脱資本主義社会経済システムは実現可能か
縮小社会研究会の課題(3)
三石博行
はじめに
縮小社会研究活動が最初に問題視する課題の一つとして、世界的な経済危機の元凶である世界的金融資本主義経済がある。この経済規則は市場主義によって成り立っている。つまり、市場経済主義が現代の巨大な資本主義社会、集中大量生産と世界規模の流通経済を生み出した原因である。
しかし、この市場経済を廃止し、それに代わる新しい経済規則を取り入れることが可能だろうか。巨大な生産システムの形成の遺伝子とは、資本主義経済の基本、利益追求制度である。その形態が市場経済である。その意味で、市場経済の廃止とは資本主義社会の終焉を意味する。
縮小社会の課題は、この不可能に近い難問に答えられるのだろうか。そこで、問題の一つひとつを検討する作業に取り掛かった。今回は、市場経済批判の可能性に関する議論を行う。
市場経済主義批判の根拠
世界金融資本による世界経済の危機
現在資本主義社会はますます病的な金融資本主義や極端な市場主義(新自由主義的経済と呼ばれる)の傾向に傾きつつある。例えば、2012年2月のAIJ投資顧問会社の年金資産2,100億円が消えた事件などはその典型である。「120社の労働者の老後の生活」のために預かった年金資金は、「タックスヘブンで有名な英領ケイマン諸島を経由して香港に移転、そこから先どこに消えたかは判っていない。数名のAIJ経営者が刑事罰をうけたとしても、会社は清算され、2,100億円が戻ってくることはない」(1)。
また、国家を財政危機に追い込んだ歴史、ユーロ崩壊の危機を招いたギリシャ財政危機の背景にも、財政的根拠のないギリシャ国債の発行に加担した投資会社が存在している。食糧危機や国家財政危機、現代世界経済は巨大な金融資本の利益活動に翻弄され続けている。その活動を「市場の判断」として各国は為すすべを失い、巨大な投資マネーが一秒の100分の1を争う速度で通貨、株、先物取引、国債や社債の売買ゲームから得られる利益に群がっているのである。
過剰な市場経済主義(新自由主義的経済)によって、世界経済は混乱し、実質経済を無視した金融経済が情報化社会のシステムを援用しながら世界経済を支配している。商品の本来の意味、生活するための資源材料すら、貨幣と同じように、交換材となり、人々の生活に使われることを目的にして売買され流通しているのでなく、投資の材料となっている。そして、ジャスミン革命の原因となった北アフリカ、チュ二ジヤやエジプトでの食糧危機は発展途上国の国々を、異常気象による不作と相まって、襲おうとしている。
新自由経済的主義や金融資本主義によって、今、世界はかって19世紀から20世紀前半に列強と呼ばれた欧米の強国が跋扈した帝国主義の時代と同じように、金融資本主義によって利益収奪が繰り広げられている。
この金融資本主義経済は、生産、流通と消費による生産、流通、消費の経済循環サイクルによって形成される経済社会・生活文化資本の蓄積過程を生み出すモノ造りを代表する実態経済(使用価値を前提にした資本生産を生み出す経済活動)から、金融商品(交換価値しか持たない商品)の流通によって増殖する利益(金融商品)を生み出す金融産業を中心に成立する社会を形成することになる。
金融資本主義経済が世界を席巻している実態は、図1、世界のGDPと金融・資本市場の推移を見ると明らかである。世界中のすべての産業によって生み出されえる商品生産高よりも、金融資本市場での金融商品生産高は1995年には約2.5倍であったが、2010年になると約3.3倍に増加しているのである。まさに、新たな世界金融資本帝国主義が誕生しているのである。
図1、世界のGDPと金融・資本市場の推移
『朝日新聞』2012年2月29日 朝刊
Occupy の政治・経済学(3)-世界をおおう金融資本主義の来歴② 2012年3月16日 (金)
http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/occupy-1c09.html
自由と平等の人間主義から資本主義経済は成立し発展してきた
新自由主義的経済や世界規模の金融資本主義による世界経済の危機の起源は、資本主義社会の基本構造、つまり資本主義経済の歴史的な流れの中で必然的に準備されているともいえる。市場原理に基づく自由主義経済の延長線上に新自由主義があり、企業活動の基盤となる投資家の権利擁護を前提にして成立する株式制度、国民(市民)による株式投資等々の資本主義経済制度の秩序に由来するものである。その起源は、17世紀以来、市民革命を通じ形成されてきた自由や平等主義にたどり着くのである。
