2010年3月9日火曜日

人工物プログラム科学論の役割

三石博行


科学性の検証作業としての科学哲学(人工物プログラム科学論)の役割

人間社会科学は科学である以上、それを研究する時代性や文化社会性をもつ研究者の行為(研究と呼ばれる生活行為)によって成立している。換言するば、人間社会科学研究も、時代性に限定された主体と対象、それを構成している様相と実在の時代的社会的文化的要素に関する調査研究である。

すなわち、生活者である人間の行為から時代性社会的文化性を分離することが出来ない以上、知的生産行為を担う人間社会科学行為も、同じように時代性や文化性に規定されていることになる。しかし、人間社会科学の研究者にとって、自己の社会的文化的、そして時代的な精神構造の分析が研究課題ではない限り、研究主体のその制約条件を理解することは難しいことである。

人間社会科学、知的生産活動を日々行う人々、それらの研究とよばれる生活活動の中で、その研究対象である人間社会や文化の中に含まれている研究者の世界観、または研究者が観察している世界の認識評価のあり方が、その観察している世界を構成している要素、時代精神に依拠することを、その生活活動としての研究の中で、対自化することができるだろうか。それは、鏡のない空間で、自分の顔が見えますかと質問していることと同じように、無理な認識を要求していることに似ている。

そもそも、科学行為・知的生産行為の最中に、その生産主体の精神構造を分析するように要求しているのである。一般に精神分析家は、患者のために精神分析しているので、精神分析をしている自分の精神分析までは気は回らないだろう。

人間社会科学の時代性や文化性を理解認識するために「人間社会科学に関する科学認識論や科学哲学」がある。その学問は科学哲学と呼び、その学問は人間社会科学の科学性に関する哲学的研究の方法論によって成立する。今日、それらの学問分野を人間社会科学哲学(基礎論)や人工物プログラム科学論と呼んでいる。

そのため、人間社会科学はそれらの時代性や文化社会性を、人間社会科学哲学(基礎論)や人工物プログラム科学論の研究に委ねる。時代性や文化社会性に束縛された研究者がその束縛条件を前提にして成立している人間社会科学の理論研究の自己限界性を了解する上で、それらの研究者は、その人間社会科学の科学性点検作業の必要性を認めるのである。

例えば、ある時代の歴史的事件を研究する歴史学では、過去の文献や資料収集とそれに基づいた分析が行われる。科学である以上、事実を裏付ける物的証拠を根拠にしなければ歴史分析も解釈作業も不可能である。厳密な科学として歴史学はこれまで築かれてきた。

しかし、歴史研究を行っている時代からそれよりも過去を了解する研究者の、その時代性(精神)を、その歴史研究の最中に対自化することは困難である。彼が文献や考古学的研究から調査した過去の世界が「客観的」であると主観的に了解するのは当然であるが、しかし、その了解を彼の(研究者の)時代性や社会文化性に相対化することは、彼の研究途上作業である歴史学の課題ではない。

それらの課題は、つまり歴史学に対する科学哲学の役割であるといえる。しかし、歴史学研究が歴史学に関する科学哲学を必要としているのだろうかという課題がある。例えば歴史学が用いる歴史解釈、歴史学方法論、歴史的遺跡や文献調査の方法、それらの解釈の仕方等々を批判的に検討する課題は、歴史学から要求されているだろうかということである。もし、そのような要求がなければ、哲学が勝手に、科学に対して、科学哲学の必要を説いているだけであると言えよう。

人間社会科学は、人間的行為とその産物によって形成された世界(社会文化構造や機能、制度や役割、文字や言語、価値や美意識等々)に関して調査分析研究する学問(これまた知識化という人間的行為とその産物)である。これらの課題は時代とともに変化してきた。今、人間社会科学が対象とする世界は「科学技術文明社会」である。これまでの人間社会科学の対象であった世界(社会文化構造や機能、制度や役割、文字や言語、価値や美意識等々)が科学技術文明社会という様相の中で、今までと異なる。

例えば、現在の社会が、今までと異なる社会機能によって運営展開されている。例えば、技術革新、知的労働、研究開発商品、研究研究者集団、科学ジャーナリズム、高等教育の大衆化等々。それらの新しい社会文化的現象に対して、社会学は単にこれまでの科学技術社会学を導入することで、この新しい社会文化を認識評価し、その社会が必要としている問題に答えを出すことができるだろうか。これまでの社会学で培われた理論、社会行為、制度や役割に関する蓄積は、科学技術社会学にどのように継承されるのだろうか。

こうした疑問に答えるには、一つ一つの社会学分野をそれぞれの具体的研究活動の最中で見つめることでなく、問われる社会的文化的課題から、俯瞰的に見つめる視点が必要となる。それを、吉田民人は人工物プログラム科学論と呼んでいた。人間社会科学の科学哲学の必要性は、科学技術文明社会での伝統的、つまりこれまでの人間社会科学の有効性が問題になっていることが前提となる。

参考
三石博行のホームページ 「人間社会科学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html


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