2020年11月13日金曜日

詩、それは心象風景のスケッチ (詩)

三石博行

 

詩は癒しの森で生まれ

詩は救いの海辺で見つかった

ことばのスケッチ


書くことで救われた青春時代

書くことで癒された日々


詩は日記の中に

湧きだすことばの泉

溢れる感性の流れ


書くことで救われた私

書くことで癒された私


詩は

書く快感の森で生まれ

書く想像の海辺で見つけた

ことばのスケッチ


書くことで救われた世界

書くことで癒された世界


詩は書かれ

詩は忘れさられ

詩は書かざるゆえにただつづけられる


2020年11月13日

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ブログに書いてきた詩、詩は私にとって癒しであり、こころの休憩である。湧き上がることばを書き連ね、その文体が詩となる。詩を書く行為自体が意味があり、書かれた詩は私にとっては過去の心象スケッチにすぎない。

私の詩は他の人々に見せるために書かれた訳ではないが、友人へ読んでもらうためにブログに記載し、それがいつの間にか集まって「詩集」になった。また、画家の岩本拓郎氏、写真家の森一生氏や所幸則氏の作品、偶然、HOTOHITO 「日本の風景」で見つけた日青さん写真「幻想曲」に心を揺さぶられ飛び出してきたことばが詩になった。

しかし、私の詩は執拗に繰り返される課題から出ることなく、繰り返される呪縛の森を彷徨っているようだ。何故なら、私は仲間と共に詩を書いてきた経過がないからだろう。この課題を超えることは出来るか。そこで、インターネットで紹介されている詩人クラブを探してみた。関西詩人協会のサイトがあった。そこに連絡を取った。関西詩人協会の事務局長永井ますみ様から返事が来た。

この詩は、永井ますみさんへ自己紹介を書いたときに出て来たことばのスケッチである。


関西詩人協会 http://kpapoem.web.fc2.com/

2020年11月13日

詩集 『心象色彩の館』 目次

2020年11月12日木曜日

世界の国々での疫学・医療対策の共通点と相違点が示す課題

 日本の新型コロナウイルス対策を評価するために、現在までの世界での対策に関する評価を行いながら「合理的対策」について考える。合理的対策の存在に関する疑問と「首尾一貫しない日本の新型コロナウイルス感染症対策」への苛立ちは同じ課題に根差しているように思える。もし、合理的対策が無いなら、首尾一貫しない日本の感染症対策への苛立ちは根拠を失う。そして、むしろ、合理的対策とは何かが問われることになる。防疫や治療に関する感染症対策は新型コロナウイルス対策の一部であるが、ここでは、感染症対策に限定した議論を行いながら、「合理的対策」とは何かという課題、それは取りも直さず「一貫性を欠いた日本の感染症対策」に関する分析へとつながると思う。


A、世界の多様な感染症対策

世界の国々の新型コロナウイルスによるパンデミックへの対応は国々の社会、経済、政治や文化によって異なる。しかし一方で、災害源がコロナウイルスである以上、それへの対応は共通しているだろうと思われるが、それぞれの国に共通する対応とそうでないものがある。とは言え、病原体が同じである以上、防疫に関する対策は共通していると思われる。もし、その対策までも国々の事情によって異なるのであれば、それらの原因を理解しなければならない。

防疫対策として

1、検査体制充実とクラスター対策

2、陽性者の隔離

3、接触感染防止対策(三密対策)

医療対策として

1、軽症者の隔離・監視と治療法

2、中・重症感染者の治療法

3、重篤感染者の治療法

以上の防疫と医療に対する考え方は殆どの国で共有できると思われた。実際は防疫対策に関して大きく二つの流れがあった。その理由は「検査体制充実」に対する重点の置き方の違いから生じていた。一つは、2020年2月から6月までの日本に代表されるようにPCR検査を重視しない立場で、その主な理由は「検査によって多発する陽性者を収容することで生じる医療崩壊を避ける」ためと言われてきた。

こうした問題は、防疫対策と医療対策を別々に行うことが不可能である現実から生じている。「隔離」が伝統的な疫学対策、防疫の基本である。病原体の検査技術が進むことで、感染者の物理的「隔離」をより正確に行うことが出来るようになった。つまり、検査で陽性者と非陽性者を判別し、陽性者を隔離することで、隔離空間を縮小することが出来る。隔離空間の縮小によって、まず、合理的内陽性者の管理(隔離と治療)が可能になる。そして、すべての人々を隔離しなくてよいことで非感染者の経済や生活活動を守ることが出来る。細菌学、遺伝子学、検査技術の進歩によって検査隔離法が疫学対策の主流となっている。