自由と平等の社会思想(社会契約思想)によって、社会経済活動の自由は保障され、市場経済活動は肯定される。この信条を確立するために、中世社会を支配していた禁欲主義を乗り越える哲学、つまり人間の自由や平等の尊厳、人権主義思想が形成され、それを社会理念とする社会契約思想が生まれた。
17世紀から続いたこの思想闘争の歴史の上に、資本主義の信念は確立しているのである。市民革命にいたる長い中世世界との闘争を通じて、自由や平等という資本主義に貫かれている信念によって、自由主義経済や市場経済が市民権を得る。言い換えると、資本主義経済活動は人間的欲望の肯定・人間主義(ヒューマニズム)から始まるのである。自由でありたい、豊かになりたいと言う人間的欲望によって社会経済が機能していることを市場経済と呼んでいる。
市場経済主義批判の限界
脱資本主義経済制度・社会主義経済の挫折
人間的欲望を積極的に肯定し成立する社会経済制度が資本主義である。従って、資本主義経済活動の発展進化形態として新自由主義と金融資本主義が形成される。それらの矛盾を解決するためには、資本主義を根本から見直し、資本主義経済制度を廃止する以外にないと結論されるだろう。しかし、すでに我々は、社会主義経済の名の下に市場経済を縮小し、計画経済による社会建設を半世紀間続け、結局、失敗した経験を持っている。
市場経済主義への批判が人間的な欲望の否定となることで、失敗をした20世紀の社会主義 経済、その残存、北朝鮮の現状、つまり、人々は豊かになるための欲望を抑え、利益を得ることは罪深い不当な行為として理解され、市場経済は不当な儲けを得る制度として社会から排斥される。
市場経済の排斥に成功している社会では、国家による統制経済、一党独裁主義が取られる。国民の経済活動や政治活動の自由を認めることはできない。国名に「民主主義」や「人民」という名が付いたとしても国家指導者の世襲制が行われ、選挙もない。国家の指導者は中世の王族のように軍事力や国家権力を独占している。それを支えるのは封建的価値観をそのまま維持しつづけている国民の社会観念である。
統制経済国家では資本主義的な経済発展は抑えられ、その意味で「縮小社会・生産力の少ない社会」は実現している。例えば、北朝鮮の政治経済制度が巨大科学技術文明社会や金融資本主義の病理構造を解決するための手段であるなら、日本のどの左翼もまた体制批判者達も、その解決策を選択することはないだろう。
つまり、社会主義経済の失敗の総括反省を抜きにして、現代の資本主義社会で生じている危機や病理構造の解決策、新しい政治経済理論の提案を行うことは困難であると言える。
金融資本主義、国際市場経済への流れを止めることは不可能に近い
新自由主義的経済や世界規模の金融資本主義を行き過ぎた資本主義経済と理解し、その修正を試みることはできる。その代表がケインズ経済学である。社会民主主義政党が政権運営をしてきたヨーロッパの国々では、ケインズ経済学に基づく政策を取り入れてきた。
行き過ぎた自由主義経済を規制するために、公共経済を国民経済の充実を図るために、政府主導の経済政策によって、世界経済の推進力と評価されている国際市場の制限、自由貿易の規制、公共事業推進、国内資本の海外流出防止策等々、国家が積極的に市場経済に介入することが可能だろうか。
例えば、資本主義の発展形態として登場した金融資本主義、銀行資本と産業資本の一体化によって形成されてきた金融資本の巨大発展を阻止し、またその資本力を抑制することが出来るだろうか。
1990年代に起こった大手銀行や証券会社の倒産を防ぎ、世界の金融市場での日本の銀行資本の国際競争力を確保するために、政府は大規模な金融制度改革を1996年から始めた。この金融制度改革を日本版の金融ビッグバンと呼んでいる。三つの金融資本(銀行、証券と信託)の業務分野のすみ分け(銀行資本を他の金融資本から擁護、金融資本の独占化を禁止、中小企業や農業分野の保護のために取られていた規制)を廃止した。
この規制緩和を見直し、金融資本の巨大化を防ぐために、1996年以前の金融規制制度を復活させるとすれば、日本の金融資本は国際的な競争力を失い、倒産もしくは世界金融資本に吸収合併されるかもしれない。つまり、この規制緩和見直しは不可能であると言える。
この不可能さの理由は、国内の産業資本や金融資本のすべてが、国際市場の舞台で、経営活動をしているからである。日本津々浦々、どの田舎の家にも、中国製、韓国製、アメリカ制やヨーロッパ製の生産物が置かれている。また、同様に、世界のどの国に行っても、日本製の車や電気製品が売られている。今さら、貿易規制、極論すると経済鎖国を復活することはできない。
しかも、インターネットの普及によって商品情報は国境を超え全世界に流れる。それを防ぐことはできない。国際化する経済活動は情報社会に支えられ、世界全体の需要を前提に行われる。市場の国際化が経済活動の発展の要因となり、今日の経済発展が形成されてきた歴史の流れを止めることも、逆向きにすることも不可能である。言い換えると、資本主義経済に予めプログラムされていた進化の方向、市場の拡大を止めることはできない。
