仮想敵国中国との軍事力競争の時代かそれとも東アジア平和的共存を目指す時代か問われる日本外交の選択
三石博行
安倍首相の靖国参拝の意味するもの
12月26日に安倍首相はA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社に参拝した。同時に、安倍首相は靖国神社の境内にある鎮霊社にも参拝した。この鎮霊社には、「靖国神社にまつられていないすべての戦場に倒れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて全ての戦場で倒れた人々を慰霊のためのお社」(安倍首相の発言)である。この安倍首相の靖国参拝は小泉元首相が行って以来7年ぶりである。
この参拝を巡って今東アジアでの反日感情が再び盛り上がろうとしている。この参拝にアメリカが異例の「批判」を行った。日韓関係の改善はアメリカにとっても大切な課題であり、日ごろから歴史認識問題や竹島(韓国名独島)の領有権問題で日韓関係は悪化の一途を辿り、また日本が国有化した尖閣諸島や中国が突然設定した防空識別圏の問題等々、中国とも同じように日々厳しい対立関係が続く中、この参拝はアメリカも望む東アジアの日中韓関係の改善の道を塞ぐ結果になろうとしている。
さらに、麻生元首相の発言「ナチスがやったように平和憲法を廃棄すべきという」発言や今回の特定秘密保護法での自民党(自公与党)の強制採決、石破自民党幹事長の報道制限や報道人の処罰発言等々、この国が明らかに戦争のできる国に変貌しようとするための憲法9条の破棄に向けた動きが始まっていることは確かになってきた。この一連の政治的動向の背景についてより正確に分析する必要がある。
何故なら、その方向次第では、日本の今後に歴史に悔いを残す大きな選択を迫れられる未来に進む可能性があるからだ。これは、過去の軍国主義国家日本の失敗を再び犯す可能性を秘めているとも謂える。
米国支持の日本の再軍備化時代
安倍政権は1960年に祖父の故岸信介首相が故アイゼンハワー大統領との間で締結した集団的自衛権を前提とした新安保条約を実質的なものにしようとしている。その背景には、海洋大国をめざし台頭する中国の軍事力とそれによって引き起こされている近隣諸国との領有権紛争(その一つとしの尖閣諸島問題)がある。何故なら、日本が中国と軍事的衝突が可能になる条件として集団的自衛権が実質執行できる日米軍事同盟が必要であることは誰も疑わないからである。こうした時代的な背景を活かし自民党は2012年7月に国家安全保障基本法案を提出した。この法律の条件が特定秘密保護法を制定であった。つまりこの法律によって制定される国家安全保障会議の機密を保障するために特定秘密保護法が必要であった。
安倍政権が強固に推し進める強い国家日本の必要な条件、特定秘密保護法、国家安全保障基本法とそれに基づく内閣主導(官僚主導)型の国家安全保障会議の設定はすべて紛糾する国際情勢に対して日本の防衛力を強化する目的で進められていると言われている。仮想敵国は明らかに中国である。その中国と尖閣諸島近辺で起こる可能性のある軍事的衝突、さらにそれに起因する日中戦争を想定して日米同盟の強化、具体的には集団的自衛権を実質化しようとしているのである。
もし、20年前の東西冷戦時代であれば、米国はこの安倍政権の政治的選択を歓迎したと思える。しかし、現在のアメリカの対中外交は、仮想敵国としての中国ではなく、経済大国中国との関係であり、世界政治に責任を持つ米中関係の形成である。今後明らかに世界一の経済力を持つことになる東アジアで米国が影響力を維持するためには、中日韓関係が強化され東アジア共同体が米国の抜きに進むことは望んでいない。しかし、同時に、日中間での軍事的衝突が起こることも望んでいない。こうしたアメリカの東アジア外交、中国を緩やかに牽制しながらも、米中間の政治経済関係の発展も手に入れようとする外交も展開するだろう。
こうしたアメリカの対東アジア外交の変化に対して今後の我国の日米関係の在り方や日中、日韓関係の在り方が問われていることは事実である。自民党の中にアメリカに強制された憲法を改正し自国の独自の憲法を持つことを政治目標にしている勢力がある。これらの勢力は、「日本軍・国防軍」を持つことがまず国が持つべき当然の姿であるという信念の基に日本の軍備強化を主張してきた。
