2016年8月22日月曜日

装置としての政治社会学会

私にとって政治社会学会活動の意味とは

私は、元々、哲学分野の研究者であった。勿論、社会問題に関心はあった。哲学と反省学と位置づけ、応用哲学を科学基礎論と考えて「生活資源・情報論=生活学原論」に関して論文を書いていた頃、吉田民人先生に出会った。吉田民人先生のプログラム科学論やその展開としての設計科学論に大いに共感した。

生活主体を含み系としての生活環境を調査研究する生活学(今和次郎が唱えた生活学)は、その意味で、「自己組織系の生活プログラム・設計科学」であると理解した。

槙和男氏と、「自己組織性の情報科学」から吉田論文のほとんどを毎日、インターネットで学習研究会を続けた。また、Eddy VanDrom氏と主な吉田論文のフランス語訳をした。
さらに、政治社会学会の理事長(当時)の荒木義修氏と出会う機会があった。荒木氏から政治社会学会を紹介され、学会に参加した。

総合的な人間社会政策学・設計科学としての政治社会学

政治社会学は人文科学、人間社会科学によって理解認識された課題に対する「問題解決のために設定された学問」、言い換えると、政治社会学のテーマは、すべての社会現実を受け止めた所に存在すると言える。そこで我々は、政治社会学を「総合的な人間社会政策学・設計科学」であると考えた。

こうした政治社会学の学問的特性(科学性)から、研究会の課題は、時代の流れや文化的広がりに沿って、自己増殖的に増え続けるだろう。その意味で、この研究会の課題が、この研究会を構成する会員の研究課題に限定され、そして規定されていることは言うまでもない。

我々は、この半無限の政治社会現実をすべて相手にして語ることは出来ない。しかし、我々は、すべての政治社会現実が我々一人ひとりの研究者の課題に、時代的にそして社会文化的に、相互に関係(相関)していることを理解するのである。

研究会の意味、個別研究者の利益保証、集団的相互関係、学問的刺激

当然のことながら、この学会での研究活動や研究交流活動は、この学会を構成する会員の研究課題に一次的に規定される。学会員が積極的に自分の研究課題を他の学会員たちに示し、共通する課題、または拮抗するテーマを相互に理解し、意見交換し、自分の研究に役立てることが、この研究会の存在意義となる。

この限定的な構成会員の研究活動上の利益を無視しては、この学会の現在的な発展はない。その意味で、我々は、政治社会学会員のそれぞれの研究課題やニーズを理解しなければならないだろう。と言うよりも、学会のメンバーの参加とその広がりによって、この学会はアクチィブになるだろう。

つまり、この研究会はそのための機能であると謂える。つまり、この研究会が、構成メンバーの学問的ニーズをくみ上げることが出来れば、この研究会活動によって、多くの有意義な議論、共同研究の可能性、学問的刺激を生み出すことが出来る。これこそが、学会活動のあるべき姿であり、その存在理由でもあると言える。

「文理融合型総合政策学・設計科学」研究の装置としての政治社会学研究とその研究会

日本学術会議の登録されている学会は、大凡500以上もある。その中で、人文社会学系の学会は、半分以上、三分の二ぐらいを占めている。つまり、300近い人文社会系学会がある。政治社会学系にしろ、同じ単語を使い、また、それらの組み合わせをもって、複数の学会がある。そこには、戦前から続く所謂伝統的な学会、例えば、日本社会学会や日本政治学会などもある。しかし、その殆どが、200から300人の会員の弱小学会である。

政治社会学会は、伝統的な学会、日本社会学会と日本政治学会の「政治学」と「社会学」とを用語結合させた学会であると揶揄することもできるが、こうした新しい学会組織化活動の、それこそ政治社会学的な理解に立てば、古い学会の権威主義や組織硬直化に対して、新しい学問の息吹と流れを模索した人々が、新しい学会を組織したと言える。この学会は、その意味で、科学技術文明社会で必然的に課題となる文理融合型の政策学を課題にして、文系理系の融合型政策立案活動を前提とした学会を提案組織した。
しかし、その謂わば「大風呂敷」に「実」を包み込めるか、それとも「幻」を包んで喜ぶかは、今、この現在の「闘い」としての「学会活動」以外に何もないと言える。古い体制に反抗した人々が、力尽き反旗を下すか、それとも彼らを超えるかは、新しい学問「文理融合型総合政策学・設計科学」の創造以外にもはや他に何も見当たらない。

