- 方法としての記述行為の可能性について -
三石博行
197年代の始め、学生運動に挫折し、また、自然科学研究を生涯の仕事とするかという迷いの中で、息を潜めながら生活していた時、当時、水俣病患者の支援運動をされていた日本基督教団京都西田町教会の小林正直牧師(1973年日本基督教団長崎銀屋町教会牧師に就任、1989年逝去)と知り合い、小林先生の書庫(と言っても教会の2階にあった先生個人の本棚)にずらりと並んでいたドストエフスキー全集や解説書を片っ端から読み漁っていた。朝から晩まで、読んでいたので、夢にまで作品の主人公が現れ、彼らと会話までしていた。異常な精神状態の日々であった。
ドストエフスキーの作品、例えば「罪と罰」で主人公・ラスコーリニコフが老婆アリョーナと義理の妹リザヴェータ・イワーノヴナを殺し、ソーニャに会い、そして自首するまでの時間は、多分、1年もない。数日ではないかと思われる。その短い時間の流れとは別に、作者がきめ細かく描写するペテルブルグの風景、人々の心象風景、広場や街並み、人びとの姿、まるで私はそれらが見える様だったことを記憶している。例えば、ラスコーリニコフが老婆から盗んだ金(札束)をセンナイ広場(?)の敷石の下に、隠す場面があった。広場の風景、敷石の大きさ、その一つを持ち上げて、その下に、包みに入れた札束を置き、そして敷石を元に戻した。小説の表現がそうだったかは記憶にないが、まるで、私はその風景を見たかのように記憶していた。それだけではなかった。彼が初囚人たちとシベリアに送られるとき、彼よりも凶悪な囚人たちですら、彼に「旦那衆が斧なんかふりまわすのか(?)」とラスコーリニコフを罵った。その風景も非常に印象的だった。囚人服を着た荒々しい男たち、その中に青白いラスコーリニコフが居た。彼ら囚人たちは囚人輸送用の馬車の中で、シベリアへ向かって行こうとしていた。それは小説で描かれていた描写を通じて、私の脳裏に移るフィクションの世界の心象に違いない。
作者の記述行為(小説を書く)によって形成された(書かれた)文章、ストーリ。それは小説である以上、現実にある世界ではない。作られた世界・フィクションの世界だ。しかし、それらのフィクションが、読者に対してリアリティを持って迫るのは何故なのかと思う。もちろん、ドストエフスキーの小説は、当時の私の小さな生活の全て独占し、私は、ひたすら読み続け、読書にすべての時間を奪われ、夢にまでその場面や人物が登場し、また主人公たちと会話までしていたのだ。だから、その小説の世界は私にとってはリアリティの一部であったと言えるのではないか。まるで、私は、ドストエフスキーの小説の世界を体験をしていたのだとも言える。何故、私がその小説の世界で体験できたのか。それは、今になって、大きな疑問となり、また、哲学的な課題となっている。
色々な評論家や知識人(文学者)によるドストエフスキー個人やその作品に関する解説書、評論書、ドストエフスキー論を読んだ。その中に、もう著書名や著者名は忘れていしまったが、「ドストエフスキーは書きながら、実験をしていたのだ」という一節があった。その記述は今でも覚えている。作家にとって書くとは「実験」なのか。その実験の目的は何か。書く行為(記述行為)によって描き出された小説というフィクションの世界にリアリティを存在させることが出来るとすれば、それらの記述表現の構成、展開、表現内容はどう構築されるべきなのか。そもそも小説(フィクション)にリアリティを求める試みが可能なのか。結局、私は実験としての記述行為に疑問を投げかけてみた。何故なら、記述主体(作家)は、記述行為(フィクションを書くこと)によって、その書かれたものを自分の外の世界の一部として見つめることになる。記述行為の対自化によって、小説は自分(通時的に存在している主観的世界)から文化的に存在している対象世界の一部となる。そして、もう一人の自分(作家)が「この記述世界(小説)は事実存在し得る世界(リアリティ)として了解されるか」と、その記述内容の真偽を確認し始める。真偽の確認は記述行為によって可能になる。従って、この過程をある種の実験と呼ぶことができるかもしれない。実験としての記述行為は小説家に限らず、物書きと称するすべての人々に共通する行為のように思える。事実、私も書くことを通して思考実験を行っている。
私の心にこのドストエフスキー論を書いた作家のことばが50年経た現在まで残存し続けたのは、決して、偶然ではなかった。この言葉、ドストエフスキーにとって小説を書くことは、「そこにあるリアリティの存在を確認のための実験」なのだというテーマは、私自身の方法としての記述行為に関する理解となり、また、記述行為という人文社会科学の手法の在り方に関する疑問となって、展開して行った。つまり、記述行為の課題とは「ことばにとってリアリティとは何か」という問題であり、記述行為を通じて暴露されることばの偽善性でもあった。記述行為によって、私の欺瞞は露呈し、私の虚偽の影は外界に透けて現れる。そうした記述行為が方法論的に可能なら、それは一つの実験ではなかい。そう思っていいのか。どうなのか。
書くという行為は思考実験であると、以前フェイスブックに書いたことがあった(「思考実験としての書く行為」2019年14日フェイスブック記載)。思考実験としての書く行為とは、考えている課題をスケッチし、文章化し、その文章化されたものを課題別に整理し、整理された課題を分析し、その課題の核心を理解すための作業である。しかし、殆どの場合、そう簡単に、書くことで課題の核心を理解できる訳ではない。多くの場合、書いてみると不十分な点が明らかになる。もしくはその課題の困難さが見えてくる。
逆に言えば、書くことで課題の難しさ(各主体の未熟さ)が露呈することが、書く行為の目的である。何故なら、思索は、そのすべてを外化し(書き表し)、その書かれた私の思索の外観を、私自身が、もう一度、観察する作業によって、一つひとつ課題を深めることができる。こうした作業を通じて自分の思想や考え方がより確実に理解される。この作業を通じて、説得力のない文章に関する点検、論理的展開の不備、表現上の問題、不十分な資料分析等を点検することが出来る。そのために書くのである。
言い換えると、書くことは他者への表見であると同時に自己への確認でもある。書かなければ何とも生きづらいと感じている人々(物書き)にとって、日記、ブログ、評論、エッセイ、小説、詩、論文等々は、それが何であれ、書くために書き続け、書かざる得ない結果に過ぎない。人は、外化された自分と出会うことで、自己認識をしている。その作業は、人によって異なる。ある人は、ものを作り、あるひとは人々に奉仕し、ある人はギャンブルにのめり込み等々、それが何であれ、自己表現を通じてしか自己認識できない人間というやっかいな生き物の姿の、一面として、書く行為があり、それをより積極的に受け止めるために、書く行為を実験として位置づけようとしている。
それ故に、私は記述行為にとってリアリティとは何かを探ろうとしていたのだと思う。つまり、記述行為を通じて世界や自己を課題にしている人文社会科学の科学性の成立条件を理解する鍵がこの言葉に隠されていたのだと思った。
2021年6月11日フェイスブックに記載
2021年6月15日 修正
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