2015年4月15日水曜日

生活世界の科学の成立条件



三石博行(MITSUISHI Hiroyuki)


人間学としての「生活世界の科学」と臨床の知としての「生活技術学」


近代西洋哲学は、17世紀からの伝統として、合理的な精神や科学的な認識の追求が課題になっている。理性、意識的な志向性や自由意志などがその哲学の主な問題であった。しかし、物理主義、客観主義科学では生活世界の科学を充たすことはできないとフッサールは問題提起した。近代合理主義や科学主義を越えて新たに求められている人間社会学の科学性がフッサールの現象学から提案されていた。

勿論、フッサール以前からも、近代合理主義を伝統とする哲学の意識主義と批判する哲学の歴史はあった。意識活動を精神世界の全てであると考える意識主義哲学に対する批判は西洋哲学の伝統の中にあった。しかし、それらの批判は近代合理主義精神の形成過程で徹底的に排除しなければならなかった中世的世界観、主体と対象の区分を曖昧にして成立していた世界観に、その起源を持っているため、近代合理主義の形成にとっては徹底して排除しなければならない思想であった。

その排除によって、つまり感覚する主体、主観とそれらの主観性の入り込む余地のないすべての人々にとって公平に表れる世界、つまり客観とが明確に分かれ、感性を通じて現われる世界と数学によって記述された世界は分離し、そこに近代科学(力学)が生み出されたのである。

近代科学の形成とその成功によって近代合理主義思想が確立するのであるにであるが、近代合理主義思想の根底には物理神学(世界は神のことば(数学)によって描かれているという自然哲学・神学)がある。ニコラウス・コペルニクスやジョルダーノ・ブルーノのような物理神学者たちは神の存在を証明するために力学の研究をした。この思想からデカルトの機械論、つまり機械的世界を知る人間知の優位性を暗黙のうちに了解する思想、意識主義への批判が起こるのである。それは限りなく未知であり、限りなく不可知な世界、神の世界を認めることを前提にしていた。

意識主義が暗黙に了解した可知の世界、その武器としての哲学(当時の自然哲学、つまり今の自然科学)から、不可知な世界を認知するためにパスカルは反哲学(反自然哲学、つまり現在的に言い換えると科学的な視点以外で人間を理解すること)を、哲学(自然哲学)を行う上で必要な批判活動であると位置づけたのであった。これらの反哲学の流れは、その後、西洋哲学の中で滾々(こんこん)と続くのである。科学主義や実証主義と呼ばれる近代合理主義の伝統を汲む哲学の主流に反発する実存主義や生の哲学はその流れの中にあるとも言えるだろう。

意識主義や科学主義への反発や問いかけは、客観主義哲学への批判に留まらず、理念的人間に関する哲学的言及から生活する人間に関する哲学的言及に変更を要求することを潜在的に持っていたとも謂えるだろう。

しかし、反哲学は西洋哲学の主流に対する反抗に過ぎなかった。この反哲学の直感が、新たな時代の人間学の基礎となるたるめには、その直感に含まれている全体的な人間への理解の地平が伝統的な哲学を包み込む次元にまで展開される必要があった。

つまり、自然哲学が自然科学に置き換わり、伝統的な西洋哲学は自然現象の本質を語る権利を奪われ、また人間精神の在り方、世界の認識や了解の在り方を語る精神哲学や認識論が、心理学、精神分析や認知科学に取って代わられる中で、科学技術文明社会での哲学の役割は、人間の世界への関係の在り方に向かうことになる。つまり、世界を知ることが哲学の課題ではなく世界を生きるために知ることが哲学の課題となった。

しかし、これらの課題に近づくために、哲学は自然から社会へ、そして人間へとその探求の対象を進化させながら、その中で近代から現代への人間社会科学の形成に貢献したのである。

19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて意識主義を超えるための試みがなされた。例えば、フッサールが展開する生活世界を構成する共同主観性、フロイトの文化的シンボルの前意識的イメージやタブーなど無意識の文化的構造やデュルケイムの集合表象概念と機能主義社会学などである。これらの思想の流れに影響されて、文化的存在としての人間に関する人間社会学が形成される。例えば、レヴィ=ストロースの構造主義文化人類学、ユングやフロムの精神分析学、パーソンズの社会文化システム論、フーコーの歴史認識論等である。その延長線上に、生活世界を課題にする人間社会学が位置している。今日の生活世界の科学を考える時、17世紀以後の哲学や科学の歴史的な流れの中で滾々と続いてきた人間や社会に関する理解の歴史的経過を、知ることが必要となるだろう。

一方、19世紀にアメリカで生活学は、エレン・リチャーズによって提案された当時から、工業社会(科学技術文明)の引き起こす生活病理に対して臨床の知としての使命を持っている。しかし、今井光映が指摘したように、細分化した生活科学分野の研究を前提にして、より厳密な生活科学として展開される中で、生活課題全体を射程に入れた生活学の臨床の知の意味は風化していく。そこで、エレン・リチャーズ以来の伝統的立場に立ち、生活病理の解明を求める生活世界の科学として生活学の在り方を考える必要がある。生活学は、物理化学や生物学の理論を背景にして成り立つ生活科学の一分野であると解釈されてはならない。