多くの弱小学会が、少なくともその呼びかけや組織化の初期段階では、形骸化した学問研究の組織や課題に対して、反旗を翻したのだとすれば、今、それらの思春期の終わりに、もはや大人への反抗力を持ち合わせていない状態になってはいないか。そうだとすれば、それらの学会を一日も早く、解散して、確り安定した伝統的な学会に吸収されるべきではないだろうか。その自己解散を決意できない学会は、若手研究者の研究費の無駄遣いをするだけで、それ以上の何物でもないと言われることになるだろう。
こうした夢見る弱小学会が、大きくなり、学術集団の主流となり、それを中心とした新しい学術体制化、学術研究の流れを生み出すことが出来る条件とは何か。その源流として伝統化されるには、まず、新しい学問「文理融合型総合政策学・設計科学」が成立し、そしてこの学問が社会的に認められ、かつ、学問の主流を形成しつつある状況が生まれているが条件となるだろう。例えば、欧米では、1960年代、科学哲学は哲学研究の主流ではなかった。しかし、1980年代になると、それは次第に哲学研究の大きな研究課題となり、そして、現在では、その主流になっている。同じことが、癌免疫学でも謂える。学会の栄枯盛衰とはその学会が展開する学問の時代的評価に依存し相関しているのである。

言い換えると、我々政治社会学会の研究者が、科学技術文明社会での人文社会学・政策学の在り方として「文理融合型総合政策学・設計科学」を形成展開できることなくして、この学会が弱小学会から脱却できる道はないと理解すべきだろう。その意味で、この学会の組織問題とは、この学会の趣旨や目的を実現する戦略を、この学会活動を通じながら課題化し、そして具体化できるかと言うことになるだろう。

この学会の研究会活動は、そのための装置である。つまり、それは、この学会の設立理念「文理融合型総合政策学・設計科学」の創造のための研究活動に執着し続けることが出来る装置にすべきであると言える。この大風呂敷の学問的課題に一人の研究者が固執し続けることは天才的な力がなければ不可のであが、しかし、集団となり、そこに、云々この理論や実践によって「文理融合型総合政策学・設計科学の創造は可能である」といい共同主観的世界を構築することで、一歩、そのまた一歩の道のりが可能になると言えるだろう。

さて、新しい学問の形成装置としての政治社会学会とその研究活動の在り方を、新しい学問の方法論として考えてみたい。学会研究会の運営もその一つの課題だと思う。では、それはどうすべきか、考えてみた。それは、多分、決して、無駄な作業ではないと思う。政治社会学が政策学であるなら、学会運営はその政策学の一つの実験に過ぎない。実験ができる機会を持つことによって、より、理論は確かなものになると言うことは、すでに説明するまでもないことだと思う。

すべての現実社会の課題としての政治社会学のテーマ

政治社会学の課題は多岐多様な課題がある。その基幹的な課題を列挙するなら、以下のような課題が存在する。それも全ての課題の中の一部に過ぎない。

経済社会構造改革、
食料問題(農業、漁業政策を含む)、
エネルギー問題(原発問題、再生可能エネルギー、省エネ対策、エネルギー資源枯渇等々の問題を含む)、
鉱物等自然資源問題、
立法制度改革、
選挙制度改革、
財政改革(税制等の課題を含む)、
司法改革、
行政改革(地方分権を含む)、
教育(義務教育、高等教育、海外や通信教育、生涯教育、社会や企業内での再教育等々を含む)、
科学技術政策(先端技術開発、伝統技能、融合型科学技術開発、国内科学技術資源管理等々の課題を含む)、
育児・幼児教育(人口問題対策を含む)、
医療(先端治療、健康、医薬に関する課題等を含む)、
福祉、
文化、
環境、
自然災害、
治安(防犯、消防等を含む)、
情報政策(通信、秘密保護と情報公開等を含む)、
外交(国際交流、国際支援、軍事的外交を含む)、
国防、
労働政策(労働人口、労働力保全政策、雇用問題等々を含む)、
家族政策(婚姻制度等を含む)、
村落、市町村、都市計画、
市民社会政策、
交通流通政策、
観光政策(環境、文化政策等と重なる課題)、
報道(公共放送や市民メディアの課題を含む)、
人権(性的、社会的、経済的、人種的、等々の差別問題を含む)、
等々、
謂わば、現実社会のすべての課題が政治社会学の課題となる。



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