2015年7月26日日曜日

岩本拓郎氏の「今日の絵」から

三石博行


言うまでもないことだが、
自我の在り方として美はあり、美は自己の世界を構成している。

岩本拓郎氏の「今日の絵」を観ながら、私の中で湧き上がる詩(ことば)
それは、彼の色彩と形象へのことばの蛍光発光
それは、私の世界の深層からの共鳴



言うまでのないことだが、
自己に内在する世界の在り方として美はあり、
美は純粋表象としての自己としての世界である。

岩本拓郎氏の「今日の絵」から、私のことばが引き出され
ことばの世界に私は立つ
それは、彼と私の世界内自己の共音振
それは、彼の色彩表現への私の共光採



言うまでもないことだが、
美術家は時性意識と感性空間のマジッシャンなのだ。
彼の描く色彩や形象は、
注り来る美の時性を焦点化し、キャンパスに感性を固定化する。


それでも、やまない美の時性は、次のキャンパスに乗り移り、描かれ
それでも、治まらない情念は、時を増殖し続ける。


岩本拓郎氏の「今日の絵」は、過去から現在、そして未来への物語なのだ。


休むことなくつづく「今日の絵」
休むことなくつづく「色彩表象の戯曲」

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岩本拓郎氏のブログ
https://www.facebook.com/takurou.iwamoto.73?fref=tl_fr_box&pnref=lhc.friends
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2015年7月25日土曜日

「美にとって時間とは何か」

所幸則氏のポスト光描写芸術への挑戦

- 所幸則氏の写真展に行って -


三石博行


高精度の写真芸術は
生きている時性を極限にまで微分し
超写実主義の表現を可能にした。

しかし、それは
光描写の芸術は瞬間を切り抜き
リアルな世界を映し出す芸術。

しかし、彼は
写真芸術の進化に敢えて立ち向かい
機械による極限の時間微分から
生た人間の表象認識の時性
を描く。


さらに、彼は
光から色彩を奪い
視覚は光度に集中され
時性のみが物語る。


白黒の世界は
鑑賞者たちを一つの事実・生きた時間に集中させ

高速で走る新幹線から
視覚的な構造性が維持された遠距離の世界
パターン化される前に時間と共に過ぎ去る近距離の世界

目の前にある形象前の光の世界
構造前の光の表象現実


だから、
時性を微分する
写真芸術は生きた世界を
精巧に静物画化した
と、彼は語る。


だが、
現実の視覚の世界は
光の速さに押しつぶされ、
具象性を与えられないまま
非構造化されている
と、彼は語る。

それは、
写真芸術の進化
超写実主義静物画化への流れ
に抗うかのようにも観える。

そして、
美に取って時間とは何か
を問い掛ける。

あたかも、
分析、精密の概念に含まれた
「生きた時性」を排除し続けた
現代科学文明への
問い掛けのように思えた。


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所 幸則 「アインシュタインロマン」
https://www.facebook.com/events/1572418426342840/

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武蔵野大学教授 荒木義修氏と所幸則氏の写真展に行く。


2015年7月3日金曜日

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」


どの分野でも言えることかもしれないが、理論的に考えること、物事の基本構造を理解するための方法や論理を見つけることは、大切なことだと思う。それが出来ていることによって、応用問題を解くことが出来る。生活の中で問われることは、多くの場合、応用問題のようなものである。

つまり、柔軟な発想や状況に適した処置は、その場その場の対応ではなく、多分、物事の本質を理解し、その解決を状況に照らしながら行うことが出来ることを意味している。もし、思想や哲学を課題にする人々が日常の中で生じる事象に対して適切な対応が出来ないといことを、それらの思想問題や哲学的課題と理解していないなら、多分、それらの思索や研究は殆どが意味を成さないものではないだろうか。

私は、思想や哲学を日常生活の改善のための道具として位置付けて来た。その考え方は、日本の大学での哲学研究では主流ではないと思える。現在では少なくともそのことは変化しつつあると思われるが、西洋の哲学という学問を輸入し、近代日本の思想を構築してきた日本では、哲学研究の大半が「哲学史の研究」であった。哲学者とは「哲学史研究者」であり「過去のそして他所の哲学者の研究の紹介者・翻訳者であり解釈者」であった。

しかし、最近、少し変わってきた。哲学者と呼ばれる人々が、自らも哲学者と自称しながら、テレビ番組の社会評論や文化評論に他の分野の人々と共に、社会や政治、時にはスポーツについてまで評論・コメントしている。それを観ている大学哲学人は、嫌な感情を持っているかも知れないが、世間が、哲学者と自称している人々に歴史哲学の話でなく、今の世の中のことを話してくれと言っていることには違いはない。

その意味で、日本の哲学は、大学から変わるのでなく、世の中の人々の哲学に対する要求によって変わるのだろうと思った。哲学は常に反哲学的(哲学的であることを否定すること)であることによって、その哲学の存在意義を深める。思想は生活や社会実践に活かされ、かつ点検されることによって、その意味を理解される。日本の哲学が形成されるとすれば、それは大学からではない。多分、人々の生活運動と呼ばれる新しい時代に向かう生活文化活動とそれに向き合う自己探求の中から生まれるのだと思う。

2015年7月3日facebook記載