例えば、生物進化の過程から理解できるように、身体機能の進化が遺伝子プログラムに組み込まれているため、生態環境の変化によって、その個体保存が困難になる状況が生じる場合、その個体種は絶滅の危機に瀕することになる。
市場経済は資本主義制度の基本プログラムである。その市場経済によってその制度が産業資本主義、独占資本主義、金融資本主義と進化してきた。現在の国際金融資本主義経済や自由主義経済はその進化の結果である。
つまり、生物進化と同じように、資本主義経済の進化も、資源環境の変化によって、制度自体が崩壊する危機的状況が生じることになる。その危機から市場経済の制度を守るために、資本主義制度の修正が必要となる。もし、その修正に失敗するなら、制度自体が崩壊することになるだろう。
資本主義が選んだ矛盾解決手段としての戦争とその限界
世界経済の危機の原因となりつつある国際金融資本主義が、このまま、金融市場経済が実態経済を上回る経済活動を続けるなら、実態経済は崩壊するだろう。つまり、市場経済の活動は人間の生活の豊かさを求める活動から、過剰化した貨幣による世界中の利益(利子)を得るために投資ゲームとなる。この投資ゲームによって生活経済が崩壊する時、市場経済は根本から見直されることになるだろう。
それとも、過剰な貨幣を消費させようとする社会現象が起こる。戦争はその一つである。戦争によって、これまでの生産物はすべて破壊される。それによって、戦後復興と呼ばれる新たな需要が生じる。過剰な貨幣はそこに吸収される。また崩壊した体制の貨幣は、そのままこれまでの価値を失い、デノミネーション(戦前の貨幣単位として存在した銭(100銭が1円)を廃止し円にするように、貨幣単位の切り下げ)が生じ、過剰な貨幣はそこでも消費されることになる。
現在、国際地域的な戦争によって、実際、過剰な貨幣の消費が進んでいる。代表例がイラク戦争である。そしてリビアもその例に入る。これらの国は石油資源を所有しているため、この国での戦争は、その後(戦後)生じる復興、つまり経済需要を満たす豊富な財源(石油)を持っている。それらの国々から生じる経済需要によって、過剰な貨幣は消費されるのである。
しかし、先進国は20世紀に行った二つの世界大戦による被害と戦後復興のために必要とされた巨額な経費を知っている。また、核戦争の危機も、国への致命的な破壊を生み出すことも理解している。そのため、極力、世界戦争が起こることを警戒している。それは、先進国自体の崩壊を意味するからである。
また、同時に資源枯渇問題がこれまで資本主義社会がその矛盾をリセットするために選んだ手段・戦争に対して警告を行っている。資源が有限である以上、この資源の浪費は、世界経済自体の弱体化を意味すると理解し始めている。
市場経済主義批判の可能性
持続可能な市場経済活動、人間的な欲望とそれを抑制する社会機能の必要性
市場経済は人間的欲望を土台とする経済である。つまり、よりよいものが欲しい、豊かな生活環境が必要、人が持っていないものが欲しい等々、まずは、個体の生命を維持するための要求(生存するために必要な衣食住の生活環境・一次生活資源を得る)にそって活動する。それらを得るために働くのである。
その最低限の生活環境を得ることができるようになると、よりよい生活環境(二次生活資源)を得ようとする。栄養のあるものを腹いっぱい食べたい。美味しい料理が欲しい。きれいな食器や食卓で食事をしたい等々の要求が生じる。
豊かな生活環境が手に入るようになると、もっと贅沢な生活環境(三次生活資源)を手に入れたいと思う。贅沢をして生きたいという欲望が生まれる。世界珍味の料理を高級レストランで食べたい。京都一の料理人を貸し切って家で友人を招いてパーティをしたい等々。欲望の尽きることはない。
このよりよいもの、より自分の気に入ったものを欲しがる欲望を満たすために、言い換えると希少品や高級品と称されるそれらの品物を手に入れるために高額なお金が支払われることになる。
こうした要求や欲望が経済を動かす。それは必要とする側、つまり品物を買う側があり、その品物を提供する側、つまり品物を売る側がある。その両者の相互の行為、買う行為と売る行為が貨幣によって成立している経済制度を市場経済社会と呼ぶ。
貨幣は交換に必要な価値評価を価格として表現できる道具であり、その貨幣の価格単位は社会的に決められている。その決定を行なう場を市場と呼ぶ。ものとものを交換する場所、市場では社会が決めた貨幣を使い、その商品価値を価格として表現する。
