差別とは何か。それと向き合うこととは何か(3)
三石博行
差別意識・差別用語批判運動の意味と限界
どのようにして自己意識の基本に関わる差別を克服することが出来るか。この困難な課題に立ち向かうための考え方を整理してみよう。まず、人種や社会的差別は「個人の意識」を変えることで解決すると考えることで十分なのだろうか。つまり、差別は個人個人が自覚的に他者を差別しない決意することで解決できるだろうかと考えてみよう。もちろん、差別しないようにと自分を戒め、他の人々や社会の差別に批判的に対応することで、現在ある多くの差別問題が解決の方向に向かうことは確かである。差別しないことを個人が自覚的に理解することは、この問題を克服するための大切な条件であることには違いない。
これで、果たして十分かという問題を、1967年の公民権運動の結果とし人種差別を撤廃する政策が成立し始めたアメリカ社会で作成された映画「招かざる客」は鋭く指摘していた。人種差別を批判していたジャーナリストの父親は娘と黒人医師との結婚に反対した。この映画が示したことは、人権主義を主張しているアメリカ人知識人たちの欺瞞性だけでなく、人種差別に反対する社会的正義観やモラルだけでは、自分たちの中産階級の生活を危機に陥れても、娘が差別される側に行き厳しい白人社会からの排除を受けることを知りながらも、それでも自分の社会正義の主張を貫くのかと問われた当時のアメリカ民主的知識人の姿を描いていた。
この問題提起に対して、アメリカ社会の人権主義や民主主義的と自認している人々は長年、自問自答し続けただろう。この問いかけをアメリカの良心的知識人に押し付けて、我々日本では、どうなのかと問い掛ける必要があったのかもしれない。この問題は、意識的自覚の持つもう一つの側面を示しているとも言える。
日本でも部落差別や身体障害者差別問題が1960年代後半、労働運動、反公害運動、反戦運動が市民や学生の運動から起こる中で、差別に関する議論が繰り広げられた。その多くの解決方法は、差別意識の改革であった。差別しない自分になることが問われた。
言い換えると、差別とは差別意識である。その意識を代表するのが無意識に使われる「差別用語」であった。そこでこの差別用語を徹底的に排除する活動「差別用語糾弾運動」が起こった。確かに、差別用語を無意識に使う私たちは、その用語に分類された人々が受ける苦しみに鈍感である。差別を受けて来た人々の心にぐっさり突き刺さる差別用語を、無意識に使う。そして、そのことばによって傷ついた人々を知って、驚くのである。その意味で、無意識に使われる差別用語、それに代表される差別意識を差別され、そのことばによって傷つく人々から指摘されることは、大切なことである。その意味で、この差別用語の糾弾活動は、差別されている人々が無意識のうちに差別している人々に、差別意識を自覚させることが出来るという点では、大きな意味を持つ。
だが、この運動によって、差別している人々は差別用語を使うことを避ける。また、差別糾弾運動も、色々なところで使われている差別的なニュアンスをもつ日本語を探し出し、その日本語を使わないように出版界、教育界は勿論のこと、公共出版物の編集委員会にも異議を申し出ることになる。これらの人々は差別糾弾運動の対象になることをさけるために、差別用語の使用を厳しく自制することになる。社会から差別用語は無くなった。しかし、差別は本当に無くなったのだろうか。
確かに、これらの社会的機能において、差別的な意識がないのでなく、十分にあり、彼らによって日常的に差別意識が再生産されている現実は否定できない。その意味で、差別用語撤回運動は確かに意味を持っていたとも言えるだろう。
しかし、差別用語の撤廃運動の在り方を、もう一度自己点検しなければならない。例えば、精神障害者差別を訴え、精神障害者への差別用語を撤廃するために、精神病の命名を変えた。例えば「精神分裂病」の「分裂」が差別用語であるから「統合失調症」と呼ぶことにした。しかし、成人分裂病と総合失調症と呼ぶようになった精神病院で、果たして精神障害者への差別問題は解決の方向に向かったかと問い掛けるべきである。
ちなみに、英語でもフランス語でも精神分裂病は「schizophrenia」、「schizophrénie」である。これは、フランスの神経生理学者のブロイラーが、この精神症候群の「精神機能の特徴的な分裂」の基本的症状として有するとして
「Schizo(分裂)」、「Phrenia(精神病)」と呼んだことに、この精神障害への命名の語源的起源があるため、今日でも、日本で差別用語として理解された「分裂」を使用しているのである。
