はじめに
科学技術文明社会の中で生活学の教育が問われている。伝統的な教育のあり方や生活学の歴史を振り返りながら、現代社会の課題にコミットする教育の方向について考察する。この論文は、2006年9月7日、フランス、ストラスブール、フランス文部省仏日大学館にて、ルイ・パストゥール大学と高等教育研究会等の共催で開催された日仏共同シンポジューム「大学とその社会機能」で仏語で発表した原稿の一部を日本語訳して記載したものである。
1-1. 実学(問題解決学)
問題解決力のある知識と技術を探求する学問を「実学」( la science pratique)と呼ぶ。実学の代表的なものとして、工学、農学、医学、経営学、政策学等がある。家政学・生活学も、現実の生活空間で生じている課題を解決するための知識と技術であるので、実学と呼ばれている。
実学は生産現場で、より良い商品やより有効な技術の開発と結びつく学問である。生活関連産業の生産活動で開発される消費者に歓迎される商品の開発研究、生活支援活動や生活改善運動で提案される技術や知識によって、家政学・生活学は発展して来た。
1-2. 社会文化歴史依存性
実学である生活学の知識や技術では、どの時代を通じ、またどの文化や社会を通じて、普遍的に成立する内容を追及することを目的にしていない。つまり、現実の問題をプラグマチィズム的に解決する知識や技能は問題になる。
その意味で、家政学・生活学は時代や社会文化に規定された生活資源を対象とする学問で、その知識と技術は時代的に社会文化的に有効であると言う条件が、この学問の成立条件に存在している。ある特定の時代や社会文化の条件で成立している課題の解明が常にこの学問活動の目的となっている。
例えば、先進国で研究されている食生活改善に関する家政学・生活学の知識や技術が、必ずしも発展途上国で必要とされているものであるとは限らない。その点から考えると、実学の中で家政学・生活学の研究は社会文化や歴史の条件に非常に規定された学問であるといえる。
工学や医学など、他の実学では、先端の知識や技術は先進国や発展途上国に限定されないで、社会文化的な制約に規定されないで、同時代的にどこでも共通する課題が存在している。勿論、工学や医学も生活の現場により近づくことによって、家政学・生活学と同じように、同時代であれ、その学問も社会文化的に異なる課題が問われることになる。
家政学・生活学が、時代や社会文化の違いによって、異なる問題に関心を持つことは、その学問の基本的な成立条件と関係する。つまり、家政学・生活学は、生活資源の時代的、文化的、そして社会的な制約や状況の中で、その資源の改善を課題にして成立している学問である。そのため、その研究は、必然的にある特定の時代性や社会文化性に依拠することになる。
家政学・生活学の知識や技術の社会文化歴史的な依存性は、その学問のあり方に必然的に付随したものである。その学問の成立条件であると言える。
1-3. 考現学 Modaneology
考現学とは今和次郎が命名した生活学の方法論を意味する。考現学は、同時代の生活文化現象を、生活素材を中心に分析する方法である。つまり、考現学は研究者の生きた時代、研究した時代に限定して、それから過去にも未来にも対象を拡張しないことを前提にして成立している学問である。
その意味で、考現学は、厳密に家政学・生活学の科学性を特徴付けている。つまり、同時代の生活空間への関心は、その目的が極めて直接的に同時代の生活空間の改善に向けられていたからである。
この今和次郎の提案した考現学としての生活学の方法論は、さらにもう一つの科学性について理解を深める機会を与える。つまり、生活学の研究主体は、その研究対象である生活環境の同時代のしかも同質の社会文化観念形態によって形成されているということと、さらに研究対象が、同時代の同質の社会文化観念形態である研究主体によって分析されているという、限定条件をそのまま受け入れて、生活学の科学性が成立しているのである。この生活主体と研究対象を構成する観念形態の同時性の認識が、考現学の科学性のあり方を理解する基本となる。
二つの疑問から、考現学の科学認識論は展開する。
過去の考現学について見ると、その時代の生活学を理解すると同時に、その考現学の研究者の姿も理解できないだろうか。
また、生活学に、厳密に同時代性の限定を与える意味はどこにあるのだろうか。
