三石博行
今までの研究してきた課題、これは主観的には一貫した流れを持っていると信じていた。いや信じていたから色々な課題に飛び火しながら、その時その時のテーマに没頭していた。
しかし、時間が経って、それらの課題が今更ながら「何のために、そのテーマを問題にしていたのか」と自問するとき、今まで一貫していると信じていた課題に亀裂が生じ、その主観性を懐疑の坩堝の中に放り込まなければならないのである。
そうしたときに、今まで取り組んできた複数の課題にそって、ファイルを作りなおし、書いてきた論文や文章(未発表文章も含めて)を配列しなおした。これらの狭い研究室行った作業は、それでも、その懐疑の坩堝から完全に何かを抽出するためのラジカル反応を生み出したとは言えなかった。
そこで、そもそも幻想でしかない確信とやらを真面目に取り戻す作業に取り掛からなければならないのである。それらの主観的な確信は、私という人間が現実の世界に対する感覚や感性を前提にして成立している何らかの満足感にすぎないのではないか。真面目に私が取り組む課題が時代的課題だと言えるのか。
そうした主観的思い込みが、しかし、他者の主観的思い込みと共通し、その共通総数が多いなら、真面目に私は、主観的に思い込んだはずの課題を時代的課題と錯覚してもいいのだろう。そう考えるのは共同主観性ということばを知っている人の共通のテラを含んだ言い分なのである。
つまり、その主観的確信の不足とは、共同主化されていない私の課題の自覚に過ぎない。私はこの主観的に納得してきた「時代的問題性の解明のために」という確信と呼ばれる感情一種の幻想を共同幻想化する方法を知らないのだと思えた。
主観的確信を共同主観的確信へと発展させることは、自分を自分で納得させていた行為目的、つまり自分の行為を正当化し続けてきたある大儀を、社会的に検証し、他者の批判の北風と共感の日照りに十分に晒(さら)すことが前提となる。
もし、冷たい他者や暖かい他者との出会いを避けるなら、考えや主張は主観の空間に留まり、彼個人の生活を支え、彼個人の生き方に方向を示したとしても、いつのまにか彼個人の主観的な世界の中で拡大し、そしていつしかその個人の生物的生命現象の消滅と同時にそれも消滅するだろう。
主観的世界を共同主観化することが「生活運動から思想運動」への作業に過ぎない。その作業は、私の主観的確信を発信することによって、まず始まるのである。
そう気付いたとき、今までの私はの哲学作業が問われた。これまで十数年間、参加している学会での発表以外に、自分の考え方を社会に発信したことはなかった。つまり、私は自分のために思想を食べ続けてきた哲学消費者であった。そして私に素晴らしい哲学という生きるための糧を提供した哲学生産者になる努力、そうでなければならないという志向性を真面目に問いかけてはいなかった。
そう思い、昨年の12月にこのブログ、『生活運動から思想運動へ』をはじめてみた。 このブログをはじめた原点に戻り、このブログを継続する意味を再度理解したいと思った。
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