2021年6月10日木曜日

人文社会科学における記述法について

-人文社会科学での記述行為の科学的根拠とは何か-

三石博行


1、何故、人文社会科学では、記述行為が問われるのか

ここでは、人文社会科学の研究の中であまりにも当然の手法として誰も語らなかった「記述」について問題を立てる。これまで、記述という方法(行為)が科学的方法として成立しているかという疑問は解決されただろうか。記述行為を支えている実体が問われる。何故なら、記述行為は記述という情報構築活動である。しかし、それらの情報(様相)はその現実(実体)を伴わなければ、虚偽となる。

例えば、近代知の土台を形成したデカルトのコギトであるが、このコギト(疑う我を疑うことは出来ないというデカルトが絶対に確実な第一原理として打ち立てた命題)の記述行為が成立することは、そこまで疑う行為をもってコギトを定義ずけたデカルト以外には不可能ではないだろうか。言葉としてデカルトのコギトを受け取ったところで、その哲学的命題の正しさを実感する原体験を持ちえない読者にとっては、コギトは経験された事象ではない。その意味で、デカルトの記述内容(コギト)に対して、唯一読者がその事象を共有する体験をするかが、問われている。

その意味で、その経験の共有を前提にしない読者が語る記述行為は、意味のないものであると言えるだろう。このように人文社会学では、伝承される記述に対して、その記述形式の了解にとどまり、記述行為自体に入り込むことはない。だが、それでは人文社会学が課題とする事象はどう存在し、それを語る主体はどこにいるのかと問わなければならなくなる。従って、こうした記述行為の課題に焦点を当て、科学として記述行為からなる人文社会科学の成立条件に関して議論する。


2、自然言語による記述行為からなる科学、人文社会科学

自然科学やデータ解析を行う計量的方法では、数学という方法を用いることで主観的な解釈や意味を間違えた用語法を徹底的に排除できる。その意味で数学的言語を用いる記述法は自然言語を用いるそれよりも正確に事象を表現し、また分析することができる。しかし、人文社会科学の場合、対象となる事象が数的(計量的)な形態を取っているとは限らない。もちろん、それらの事象のある計量可能な要素に限定すれば、その事象の計量的側面を理解することが出来る。しかし、多くの場合それらの事象全体をより正確に表現するには自然言語的な表現を用いるしかない。

自然言語による記述法は人文社会学では日常的に行われている研究方法であるが、その言語活動としての記述行為に関する方法論的検討はない。また、その方法・記述法に関する定義もないし、用語はない。そこで、この記述法という意味を定義してみる。「記述による説明」という人文社会学系の伝統的な手法を用いて日々研究する立場として、記述行為による概念説明や論理展開に関して、厳密な意味で、そこに科学的方法が成立しているかを問わなければならない。

つまり、記述行為を基にして展開する手法が科学的に有効な方法であると証明できるか。これが、「厳密な科学としての人文社会科学の成立条件」の一つを構成していると言える。しかし、果たし絵、記述法という学問的方法が成立しているだろうか。もし、記述法という用語も、またその定義もなければ、記述行為によって論理展開する学問の存在基盤が疑われることになる。その科学的な方法を課題にする極端な解決手段が人文社会科学の計量科学科への傾倒として現れるだろう。事実、人文社会科学の中で、計量科学を最も厳密で科学的方法であると主張する人々は存在し、その勢力は増え続け、次第に主流派になるだろうと言われている。


3、記述行為の前提条件:正しい用語

人文科学の場合、ある事象(観察された現象)に対して、記述という手段でその事象を表現している。記述行為によって表現された概念を基にして、その分析が行われる。従って、対象となる事象の正確な記述が記述行為の原則となる。正確な記述行為によって記述内容の信憑性が保証される。

当然のことであるが、記述に用いられている用語がその定義や意味に即して正しく使われていなければ、正確に事象を記述することは出来ない。される事象は正確ならない。間違った用語を使って事象を説明している場合には、その事象は間違って伝えられる。例えば、幾何学で例えるな「正三角形」という用語を「二等辺段角形」に当てはめて使っている場合を考えれば分かる。その後、どれだけ正三角形に関して記述しても正三角形を充たす概念を構成することは出来ない。また、マルクス等の古典派経済学で用いられる「労働」と「労働力」の用語に違いを正確に理解しなければ、その経済学での「価値」と「価格」の概念に違いも間違ってしまうだろう。

つまり、記述行為やその記述内容の正確さは、それらの記述行為の背景が現実の事象に基づくものであるということが前提条件となる。もし、現実の事象に基づかない記述行為であれば、記述内容の全てが「嘘・間違い・偽」である。したがって、この前提条件を満たさない記述はすべて、記述による証明法では排除される。これが記述行為によって成立する科学的方法の基本条件である。


4、コミュニケーションの成立条件:文法的正確な記述

次に、記述行為の中の文章化であるが、文章化の条件は、文章が文法に即して正しく記述することである。記述が文法的に正しくなければ、記述された意味が不明となり、記述行為の目的は果たされない。意味不明の記述によって、記述行為の目的やその内容も意味不明となる。