もし、その価格がもの・商品の価値より高いと評価されるなら、そのものを買う人は少なくなる。そこで、売り手は価格を下げる。このように市場では、品物の売れ行きによって、売買の条件(価格)が決定、変更されることになる。この価格の変更に関する経済現象を市場経済と呼び、その現象を解明する学問を市場経済学と呼んでいる。
つまり、市場経済現象はより豊かになりたいという人間的な欲望の上に成立している。もし、その欲望自体を否定するなら、経済活動自体が鈍化してゆくだろう。実際、社会主義経済社会では、市場経済を抑制した。その結果、経済活動は鈍化し、現在の北朝鮮のような国が生まれている。
しかし、同じように市場経済主義が拡大し、実態経済の要素である生活や社会資源となるものや情報商品のみでなく金融商品も市場経済の中で利益を生み出すようになる。すると、世界規模の金融資本主義が世界中に横行する。
上記した現代社会の矛盾が拡大されることになる。世界中のすべての国の国内総生産よりも、世界の金融商品生産のほうが大きい現象、つまり、実体経済をこえる金融経済の社会になるのである。その結果、発展途上国が巨大なへッジファンドに翻弄され、ギリシャ財政危機に類似する国家財政破綻が不良債権、赤字国債(金融商品)によって引き起こされるのである。
つまり、市場経済を牽引する欲望を抑制する機能を持たない社会は、その欲望の暴走によって、市場経済自体が壊滅することになる。
丁度、自我の安定に欲望(エス)とその抑制機能(超自我)が必要なように、市場を刺激する欲望と市場の加熱を防ぐ経済規制がなければ、市場経済で動く社会は、破綻することになる。その経験を20世紀、我々は経験した。それが帝国主義戦争であり、世界大戦であり、そしてその極限として広島長崎の原爆があることを忘れてはならない。
市場の範囲拡大化、狭義、広義と最広義の経済活動領域について
問題は、市場経済の過熱を防ぐための社会経済機能とは何かということだ。つまり、経済活動は市場を刺激する要素によって活発化する。それと同時に、その刺激を抑制する要素によって市場の過熱化や市場経済の暴走を防ぐことができるのではないだろうか。
市場経済学を批判的に検討する研究は経済学の中で取り組まれてきた。それらの試みは、概して、市場経済則を否定するのではなく、市場経済の活動範囲を拡大解釈する中で試みられた。古典的な経済理論では、経済活動範囲は、生産、流通、消費に限定されている。市場経済とは流通の経済則を述べたものである。市場経済の土台となる生産と消費のカテゴリーを拡大することで、市場に登場する商品が拡大解釈可能となる。
例えば、経済活動範囲を企業の生産活動を基本とする市場に限定した経済学から、労働力を生み出し育てる社会環境の要素を経済価値を生み出す要因として考え、その要素に関する経済的価値評価を検討する経済学として公共経済学や社会政策学がある。この学問では、経済的資本の中に社会資本が含まれる。その社会資本の蓄積によって生じる経済効果が計量されることになる。つまり、経済活動の範囲が企業生産活動から公共社会の福祉サービス等を含む活動に拡大されたのである。
企業経済活動では労働力を生み出す環境の経済価値に関しては議論されない。そこで、生活経済学では家庭環境の経済効果が問題となる。良質の労働力の生産と労働(人)の生産と育成を課題にした経済学が展開する。つまり、この生活経済学では、経済活動の範囲は労働力の質を保証し、労働力の育成と再生産が可能な環境の経済性を課題にしている。その意味で、家族関係や家庭環境、生活環境が経済活動の要因として拡大されることになる。
また、文化活動の経済効果を理解する文化経済学や観光経済理論は上記の公共経済学と生活経済学の境界領域の経済活動を課題にして成立しているといえる。
そして、自然資源の生成、消費と再生成過程に拡大した環境経済学、さらには資源概念を自然物のみでなく、生活環境や人的資源にまで拡大した生活経済(経営)学等の経済理論が形成されてきた。その意味で、経済活動の範囲が社会的資源から文化的資源、さらには生態文化的(里山等)資源へと拡大されている。その意味で、この環境経済学の意味する経済活動の範囲が最広義の経済活動概念であるといえる。
もし、環境経済学を最広義の経済活動領域として商品交換の市場経済活動を最狭義の経済活動領域と考えるなら、公共経済は狭義の経済領域となり、また生活経済は広義の経済領域となるだろう。こうして、経済活動の領域を拡大することで、市場経済主義を相対的に理解することが可能になる。
市場経済の刺激と抑制機能を持つ経済理論
市場経済を否定し、新しい経済秩序を提案することはできない。その意味で資本主義の欠点を修正するための批判として、縮小社会の在り方を模索することになる。縮小市場経済や縮小自由主義的経済、縮小金融資本主義という新語をもってスローガン的にあげる経済制度がイメージされる。それらの制度は、現在の資本主義経済の主流である市場経済至上主義、巨大金融資本主義や新自由主義的経済によって生じている経済危機を解決する理論であることが求められるだろう。
