政治改革の課題(2)
三石博行
幻想としての唯一の民主主義社会と現実としての多様な民主主義国家
民主主義社会は国民の政治参加が無ければ構築できない。国民の政治への意識の高さがその国の民主主義のバロメータとなる。国民の政治意識の高さや政治への参加活動によって国家が利益を得ている社会を民主国家と言う。つまり、国民の積極的な政治参加によって国家が運営されている状態が国民主権社会である。
言い方を換えると、民主主義社会では、国民の社会や国家に対する責任と義務が問われていることになる。国家や自治体の運営状況について国民一人ひとりが、それを運営しているという自覚、そしてその責任を理解し、果そうとしない限り、民主主義社会は形成発展しないのである。
民主主義社会は、その意味で、個人的な生活への関心と同じくらい社会運営への関心を要求する社会でもある。この考え方は民主主義の理念と呼ばれているものである。現実は、世界のどの国を見ても、民主主義の理念を満たしている国はない。これが、現実の民主主義国家の姿である。つまり、世界には色々な民主主義国家がある。それが21世紀社会の民主主義国家群の現実である。
多様な民主主義国家運営の現実とそれに対する民主主義の理念の闘いはどうして生まれるのだろうか。つまり、理念や理想は常にある現実に対する否定的批判的駆動性を発揮している。理念が無い限り、現実を変える動機は生まれない。あるプログラム化された社会理念(観念)は、現実の社会形態をその観念形態のもっとも理想的な姿に変革しようとする。これが社会文化のある意味で生きた姿であるとも言える。
言換えると、民主主義の理念は、現実の民主主義国家のすべてにその理念に即し、「真の民主主義」に成るように要請、脅迫しているかのうようである。果たして、欧米を真の民主主義社会と呼び、そうでない社会を民主主義国家ではないと言えるだろうか。つまり、そこには欧米中心主義社会思想があり、欧米の社会史や社会制度から周辺諸国のそれを評価している。そうした考え方の極論として、アメリカ民主主義を他の世界に押し付ける考え方が生まれているといえる。
現実の国家の形態を規定する「限界資源活用経済合理性」
見方を変えれば、国家のかたちは、その理念によってではなく、その経済合理性によって最も現実的な形態を取っていると言える。世界に色々な民主主義があるのは、それなりにその形態が、その国の現実で、今一番、合理的(経済的)であるからとも言える。
イラクを民主主義国家に発展させるためには、アメリカは独裁者サダム・フセインを打倒すべきだと主張した。しかし、それはアメリカの国益上、イラクのサダム・フセイン政権が邪魔になったという理由に過ぎなかった。イラクから独裁者サダムが居なくなっても、イラクばアメリカの望むアメリカ的な民主主義国家にはならなかった。この事実からも、民主主義とは一つではなく、また民主主義は他の国家権力によって移植され、強制されて形成発展することはない社会制度であることを知るべきである。
こうした考え方の背景には、国家の形態を生活資源生産力の状態とその最も合理的経済的な消費形態に求める考え方がある。この考え方は生活資源から人類史を解釈した生活資源史観(1)を援用し展開したものである。
例えば、国民に国家運営の能力がないと判断していた時代では、こうした複雑多様で専門的な国家や自治体運営を官僚や職業的政治家と呼ばれる専門家に任せてきた。この委任によって、国家や自治体は合理的且つ経済的に運営されていた。
特に、封建君主制度や絶対王政では、国の運営を担う専門家を育てるために、ある特定の家族(王族)に対して、その義務と権限を与え、最も合理的に、つまり、幼児から帝王学を教え、国家の管理や運営の現場(官僚行政制度の中)で徹底して学習と経験を積ませ、君主や皇帝など権力中枢を担う専門家に育て上げてきた。
人間や家畜の労働力に依存し、農林漁業を中心とした産業社会、つまり人的、物質エネルギー的資源の少ない時代、機械制工業生産以前の社会では、少ない資源力を最も有効に活用し、封建社会制度、国家運営の形態を創ってきたと解釈できる。この考え方を「限界資源活用経済合理性」と呼ぶことにする。限界ある資源を最も経済的に活用する社会的形態を意味する。社会は最も経済的かつ現実的にその資源を活用するように働くという意味である。しかし、現実の社会形態がすべて最も合理的であると言う意味ではない。寧ろ、この「限界資源活用経済合理性」の意味は、経済的で合理的な資源利用に向かって社会形態は常に運動しているという意味である。
人類は、種(民族国家)を維持し、かつ人間個体の生命を維持するために、その時代や社会環境、言い換えると、生活資源の生産力に応じて、最も経済的な制度を編み出してきたと言える。生態系の資源環境に規定された社会文化(文明)の形態を人類史的に解釈したのが、梅棹忠男の「文明の生態史観」(1)であったと言えるだろう。
