2014年12月29日月曜日

自己認識の基本を作る他者と自分の差異、差別の構造

差別とは何か。それと向き合うこととは何か(2

三石博行

フランス人の人種差別に関する私の意地悪な実験


1980年代、フランスにいた頃、善良なフランス人をつかまえて、悪い冗談をやっていた。フランス人に「何人ですか」と聞かれた時に、「ベトナム人です」「中国人です」「韓国人です」「フイリピン人です」と答えてみた。それから、フランス人たちの反応を観て、「否、ごめんなさい。日本人です」と言った。そして彼らの反応を再び観察した。

実に、ふざけた話である。こんな冗談を言われたら腹が立つと思う。「ふざけるな」と言いたくなる。しかし、不思議なことに善良なフランス人たちは誰も「ふざけるな」とは言わなかった。

彼らにしてみれば、日本人の私がベトナム人とか中国人だと言っても、誰も私の言ったことを不思議だとは思わない。と言うのも、フランス人から見ると、東アジアや東南アジアの人々は、ほぼ同じ顔立ちをしているのだ。

逆も同じで、私たち日本人もフランス人、スペイン人、ドイツ人等々、西欧人の顔立ちから、それらの人々の国籍を正確に見分けることは出来ない。むろん、顔の細部をよく観れば、国籍に付随する共通する特徴(統計的平均値として)もある。だが、それも必ずしも、例外なく、それらの特徴が人々の国籍に完全に一致している訳ではない。

しかし、アメリカでは、世界中の民族が集まっているので、大まかな人種的区分で人々の顔の特徴は分けられる。例えば、インド系の顔をした人が日本人ですと言っても、また東アジア系の顔をした人がフランス人ですと言っても、通用しない区分が出来上がっている。だから、私がアメリカで仮に「私はイギリス人だ」と言っても、「アジア系イギリス人」だと思われる。

フランスで、東(東南)アジア系の私が「ベトナム人です」と答えたら、フランス人たちをそう思ってくれる。そして、彼らは私を「ベトナム人」として扱ってくれる。彼らのベトナム人に対する態度が示される。また、「日本人」と答えたら私を日本人として扱ってくれる。日本人に対する態度を示してくれる。私の目的は、フランス人たちの微妙な態度の変化を観察することであった。その目的は達成された。

自由、平等、博愛、人権の国フランス、そして人権教育を確りと受けた文化人としてのフランス人の本音が観える。彼らの中に奥深く潜む差別観が理解できる。旧植民地の人(実際はインドシナ戦争で負けたのだが)、世界第二の経済大国(1980年代の日本)から来た人、その二人の人への態度は明らかに違う。その違いを理解するための私の実験は成功したようだった。その目的は、人が人に無条件に行う差別意識はどこから来るのかという実験であった。

フランス人にとっては人迷惑な実験であった。善良なフランス人たちは、まんまと、私の実験の材料となってくれた。彼らには本当に気の毒なことをしてしまった。しかし、こうした実験をしなければならなかった私は、この人権の国フランスで、差別されていると、きっとどこかで思っていたのかも知れない。


差別意識の起源としての社会的文化的共同主観の形成


その実験結果を簡単に紹介すると、以下のことが言えた。つまり、人が人を観ているとき、その殆どの印象や評価はその人の国籍から始まる。当たり前のことだと言えばそれまでだが、人の評価は、その人がどの国で生まれ育ったかという事でまずは決まる。国籍が、人を判断するための第一の材料となるという事だった。もちろん、その第一評価が最後までその人の評価に付きまとうことはない。もし、付きまとうなら、それは正しい評価関係がなかったことを意味する。

例えば、自分の興味のある国から来ていると、当然ながら関心を抱く。貧しい国から来ていたら、お金に苦労しているのだと察する。旧植民地の国から来ていたら社会に根強く存在する偏見を持ち込む。これは実に当然で自然な人々の反応であると言える。

人はその人個人を理解するために非常に多くの相互コミュニケーションの時間を必要とする。そんな時間がなければ、手っ取り早く、一応、社会で評価されている基準に当てはめる。その基準からその人の評価が始まる。これは、ある意味で、便利な尺度を社会が準備してくれているとも言える。その尺度・社会的偏見を持って、人は人を手っ取り早く判断している。

忙しい人々に取って、この尺度が在ることは便利である。何故なら、本来、非常に長い時間をかけて人が人を判断しなければならない過程を、一挙に、短縮してくれるからである。

人が人を判断する便利な尺度、社会的利便性と人権問題を起こす「社会的偏見」は表裏一体のものである。便利な尺度によって、人は人を無条件にあるパターにはめ込み、ある評価を下し、安心して排除することが出来るのである。

一般に、国や民族、社会や集団を形成して生きている我々は、社会的常識を持って共存し、文化的感性をもって生活している。その社会的常識や文化的感性が「社会文化的偏見」と表裏一体のものであると言える。

人は他者への偏見を持つことから、その他者との関係を持って始まる。人は常に他の人に対して社会的常識と呼ばれる同一の社会的偏見を求め、その社会的常識が共有できなければ、その人と付き合いたいとは思わない。何故なら、非常識な人からは常に大変な目に遭わされて来た記憶を持っているからだ。

