2010年3月2日火曜日

失敗は成功の母(中国の言葉らしい)

三石博行


失敗学の成立条件


人は不完全な存在である。常に過ちを犯すものである。そのことを認めなければ、人が失敗を犯すことを許すことはできない。自分の経験を振り返っても、失敗のなかった毎日もなく、失敗の連続であったとも言える。失敗をすることを認めないということはとうていできない。

では、なぜ人は失敗を責めるのだろうか。つまり、不可避的な人間的行為を責めるのは、その結果によって多くの被害が生じているからだろう。他人に迷惑が掛からない自分だけの失敗であれば、おおらかに失敗したことを笑って済ませられるだろう。しかし、多くの場合、失敗とは少なくとも自分以外の誰かに迷惑を掛ける結果と結びつくのである。

失敗を責める心を持つことで、他者との関係を維持することができる。失敗を責める心の一つを倫理と呼んでいる。その基本は他者に迷惑を掛けないというこころである。しかし、失敗することが避けがたい人間的行為であるなら、倫理とは実現不可能な生き方の目標であるといえるだろう。

換言すれば、この実現不可能な目標を持つことで、人は現実の自分に立ち向かっていくことになる。失敗する人間性と失敗を許さない倫理性の狭間で、その矛盾の中で、つねにその問題を抱えながら、人は現実の自己と理想の自己に鍛えられながら「豊かに生きる」ことができる。それらの葛藤は、「生活の質」を向上するための生活運動として、その倫理観として、点検とよばれる人間的行為として、存在する。

失敗という経験を基にしながら、もっと豊かな生き方を見つけ出すことはできないか。「失敗は成功の母である」(知り合いの中国のお医者さんから聞いたのだが)という命題を成立させるために、「失敗学」という学問がある


失敗はみんなの財産、失敗点検という仕事

失敗を貴重な体験として位置づけ、その経験を個人の能力や技能の点検のみでなく、共に働く仲間と失敗の原因追求を共有しようとする試みである。

失敗学の問いかける思想は、企業利益を先行する現代社会の在り方を点検し、人が社会生産の資源であることを教え、それを実現する方法を教えるだろう。その第一命題が、個人の失敗経験を仲間で共有するという考え方である。

何故なら、自分の「生活の質」の向上(生きがいや生活経済の安定)と他者の生活の質を向上するための仕事(サービスの質)は同次元に存在している。そのことを理解する作業が労働である。労働の質を向上させるために存在しているのが失敗学である。不可避的失敗行為を前提にして、失敗頻度を最小限に食い止める努力は、失敗の反省を個人的行為からより社会化することによって可能になる。

つまり、失敗を労働と同次元に引き上げて、労働という社会的行為の地平で問題化することで、より効果的な解決を見つけ出すことが可能になる。

全ての仕事は、結果的には他人の生活や生命にかかわることになる。その仕事への責任を、個人の問題でなく、共に働き生活する全ての人々と分かち合うことで、失敗の反省が個人的モラル活動から社会生活運動に変化する機会を得るのである。そして、失敗の反省という仕事が成立する。それが失敗学の目指す課題である。


失敗を記録する生活・企業文化

失敗学は現実主義の人間観を前提にして成立している。失敗学は、同時に具体的な技術学である。失敗学が進歩するためには、色々な技術開発が必要となる。

その一つの例として、医療機関で取り組まれている失敗記録「ヒヤリハット」がある。この「ヒヤリハット」に関する理解が、失敗に対する始末書と理解されているなら、まさしく、事業主や経営執行部の失敗である。まず、「ヒヤリハット」を書くにあたって、上司は彼らの部下に対して、その意味を説明しなければならない。上司がその意味を理解していない限り、「ヒヤリハット」は「始末書」となる。

さらに、「ヒヤリハット」を書くために企業は従業員に対して、少なくともその意味を説明するだけでなく、「ヒヤリハット」を企業が悪用しないこと、書いた結果で不利を従業員が受けないことを契約しなければならないだろう。つまり、「ヒヤリハット」を書くことは従業員の信頼の上に成り立つのである。

「ヒヤリハット」は失敗学を現実に適用するための技術の一つである。「ヒヤリハット」には書き方の基準はなく、自分なりの失敗に対する姿勢が問題になるが、それを育てるのは組織である。失敗に対する姿勢を涵養することが企業の課題となり、企業モラルの形成に展開していく。

企業がそのことを事業の一つとして受取り、企業モラルを形成する活動を行うこと、その社風(企業文化)形成に投資することが、結果的に企業利益となることを理解しなければならないだろう。

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