実際、再び日本が軍国主義国家となることを防ぐために、連合国(米国)は平和憲法の公布を推進した。しかし、その意図は米ソ間の軍事的対立、その代理戦争、朝鮮戦争の勃発によって脆くも崩壊することになる。朝鮮半島を共産主義から防衛するために米国軍隊を後方支援する部隊として1950年に警察予備隊創設された。この日本の軍事力所有の準備期間を経て、1954年に正式に日本の軍隊、つまり自衛隊とその自衛隊の行政機関である防衛庁が設置され国家としての軍事行政が復活する。195年からの自衛隊は航空自衛隊は拡張する第1次防衛力整備計画、1961年の第2次防衛力整備計画、1963年の第3次防衛力整備計画、1972年の第4次防衛力整備計画を経て強化された。
さらに戦闘機や各種装備の近代化が中期防衛力整備計画 の第1期から第2期によって図られてきた。その間、日米同盟は強化され1983年に対米武器技術供与決定、1992年 に防衛省は防衛庁へと所属替になり、防衛関連の「情報委員会」が設置され、また海外への平和部隊としての出兵を可能にした「国際平和協力法」「国際緊急援助隊法改正法」が設立し、カンボディア国際平和協力業務や国連イラク化学学者調査団に自衛官派遣された。
つまり、1950年に警察予備隊創設から現在の国際平和部隊に参加している自衛隊の形成、さらにはアメリカの軍事政策下でまで集団的自衛権を発揮できる自衛隊の発展的展開は米国が支持してきた日本の再軍備化過程であると理解できるだろう。
積極的平和主義から積極的軍事主義化への危険性
2011年軍事費ランキングから日本の軍事力を観ると、日本の軍事費は第6位(4兆3623億円)である。その1位はアメリカ(55兆1672億円)、2位は中国(10兆3417億円)、3位がロシア(5兆1298億円)、4位はフランス (4兆6595億円)で5位はイギリス(4兆6300億円)であると言われている。しかし、日本の軍事力の評価は世界で17位とされている。それに対して、中国が3位で韓国が8位と評価されている。勿論、アメリカの軍事力は1位でロシアが2位となっている。
つまり、軍事費から見ても、中国は日本の2倍以上の力を持ち、しかも中国は世界2位の軍事大国である。当然、この具体的な数値からして、日中間で軍事的な衝突が起こった場合、圧倒的に中国が優勢となることは確かである。このことから日本は中国との軍事衝突を避けることが現実的な政治の在り方であると理解するのが常識である。しかし、安倍政権はその現実とかけ離れた対中外交政策を取っている。その大きな理由が日米軍事同盟である。つまり、日米軍事同盟を背景にする限り、日本は中国との軍事衝突を恐れることはないと理解されている。
米国との軍事的同盟を背景にした対中外交を展開するのであれば、自民党政権は米国の対中外交を踏襲することになる。しかし、現在の安倍政権はアメリカ政府が非難する対中外交を展開しようとしているのである。今回の靖国神社参拝問題でアメリカが副大統領を中国に派遣して根回しして来た東アジア政策、対中、対韓外交の努力が水の泡となったと言えるだろう。
では、安倍政権はアメリカとの東アジア外交政策の路線を違えても、対中韓外交を緊迫刺激させなければならない理由があるのだろう。その理由とは何か、それが安倍政権の目指す政治的課題ではないだろうか。その課題を理解するために安倍政権が掲げて「積極的平和主義」を理解する必要がある。2013年9月26日、国連総会で安倍首相は「積極的平和主義」について演説を行った。つまり、PKOをはじめ、国連の集団安全保障措置に、より積極的に日本の自衛隊が参加することを積極的は平和主義活動であると述べている。そして、2013年12月22日、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に従事する韓国軍に弾薬1万発を無償譲渡した。つまり、積極的平和主義とは軍事力を背景にした平和活動を意味すると言えないか。
