2021年6月9日水曜日

私の認識の風景とその科学的展開としての三段階論法

-解釈学的理論化とプラグマティズム実践・検証作業:人間社会科学の成立条件とは何か-

三石博行


先日、所属学会の報告会で、その会の中心メンバーの香川敏幸博士(慶応大学名誉教授)から、私の報告が三段階論法であると指摘された。三段階論法であると言う指摘は初めてだったので、三段階論法を改めて調べてみた。どうもそうではないように思ったので、その原因を考えることにした。

問題は、私が自然にやっている課題を三つの要素や概念に区分もしくは分類する仕方である。今まで、そのやり方が自然に身についていた。それは何故か。それは認識の風景の基本に何がそう世界を理解する仕方が存在するからではないだろうか。そう考えた。

何故、私は自然に三つの要素を感じるのか。そして、今までの研究活動の中で、私の理論は三つの要素を展開してきた。これは伝統的な三段階論法もなければ、ましえや武谷三男の物理学的な三段階論法でもない。あえて言えば、私の認識の風景によるものではないかと思える。

しかし、その根拠が全く無いわけではない。例えば、時間は、過去、現在、そして未来の三つの概念に分けられる。空間は、私という身体、つまり身体(そこから観えている世界を生み出す身体・私)、その身体を取り巻く生活空間(これは日常的に経験される空間)、その生活空間の外にあると思われる空間(地理の教科書で理解し、また旅行で見てきた世界、しかしそれらの世界は今、ここにはなく、それは確かにあることを疑っていない意識の中に存在している空間)の三つの概念に分けられる。また、意識もフロイトに倣って、無意識、前意識、意識と分けられる。自我もエス(快感原則で機能する)、自我(今、ここで生活する私)、超自我(欲望の急ブレーキ・抑制を機能させる)の三つに分けられる。

私はこれまでの研究活動の中で、色々な理論を提案してきた。その理論を構成する基本に三つの要素(構造、機能、段階、期間)に分類する手法が用いられている。フロイトのメタ心理学から展開したシステム認識論、また、それから展開した言語学理論、さらに阪神淡路大震災の生活情報の調査から展開した三つの生活情報、命や健康に関する一次生活情報、豊かな生活環境を得るための二次生活情報、過剰な欲望を満たすために求められる三次生活情報、それらの三つの生活情報(形相)に対する生活資源(実体・物質的素材)の形態、つまり、一次生活資源(命を維持するための資源)、二次生活資源(豊かな生活を得るための資源)、そして三次資源(過剰な自我活動を行うための資源)に分けた。

また、今回のCOVID-19パンデミック(感染症災害)に対する対応も三つに分けた。危機管理を優先し感染拡大を防ぐための対策を重視する一期、感染症災害で罹災した社会的被害を修復する政策が展開される第二期、頻発する感染症災害への対策を検討し、感染症災害に強い社会を構築する三期、の三つの感染症災害対策であった。

これらの分類は私の認識の風景(主観的世界)から生じたものであることは間違いない。これらの三つの段階、期間、要素が自然科学的根拠を持って成立しているわけではない。そう分類することで、私なりに課題を整理でき、問題解決のための方法を提供できるという実用主義(プラグマティズム)によって提案しているに過ぎない。つまり、この三つの分類によって、より有効な問題解決の手段が得られれば、それで良いということになる。

従って、この分類法は実際の政策として検証されなければならないと思う。実践的な検証が人間社会科学の理論に対する検証である。現実にある問題や課題の分析を通じて、理論(仮説・解釈)がある以上、それらの解釈は、問題解決を通じて、証明されなければならないだろう。

その意味で、私の認識の風景は以下に述べる三つの段階の一つである。つまり、
  • 1、現実の課題に関する調査研究
  • 2、研究データの分析、解釈 理論的仮説(三つ概念への分類化)
  • 3、三つの分類によって、問題解決や課題展開を試みる(実践的検証)

実践的知としての人間社会学の論理が上記したような三段階に展開されるとするなら、私の認識・解釈はその三段階の二段階部分に相当していると言える。つまり、私の人間社会学の理論は三段階論法を前提にして成立するのではないかと思う。その意味で、香川敏幸教授の指摘によって、あらためて私は人間社会学の科学性を再認識・自覚した。そのことを香川教授に感謝したいと思う。



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