今井光映によると、生活(科)学は没価値的な実証科学ではなく、生活を全体的に理解する理解科学であり、「生活を癒すこと」を課題にする実践的な実学であると提起されている。この実践学の精神は今和次郎や篭山京など日本の生活学の創設以来の伝統的科学精神である。厳密な生活科学とよばれる自然科学の一分野に落ち着こうとしている生活学のあり方を、臨床の知のための理解科学や技術学の方向に進化させるための、生活世界の科学の認識論の課題を分析しなければならない。



自由領域科学としての生活学の成立条件


生活世界の科学が近代科学以来の伝統的な科学方法論を前提にして成立しなければならないことが課題になる。生活を科学の対象とする以上、その方法はこれまでの分析的な科学方法論、実証的かつ論理的な研究の在り方が前提になる。そのため、この科学的方法での研究は、生活科学の専門的分野化を押し進め、細かい分野に専門化することが生活科学の進歩を意味することになる。と同時にその細分化によって生活という現実が失われることを意味する。

生活は、衣食住心に関する人間社会文化の全てである。生活世界の科学は、生活を全体的に取り上げられる方法が必要である。しかし、生活全体を取り上げることで、曖昧な分析や不確かな実証性を許すわけではない。分析的であって全体的である生活学の方法とは何かが求められている。

生活という複雑系での科学的方法の問題である。学際的研究を前提にして成り立つ複雑系の学問の方法論は、異なる学問領域の論理を羅列して成立するのだろうかという疑問が生じる。しかし、生活学は、これまでの物理化学を代表とするディシプリン型科学で取られていた還元主義的科学方法論では対応できないことは明白である。

吉田民人はディシプリン型科学に対して「自由領域科学」を提案した。この自由領域科学は、例えば、生活学に適用すると、生活情報学を基礎ディシプリンとする生活諸科学の拡張ディシプリン化であると言える。しかし、その自由領域科学の生活学の形成に必要な拡張ディシプリン化は、生活諸科学を構成する色々な領域の解釈を持ち寄って、それらを並列に並べて、示すことは出来ないだろう。

そこで、拡張ディシプリンが相互にその公理を位置付けできるような、さらに基本的な定義の確立を前提にしなければならないのではないかと思われる。それをプログラム科学の公理系であると言えるだろう。しかし、現在、生活学をプログラム科学の公理系から解釈できる理論や研究はない。



生活主体を含む科学性


生活学の研究対象は生活環境である。生活環境は文化環境の一部である。つまり、生活学は生活文化の環境についての科学である。生活者の行動や考え方は、生活文化環境に規定されている。生活者の生活様式も生活文化環境に作られている。

生活者の考え方や生き方、つまり生活様式を問題にするとき、生活環境との関係で考えることは、生活学が民俗学や文化人類学から引き継いだ方法である。この考え方の延長線上に、生活を科学する(生活)主体を置くと、生活科学を研究する行為、視点、解釈、直感的な理解等々、すべて、その(生活)主体を取巻き、形成した生活環境との関係を抜きにしては語れないことに気付く。

当然、生活学は、研究対象を主体から完全に切り離すことができない。それらによって主体の認識の風景が形成されているかである。つまり、自然科学のように観測者の認識の背景に観測対象の要素が入り込まない世界とは違い、その観測対象の要素によって、観測者の観測方法、観測の理論や解釈の論理まで、影響されている。その意味で、生活学の科学性には、物理化学のような客観主義が成り立たないのである。生活学の前提条件として、もしくはその境界・初期条件として、生活主体の生活環境と生活様式として語られる文化的パラダイムが存在している。

生活主体の文化性を前提にして成立している生活様式は、人間一般の普遍的課題と言うよりも、文化的位相性を前提にして成立するものである。生活学を、文化的環境の中での生活者のあり方の理解科学であると考えれば、その前提条件として具体的な文化環境に依拠して成立している生活学の公理がある。極論すれは、エレン・リチャーズによって提案された19世紀のアメリカ生活学の公理を、そのまま日本に当てはめることは出来ない。また同様に、戦前や戦中の今和次郎や篭山京など日本の生活学の公理を、そのまま、他の文化圏に当てはめて解釈することもできないと言える。

生活構造論を論及してきた渡邊益男は、現代社会での生活構造論の課題を社会福祉の理論として展開してきた。その中で、生活構造論の基本的な視点と方法をブルデュー理論から援用しながら、研究者の自己点検を取り上げている。つまり、生活主体という立場を持ち出す事によって、生じているその生活主体中心主義を抱え込んでいるという現実である。たしかに、研究対象から生活主体は切り離せない。しかし、そのことは、生活主体の偏見を前提にして、生活学が展開していいと言うのではない。渡邊は反省の社会学という表現をつかいながら、この方法論的問題を解決しようとする。そして、生活構造論はその形成期の原点に立ち社会問題にたいする実践的な理論であることを主張する 。

