが技法でなく、現実の世界と湧きあがることばの照応現象であることによって、「詩にとって真実とは何か」が感じられると彼は、「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」(私のブログ)に対して答えてくれたのだった。
笹井氏は寺田氏や私が問いかけた「詩にとって表現とは何か」の答えを画家としての生活の中から語りかけてくれたのだった。
引用、参考資料
寺田悦二氏のFacebook
https://www.facebook.com/etuji.terada
笹井孝太氏のホームページ
http://koutasasaiartstudio.tumblr.com/
三石博行 「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_4925.html
三石博行 「言(ことば)が肉となった」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_17.html
NHKETV特集「失われた言葉を探して」2012年4月15日 辺見庸出演
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0415.html
大道寺将著 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)
http://mmall.jp/item/170872390?aff_id=src0101&l=true
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2013年7月15日月曜日
我が家の庭にひまわりが咲きました
今年の春に、6、7年前にもらったひまわりの種を植えてみました。多分、袋に発芽は5年以内でない無理と書かれてあったのですが、せっかくもらったひまわりの種、捨てるのはもったいないと種を蒔いてみました。
すると、ほとんどすべてが発芽し、みるみる大きくなり、高いのは2.5メートルぐらいに成長しました。
そして7月になって開花しました。ちょうど、日本ではじめて「緑の党」が国政選挙に打って出た7月4日には大きく咲いていました。今日はほとんどのひまわりが咲いています。
グリーンジャパン・みどりの党共同代表者「長谷川ういこさんのポスター」(全国比例区)と一緒に写真をとりました。
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すると、ほとんどすべてが発芽し、みるみる大きくなり、高いのは2.5メートルぐらいに成長しました。
そして7月になって開花しました。ちょうど、日本ではじめて「緑の党」が国政選挙に打って出た7月4日には大きく咲いていました。今日はほとんどのひまわりが咲いています。
グリーンジャパン・みどりの党共同代表者「長谷川ういこさんのポスター」(全国比例区)と一緒に写真をとりました。
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