三石博行
安全運転(行為)、交通規則(社会規範)と共同主観
毎日通勤で通るバイパスや高速道路、大型トラック、バス、乗用車、たまには自衛隊のジープ、ありとあらゆる種類の車が、私の車と競り合い、譲り合い、追い越し、追い越され、通り過ぎ、共に走っている。これが、通勤時間1時間弱の風景で、以前自転車で通った風景とはまったくちがうスピード観のある世界、そして街、田んぼや並木道の風景も行き交う人々の顔も見えない。以前、電車で通った風景と違い、美しい女性、若い人々、老いた夫婦、子供ずれの家族とも会うことはない。車の通勤ほど、社会的コミュニケーションから遠い、そして社会風景から隔離された時間はない。車の通勤ほど、暇で、何となく自分の姿を考えている時間はない。
この二、三車線の隙間を、よくもこれだけ多くの車が、時速100キロメートルの速さで、ぶつからないで走ることが出来るのか、不思議な気持ちが湧く。
私の運転中の意識、つまり、交通規則に即して走る、危ない運転は事故を起こす、高速道路の事故に遭えば命が助かる保障はない、今、死ぬわけにはいかない、今、人を交通事故で殺して生涯、交通事故の補償を続ける訳には行かない等々、私が運転中にハンドル、アクセル、ブレーキ、方向指示器、ライトなどの運転操作の作業をしている間に、こころの底に確りと出来上がっている意識と、私の周りで走る車の運転手たちの意識とは殆ど共通しているのだろう。
この状況で事故が起こらない奇跡に近い状況を生み出しているのは、まさしく、道の状況、車の流れに合わして、同じような判断と操作を行う人々の群れ、高速道路を走る車の動きを制御している共通した判断をもつ人々の群れの存在によってである。それは群れという、不明な集団でなく、運命共同体として、高速道路で生死の境目に立たされながら、事故を起こし、死ぬことを避けるためにのみ、行動の基準をあわしている人々達と言わなければならないだろう。
時速100キロで走る重さ10トン以上のトラックに囲まれた世界、これは異常な世界で、戦場と同じくらい危険な場所である。そこで殆どの人が戦死しないのは、彼らの弾丸(車)は、相手を避けるため発射され続けているからだろう。もし、相手を殺すことを避けるためにという意識がなければ、この高速道路は今のイラクやアフガニスタンよりも恐ろしい殺戮世界に化すだろう。
自分の弾(車)が相手に当たらないための方法は、相手に当たらないように作られた規則(交通規則)に従うしかない。自分の良心も主観的判断も、この戦場では意味を持たない。その規則を守ることによってしか、自分の発射したすざましい破壊力のある弾丸が、見事に他の車に当たらないように、弾丸の軌道を決めることが出来るのである。
つまり、交通規則を守る集団の意識と、その交通規則に即した集団の行為が、奇跡的に交通大災害から我々を守っているのである。行為に社会的平均値は、個々人が理解し了解している社会的規範とそれに即して個々人が実現している行為の集合によって形成される。その個人差は必ず存在するものの、相互にそれらの個人差の上下が相殺しあい、少し平均値より高いものも低いものも、集団ではその平均値の周りに集まる。その集団の行為現象が高速道路を走る車の流れとして現れている。
状況の逸脱行為、平均値からのずれ、その発生確率によって生まれる事故
大半の車が安全運転している高速道路で、たまに、無茶な運転をする車に出会う。急いでいるのだろう、危ない運転をしている。また、前に車がいるのに、速度を上げたくても上げられないのに、異常接近してくる車がある。時速100キロメートルで走っている車同士の車間距離が、10メートルもない状態になる。恐ろしい瞬間である。もし、私が急に速度を落とすと、後ろの車はどうなるかと心配する。
モウスピード運転のみではない。高速道路の制限速度は時速80キロメートルであるので、三車線の真ん中を時速80キロで走るのは、交通規則から言ってもまったく正しい運転であるが、道路の空いた時間帯では、三車線の真ん中は90キロ近く、右端追越斜線は100キロ以上で走っている。そんな状況で、80キロのスピードで三車線の真ん中を走る車に出会う。90キロで走る車が、近づいて車間距離が狭まる状態でも、交通規則を守る車は、頑として、その場所を譲らない、もし、三車線の左端によれば、真ん中車線を走る車も、三車線を走る車も、そこで団子になることなく、スムースに車の流れが出来るのだろうが、そうはならない。
高速道路のある時間と空間に集まる運転手達の運転行為、つまり運転規則の尊守意識、高速道路の車の流れや他の車の運転等々に関する状況判に影響されて形成されている意識と運転行為の集合形態が、高速道路の安全や危険のドラマを作るのである。
そして、幾つかの確率で、危険な状態を制御できない事態が発生した場合、ヒヤリとする瞬間が生まれ、それらのヒヤリとした瞬間のメッセージが運転手の意識に反省的にインプットされ、運転スタイルの変更を促した場合と、そうでない場合が、さらに継続的に、積み重ねられ、そして、高速道路での安全が確保されるか、それとも安全が維持できない状態になり、事故が発生するのである。
こう考えると、事故の要因を生み出す発生確率は、事故のない状態で常にある数値をもって生じ続けていると言える。それが、事故につながるのは、現に発生した事故直前の事態への対応となる。
ここからの話は畑村洋太郎氏の「失敗学」に譲ることにする。
失敗学に関する本
畑村洋太郎 『失敗学の法則」 文春文庫 2006.6、258p
畑村洋太郎 『失敗学 実践講義』 講談社 2006.10、255p
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