2015年7月3日金曜日

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」


どの分野でも言えることかもしれないが、理論的に考えること、物事の基本構造を理解するための方法や論理を見つけることは、大切なことだと思う。それが出来ていることによって、応用問題を解くことが出来る。生活の中で問われることは、多くの場合、応用問題のようなものである。

つまり、柔軟な発想や状況に適した処置は、その場その場の対応ではなく、多分、物事の本質を理解し、その解決を状況に照らしながら行うことが出来ることを意味している。もし、思想や哲学を課題にする人々が日常の中で生じる事象に対して適切な対応が出来ないといことを、それらの思想問題や哲学的課題と理解していないなら、多分、それらの思索や研究は殆どが意味を成さないものではないだろうか。

私は、思想や哲学を日常生活の改善のための道具として位置付けて来た。その考え方は、日本の大学での哲学研究では主流ではないと思える。現在では少なくともそのことは変化しつつあると思われるが、西洋の哲学という学問を輸入し、近代日本の思想を構築してきた日本では、哲学研究の大半が「哲学史の研究」であった。哲学者とは「哲学史研究者」であり「過去のそして他所の哲学者の研究の紹介者・翻訳者であり解釈者」であった。

しかし、最近、少し変わってきた。哲学者と呼ばれる人々が、自らも哲学者と自称しながら、テレビ番組の社会評論や文化評論に他の分野の人々と共に、社会や政治、時にはスポーツについてまで評論・コメントしている。それを観ている大学哲学人は、嫌な感情を持っているかも知れないが、世間が、哲学者と自称している人々に歴史哲学の話でなく、今の世の中のことを話してくれと言っていることには違いはない。

その意味で、日本の哲学は、大学から変わるのでなく、世の中の人々の哲学に対する要求によって変わるのだろうと思った。哲学は常に反哲学的(哲学的であることを否定すること)であることによって、その哲学の存在意義を深める。思想は生活や社会実践に活かされ、かつ点検されることによって、その意味を理解される。日本の哲学が形成されるとすれば、それは大学からではない。多分、人々の生活運動と呼ばれる新しい時代に向かう生活文化活動とそれに向き合う自己探求の中から生まれるのだと思う。

2015年7月3日facebook記載

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