三石博行
長岡科学技術大学の綿引先生と始めた吉田ゼミナール
第一回吉田セミナールは、長岡科学技術大学で今年の7月31日から8月3日まで、朝の9時から夜の8時までぶっ続けで、吉田民人先生の初期の論文を読む作業をしました。大変な作業でした。
今回の学習は吉田理論第一期前半部分に関する検討ということになりました。
吉田先生の言葉を借りれば、「行為論と関係論に関するミクロ社会理論」に関して、30代前半の吉田民人が展開した独自理論に関して、検討でした。
私たちの第1回ゼミナールの結論を述べると、以下三点に要約されそうです。
1、吉田民人の社会学理論第一期は、その後の吉田民人社会学の理論である。つまり、この理論作業は、その後の吉田社会学の自己組織系の情報科学の前哨段階に当たるものである。
2、30代前半の若き吉田民人は、パーソンズの系(システム)理論の非ダイナミズムを乗り越えるために、独自の方法で、動態的構造-機能モデルを模索していた。その思考過程が、吉田理論第一期の理論作業の目的である。
3、これらの自己組織系情報科学(これまでの資源論的偏向性を乗り越え、情報概念をもつ社会学の構築を試みた吉田理論第二期の吉田民人独自の社会学の地平の構築をこの吉田理論第一期の分析から理解することが出来るだろう。
吉田社会学の基本理念「生活空間論」との出会い
私は、1995年以降、生活情報論の課題に取り組み、それを展開するとき、今和次郎や篭山京など戦前、戦中と戦後と、日本で独自に展開された生活構造論の学説を紐解いた。そして最後に吉田民人先生の「生活空間の機能-構造分析・人間的生の行動学的理論」を研究した。この論文に出会ったことで、「生活情報史観」や「生活情報の三つの形態」、さらに「生活資源論」を1997年から展開するきっかけを作った。
何故なら、フロイトやポスト構造を学んだ後で、生活構造論の理論的土台であるパーソンズモデルに返ることは不可能であった。パーソンズモデルの限界は非常明確であったが、そのモデルを越えるための社会学の中での、特にシステム論の中での理論的展開の経過を知りたかった。吉田先生の
この論文で、パーソンズモデルを超える理論を見つけた。
しかし、吉田先生が、この論文・「生活空間の機能-構造分析・人間的生の行動学的理論」に到達するために、パーソンズモデルとどのように格闘したかは、当時私は知らなかった。それは、この論文以前の論文を読むことがなかったからである。
私は、この論文が出来るまでの吉田先生の研究活動史を理解していなかったのですが、明らかにパーソンズモデルからの脱却であることは理解しました。
「私の実存を掛けた論文」の意味
先生との学習会(先生の私のための個人授業)の第一日目に、この論文について先生と話をした。私の質問は、この論文がポスト構造的であること、また当時としてはパーソンズシステム論の絶対的影響下にあった「生活構造論」や「人間・社会行為論」研究の中で、あの論文は大きな課題を投げかけたのではないかと言うことだったと記憶している。
すると先生は「あれは私の実存をかけた論文でした」と話された。その意味については、先生と個人的にお付き合いのある研究者には理解できるかも知れない。先生は、自分という人間存在のあり方を自己観察していても、そもそもパーソンズのような理性的モデルで人の行為が決定しているとは思っていなかった。人は理性によって動いているのではない、もし人の行為が理性でなければ、それは欲望や欲慟という、これまで社会学が扱えなかった課題を取り入れるしかないと考えたのかも知れない。
考えてみれば、先生が育てられた上野千鶴子女史にしろ、宮台真司氏にしろ、また長谷川公一氏にしろ、人間の行為の起源に関して彼らの理解を推測すれば、直感的にパーソンズモデルの彼方に彼らは人間を置いている。それが、フロイトなのか、それともフーコーなのかは知らないが、吉田民人先生に影響を受けた人々に共通する人間観には、ポスト構造から構築主義に至る理論的な経過を感じる。
それは、吉田民人の社会学を理解したというその証が、吉田先生が語る「私の実存を掛けた論文」を受け止め、そこから自らの研究を始めた人々に共通する人間観なのかもしれない。
そして、私は長岡科学技術大学の綿引先生と第2回吉田ゼミナールの企画を始めた。第2回ゼミナールは来年3月に開催を予定していている。この第二回ゼミナールで吉田民人先生の第一期の研究の集大成とも言うべき「生活空間の構造-機能分析・人間的生の行動学的理論」について学習することになった。
10月28日、吉田民人先生の一回忌をむかえる。
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