積極的平和主義を主張する安倍政権が目指すものとは軍事大国としの日本である。この路線はいずれアメリカが制御可能な範囲を超えるだろう。つまり米国の言いなりにならない真に独立した国家日本の形成のために平和憲法を破棄し強大な軍事力を保持し、いずれ核武装も視野に入れ、その力で対中外交を行うことを視野に入れていると思われる。
その為に、またその結果において、益々、中国を刺激し対中関係に軍事的緊張を作り出し、日本の軍事大国化の糸口をつかもうとするだろう。戦後生まれの民主主義教育を受けた安倍氏個人がその軍事大国化への未来を否定したとしても、この国際政治の大きな流れの中で、愛国主義化する中国との軍事的緊張は日本社会を同じように愛国主義化し、強固な軍備路線に導くことになる。そして、積極的平和主義が積極的軍事主義へと変貌し始めた時、日米関係は変化し、対中関係はますます悪化するだろう。
無責任文化国家・現代日本社会
何故、安倍政権を代表する日本の保守勢力は積極的軍事化を目指すのだろうか。その理由は安倍総理個人の問題でも自民党を代表する我国の保守勢力の問題だけでもなく、実に、我国の政治思想文化に根差したものがあると思われる。そして、同時にこの政治思想文化は国民の中に深く根ざしているがゆえに保守勢力が支持されている要因をなすとも言える。
では、その積極的軍事化を意図する政治思想文化とはなにか。歴史認識を問い掛ける中国や韓国に対して、内政干渉という保守勢力、例えば石原氏や橋下氏は国民の意識とかけ離れた主張をしている訳ではない。むしろ、彼らの発言はある意味で大半の国民的な意識でもある。そのことがここでは最も問題なのである。
このことは、日本の戦後処理を巡る課題に辿り着く。つまり、誰があの250万人の日本人、そして数千万と言われる中国や東アジア及び東南アジア、勿論米国の犠牲者に対する戦争の責任を取ったのだろうか。戦争に協力した報道、教育機関、自治体、国民運動、婦人会等々、その責任は不当な東京裁判に掛けられて高死刑台に散った戦犯と称する犠牲者によって帳消しにされたのだろうか。誰一人責任を取らない、取れない文化が始まったこの戦後の問題そこ日本史の中で未来語られる悲劇の始まりではないのか。
その事実から目をそらすために、多くの仕掛けを行った。それが靖国神社ではないか。いつの間にかA級戦犯者が合祀された。しかも、第二次世界大戦で戦死し遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している千鳥ケ淵戦没者墓苑や、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含め戦場に倒れた人々を慰霊した鎮霊社(靖国神社境内)に静かにお参りする儀式をこれまで政府(社会党連立や民主党政権も含めて)は積極的に行うことはなかった。
この甚だ信じがたい責任を取らない日本の文化は命がけで責任を取ることを習わしにした中・近世の武士の文化と異質のものであると言える。つまり、いつの間にか、日本人は責任を取ることを忘れた。
そして、太平洋戦争に突き進んだ軍部の無責任な判断、非現実的な戦争突入、非科学的な戦略と戦術、非合理な精神主義、そして、そこに戦後、原爆で被爆した人々への差別、水俣公害とその公害病への差別、こんどは原子力ムラの利権とその災害である福島原発事故とその被害者への無関心さ、こうした責任を取らない日本文化が始まった。
しかし、責任を取るとは腹を切って自害することではない。それはその失敗の原因を探求し、その失敗が起こらないための考え方、方法、技術、制度を確立することである。失敗を個人的に責め、そしてその個人を排除する思想と失敗を無責任に放置する思想は類似している。それらは失敗を経験として理解していない。失敗は個人の問題として解釈されている。そのため、失敗した人を排除するか、もしくは排除しないで認めるかを選択することになる。それに対して失敗を一つの経験として理解する考え方は、失敗を活かし、将来の人々や社会に役立てようとするのである。