他の人文社会学において必ずしも、研究対象とその分析主体の時代、社会文化構造は同一であるという条件が成立しているとは限らない。例えば歴史学は現時代の研究主体が、過去の事象を対象にする。それは現在からの過去の事象や出来事への解釈学である。また、民族学や文化人類学や比較社会学や比較文化論でも、ある文化に属する研究主体が他の文化や文明に所属する社会文化を対象とする研究である。そこでも文化的位相の異なる二つの世界の差異によって成立する分析や解釈を前提としている。
家政学・生活学は今和次郎が用いた科学方法論である「考現学」によって成立している学問である。考現学でない家政学・生活学は存在しない。異なる文化での生活の比較研究や家政や生活の歴史研究は、現実の生活改善の課題を取り上げているという家政学・生活学の課題から外れており、家政学・生活学ではない。
家政学・生活学では、生活主体を構築している観念構造、つまり時代的社会的文化的な精神構造によって生み出された対象を研究している科学であると言える。その意味で、対象化されている構造の中に、実際は対象化している世界の観念構造が存在しているともいえるのである。そのため、家政学・生活学では研究主体を対自化するための手がかりがまったく存在しない。
つまり、家政学・生活学と哲学や科学認識論は対極にあると言える。つまり一方は、生活主体は対自化されることはない。つねに問題にされることは生活環境の改善に対して解決力のある知識や技術である。その解決力が家政学・生活学の知識の評価になる。そして他方は、生活主体の生き方や考え方が問題になる。生活環境の改善の前に生活主体の変革が課題になる。そのため生活主体の生活世界の認識のあり方が問われるのである。
同時代性を科学の厳密な成立条件にする考現学としての生活学は、その逆説を観単に導くことを許す。つまり、この科学は認識論や哲学的な介入口を一切、科学方法論的に拒否するが故に、この科学性の分析は、この科学、つまり考現学としての生活学の領域以外のところに行くしかないことを示している。この生活学の領域から徹底的に離れることが、つまり考現学的方法から離れ、反考現学、反省学の領域に考現学に関する科学認識の次元を作り上げない限り、考現学の科学認識は不可のであることに気付くのである。
2. 家政学・生活学研究教育の歴史と現代の課題
2-1। 近代国家形成と科学的家事教育の形成
近代国家の形成を目指した明治政府は、19世紀後半、初等教育の義務教育制度を確立し、工業生産を支える労働力を育成した。初等教育で裁縫を中心にした家事教育も導入された。また良妻賢母教育を進めるための中等教育の教員養成が東京高等女子師範学校(現在の御茶ノ水女子大学)と奈良高等女子師範学校(現在の奈良女子高等師範学校)の設立で進んだ。
良妻賢母教育は富国強兵政策を進める明治政府の利益と一致する。つまり、健康な男子を軍隊は必要し、健康な労働力を産業は必要とし、また健康な新生児を産む健康な母体を国家は必要としている。家事労働の質の向上によって、軍隊や産業の必要な健康な男子、女子の養成が可能になる。近代日本を支える健康な勤労者国民を生産する技術が良妻賢母である。
家事技能の科学的な研究は、近代国家の発展とって重要な課題である。家事技能を向上させることによって、工業社会の生産力を担う健康な労働力を再生産することが可能になる。高等教育での家事科の設置によって、裁縫、育児、栄養、休養に関する技能の研究をより科学的に探求する活動が始まった。
つまり、近代化は国家の政策であるが、資本主義社会の充実は、豊か二次生活資源の存在とその増殖機能の確立である。欧米の社会と異なり、19世紀後半期から始まる日本の近代化や資本主義社会の発展過程は、市民社会の形成とその経済活動、つまり二次生活資源の蓄積によって生じた結果ではない。むしろ欧米の列強に植民地主義から国土を守るため国家の富国強兵政策によって推し進められたものである。その結果として国家指導の資本主義は発展する。そして同時にその結果として豊かな生活を形成し発展するための二次生活資源が生み出される。
この時代では、国家の利益に一致する限りにおいて生活改善の研究、家政学の成立条件が存在し、また家事教育が可能になったと言える。
2-2. 生活環境改善のための生活学・家政学の専門化
A.生活病理(貧困) の解明と生活学の形成
20世紀のはじめに、国家指導の近代化政策や資本主義化によって、資本主義経済を始動するために必要な二次生活資源の蓄積(本源的蓄積)は進み、市民の経済活動を中心として資本主義化が進む。資本主義社会では、まず二次生活資源の増殖機能を作り出す工業生産を中心とした二次産業が興る。同時に工場労働者や都市人口の増加によって二次生活資源の重要は増加する。新興産業の発展と都市の人口増加によって社会の二次生活資源は豊富になる。.