B.防疫対策

防疫対策の具体事例に関して、世界の国々での共通した疫学・医療対策や異なる対策、もしくはその対策の程度の違いがある。それらの4つの防疫対策の具体事例に関する課題を以下に示す。

防疫対策に関して

1、検査体制充実とクラスター対策を巡る対応

・PCR検査を巡る意見や対応(検査条件の違い)

・クラスター対策(濃厚接触者に限定するか)

2、陽性者の隔離を巡る対応

・軽症感染者の徹底した隔離か、自宅待機か

・無症状感染者の徹底した隔離か、自宅待機か

・感染者の隔離日数

3、接触感染防止対策(三密対策)を巡る対応

・マスク着用の義務化

・ソーシャルディスタンス

・閉鎖空間での飲食、イベント等の禁止

・換気、通気設備の設置要請

4、その他

・検温対応の義務化

・消毒液の設置義務化

・感染拡大の評価と隔離対策のレベル設定

世界の国々での防疫対策に関しては、共通点と相違点がそれぞれ見られた。では、医療対策はどうであったか。


C.医療対策

医療対策に関して以下、殆どの国で行われた治療

1、軽症者の隔離・監視と治療法

・軽症感染者及び無症状感染者の医療施設への隔離

・軽症感染者及び無症状感染者の準医療施設への隔離

・軽症感染者及び無症状感染者の自宅待と自己治療要請、(厳密な隔離を行わない)

2、中・重症感染者の治療法

・感染対策を行っている医療施設での治療

・抗ウイス剤、免疫抑制剤等、臨床事例から有効性を確認すた薬剤の投与

3、重篤感染者の治療法

・集中医療施設での治療

1で示した「軽症者の隔離・監視と治療法」では、国によって対応の相違があった。しかし、どの国で2の「中・重症感染者の治療法」や3の「重篤感染者の治療法」で、共通した医療が行われた。もちろん、医療施設の整った先進国とそうでない国々での医療格差による対策の違いはある。


D、異なる対応の生まれる背景

世界の国々での疫学・医療対策の共通点と相違点を生み出している要因は、以下4点に列挙することができる。

1、未知の新型コロナウイルスへの疫学的理解の相違

2、医療崩壊を危惧することによる検査体制への疑問

3、疫学対策(疫学専門家集団)と医療対策(感染症医療専門家集団)の二分化

4、今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミックはワクチン(予防対策・安全管理)がない状態によって引き起こされている。つまり、感染を防ぐための手段を持たない状態で取られる感染症対策である。

この状況から合理的な対策がどのようにして生まれるのだろうか。むしろ、この状況では、その行方も、また実験的に講じられた対策を検証すること以外に予め合理的対策なのないのが現実の状況ではないかと思える。


2020年11月12日



三石博行 ブログ文書集「パンデミック対策にむけて」

2020年11月11日水曜日

私という現実 (詩)

三石博行


もういいのです

私はそう言いながら、隠し立てしていら不都合な現実を眺めていた


もういいのです

私はそう呟きながら、見たくもない事実を冷たく見つめていた


もういいのです

私はそう嘆きながら、苦々しい過去を後悔していた


それらの不都合な事実は、内攻され、私の今という意識となる

それらの隠蔽された真相は、内向し、私の今し方という欺瞞に化ける


どうすべきか

どうしなければならないか


向き合う力は残っているか

受け止めるこころはあるのか


すでに二か月になる逃避の傷咎め

もう遅いのか

それともまだ間に合うか


私に残された時間がない


2020年11月11日

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詩「私という現実」について

脊髄異形成症候群と言われ、おまけに余命3年と言われ、その現実を受け止めながらも、それを公にすることを避けて来た。家族や親しい友人、仕事上迷惑を掛けられない人々にそのことを告げた。しかし、フェイズブックでそのことを書くことを避けた。物書きもどき(プロの物書きではない、趣味でものを書く人たちという意味、私もその一人だと思う)にとって、自分が最も深刻に受け止めている現実を語らないで、ものは書けないことを理解できた。では、どう表現すべきなのか。それをもう2か月間も悩んだ。