こうした視点に立てば、日本文化に誇りを持ち日本の伝統を守ろうとする保守勢力が武士道を忘れた無責任な現代文化を支持していることは何とも皮肉な文化現象であると言えないか。実は、この皮肉な現実に日本の現代社会で進もとしている積極的軍事化と軍事大国化を進めたい精神構造がある。その精神構造を理解しなければならないだろう。
なぜ日本は中国を仮想敵国にし韓国を無視するのか
日本とまった逆の戦後処理を行った国がドイツである。つまりドイツは徹底して戦争犯罪への自己批判を行った。ナチスを賛美することも、またヒットラーを戦没者の墓に合祀することしなかった。
その大きな理由はドイツがフランスと共に戦後形成し続けてきたヨーロッパ社会の平和的共存のための活動にある。1951年パリ条約によって欧州石炭鉄鋼共同体の形成から始まる。それから欧州評議会、欧州経済共同体、欧州共同体と現在のヨーロッパ連合へと発展して行く過程で、ドイツは常に戦争犯罪を自己批判してきた。それがこの欧州連合をドイツが積極的に形成して行くための必要十分条件であった。
しかし、戦後の日本は自らの戦争責任に於いて、東アジアの平和的共存を政治課題に挙げていない。その大きな理由にこの国際地域の中心に東西冷戦構造がそのまま位置していたことが挙げられる。そのため韓国では軍事政権が1980年代まで続くことになる。そして中国の近代化も共産党政権によって進められ、東アジアの最大の国である中国の政治体制が今の一党独裁政権によって運営されている。その意味で資本主義民主国家の韓国や日本と政治システムが異なり、それらの国々が平和的に共存する政治的条件が整っていないとも言えるだろう。しかし、それに反論するようにして2015年のASEAN共同体構築を目指して様々な取り組みを加速しているASEAN(東南アジア諸国連合)がある。
言い換えると、日本は東アジアでの平和的共存を目指す東アジア共同体の形成のための指導的立場に立つことを国家の利益と考え、国の政治方針の中心に置いていないのである。そのために、EU連合を成功させたドイツと異なり、その逆に東アジアでの軍事的緊張を利用し、再軍備化を進めようとしているのである。
従って、誇り高き日本とはアジアで初めて近代化に成功し、列強として認められた日本帝国であると言える。その国家的イメージを再現すること、つまり美しい日本とは誇り高い近代国家日本のイメージなのだろうか。そのイメージは常に欧米コンプレックスとアジア蔑視の上に成立している。それはアメリカへの卑屈な限りの外交路線であり、同時に傲慢なアジア外交に繋がる。今や日本を超える経済力と軍事力を持つ中国を「シナ」と呼ぶ人々、それには計り知れないアジアへの差別と偏見がある。その差別や偏見は近代日本が培った歪な欧米模倣主義とその反動であるとも言えないだろうか。
問題は多くの日本人が欧米模倣主義とその反動的な精神構造を持ちながら、アジア蔑視と欧米反発の感情を持っていることを自覚しないことである。つまり、我々は日本文化への誇りを言いながらも、実際にはその確信が得られないのである。どこが日本的なのか、そんなものがどこかに行ったのでないかと思っている。例えば、もう畳の生活もないし、また和食文化もない。それなのに和食が世界文化遺産になる。つまり、我々日本人は、皮肉なことに日本の伝統を守りたい言いながら、便利な洋式のトイレ、システムキッチンとよばれる台所、寝室のベッ等々、ありとあらゆる洋式尽くめの生活の中にドップリト浸かっていることは確かである。それでも、保守勢力は欧米模倣主義を毛嫌いしながら日本主義、伝統主義に憧れているのである。
ある意味で本当の日本の伝統的文化を語るなら、そこには朝鮮半島や中国との長い歴史的関係があり、それに影響され、そしてそこを土台とした日本文化がある。つまり我々の文化のルーツを語るなら東アジア、中国や韓国との文化的共同体を無視しては成立しない日本的伝統文化があることに気付くに違いない。その意味で、東アジアの文化的共同体を無視する思想は極めて新しい社会思想であると言えないか。それらは近代日本で生まれ、そして成長した欧米模倣主義から生まれた思想であると言えないだろうか。
この精神構造(文化構造)が生み出す政治思想からは大東亜共栄圏の発想は生まれても、東アジア共同体の発想は生まれないことは確かだ。この我々の精神構造から生まれたものが、我々の仮想敵国としての中国であり、韓国無視の政治姿勢ではないだろうか。