今和次郎は、1911年の関東大震災の罹災者の生活復旧支援活動に取り組んだ。この活動を通じて考現学は形成する。また、その後、生活学は生活病理の解明とその対策の学問として展開される。当時の生活病理の生活構造論の要因は貧困であった。今和次郎は、生活の貧困の現状を生活素材の調査によって示す。科学的に解決するために登場する。戦中、篭山京は、貧しい勤労者を救済するために、生活構造論を提案する。戦後、貧困から生活者を守るために、生活構造論、生活システム論が展開された。
20世紀前半の二次生活資源が豊富になる日本社会で日本の生活学が生まれ発展する。豊かな生活環境をつくり出すために必要とされた生活学の教育は二次生活資源に属する。また、生活学史を生活資源史観の視点で解釈するなら、二次生活資源を必要としる社会が登場することによって、生活学が形成したと言えるのである。
B.戦後民主主義教育と家政学教育
戦後民主主義教育の中で、アメリカで形成され発展したHome Economicsが日本の女子教育の中心的な課題として取り入れられる。家政学教育は、家事をより合理的で科学的な視点から理解し、改善し、より豊かな内容に変えることを目的にして取り組まれる。
戦後、1958年、日本の中学校で「技術・家庭」が導入された。技術は男子に対して「工業技術を中心とした生産技術の基礎を学習する」ことが、また家庭は女子に対して「家庭生活技術を中心として学習する」ことが教育課題になった。
1989年の高等学校での学習指導要綱に即して、1994年から家庭一般、生活一般と生活技術の科目が高等学校の家庭科の教育が導入された。生活技術では、生活一般の教育内容に加えて、「家庭生活と情報」「家庭生活と電気や機械」「家庭園芸」の教科内容が組み込まれている。
C.家政学・生活学の専門化
1970年代、高度経済成長も終わり、豊かな消費生活が始まる時代に、生活科学研究所が作られ、消費者論が生活学の課題になる。生活経営学が登場し、生活の科学的な管理を課題にする。また、公害問題など工業生産や消費生活によって作り出された産業廃棄物や生活廃棄物による生態環境の破壊、課題にした生活と環境問題が取り上げられる。また、生態環境の破壊を防ぐための生活スタイルや家庭経営のあり方を考えるリサイクル論が科目として登場した。
生活環境も科学技術文明社会の中で大きく変化する。生活道具の機械化、電化や自動化が進む。家電機器によって、家事労働は短縮され、社会で女性が働くことや余暇を過すことを可能にした。
この時代では、新しい市民社会の利益、家族的な利益に一致する限りにおいて生活改善の研究、家政学の探求が進み、科学的な家政学、つまり生活科学が形成し、その合理的知識に基づいて、家事教育がなされる。
20世紀の後半から、今日先進国と呼ばれている経済的に豊かな社会では、二次生活資源を消費する市民社会が登場する。この社会では、科学技術の進歩により、生産システムの自動機械化、生産管理の情報化、生産部門の高度な専門化や分業化が進み、極度に豊かな二次生活資源の生産を可能になる。
この時代の到来を、トフラーは「生産し消費する人々」の社会の形成と呼んでいる。資本主義社会では搾取される運命にあった労働者階級は、過去の存在となり、所謂日本で言われた「一億総中流」と呼ばれた市民社会が到来している。)
ゆたかな生産力を持つ社会の到来によって、勤労者一人あたりの社会的必要労働時間数は減少していく。その分、余暇時間が増えことにより、三次生活資源を需要が急速に増大する。余暇活動のあり方が課題になり、さらに三次生活資源が要求される。人々は生活をより楽しむための知識を求め、余暇時間の活用のし方が生活の関心の中心になる。
そして、電気通信工学や技術の発達によって作り出されている映像メヂアの世界。テレビから伝わる世界のニュース、文化、映画、音楽、スポーツ。日常的に生活空間には他文化の情報が流れてくる。
さらに、情報工学、情報通信技術インターネットによる世界の人々が情報発信者になれる。家から世界に情報を発信できる社会が登場した。現代の生活者は、不特定な世界の人々に対して自らの情報を発信でくるのである。それだけに、その情報に責任を持つことが求められている。
