2019年9月14日土曜日

哲学とはなにか(1)

現代社会で問われる科学技術哲学の課題


三石博行


なぜ哲学とは何かを哲学は問うのか

私は何回も哲学とは何かを問いかけ続けている。自分のことを哲学者と呼ぶにはあまりにも自信がない。だから、今まで自分を哲学者と呼んだことはない。しかし、哲学者になりたいと思う。それが私の希望である。そのためにはもっと努力が必要だと思うが、その前に、哲学とは何かを明確に定義付けることが出来るのかを自問自答してきた。


現代社会や文明の観念構造を問いかける道具としての哲学:反省の学問

残された現代哲学の課題は、「自己を振り返る行為・反省に関する省察」である。何故なら、自然哲学は自然科学へ、政治哲学は社会科学・政治や政策学へ、科学哲学や認識論は認知科学や科学技術社会科学へ、論理学は数理論理学や情報科学へ、中世社会まで体系的知を目指す学問として哲学は、近代社会、現代社会の歴史的発展の中で、発展的に消滅したからである。

その意味で、中世的な哲学専門家も消滅した。それに代わりより詳細に分業化された科学分野の専門家が登場した。彼らは実際社会の役に立っているし、もし役立たないなら社会から消滅するのみである。社会経済成長は市民社会の発展とは、中世的な哲学者・宗教神話的世観が消滅による現代社会の技術的生産性を持つ現代社会の科学者・実証主義的世界観の形成によってもたらされた。

宗教的世界観に根拠を持つ哲学には神の存在に対する盲目的信仰があった。近代合理主義思想も科学研究も神の真理を求める信仰があった。その近代合理主義思想から生まれた科学法則・ニュートン力学によって科学的実証主義が形成され、その実践力への信仰が科学主義を生んだ。現代社会の世界観は科学主義の上に成立している。

科学的実証主義は社会科学を変えた。社会科学も社会変革に実践的で有効な知識と技術でなければならない。これが啓蒙主義によって生まれた新しい人間社会科学の考え方である。啓蒙主義を支える自由や平等、民主主義思想は、経済社会制度を変革した。資本主義経済や民主主義社会制度はそうして生まれた。これらの経済社会制度への変換を総じて近代化と呼んでいる。

近代化とは総じて中世的世界観を持つ社会から科学的世界観を持つ社会への変換を意味する。近代化は世界にある様々な中世的世界観(宗教的世界観)をことごとく科学主義思想に塗り替えてきた。そしてほとんどの国がその恩恵を受け、工業生産活動を可能にし、さらにはIT情報化社会を展開し、国際経済へ参加している。科学主義は確かに豊かな社会を導いた。

しかし今、それぞれの国での近代化の過程、受け入れた西洋文明・科学主義思想、科学技術文明社会構造が問われている。その問いかけは伝統文化の破壊、生態環境汚染、都市化による伝統的共同体社会や文化の崩壊、新しい産業構造の中で生じる経済格差等々によって生じてきた。これらの問題も科学技術の進歩によって解決できると言われ、実際にその技術的解決が試みられている。

これらの問題を科学技術が解決することが出来るのはと言う疑問も投げ掛けられている。つまり、科学技術知識による問題解決の立場は、科学技術の知識を所有する人々の利益を前提にしている。つまり、その知識は「科学技術を所有する人々のためであり、その科学技術の更なる発展のため」に自己増殖し続けるのである。

そこで、この科学技術の知の在り方に対する基本的な点検が必要となる。それはもちろん科学技術的知識の中で可能にならない。それは科学技術の発展やその発展の上に成立している科学技術文明社会に影響を受ける人々の立場から可能になる。それをこれまで「反科学」、「反科学思想」、「反近代化」、「反進歩主義」、「反資本主義制度」、「反グローバリゼーション」等々と呼んできた。

これらの科学技術文明社会やそれを担う科学主義思想への反抗による中世的な社会制度への後退が仮に主張されたとしても、それらの主張や主義は現実的な解決を導くことはない。しかし、同時に、それらの主張は人類の存続に関わる地球規模の環境汚染を前にして非常に説得力をもつことは疑いもない。

現代社会文明の基本的理念の骨格である科学主義とそれを実現している科学技術、そして科学技術を最も合理的知識や技術として成立している社会・科学技術文明社会、その上に成立している私たちの生活文化や生活様式を問いかける作業は、言ってみれば、自分を形成しているものを自分が問いかける作業に似ている。そんな困難なことが出来るのか。一般に出来ないと言うべき作業であると言うのが正常な精神状態からの回答である。


社会と個人の失敗の経験の上で成立する学問:哲学

哲学は自らが信じて疑わない観念(ドグマ)を見つけるために用意された学問である。伝統的に哲学の方法論は「自らを疑う作業」から始まる。その代表者がソクラテスであり、ベーコン、デカルト、パスカル等々、現在の哲学の基本を創った人々の考え方である。その考え方は疑うことであった。しかし、自分で自分を疑うことはできない。自分が疑いの対象者とならない限り疑えないのである。だから、哲学を深化するためには、生活行為、社会行為、また科学的行為と呼ばれる他者と共に社会観念を再生産する行為主体になる必要がある。

大いに行動し、実験し、失敗する人生こそが哲学を行う最低条件である。大学の哲学部で哲学は出来ないし、哲学書を読んでも、それが自分の経験と共鳴しない限り、哲学にはならない。

哲学は何とも分かりにくい学問である。しかし、失敗をしたことのある人には必要な学問であるし、是非とも多くの失敗を重ねてきた人は、哲学をやる意味があると思う。これは私の経験からの助言でもある。

今、科学技術文明社会を引き起こす問題、つまり、その成功や評価に対して、否定的な側面が語られ、その文明や社会を否定するスローガンが「反科学」、「反科学思想」、「反近代化」、「反進歩主義」、「反資本主義制度」、「反グローバリゼーション」等々と呼ばれている時代にこそ、哲学は科学技術文明社会を支えた科学主義思想を根本から問いかける学問としての役割を果たすと思う。しかも、その役割を果たすべき人々は、科学技術文明にどっぷりとつかって失敗してきた人である。それらの人々が失敗を自覚したときに現代哲学が深化する機会を得るのだと思う。

2019年9月14日 ファイスブック記載 



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