問題は、「分裂」は差別用語で「失調」はそうでないため、今まで命名していた「精神分裂病」を「総合失調症」と命名し直したことで、精神障害者への差別問題が少しでも良くなったのかとういことである。もし、以前と同じであるなら、差別用語撤廃の運動の意味を検証しなければならない。何故なら、差別問題を基本的に解決するのでなく、差別用語の魔女狩り裁判を行うことで、差別問題に取り組んでいると社会が錯覚してしまうことを避けなければならないからだ。何故なら、精神障害者の差別問題の解決で、「失調」が今度は差別用語だという事になり、新しい「。。。」と言う用語が用意され、それを使わない人々が差別者とされ、それで問題が解決したかのように思う風潮を防がなければならないからだ。
言うまでもないことだが、精神障害者の差別問題は、彼らの治療の仕方を変えなければ解決しない。例えば日本で取り組まれている「なかまの杜クリニック」をはじめとして、他の国でも、多くの取組がなされている。それらの先進的な治療、病院中心主義からの脱却、地域社会でともに生きることを課題にして精神障害者の治療と共存関係の形成が問われているのである。
そして、差別用語撤回運動を行ったことによって、私たちの社会の人権文化は豊かになった。それと同時に、この運動の限界も理解されている。さらに、この運動の発展的反省として、差別意識を再生産する社会文化の制度を問題にしなければならないと私たちは考えている。
海外生活で学んだ差別される側の立場
フランスで生活している1980年代の後半だったが、中国人や韓国人の留学生達と付き合った。初めて韓国の留学生たちが私の家に来た時、一人の研究者が「自分のおじさんは、戦中に日本に半強制的に連れていかれ、炭鉱で働かされ、死んだ」と言った。今まで、フランスでは東アジアの留学生との交流は殆どなかったため、この一言はきつかった。
しかも、学生時代から明治以来、日本帝国の朝鮮植民地化、中国侵略戦争、関東大震災時の朝鮮人虐殺、戦時中の強制労働等々の歴史は学んでいた。そして、日本の戦争犯罪を批判して来た一人の「人権主義者」の自分であると自覚していたため、直接、彼らから強制労働の歴史戦前の日本の民族差別の問題について「批判されている」ように言われるのが辛かった。
しかし、私が学生時代から日本の戦争犯罪を指摘し批判して来た人間であろうと、私は彼らからすると「一人の日本人」に過ぎない。自分たちの国を植民地化し強制労働をさせそして殺した国の国民であるに違いない。もちろん、彼らと私は理解し合い、共にフランスで研究する学徒として、共感し合っていた。我が家では彼らがやって来て私も参加してキムチなどの韓国料理を作った。だから、批判的なことが言えたのは、逆に、彼らと私の間に、それが言える関係が在ったという事を意味する。しかし、それだからこそ、彼らの友であろうとするなら、その彼らの率直な批判に耳を傾け、彼らの批判を受け止めなければならないだろう。
例えば、私が彼らに「いや、私もその日本を批判して来たのです」と言っても、彼らからすると遠くから見ている私は戦争犯罪者たちと同じ日本人に過ぎない。もし、私と彼らがお互いに信頼できる友人になれたら、彼らは私に率直に「日本は本当にひどいことをした」と言いながらも、私が何を言わなくても私と東アジアを植民地化した旧日本軍の官僚と同類の人間とは見なさないだろう。
事実、私は彼らとの交友の中で、自分がどこかで日本人であることの優越感を感じている自分を知った。意識的には平等や人権の思想を大切にしながら、「日本人」という意識の中では「アジアで最も進んだ国」「世界第二の経済大国」「日本の技術」等々、自分の優越性を実証する全ての情報を自分を証明するものとして確りと持っていた。
避けられない国民という自分が自分であることから来る他者との違いや比較の感情を、否定することはできない。それは、彼ら韓国や中国の友も同じであり、またフランス人たちも同じである。
お互いの人間的な信頼関係がない段階では、私は日本という国に代表される存在に過ぎない。その意味で彼らにとっての日本のイメージを引き受けることになる。そして、人間的な信頼関係が成立しながら、日本人から一人の私として彼らの中で私の評価が変化する。当然のことである。私もまったく同じように、人の評価を行っているに違いない。その意味で、一人ひとりの日本人は、過去のこの国が悪いことも良いことも、引き受けなければならない。それは日本人という自分の運命の一部分であるからだ。