新たな生活学の課題は、科学技術文明社会の豊かな生産力に支えられた生活空間の分析とその改善に向けられる。生活学教育はこうした生活空間の変化し、多様な生活者の要求の変化を受け止める教育課題を提供する。消費生活論、生活情報論、国際生活論、生き方やライフスタイル論、福祉論、生涯教育論、余暇論等の教育科目が登場する。
この時代では、一次生活資源を確保するための社会的必要労働時間は極めて短縮され、二次生活資源(豊かな生活空間を作り出すために必要な生活資源)の確保も簡単になる。二次生活資源の閉める割合は非常に増加し、その生産力も人類史上まれにみる高いレベルを示す。その結果は、三次生活資のニーズが今までになく発生し、その生産は増加する。
究極の豊かな生活資源とは、個人的な要求を満たす二次生活資源である。個人のニーズを尊重したオーダーメイド商品が多く生まれ多様な商品が生まれる。つまり、高度な二次生活資源が登場する。
人々の関心は、経済的に豊かな生活を作るというだけではなく、精神的に満足の行く生活や自己満足的な欲望を満たす生活を求める。そのため、社会には多様な要求が発生し、個人的な欲望を満たすための商品が開発、生産される。つまり、多様な要求によって、さらに社会には多様な労働が成立する。そうした意味で第三次産業が経済活動の大きな割合を占めることになる。)
この時代では、個人の利益や関心が、生活の中心課題として登場し、自分らしいライフスタイルを確立するための研究が、生活学・家政学の課題になる。個性的な生き方として生活学を学ぶことが生活学教育の中で取り上げられ、これまでの体系的な生活学教育ではなく、必要に応じた生活知識の習得や他の分野を取り入れた生活学の学習に関心が集まる。
B.先進国での新たな生活病理に対する生活学の課題
生活の経済的な貧困や古い制度からくる貧困を課題にして発展してきた伝統的な生活学の科学パラダイムはこの新たに生じている生活病理に対して有効な知識や技術を提供することができない。
伝統的生活学が実学としての有効性を失うとき、生活学の科学性を分析する科学認識論の作業が必要となる。そして、有効な理論の形成に向けてメタレベルの生活学基礎理論の展開が試みられる。日本での生活学基礎論の学説史、つまり生活構造論、生活システム論と生活空間論等の理論を歴史的に検討し、現実の生活学の抱えている課題に有効なメタレベルの理論、生活学基礎論の構築を目指すべきである。
しかし、現実の生活学の展開の方向は、基礎理論の点検には向いていない。例えば生活工学のように、むしろ、より有効な知識を取り入れる方向で発展している。有効な実学を構築することで、現在の生活病理への課題を解明しようとする方向は間違いではない。その中で、実際は、生活学のメタレベルの点検がなされるのである。
この論旨で示す生活学基礎論としての生活資源論から現在の生活病理の構造を分析するなら、現代社会の生活病理の構造は、個人の欲望や理念を満たす生活行為に付随して生じている現象である。つまり、この生活行為とそれを満たすための三次生活資源のあり方が問題になる。自己の欲望を満たそうとする生活行為全体ではなく、個々にその一つひとつを点検しなければならないが、それらの具体的な行為の中で、明らかに、これまでの社会的観念や規範から受け入れられないものが発生している。例えば、麻薬、援助交際等々。同時に、その行為を満たすために発生している三次生活資源が、これまでの社会倫理の埒内で認められていたものに反する場合が生じている。例えば、インターネットで流されるポルノや残酷な映像(未成年にも簡単にアクセス可能)。報道の自由というこの社会の基本原則によって、それらを規制する方法を見つけ出すことができない。多くの課題が、この多様にしかも多量に生み出される三次生活資源に発生している。その問題が生活空間への影響を生み出していることは間違いがない。