政治の原点に返る
ここまで、中国や韓国との外交上の問題を引き起こすことを敢えて行う政治家、安倍氏の靖国参拝という政治的行為の深層は単に彼がそう願っていたと言う単純な理由では説明されないことを述べてきた。しかし、この日本人の近代化の過程で形成されたトラウマの構造に言及し、そして、安倍氏個人を代表する日本人の欧米模倣主義を生み出す精神構造について話したとしても、政治家安倍氏の責任問題が問われるのである。
つまり、もう一度、政治とは何か。この疑問の原点に返り、靖国神社参拝の意味を深く理解しなければならないだろう。その行為が引き起こす政治的リアクションに対する責任問題と彼が抱えた英霊と称する戦死者(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念とそれを表すための参拝行為の持つ政治的意味をここでは明確にしておかねばならないだろう。行きたかったから行きましたでは政治家としてあまりにもお粗末な説明と言えるだろう。
もし、そうした個人的感情でなく、多くの日本国民の希望として首相として戦争に身をささげた英霊(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念を示すために靖国神社を参拝したとなると、それを希望する国民がどれぐらいいるのかを知っているべきだろう。その上で、大半の国民の意志を代表して行く行為を選んだと言えるだろう。
もし仮に、この行為が中国や韓国に批判されることによって生じる感情、つまり靖国参拝は内政干渉であるという考えがあるとすれば、それを批判する東アジアの国々の立場や戦争犠牲者の感情に対する配慮も同時に問われることになるだろう。そして、これらの批判に対して政策として答えることが政治家の役割である。首相が国(日本帝国)のために戦死した英霊(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念をその犠牲者となったアジアの国々の人々に説明しても理解されないことは当たり前である。こちら(我々日本人)が加害者であり、向こうはその被害者である。例えば、酔っ払い運転の自動車事故で子供を殺した運転手が、仮に同じように彼もその事故で死んだとして、それは確かに彼は事故の犠牲者ではあったが、酔っ払いという重大な交通違反(侵略と言う重大な国際法違反)を犯している。その罪を認めない限り、彼は一人の犠牲者として被害を受けた人々から認めてもらえないだろう。それと同じ論理なのである。
靖国参拝の前に、日本の政治家は責任をもって、歴史的反省に基づき、考えてみる必要がある。何故なら、国の面子を語りそのために軍事的衝突も辞さないということが本当に政治家の取るべき外交なのだろうか。国民の生活や平和を犠牲にして守らなければならない面子とは何か。考えるべきである。
前の戦争でも軍国主義はそうした無謀な愛国心を掻き立てながら、国民を戦争に駆り立てた。そして協力しない国民委は非国民というレッテルまで準備した。戦争を勝手に起こしておいて、そしてそれに協力しない人々を脅迫し逮捕し拷問に掛けた。あの悲惨な歴史を忘れてはならない。戦争ほど大きな犯罪はない。人々を何の理由もなく殺し、家や財産を焼き払い、人々に憎しみの歴史を作る。これ以上の犯罪があるだろうか。その犯罪を国家の正義として語る。そしてその歴史を反省するのでなく賛美する。あってはならない政治家の行動である。
何が政治にとって重要なのか。国の面子か、それとも国民の人権や平和的生活か、それすら疑わなければならないことが今、日本の民主主義社会の中で、平然として行われようとしている。すでに長い歳月、国民主権(民主主義)、人権主義、平和主義の憲法を基にして培った社会の中で 我々はそう容易く軍国主義化を許さないだろう。そして、今、昨年安倍政権を支持たいた多くの国民も理解し始め、その結果は次の選挙に現われるだろう。私は、この国の人々の良識を信じる。
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