人権学からみた裁判制度
三石博行
一次人権課題と正義の判定基準
マイケル・サンデル教授が「正義の話をしよう」と呼びかける時、そこで語られる正義とは何かという疑問が生じる。一般に、正義という意味は悪(不正義)という意味を片方に必要としている。正義という概念が一般的に成立するためには、その意味がどの社会でも、どの人々にも共通する意味を持たなければならない。
もし、その意味がある社会である人々のしか理解されないなら、正義という概念は、社会的役割やその立場から主張される何らかの社会合理性や正当性に関する意見であると言える。すると異なる社会的立場の数に比例して正義の数も増えることになる。
しかし、どの社会でも人命や財産を奪う行為は正義とは呼ばれない。人を殺す。人の財産を奪う。これらの行為はどの時代のどの社会でも悪である。つまり、一般的に正義という意味が存在するなら、これらの行為、人命や財産を奪うことを止める行為であると理解していいだろう。
すでに人権学の成立条件を考える中で、自己保存系の基本条件、個人の生命や家族を維持する最低限の生活資源を確保(もしくは不足)することを一次人権課題(1)と考えた。この一次人権課題、つまり生命や生存するために必要な最低限の生活条件や生活環境の課題に触れることが「正義」と「悪」の条件を決めることになる。
二人の相反する利害への社会的判断、社会的に解釈される正しさの判定基準
しかし、人権学で述べられる二次人権課題(1)、つまり豊かな生活や社会環境を作り個人や集団の生活の質(QOL)を高めることは、社会集団の利害関係を例に取れば、必ずしも社会全体に共通する課題とならないことが生じている。もし、社会全体の課題となっても、例えば領土問題のように、他の社会と対立する場合もある。
その意味で、その二次人権課題は社会集団によってその人権課題を達成することを正義と考えるなら、社会集団によって正義の意味が異なることになる。つまり、二次人権課題は、ある個人や社会集団にしか理解されないため、そこで主張される正義という概念は、その社会集団や個人の社会的役割やその立場からの主張であると言える。そこで二次人権課題は異なる社会的立場によって異なる正義の主張が存在するのである。
例を用いて説明しよう。例えば、利害の反する隣同士の住民AとBが居たとする。AはBの家から毎日臭う中華料理の臭いが嫌いである。つまり、AにとってBは決まって夕食時に悪臭を放していると感じている。しかし、Bは中華料理が大好きでその匂いを悪臭とは感じない。Aが夏には窓を開けっ放しで中華料理をしないで欲しいと要求したとしても、その要求を認める訳には行かない。
AはBの行為、夏に窓を開けっぱなしにして中華料理の匂いが隣のBの家に入り込むことを何とも思っていない行為は正しくないと思う。Bは料理をするのは人間の当たり前の行為であり、料理の匂いを迷惑と言われることが納得できないと思う。
こうして二人の立場から全くことなる主張がなされ、それぞれの主張の理由が成立している。二人がそれぞれに主観的に正しいと思うことも、第三者から観るなら、その二人の立場に違いの意見の相違に過ぎないと解釈されるだろう。つまり、社会で呼ばれる正義(正しいという主張)は社会的利害関係を前提にして成立するそれらの人々の立場から主張されたそれらの人々の意見や見解の正当性、もしくはその意見が持つ主観的な合理性への解釈に過ぎないのである。
従って、一般に、民事裁判で争われる正当性の論争は、上記した二つ以上の社会的立場の違いによって生み出される利害関係と利害内容に関して生じる。そこで、この場合の「正しい」と「誤っている」の判断は、それらの利害関係を民法に照らしあわし、またこれまでの判例に即して、二つの一方が選択されるケースもあるが、一般に、相互の立場の違いによる利害性を計量することになる。
つまり、相互の立場上生じる利害の内容、不利益を受ける内容を裁判所が法律の解釈、これまでの判例に照らし合わせて、判定することになる。これが、非常に一般的な社会での正しさを判定する方法として採用されている手段である。
弱い立場と強い立場の調整機能・法人
社会的立場の違いによる社会合理性の主張によって生じる主観的な見解が「正義」と呼ばれるものであり、その「正義」は社会相対的にしか成立しないと解釈するなら、すべての人々に共通する正義はないという結論になる。
前記したように隣同士の住民という双方が同じ社会的立場に立つ場合には、立場上乗じる利害関係での判断基準は、民法上の決まりや判例によって決定される。しかし、立場の異なる二人の人間、例えば雇用者と使用人の関係では、日常的に使用人の立場は雇用者に対して弱い立場に立たされている。この場合、使用人(勤労者)の基本的な人権(命や健康、経済的生活権)を守るために、労働基準法、労働安全衛生法がある。また、労働組合法によって、勤労者が個人でなく組織として雇用者と、労働条件の改善を含めて、雇用条件に関して話し合う権利を保障されている。