つまり、「限界資源活用経済合理性」の仮説には、国家の形態は、その国家の生産する生活経済資源量やその質によって決定されているという考え方が背景にある。また、生活資源から歴史を理解する考え方を生活資源史観(2)(3)(4)(5)と呼んだが、その生活資源史観によって社会文化形態を理解しようという試みでもある。
すべての政治社会形態はその存在合理性がまずある。その存在合理性の背景となるのが、与えられている生活経済資源の最も合理的で経済的な利用形態である。その利用形態に最も合理的な国家の運営方法や運営形態が選択される。これが「限界資源活用経済合理性」に基づき歴史的に生態環境的に選択された社会や文化とその歴史的進化形態を生活資源史観と呼ぶのである。
多様な資本主義(民主主義)国家の存在理由を理解する政治社会文化人類学的視点
資本主義生産様式によって導かれる民主主義社会も「限界資源活用経済合理性」を前提にして成立している。それらの民主主義社会は多様な歴史的背景、社会、文化や生態環境に影響され一つの国に一つの民主主義社会文化が存在していると言えるほど、多様な姿をしている。それが現実の民主主義社会の姿である。
言換えると、その国の政治形態は、その国固有の歴史、文化、経済、生活、生態環境の現実から生まれている。それの在り方を決定しているのが限界資源活用経済合理性である。一般的に国家の運営形態は、その国家が持つ資源の最も合理的経済的利用形態によって規定されると言うことになる。限界資源活用経済合理性によるとすべての社会にはその社会が存在する理由があり、社会形態を選択した経済的合理性が在ると述べていることになる。
この限界資源活用経済合理性の考え方は、今ある国家の存在理由を絶対的に肯定するように思われるだろう。つまり、ナチスドイツ、ファシズムイタリアも大日本帝国も、それなりにその国の在り方が歴史的に選択された合理的理由があると述べていることになる。その国家を現在の人々が否定したとしても、その社会が過去のドイツ、イタリアや日本の歴史的経過の中で、存在していた合理的理由があると言うことになる。
この限界資源活用経済合理性の考え方による社会分析では、現実にあるものを否定することよりも、その現実にあるものの存在理由を問い掛けることが課題となる。認めようと認めまいと、共産党一党独裁国家、イスラム国家、ユダヤ国家等々、民主主義の思想とは相いれない政治体制を持つ国家は存在している。その国家の存在を否定することでなく、その存在理由を歴史的、文化的、そして社会経済的に理解する視点として限界資源活用経済合理性の考え方がある。
この限界資源活用経済合理性の理論、生活資源史観等は、これまでの経済主義的な社会歴史観とは異なる。その基盤には社会経済の発展を生活資源の視点から観ているということに尽きる。つまり、限界資源活用経済合理性の理論は正統派の政治経済史の方法ではなく、文化人類学的な視点から、社会進化を見ていると言える。政治社会文化人類学的に多様な資本主義(民主主義)社会の存在理由を理解することが、限界資源活用経済合理性の意味である。
「限界資源活用経済合理性」仮説の理論的背景としての生物社会学とその限界
「限界資源活用経済合理性」の理論的仮説を使って、国家のあり方(かたち)を文明社会史的視点に立って解釈した。政治経済社会の進化の歴史的形態を生態文化的且つ生活資源史観的な視点で分析した。国家の存在理由をマクロ的視点に立って観た場合、全ての国家がその存在理由を持つという考え方に立っていることになる。この仮説(限界資源活用経済合理性の理論)は歴史的に存在した国家形態の存在理由を理解し、存在した国家の意味付けを行なったにすぎない。
つまり、この「限界資源活用経済合理性」の理論は生物学的な視点から社会形態を解釈している。社会を一つの生物体として理解し、その生物体は種の保存と個体保存の規則性に規定され存在していると解釈する。社会形態での種の保存とは、社会生物体の母体である「人類種の保存」を意味する。また社会生物体での個体保存とは個別社会形態の保存を意味する。つまり、社会はその社会形態を保存するために機能している。例えば、封建社会は封建制度を維持するために機能しているし、民主主義社会は民主主義の制度を維持するために機能していると解釈したのである。