他者に取って自分とは、常にある一つの集団のもつその責任を背負わされている。例えば私が「精神障害者を差別してない」と言っても、檻に入れられベッドに縛られ、自由を奪われ、彼らにとって、精神障害者の差別に対して沈黙し無視し、自分だけの生活に追われている私は、彼らの差別の現実に無関心な人間として受け止められるだろう。私と彼らを檻の中に入れている人々は全く同類の人間ではないにしろ、自分たちを差別している人間に大きく分類されるかも知れない。差別を受けている人を見ても、何も言わない、何もしないが、民主主義者や人権主義者だと自分を思っている私たちも、積極的に差別を行う私たちも、差別を受けている人からすると、余り変わらない人々なのだと思う。
つまり、意識している私ではなく、存在している私の在り方が、差別問題を語るときに問わる課題であるという事を意味している。つまり、私がどのような意識を持っているかでなく、私がどのような社会文化的構造の中で生活しているかが問題なのである。長い海外生活は多くのことを私に教えてくれた。何故なら、日本では滞在許可を市役所や県庁に申請しなくてもいい。日本では当然あった選挙権も住民権も、海外ではない。命に関わる基本的な人権を守られているが、社会生活者としての基本的権利はない。働いて税金を納めたとしても、社会に参加する権利はない。君は自分たちと同じ市民ではないと、私が聞こえようが聞こえまいが、毎日どこかで言われている。差別は日常化され、それに鈍感になっている状態を海外長期生活者と言う。
当然のことだが、自分を日本人である証明するパスポートが、公共的な手続きでは必要となる。つまり、何を言っても、唯一自分を守ってくれるのは、日本のパスポートである。「日本人」であるということが自分の唯一の海外生活を守る後ろ盾になる。仮に、私が日本が嫌いでも、日本の現政権に対立していても、反日本的な発言を繰り返していても、私を守るのは日本国である。そのことにすべての日本人は海外生活を通じて気付かされる。今や、国内で対立していた反政府主義者も政府支持者もここでは同じ日本人以外の何者でもないと気付かされるのである。
そして、家族も親戚も居ない異国の地で、具体的に自分を守ってくれるのは、親しいフランスの友人たちでだけなのである。
私は長い留学と海外生活の中で、外国人として生きることの現実を理解した。そのことは、日本で生活する外国人、特に在日韓国・朝鮮人や在日中国人の現実を理解する契機を与えた。海外で生活し、差別を受けていなければ、彼らへの不当な差別に反対していた私は、彼らの差別される側の気持ちの入り口も理解できなかったと思う。差別される立場に立つことは、差別されている人々の身になって考える力を与えてくれる。差別されている側の気持ちを想像できる機会を与えてくれる。それは、私の長い海外生活で得た貴重な経験の一つであったと言える。
差別再生産の社会システム・存在が差別意識を規定し再生産する
そう簡単に解決できない人種や社会差別を考える時、差別する意識ばかりでなく、その意識の土台となる社会文化構造を考えなればならない。差別の構造は自己認識の土台となる文化的差異から生まれると理解することは簡単なことではない。差別的関係とは社会や文化的立場に必然的に付随するものである。その意味で、意識的に差別する側に立っていると自分をいかに自覚していたとしても、「差別しない」人になる努力をする人にはなれるが、差別意識を全く持たない、もしくは持つ可能性の無い人になることは不可能に近いと言えるだろう。
逆に言うと、差別問題を考える時に、差別意識をなくすることの困難さが理解で出来ていなければならない。差別は意識変革によって解決されることはなく、差別は差別される側に立つことによってしか、差別される立場は理解できないと言える。例えば、外国で生活するとか、人種差別を受けている人々と友人になるとか、結婚するとか、そして子供を作るとか。つまり、差別されている側に立ってしか生きられない立場を得ることで、差別の問題はより鮮明になる。
これは実行するには難しいと言われるだろう。そであるなら、少なくとも先進国で飢餓することなく、また教育を受け、選挙権を持っている私たち日本国民は、他の人権を侵害されながら生きている国々の人々に対して、「差別していないのでなく、何らかの差別の上に立っている」国に自分たちは住んでいると自覚することである。