非人間的で有害な情報への規制は政治や法律の問題である。しかし、他者との共存、安全や平和が生活学の最終目的であり、生活空間を破壊するそれらの有害な三次生活資源の過剰な発生に対して、生活学は何らかの問題解決を提供する必要はないだろうか。
表現の自由という我々の社会理念の大原則に触れる情報規制の考え方を、法律や政治に任すことは危険ではないだろうか。むしろ、他者との共存や安全や平和を課題にする人間社会学の点検の課かで取り上げることが正しいのではないだろうか。
個人の理想や欲望を充足さす生活行為に必要とされる生活資源を三次生活資源と呼んだ。つまり、三次生活資源の増加とは、社会や生活共同体全体に共通する生活資源ではなく、個人の生活活動に依拠した生活資源である。三次生活資源は必ずしも一次生活資源や二次生活資源のように、生産、消費、再生産の経済過程を前提にしない、消耗品である場合が多い。
言い換えると、三次生活資源の増加は、社会システムの中に非生産的な要因が発生し、その要因が他の要因との関係で生産性に転化する機能を形成しない限り、三次生活資源の増加によって、社会経済の生産力は減退することを意味する。
例えば、余暇は休養と違い、直接的に労働力の再生産過程に組み込まれない。余暇はむしろ体力を消耗する場合があり、労働の疲れを取るとは限らない。この考え方の中には、生産活動を中心にした生活観が残存している。つまり、
労働の疲労を肉体的な次元に留めて考える限り、余暇は労働力の再生産過程に組み込まれえ
都市人口の異常なまでの増加、高齢化と人口減少によって経済的に疲弊する地域社会、都市と地方の格差の広がり、子育てや家族から発生する問題、初等教育の現場での子どものいじめ、フリーター、ニートの発生核家族化、都市の離婚、し共同体の個人的な
そして、現代の生活学の課題は、その新たに生成する生活病理の分析と、その解決のための知識や技能の探求や検討に移るのである。言い換えると、どの時代においても生活学は存在する。何故なら、生きることはよりよい生存環境の構築過程を意味する以上、そして全ての個人の具体的な存在の事実として、生活がある以上、生活改善の探求は、つねにどの時代や社会でも、存在しつづけているからである。生活様式や生活素材の改善は、生きた生活空間の姿に過ぎない。)
३. 現代生活学教育の課題
3-1. 学部学科名称の商品化の批判(学問的基盤を保証しない学科名称)
例えば、教育改革によって、学部や学科の名称が変更することがある。この名称変更は、今まで文部省によって厳しく審査されてきた。つまり、新設されたカリキュラムとそれを構成する科目群、そして科目内容、科目担当者の資格等が厳しい審査を受けていた。新しい学部や学科の教育内容を満たしているかが、その部門の専門家で構成される文部省の専門委員会で検討された。
市場原理を取り入れて大学改革を進める現在の文部科学省は、大学が行う改革の中身を規制する基準を緩和した。市場が大学を選択する。つまり、大学は市場によって評価され、その存続を決定される。現在の日本の大学は志願者数の増減という現実から実際厳しく評価を受けている。
その文部科学省の大学行政によって、プラスの面とマイナスの面が生じている。
プラスの面は、すべての資本主義社会の経営組織と同じように、大学教育が市場原理によって社会的評価を受ける。その意味で社会的需要が評価の基準となるため、全ての大学に対して公平な視点から評価が行われる。つまり、社会的需要に対して応える努力をしていく大学が結果的に生き残ることになる。
しかし、そのプラスの面がマイナスの面の原因となる場合がある。その一つが、学部学科の名称変更とその教育内容の一致を巡る問題である。つまり、一言で言うと、新しく付けられた名称が、ともすれと、教育の内容の基本的な変革を伴わないで単に市場受けする名称になる場合が生じる。つまり、学部学科名称の商品価値が、その教育内容を抜きに検討されることになる。
この問題を解決するためには、提案される新しい教育内容(科目群の構成)は、その分野の学問的な理念と学問的な体系によって説明されること、また教育論的な視点から、教育方法が説明されることが必要となる。