言い換えると、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」と言う有名なヘーゲルのことばを持ち出すまでもなく、「存在しているものは、何らかの存在合理性を背景に存在している」という哲学的な解釈がこの「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)の背景にある。つまり、この国家観からは国家の保守性は理解できる。しかし、この仮説から政治改革や政権交代、さらには革命と呼ばれる国家形態の構造変換も「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)から理解することができるだろうか。
国家機能の伝統、慣習、改革やその革命的な機能転換の解釈
国家機能や社会制度は、その機能と制度と呼ばれる運動によって維持されている。古代国家から絶対君主制度までは、政(まつりごと) を担う官僚制度、軍隊(国防や治安)、財務管理や王族(王室)の管理等々が国家の機能として営まれていた。それらの機能はその時代の権力構造を維持していた。言い換えると、権力の維持がその機能の目的であった
その目的を遂行するために、機能や制度が維持される。例年繰り返し同じ制度や機能が維持され続けている状態を「国家機能の惰性態」と呼ぶことにする。つまり、国家機能の惰性態では、制度改革は生じない。つねに、伝統的な習慣に基づく政(まつりごと)が例年、定期的に繰り返される。この習慣的な繰り返しによって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を維持し続けるのである。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、慣習的な政策実行に関する説明である。
同じように、その権力構造を維持するために、政策執行機能や制度の変革が行なわれる。言換えると、国家制度やその機能の変革(改革)もその国家権力構造の維持のために行なわれている。国家機能や制度を変革しその基本構造を維持し続ける状態を「国家機能の改革態」と呼ぶことにする。この制度改革によって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を構築し続ける。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制内での制度改革に関する理解となる。
もし、ある国家制度やその機能が麻痺(機能不全状態)している場合、しかも、その制度内での改革では機能不全状態を解消できない場合には、国家制度の抜本的変革が行なわれる。つまり、ある国家形態(社会生物個体)の保存の限界は、その社会生物個体の死を以って、その母体(社会生物種・人類)を保存しなければならない。個体保存よりも種の保存が優先されるのが生物の世界の掟である。そのように、社会生物世界でも、この掟は守られる。社会生物体が、その社会生物個体の死をもって種(人類)の保存を行なうことを革命と呼んでいる。
つまり、革命によって、人類は最も合理的な資源活用の政治経済体制を再構築し、存続し続けようとする。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制そのものを変革する革命と呼ばれる制度変更に関する解釈となる。
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
参考資料
1、梅棹忠夫 『文明の生態史観 』(中公文庫)
2、三石博行 『生活資源論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
「阪神淡路大震災時に必要とされた生活情報の調査活動から展開された「生活情報論」、つまり、生活情報を生存条件に必要な生活資源に関する情報(一次生活情報)、生活環境を豊かにするたに必要な生活資源に関する情報(二次生活情報)と欲望を満たすために必要な生活資源に関する情報(三次生活情報)の三つの生活情報の構造から分類し、それらの情報の量的変化から観た人類史観を「生活情報史観」と呼んだ。」
3、三石博行「設計科学としての生活学の構築−プログラム科学としての生活学の構図に向けて−」2002.12 金蘭短期大学研究誌第33号 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
4、三石博行 『生活情報論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
5、三石博行 「生活構造論から考察される生活情報構造と生活情報史観の概念について」
1999.11、情報文化学会誌 第6巻1号
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99h.pdf
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