つまり、使用者と雇い人という関係では、日常的に強い立場と弱い立場が明らかである。そのため、勤労者の人権を守るためには、少なくとも二つの立場を対等な位置に持っていく必要がある。もし、二つの立場が法的に対等化されるなら、そこでそれぞれの立場からの主張に関する評価が法的に成立可能となる。
これが、勤労者に労働組合を社会的(法的)認める根拠である。組合を作ることで、雇用者が背景とする会社という組織に対する対等な立場を得ることになる。会社の社長も元々、組合に参加している職員と同じように雇われの身である場合には、社長は会社という組織を背負い、個人でなく、会社のために経営判断を行う。その立場と同じものを職員に与えたのが組合である。
会社が会社関連法によって運営されるように、組合も組合法によって運営される。組合の執行部は組合員から民主的に選ばれ、労働組合法を守り、また企業と契約している労使協定に即して、組合執行活動を執り行っている。
会社執行部も同じである。会社法に基づき、会社の経営を守るために、会社を運営している。こうして、個人として雇用者と会社組織の役職(権限)を持つ役員との上下関係から、対等な労働組合と企業との関係を成立させることによって、二つの異なる利害関係を持つ立場の違いを前提にした協議が可能となる。これが民主主義社会の選んだ紛争解決の手段である。
つまり、弱い立場と強い立場では、弱い立場の利害が常に強い立場に侵害されるために、基本的に二つの利害関係の解決を見出すことは出来ない。そこで、対等な立場を前提にした話し合いを設定する。それが労働組合法である。その労働組合法によって、結果的には、勤労者が持つ労働力資源を健全な形で維持することが出来ることを長い民主主義の歴史で我々は学んできたのである。
民主主義社会での裁判制度
民主主義の社会では、人々の社会的関係は立場の違いによって成立していることを理解している。その立場の違いを前提にして、一つは共同行動を法律に基づく契約という方法で取り結び、もう一つは紛争解決を法律に基づく裁判という手段で解決するのである。
市民社会の成立する以前の社会、つまり社会契約思想のない社会では、利害を異にする立場の共存・民主主義社会の成立条件に関する考え方がない。支配者と被支配者の役割固定制度から生まれる社会的正義と悪との二分関係で語られた他者への判断方法を社会的立場の違いによって生じる権利上の問題として語ることも、またその解決のために相互の利害性を計量化し判断することも不可能であった。
社会対立に関する中世社会的な思想、つまり社会的対立を正義と悪の関係として判断することから、社会対立に関する近代的な思想、つまり社会的利害の関係として解釈することの変化の背景には、対立する二つの立場の主張を認め、それらの主張を憲法・法律によって評価する作業が前提となっている。
つまり、二つの権利主張の権利は平等に認められ、それぞれの主張が社会全体の機能(社会制度の運用)の中でその主張の合理性を検証され、その意味で、それらの主張が社会的公共性や有用性の評価軸に相対化される。つまり、それぞれ権利の主張は、司法機関(裁判所)によって法律解釈や判例によって、評価解釈され、それらの主張する権利が査定される。その査定結果が司法で下す判決である。
勿論、裁判所では、二つの権利主張に対して、善悪を問いかけているのではない。その主張されている権利が法律的に妥当であるか、若しくは社会的に正当であるかという観点から、それぞれの権利主張を相対的に査定するのである。相対的に査定するもっとも一般的な手段として「和解」を提案することになる。
もし、和解がその両者の一方によって受け入れられなければ、司法本来の手続きで、査定を行うことになる。これが裁判と呼ばれるものである。一般に、二次人権課題の触れる裁判を民事裁判と呼んでいる。
しかし、殺人や強盗など生命や財産の保護に関する一次人権課題に触れる裁判を刑事裁判と呼んでいる。この裁判には被告と原告の間に和解はない。国が定めた刑法によって、被告の刑罰が決められることになる。つまり、有罪か無罪の二つに一つしかない。その場合、社会(司法制度を持つ)は、有罪なら悪、無罪なら悪でないと判断したことになる。
参考資料
(1)三石博行 「人権学 ‐三つの人権概念の定義‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_2567.html
0 件のコメント:
コメントを投稿