2010年10月19日火曜日

哲学的知の成立条件について

三石博行


生活主体の反省学 哲学的知の姿

哲学は、対象認識された世界を前提にして了解されている意識を疑い、点検する作業である。対象認識されている世界とは、つまり現代社会であれば科学的な理解によって成立している世界例えば物理学、化学や生物学の知識によって解釈されている世界を意味する。また中世社会であれば宗教的な了解によって成立している世界、例えば聖書解釈、神学(物理神学も含めて)によって解釈されている世界を意味する。言い換えると、哲学は社会や時代が根拠とする価値、認識、精神や知識の基盤を無前提にして出発する思索ではなく、それを疑い点検する思索活動である。

それに対して、思想は時代的価値を実践検証する知性活動とも言われる。また、科学は時代的合理性を実践検証する知性活動とも言える。そして、技術は科学や思想に具現化した社会や時代的価値や知性の生活世界の道具化を意味する。

哲学は思想、科学や技術と異なることは、その基本命題の成立に関して、自己意識を根拠して成立すると言うことである。つまり、私や自分という「いま、ここで」生活し活動し考えている自己という根拠からしか、哲学は始まらないということが、他の科学と決定的に異なる学問の姿であると言える。

哲学は、対象世界を知るためにあるのでなく、主体とよばれる「いま、ここに」生きている個人、つまり現在という時間と空間で一人の人間として生きている個人が、その個人に関する意識を根拠にして始める知の形態である。

哲学が、それゆえに、なぜ、個人の価値、感性、精神、知性活動を無前提にはじめられないでいるのかを理解できるだろう。まさに、その個人の価値、感性、精神や知性活動の根拠、確かなあり方を確立することが哲学を始める第一の課題になるからである。

そのため、哲学的知性にとって、科学的知性は補助的に意味をもつ。しかし、科学的知性を援用しながら哲学的知性を説明することはできない。

科学、技術、法律、政治、経営や経済の知識は、哲学的知性を研ぎ澄ますために存在しているのではない。それらの知識は生活世界を豊かにするために、もしくは社会や国家を運営するために存在し、探究されてきた。

しかし、その哲学的知性を研ぎ澄ますことで、それが、現実の生活を営み、組織を運営し、科学や技術を発展させ、経済的生産活動を生み出し、政治的判断を行うために必要な知識にとって、有用なもの必要なものでないかぎり意味を持たないだろう。


全ての人々に与えられた探究の機会・哲学への入り口

哲学が問われる瞬間がある。それは真摯に自己と向き合っていることを問われる瞬間である。そのことを問われる瞬間とは、日常的な生活では出会えない。その瞬間は、寧ろ日常生活の亀裂の中に、非日常性として登場した危機や不安の中で、現れるように思える。それである限り、哲学が問われる瞬間は、それほど多くない。

しかし、哲学が問われる瞬間を持たない人は誰もいないと言える。何故なら、死、事故、災害、不幸という不慮の事態の存在を前提にして日常生活を送っているからである。日常生活を運営してきた知識では、解決できない課題を抱えているというのが人の生活の自然の姿である以上、人が必要とするものは、生活を豊かにするために単に知識の広さや多さの世界でなく、また技能の深さや豊かさの世界でもなく、豊かな生活を奪われ、死や不安のどん底に追いやられる世界から自己を救い出す根拠である。

哲学を学ぶことは、まるで自己の根拠をめぐる巡礼修行のようなものである。その巡礼によって、自己の根拠とする価値、認知や解釈の非在性と主観性に気付くとき、そして、その非在と主観的根拠よって生かされている自己の生活世界に気付くとき、生活世界への反省の意味とその逆の生活世界のドグマの意味の双方の共存と相関性を理解するだろう。哲学はそれを学ぶことによって、その学問活動の限界、つまり哲学がそれ自体として哲学を探究することによって、その学問が成立しえないという反哲学の公理にたどりつくのである。

哲学を学ぶことは、哲学を否定しなければならないことを気付くことになる。哲学を否定することは、哲学の必要性を生み出す基盤を理解することになる。哲学は、生活活動という時代性、社会性や文化性に決定的に固定された観念形態の習得活動と、その反省や点検と呼ばれる否定活動の相互の運動によって、成立している奇妙な学問である。

哲学がいまここに存在している主体に関する学問であるというのは、その反省や点検活動を問題にした場合である。しかし、哲学は時代精神、社会的合理性、文化的観念形態を前提にして表現される、生活世界と不可分の知の形態である。科学、技術、経済、政治、経営、組織運営、共同体、家族の営みと称される時代、社会や文化的精神活動を触媒にしながら、それらの知の在り方と関連しながら表現されるものである。