生活主体を含む科学認識は、その科学が主体の文化論的な自己解釈に落ちる可能性を持っている。その点では、渡邊益男の指摘は正しい。反省学は自己解釈学ではなく、実践的な社会活動を通じての自己変革学であると考える。



自己認識を含む生活システムの概念


意識や認識に関する課題は、例えば大脳生理学、認知科学、社会心理学、精神分析等々のように、科学的な分析の対象となる。生活学が問題にする生活者の意識や生活様式の認識の課題は、認知科学や人間学の援用が必要とされるが、それだけで解決できない、生活主体の認識構成を前提にしてなりたつ世界理解であるという課題が前提となる。言い変えると、生活世界の科学の成立条件の一つである生活主体の自己認識についての理論では、認知科学や心理学の理論を生活主体の反省的理解学として位置付けた理論が問われていると言える。

反省機能とは自己の在り方について、他者性の視点を持ち込んで観測することであると考えられる。しかし、我々の思惟はあくまでも主観的である。他者性を持ち込むことは意識的には不可能である。そこで、その反省機能は自己の思惟活動の外に構築される必要がある。言い変えると、反省機能を持つシステムとは「あるシステムについて他のシステムによる描写」という難解なパラドックスを抱え込んでいる。この自己準拠のパラドックス問題を前提にしてシステムに内在する「複合性」を課題にしてみよう。

ルーマンによると、自己とは「自己自身で目指している行為や自己自身を含有する集合」つまり意識的にしろ、無意識的にしろ、自己の行為の主体として登場するものである。準拠とは「そうして自己の存立の基盤となっているオペレーションのこと」である。つまり、自己準拠はシステムの中に所謂「他者性」を含むことによってそのシステムが一種のパラドックスになること。そのパラドックスによって生じるシステム内部の回帰運動を意味する。また、フィードバックはシステムのプログラムに即してその合目的性を満たすためにシステム内部に組み込まれたデータの再解釈プロセスである。機能主義的な考えではフィードバックを反省機能と考える傾向があるため、ここでは自己準拠とフィードバックのそれぞれの概念を分けてみた。

また、システムの再生産過程はそのシステムの内部で規定された諸要素の類型に依存しながらも、外部の要素を取り入れそれらを帰納論理プログラムしなければならない。するとそこで「システムとその環境の差異」を導き出す自己観察というシステムのコントロール機能が問題になる。するとルーマンの自己準拠的システムは対象認識する主体認識の在り方に関する観測機能を持つことを前提に成り立っていると思われる。

つまり、認識対象とする科学を援用することによって、認識主体の認知過程を描写する作業が取られ、その知の体系の中に観察する自己を理解することは可能である。自己自身で目指している行為や自己自身を含む集合である自己の存在の存立の基盤となっているオペレーションを自己準拠とすれば、この自己準拠を進める過程で、自己に含ませた他者性の中で自己と他者性として語られる自己が課題になる( )。この二つの異なるシステムの差異やパラドックス状態から生じる自己認知の運動を反省と考えるなら、生活世界の科学こそ生活主体の反省の成立に欠かせない認識であると言える。

生活世界の科学は「生活を癒すこと」を課題にする理解科学の成立を意味する。その方法論は自己組織系の科学性を前提とする。その科学性は意識科学を超える自己の定義を要求され反省は、その意味で、システム認識論でいう逆説として導かれることになる。しかし、この理論も現実の生活世界の科学と生活世界の改善運動として成立する。

ルーマンの自己準拠的システム論を援護するために、哲学的に認識論の在り方を再点検する。ここで問題になることは、反省機能を持つシステム論的な認識論はあくまでも主体はシステムの内部にあると言う事である。そのために、反省を対象化した機能として捉えることはできない。つまり、それはフィードバックを反省機能と考えることではない。あくまでも、反省機能とはシステム内部のパラダイム変換を前提にしている。




参考資料


ニコラス・ルーマン 『社会システム論(下)』、恒星社厚生閣、東京、1995.10、pp797-870

三石博行 「現代科学技術批判としての反省学試論(1)」金蘭短期大学研究誌 28 1997.12

三石博行 「主体的反省機能を持つシステム論は可能か -自己準拠的システムから反省機能補助システムとしてのインタフェース・エージェントモデルへ」社会経済システム 20 2001.11

吉田民人 「21世紀の科学 −大文字の第2次科学革命− 社会科学に法則はあるか」 組織科学 組織学会、32(3)、1999.3、p23、(吉田民人99a)

渡邊益男『生活の構造的把握の理論−新しい生活構造論の構築をめざして−』川島書店、1996.2、334p(p311-315)




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