諄い(くどい)よう同じことを繰り返して言うことになるが、仮に自分は人権主義者で、その国の政権を批判していようと、また全くの国際問題は勿論のこと、人権問題にも無関心な人間で、その国の現実を知らなかったにしろ、また知っていても、自分だけのことを考えていたにしろ、その三者が同じ日本人である限り、人権侵害や飢餓に苦しむ人々から見れば、そう変わりはない。我々はおなじ日本人、豊かで、民主主義の国、選挙権を持っている国の人で、その優越な目線から彼らを見ている人に過ぎない。
また同様に、同じ日本社会の中でも、人々の社会的や経済的な違いによって、差別は存在している。それらの差別でも同じことが言える。つまり、差別され、自分たちが社会や他人から受ける対応を差別として感じる人々の立場になって、つまり、同じ立場にならない限り、それらの差別を理解できることはない。その立場に居ない限り、それらの人々の差別されている現実は理解できないのである。
現実にある諸々の文化的、社会的、経済的な人々の格差、社会的分業が存在する限り、この格差は存在し、再生産され、また新たに生まれ、そして継承される。社会的機能や構造をそのまま社会的差異によって形成されている世界と解釈できる。その意味で、差別意識は社会的機能の一つの役割を担う個人にとって自然に持ってしまう意識である。問題は、この社会的存在性に不可避的に付随する「ある社会的役割を担っていると言う自己意識」の中にある「他者への差別意識」の自覚的反省があるこないかという事に尽きてしまう。つまり、少しでも他者との格差において優位に立っていると思うなら、それ自体が、すでに差別意識であると自覚しておくことだ。だからと言って、それ以上のことはない。ただ、「自覚しておくことだ」という「自己への呼びかけ」があるか、もしくはないかのという問題になってしまう。
私たちの社会には色々な社会的差異、例えば職業の違いや社会的役割の違いがある。そして同時にその役割の中に差異、社会的評価の違いが生じる。また、「貧しい人と豊かな人」「男と女」「子供と大人」「シングルマザーとそうでない人」「独身と結婚している人」「都会に住んでいる人と田舎に住んでいる人」「大学を出た人と出なかった人」「資格を持っている人と持ってない人」「正規雇用されている人と非正規の人」「職のある人と失業している人」「若い人と歳を取っている人」「寡(やもめ)になった人と配偶者が健在な人」等々。すべての社会的経済的文化的条件の違いがある。それらの違いに不可避的に付随する差別という社会現象を自覚的に意識しなければならない。
差別の問題を「差別をしない」という決意主義でなく、逆説的に「差別をしてしまう自らの立場を理解する」という反省的視点から、自覚的に差別を考なければならないのだろう。そのことによって、自己意識に起源する差別意識、それ故に、困難な差別意識への反省を促す唯一の手段を見つけ出すことが可能となる。自然に発生し続ける差別という自己意識に対して、差別している自己を自覚的に理解する努力しか、差別されている人の立場にない自分にとって差別を理解できる道は残されていないとも言える。
そして、同時に、これらの自覚は差別の問題に対して、「感傷的に悩む」のではなく、現実的に人種的差別や社会的差別の土台をなす社会や文化の構造やシステムを具体的に変えることを提案しているのである。
エピローグ
差別の問題を考える多くの材料がアメリカにあった。差別される側に積極的に立とうとする人々がいた。しかし、それでも差別の問題は解決していなかった。そして同時に、差別問題を真向かいに受け止める人々が、自分でなく、可愛い我が子が差別に遭うことを考え、自分の取った判断に迷い、自分は選択できる立場に居たが、子供は逆に選択される立場に居ることを思い知るのである。
差別の問題に最も積極的に取り組んだ人々の中に、彼らの人生を描けた試みの中に、深く潜む差別の構造への自覚の中に、アメリカの新しい人権思想の芽が膨らみはじめ、その悩みの中から、未来の我々の共存と共生の在り方の模索に、貢献することは確かである。この多様化共存から多様化混生時代を迎えたアメリカこそ、その深い悩みを抱えた人々にこそ、未来への希望があると信じることが出来た。
そして、今回のアメリカ旅行は終わった。
参考資料
1、統合失調症 Wikipedia
2、オイゲン・ブロイラー (Eugen Bleuler) Wikipedia
3、なかまの杜クリニック
三石博行のフェイスブック
2015年1月4日訂正
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