新しい名称が、つまり伝統的な生活学系の教育の形態は変化し、生活文化学、生活工学、生活情報学、人間生活学、色々な学科名称が登場する。その大きな理由は、大学内部の改組によるもので、命名された学科名称に相当する学問が確立し、その学問の内容によって提案された教育課題が必ずしも存在していないのが多くの場合の現実である。
3-2. 資格取得教育の点検 (知識の即時的活用の重視と体系的知識教育)
家政学教育の改革の具体的課題として、資格取得を目的にした教育が導入されてきた。単に、生活に役立つ知識や技術に関する単位取得では、学生は満足しない。大学卒業資格という商品価値が低下することによって、高い授業料を払って大学で学ぶ学生にとって、大学教育で得られる別の商品価値を探すことは当然の行為である。
しかし、大学で資格試験の対策を中心として教育が行われるなら、本来資格試験のための教育を中心としてカリキュラムを提供してきた専門学校と同じ教育内容を提供することになる。
家政学系の大学教育が専門学校の教育に近づくことが、実学教育市場の需要に答え、実学教育を進める大学の教育改革の解決策であると言えない。家政学の教育で必要とされる知識のあり方を以下に示す。
1 ,実際の生活に役立つ専門知識(実学的知識)
2 ,資格取得に必要な専門知識
3 ,実学を支えている学問的知識
3-3. 科目群の自由選択制度の点検 (情報化した知識と大学教育の基本)
短期大学の学科や大学の学部教育の知識は、科学技術文明社会の基礎となる。つまり、それらの大学で学ぶ知識は、社会で活用されている専門的な知識を理解するための基礎となる。大学の学部教育で学んだ知識が、生産現場の先端知識に即役立つ訳ではない。このことが、大学教育の社会的評価を意味している。
こうした大学教育の位置づけの変化に合わして、大学教育のカリキュラムが変化して来た。つまり、資格取得科目を中心にしたカリキュラムの提供とは逆に、即時的に役立つ科目の提供でなく、学生が興味を持つ科目を自由に選択できる制度が導入されてきた。その場合、資格取得の科目の集まり(科目群)を一つのユニットとして提供することで、自由選択と資格教育を両立するカリキュラムが提供されている。
この科目群の自由選択制度(ユニット制)は実際に学生に高い評価を受けている。しかし、自由に選択するという目新しく刺激的な教育方法の否定的面を理解する必要もある。それは、現在の日本の子供たちに蔓延しようとしている生活習慣病と同じように「好きなものだけ食べる」ことが、子供の健康に悪いという現象と類似する。好きな学習だけをすることが、果たして将来の知的活動にとって約に立つのかと考えなければならない。
学問的知識も情報であるが、それは体系化された公理系の中に整然として分類整理可能な情報である。したがって、知識の内容としての情報を伝えると共に、その知識がどの分類箱に所属しするかという情報も提供しなければならない。そのことは、自分で情報を生産するために役立つのである。
数学を学ぶように、一般に知識の公理系のフレームを教えることは、つまり学問としての知識を教えることは、一定の忍耐が必要である。大学教育であるから、その忍耐を要求することが出来る。言い換えると、卒業資格や単位取得という教育の大原則があることで、学ぶ忍耐を教育できるのである。もし、学ぶ忍耐の教育を必要としないなら、趣味としての学習、生涯学習で十分である。教育である以上、学ぶことに一定の強制が付きまとうのである。
科目の自由選択制度という社会の多様性に対応する教育の利点を保証するためにも、その制度のなかで、知識の体系を理解する学習が可能になるカリキュラムが必要とされる。
3-4. 教材作成企業との連携
大学での教材は学生の理解を助けるために、ますます統計、画像、映像資料を教材として活用しつつある。しかも、それらの教材の殆どは専門機関の提供する統計資料、NHKなどメヂィアが提供する映像資料、さらに専門雑誌なの提供する画像資料である。また、今日、教材資料を専門的に販売する企業が登場している。その産業は当然大学の研究活動と結びつき、専門的な研究から導かれる情報をまとめて教材商品を作成する。
