責任を取る行為・考え方の転回期を迎えた現代日本社会
三石博行
失敗したら切腹、美しい国日本の文化
切腹という異常なまでの責任の取り方をもつ武士の文化、それを精神文化の基本としていた日本人が、全く、責任を取らない日本人と、国内の企業や組織の中は勿論のこと、アジアや国外からも言われるようになったのは、いつごろからだろうか。
そして、何故、我々の日本文化から責任を取らないという習慣が生まれたのだろうか。また、責任を取るという個人の態度やモラルは、いつごろから喪失したのだろうか。
そこで、つい最近までの、日本人の中にあった失敗の取り方の習慣を考えてみる。つい最近まで、少なくとも1990年代までは、失敗の責任を取る仕来りがあった。それは辞めることであった。つまり、辞表する。失敗の程度によるが、会社に損失を与えた場合、役員であれば会社を辞表する。職員であれば減給にする。組織の長や執行部の失敗は、その程度によりけりで、組織を去る、職務を辞める、減給する等々である。しかし、最も立派とされる失敗の責任の取り方は辞表であった。
どのような立場の人も、もし失敗を認めれば辞職しなければならないと言う極端な結論は、ある意味で、日本的なものではないか言える。何故なら、間違いを犯した場合武士は切腹、やくざは指をつめるという習慣(失敗の取り方の作法)のように、自らの死(辞表)をもって、失敗の責任を取らなければならないからである。
この失敗したら会社を辞めるという考え方はつい最近まであった。今もやはりある社会では確りと残っている。
日本式責任の取りか方の消滅の理由、終身雇用制度の崩壊
考え方を換えて観れば、今の日本人は、失敗を取らなくなったのでなく、今までのような失敗の責任の取り方をしなくなったと理解すべきではないか。
それも失敗の程度によるが、企業に甚大な被害を及ぼすような失敗でなく、事業計画などが失敗したことで企業にある程度の損害が生じしても、以前のように切腹まではしなくて済むようになった。精々、役職を辞めればいいのである。
そして、今の日本では、新しい責任の取り方が見つかっていない状態にある。それが、失敗と取らない日本人の姿として観えるのではないだろうか。
失敗の責任の取り方には、あるモラル、行為の美学や作法に関する美意識が内在している。
桜の花が散るように、武市は見事に腹を切った。
桜の花が散るように、健さんは見事に弟分の責任を取って、指をつめた。
そこには、日本的美談、潔い行き方への憧れがある。
年功序列、終身雇用制度があった時代には、こうした美談に憧れる余裕があったかもしれないが、いつでもリストラされる社会で生きる人々には、その余裕もないのが現実である。
武士の社会文化も終身雇用制の終焉とともに、この日本から消滅使用としているのかもしれない。つまり、企業戦士(侍)は、明日は浪人になる立場に立っている。企業のために命を掛けた戦士も、その企業から簡単にリストラされる時代に直面している。今までのように、命を無駄にしていたら、何回も腹を切ることになり、終には、万年浪人の生活がまっており、ホームレスで終わる可能性もある。
日本的責任の取り方が消滅したのは、日本的な雇用制度、終身雇用制がなくなったのと無縁ではなさそうである。
そのため、今までのように、武士は潔く腹を切ることを辞めた。今までのように、日本式の責任の取り方をしなくなったといえる。
今、失敗に対する対応が問われている
しかし、一方で、責任を取らないという、新しいサラリーマン文化がもたらす社会的問題が生じている。そして、日本では、誰も責任を取らない体質が企業や組織で蔓延していると言われているようになった。
例えば、ある企画を行った人々が、その結果に対して責任を取らないために、組織では、生じた課題を基本的に解決することが出来ない。そのため、同じような失敗を繰り返す結果となる。最も代表的な例は、ブログ「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
で示した、雪印食品や動燃の失敗例である。
同じ失敗を繰り返すことで、その組織や企業は、社会的信頼を決定的に失うことになる。つまり、組織の失敗を、組織内部で点検、修正する力がなければ、また同様に、組織内部で失敗に対する処理を間違えば、その結果は、いずれ、その組織の外部評価の損失、社会的信頼を失い、その組織が存続することは不可能となる。
つい最近、例えば三菱自動車や雪印食品のように、それに近い状況で、企業が危機に瀕し、倒産した事件があった。失敗に対する対応の失敗に結果で、企業は倒産する時代が来ていることも確かである。
つまり、日本伝統の責任の取り方の文化が消滅しながらも、新しい責任の取り方の社会文化や組織運営のあり方が見つからないために、結果的には、社会全体が大きな損失を蒙っていると言えるのではないだろうか。
失敗学から導かれる行為責任論
この答えを導くために、畑村洋太郎氏が提案してきた『失敗学』は大いに参考となる。畑村氏の失敗の概念は、成功の反対概念ではなく、行為の目標値(期待値)に対する負のズレである。そのため、失敗は個人個人の目標に対して、計量的に(程度としても)測定可能になる。
また、失敗という目に見える現象を生み出すもの、つまり失敗の原因と呼ばれているものを、畑村洋太郎氏は、「からくり」と「要因」に区分した。「からくり」とは、行為の主体者、個人や組織の性質、体質、技能、考え方、方法論などである。つまり、行為を導き出す作法や様式に近い概念である。「要因」は、その行為主体を取り巻く環境や条件である。
要因は色々と考えられるのであるが、からくりを見つけることが一番大変なことである。
何故なら、自分の癖は自分では分からないからだ。組織の体質も組織内部にどっぷりつかった人々には見えない。日本社会の習慣も日本から出たことのない人々には理解できない。
この失敗学から導かれる失敗の責任の取り方のヒントは
1、 ある部署で、失敗を起こしたら、その部署の人々で、まず、そのからくりや要因を見つけ出す。
2、 しかし、そこで導かれた「からくり」つまり失敗の原因と考えられる組織や個人の考え方、体質、方法、技能等に関しては、外部から人を入れて、再度点検する必要がある。
3、 それらの失敗から学んだこと、教訓を出来るだけ情報公開して、さらに他の失敗例との関係を求め、普遍化する必要がある。
仕事のスタイルとしての責任の取り方を見つけ出す必要性
新しい時代、つまり、個人主義は日本社会の中に確りと根付き、今までの古い雇用制度でなく、能力評価を得ながら、その個人の力の評価を基にして、雇用関係が成立する時代に向かった、失敗の取り方一つにしても、社会は真摯に考え、そして解答を見つけ出さなければならないだろう。
日本人は責任を取らなくなったのではなく、新しい責任の取り方を見つけ出せない状態にあると言える。そのことを理解した上で、失敗学から導かれる責任論をさらに展開する必要がある。
新しい時代での、失敗に対する責任の取り方を見つけ出すことによって、企業が存続するあり方や、日本という社会が国際社会の進展から取り残されない方法を、見つけ出すことが出来ると思う。
参考文献
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、
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2011年6月28日 大幅に修正の予定
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