2022年9月2日金曜日

事象としての私 (詩)

事象としての私 (詩) | 三石博行

三石博行




今、ここに、私の感覚として存在している事象
思索や思惟、意識という私
ことばの運動としての観念
それらがふと消え
意識化運動が止まるとき
今、ここにある事象としての私
それも消えてゆく

言語活動としての私
ただある世界、感覚化された事象
ただある私、言語化された意識
それは、今まで、感じてきた
現実という私の存在
それらがふと消え
感覚としての私が消滅するとき
今、ここにある世界
     それも消えてゆく

思索している私
知識や概念を理解しよとしている私
多くの情報を得ることを求められてきた私
知り、理解し、解釈し
その上で得られる私の確証
自分の居場所を保障されている私
私が信じた真実の共同幻想
私が確信した現実の集団表象
それらがふと消え
私の居場所が無くなるとき
今、ここにある共感
それも消えてゆく

人が死を前にしたとき
誰も、何も自分を語る暇などない
誰も、何も世界を説明する余裕もない
ただひたすらに、思うこと
それは、「私」が「今、ここに存在している」こと
それは、「私」が「今、ここに感じている」こと
それだけなのだ

そして、私の前で、雲は流れ
そして、私の中で、歌が聞こえる


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ふと私を襲った不思議な感覚、そこにあるもの、見えているもの、それだけであった。視覚的な世界と意味の世界がまるで分離しているような感覚。その時、私は死について考えた。人は、死ぬとき、死ぬ瞬間に、私が吸い込まれる世界をどのように感じるだろうか。それは、意味化される前の事象として私に現れ、私をその中に吸い込んでしまう。ただそれだけだろうか。

そうすると、今、生きている私、この一亥の中で確かに目的をもってそれを何とかしようとしている私、しかし、それらは、私の生ている現実から観れば、言語や表象の中で蠢いている観念、意識なのかもしれない。

どこかで流れている歌(「いつも何度でも 「千と千尋の神隠し」」の歌詞(覚和歌子作)の一節、「生きている不思議、死んでいく不思議、花も風も街も みんなおなじ・・・・」が脳裏をかすめた。

近江『詩人学校』 2022年7月号投稿 facebook 記載 2021年7月12日

三石博行詩集 『心象色彩の館』

詩作というあそびのなかで (詩)

三石博行


詩が生まれる世界
ことばが羽をもち
ことばが衣を脱ぎ捨て
ことばがジャングルジムを駆け巡り
詩作という遊びが始まる

詩が生まれる時
疑問符の論理はどこかに行き
探求の脅迫概念は眠りにつき
調査の責務は無色の空気に吸い込まれ
詩作という遊びがはじまる

詩が生まれる私
今日は、暖かい孤島の砂浜で
今日は、美しい大河の岸辺で
今日は、清々しい高原の丘で
詩作という遊びがはじまる

詩が生まれる日々
私は、仕事はしません
私は、楽しい空想にふけります
私は、ことばとじゃれ合っているのです
詩作という遊びがはじまる


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何故、私は詩を書くのか。それは、簡単で、ただ詩を書きたくなるから書くだけなのです。ことばは色々あり、社会的責任(社会性)、論理的整合性(科学的説明)、共同主観的合意性(常識)等々。しかし、詩を書くときは、ことばたちは、妄想や、ことば自身の遊びのなかを、勝手気ままに走り回っている。だから、その姿をそのままに、表現させてあげてもいいと思うのです。それは、ある意味で無責任なことばの遊びの世界かもしれない。それでいいではないか。ことばも遊びがいるのだと、思うのです。

facebook 記載(2021年7月16日)


三石博行詩集 『心象色彩の館』