また、人は他者に文化的感性と呼ばれる同一の共同主観(文化的偏見)を要求する。そうでなければ共同生活は無理だと知っている。ことばが通じなければコミュニケーションを取ることはできない。文化的共同主観の土台は同一言語によって成立している。おなじことばを使い日常的な会話は始まる。勿論、バイリンガル(二つのことば)を公用語としている国では、その二つの言語によってコミュニケーションは成立し、保障されている。おなじことばを使っているということが文化的共同主観を共有している条件となる。その意味で、文化的偏見も共有されていると言える。

社会的常識・社会的偏見や文化的共同主観・文化的偏見を共有していることを、コミュニケーション可能、共感、協働可能とか言っているのである。これらの偏見なくしては、時代的社会的な共存の条件を揃えることは出来ないだろう。

もっと踏み込んで言うなら、社会的かつ文化的共同主観的世界の中では、そこで共有されている美的センス、社会的価値観はもとより、国語と呼ばれることば(記号)、表象、意味の同一集合体によって私たちの自己認識と呼ばれる自己意識や世界認識と呼ばれる対象認識は形成されている。

コミュニケーション可能なことばを共有することで、他者との会話が成立し、他者やそれを含む世界から自己意識や自我が形成される。意識とは他者やそれを含む言語とその意味によって構造化、つまり概念化されたものである。言語や社会生活規範の習得、つまり、国語や社会文化的価値観は、他者とのコミュニケーションを通じて形成されていく。そして、このコミュニケーションによって、民族意識、国民性、地域社会性、家族感情と呼はれる文化的共同主観性が個人の中に確りと成立して行くのである。

社会的存在である人は必然的に何らかの共同主観や社会的偏見を持って生きている。逆に、ある社会的常識、つまり社会的偏見を持たない人は、社会生活を営むことは出来ない。また、人は異なる文化的感性や社会的常識をもつ他者を排除する。それがその人が所属する社会を維持するために必要な行為となる。

社会の秩序を守るために、社会常識のない人々を排除することが必要となる。その排除の行為の前に、つねに文化的異分子を検閲するための社会意識が機能する。それを社会的偏見と呼ぶが、その社会的偏見は人が社会的存在であるために必然的に所有した差別とよばれる意識である。自然に持っている自我の防衛機能であるとも言える。逆に言うと、その社会的偏見、差別こそが、彼が持つ文化的存在者としての自己意識なのだとも言える。


自己認識を支える社会的文化的偏見


差別の問題を掘り下げていくと、自己認識の在り方にたどり着く。言語の意味の形成の仕方と類似している。あることば(の意味)に対することば(の意味)としてべつのことば(の意味)が形成されるように、自己とはある他者に対する差異的存在として自己認識が生まれる。

その意味で、差別することは自己を他者から区別し、自己が独自の存在である根拠を確立することだとも言える。人は、他者との比較によって自己を理解する。他者が居なければ自己もない。自己とは他者によって形成されたものであると理解してもよいのである。

つまり、差異を見出す意識、違いを感じる感性、他者を自己から差別する意識が、社会的存在としての人の精神構造の基底に横たわっている。この意識無くして、人は共存関係や協働作業もできない。差別・差異が存在しなければ「自己」は生まれないという事は、差別するという意識が、自我や自己意識の基本を構築するために必要な意識であるとも言える。

その意味で、社会的偏見や社会的差別の起源は、他者との差異を理解し形成される自己意識があるとも言える。人は、国や民族、生まれ育った社会や集団によって規定された意識活動(言語文化活動)によって、自分という自己意識を形成している。私という自己意識は、社会文化的環境の産物であり、その意味で、人は社会的存在であると言われるのである。

極論すれば、人種的、民族的、社会的な偏見を持たない人はいない。それらの社会文化的偏見こそが、自己意識の土台となっていて、時代的文化的に規定された自己意識の基本型を創っている。それらの社会文化的偏見と歴史的社会的存在者のもつ自己意識は裏一体のものである。

このことは、人権思想から考えると、厄介な問題を提起していることになる。言い換えると、「人は人を差別していることで、個人として自覚的に成立している」と言っている。社会的な差別は正当化され、もちろん、人種差別も人として自然に生み出されたものだと解釈される。自己認識の基底を形成している「差別」という意識構造を肯定することで、今日、人権思想が批判するあらゆる差別が肯定され、その存在理由を語ることが許されることになる。

これまで、人類の歴史の中で、差別がなかった社会や文化はあったろうか。人権剥奪を意味する人種差別や性差別から社会的偏見を意味する職業差別や学歴差別に至るまで、差別はどの社会にも存在していた。高度な民主主義文化を持つ国でもやはり差別は存在している。それが完全に社会から消滅した歴史を我々は理念の上では知っているが、現実では知らない。だから、差別を無くすることは非常に難しいという結論に至る。


だからと言って、差別を認めと言っている訳ではない。また、差別を廃絶しようとする努力が無駄だと主張している訳ではない。歴史を観れば、中世社会より現代社会が、より多くの人々の差別は無くなり、人権が確立されて来たことは疑えない。現代社会になって、多くの人々が自由や平等の権利を獲得して来た。そして今後、より人々は差別を克服するだろうと思っている。


「差別とは何か。それと向き合うこととは何か」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_99.html


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