この考えは既に実行されている。例えば、環境経済学に基づき、二酸化炭素(廃棄物)が及ぼす気象変動、さらにはそのことによる自然災害や環境異変による農業漁業等への被害、都市のヒートアイランド現象による健康被害や冷房施設でのエネルギー消費量の増加等々の経済的影響を考え、二酸化炭素排出量の規制を世界の国々が話し合い、規制値を決める京都議定書を取り交わした。環境経済学の経済活動概念がこの緩やかな取り決めの背景にある。
しかし、この規制を実現するために、同じように市場原理を持ち込むことになる。つまり、排出規制された二酸化炭素量を商品化し、二酸化炭素排出権価格として排出量を市場で売買することで、二酸化炭素排出規制は実現可能な政策となっていく。このように、市場原理を取り入れることによって、環境問題を解決しようとしている。
また、ヨーロッパでは商品に炭素税を導入している。炭素税とは商品に含まれている二酸化炭素使用料金である。例えば、これまでは、流通過程で使用される燃料は燃費として商品価格を決定する要因となった、そのため低賃金の商品が海外から輸入される。それでは海外の低賃金によって生産される商品に地元の商品は駆逐される。しかし、多量の燃料を使って輸入される商品は、今後の地球温暖化による自然災害の増加、それに対する防止を前提にすれば、地球温暖化防止に必要な費用(税金)を払っていないことになる。そこで商品が市場に出るまでに必要となる炭素量を計算し、それに税金を掛けることを炭素税と呼んでいる。この制度によって、地産地消型の経済を維持することが可能になる。
さらには、再生可能エネルギー社会の構築も、再生可能エネルギーを買い取る価格を設定することで、買取り価格で得られる収益を目的にした経済活動を刺激し、再生可能エネルギー施設に投資する人々を増やそうとしている。
市場原理を持ち込むことで、巨大市場主義経済活動に対する小さな市場主義経済活動を刺激し、エネルギー集中生産様式から拡散生産様式、短種大量生産型から多様小規模生産型に変化する契機を生み出そうとしている。
実際、原発の電気料金が安いと言われてきた背景には、原発で生じる高度の放射能を持つ廃棄物の処理が計算されていなかった。もし、その処理費を計算して電気代を算出するなら、原発で生産される電気は高くなるだろう。こうした計算を正確に行なう経済理論が検討されつつある。
その意味で、これまでの経済活動の範囲を極めて限定して成立していた企業生産を中心とした市場経済から、経済活動の範囲を拡張し社会資本、生活文化環境、生態文化環境、そして地球規模の広域生態自然環境まで含む経済活動(経済性)を考える経済学が必要となる。
縮小社会の縮小とは企業中心の市場経済のあり方を相対的に縮小することであり、結果的には経済活動の範囲を拡大する拡張経済活動の社会を意味するのではないだろうか。
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
引用、参考資料
(1) 橘木 俊 「日本における金融業の規制と規制緩和の経済」 http://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list2/r24/r_24_090_101.pdf
(2) Occupy の政治・経済学(3)-世界をおおう金融資本主義の来歴② 2012年3月16日 (金) http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/occupy-1c09.html
三石博行 ブログ文書 『縮小社会研究の課題』
1、「市民民主主義社会発展のための政策研究集団としての縮小社会研究会活動」2012年8月14日
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_3059.html
2、「巨大科学技術文明社会のアンチテーゼから社会改革の理論と政策提案へ」2012年8月16日
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_16.html
3、「成長経済の終焉はどのように可能か」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/08/blog-post.html
2012年8月21日 文章追加、誤字修正
--------------------------------------------------------------------------------
Tweet