文法的に正しいということは、単語(意味するもの)が、共同主観化された言語文化的構造を前提にして、配列されていることを意味する。この規則(文法)によって、書かれたもの話されたものの(つまり意味するもの)を共有することが出来る。これをコミュニケーションと呼ぶ。共同主観的世界での記述行為による言語の相互交換行為(コミュニケーション)が成立しない限り、記述行為は他者に伝わることはない。当然のことであるが、文法的に正しい記述行為が正確な意味の伝達の条件となる

言い換えると、記述行為を基にして展開する手法が科学的に有効な方法であるためには、その手法がコミュニケーション可能な道具として成立しなければならない。共同主観的世界、つまり、時代や社会文化として現象している世界では、事象を「正しい」という形容詞を付けて表現する前提条件は、その事象の意味を自己と他者が共有化できているかという意味として理解できる。正しいとはその共同体の中で共有されているために文化的に成立している概念である。その意味で、記述行為は文化的規則(文法)的に正しくなければならない。それが、正しい記述行為の条件となる。


5、学際的コミュニティの中での決まり;主義という切り口

記述行為は、課題展開のための論理的構成を前提にして成立している。論理的構成と言っても初めからある方法によって文書が配列されている訳ではない。記述行為は、非常に多様なやり方(書き方)があり、十人十色である。しかし、それらの多様な書き方に対しても言語行為による表現形態には原則がある。それは、文章の繋がりの中に相矛盾する内容があってはならないという事である。記述文書群の間で相矛盾する文脈が存在すれば、その文書群の指向性は失われる。つまり、意味不明の文脈となる。記述行為によって構成される相矛盾しない文脈の構成が正しい記述行為の条件となる。

しかし、これらの条件はある一つの基準をもっている訳ではない。これらの条件は、伝統的は手法、もしくは何々主義として語られるそれぞれの学派や学際的集団の中で成立している分析手法や科学的方法が前提となって成立している。一般的な人間社会科学手法、普遍的方法は存在しない。人間社会科学の記述行為は、事象の定性的解釈、定量的分析、それを構築している要素分析、それらの要素によって形成されている構造や機能、そのために用いられる相関関係の分析、その分析を展開するための手法(統計学やその他)等々の方法が取られるのである。これらの方法の土台に、その方法を展開するために設定された仮定や前提条件がある。またそれらの仮説を持ち出す記述主体の認識論的背景が課題となる。

人間社会科学の記述主体は、その記述行為を促す何らかの前提条件を持っている。これを理論と呼んでいる。しかし、その理論は一つではない。伝統的には三段階論法、帰納法や演繹法、弁証法、機能主義、構造主義、解釈学、構築主義、ポスト構造主義から、統計的手法、ケーススタディ等々、色々な手段が存在し、それらの手法を記述行為の主体(研究者)は、何の疑いもなく当然のように用いている。


6、人文社会科学の科学性の成立条件:共同主観的ドグマへの挑戦

自然科学(古典力学の場合)の扱う世界では、絶対的な時空概念が存在している。従って、その記述内容(事象)は同質の時間性や空間性を持つために、記述行為は、記述する人の時間性や空間性に独立して可能となる。その意味で、自然科学の世界では、すべての研究者が共有できる記述行為の基準が決められている。その記述行為の基準を決めているものが「自然法則」であり、その法則を前提し記述行為は展開し、また、新たな法則の発見を目指して、記述行為が繰り返される。

しかし、やっかいなことに人文社会科学の扱う世界は、その世界を構成する事象がその世界独自の時間性(歴史性や時代性)と空間性(社会文化性)を所有している。言い換えると、記述行為は記述主体(研究者)と記述対象(事象)の独自の時間性と空間性によって規定されていることになる。

言い換えると、前記した人文社会科学の科学的方法としてこれまで成立した手法(三段階論法、帰納法や演繹法、弁証法、機能主義、構造主義、解釈学、構築主義、ポスト構造主義から、統計的手法、ケーススタディ等々)も、その手法が形成された独自の時間性と空間性を持つと考えられる。例えば、フロイトの精神分析学であるが、その手法は19世末期から20世紀初めのヨーロッパ・オーストリアの時代や社会文化的背景によって成立している理論(切り口)である。それをそのまま、現代の日本社会に応用し、すべてフロイト流の解釈(例えば、リビドー論)で分析・解釈することは無理がある。同様なことが他の理論的展開でも起こっている。理論的解釈に合わせて事象を観ることが人文社会科学の科学性の展開を鈍らせている。

では、どのようにして人文社会科学でのより正確な記述行為は確立できるのだろうか。そもそも事象を「純粋経験」することは出来ない。すべての事象がすでに受け入れてしまった知識(理論)やまたその時代性や社会文化性の共同主観的了解を持ち込んでいる。むしろ、そのことを前提にするしかない。そのための方法論について語る必要がある。




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