言い換えると、大学教育の材料は大学の中で自己生産することが出来ない。家政学や生活学教育では、生活関連産業、生活科学研究機関、メヂア産業のアーカイブスやデータベース、教材作成企業、自治体の生活福祉部門、NPOなどの生活支援組織などの協力や資源を活用して充実した教育内容を作ることになる。または大学教材作成産業から教材を購入する。
大学が独自にその資源の中で、大学教育の材料(教材)を作成できない大学教育の意味することは、以下のことである。
1 ,大学の教育は大学内で自己生産できない
2 ,大学の研究は教育産業に教材作成の材料を提供する。
३-5 . 社会の専門家、生活関連企業との連携
高度の知識社会、科学技術文明社会では、大学教育は、必然的に社会の専門家の参加を必要とする。大学は他の社会の知的生産機能(企業、研究所、市民運動組織)と同格の一つ知的生産機能である。大学教育では、必然的に、社会の他の知的生産機能の資源を活用することになる。このことが、科学技術文明社会、高度な知的生産社会での大学での実学教育の基本を決定している。
言い換えると、実学系の大学教育の改革は、社会の知的生産機能との協同作業が必要となる。単にそれらの専門分野の機能を活用するだけではなく、その専門機関で働く人々と共に、高等教育の改革を共有することが問われている。
具体的には、現在までに、特に実学教育においては、以下の二つの課題を展開し、一定の成果を作り出してきた。
1 ,社会の専門家を大学教育の中に取り入れる。
2,学生を社会の専門分野で教育する。
つまり、社会の専門家を大学教育の中に取り入れる方法について、生活関連企業や生活支援運動や自治体活動の専門家と提携して、それらの人々を大学教育に積極的に活用している教育がなされている。大学によっては企業と契約し、例えば経営学のコースでは大手の商社や企業から専門家を呼んで講座を開いているケースもある。また企業も、積極的に大学に専門家を派遣し大学の授業を担当することがなされている。それは企業の社会貢献との一つとして評価されている。さらに、学生も企業への研修やインターンシップを行い。ある一定期間の間、専門的な仕事を学習するコースもある。
実際、実学系の生活学の教育は大学内部の教育資源で十分に教育活動を完結することは不可能である。そのため、大学教育に社会の専門家を活用し授業を行うことや、また社会の専門分野を大学教育の場として活用し、学生がその場で実習を行いまた、講義を受ける場を作ることが教育内容の充実につながった。
この方法を高等教育に採用するためには、大学と社会との間にある専門的な知的生産の関係について、特に大学の教員として理解しておかなければならい課題が含まれている。その課題を以下に示す。
1、大学を社会の中にある多くの知的生産機能の一つと位置付ける。
2、大学の教員は、社会的に生産される実学的な知識のメタレベルの研究者となる
3、大学の教員は、社会の知的生産機能を担う研究者との共同研究者となる
4、大学教育は、社会的の専門的な知識生産に必要な基礎的知識教育を担う
3-6. 社会の専門機関での経験を大学が評価する。
この制度は現在フランスで実施されているVAEの制度で、日本では存在しない。大学教育の内容は、大まかに社会経験の知識と内容と同一のものであるという前提条件をもって、この制度は成立している。例えば、理論的に高度な専門分野の学習を前提にして成り立つ社会的な経験は、多分に先端科学技術を開発する企業や公共団体の研究機関となる。その人々は、多くの場合、すでに高学歴の所有者であり、理工系では博士号の学位を得るために、多くの場合、大学に形式的に所属しながら、これまでの研究成果を論文にして、共同研究している大学教員を指導教官として提出する。
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