結論として、私の現実について別に宣言することも告白することも必要ない。しかし、もし、私のことばにそれが滲み出るなら、そのことを敢えて否定し隠蔽することはないと思った。今年(2020年)7月から今日(11月11日)まで、自分の現実を受け止めるために時間が必要だったようだ。それほど、私は弱い存在であると思う。

考えると過去にあった不都合な事実から逃げまとって来たように思う。その不都合な事実について赤裸々に書きあらし、自己弁護のないことばに私が包みこまれるなら、その時、私は自己の現実により近づくことが出来るのだと思う。しかし、この困難な作業、多分、多くのもの書きたちが苦闘しつづけた課題、その課題に向き合う最後の機会だと思う。そう思いながらも、そうならない自分があるようだ。

2020年11月11日


詩集 『心象色彩の館』 目次

問い掛けの中の私 (詩)

三石博行


飽きることなく

問い掛けの波に洗われ


転がりながら

反復する蛇紋石


寄せて引く刹那の波

溶け込む湧きだす轟音のリズム

世界という意識


衝突行列に振動する砂浜

繰り返す泡と渦の消滅のクロッキー

私という意識


私は

寄せては引く波

刹那の振動


私は

微分定数

何れゼロになる


それでも私は

問い掛ける

反復という存在現象


9月8日作

9月25日修正


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詩「問い掛けの中の私」について

この詩は、繰り返し自分を課題にする自分とは何かということをテーマにして書いた詩である。と言うのも、私の詩の課題はつねに自分なのだ。殆どの私の詩はその課題から生まれ、この課題の中から出ることはない。

何故、それほど私は自分に執着し、その課題から解放されることなく、思索を続けているのだろうか。自己への執着、もしくは自己とは何かという解明不能な問い掛けと言う呪縛。しかし、それらの問いかけも、ある意味で「刹那の意識」であり、それを生み出す肉体やその肉体に刻まれた情報(記憶)である。

仮に、私の命が消えるなら、この問いかけや刹那の意識も存在しないだろう。残されて現実とはこの問いかけが消滅し、それが私の意識から観れば虚無であり冷たい死の世界である現実の世界となる。つまり、私は自分に執着するこの刹那の意識は、この世界のどこにも存在しないことになる。
この倒錯した結論をあざ笑うようにつぶやく「私の命が消えるなら」と言う現実に出会う。

しかし、こうした自己への問いかけや刹那の意識とは無縁の会話がある。

例えば、現実という状況の中で主観を無視した会話、つまり、科学者の会話、その会話では自分とは主観のない人間一般集合の中の一つにすがいない。その科学的会話から、現実の自分がより正確に理解できる。

また、未来という幻想(主観)を現実化という言及、つまり、社会運動家(宗教家)のことば、そのことばの中では、自分がより良く生きられるようにより良い世界を求めるという理想(幻想)が、現実の自分を超えて存在している。

更に、生活するという行為の中で選ばれる結論、つまり、日常の自分の姿、その現実の中で、私は生きている。その現実の私から出発することしかない。しかし、そうした当然の理解は日常という生活の雲の中でぼやけてしまう。

そして、日常生活の現実を理解し受け止めるためにこそ、自己存在を問い掛け(反復)を行うために哲学が必要とさる。しかし、その哲学は知る方向の逆ベクトル的な存在であることを求められているようだ。その逆ベクトル的とは何か。
 
9月25日作
11月11日修正


雲 (詩)

三石博行


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えて行く

病室から静かに去る人


青い空は

いたずらな雲たちに落書きされ

病室で静かに消えていく命


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えて行く


白い窓から

せっかちな雲たちが奏でる

光と影のリズム

病室の沈黙、消えていた命


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えてゆく


灰色の病棟の壁

わた雲の会話が描かれたスクーリン

病室で私を待つ「現実」


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えて行く


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この日、入院していたK病院の病棟で、前の病室に入院していた人がベッドに横たわり、顔を覆われ、多くの病院のスタッフや家族に付き添われ、病棟から去って行く光景を見てしまった。不治の病白血病で亡くる運命にある人々の集う病棟の風景である。その人の名前は知らない。その人に対する鎮魂歌はそのまま私への鎮魂歌(詩)でもあった。

2020年9月23日作

2020年11月11日修正