2020年11月11日水曜日

問い掛けの中の私 (詩)

三石博行


飽きることなく

問い掛けの波に洗われ


転がりながら

反復する蛇紋石


寄せて引く刹那の波

溶け込む湧きだす轟音のリズム

世界という意識


衝突行列に振動する砂浜

繰り返す泡と渦の消滅のクロッキー

私という意識


私は

寄せては引く波

刹那の振動


私は

微分定数

何れゼロになる


それでも私は

問い掛ける

反復という存在現象


9月8日作

9月25日修正


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詩「問い掛けの中の私」について

この詩は、繰り返し自分を課題にする自分とは何かということをテーマにして書いた詩である。と言うのも、私の詩の課題はつねに自分なのだ。殆どの私の詩はその課題から生まれ、この課題の中から出ることはない。

何故、それほど私は自分に執着し、その課題から解放されることなく、思索を続けているのだろうか。自己への執着、もしくは自己とは何かという解明不能な問い掛けと言う呪縛。しかし、それらの問いかけも、ある意味で「刹那の意識」であり、それを生み出す肉体やその肉体に刻まれた情報(記憶)である。

仮に、私の命が消えるなら、この問いかけや刹那の意識も存在しないだろう。残されて現実とはこの問いかけが消滅し、それが私の意識から観れば虚無であり冷たい死の世界である現実の世界となる。つまり、私は自分に執着するこの刹那の意識は、この世界のどこにも存在しないことになる。
この倒錯した結論をあざ笑うようにつぶやく「私の命が消えるなら」と言う現実に出会う。

しかし、こうした自己への問いかけや刹那の意識とは無縁の会話がある。

例えば、現実という状況の中で主観を無視した会話、つまり、科学者の会話、その会話では自分とは主観のない人間一般集合の中の一つにすがいない。その科学的会話から、現実の自分がより正確に理解できる。

また、未来という幻想(主観)を現実化という言及、つまり、社会運動家(宗教家)のことば、そのことばの中では、自分がより良く生きられるようにより良い世界を求めるという理想(幻想)が、現実の自分を超えて存在している。

更に、生活するという行為の中で選ばれる結論、つまり、日常の自分の姿、その現実の中で、私は生きている。その現実の私から出発することしかない。しかし、そうした当然の理解は日常という生活の雲の中でぼやけてしまう。

そして、日常生活の現実を理解し受け止めるためにこそ、自己存在を問い掛け(反復)を行うために哲学が必要とさる。しかし、その哲学は知る方向の逆ベクトル的な存在であることを求められているようだ。その逆ベクトル的とは何か。
 
9月25日作
11月11日修正


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