その意味で、哲学には超越的な哲学理論は存在しない。それらは、つねに時代、社会や文化的精神として、またそこに生きている人々の自我の表現として語られる。

多分、哲学を探究する人々の多くの場合、ソクラテスやデカルトを若い時に読んでしまったので、あまりにも早く哲学的思惟の中断しなければならないことが哲学的知の在り方であることを理解してしまった。哲学論文を書いてしながら、哲学を職業として、哲学を学問として続けるためには、哲学的思惟の中断という結論を先延ばしにしなければならないのである。どのようにして先延ばしにできるのか、それを大学の哲学科では学ぶことになる。

職業として哲学を探究しない人が、単に趣味的に「哲学がすき」で哲学を勉強している人たちが、また哲学専門家でなく哲学趣味人や素人と自称する人々が、もっとも哲学的な直観を理解しえるのは、彼らが、その中断を常に受け入れることができるからではないだろうか。

哲学は、その学問の第一公理において、哲学が有効であるために、哲学の専門化を否定しているように思える。そこに哲学が他の科学と決定的に異なる学問の姿が隠されているのである。


日常的生活行為(反哲学)と非日常的反省行為(哲学)の相補的関係を求める現代哲学の課題とその姿

勿論、より哲学的(反省的)な思惟はより生活的(実践的)な行動に活用され、より生活的(発展的かつ反復的)であることはより哲学的(遡行的かつ直観的)な思惟の基盤を保障することを意味する。

日常生活で生まれ育つ社会や生活の常識、科学や技術的知やスキルを持つことによって、より社会的に活動し、そこに責任を持つことによって、その世界の固定観念を身につけることによって、その埒内で模索することによって、その限界に苦しみ事によって、その限界を超えられない状態にたどりつくことによって、そこに哲学の必要性が生まれる。つまり、時代や社会の固定概念のない世界にはそれを反省し、それを否定する根拠も存在していない。また、時代、社会や文化と関係なく存在している人はいない。普遍的、抽象的な観念形態をもって生きている人はいない。すべて我々は、ある時代、社会や文化に規程された存在であり、その環境から独自に遊離して存在していない。その意味で、哲学はすべとの人々に、それを探究する前提条件を与えている学問であると言えるし、また哲学はいまここの居る私たちの時代、社会や文化的環境に規定された思惟活動であるとも言える。

例えば、「哲学とは何か」という哲学入門と書かれた教科書や教養系の書籍に必ずある章のタイトルにであう。哲学の課題として哲学の在り方が問題になっている。もし、物理学の本に「物理学とは何か」という章があるなら、その本は物理学の本と言うより、物理学を自然科学の中で位置付けるための著書と思われる。物理学の本であれば、力学の説明から始まるだろうし、物理学とは何かという課題は、序文の一部にこそ書かれるものの、章を割いて書かれることはないだろう。その点が哲学と異なる。むしろ、哲学の方が、他の科学の本よりも、自己言及の必要性を常に持ち続けていると理解するしかない。

哲学とは何かという課題は、哲学的知の形態が科学的知の形態と異なるために、生じている課題のように思える。一回、成立した「哲学的知」の定義が、何遍となく、問い直されるのは、その知の定義が一回成立することで、証明問題を終える科学的知と異質のものであることを意味している。

つまり、哲学的知とは「知る」ことが、いまここに生活している自分にとって、その知を実行すること、行動すること、生活を変えること、世界との関係を変えることが要求されているのである。それらの知ることによって生じる自己への投企(とうき)は、科学的行動のパターンと違い、その主体の置かれた状況に対する行動の要請である。つまり、それらの知は、個々人によっても、また同じ個人でも、時間的、社会文化的状況の変化に即して、異なる姿をとることが前提となっているからだろう。

哲学的知は、一般的な定義を当てはめることができるとしても、個人の解釈によって、その個人の数と、その個人の生きてきた環境の変化の数だけ存在している。そこに、この問い、哲学とは何を哲学が問いかけるという、哲学知の独特の姿がある。

それ(哲学が哲学的知を語ること)は結論であるようで、まったくの始まりである。そしてそれは全くの始まりのようにして、最終的な結論を語る。哲学という学問の成立条件の一つとして、その学問が哲学自体に対してその存在基盤をつねに言及し続けているということ、その結論が、哲学のはじめを意味し、また哲学の結論を意味しているように思える。

この課題は、哲学は知の広がりや体系を求める学問でなく、限りない自己言及の意味とその方法を教える学問であるのではないかという結論に達する。

そのために、多分、哲学史とよばれる哲学理論の歴史的な学習、何ない哲学と呼ばれる異なる哲学の方法論の学習、また具体的課題を点検する、科学技術哲学(現代社会の科学や技術の在り方や考え方を点検する学問)、法哲学(法や法制度を在り方を点検する学問)、政治哲学(政治や政治学の在り方を点検する学問)等々、具体的な社会、経済、組織、家族、個人の行動、機能や構造に関する科学や政策に関する点検の学問として哲学は限りなく成立することになる。





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